Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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2 Chronicles 30章 1-12 Matthew Henry's Complete Commentary
¹ ヒゼキヤは全イスラエルとユダに人を遣わし、またエフライムとマナセに手紙を書いて、エルサレムの主の宮に来て、イスラエルの神、主のために過越の祭を守るようにとした。
² 王はつかさたちと、エルサレムの全会衆と相談して、第二の月に過越の祭を守ることを企てた。
³ これは祭司たちが十分に自らを聖別せず、民もエルサレムに集まらなかったので、その時には守ることができなかったからである。
⁴ この事は王と全会衆の目に良く見えた。
⁵ そこで彼らは全イスラエルに、ベエル・シェバからダンに至るまで布告を発して、エルサレムに来てイスラエルの神、主のために過越の祭を守るようにとした。これは長い間、しるされている通りには行われなかったからである。
⁶ 急使が王とそのつかさたちの手紙を持って、王の命令に従い、全イスラエルとユダに至る所に行って言った。「イスラエルの子らよ、アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返れ。そうすれば主は、アッシリアの王たちの手から逃れたあなた方の残りの者に立ち返られる。
⁷ あなた方の父祖たちや兄弟たちのようになってはならない。彼らはその父祖たちの神、主に罪を犯したので、主は彼らを荒廃に渡された。あなた方が見る通りである。
⁸ 今、あなた方の父祖たちのように首を堅くしてはならない。主に身を任せ、主が永遠に聖別されたその聖所に入って来て、あなた方の神、主に仕えよ。そうすれば、その激しい怒りがあなた方から離れるであろう。
⁹ あなた方が主に立ち返るなら、あなた方の兄弟たちや子どもたちは、彼らを捕囚として連れ去った者たちの前であわれみを受け、この地に再び帰ってくるであろう。あなた方の神、主は恵み深く、あわれみに富んだ方であり、あなた方が主に立ち返るなら、その顔をあなた方からそむけられないからである。」
¹⁰ 急使たちはエフライムとマナセの地を町から町へと巡り、ゼブルンにまで及んだ。しかし人々は彼らをあざけり、嘲った。
¹¹ それにもかかわらず、アシェル、マナセ、ゼブルンのうちの若干の人々はへりくだって、エルサレムに来た。
¹² ユダにおいても神の手が彼らの上にあり、主のことばに従って王とつかさたちの命令を一つ心にして行わせた。
ここには次の内容がある。I. 過越の祭が決議されたこと。その毎年の祭は、イスラエルの子らをエジプトから導き出されたことを記念するために制定されたものであった。ちょうど宮の儀式の回復がその祭の定められた日、第一の月の十七日に行われた。これが長く忘れられていたその祭を心に思い起こさせた。「過越の祭をどうしたらよいだろうか」とヒゼキヤは言った。「これは非常に慰めに満ちた定めでありながら、長くおろそかにされてきた。どうすればこれを再び生かすことができるか。今年は時期がすでに過ぎ、直ちに取りかかることもできない。会衆も少なく、民にも通知が行き届いておらず、祭司たちも準備ができていない(2Ch 30:3)。来年まで延期すべきであろうか。」多くの者が延期を主張したであろう。しかしヒゼキヤは、十二月も経てば民の良い熱心も冷め、定めの益をあまりに長く得られないのも適当でないと考えた。そこでモーセの律法に、第一の月に汚れた特定の個人は第二の月の十四日に過越の祭を守り、受け入れられるという規定があるのを見いだし(Nu 9:11)、これを会衆全体にも拡張できると疑わなかった。こうして彼らは 第二の月に過越の祭を守ること を決議した。副次的なものは本質的なものに譲り、時期に関する些細な問題のために核心そのものを失うことがないようにせよ。鉄が熱いうちに打つことが良く、民の心が良い状態にあるときに彼らを捕らえることが良い。遅延は危険である。
II. この過越の祭を通知し、民を招集するために発せられた布告。
1. 十部族に招状が送られた。この祭に来るように彼らを励ますためであった。エフライムとマナセに手紙を書いて、この過越の祭を守るためにエルサレムに来るように招いた(2Ch 30:1)。これは政治的な意図、すなわち彼らをダビデの家に帰らせるためではなく、敬虔な意図、すなわちイスラエルの神、主に立ち返らせるためであった。ヒゼキヤは言った。「彼らが誰を王として選んでも、 彼を彼らの神として選ぶなら それで十分である。」ユダとイスラエルの間の民事的または宗教的な相違が妨げとなってはならない。イスラエルの民が真心からその神、主に立ち返るなら、ヒゼキヤは彼らを自分の臣下と同じく喜んで過越の祭に迎え入れたであろう。イスラエルのすべての部族に急使を急送し、彼らが離反した神に立ち返るこの機会を捉えるように民を切に促した。ここで次を見る。
(1.) この機に発せられた回状の内容。ヒゼキヤはこの手紙のなかに、神の栄光と隣国の福祉への深い関心を示した。彼は隣国の繁栄を熱烈に願っていたが、そこから何の税や貢も受け取っていなかったばかりか、その国は古くから彼の国を悩ましてきた国であった。これが悪に善をもって報いることである。次を見よ、
[1.] 彼らに勧めていること(2Ch 30:8)。「 主に身を任せよ。主と交わる前に、まず主と契約を結ばなければならない。」 主に手を差し出せ(原語の意)、すなわち「主をあなた方の神として受け入れることに同意せよ」ということである。手を差し出すことで取引は確定する。「この取引を成立させよ。永遠の契約によって主に結び合わされよ。 手をもって記して 主のものとなれ(Isa 44:5)。心をささげるしるしとして主に手をささげよ。主の鋤に手を置け。主の奉仕に自分をささげよ。 主に身を任せよ」、すなわち「主の条件に応じ、主の支配の下に入り、もはや主に抵抗するな。」「 主に身を任せよ」、すなわち「完全に、全面的に主の命令と処分に服して、主の喜ばれるように存在し、行い、持ち、忍べ。このために、 父祖たちのように首を堅くするな。腐った悪い意志が立ち上がって、神の御心に抵抗し、反逆させないようにせよ。自分の好きなようにすると言わず、主の喜ばれることを行うと決心せよ。」肉的な心には頑固さ、強情さ、神に従おうとしない性質がある。私たちはそれを父祖たちから受け継ぎ、骨の髄にまで染み込んでいる。これは征服されなければならない。反抗の気質を持っていた意志は神の御心に溶け込み、鉄の筋であった首はそのくびきに頭を下げ、これに適合しなければならない。神にこのように服従するなかで、彼は彼らに その聖所に入る ように促す。すなわち、主が御名を置くために選ばれた場所において、主が定めた定めに従って主に仕えよということである。「聖所の扉が今開かれた。あなた方は入ることができる。宮の奉仕が今回復された。あなた方は共に加わるように。」王は言う、 来よ。つかさたちと祭司たちも言う、 来よ。 望む者はだれでも来よ。これを彼は(2Ch 30:6) 主なる神に立ち返ること と呼ぶ。彼らが主を捨てて他の神々に仕えたからである。 今悔い改めて立ち返れ。このように恵みによって自ら神に立ち返った者々は、他の人々も主に立ち返るように全力を尽くすべきである。
[2.] 彼らを説得するために用いている論拠。 第一に 、「あなた方はイスラエルの子らである。それゆえに、あなた方が離反したイスラエルの神と関係を持ち、神に義務がある。」 第二に 、「あなた方が立ち返るように召されている神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、あなた方の最初の父祖たちと契約を結ばれた神である。彼らは主に仕え、主に身を任せた。それが彼らの栄光であり、幸福であった。」 第三に 、「主を捨てて罪を犯したあなた方の近い父祖たちは荒廃に渡され、その背教と偶像礼拝が彼らの滅びとなった。あなた方が見る通りである(2Ch 30:7)。彼らの害があなた方の警告となれ。」 第四に 、「あなた方自身も アッシリアの王たちの手から かろうじて 逃れた残りの者 であり(2Ch 30:6)、それゆえ父祖たちの神の保護の下に自らを置き、完全に飲み込まれないようにすべきである。」 第五に 、「これだけが 神の激しい怒りをあなた方からそらける(2Ch 30:8)唯一の道である。あなた方が引き続き首を堅くするなら、その怒りは必ずあなた方を滅ぼすであろう。」 最後に 、「あなた方が義務の道で神に立ち返るなら、神もあわれみの道であなた方に立ち返られる。」これで彼は始め(2Ch 30:6)、またこれで終わる(2Ch 30:9)。概して、「あなた方が主に多くの怒りを招いたとはいえ、あなた方が主を求めるなら、主は 恵み深く、あわれみに富み 、 その顔をあなた方からそむけられない であろう。」具体的には、「捕囚として連れ去られたあなた方の兄弟たちの捕囚を神が翻して、故土に帰らせてくださることを望むことができる。」これ以上哀切で、感動的な表現ができようか。これより良い大義があろうか、あるいはこれより良く訴えることができようか。
(2.) ヒゼキヤの使者たちとその知らせが受けた待遇。当時のイスラエルの王であったホセアは、これらの布告が自分の国全体に広められることから不快を感じたり、反対したりした様子はなく、民が招きに応じることを禁じもしなかった。彼は完全に彼らの自由に委ねたようである。望む者はエルサレムに行って礼拝することができた。彼は悪を行ったが、 以前のイスラエルの王たちのようには行わなかった からである(2Ki 17:2)。彼は自分の国に滅びが迫っているのを見たので、もし臣下のうちにこの方法でそれを防ごうとする者がいれば、喜んで許した。しかし民については、[1.] 大多数がこの招きを軽視し、耳を塞いだ。使者たちが町から町へと巡り、民にエルサレムに上って過越の祭を守るように切に勧めたが、彼らはこの知らせに従うどころか、それを持って来た者たちを虐待して あざけり、嘲った(2Ch 30:10)。拒んだだけでなく、軽蔑して拒んだのである。アブラハムの神を語れ! 彼らは神を知らず、仕えるべきバアルやアシュタロテなど他の神々があった。聖所を語れ! 彼らの高き所はそれと同じくらい良かった。神のあわれみと怒りを語れ! 彼らはその怒りを恐れず、そのあわれみを望まなかった。神のしもべである預言者たちがこの背教の民からそのような虐待を受けたのであれば、王の使者たちがそのように侮られたのは不思議ではない。十部族王国の滅びがこのとき目の前にあった。この後わずか二、三年でアッシリアの王がサマリヤを包囲し、これがその部族たちの捕囚として終わった。彼らが捕囚となる直前に、彼らには自分たちの神の聖所に立ち返ることを許す自分たちの王だけでなく、切にそうするように招くユダの王もいた。もしこの招きを概ね受け入れていたなら、滅びを防ぐことができたかもしれない。しかしこれを蔑視したことが、その滅びを早め、重くし、彼らを言い訳のできないものにした。[2.] しかし招きを受け入れた少数もいた。その知らせはある者々には 死から死に至るかおり であったが、他の者々には いのちからいのちに至るかおり であった(2Ch 30:11)。最悪の時代にも神は残りの者を置かれた。ここでもそうであった。アシェル、マナセ、ゼブルンの多くの者(エフライム出身はここでは言及されないが、その部族の若干の者が2Ch 30:18に記されている)が へりくだって、エルサレムに来た。すなわち自分たちの罪を悲しみ、神に服したのである。誇りが人々をして主に身を任ぜしめないようにする。誇りが砕かれるとき、わざは成る。
2. ユダの人々にはこの祭に出席するよう命じが下され、彼らはみなこれに従った(2Ch 30:12)。彼らは一つの心をもって行い、すべてが同じ思いであった。 神の手が 彼らに その一つの心を与えられた。これはキリストの民が喜んで従うようになるのが、力の日に実現するからである。 志させ、また行わせる のは神である。民がいつに期待に反して善いわざに熱心を示すとき、私たちはそのうちに神の手を認めなければならない。
2 Chronicles 30章 13-20 Matthew Henry's Complete Commentary
¹³ そこで、大いなる会衆が集まって来て、第二の月に種なしパンの祭を守った。 ¹⁴ 彼らは立ち上がり、エルサレムにあった祭壇を取り除き、香をたくためのすべての祭壇も取り除いて、それらをキデロンの川に投げ捨てた。 ¹⁵ 彼らは第二の月の十四日に過越のいけにえをほふった。祭司とレビ人は恥じ入り、自らをきよめ、全焼のいけにえを主の宮に携え入った。 ¹⁶ 彼らは神の人モーセの律法に従って、それぞれの定めに従って自分の位置に立った。祭司たちはレビ人の手から血を受け取って注ぎかけた。 ¹⁷ 会衆のうちにはきよめられていない者が多かったので、レビ人たちはきよくないすべての人のために過越のいけにえをほふり、彼らを主にきよめる任務を負った。 ¹⁸ 民の大群、すなわちエフライム、マナセ、イッサカル、ゼブルンの多くの人々は、身をきよめていなかったが、それでも書きしるされたとおりでなく過越のいけにえを食べた。しかしヒゼキヤは彼らのために祈って言った。「恵み深い主が、おのおのを ¹⁹ 心を定めて神を、その先祖の神、主を尋ね求める者を、たとえ聖所のきよめに従ってきよくされていなくても、赦してください」と。 ²⁰ 主はヒゼキヤの願いに耳を傾け、民をいやされた。
過越のために定められた時が来ると、その機会に非常に大いなる会衆が集まった(2Ch 30:13)。ここで私たちは次を見る。
I. 過越のための備え。それは良い備えであった。すなわち、彼らは宮だけでなくエルサレム全体で見つかったすべての偶像礼拝の祭壇を取り除いた(2Ch 30:14)。祭を守る前に、彼らはこの古いパン種を追い出した。福音の過越のために私たちがなしうる最善の備えは、私たちの不義、霊的な偶像礼拝を捨て去ることである。
II. 過越の記念。このことにおいて民は非常に進んで熱心であったので、祭司やレビ人は、一般人に凌がれるのを見て恥じ入った。すなわち、いけにえを献げることにおいて民の方がより準備ができているのを見たのである。これが彼らを自らをきよめるように促した(2Ch 30:15)。それは、これを進める手が足りずにわざが停滞しないようにするためであった。他の人々の熱心に気づくことは、私たち自身の冷淡さを恥じさせ、ただ義務を果たすだけでなく、それをよく行い、そのために自らをきよめるよう促すべきである。彼らはその場の務めに従って(2Ch 30:16)*祭壇に血を注ぎかけた。*これは私たちのためにほふられた過越の小羊であるキリストの型であった。
III. この荘厳な儀式において彼らが犯した不規則な振る舞い。本質的な部分は多くの献身とともに良く行われたが、時期が一か月遅れていたほかに、1. レビ人が過越のいけにえをほふったが(2Ch 30:17)、これは祭司だけがなすべきことであった。彼らはまた、律法が通常許容する以上に、他のいけにえ、特にその時に多く必要とされたきよくない者のきよめのためのいけにえを献げることを助けた。ある人々は、レビ人がここで任じられたのは献げる者のわざであって祭司のわざではなかったと考える。通常は各自が自分の小羊をほふったが、今回は儀式的な汚れの状態にある者のためにレビ人がほふったのである。2. 律法の厳格さに従ってきよくされていない多くの者が、過越を食べることを許された(2Ch 30:18)。これは第二の月であった。第一の月であれば、律法は第二の月に食べることを許したであろうが、第三の月にまでさらに延期する根拠はなかった。そして、彼らが新しい回心者を落胆させ、喜んで送り出したいと思う者を不満の中に送り返すようなことを、聖餐に全くあずからせないことはしたくなかった。グロティウス(Grotius)はこれから、儀式的な規定は公的な必要だけでなく、公的な益と利益のためにも譲歩しなければならないことがあると観察している。
IV. この不規則さに対する赦しを求めるヒゼキヤの祈り。人々をこのように急いで集めたのは彼の熱心であり、彼は準備の時間が切迫しているためにだれも不利益を被ることを望まなかった。それゆえ彼は、書きしるされたとおりでなく過越を食べた者たちのためにとりなすべきであると考えた。それは主からの怒りが彼らに下らないようにするためであった。彼の祈りは次のとおりであった。
1. 短いが、的を射た祈りであった。恵み深い主がおのおのを赦してくださるように。儀式的な準備が欠けていても、これらの奉仕に向けて心を定め、身を捧げ、備えた会衆のすべての者を赦してくださるように。注意すべきは、(1.) 私たちが荘厳な規定の中で神に近づく時に要求される大きなことは、神を尋ね求めるために心を備えることである。すなわち、私たちがするすべての事において真実で正しくあり、内なる人がそのわざに参与し用いられ、それを心のわざとすることである。これがなければすべては無に等しい。見よ。あなたは内なる真実を喜ばれる。ヒゼキヤはこれが免除されること、あるいはこれがない場合に他のものの欠如が赦されることを祈ったのではない。なぜならこれこそ必要な一つのものであり、私たちが神を、その恵みと栄光を求め、心を定めてそれを行うことだからである。(2.) この心の真実と確かさがあるところにも、なお多くの欠点と弱さがあり得る。霊の状態も奉仕の遂行も聖所のきよめに及ばないかもしれない。完全に征服されていない腐敗、十分に集中していない思い、十分に活発でない感情、十分に働かない信仰があるかもしれない。ここに聖所のきよめの欠如がある。天の下には完全なものはなく、善を行って罪を犯さない正しい人もいない。(3.) これらの欠点は赦しを与えるいやしの恵みを必要とする。なぜなら、義務の遂行における怠慢は、義務の怠慢と同様に罪だからである。もし神が私たちの最善の行いによって厳格な正義をもって私たちを扱われるなら、私たちは滅びるであろう。(4.) 義務における私たちの不足と、私たちの聖なる事柄のすべての不義に対する赦しを得る道は、祈りによって神に求めることである。それは当然に与えられる赦ではなく、キリストの血による願いによって得られなければならない。(5.) この祈りにおいて私たちは神の恵み深さから勇気を得なければならない。恵み深い主が赦してくださるように。神がご自身の恵み深さを告げられたとき、そのうちで最も強調されたのはこのこと、すなわち不義と背きと罪を赦すことであった。(6.) 他者を預かる責任を持つ者の務めは、自分自身だけでなく、その配下にある人々にも目を向け、彼らがどこで欠けているかを見、ヒゼキヤがここでしたように彼らのために祈ることである。Job 1:5を見よ。
2. 聞かれた祈りであった。主はヒゼキヤの願いに耳を傾けられた。会衆に対する彼の敬虔な関心を喜ばれ、彼の祈りに答えて民をいやされた(2Ch 30:20)。すなわち、彼らの罪を彼らに負わせられなかっただけでなく、そのにもかかわらず彼らの奉仕を恵み深く受け入れられた。いやしは赦し(Isa 6:10, Ps 103:3)だけでなく、慰めと平安(Isa 57:18, Mal 4:2)をも意味するからである。
2 Chronicles 30章 21-27 Matthew Henry's Complete Commentary
²¹ エルサレムに集まったイスラエルの人々は、種なしパンの祭りを七日間、大いに喜んで守った。またレビ人と祭司たちは日ごとに、大声の楽器で主を賛美した。 ²² ヒゼキヤは、主の良い知識を教えるすべてのレビ人に、心を励ます言葉をかけた。彼らは七日間の祭りの間、交わりのいけにえをささげ、彼らの先祖の神、主に告白してささげた。 ²³ すると全会衆は、もう七日間守ることを相談し、彼らは喜んでさらに七日間守った。 ²⁴ ユダの王ヒゼキヤは会衆に雄牛千頭、羊七千匹を寄贈し、首長たちも会衆に雄牛千頭、羊一万匹を寄贈した。そして多くの祭司が自らを聖別した。 ²⁵ ユダの全会衆、祭司たちとレビ人、イスラエルから来た全会衆、およびイスラエルの地から来てユダに住んでいる在留異国人も、みな喜んだ。 ²⁶ このようにエルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時代からこのかた、エルサレムにこのようなことはなかった。 ²⁷ そこで祭司であるレビ人が立って民を祝福した。その声は聞かれ、彼らの祈りは神の聖なる住まい、すなわち天にまで届いた。
過越の祭りの後に、七日間続く種なしパンの祭りが続いた。それがどのように守られたかがここに記されており、この記述のすべては楽しく活気に満ちている。1. 神に交わりのいけにえとして豊かなささげ物がささげられた。これによって彼らは神の恵みを認め、また求めた。ささげる者たちはこの七日間、友人たちと共にその一部で宴を設けた(2Ch 30:22)。これは神との交わり、神の恵みのうちに楽しむ慰め、および神との和解を喜ぶことのしるしであった。奉仕のこの部分を保つため、神の祭壇が交わりのいけにえの脂肪と血で豊かにあしらわれ、祭司と民がその肉を食べられるように、ヒゼキヤは自分の所有から雄牛千頭と羊七千匹を出し、彼の敬虔な模範に刺激された首長たちは同数の雄牛と、それより多い羊を出した。そしてこれらはすべて交わりのいけにえであった(2Ch 30:24)。これによって神が栄光を受け、祭りの喜びが保たれ、在留異国人が再びエルサレムを訪れるよう励まされた。王と首長たちが全会衆をこのように豊かに持てなしたのは寛大なことであったが、大きな財産は、人にこれほど多くの善を行う能力を与えるということのほかに何の役に立つのであろうか。キリストもご自分に従う者たちに宴を設けられた。ヒゼキヤや彼の首長たちがこの敬虔な寛大さのゆえに、その年の終わりにより貧しくなったとは私は信じない。2. 交わりのいけにえと共に多くの良い祈りが神にささげられた(2Ch 30:22)。彼らは先祖の神、主に告白してささげた。これによって交わりのいけにえの意図と意味が方向づけられ、説明された。祭司たちが血を振りまき、脂肪を焼くときに告白し、民も自分たちの分で宴を設けるときにそうした。彼らは神との関係と神への依存を宗教的に告白し、罪と弱さを悔いて告白し、神のあわれみを感謝して告白し、自分たちの必要と願いを嘆願して告白した。そしてこれらすべてにおいて、彼らは神を先祖の神、すなわち彼らと契約を結ばれた神として見た。3. 良い説教が多く行われた。レビ人たち(De 33:10によれば、それが彼らの務めであった)は民に主の良い知識を教え、聖書を読んで解き明かし、神と神に対する彼らの義務について会衆を教えた。前の王の治世に長く続いたみことばのききんの後に、これがいかに切実に必要であったことか。ヒゼキヤ自身は説教しなかったが、説教するレビ人たちに心を励ます言葉をかけ、彼らの説教に出席し、彼らの労苦をほめ、自分の保護と支持を確約した。これによって彼は彼らが熱心に学び、苦労するように励まし、彼らの名誉を高めて、民が彼らをさらに尊重し、大切にするようにした。王や為政者たちが、忠実で勤勉な説教者たちを認め、励ますことによって、人々の間に神の国の利益に大いに貢献する。4. 彼らは毎日、詩篇を歌った(2Ch 30:21)。レビ人と祭司たちは日ごとに主を賛美した。歌と楽器を共に用いて、神のうちにある自分たちの喜びを表現し、互いの喜びと感謝を鼓舞した。神を賛美することは、宗教的集会において私たちの礼拝の大部分を占めるべきである。5. このように敬虔な仕方で七日間の祭りを守った後、彼らはその奉仕にそれほど大きな慰めを得たので、さらに七日間守った(2Ch 30:23)。彼らは新しい礼拝の様式を定めるのではなく、古いものを繰り返し、続けた。状況は特別であった。彼らは長くその儀式なしで過ごし、それを怠った罪責が積もっており、今や非常に大きな会衆が集まり、敬虔で真剣な心になっていた。また、いつこのような機会を持てるか分からなかったので、今は時間を倍にするまでどうしても解散する気持ちになれなかった。彼らの多くは家から遠く離れており、田舎で世話すべき仕事があった。第二の月であったから、収穫の真っ最中であった。それでも彼らは帰ることに急がなかった。神の宮に対する熱心が彼らに世俗のことを忘れさせたのである。この礼拝はなんの苦労だろうか!と嘆いたり、安息日はいつ終わるのか?と問うた者たちと、なんと違うことであろうか。神のしもべたちは神の働きにさらに励むべきである。6. 彼らはこれらすべてを喜びをもって行った(2Ch 30:23)。すべての者が喜んだ。特に在留異国人たちも喜んだ(2Ch 30:25)。このようにエルサレムには大きな喜びがあった(2Ch 30:26)。ソロモンの時代に神殿を献堂して以来、このようなことはなかった。聖なる務めは聖なる喜びをもって行われるべきであることに注目せよ。私たちはそれに熱心になり、喜び、神との交わりの甘みを味わい、このように恵みを受け、永遠の喜びの保証を持つことが、言葉に尽くせない喜びと慰めの事柄であることを知るべきである。7. ついに会衆は厳粛な祝福をもって解散した(2Ch 30:27)。(1.) 祭司たちがそれを宣言した。民を祝福することが彼らの務めであったからである(Nu 6:22,23)。これによって彼らは祈りのかたちでは民の口となり、約束のかたちでは神の口となった。彼らの祝福がこの両方を含んでいたからである。その祝福のうちに、彼らは民の幸いを願う望みと、神と、彼らをゆだねる神の恵みのことばに対する依存の両方をあかしした。このように冠を戴かされて家に帰る会衆にとって、なんと大きな慰めであることか。(2.) 神がそれにアーメンと応えられた。祭司たちが民を祝福するとき、その声は天で聞かれ、神の聖なる住まいに届いた。彼らが祝福を宣言するとき、神がそれを命じ、おそらくその確証の目に見えるしるしを与えられたであろう。香の雲のうちに天に上がった祈りは、再び祝福の夕立となってこの地に降って来るのである。
本章ではヒゼキヤがその治世の初年に荘厳に守った過越の祭りに関する記録に接する。 I. それについての協議と、ヒゼキヤとその民がその順守のために至った決定(2Ch 30:2-5)。 II. ユダとイスラエルに送った、過越を守るために来るようにとの招き(2Ch 30:1,6)。 III. 過越の喜びの祝い(2Ch 30:13-27)。これによって、前章で始められた改革は大きく前進し確立され、神の聖所に打たれたその釘はしっかりと固定された。