Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ これらはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデが言った。高く上げられた者、ヤコブの神に油注がれた者、イスラエルの麗しい賛美歌うたいが言った。
² 主の御霊が私によって語り、そのみことばは私の舌の上にあった。
³ ヤコブの神は言われた。イスラエルの岩は私に語った。人の上に治める者は正しくなければならない。神を恐れて治めるものでなければ。
⁴ 彼は朝日の光のようにとなる。雲のない朝に太陽が昇るように。雨の後の晴れた輝きによって地から若草が萌え出るように。
⁵ たとい私の家が神に対してそうでなくとも。しかし神は私と永遠の契約を結ばれた。すべての点において備えられ、確かなもの。これこそ私のすべての救い、すべての望み。たとい神がそれを成らせなくとも。
⁶ しかしベリアルの子らはみな突き捨てられたいばらのようである。手で取ることができないから。
⁷ これに触れる者は鉄と槍の柄で守られなければならない。そして彼らはその場で火で完全に焼き払われる。
ここにダビデ王の遺言、あるいは遺言状に付加された追加条項がある。彼が王冠をソロモンに、その宝を建てられる神殿に定めた後の。大いなる善良な人の最後のことばは、特別に注目し記憶するに値すると考えられる。ダビデはこれらを注目させ、その詩篇に(前の章のもののように)、あるいはその治世の年代記に加えることを望んだ。特に2Sa 23:5のことばは、以前に記録されているが、私たちは彼が自らの慰めのために、最後の息に至るまで繰り返したと推測できる。それゆえこれらは彼の最後のことばと呼ばれる。死が近づくのを見る時、私たちは最後のことばで神に栄光を帰し、周囲の者を徳ののべるように努めるべきである。神のいつくしみと知恵の快さの長い経験を持つ者が、その行程を終えようとする時、その経験の記録を残し、約束の真実さに証言すべきである。私たちはヤコブとモーセの最後のことばを記録に持つが、ここにダビデのものがある。それらと同じく、後に残された者への遺産として意図された。ここに次のことが告げられる。
I. この遺言がだれのものか。これは遺言者自身によって、あるいは(通常は)歴史家によって語られる(2Sa 23:1)。彼は次のように描写される。1. その身元の低さによって。彼はエッサイの子であった。かしめ石や頂石にまで昇る者が、自分の切り出された岩を思い出し、しばしば自ら思い出すことは良いことである。2. その高挙の高さによって。彼は高く上げられた。神に恵まれ、何か偉大なことのために定められた者として。王子として、隣人よりも高く座するために、また預言者として、より遠くを見るために。(1) 彼はヤコブの神に油注がれた者であり、それによって神の民の世俗的利益、その国の守りとその間の正義の執行において役立った。(2) 彼はイスラエルの麗しい賛美歌うたいであり、それによって宗教的営みにおいて彼らに役立った。彼は詩篇を書き、曲を定め、歌い手と楽器の奏者を任命し、それによって良い人々の祈りが大いに刺激され広げられた。注意せよ、詩篇を歌うことは甘い定めであり、神を賛美することに喜びを見出す者に非常にふさわしい。ダビデが高く上げられた誉れの一つとして、彼が賛美歌うたいであったことが数えられる。その点で彼はヤコブの神に油注がれた者であったのと同じほど真に偉大であった。祈りと賛美の祝福されたわざを促進するにおいて、教会に役立つことは真の昇進である。観察せよ、ダビデは王子であったか。彼はヤコブのためにそうであった。賛美歌うたいであったか。彼はイスラエルのためにそうであった。御霊の賜物はおのおのが益するために与えられる。それゆえおのが受けた賜物にしたがって仕えるべきである。
II. その内容は何か。それは神との交わりについての記述である。観察せよ、
1. 神が彼に語られたこと。王としての導きと励みのため、また同様にその後継者のために。敬虔な者は、神から聞いたことを思い起こすことを喜ぶ。そのみことばを思い出し、心の中で巡らすことを。このように神が一度語られたことをダビデは二度、いなしばしば聞いた。ここを見よ、
(1.) だれが語ったか。主の御霊、ヤコブの神、イスラエルの岩。ある者はこれを神の中に三位格の暗示と考える。父なるヤコブの神、子なるイスラエルの岩、父と子から出る御霊。預言者たちによって語り、特にダビデによって語られた。そのみことばは彼の心にあるだけでなく、他者の益のためにその舌の上にあった。ダビデはここにその霊感を宣言する。彼の詩篇において、そしてこの作品において、*神の御霊が彼によって語られた。*彼と他の聖なる人々は語り、聖霊に動かされて書いた。これは詩篇の書に誉れを与え、それらが聖霊が教えることばであるとして、私たちの祈りにおいて用いることを推奨する。
(2.) 何が語られたか。ここには神の御霊がダビデによって語ったこと(すべての詩篇を含む)と、イスラエルの岩がダビデに語ったこと(彼自身とその家族に関すること)の区別があるようである。牧者たちは観察すべき。他者に語る神の器である者は、自分自身に語られることを聞き、留めることに努めなければならない。他者にその義務を教える役割の者は、自らの義務を学び行うことを確実にしなければならない。さてここで語られること(2Sa 23:3,4)は、[1.] ダビデとその王族に適用して考えられ、そうすると、第一に、君主に課せられた義務がある。王が神から語られる時、その威厳の高さや権力の広さをもってお世辞を言われるのではなく、その義務を告げられる。「王のためのmustがある」と私たちは言う。ここに王のためのmustがある。正しくなければならない。神を恐れて治めるものでなければ。またすべての下級の役人もその場において同様である。治める者は、人の上に治めることを覚えよう。好き勝手に隷属させ虐待できる獣の上ではなく、自らと同じ位の合理的な被造物の上に。愚かさと弱さを持つ人の上に治める。それゆえ忍ばなければならない。人の上に治めるが、神の下に、神のために。それゆえ、1. 正しくなければならない。治める者に対して、その権利と財産を認め。治める者の間で、傷つける者から傷つけられた者に正しいを行うためにその権力を用いて(De 1:16,17を見よ)。自ら悪を行わないだけでなく、悪が行われるのを許してはならない。2. 神を恐れて治めなければならない。すなわち自らが神の恐れを持たなければならない。それによってすべての不正と圧迫から効果的に抑制される。ネヘミヤはそうであった(Ne 5:15、私は神の恐れのゆえにそうしなかった)。ヨセフも同様(Ge 43:18)。また治める者の間で神の恐れ(すなわち宗教の実践)を促すよう努めなければならない。役人は両方の板を守る者であり、敬虔と正直言実の両方を守らなければならない。第二に、この義務を行うなら、繁栄が約束される。神を恐れて治める者は朝の光のようになる(2Sa 23:4)。光は甘く喜ばしい。義務を行う者はその慰めを持つ。その喜びは良心の証しである。光は明るい。良い君主は輝かしい。その正義と敬虔はその誉れである。光は祝福である。神を恐れて治める君主以上に公共への大いなる広範な祝福はない。夜の暗やみの後に最も歓迎される朝の光のように(サウルの後のダビデの政府がそうであった、Ps 75:3)。それは増し加わり、完全な日に向かっていよいよ輝く。良い政府の輝きも同様である。それはまた、地が人の奉仕のために生じる若草にも例えられる。祝福の収穫をもたらす。Ps 72:6,16を見よ。これもダビデの最後のことばであり、ここに記されたものを指すようである。[2.] ダビデの子キリストに適用し、そうするとすべてを預言として受け取らなければならず、原文もそれを許す。人の上に、あるいは人のうちに治める者があろう。正しく、神を恐れて治める者。すなわち宗教と神礼拝の事柄をその父のみこころにしたがって治める者。そして彼は朝の光のようになろう。彼は世の光であるから。若草のようになろう。彼は主の若枝、地の実であるから(Isa 11:1-5,32:1,2、Ps 72:2)。神は御霊によってダビデにこの先見を与え、その家族の多くの災いとその子孫の退廃の憂鬱な見通しの下で彼を慰めた。
2. 神が彼に語ったことの、彼の快い用い方、そしてその答えとしての彼の敬虔な黙想(2Sa 23:5)。それはそのようなメッセージを機にした彼の黙想(2Sa 7:18-29等)に似ないでもない。前にあったのはイスラエルの岩が彼に語ったことであり、これは神の御霊が彼によって語ったことである。そしてそれは永遠の契約に対する彼の信仰と望みの最も優れた告白である。ここに、
(1.) 悩みが想定されている。たとい私の家が神に対してそうでなくとも。*たとい神がそれを成らせなくとも。ダビデの家は(2Sa 23:3,4で)描写され、彼が願うように、神に対してそうではなかった。それほど良くなく、それほど幸いでなく。彼の生ける間そうでなく、彼が去った後もそうでないと彼は予見した。彼の家はそのような父の子孫として期待されるほど敬虔でも、繁栄でもないであろうと。[1.] 神に対してそうでない。注意せよ、私たちと私たちの者は、神に対してあるものが真にそのものである。これがダビデの心がその子らについて懸けていたことで、彼らが神に対して正しく、神に忠実で神に熱心であるように。しかし敬虔な親の子はしばしば期待されるほど聖くも幸いでもない。私たちは、血に流れるのは恵みではなく腐敗であること、速い者が競争に勝つのでなく、神が自由な主体としてその御霊を与えられることを知らされなければならない。[2.] 成らされない。数において、力において。家族を成らせるも成らせないも神である(Ps 107:41)。良い人はしばしば衰える家族の憂鬱な見通しを持つ。ダビデの家はキリストの教会の型であった。それは彼の家である(Heb 3:3)。たといこれが私たちの願うように神に対してそうでなく、たといそれが誤りと腐敗によって減じ、苦しみ、恥じられ、弱められ、いなほとんど絶やしても、神は教会のかしら、ダビデの子と契約を結ばれた。彼に子孙を保ち、よみの門がその家に決して勝たないように。この慰めを私たちの救い主はその苦しみの中で自ら慰められた。彼との契約が堅く立ったことを(Isa 53:10-12)。(2.) 慰めが確保される。しかし神は私と永遠の契約を結ばれた。神の子が見通すどんな悩みがあっても、なおそれと釣り合う慰めを持つ(2Co 4:8,9)。そして詩篇記者のこれに勝るものはない。これは、[1.] 王権の契約(型において)神がダビデとその子と王国について結ばれたもの(Ps 132:11,12)と理解できる。しかし、[2.] それはさらに、すべての信じる者と結ばれた恵みの契約に目を向けるべきである。神がキリストにおいて彼らの神となる。それは王権の契約によって象徴され、それゆえ契約の約束はダビデの確かなあわれみと呼ばれる(Isa 55:3)。これのみが永遠の契約である。そしてダビデがこれほど多くの詩篇においてキリストと福音の恵みについてこれほど明確に語る者が、その最後のことばでそれを忘れることは想像できない。神はイエス・キリストにおいて私たちと恵みの契約を結ばれた。そしてここに告げられる。第一に、それは永遠の契約である。その計画と助言において永遠から、その継続と結果において永遠に。第二に、それは備えられた、すべての点においてよく備えられた。神の栄光と仲介者の誉れ、また信じる者の聖さと慰めを高めるために。その中でよく備えられている。契約で要求されるものはすべて約束され、契約におけるすべての違反が私たちを契約の外に投げ出さず、私たちの救いを自らの手ではなく仲介者の手中に置く点において。第三に、それは確かである。それゆえよく備えられているゆえに確かである。その一般的な提供は確かである。約束されたあわれみは条件の達成において確かである。真の信じる者へのその個別の適用は確かである。すべての种子に確かである。第四に、それは私のすべての救いである。これのみが私たちを救う。そしてこれは十分である。私たちの救いが依存するのはこれのみである。第五に、それゆえそれは私のすべての望みでなければならない。*私にこの契約とその約束へのあずかりを持たせよ。そうすれば十分である。私はそれ以上望まない。
3. ここにベリアルの子らの宣告がある(2Sa 23:6,7)。(1.) 彼らはいばらのように突き捨てられる。拒絶され、見捨てられる。彼らはいばらのようであり、手で触れることができない。それほど激情的で猛烈で、知恵ある忠実な戒めによって扱うことも対処することもできず、律法と正義の剣によって制限されなければならない(Ps 32:9)。それゆえいばらのように、(2.) 彼らはついにその場で火で完全に焼き払われる(Heb 6:8)。これは、[1.] 役人への指導として意図される。その権力を悪の罰と抑圧のために用いるように。ベリアルの子らを突き捨てよ(Ps 101:8を見よ)。あるいは、[2.] 役人への、特にダビデの子と後継者への警告として。彼ら自身がベリアルの子とならないように(あまりにも多くの者がそうであったが)。そうであれば、その地位の威厳もダビデとの関係も、神の正しいさばきによって突き捨てられるのを防ぐことはできない。人が彼らに対処できなくても、神は対処される。あるいは、[3.] キリストの御国のすべての容赦なき敵の滅びの預言として。外には公に反対し戦う敵がおり、内には密かに裏切り不実な敵がいる。両者ともベリアルの子、悪しき者の子、蛇の种子である。両者ともいばらのように、悩ましく煩わしい。しかし両者とも、キリストがその敵意にかかわらず御国を立てるほどに突き捨てられる。彼らを通り抜け(Isa 27:4)、やがてその教会をいばらも、痛むいばらもない平和で祝福する。そして神に栄光を帰すために悔い改めない者は、さばきの日に(カルデアの意訳がこれを指す)消えることのない火で焼かれる。Lu 19:27を見よ。
⁸ ダビデが持っていた勇士たちの名は次の通り。座に着いたタクモニ人、隊長たちのかしら。同じ者がエズニ人アディノ。彼は槍を上げて八百を討った。一度に。
⁹ 彼のあとにアホア人ドドの子エレアザルがいた。ダビデと共にいた三人の勇士のうちの一人。ペリシテ人がそこに集まって戦おうとした時、彼らは彼らをののしった。イスラエルの人々は逃げ去ったが。
¹⁰ 彼は立ち上がり、手が疲れるまでペリシテ人を打った。彼の手は剣にくっついた。その日、主は大いなる勝利をなされた。民は彼のあとに戻り、ただ分捕り物を奪うだけであった。
¹¹ 彼のあとにハラリ人アゲの子シャンマがいた。ペリシテ人が一団に集まった。レンズ豆のいっぱいある一画があった。民はペリシテ人から逃げた。
¹² しかし彼はその地の真中に立ち、これを守り、ペリシテ人を打った。主は大いなる勝利をなされた。
¹³ 三十人の長の三人が下って行き、刈り入れの時にアドラムのほら穴にいるダビデのところに来た。ペリシテ人の一団はレパイムの谷に陣を敷いた。
¹⁴ ダビデはその時要害にあり、ペリシテ人の守備隊はその時ベツレヘムにあった。
¹⁵ ダビデは望んで言った。「ベツレヘムの門のかたわらにあるベツレヘムの井戸の水を、だれか私に飲ませてくれたら。」
¹⁶ 三人の勇士はペリシテ人の宿営を突き抜け、門のかたわらにあったベツレヘムの井戸の水を汲み、それを取ってダビデに持って来た。しかし彼はそれを飲まず、主に注ぎ出した。
¹⁷ 彼は言った。「主よ、私がこれをするのは遠く離れさせてください。これは自分のいのちを危険にさらした者たちの血ではないですか。」それゆえ彼はそれを飲まなかった。これら三人の勇士がなしたことである。
¹⁸ ヨアブの兄弟、ツルヤの子アビシャイは三人のかしらであった。彼は槍を上げて三百を打ち、三人の中に名を得た。
¹⁹ 彼は三人の中で最も誉れ高い者ではなかったか。それゆえ彼らのかしらであった。しかし彼は最初の三人には達しなかった。
²⁰ エホヤダの子ベナヤは、カブツェルの勇者の子。多くのわざをなした。彼はモアブの二人の獅子のような者を打った。雪の時に穴の真中に下って行き、獅子を打った。
²¹ 立派なエジプト人を打った。エジプト人は手に槍を持っていた。しかし彼は杖を持って彼に下って行き、エジプト人の手から槍を奪い、その槍で彼を打った。
²² エホヤダの子ベナヤはこれらの事をなし、三人の勇士の中に名を得た。
²³ 彼は三十人よりも誉れ高かったが、最初の三人には達しなかった。ダビデは彼をその衛兵の上に置いた。
²⁴ ヨアブの兄弟アサエルは三十人のうちの一人。ベツレヘムのドドの子エルハナン。
²⁵ ハロデ人シャンマ、ハロデ人エリカ。
²⁶ パルテ人ヘレズ、テコア人イッケシの子イラ。
²⁷ アナトテ人アビエゼル、フシャテ人メブンナイ。
²⁸ アホア人ザルモン、ネトファ人マハライ。
²⁹ バアナの子ヘレブ、ネトファ人。ベニヤミンの子らのギベアから来たリバイの子イタイ。
³⁰ ピラトン人ベナヤ、ガアシの川のヒッダイ。
³¹ アルバテ人アビアルボン、バルフミ人アズマベテ。
³² シャアルボニ人エリアバ、ヤシェンの子ら、ヨナタン。
³³ ハラリ人シャンマ、ハラリ人シャラルの子アヒアム。
³⁴ マアカ人アハスバイの子エリペレテ、ギロ人アヒトフェルの子エリアム。
³⁵ カルメル人ヘズライ、アルブ人パアライ。
³⁶ ゾバのナタンの子イガル、ガド人バニ。
³⁷ アモン人ゼレク、ツルヤの子ヨアブの武具を担う者ベエロテ人ナハライ。
³⁸ イテラ人イラ、イテラ人ガレブ。
³⁹ ヘテ人ウリヤ。合わせて三十七人。
I. 歴史家がここに記録として残した、ダビデの時代にいた大いなる兵士たちの目録は、1. ダビデの誉れのために意図される。彼が彼らを戦いの技術と訓練に育て、指導力と勇気の模範を示した。ここに描写されるような勇敢な者たちに仕えられ、従えられることは、君主の評判であり利点である。2. その勇士たち自身の誉れのために。彼らはダビデを王冠に導き、王座に定着させ守り、その征服を広げる器であった。注意せよ、公共の地位において自らを危険にさらし、国の利益に奉仕するために自らをささげる者は、二重の誉れに値する。その時代の者に尊敬され、子孫に記憶されるために。3. 後に続く者を寛大な競争へと駆り立てるために。4. 宗教がいかに真の勇気を吹き込むことに寄与するかを示すために。ダビデはその詩篇と神殿の奉仕のためのささげ物によって、王国の顕貴の間の敬虔を大いに促進した(1Ch 29:6)。そして彼らが敬虔で有名になると、勇猛さで有名になった。
II. さてこれらの勇士はここに三つの階級に分けられる。
1. 最初の三人。最も大きな手柄をなし、それによって最大の評判を得た者。アディノ(2Sa 23:8)、エレアザル(2Sa 23:9,10)、シャンマ(2Sa 23:11,12)。私はこれらの者、あるいはその行動を、ダビデの物語のどこで読んだか覚えない。ここと並行箇所1Ch 11:11-47を除いて。多くの大いなる注目すべきできごとが年代記で省かれている。それはダビデの治めの栄光よりもその傷を語る。特にウリヤの事での罪の後。それで私たちはその記録を読んでいる間、ダビデの治めが実際には私たちに現れたよりも輝かしかったと結論できる。この勇敢な三人組の手柄がここに記録される。彼らはイスラエルの戦い、特にペリシテ人に対する戦いにおいて自らを示した。(1.) アディノは槍で一度に八百を打った。(2.) エレアザルはペリシテ人に挑んだ。彼らがゴリアテによってイスラエルに挑んだように。しかしより良い成功と大いなる勇気をもって。イスラエルの人が去った時、彼はその場を守っただけでなく、立ち上がり、ペリシテ人を打った。神はこの大いなる英雄に吹き込まれた勇気に等しい恐怖を彼らに打たれた。彼の手は疲れたが、それでも剣にくっついた。彼に少しの力が残っている限り、武器を持ち、その打撃を続けた。このように神への奉仕において、肉の弱さと疲れにもかかわらず、霊の意欲と決意を保つべき。弱りながらも追う(Jdg 8:4)。手は疲れても、剣を放さず。さてエレアザルが敵を打ち破ったので、戦いから去ったイスラエルの人々(2Sa 23:9)は、分捕り物を奪うために戻った(2Sa 23:10)。戦場を去る者が、なすべきことがある時に急いでそれに来るのは普通である。得るべきことがある時に。(3.) シャンマは略奪していた敵の一隊に出会い、彼らを潰走させた(2Sa 23:11,12)。しかし観察せよ、この手柄と前者の両方について、ここに主は大いなる勝利をなされたと言われる。注意せよ、器の勇猛さがどれほど大きくても、業績の誉れは神に帰されなければならない。これらの者が戦いを戦ったが、神が勝利をなした。それゆえ強い者はその力で、その軍事作戦のいずれにおいても誇らないように。誇る者は主において誇るように。
2. 次の三人は三十人と区別され、その上に尊ばれたが、最初の三人には達しなかった(2Sa 23:23)。すべての偉大な人が同じ大きさではない。第一等級ではない明るく穏やかな星が多くあり、第一級ではない良い船が多い。この第二の三人組のうち二人のみが名ざしされる。アビシャイとベナヤ。ダビデの物語でしばしば会った者。奉仕においては最初の三人に劣らなかったようであるが、威厳においてはそうであった。ここに、
(1.) これら三人の連合の勇敢な行為。彼らはダビデが身を隠していた悩みの時、アドラムのほら穴でダビデに仕えた(2Sa 23:13)。彼と共に苦しみ、それゆえ後に彼によって昇進された。ダビデと彼に仕えた勇士たちが、ペリシテ人に対してこれほど活発に振る舞った時に、時の不義によって、サウルの治めに、その怒りからのがれるためにほら穴や要害に身を隠すことを余儀なくされた。それゆえペリシテ人がレパイムの谷に陣を敷き、ベツレヘム自体に守備隊を置いたことは不思議でない(2Sa 23:13,14)。もし教会の導き手が誤ってその最良の友人や擁護者の何人かを迫害するなら、共通の敵は無疑それによって利点を得る。もしダビデが自由を持っていたなら、ベツレヘムは今ペリシテ人の手にはなかったであろう。しかしそうであるとして、ここに告げられる。[1.] ダビデがいかに熱心にベツレヘムの井戸の水を望んだか。ある者はこれを公共の精神のある願いとし、「ああ、ペリシテ人の守備隊をベツレヘムから追い出し、あの愛する私の町を再び私たちのものとできたなら!」と意味したとする。井戸が町を表す。川がしばしばそれが流れる国を意味するように。しかしもしそう意味したなら、周囲の者は理解しなかった。それゆえむしろ彼の弱さの実例のようである。収穫の時であった。天候は暑かった。彼は喉が渇いた。おそらく良い水が乏しかった。それゆえ熱心に望んだ。「ああ、ベツレヘムの井戸の水を一杯でも飲めたら!」その井戸の水で彼は若い時にしばしば-refreshment-を取った。今はそれ以外は満足しない。それはほぼ不可能なのに。彼は理由のない気まぐれを奇妙に甘やかした。他の水も同じように彼の渇きを癒やしたであろうが、彼はどんなものよりもそれへの空想を持った。そのような空想を抱くことは愚かであり、その満足を主張するのはいっそうの愚か。私たちは、他のものより本当に快く喜ばしいものに向かって異常に出る時に、食欲を抑えるべき(ごち走を慕わないように)。まして単なる気まぐれを喜ばせるようなものに固執する時は。(2.) 彼の三人の勇士アビシャイ、ベナヤ、もう一人名のない者が、いかに勇敢に危険の口の上をペリシテ人の宿営を突き抜け、ダビデの知らない間にベツレヘムの井戸から水を汲んで来たか(2Sa 23:16)。彼がそれを望んだ時、部下の誰かにそのいのちを危険にさらすよう望んだわけではなかった。しかし彼ら三人はした。[第一に] 彼らがその君主をどれほど尊んだか、そしてその奉仕においてどれほど喜んで最大の艱難を走れたかを示すために。ダビデは油注がれた王であったが、依然として追放者であり、その従者に愛情と尊敬を勧める外部的な利点を持たない貧しい王子であり、彼らを昇進させたり報いたりする能力になかった。しかしその三人は彼の満足のためにこれほど熱心であった。報いの時が来ると固く信じて。私たちはキリストの大義において、それが苦しむ大義である時に危険を冒す用意であろう。それは勝つと確信し、最終的に損をしないと確信する者として。彼らは王子の心の最もわずかな示唷でこれほど前向きに自らを晒したのか。そして私たちはそのことば、御霊、摂理によって与えられるそのみこころのすべての示唆にすぐに従うことで、私たちの主イエスに自らを認められることを切望しないのか。[第二に] 彼らがペリシテ人をどれほど恐れなかったか。彼らに挑む機会を喜んだ。彼らがひそかに宿営を突破し、ペリシテ人が気づかないほどの技術で行ったのか、あるいは公然と、ペリシテ人が逆らえないほどの恐怖をその顔に持って行ったのかは確かでない。剣を手に道を切り開いたようである。しかし見よ、[3.] ダビデがこの遠くから高価に買い求めた水を持った時、いかに自己否定的にそれを主の前に注ぎ出したか(2Sa 23:17)。[第一に] このように彼は兵士のいのちに対する tender な配慮を示した。そして彼らの血をどれほど浪費しないか(Ps 72:14)。神の目にその聖徒の死は尊い。[第二に] このように彼は、それらの者がそのいのちを手に委ねる原因となった愚かなことばを語ったことへの悲しみを証しした。偉大な人はその言うことに注意すべき。周囲の者が悪い使い方をするかもしれないから。[第三に] このように彼は将来の部下のだれにも同様の無謀を防ぐ。[第四に] このように彼は自らの愚かな空想を打ち破り、それを抱き甘やかしたことを自ら罰し、最も好むものにおいてさえ自らを否く方法を知る冷静な考えを持って軽率な考えを正すことを示した。そのような寛大な捨己は知恵ある者、偉大な者、良い者にふさわしい。[第五に] このように彼は神に誉れを帰した。このように高い代価で買われた水は自らの飲みにはあまりにも貴重で、灌ぎの供え物として神に注ぎ出すにふさわしいと考えた。もしそれがこれらの者の血であったなら、それは神の分であった。血は常に神のものだから。[第六に] パトリック監督は、ダビデがこれによって、彼が切望したのは物質的な水ではなく、いのちの水を持つメシアであったことを示したと考える者たちについて語る。彼はメシアがベツレヘムに生まれることを知っていた。ペリシテ人はそれゆえにそれを滅ぼすことができないはず。[第七に] ダビデはこれらの者の血の危険によって得られた水を非常に貴重と見なした。そして私たちは、その購入のために私たちの祝福された救い主がその血を流された祝福を、もっと多く尊ばないのか。契約の血を低く評価してはならない。契約の祝福を低く評価する者がそうするように。
(2.) 二人の他の機会での勇敢な行為。アビシャイは一度に三百人を打った(2Sa 23:18,19)。ベナヤは多くの大いなる事をした。[1.] 彼は獅子のようなモアブ人二人を打った。これほど大胆で強く、これほど猛烈で激しい。[2.] 彼はエジプト人を打った。どんな機会かは言われない。彼はよく武装していたが、ベナヤは杖以外の武器を持たずに彼を攻め、器用にその手から槍を奪い、それで彼を打った(2Sa 23:21)。これらの功績によってダビデは彼を衛兵すなわち常備軍の隊長に昇進させた(2Sa 23:23)。
3. 第二の三人に劣るが、大いに名高い三十一人がここに名で挙げられる(2Sa 23:24-39等)。アサエルが最初であり、ダビデの治めの初めにアブネルによって殺されたが、この目録でその場所を失わなかった。エルハナンが次で、最初の三人の一人エレアザルの兄弟(2Sa 23:9)。ここに与えられる姓は、見るところ、出生または居住の地から取られた。私たちの多くの姓も元来そうであったように。国のすべての部分から、最も賢く勇敢な者が王に仕えるために選び出された。名ざしされる者のうち数人が、ダビデが任命した十二月の組の隊長であることが分かる(1Ch 27:1-5)。よく行った者がその功績にしたがって昇進した。そのうちの一人はアヒトフェルの子であった(2Sa 23:34)。息子は議会で名高いように、陣営で名高かった。しかしヘテ人ウリヤがこれらの勇士の最後尾にいるのを見出すことは、ダビデの罪の記憶をよみがえらせるとともに、それを加重する。王と国にこれほど良く仕えるに値する者がこれほどひどく扱われた。ヨアブはこれらすべての中に言及されない。(1) 言及されるべきであったから。最初の三人の最初のかしらは隊長たちのかしらとして座に着いたが、ヨアブは将軍としてその上にあった。あるいは(2) 彼がこれほど悪く、言及されるに値しなかったから。彼は紛れもなく大いなる兵士であり、その分捕り物を神の家に聖別するほどの宗教を持っていたが(1Ch 21:28)、二度ダビデの友人を殺すことで得たのと同じほどの誉れを失った。彼が敵を殺すことで得たのと同様に。
ダビデの子キリストもその勇士を持つ。ダビデのように、その模範によって影響を受け、その御国の霊的な敵に対してその戦いを戦い、その力において勝利者以上の者となる。キリストの使徒たちはその直接の従者であり、彼のために大いなる事をなしいたみ、ついに彼と共に治めるに至った。彼らは新約聖書で誉れをもって言及される。これらの者が旧約でそうであるように。特にRe 21:14。いや、イエス・キリストのすべての良い兵士は、これらの勇士よりもいっそう良くその名を保たれる。天に書き記されているから。この誉れをそのすべての聖徒が持つ。
歴史家は今やダビデの治世の結論に向かって近づいており、それゆえここに次のことの記録を与える。I. 彼のいくつかの遺言。それは彼が霊感によって語ったものであり、前章の終わりに語られた、とこしえまであるべき彼の子孫に関係があるように見える(2Sa 23:1-7)。II. 彼の下で用いられた偉大な人々、特に軍人たちについて。最初の三人(2Sa 23:8-17)、次の三人のうちの二人(2Sa 23:18-23)、そして三十人(2Sa 23:24-39)。