Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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1 そして彼はデルベおよびルステラに来た。そこにテモテという名の弟子がいた。信者であるユダヤの婦人の子であり、父はギリシャ人であった。
2 このテモテはルステラおよびイコニオムにいる兄弟たちの評判が良かった。
3 パウロはこの者を一緒に連れて行きたくなり、彼を連れて行って割礼を施した。それは、その地方にいるユダヤ人たちのゆえであった。彼らはみな、彼の父がギリシャ人であることを知っていたからである。
4 さて彼らが町々を通り過ぎるにつれて、エルサレムにいる使徒たちや長老たちが定めた規定を、守るようにと人々に伝えた。
5 こうして教会は信仰において堅く立ち、日々その数を増していった。
パウロは霊的な父であり、そのような者としてわたしたちはここで彼がテモテを引き取り、彼の務めによってキリストに生まれた多くの他の者たちの教育の世話をしているのを見る。そしてすべてにおいて彼は知恵ある優しい父であったことが示されている。ここにあるのは、
一、彼がテモテを知り合いとし、自分の教えの下に置いたこと。使徒の働きの書が意図することの一つは、パウロの手紙を理解するのを助けることであり、そのうちの二つがテモテに宛てられている。それゆえパウロの歴史において彼に関する何らかの記述を持つことは必要であった。そしてわたしたちはここで次のように聞く。1. 彼は弟子であった。キリストに属し、バプテスマを受けた者。おそらく母が信じたときに幼児として。ルデヤの家の者が彼女の信じるに及んでバプテスマを受けたように(使徒16:15)。キリストの弟子であった彼をパウロは自分の弟子として受け入れ、キリストの知識と信仰のうちに彼をさらに訓練するためであった。彼をキリストのために育て上げるために引き取ったのである。2. 彼の母はもともとユダヤ人であったが、キリストを信じていた。彼女の名はユニケ、彼の祖母の名はロイスであった。パウロはこの二人を非常に尊敬をもって語り、際立った徳と敬虔の女性として、とりわけその偽りのない信仰(テモテ第二1:5)—キリストの教えを誠実に受け入れ、それに堅く立つ—を称賛している。3. 彼の父はギリシャ人、異邦人であった。ユダヤ人の女が異邦人の夫と結婚することは(ある人々は区別を作ろうとするが)、ユダヤ人の男が異邦人の妻と結婚することと同じほど禁じられていた(申命7:3)。あなたの娘をその子に与えてはならないのは、その娘をあなたの子にめとってはならないのと同じである。しかしこれはカナンにおいて彼らの間に住んでいた民たちに限定されていたようであり、彼らはそこから最も感染の危険があったからである。さて、彼の父がギリシャ人であったため彼は割礼を受けていなかった。というのは、契約の継承とそのしるしは、その国民の他の継承と同じく、母によってではなく父によって伝えられたからである。それゆえ彼の父がユダヤ人でなかったので彼は割礼の義務も権利もなかった。彼が成長して自らそれを望むのでなければ。しかし観察せよ。彼女の母は、父が別の考えと道を持っていたため、彼に幼児の時に割礼を施すことができなかったが、それでも彼を神への恐れにおいて教育した。それゆえ彼は契約のしるしを欠いていても、それが意味するものを欠かないようにしたのである。4. 彼はクリスチャンの間に非常に良い評判を得ていた。ルステラとイコニオムにいる兄弟たちの間で評判が良かった。彼は傷のない評判を持ち、スキャンダルから自由であったばかりでなく、明るい評判を持ち、際立った若者として、そして大きなことが期待される者として大いな称賛が彼に与えられた。彼が生まれた場所の人々だけでなく、近隣の都市の人々も彼を称賛し、彼に名誉を与えて語った。彼は善き人々と共に善き事について名があったのである。5. パウロは彼に一緒に来てもらいたいと願った。同行させ、自分に仕えさせ、自分から教えを受け、福音のわざにおいて彼と共に働かせるため。機会あるときに彼に代わって説教させ、教会を立てた場所に彼を残しておくためであった。パウロは彼を大いに愛した。彼が聡明な若者であり、大きな才能の持ち主であったからだけでなく、真剣な若者であり、敬虔な情熱の持ち主であったからである。パウロは常に彼の涙を思い出していた(テモテ第二1:4)。6. パウロは彼を連れて割礼を施した、あるいはそれをされるよう命じた。これは奇妙であった。パウロは異邦人の改宗者に割礼を課そうとする者たちに全力で反対しなかったのか。このとき彼は手元に、それに反対して証しするエルサレムの教会会議の決定を持っていなかったのか。持っていた。しかしそれでもテモテに割礼を施した。それは、割礼を課すことによってThoseの教師たちが意図したように、彼に儀式律法を守らせるためではなく、ただ彼の交わりと務めを、その地方に多数いたユダヤ人の間で通り通りよく、もし可能なら受け入れられるものとするためであった。彼はテモテが彼らの間で多くの善を行いそうな者であることを知っていた。彼は務めのために見事に適格であり、彼らが彼に対して克服しがたい先入観を持たない限り。それゆえ彼らが割礼を受けていないから汚れている者として彼を避けないように、彼を連れて割礼を施したのである。このようにユダヤ人にはユダヤ人のようになって、ユダヤ人を得るため、すべての者にはすべてのものとなって、なんとかしていくらかの人を得るためであった(コリント第一9:20,22)。彼は割礼を救いに必要とする者たちには反対であったが、それが徳を高めるのに役立つときは自ら用いた。そして彼らがそれを課すことに厳格であったように、彼はそれに反対することに厳格ではなかった。このように、彼はこの場合に決定の文字に従わなかったが、その精神には従った。その精神はユダヤ人への優しさの精神であり、彼らをその先入観から徐々に離れさせる進んでの精神であった。パウロは、テモテが割礼を受けていなくても彼を同伴者とすることに困難を感じなかった。しかしユダヤ人はもし割礼を受けていなければ彼の言うことを聞かなかったであろう。それゆえパウロはここで彼らに合わせようとしたのである。この時、パウロがテモテの上に手を置いて、聖霊の賜物を彼に授けたのはおそらくこの時であった(テモテ第二1:6)。
二、彼が立てた教会を強固にしたこと(使徒16:4,5)。彼は意図したように(使徒15:36)、主のことばを宣べ伝えた町々を通り、その状態を調べた(使徒15:36)。そしてわたしたちは次のように聞く。
彼らはエルサレムの会議の決定の写しを彼らに渡した。自分たちを治めるための導きとして、またユダヤ化する教師たちに答えるためのものとして、そしてキリストが自由にされた自由に固く立つことを正当化するためのものであった。すべての教会がその決定に関わっていた。それゆえすべてがそれをよく証明された形で持つことは必要であった。パウロは特別の理由でテモテに割礼を施したが、それを先例にされることは望まなかった。それゆえ彼は決定を教会に渡し、宗教的に守られるようにした。彼らは規則に従わなければならず、特定の実例によってそこから引き離されてはならなかったからである。
これは彼らにとって非常に役立った。(1) 教会はこれによって信仰において堅く立った(使徒16:5)。彼らは特に、儀式律法を異邦人に課すことへの反対の意見において確固とされた。ユダヤ化する教師たちが割礼の必要性を押し立てた大いなる確信と熱、そしてそのために彼らが提示したもっともらしい論拠は、彼らを衝撃し、それについて揺らぎ始めさせていた。しかし彼らが、それに対する使徒たちと長老たちだけでなく、彼らのうちにおられる聖霊の証しを見たとき、彼らは確固とされ、もはやそれについて揺らがなかった。注意せよ。真理に対する証しは、それに反対する者たちを確信させるには至らないかもしれないが、それについて疑いにある者たちを確固とさせ、彼らを定着させるのに非常に役立つことがある。いや、この決定のねらいが儀式律法とその肉的な規定を退けることにあったので、彼らはこれによって一般的なキリスト教信仰において確固とされ、それが神のものであることを一層堅く確信した。というのは、それが神と人の両方の性質により適った、神への霊的な仕方での奉仕を立てたからである。その上、これらの手紙に現れた優しさと謙譲の霊は、使徒たちと長老たちが愛なるお方の導きの下にあったことをはっきりと示していた。(2) 彼らは日々その数を増していった。改宗者たちに儀式律法のくびきを課すことは、人々を彼らから遠ざけるのに十分であった。もし彼らがユダヤ人になろうと考えていたなら、使徒たちが彼らの間に来るずっと前にそうできたであろう。しかしユダヤ人のくびきに服さなければキリスト者の特権にあずかれないのであれば、彼らは今のままであろうとする。しかしそのように奴隷にされる危険がないことが分かれば、彼らは進んでキリスト教を受け入れ、教会に加わる。このように教会は日々その数を増していった。ある者か別の者がキリストにその名を献げない日はなかった。そしてキリストの誉れ、教会と人々のたましいの幸福を心から願う者にとって、そのような増加を見ることは喜びである。
Acts 16章 6-15 Matthew Henry's Complete Commentary
6 さて彼らはフルギヤとガラテヤの地方をとおって行ったが、聖霊によってアジヤで御言葉を語ることを禁じられた。
7 ミシヤに着いたとき、彼らはビテニヤへ行こうとしたが、御霊がこれを許さなかった。
8 そこで彼らはミシヤのそばをとおって、トロアスに下って行った。
9 その夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、彼に祈って言った、『海の向こうマケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けてください』と。
10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニヤへ出発することにした。神がわたしたちを招いて、彼らに福音を伝えさせようとされているに違いないと、確信したからである。
11 そこでわたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
12 そこからピリピに行った。それはマケドニヤのその地方第一の町で、また植民都市であった。わたしたちはこの町に数日間滞在した。
13 安息日には、町の門を出て、祈る惯わしのある川岸に行き、すわって、そこに集まっていた婦人たちに語った。
14 そしてテヤテラの市の紫布の商人で、神を敬うリディヤという婦人が、わたしたちの話を聞いた。主が彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。
15 彼女は、その家族と共にバプテスマを受けたが、わたしたちにこう言って勧めた、『もし私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうぞ私の家にきて泊まってください』と。そして強いてすすめた。
これらの節においてわたしたちは次のことを見る。
一、善を行うためにあちこちを旅したパウロ。1. 彼とその同僚シラスはフルギヤとガラテヤの地方をとおって行った。そこにはすでに福音が植えられていたようである。しかしパウロの手によるものかどうかは言及されていない。おそらくそうであった。なぜならガラテヤ人への手紙で彼は最初彼らに福音を説教したこと、また彼らの間でいかに受け入れられたかを語るから(ガラテヤ4:13-15)。そしてその手紙によって、ユダヤ化する教師たちがこれらのガラテヤの教会に大きな害を与え、彼らをパウロに対して偏見させ、キリストの福音から遠ざけたことが分かる。そのことで彼はそこで彼らを厳しく責める。しかしおそらくそれはこのずっと後のことであった。2. 彼らはこのときアジヤ(本来そう呼ばれる国)で福音を説教することを禁じられた。なぜならそれが必要でなかったから。他の手がそこで働いていた。あるいは民がまだそれを受け入れる準備ができていなかったから。のちにそうであったように(使徒19:10)。アジヤに住むすべての者が主の御言葉を聞いたとき。あるいはライトフット博士が示唆するように、このときキリストがパウロを新しいわざに用いようとされたから。それはピリピのローマ植民地に福音を説教することであった。なぜならこれまで彼が説教した異邦人はギリシャ人であったから。ローマ人は他の異邦人よりもユダヤ人に特に憎まれていた。彼らの軍隊は荒廃をもたらす憎むべきものであった。それゆえそこへの彼の召しにおいて、彼がアジヤや他の場所で福音を説教することを禁じられ、そこで説教するためになったことの中に、特別なことがある。それは福音の光がのちの時代に東方よりも西方に向けられるであろうことを示唆する。聖霊が彼らを禁じた。彼ら二人の心に密かなささやきによって。彼らがメモを比較したとき、それが同じであり、同じ御霊から来たことが分かった。あるいは御霊から彼らに語ったある預言者たちによって。牧師たちの移動と、彼らによる恵みの手段の分配は、特に神の導きと方向の下にある。旧約の牧師が説教することを全く禁じられたのを見る(エゼキエル3:26)。あなたは黙っていなければならない。しかしこれらの新約の牧師たちは、より必要な場所へ導かれながら、一つの場所で説教することだけを禁じられた。3. 彼らはビテニヤに行きたかったが、許されなかった。御霊が彼らを許さなかった(使徒16:7)。彼らはミシヤに来て、そこで福音を説教したようである。なぜならそれは非常に取るに足らない軽蔑すべき国であったにもかかわらず—ことわざになるほど(キケロにおけるMysorum ultimusは最も軽蔑すべき人の意)—使徒たちはそれを訪問することを厭わなかった。賢い者にもそうでない者にも負債者であると自認して(ローマ1:14)。ビテニヤにはニケヤの町があり、そこでアリウス派に対する最初の総会議が開かれた。これらの国々にペテロはその手紙を送った(ペテロ第一1:1)。そしてそこには繁栄する教会があった。なぜなら彼らは今福音を送られなかったが、順番が回ってきて、間もなくそれを持ったから。観察せよ。彼らの判断と傾きはビテニヤに行くことにあったが、神の御心を知る並外れた方法を持っていたので、自分の心に反してそれらによって覆された。わたしたちは今や摂理に従い、雲と火の柱の導きに服さなければならない。もしこれがわたしたちがしようとすることを許さないなら、わたしたちは同意し、それを最善と信じるべきである。イエスの御霊が彼らを許さなかった。多くの古代の写本はそう読む。主イエスのしもべは常に主イエスの御霊の検査と導きの下にあるべきである。それによって彼は人々の心を支配される。4. 彼らはミシヤを通り過ぎた、あるいは通り抜けた(ある人々はそう)。進むにつれて良い種を蒔いたと思われる。そしてトロアス、語り継がれるトロイの町、あるいはその周辺の国(それから名を取った)に下って行った。ここに教会が植え付けられた。なぜならここに存在する教会を見るから(使徒20:6)。おそらくこの時に植え付けられ、間もなく。トロアスでルカがパウロに合流し、彼の一行に加わったようである。なぜならここから先、ほとんどの場合、彼がパウロの旅について語るとき、彼は自分をその随行員の数に入れる。わたしたちは行った(使徒16:10)。
二、マケドニヤへのパウロの特別の召し。すなわちピリピへ。第一の町で、主にローマ人が住んでいた。使徒16:21に現れるように。ここにわたしたちは次のことを見る。
パウロが見た幻(使徒16:9)。パウロは多くの幻を見た。時には励ますために、時にはここでのように、そのわざにおいて彼を導くために。御使いが彼に現れ、彼がマケドニヤに行くことがキリストの御心であることを彼に示唆した。彼に一度ならず二度までも課された禁輸—それによって彼の計画が挫折された—によって落胆してはならない。なぜなら彼が心に行きたい所に行けないとしても、神がわざのための場所には行くから。さて観察せよ。(1) パウロが見た人。彼のそばにマケドニヤのひとりの男が立っていた。その服装あるいは方言によってパウロにはそう見えたか、あるいは彼がそうであると告げた。御使いは、ある人々が考えるように、そのような男の姿を取った。あるいは他の人々が考えるように、眠りと目覚めの間にパウロの想像にそのような男の像を押し付けた。彼はそのような人を見たと夢見た。キリストはパウロをマケドニヤに導こうとされた。他の時の使徒たちのように、天からの使者によってそこへ送るのではなく、そこからの使者によって彼を呼ぶことによって。なぜならこの方法で、のちに通常その牧師たちの動きを、彼らを必要とする者たちの心を傾けて彼らを招くことによって導かれるから。パウロはマケドニヤの男によってマケドニヤに呼ばれ、彼を通して他の人々の名において。ある人々はこの男をマケドニヤの守護天使とする。御使いたちが特定の場所と同様に人々も担当すると想定し、それほどのことがダニエル10:20に示唆されると。そこでペルシャとギリシャの君たちについて読む。それは御使いたちであったと思われる。しかしこれには確証がない。パウロの目に、あるいは彼の心にマケドニヤの男が示された。御使いは自らマケドニヤ人に福音を説教してはならない。パウロを彼らに連れて行かなければならない。また御使いの権威によって彼に行くよう命じるのではなく、マケドニヤ人の身において彼に来るよう求めなければならない。マケドニヤの男、その国の行政官ではなく、ましてや祭司ではない(パウロはそのような者からの招待には慣れていなかった)。その国の普通の住民、正直な男、その顔に正直と真剣さのしるしを帯びた者。パウロをからかうためでも、軽く扱うためでもなく、真剣に、あらん限りの熱心さをもってその援助を求めるために来た。(2) 彼に与えられた招き。この正直なマケドニヤ人は彼に祈って言った。海の向こうマケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けてください。 すなわち「来て、わたしたちに福音を説教してください。あなたの労働の益を得させてください。」[1] 「あなたは多くの者を助けた。わたしたちはこの国やあの国であなたが非常に役立った者のことを聞いている。なぜわたしたちは分け前にあずかれないのか。ああ、来てわたしたちを助けてください。」 他の者たちが福音から受けた益は、わたしたちの探求を、さらなる探求を、活気づけるべきである。[2] 「それはあなたの仕事であり、貧しいたましいを助けることはあなたの喜びである。あなたは病者の医師であり、すべての患者の呼び出しに応じる用意がなければならない。ああ、来てわたしたちを助けてください。」 [3] 「わたしたちは誰よりもあなたの助けを必要としている。マケドニヤにおけるわたしたちは世界の誰よりも宗教において無知で無関心であり、誰よりも偶像礼拝的で悪徳的であり、誰よりも巧妙で勤勉に自分自身を滅ぼしている。それゆえに、ああ、急いでわたしたちの間に来てください。もしあなたが何かできるなら、わたしたちをあわれみ、助けてください。」 [4] 「わたしたちのうちで神の事柄に何らかの感覚を持ち、自分自身のたましいや他の人々のたましいに関心を持つわずかな者たちは、自然の光の助けによってできることをした。わたしは一人のために自分の分をした。わたしたちは隣人たちに神を恐れ礼拝するように説得するために、できる限りのことをしたが、彼らの間でほとんど善を行うことができない。ああ、海を渡ってきて、わたしたちを助けてください。あなたの説教する福音は、わたしたちがこれまで備えられてきたものを超えた論拠と力を持っている。」 [5] 「ここで祈りによってわたしたちを助けるだけではない。これではだめだ。海を渡ってきてわたしたちを助けなければならない。」 注記。人々はそのたましいのために大いに助けを必要としており、それを探し、彼らの間に助けられる者たちを招くことは彼らの義務である。
幻の解釈(使徒16:10)。彼らはこれから主が彼らにそこで福音を説教するよう召されたことを確信した。そして神が導かれる所ならどこへでも行く用意があった。注記。わたしたちは時に人の召しから神の召しを推論することができる。もしマケドニヤの男が来てわたしたちを助けてくださいと言うなら、パウロはそこから神が行って彼らを助けよと言われることを確信する。牧師たちは、キリストが彼らを召していると知覚するとき、そのわざにおいて大いなる喜びと勇気をもって進むことができる。福音を説教するためにだけでなく、この時に、この場所で、この人々に説教するために。
三、これに基づくマケドニヤへのパウロの航海。彼は天の幻に背かなかった。むしろこの神の方向に、自分のいかなる工夫や傾きに従うよりも喜んで、より満足して従った。1. その方向に彼は思いを向けた。彼は事において神の御心を知った今、決心した。それは彼が求めていたすべてであったから。彼はもはやアジヤやビテニヤを考えない。すぐにわたしたちはマケドニヤに行こうと努めた。パウロだけが幻を見たが、彼はそれを同僚に伝え、彼らは皆これを信じてマケドニヤに向かうことを決心した。パウロがキリストに従うように、彼のすべての者も彼に従う。いや、むしろ彼と共にキリストに従う。彼らは遅延なく、この遠征のために準備を整えている。注記。神の召しにはすぐに従わなければならない。わたしたちの従順は議論されてはならないのと同様に、引き延ばされてもならない。今日行え。心がかたくなにならないように。観察せよ。彼らはすぐにマケドニヤに行くことはできなかった。しかしすぐに行こうと努めた。もしわたしたちがその業において望むほど迅速になれなくても、その努力においては迅速であり得る。そしてこれは受け入れられる。2. その方向に彼は針路を取った。彼らは最初の船便で、最初の順風でトロアスから出帆した。神が彼らを別の場所に呼ぶとき、そこでなすべきことを終えたと確信できるから。彼らは直航して、順調な航海でサモトラケに来た。翌日ネアポリスに来た。トラキアとマケドニヤの境の町。そしてついにピリピに上陸した。マケドンの王、アレクサンダー大王の父ピリポから名を取った町。それは(使徒16:12)次のものと言われる。(1) そのマケドニヤの地方の第一の町。あるいはある人々が読むように、最初の町。トロアスから来たときに最初に来た町。征服しようと意図する国に上陸する軍隊が、最初に来た場所の攻略から始めるように、パウロとその助手たちもそうした。彼らは最初の町から始めた。なぜなら、もしそこで福音が受け入れられれば、そこから全国にいっそう容易に広まるから。(2) それは植民都市であった。ローマ人は守備隊を持っただけでなく、その町の住民—少なくとも行政官と支配的部分—はローマ人であった。そこに最も多くの数と多様な人々があり、それゆえ善を行う最も大きな可能性があった。
四、ピリピでパウロとその同僚たちが出会った冷たい扱い。神からのそのような特別の召しがあったので、そこで喜びの迎えを受けるだろうと期待されたであろう。ペテロが御使いに遣わされてコルネリオのもとに行ったときのように。パウロに急いで来るよう懇願したマケドニヤの男はどこにいたのか。なぜ彼はその同胞のうちの少なくとも何人かを刺激して彼を出迎えに行かせなかったのか。なぜパウロは荘厳に紹介されず、町の鍵を手に渡されなかったのか。ここにはそのようなものは何もない。なぜなら、1. 彼について全く何の注意も払われない前に、しばらくかかった。わたしたちはその町に数日間滞在した。おそらく宿屋で、自分たちの費用で。リディヤが彼らを歓迎するまで、一食の食事にさえ招く友人を持たなかった。彼らは急いでそこに来たが、今そこにいて、いる場所に留まってもよかったのではないかとほとんど誘惑される。しかしそれは彼らの試練として定められた。沈黙と待機の苦痛に耐えられるかどうか。これが彼らの分け前であったとき。そのように顕著で有用な者たちは、軽視され見過ごされる方法を知らなければ、この世に生きるに適しない。牧師たちは、ある場所に強く招かれ、そして来たときによそよそしく見られるなら、それを不思議に思ってはならない。2. 彼らが説教の機会を持つとき、それは目立たない場所で、取るに足らない小さな聴衆に対してであった(使徒16:13)。そこにはユダヤ人の会堂は(見える限り)なく、彼らへの入り口となるものがなかった。そして異邦人の偶像の宮に行ってそこの聴衆に説教することは決してなかった。しかしここで、尋ねて、彼らは良い婦人たちの小さな集まりを見つけた。門の改宗者たちであった。もし彼らが説教してくれるなら感謝するであろう者たち。この集まりの場所は町の外であった。そこでは黙認されていたが、城壁の中では許されなかっただろう。それは祈る惯わしのある場所であった。proseuche—祈りの場、祈りの家があった場所(ある人々はそう)。礼拝堂、または小さな会堂。しかしわたしはむしろ、わたしたちが読むように、祈りが定められ、慣わしであった場所と取る。まことの神を礼拝し、偶像を礼拝しなかった者たちが、共に祈るためにそこに集まった。そして最も古く最も普遍的な信心の記述にしたがい、主の御名を呼び求めるために。彼らの各自は毎日別れて祈った。これは神を礼拝する者たちの常に慣わしであった。しかしこれに加えて、安息日に彼らは共に集まった。彼らはわずかであり、町に不人気であり、彼らの集会はある程度離れており、見える限り婦人たちだけであったにもかかわらず、神を礼拝する者たちは、可能な限り、安息日に荘厳な集会を持たなければならなかった。わたしたちがしたいようにできないとき、できるようにしなければならない。会堂がなければ、より私的な場所に感謝し、そこに赴かなければならない。わたしたちの機会にしたがい、わたしたちの集まりを捨てないで。この場所は川岸にあると言われる。おそらく観想を助けるために選ばれた。偶像礼拝者たちは流れのなめらかな石の間にその分け前を取ると言われる(イザヤ57:6)。しかしこれらの改宗者たちはおそらく、幻を見た預言者たちの例を目に留めた。一人はケバル川のほとりで(エゼキエル1:1)、もう一人は大川ヒデケルのほとりで(ダニエル10:4)。そこにパウロとシラスとルカは行き、座を占めた。彼らとより良く祈るために、会衆を教えるために。彼らはそこに集まっていた婦人たちに語った。彼女たちが持っている光にしたがって実践することを励まし、キリストの知識へとさらに導いた。
五、リディヤの改心。おそらくそこでキリストを信じるために働きかけられた最初の者。最後ではない。この使徒の働きの物語において、わたしたちは場所の改心だけでなく、多くの特定の人々の改心も記録されている。たましいの価値がそのようなものであるから、一人を神に立ち返らせることは大いなることだから。また奇跡によってもたらされた改心(パウロのように)だけでなく、恵みの通常の方法によってもたらされたいくつかの改心(ここでのリディヤのように)もある。観察せよ。
(1) 彼女の名前、リディヤ。神の書であるここに彼女の名前が記録されることは彼女の誉れである。聖書が読まれるところではどこでも、彼女について語られるであろう。注記。聖徒たちの名前は神に尊く、わたしたちにもそうあるべきである。わたしたちの名前を聖書に記録することはできないが、もし神がわたしたちの心を開かれるなら、それがいのちの書に書き記されているのを見出すであろう。そしてこれはより良い(ピリピ4:3)。より喜ぶべきである(ルカ10:20)。
(2) 彼女の職業。彼女は紫布の商人であった。紫の染料か、紫の布や絹の。観察せよ。[1] 彼女には職業があった。正直な職業。歴史家は彼女の誉れとしてそれに注意を払う。彼女は使徒が語る(テモテ第一5:13)怠けることを学び、怠けているだけでない婦人たちではなかった。[2] それは取るに足らない職業であった。彼女は紫布の着る者ではなく売る者であった。そのような者が召されることは少ない。これに注意が払われることは、正直な職業に携わる者たちが、もしそれらの経営において正直であるなら、それらを恥じないようにという示唆である。[3] 彼女は心に向ける職業を持っていたが、神を礼拝する者であり、そのたましいのために利点を向上させる時間を見つけた。わたしたちの特定の職業の業務は、宗教の業務と非常にうまく両立しうる。それゆえ、わたしたちの店を見張らなければならない、商売を気にかけなければならないと言って、独りで、家族で、荘厳な集会において宗教的な行使からわたしたちを免れることはできない。わたしたちには仕えるべき神があり、気にかけるべきたましいがあるのではないか。宗教はわたしたちを世における業務から呼び出すのではなく、その中でわたしたちを導く。すべてはその時と場所において。
(3) 彼女の出身高—テヤテラの市の。それはピリピから遠く離れていた。そこに彼女は生まれ育った。しかしピリピで結婚したか、商売によってそこに定住するために連れてこられた。神の摂理は、常にわたしたちの住処の境界を定めるように、しばしば移動させる。そして時にわたしたちの外の状態や住所の変化を、わたしたちの救いに関するその恵みのはかりごとに驚くほど役立つものとする。摂理はリディヤをピリピに連れてきて、パウロの務めの下に置く。そしてそこで彼女がそれに出会ったとき、彼女はそれを良く用いた。わたしたちも機会を向上させるべきである。
(4) 主が彼女の心を開かれる前の彼女の宗教。[1] 彼女は持っていた知識にしたがって神を礼拝した。彼女は信心深い婦人たちの一人であった。時に神の恵みは、改心前に非常に邪悪で卑劣であった者たち—取税人や遊女—に働いた。あなたがたの中の幾人かはそうであった(コリント第一6:11)。しかし時にそれは良い性格の者たち、ある良いものを持っていた者たち—宮廷の役人、コルネリオ、リディヤ—に固定した。注記。神を礼拝する者であるだけでなく、イエス・キリストを信じる者でなければならない。仲介者としての彼によらなければ父としての神に来る道はないから。しかし彼らが持っていた光にしたがって神を礼拝した者たちは、キリストの啓示とその恵みにふさわしい立場にあった。持つ者には与えられるから。そして彼らにキリストは歓迎されるであろう。神を礼拝することが何であるかを知る者たちはキリストの必要性を見、その mediation の用法を知るから。[2] 彼女は使徒たちの話を聞いた。ここで、祈りがささげられていた場所で、機会があるとき、御言葉が説教された。神の御言葉を聞くことは宗教的礼拝の一部であるから。そしてわたしたちがその御言葉に耳を傾けないなら、どうして神がわたしたちの祈りを聞かれることを期待できようか。彼らが持っていた光にしたがって神を礼拝した者たちは、さらなる光を探した。わたしたちは小さなことの日を向上させなければならないが、それに安んじてはならない。
彼女の上になされたわざが何であったか。主が開かれた彼女の心。ここで観察せよ。(1) このわざの作者。それは主であった—主キリスト。この裁きが委ねられている方に—主の御霊。きよめる方に。注記。回心のわざは神のわざである。わたしたちのうちに望むことと為すこととをなされるのは彼である。わたしたちが何もしないというのではなく、自分自身で、神の恵みなしには、わたしたちは何もできない。神が滅びる者たちの滅びに少しも責任がないというのではなく、救われる者たちの救いは完全に彼に帰せられなければならない。(2) このわざの座。それは心において変化がなされ、心にこの祝福された転換が与えられる。働きかけられたのはリディヤの心であった。回心のわざは心のわざである。心、内なる人、思いの霊の更新である。(3) このわざの性質。彼女は心に触れられただけでなく、心を開かれた。回心していないたましいは閉ざされ、キリストに対して要塞化されている。厳重に閉ざされている。ヨシュアに対するエリコのように(ヨシュア6:1)。キリストはたましいを扱う際、自分に閉ざされた戸を叩く(黙示3:20)。そして罪人が効果的にキリストを受け入れるように説得されるとき、栄光の王が入ってくるために心が開かれる—理解力は神の光を受け入れるために、意志は神の律法を受け入れるために、感情は神の愛を受け入れるために開かれる。心がこのようにキリストに向かって開かれるとき、耳はその御言葉に向かって開かれ、唇は祈りにおいて開かれ、手は慈善において開かれ、歩みはあらゆる福音的従順において広げられる。
この心のわざの効果。(1) 彼女は神の御言葉に大いに注意を払った。彼女の心はパウロの語った事柄に注意を払うほどに開かれた。彼女はパウロの説教に出席しただけでなく、それに注意を払った。パウロの語った事柄を自分自身に適用した(ある人々はそう読む)。そしてそのときのみ御言葉はわたしたちに善を行い、永続的な印象を与える。わたしたちがそれを自分自身に適用するとき。さてこれは彼女の心の開かれたことの証拠であり、その実りであった。神の恵みによって心が開かれるところではどこでも、神の御言葉への勤勉な出席と注意によって現れる。キリストのゆえに—その御言葉は彼のものであるから—またわたしたち自身のゆえに—わたしたちはそれにこれほど近く関与しているから。(2) 彼女は自分の名をイエス・キリストに捧げ、その聖なる宗教の告白を引き受けた。彼女はバプテスマを受け、この荘厳な儀式によってキリストの教会の員として受け入れられた。そして彼女と共にその家族もバプテスマを受けた。そのうちの幼児は彼女の権利において。なぜなら根が聖ければ枝もそうであるから。そして成長した者たちは彼女の影響と権威によって。彼女とその家族がバプテスマを受けたのは、アブラハムとその家族が割礼を受けたのと同じの規則によって。契約の封印は契約者とその子孫に属するから。(3) 彼女は牧師たちに非常に親切であり、神の国に関する事柄において彼らからさらに教えられることを非常に切望した。彼女はわたしたちに「もしあなたがたが私を主に忠実な者とお思いでしたら」と懇願した。もしあなたがたが私を真のクリスチャンとみなすなら、これによってあなたがたの私に対する信頼を示してください。私の家にきて、そこに泊まってください。 このように彼女は機会を求めた。[1] 彼女の上になされたこの祝福された変化において神の恵みの器であった者たちに感謝の気持ちを示すために。彼女の心がキリストに開かれたとき、彼女の家はそのゆえにその牧師たちに向かって開かれた。そして彼女が持っていた最善のもてなしで彼らは歓迎された。彼女はそれを、たましいの事柄においてこれほど豊かに刈り取った者たちには良すぎるとは考えなかった。いな、彼らは彼女の家に歓迎されただけでなく、彼女は非常に強く、懇々と彼らに迫った。彼女はわたしたちに強いた。これはパウロが行くことに非常に消極的で、気が進まなかったことを示唆する。なぜなら彼は若い改心者たちの家族の負担になることを恐れ、キリストの福音を無償で(コリント第一9:18、使徒20:34)伝えることを研究したから。外にある者たちに、福音の説教者たちを企む、自己を求める人々として非難する機会を与えないために。また内にある者たちに、その宗教の費用について不満を言う機会を与えないために。しかしリディヤは拒否を許さない。彼らが彼女を真のクリスチャンとみなすことを受け入れるなら、彼女の要望を叶えなければならない。御使いを招いたアブラハムのように(創世記18:3)。もし私があなたの目の前に恵みを見出したなら、あなたのしもべを通り過ぎないでください。[2] 彼女はさらに教えを受ける機会を求めた。もししばらく彼女の家族に彼らを置くことができるなら、彼女は毎日彼らから聞くことができる(箴言8:34)。安息日に集会で聞くだけでなく。彼女自身の家で彼女は彼らから聞くだけでなく、質問することもできる。そして彼女は毎日彼らと共に祈り、彼女の家族を祝福してもらうことができる。キリストについて何らかのことを知る者は、さらに知ることを切望せずにはいられず、その福音との知り合いを深める機会を求める。
Acts 16章 16-24 Matthew Henry's Complete Commentary
¹⁶ 私たちが祈りに行くと、占いの霊を持つある娘に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益をもたらしていた。 ¹⁷ この女がパウロと私たちについて来て、叫んで言った。「この人たちは、いと高き神の僕たちで、救いの道を私たちに宣べ伝えているのです。」 ¹⁸ 彼女が何日もこうした。しかしパウロは悩まされ、振り向いて霊に言った。「イエス・キリストの御名によって命じる。彼女から出て行け。」すると、その同じ時に霊は出て行った。 ¹⁹ 彼女の主人たちは、自分たちのもうけの望みが絶たれたのを見て、パウロとシラスをつかまえ、役人たちのいる広場に引きずって行き、 ²⁰ 役人たちの前に引き出して言った。「この人たちはユダヤ人でありながら、私たちの町をひどくかき乱している。 ²¹ しかも、ローマ人である私たちが受け入れることも、守ることも許されない風習を教えている。」 ²² すると群衆がいっせいに立ち上がって彼らに襲いかかった。役人たちは彼らの衣服を裂き取らせ、むち打つように命じた。 ²³ 彼らに何度もむちを加えてから、獄に入れ、獄吏に厳重に見張るよう命じた。 ²⁴ 獄吏はこの命令を受けて、彼らを奥の獄に入れ、足に足かせをはめた。
パウロとその仲間は、ピリピでしばらくの間、無名のうちに埋もれていたが、今や注目され始めた。
一.占いの霊を持ったある娘が、彼らを神の僕たちであると宣言することで、彼らを注目させた。見よ。
1.この娘について与えられている説明。彼女はpythonissaであり、デルフォイのアポロンの神託を伝えた娘と同じような占いの霊に憑かれていた。彼女は悪霊によって動かされ、相談する者に曖昧な答えを口述した。それは彼らの未来を知りたいという虚しい願いを満たすのに役立ったが、しばしば彼らを欺いた。無知と不信仰と偶像礼拝の時代には、悪魔は神の許しによって、このように人々を意のままに捕えていた。そして悪魔は人々に神託を与えるふりをしなければ、彼らからそのような崇拝を得ることはできなかった。というのも、両者によって彼の簒奪はこの世の神として維持されているからである。この娘は*占いによって主人たちに多くの利益をもたらした。*盗難の発見や失せ物の発見のため、特に運勢を占ってもらうために、多くの者がこの魔女を訪れた。そして誰も占いの報酬を手に持たずには来なかった。人の身分や事件の重要性に応じて。おそらく多くの者がこのように占い師として飼われていた。しかし、この女は誰よりも評判が高かったようである。ほかの者がいくらかの利益をもたらした間、この女は誰よりも多く相談されたため、主人たちに多くの利益をもたらした。
2.この娘がパウロとその仲間に与えた証言。彼女は祈りに行く途中、祈りの家へ、あるいはむしろそこでの祈りの務めへ行く途中で、彼らに出会った(使 16:16)。彼らは公然とそこへ行った。誰もが彼らがどこへ行くか、何をしようとしているかを知っていた。もし彼女のしたことが彼らにとって何らかの気散じや、務めの妨げになる可能性があったとすれば、サタンという偉大な誘惑者がいかに狡猾であるかが注目される。私たちが宗教的な務めに取りかかるとき、気を散らす機会をとらえて私たちを乱し、最も落ち着くべきときに不機嫌にする。彼女は彼らに出会うと、彼らについて回り、叫んだ。「この人たち」——いくら見た目がみすぼらしく、またみすぼらしく見られていても——「は偉い人たちだ。彼らはいと高き神の僕たちであり、私たちに大いに歓迎されるべき人たちだ。というのは、彼らは私たちに救いの道を示しているからだ。私たちの幸福となる救いと、私たちの聖なるものとなるその道との両方を。」
さて、(1)この証人は真実である。これは福音の忠実な説教者たちへの包括的な称賛であり、彼らの足を美しくする(ローマ 10:15)。彼らは私たちと同じような情欲を持つ人であり、土の器であるが、[1]「彼らはいと高き神の僕たちである。彼らは神に仕え、神に用いられ、僕として神の誉れに献身している。彼らは神の使いとして私たちのところに来る。彼らがもたらすメッセージは神からであり、彼らは神の王国の目的と利益に仕える。私たち異邦人が礼拝する神々は下位の存在であり、ゆえに神ではない。しかし、これらの人々は至高のヌーメン、いと高き神に属している。すべての人の上に、すべての神々の上にいます方。私たちすべてを造り、私たちすべてがその方に責任を負う方。彼らはその僕たちである。ゆえに私たちは彼らを尊重し、彼らの主のゆえに彼らに聞き従う義務がある。そして彼らを侮辱するなら危険である。」[2]「彼らは私たちに救いの道を示している。」異邦人も人類の惨めな嘆かわしい状態と、救いの必要とについて何らかの観念を持っており、それは彼らがいくらか探求していたものであった。「今」と彼女は言う。「これらの人々は、私たちが祭司や神託への迷信的で実りのない接近において、むなしく探し求めていたものを示す人たちである。」見よ。神はご自分の子の福音のうちに、救いの道をはっきりと私たちに示された。罪によって私たちがさらされた惨めから救い出されるために、私たちがしなければならないことを教えられた。
しかし、(2)占いの霊を持った者の口からこの証言はどのように来たのか。サタンは自分自身に分裂しているのか。彼は自分を引き倒す者たちを称えるのか。これを次のように受け取ることができる。[1]福音の栄光のために、神の力によってこの占いの霊から引き出されたものとして。悪魔がキリストについて言わされたように(マルコ 1:24)。*あなたがだれであるかを知っている。神の聖者だ。*真理は時としてその反対者たちの告白によって大いにされる。彼らは自分自身に反対する証人となる。キリストは、この娘の証言が、使徒たちを軽んじ、迫害したピリピの人々に対する裁きとして立ち上がることを望まれた。福音はそのような証言を必要としなかったが、彼らがほかの事で神託とみなした娘が、使徒たちを神の僕たちであると宣言したことが、彼らの勧めに加えられるであろう。あるいは、[2]悪霊、その狡猾な蛇によって、福音の不名誉のために意図されたものとして。彼女がこれによって自分自身とその予言に信用を得て、使徒たちの利益に与るふりをして主人の利益を増やそうとした、あるいはパウロに取り入って、彼女とその見習い霊を引き離さないようにしようとしたと考える者もいる。ほかの人々は、光の御使いに姿を変えることができ、用を足すために何でも言えるサタンが、これによって使徒たちを辱しめようとしたと考える。まるでこれらの神学者たちが彼らの占い師たちと同じ仲間であるかのように。彼らによって証言されているから。そしてそれなら民は彼らが慣れ親しんだ者たちに固執してもよかったであろう。使徒たちの教えを受け入れそうな者たちは、これらの占いの霊に偏見を持つような者たちであり、ゆえにこの証言によって福音に対して偏見を持つであろう。そして占い師たちを重んじる者たちについては、悪魔は彼らを確実に掌中に収めたと思った。
二.キリストは、彼らにこの娘から悪魔を追い出す力を与えることで、彼らを注目させた。彼女は何日もこのようにわめき続けた(使 16:18)。そしてパウロは彼女を気に留めなかったようである。彼女がこのように彼の僕たちについて証言することが、神によって彼の大義のために整えられたのかもしれないと思ったからである。しかし、おそらくそれは彼らに奉仕というよりは偏見を与えることが分かり、彼はすぐに彼女を黙らせた。彼女から悪魔を追い出すことによって。1.彼は悩まされた。彼女がサタンの道具として人々を欺くために使われているのを見、人々が彼女の占いによって惑わされているのを見て、心を痛めた。聖なる真理がこのように冒涜され、そのような邪悪な計画を持ったそのような邪悪な口から良い言葉が出てくるのを聞くことは、彼にとっての妨げであった。おそらくそれらの言葉は皮肉なからかいの調子で、使徒たちの主張を嘲笑するものとして語られた。キリストの迫害者たちがキリストにユダヤ人の王よ、万歳と挨拶して嘲ったように。それならパウロが悩まされたのも当然であった。どんな善人も、神の真理が通りで吟唱され、嘲笑の調子で大声で叫ばれるのを聞くなら、そうするであろう。2.彼は悪霊に、彼女から出て行くよう命じた。**彼は聖なる憤りをもって振り向いた。不潔な霊のへつらいにも非難にも憤って。「イエス・キリストの御名によって命じる。彼女から出て行け。」そしてこれによって彼は、これらの人々が生ける神の僕たちであることを示そうとされた。彼女の証言なしに自分自身を証明することができる。彼女の沈黙が彼女の語るよりもよくそれを実証するであろう。このようにパウロは救いの道を真に示す。すなわち、サタンの力を打ち砕き、彼が世界を欺かないように彼を縛り上げることによる(黙示録 20:3)。そしてこの救いはイエス・キリストの御名によってのみ得られる。今、悪魔が彼の御名によって追い出されたように。他の何によってもなく。キリストが一言で、人々を恐れさせ、その道を誰も通れないようにした者たちから悪魔を追い出された(マタイ 8:28)ことは、その国にとって大きな祝福であった。しかしパウロが今、キリストの御名において、人々を欺き、彼らの軽信に付け込んだ者から悪魔を追い出したことは、その国にとってはるかに大きな親切であった。力はキリストの言葉に伴った。その前でサタンは立ち上がることができず、その支配を放棄せざるを得なかった。そしてこの場合は強力な支配であった。その同じ時に霊は出て行った。
三.追い出された娘の主人たちは、これを彼らの罪として訴え、彼らを役人の前に引き出すことで、彼らを注目させた。福音の説教者たちは、悪人として役人の前に引き出されなければ、役人たちに語る機会を持てなかったであろう。ここを見よ。
1.彼らを怒らせたのは、娘が正気に戻り、彼女の主人たちは自分たちのもうけの望みが絶たれたのを見たことであった(使 16:19)。金銭を愛することがすべての悪の根であることを見よ。福音の説教が銀細工師の職を損なう(使 19:24)なら、まして占い師の職を損なう。それゆえ、サタンが欺く力が打ち砕かれたとき、ここに大きな抗議の声が上がる。祭司たちは福音を憎んだ。それが人々を口のきかない偶像の盲目的な奉仕から立ち返らせるから。そしてゆえに彼らのもうけの望みが絶たれた。女から追い出すことにおいて現れたキリストの力と、サタンの手から彼女を救い出すという彼女への大きな親切は、彼らがこれで金銭を失うと思ったとき、彼らに少しの感銘も与えなかった。
2.彼らが彼らに対して取った方策は、より高い権力を彼らに対して煽り、罰すべき者としたことであった。彼らは通りすがりに彼らをつかまえ、最大の激怒と暴力をもって、彼らを広場に引きずって行った。そこで公の正義が執行された。(1)彼らは彼らを役人たち——彼らの治安判事たち——のもとに引き出し、法定の者として扱わせた。二人官である。(2)彼らはそこから彼らを長官たち——都市のプラエトルあるいは総督たち——のもとに急いだ。tois strategois——軍の将校たち。語はそう意味する。しかし一般的に判事たちあるいは首長たちを指すのに取られる。彼らは彼らに訴えを持ち込んだ。
3.彼らが彼らに対して提出した訴状は、彼らが国をかき乱す者であるということであった(使 16:20)。彼らは当然のこととして、これらの人々がユダヤ人であるとした。この時のユダヤ人は、かつてエジプト人に長く忌み嫌われたのと同じように、ローマ人には忌み嫌われる国民であった。使徒たちがユダヤ人であることが彼らの恥とされた一方で、ユダヤ人が彼らの最も激しい迫害者であったとき、使徒たちの境遇は痛ましいことであった。(1)彼らに対する一般の訴えは、彼らが町をかき乱していることであった。不和をまき、公の平和を乱し、暴動と騒乱を引き起こしたと。これほど虚偽で不正なことはなかった。アハブがエリヤに与えた性格描写と同じであった(列王第一 18:17)。*あなたはイスラエルをかき乱す者か。*もしそれらが町をかき乱したのであれば、それはベテスダの池の水を御使のかき乱すようなものであった。癒しのためにかき乱す、幸福な解決のためにかき乱すことであった。このように怠惰な者を目覚めさせる者たちは、彼らをかき乱す者として非難される。(2)この訴えの証明は、彼らがローマの植民地に受け入れられるべきでない風習を教えていることである(使 16:21)。ローマ人は宗教における革新に常に非常に敏感であった。正しかろうと間違っていようと、父祖たちから伝統によって受け継いだものを、どんなに虚しくても固執した。元老院の承認なしに、外国の、あるいは新興の神を認めることはできなかった。国の神々が彼らの神々でなければならず、真であれ偽であれ。これは十二表法の一つであった。*ある国はその神々を変えたか。*使徒たちが多神論と偶像礼拝を破壊する宗教を教え、彼らにそれらのむなしいものから立ち返るよう説いたことが、彼らを憤慨させた。これはローマ人が耐えられないことであった。「もしこれが私たちに広まれば、間もなく私たちは私たちの宗教を失うだろう。」
四.役人たちは、彼らに対する手続きによって、彼らを注目させた。
1.迫害を支持することで、彼らは暴徒を彼らにけしかけた(使 16:22)。*群衆がいっせいに立ち上がって彼らに襲いかかった。*彼らを引き裂こうとした。サタンの策略は、神の僕たちと民を、憲法の破壊と風習の変革を企てる危険な人々として一般民衆に忌み嫌わせることであった。実際にはそのような非難の根拠はなかったのに。
2.執行に進むことで、彼らを最も卑しい重罪人であるかのように見せた。彼らは彼らの衣服を裂き取った。怒りと暴力をもって。彼らが脱がされるのを待つ忍耐もなく。むち打ちのために。これは使徒がピリピでの扱いについて語るときに言及していることである(テサロニケ第一 2:2)。役人たちは彼らが浮浪者としてむち打たれるよう命じた。プラエトルに仕えるリクトル、すなわち下士官たちによって。彼らはその目的のために束ねた棒を携帯していた。これはパウロが棒で打たれた三度のうちの一つであった。ローマの慣習に従った。これはユダヤの律法が定めた四十を超えてはならないという同情ある制限の下になかった。ここで彼らは何度もむちを彼らに加えた(使 16:23)と言われている。彼らを卑しいものと思ったから数えなかった(申命記 25:3)。さて、これで彼らの残酷さは満たされたと思うかもしれない。むち打たれるなら、もちろん放免されるだろうと。いや、彼らは投獄された。そしておそらく現在の目的は、彼らを死刑に試みることであった。さもなければ、なぜ彼らの逃亡を防ぐためにこれほどの配慮がなされたのか。(1)判事たちは彼らの拘禁を非常に厳重にした。彼らは*獄吏に厳重に見張るよう命じた。*危険な人々として、彼ら自身が脱獄を企てるか、あるいは彼らを救出しようとする者たちと結託しているかのように、非常に注意深い目を向けさせた。このようにして彼らは彼らを忌み嫌われるものとし、自分たちが彼らに与えた卑劣な扱いを正当化しようとした。(2)獄吏は彼らの拘禁を非常に厳しくした(使 16:24)。この命令を受けて、彼らを外の獄で十分安全に見張ることができたにもかかわらず、*彼らを奥の獄に入れた。*彼は役人たちがこれらの人々に大きな憤りを持ち、彼らに厳しくする傾向があることを感じ取った。それゆえ自分自身も彼らに対して極限まで権力を振るうことで、役人たちに取り入ろうとした。役人が残酷なとき、その下の役人たちも残酷なのは驚くべきことではない。彼らを奥の獄に入れた。その地下牢には通常、罪定められた重罪人しか入れられなかった。真昼でも暗く、湿っぽく冷たく、汚らわしく、おそらくあらゆる点で不快な場所。エレミヤが下ろされた獄のような(エレミヤ 38:6)。そしてこれだけでは足りず、足に足かせをはめた。おそらく福音の説教者たちが、獄の扉がしっかり閉ざされていたのに獄から逃げ出したこと(使 5:19、12:19)についての噂を聞き、ほかの獄吏たちよりも賢くあろうとし、それゆえ足かせでしっかり固定することで彼らを確実に拘束しようとしたのであろう。そして彼らは足を足かせにはめられた神の使いの最初の者ではなかった。エレミヤもそのように扱われた。しかも公然と、ベニヤミンの高門で(エレミヤ 20:2)。ヨセフも足が足かせで傷ついた(詩篇 105:18)。ああ、神の僕たちがこれほどひどい扱いを受けたのは、昔の日々にも、後の時代にも!殉教者たちの書、女王メアリーの時代の殉教者たちが証しである。
Acts 16章 25-34 Matthew Henry's Complete Commentary
²⁵ 真夜中に、パウロとシラスは祈り、神に賛美を歌った。囚人たちはそれを聞いていた。
²⁶ 突然大地震が起こり、獄の土台が揺さぶられた。そしてすぐにすべての戸が開き、すべての者の鎖が解けた。
²⁷ 獄吏は眠りから目を覚まし、獄の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げたと思い、剣を引き抜いて自殺しようとした。
²⁸ しかしパウロは大声で叫んで言った。「自分を傷つけてはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」
²⁹ 彼は明かりを呼び求め、飛び込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏し、
³⁰ 二人を連れ出して言った。「先生たち、救われるためには、わたしは何をしなければなりませんか。」
³¹ 二人は言った。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」
³² そして主のことばを、彼とその家にいるすべての者に語った。
³³ そして彼はその夜の同じ時に二人を連れ出し、その傷を洗った。そして彼とその家族の者はみなすぐにバプテスマを受けた。
³⁴ 彼は二人を自分の家に招き入れ、食事を備えて喜んだ。彼もその家族の者と共に神を信じていた。
ここには、パウロとシラスの迫害者たちの計画が挫かれ、打ち砕かれた物語がある。
I. 迫害者たちは福音の説教者を落胆させ、弱らせ、その大義に嫌気がさし、そのわざに疲れさせることを計画した。しかしここで彼らが共に元気であり、元気づけられているのを見る。
1. 彼ら自身は元気であった。驚くほど元気であった。これほど貧しい囚人がこれほど真に喜んだことはなく、その酷い扱いをこれほど心に留めなかった。彼らの状態がどのようなものであったかを考えよう。ローマのプラエトルたちはその前に棒を、そしてその上に斧を縛り付けたものを持たせていた。ファスケスとセキュレス。さて彼らは棒の痛みを感じていた。耕す者はわたしの背を耕し、長い溝を作った。彼らに与えられた多くのむち打ちは非常に痛かった。そしてその背と肩の raw さと痛みについて訴えるのを聞くことが期待されたであろう。しかしこれですべてではなかった。彼らは次に斧を恐れる理由があった。彼らの主はまずむち打たれ、それから十字架につけられた。そして彼らも同じことを期待したかもしれない。その間、彼らは奥の獄にあり、足は木の足枷にはめられていた。ある人々はそれが彼らを保持しただけでなく、傷つけたと考える。しかしそれでも、真夜中に、可能であれば少し休息を得ようと試みるべき時に、彼らは祈り、神に賛美を歌った。(1) 彼らは共に祈った。苦しみの中で彼らを支え、慰めてくださるように、ヨセフを獄で訪ねられたように彼らを訪ね、彼らと共にいてくださるように神に祈った。キリストにおける慰めが、キリストのゆえの苦しみと同じように豊かになるように。彼らの鎖とむち打ちが福音の前進に役立つように。彼らの迫害者のために、神が彼らを赦し、その心を変えてくださるように祈った。これは祈りの時間ではなく、真夜中であった。祈りの家ではなく、獄の中であった。しかしそれでも祈るのに時宜にかなっており、その祈りは受け入れられた。暗やみの中でそうであるように、深淵から神に叫ぶことができる。心が神に向けられるなら、祈りにおいて不適切な場所も、時もない。苦しみを共にする者は祈りにおいて結ぶべきである。*だれか苦しんでいる者がいるか。その者は祈れ。*どれほど苦しい悩みであっても、祈りから遠ざけるべきでない。(2) 彼らは神に賢美を歌った。彼らは神をほめたたえた。すべての事において感謝しなければならないから。賛美の材料に事欠くことはない、もし心を欠かなければ。そしてもし獄と足枷がこの務めのために神の子の心を調子外れにしないのなら、何がそうするのか。彼らは、その御名のために恥を受けるに値する者と数えられたこと、またその苦しみの下でこのように驚くほど支えられ、持ち上げられ、そのたまさいにおいて神の慰めがこれほど甘く、これほど強く感じられたことを神に感謝した。いや、彼らは神をほめたたえただけでなく、賛美を歌った。ある詩篇、賛美歌、霊の歌において。ダビデのものか、あるいは現代の作曲か、あるいは彼ら自身のものか、御霊が彼らに語らせたように。わたしたちの規則は苦しむ者は祈るべきである、それゆえ苦しみの中にあって彼らは祈った。同様にわたしたちの規則は喜ぶ者は詩篇を歌うべきである(Jam 5:13)。それゆえその苦しみの中で喜ぶ者、神にしたがって喜ぶ者は詩篇を歌った。これは詩篇を歌うことが福音の定めであり、すべての良いクリスチャンによって用いられるべきであることを証明する。そしてそれが instituted されたのは、勝利の日に彼らの喜びを表現するためだけでなく、悩みの日に彼らの悲しみを平衡させ、和らげるためでもある。真夜中に詩篇を歌ったのは、イスラエルの甘い詩篇作者の模範にしたがって(Ps 119:62)。真夜中にわたしは起きてあなたに感謝する。(3) 囚人たちがそれを聞いたという事情がここで注目される。もし囚人たちが彼らの祈りを聞かなかったとしても、賛美を歌うのを聞いた。[1] これは彼らが神に賛美を歌うことにおいてどれほど元気であったかを示す。彼らは獄の中にいても獄全体に聞こえるほど大きく歌った。いや、囚人たちを目覚めさせるほど大きく。真夜中であったから、皆眠っていたであろうと推測できる。わたしたちは心を尽くして詩篇を歌うべきである。聖徒たちはその寝床で声を高く歌うよう召されている(Ps 149:5)。しかし福音の恵みはこの事をさらに進め、獄の中で、足枷の中で声を高く歌った者たちの模範を与える。[2] 彼らは囚人たちが聞くことを知りながらも、声を高く歌った。自分たちの主、またその奉仕を恥としない者として。家族で詩篇を歌う者たちが、隣人が聞くことを恐れてその務めを怠るのを言い訳にするだろうか。冒涜的な歌を歌う者たちはそれを大声で歌い、誰が聞いても気にしないのに。[3] 囚人たちはパウロとシラスの獄の歌を聞かされた。それは彼らが皆のために、パウロとシラスのゆえに示された奇跡的な恵みに備えるためであった。獄の戸が開かれた時。この彼らが満たされた異常な慰めによって、彼らが宣べ伝えた方がイスラエルの慰めであることが公布された。キリストに反対しようとする囚人たちに、聞いてその前に震えよ。キリストに忠実な者たちに、聞いて勝ち誇り、望みの囚人たちに語られる慰めを取れ(Zec 9:12)。
2. 神はご自身の目覚ましい現れによって彼らを驚くほど元気づけられた(Ac 16:26)。(1) すぐに大地震があった。それがどこまで広がったかは告げられないが、この場所で獄の土台そのものが揺さぶられるほどの激しい衝撃であった。囚人たちがパウロとシラスの真夜中の祈りに耳を傾け、おそらくそれを笑い、冷やかしていた間に、この地震は彼らに恐怖を与え、これらの者が天の寵愛を受けた者であり、神が認められるような者であることを確信させたであろう。わたしたちは祈りに答えて、またその受け入れのしるしとして、祈りの家が揺さぶられたのを持った(Ac 4:31)。ここでは獄が揺さぶられた。主はこれらの地震の中におられて、そのしもべたちに対してなされた屈辱へのその憤りを示すため、地に信頼する者のその信頼するものの弱さと不安定性を証しするため、また地が動いても、恐れる必要はないことを人々に教えるために。(2) 獄の戸が投げ開かれ、囚人たちの足枷が打ち外された。すべての者の鎖が解けた。おそらく囚人たちはパウロとシラスが祈り、詩篇を歌うのを聞いた時、彼らを賞賛し、彼らについて尊敬を持って語り、あの女奴隷が言ったように、これらの人々は生ける神のしもべたちに違いないと言ったのであろう。彼らの良い意見に報い、それを確認するために、彼らは奇跡にあずかり、鎖を解かれた。後に神がパウロに共に船にいたすべての者を与えたように(Ac 27:24)、今やパウロに共に獄にいたすべての者を与えた。神はこれによって囚人たちに、グロティウスが観察するように、使徒たちが福音を宣べ伝えることは人類への公の祝福であることを示した。彼らは捕われ人に解放を告げ、束縛されている者に獄の戸を開く(Isa 61:1)のを宣言した。Et per eos solvi animorum vincula――そして彼らによってたましいの鎖が解かれたように。
II. 迫害者たちは福音の前進を止めることを計画した。もはやそれを受け入れる者がいないように。川のほとりの集会を台無しにしようと望んだ。そこでもはや心が開かれないように。しかしここで獄において回心者が造られたのを見る。その家が集会所に変えられ、福音の勝利の戦利品がそこに立てられ、彼ら自身のしもべであった獄吏がキリストのしもべとなった。おそらく囚人たちのいくらか、いやすべてが回心した。彼らのからだに働いた奇跡、鎖を解いたことが、彼らのたましいにも働いたに違いない。Job 36:8-10, Ps 107:14,15を見よ。しかし記録されているのは獄吏の回心だけである。
1. 彼はいのちを失うのを恐れ、パウロはこの憂いについて彼を安んじる(Ac 16:27,28)。(1) 彼は眠りから目を覚ました。おそらく地震の衝撃が彼を目覚めさせた。獄の戸の開くこと、そして囚人たちの喜びと驚きの表現――暗やみの中で鎖が解かれたのを見つけ、互いに何を感じたかを告げ合った――が彼を目覚めさせた。これは獄吏を目覚めさせるのに十分であった。彼の役職は彼が目覚めにくくないことを要求していた。この眠りから目覚めることは、そのたまさいの霊的な眠りからの良心の目覚めを意味した。福音の招きは眠っている者よ、目覚めよ(Eph 5:14)。Jon 1:6のように。(2) 彼は獄の戸が開いているのを見た。囚人たちが逃げたと、当然のことながら推測した。それなら自分はどうなるのか。彼はその場合のローマの法を知っていた。それは先ごろペテロが逃げた番兵たちの上に執行された(Ac 12:19)。預言者の言葉にしたがって。この者を守れ。いなくなったら、あなたのいのちは彼のいのちに代わられる(1Ki 20:39,42)。ローマの法律家たちはその後、犯罪者の拘置に関する法の解釈において(逃がした場合、看守は囚人が受けるべきだったのと同じ罰を受けるべきだと定める)、奇跡による逃走を例外として扱うよう配慮した。(3) 恐怖の中で彼は剣を引き抜き、自殺しようとした。より恐ろしい死を防ぐために。逃した場合に負うべき壮麗で恥ずべき死、パウロとシラスについて長官から異常に厳しい命令を受けていたため、彼らがいなくなれば自分に非常に厳しいだろうと結論した。哲学者たちは一般に自殺を許した。セネカはそれを苦境にある者が訴える最後の救済として処方する。ストア派はその passion の征服をpretended にもかかわらず、これほどまでにそれらに譲歩した。エピクロス派は感覚の快楽を indulged し、その苦痛を避けるためにむしろそれに終わりを置くことを選んだ。この獄吏は自分の死を早めることに害はないと思った。しかしキリスト教はこれによって神から出たことを証明する。それがわたしたちを創造の律法に保つから――それを复兴させ、強制し、確立する。わたしたちが自分のいのちに正義であることを義務づけ、恵みにいのちを喜んで委ねるが、堕落に対しては勇敢にそれを持ちこたえさせる。(4) パウロは彼が自分に対して進むのを止めた(Ac 16:28)。大声で叫んだ。彼に聞かせるためだけでなく、注意させるためにも。*自分に何の悪事も行わないように。自分を傷つけてはいけない。*神の言葉の、罪に対する、またそのすべての現れと近づきに対するすべての警告は、この傾向を持つ。*自分を傷つけてはいけない。*人よ、女よ、自分を wrong しないように。自分を ruin しないように。自分を傷つけないように。そうすれば他の誰もあなたを傷つけられない。罪を犯さないように。それ以外は何もあなたを傷つけられないから。からだについてさえ、わたしたちはそれに害を与える罪に対して警告され、自分の肉を憎まず、それを養い、慈しむことを教えられる。獄吏は囚人の逃走について責任を問われることを恐れる必要はない。*彼らは皆ここにいるから。*獄の戸が開かれ、鎖から解かれたのに、一部の者が逃げなかったのは不思議であった。しかしその驚きが彼らをしっかりと留め、パウロとシラスの祈りによって解かれたことを感じ、彼らが動かない限り動かなかった。そして神はその足を解いたのと同じように、その霊を縛ることにおいてその力を示された。
2. 彼はたましいを失うのを恐れ、パウロはこの憂いについても彼を安んじる。一つの関心事が彼を別の、そしてさらに大いなる関心事に導く。自分をこの世から早めるのを妨げられたので、もし自分の意图を追及していたら、死が自分をどこに連れて行ったか、死の向こう側で自分がどうなったかを考え始める。非常に適切な思い。火の中から引き出された燃えさしのように、自分と死との間に一歩しかなかった者にとって。おそらく彼が走り込もうとした罪の忌々しさが彼を警告するのを助けた。
(1) 原因が何であれ、彼は大いなる動揺に陥った。慰め主となるために遣わされた神の御霊が、彼を説得するために、彼に恐怖を与え、彼を驚かせた。彼が獄の戸を再び閉めるのに配慮したかどうかは告げられない。おそらく彼はこれを忘れた。サマリヤの女がキリストによってその良心に確信を与えられた時、水がめを残して井戸への用事を忘れたように。なぜなら彼は急いで明かりを呼び求め、奥の獄に飛び込み、震えながらパウロとシラスのところに来たから。罪が整然とその前に置かれ、その忌むべきものを知らされた者は、その惨めさと危険の思いに震えずにはいられない。この獄吏、このように震えさせられた時、パウロより適切な人に頼れなかった。かつてパウロ自身もそうであったから。パウロはかつてこの獄吏のように良い人々の迫害者であった。彼らを獄に投じた。この獄吏が彼らを守っていたように。そして彼のようにそれを自覚させられた時、震え、驚いた。それゆえ彼は獄吏により深く感じて語ることができた。
(2) この動揺の中で、彼はパウロとシラスに救いを求めた。見よ。[1] 彼らへのその address がどれほど敬意と尊重に満ちているか。彼は明かりを呼び求めた。彼らが暗やみの中にいたから。そして自分がどれほど怯えているかを見せるために。彼は二人の前にひれ伏した。自分の状態の悪さに驚き、その恐怖の重荷の下に沈みそうな者として。また二人の上に、その上にある神のかたちに、神からのその務めに対する畏敬を持つ者として。おそらく彼は、女奴隷が二人について語ったことを聞いた。彼らは生ける神のしもべたちであり、救いの道をあなたがたに示すと。そのような者として彼は二人への畏敬を表現した。彼らの前にひれ伏した。penitent として、彼らにした屈辱の赦しを請い、また supplicant として、自分が何をすべきかの助言を請うために。彼らに敬意ある称号を与えた。先生たち。kyrioi――主たち、主人たち。つい今まではろくでなし、悪人であり、彼らの主人であった。しかし今は先生たち、主たちであり、彼らがその主人。回心の恵みは、良い人々や良い牧者たちについての、また彼らに対する人々の言葉を変える。そして罪に十分に確信させられた者にとっては、キリストの良い知らせをもたらす者たちの足は美しい。いや、足枷に恥ずかしくはめられていても。[2] その問いがどれほど真剣か。救われるためには、わたしは何をしなければなりませんか。第一に、彼の救いは今や彼の大いなる関心事であり、心に最も近い。以前は最も遠い考えであったのに。昇進して、世で豊かで偉大になるためには何をすべきかではなく、救われるためには何をしなければなりませんか。第二に、彼は他の者たちについては問わない。彼らが何をすべきかではなく。自分自身について。わたしは何をしなければなりませんか。それは自分自身の尊いたましいについて彼が憂いている。他の人々は好きにすればよい。わたしが何をしなければならないか、どんな道を取るべきかを教えてください。第三に、彼は何かがなされなければならないこと、そして救いのために彼自身によってもなされなければならないことを確信している。それは当然のことのようになるもの、それ自体でなされるものではなく、努め、摔い、苦労しなければならないものであることを。彼はわたしのために何がなされ得るかとは問わない。わたしは何をすべきか、今恐れおののきの中で、わたしの救いを達成するためにと。パウロがこの獄吏のいた教会への手紙で語るように(Php 2:12)。彼が単に救いを尋ねるだけでなく(彼がしたように)、聖なるおののきをもって自分の救いを達成するべきことを示すために。おそらくここでのその震える問いに関連して。第四に、彼は何でもすることを望む。わたしが何をしなければならないか教えてください。わたしはここでそれをする用意があります。先生たち、正しい道であり、確かな道であるなら、どんなに狭く、いばらがあり、登り坂であっても、わたしはそれを歩みます。注意せよ。罪に十分に確信させられた者、自分の救いについて真剣に関心を持つ者は、イエス・キリストに無条件に降伏する。キリストに好きなことを書かせる白紙を与える。キリストをキリストの条件で喜んで持つ。いかなる条件でもキリストを喜ぶ。第五に、彼は自分が何をすべきかを知りたがり、何をすべきかを知ることを望み、教えてくれそうな者たちに尋ねる。もし尋ねるなら、尋ねよ(Isa 21:12)。シオンに向かって顔を向ける者はその道を尋ねなければならない(Jer 50:5)。自分自身では知ることができない。しかし神はその言葉によってそれを知らせ、その牧者たちを聖書を調べるのを助けるために任命し、求める者には聖霊を与えると約束された。救いの道における導き手として。第六に、彼は二人を連れ出した*。この問いをするために。その答えが強制や compulsion によるのではなく、彼らが彼に――彼は彼らの看守であったが――他の者たちと同じ自由さをもって処方できるように。彼は彼らを獄から連れ出す。彼らが彼をさらに悪い獄から連れ出すことを期待して。
(3) 彼らは非常に進んで彼が何をすべきかを教えた(Ac 16:31)。彼らは常にこのような問いに答える用意があった。寒く、痛く、眠いにもかかわらず、この cases をより都合の良い時と場所に延期せず、次の安息日に川のほとりの集会所に来るように命じず、鉄が熱いうちに打つ。彼が良い気持ちにある今、確信が薄れる前に。神が働き始められる今、神と共に働く者として出番を果たす時。彼らは彼の無作法で悪い扱いを責めない。その権限を超えたことを。これらはすべて赦され、忘れられ、彼らは最良の友に天への道を示すのと同じ喜びを持って示す。彼が震えても彼らは勝利しない。他の者たちにしたのと同じ指示を与えた。主イエス・キリストを信じなさい。まず私たちを虐待したことを悔い改めるべきだと言うべきであったと思われる。否、それは見過ごされ、容易に許される。もしその方を信じるなら。これは牧者たちの模範。penitent を励まし、キリストに来る者たちに出会い、その手を取る。自分たちへの無親切に対して厳しくせず、自分たちの誉れよりもキリストの誉れを求める。ここにすべての福音の要約がある。恵みの契約がいくつかの言葉で。*主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。*ここに、[1] 約束された幸福。あなたは救われます。永遠の滅びから救い出されるだけでなく、永遠のいのちと幸福にもたらされる。たとえあなたが貧しい人、副獄吏や鍵守りであっても、世で卑しく低い身分であっても、それはあなたの救いの妨げとはならない。大いなる罪人、迫害者であっても、あなたの忌むべき背きはキリストの功績によってすべて赦される。そしてあなたの硬く苦くなった心はキリストの恵みによって柔らかくされ、甘くされる。このようにあなたはその罪のために死ぬことも、その病気で死ぬこともない。[2] 要求された条件。*主イエス・キリストを信じなさい。*わたしたちは神がその福音において御子について与えられた証しを受け入れ、それを忠実な、すべての受入れに十分値するものとして同意しなければならない。仲保者によって世界をご自身と和解させる神の方法を承認し、提供されるままのキリストを受け入れ、自分自身をキリストに治められ、教えられ、救われるために委ねなければならない。これが救いへの唯一の道であり、確かな道。キリストによる以外に救いの道はなく、キリストによって救われるわたしたちの道はキリストを信じることによる以外になく、この道を取るなら届かない恐れはない。神が任命された道であり、約束された方は真実であるから。[3] その家族への拡張。あなたもあなたの家族も救われます。すなわち、神はキリストにおいてあなたとあなたの種の神となる。アブラハムにそうであったように。信じよ、救いはあなたの家に来る(Lu 19:9)。あなたの家の幼児の者たちはあなたと共に目に見える教会に admittance され、それによって救いへの fair な道に置かれる。成長した者たちは救いの手段をもたらされ、いくら多くても、イエス・キリストを信じるなら救われる。彼らは皆同じ条件でキリストを歓迎する。
(4) 彼らは彼とその家族にキリストの教えを教え続けた(Ac 16:32)。*主のことばを彼に語った。*彼は明らかにキリストを知らない者であったから。それゆえこのイエスが誰であるかを告げられる必要がある。彼が信じるために(Joh 9:36)。そして事の本質は小さな範囲にあるので、彼らはすぐに彼がバプテスマを受けるのが合理的な奉仕となるのに十分なことを告げた。キリストの牧者たちは主のことばをそのように ready に持ち、そのように豊かに宿らせ、救いの道における方向のために教えを望むすべての者に、その場で instruction を与えられるべき。彼らはことばを彼だけでなく、その家にいるすべての者に語った。家族の主人たちは、その配下のすべての者が知識と恵みの手段にあずかるよう配慮すべきである。主のことばが彼らに語られるように。最も貧しいしもべのたましいもその主人のものと同じくらい尊く、同じ代価で購われたから。
(5) 獄吏とその家族はすぐにバプテスマを受け、それによってクリスチャン信仰の告白を引き受け、その律法に服し、その特権にあずかった。宦官がしたように、イエス・キリストは神の子であると荘厳に宣言した上で。彼はバプテスマを受けた、彼もその家族も、すぐに。彼もその家族の誰もバプテスマの義務に入るかどうか考える時間を求めなかった。またパウロとシラスもその真実を試し、バプテスマを授けるかどうか考える時間を求めなかった。しかし恵みの御霊は彼らのうちに突如として強い信仰を働かせ、それがさらなる議論を不要にした。そしてパウロとシラスは御霊によって、それが彼らのうちに働かれた神のわざであることを知った。それゆえためらう理由はなかった。それゆえこれは普通の場合におけるそのような急ぎを正当化しない。
(6) 獄吏はここにおいてパウロとシラスに非常に敬意を払った。彼らに与えた傷害の埋め合わせをする方法を知らず、まして彼らから受けた親切の埋め合わせをする方法を知らない者として。彼はその夜の同じ時に二人を連れ出し、奥の獄にもう一分も横たえておかなかった。しかし、[1] 彼はその傷を洗った。冷やし、その痛みを和らげるために。むち打ちが fetch した血からきれいにするために。おそらく彼はある癒やしの液でそれを浴びせた。善良なサマリヤ人が傷ついた人を油とぶどう酒を注ぐことによって助けたように。[2] 彼は二人を自分の家に招き入れた。自分の best の部屋を歓迎し、自分の best の寝床を用意した。今は何も十分に良いとは思われなかった。以前は何も悪すぎることはなかったのに。[3] 彼は食事を備えた。その家が affording するものを。彼らはそれを歓迎された。それによって彼はそのたまさいが福音に与えた歓迎を表現した。二人は彼に主のことばを語り、彼とその家族にいのちのパンを裂いた。そして彼はその霊的なものからこれほど豊かに刈り取ったので、肉のものから刈り取るのが当然であると考えた(1Co 9:11)。機会があるごとに神とその民に仕えるために、わたしたちは家と食卓を何のために持っているのか。
(7) 救いの声と共に喜びの声が獄吏の家に聞かれた。これほど真に楽しい夜がそこで守られたことはなかった。*彼は神を信じて、その家族の者と共に喜んだ。*その家にバプテスマを拒み、調和の不協和音を作る者はいなかった。彼らは福音を受け入れるにおいて満場一致であった。それは喜びを大いに加えた。あるいはこう読める。彼は神を信じて、家中を喜んだ。 panoiki――すべての部屋に行き、その喜びを表現した。見よ。[1] キリストを信じることが神を信じると呼ばれる。これはキリストが神であることを示す。そして福音の計画はわたしたちを神から引く(行ってほかの神々に仕えよ、De 13:2)どころか、わたしたちを神に導く直接的な傾向を持つ。[2] 彼の信仰は喜びを生み出した。信仰によって自分自身をキリストにおいて神のものとして神に委ねた者は、喜ぶ多くの理由を持つ。宦官は回心した時、その道を喜んで進んだ。ここでは獄吏が喜んだ。国々の回心は旧約において彼らの喜びとして語られる(Ps 67:4,96:11)。信じて、言葉に尽くせない、栄光に満ちた喜びで喜ぶから。キリストを信じることはキリストにおいて喜ぶこと。[3] 彼はその喜びを周囲のすべての者に示した。その心の喜びの豊きから、その口は神の栄光のために、また神を信じる者たちの励ましのために語った。自ら宗教の慰めを味わった者は、他の者にそれを味わわせるためにできる限りをすべき。一人の喜ぶクリスチャンが多くを造るべき。
³⁵ 朝になったとき、長官たちは警官たちを遣わして、「あの人たちを釈放せよ」と言った。
³⁶ そして獄吏はこのことばをパウロに告げて、「長官たちが、あなたがたを釈放するために人をよこしました。さあ、出て、平安のうちに行きなさい」と言った。
³⁷ しかしパウロは彼らに、「彼らは、ローマ人である私たちを、裁判もせずに公衆の面前でむち打ちし、牢に入れた。それなのに今は、ひそかに私たちを追い出そうとするのか。それはいけない。彼ら自身が来て、私たちを連れ出すべきである」と言った。
³⁸ 警官たちはこれらのことばを長官たちに告げた。長官たちは彼らがローマ人であると聞いて恐れた。
³⁹ 彼らは来て、彼らに懇願し、彼らを連れ出し、町から立ち去るように頼んだ。
⁴⁰ 彼らは牢を出て、ルデヤの家に入った。そして兄弟たちに会い、彼らを慰めてから去って行った。
これらの節には次のことが記されている。
一、パウロとシラスが牢から釈放されるための命令が送られたこと(使徒16:35,36)。1. 前日に彼らをあれほど卑劣にも虐待した長官たちが、命令を発した。そして「朝になるとすぐ」これを行ったことは、真夜中に感じた恐ろしい地震が囚人たちのために弁明することを意図したものであったか、あるいは自分たちのしたことに良心の責めを感じ、非常に不安であったことを示唆している。迫害されていた者たちが足かせの中で賛美している間、迫害した者たちは心の苦しみのために寝床で転げ回り、囚人たちが背中の鞭打ちについて訴えた以上に、良心の鞭打ちについて訴えていた。そして彼らが釈放を求める以上に急いで彼らを釈放しようとした。今や神はご自身のしもべたちを「捕らえ移した者たちにあわれまれるようにされた」(詩篇106:46)。長官たちは「警官」――ギリシャ語の「ラブドゥコス」すなわち「棒を持つ者」、廷吏、警吏、執達吏、彼らをむち打つために用いられた者たち――を遣わし、彼らに謝罪させようとした。命令は「あの人たちを釈放せよ」であった。彼らは彼らにさらに危害を加えようと企てたかもしれないが、神は彼らの心を変えられた。神がこれまで彼らの怒りを賛美させるようにされたように、その残りの部分は神が抑制されたのである(詩篇76:10)。2. 獄吏が彼らにその知らせをもたらした(使徒16:36)。「長官たちが、あなたがたを釈放するために人をよこしました」。獄吏が夜明けに長官たちへ、その夜に彼の家で起こったことを報告し、囚人たちの釈放の命令を得たと考える者もある。「さあ、出て行きなさい」。それは彼が客として彼らと別れることを望んだのではなく、囚人としての彼らと別れることを望んだからである。彼らは引き続き彼の家を歓迎するが、足かせから解放されて喜んでいる。神は恵みにより、獄吏を変えられたのと同じように容易く長官たちをも変え、彼らを信仰とバプテスマに導くことがおできになった。しかし神は「この世の貧しい者を選ばれた」のである(ヤコブ2:5)。
二、パウロが、長官たちの犯した特権侵害を主張したこと(使徒16:37)。パウロは警官たちに言った。「彼らは、ローマ人である私たちを公衆の面前でむち打ちし、すべての法と正義に反して牢に入れ、今はひそかに私たちを追い出し、なされた危害の埋め合わせをこれでしようとしているのか。いや、断じてそうではない。彼ら自身が来て、私たちを連れ出し、私たちに不当な扱いをしたことを認めるべきである」。おそらく長官たちは彼らがローマ人であるという暗示を受け、自分たちの激昂が法の許容範囲を超えていたことに気づいていた。そしてこれが彼らの釈放を命じた理由であった。さて、次のことを観察せよ。
1. パウロはむち打たれる前にこのことを主張しなかった。それはおそらく防げたはずであったのに、彼が語った真理のために苦しむことを恐れるように見えるのを避けるためであった。キケロはウェルレス弾劾の演説の中で、ガニウスという人物について語っている。彼はウェルレスによってシチリアでむち打たれるよう命じられ、鞭の下にあった間、「私はローマ市民である」と叫び続けた。パウロはそうしなかった。彼は苦しみの中で慰める、これより高貴な事柄を持っていた。
2. 彼は事後にこれを主張した。それは自分の苦難と、自分が苦しんでいる大義とに名誉を与え、福音の宣教者たちが一般に見なされているような軽蔑すべき者ではないこと、そして彼らがより良い取り扱いに値することを世に知らせるためであった。彼はまた、ピリピの長官たちをクリスチャンに対して穏やかにし、彼らにより良い取り扱いを得させ、人々の心にキリスト教に対するより良い意見を生じさせるためにもこれを行った。パウロが長官たちに対して有利な立場にあり、彼らを訴えてその所業の責任を問うことができたのに、その有利な立場を利用しなかったのを人々が見たとき――これは彼が呼ばれたその尊い御名の誉れに大いにかなうことであった――。ここにおいて、
(1.) パウロは彼らがいくつの点で法を犯したか、そして彼がそれを知るのに十分な法律知識を持っていることを告げた。[1.] 彼らはローマ人を「むち打った」。シラスもパウロと同様にローマ市民であったと考える者もいる。これが必然的に従うとは限らないとする者もある。パウロは市民であり、シラスは彼の同僚であった。さて、「プロキア法」と「センプロニア法」はともに、「ローマ市民の自由な体を棒やその他のむちで打つことはできない」と明示的に禁じていた。ローマの歴史家は、ローマ市民への侮辱のために特許状を剥奪された都市の例を挙げている。後にパウロがこの訴えを用いるのを見ることになる(使徒22:25,26)。キリストの使い手であり天の寵愛を受ける者たちをむち打ったと告げても、彼らには何の影響もなかったであろう。しかしローマ市民を虐待したと告げれば、彼らを恐怖に陥れる。人々がキリストの怒りよりもカイザルの怒りを恐れるのはこれほど普通のことである。たとえ無知に、誤ってであれ、ローマ人、紳士、貴族を侮辱する者は、「私は間違った」と叫んで謝罪することを自分の務めと思う。しかしキリストのゆえにクリスチャンを迫害する者は、神が「彼らに触れる者は私の瞳の黒目に触れる」と言われ、キリストが「小さい者たちのひとりをつまずかせる」危険について警告されたにもかかわらず、これに固執し、安全にこれを行えると思っている。[2.] 彼らは彼らを「裁判もせずに」むち打った。「公平な尋問なしに」、彼らに対して言われたことを静かに調べることもせず、まして彼らが自分たちのために何を言うかを問うこともなかった。正義の普遍的な規則は、「尋問の結果多くの者が無罪とされ得るが、尋問なしには誰も有罪とされることはできない」である。もしキリストのしもべたちと彼らの大義が公平な裁判を受けられたなら、彼らが受けたような虐待はされなかったであろう。[3.] 彼らがこれを「公然と」行ったことが、このことを悪化させる事情であった。それは苦しむ者にとってそれだけ大きな恥辱であったと同時に、正義と法に対するそれだけ大胆な挑戦であった。[4.] 彼らは彼らを「牢に入れた」。身柄拘束の理由を何も示さず、口頭の命令で恣意的に行った。[5.] 彼らは今や「ひそかに私たちを追い出そうとしている」。彼らは自分たちのしたことに固執する厚かましさはなかったが、自らの過ちを認める誠実さも持たなかった。
(2.) 彼らは彼らの過ちを認め、公の釈放を与えるべきことを主張した。公の恥辱を与えたように、公の名誉を与えることで釈放を立派なものにするためであった。「彼ら自身が来て、私たちを連れ出し」、私たちの無実と、むちや縛めに値するようなことは何もしていないというあかしを立てるべきである」。パウロがこのように頑なに主張したのは名誉の問題ではなく、正義の問題であり、自分自身のためというよりも、自分の大義のためであった。「彼ら自身が来て、私たちが町を騒がす者ではないことを告白することで、民衆の叫びを止めてほしい」。
三、長官たちの服従と、パウロとシラスに対する判決の取消し(使徒16:38,39)。1. パウロがローマ人であると告げられたとき(おそらく以前から知っていたであろうが)、長官たちは恐れた。彼らの友人の誰かが政府に彼らのしたことを知らせ、そのことで彼らがより悪く扱われるのではないかと恐れたのである。迫害者たちの手続きはしばしば国際法によっても違法であり、しばしば自然法に反して非人道的であった。しかし常に罪深く、神の法に反するものであった。2. 彼らは「来て、彼らに懇願し」、彼らに対して法を利用しないようにと頼み、彼らのしたことの違法性を見過ごし、もうこれ以上言わないでほしいと頼んだ。彼らは「彼らを牢から連れ出した」、不当に入れられたことを認め、彼らが平和的に静かに「町から立ち去る」ようにと願った。このように、神とモーセを侮ったパロとその家来たちも、モーセのところに来て「彼にひれ伏し、『出て行ってください』と言った」(出エジプト11:8)。神はご自身の民の敵を、そのねたみと敵意を恥じ入らせることがおできになる(イザヤ26:11)。エルサレムは時に、それを持ち上げようとする者にとって重い石となり、彼らは喜んでそれを取り除きたいと思う(ゼカリヤ12:3)。しかし、もしこれらの長官たちの悔い改めが真摯なものであったなら、彼らは彼らに町を出ることを願わず(ゲラサ人がキリストを追い払いたがったように)、彼らの滞在を懇願し、救いの道を示してもらうよう、彼らの町に留まるように頼んだであろう。しかし、キリスト教が迫害されるべきでないことは確信しつつも、それが受け入れられるべきであるとか、少なくともそれを受け入れるよう説得されることのない者が多い。彼らはキリストとそのしもべたちに敬意を払うことを強いられ、「彼らの足もとにひれ伏し、神が彼らを愛されたことを知る」(黙示録3:9)のであるが、それでもキリストによる恵みを受けること、あるいは神の愛にあずかるまでには至らない。
四、パウロとシラスがピリピを去ったこと(使徒16:40)。彼らは法的に釈放されたとき、不当に拘束されていたにもかかわらず、そのとき初めて牢を出た。そして、1. 友人たちに別れを告げた。彼らは「ルデヤの家に行った」。おそらく弟子たちはそこに集まって彼らのために祈っていた。そこで彼らは「兄弟たちに会い」、あるいはそれぞれの家を訪問した(彼らは少数であったのですぐに済んだ)。そして彼らを「慰めた」。古いギリシャ語注解によれば、神が彼らのためにされたことと、獄中で彼らをどのように認めてくださったかを彼らに告げたのである。彼らはキリストにしっかりと従い続け、どんな困難に直面しようとも信仰の告白を堅く守るよう励ました。すべてが最終的に、永遠に良く終わることを彼らに保証した。若い改宗者には慰めるために多くのことが語られるべきである。「主の喜びは彼らの力となる」からである。2. 彼らは町を去った。「彼らは出発した」。これを行ったことは不思議に思われる。なぜなら、今や不当な拘禁からこのように名誉ある釈放を得たのだから、少なくともしばらくは危険なく働きを続けられたはずだからである。しかし私は、彼らが主の原則に従って去ったと思う(マルコ1:38)。「次の町へ行こう。そこでも宣教しよう。わたしはそのために出てきたのだから」。パウロとシラスはピリピに対して特別な召しを受けていた。しかしそこに着いてから、働きの実をほとんど見ず、間もなく追い出された。それでも彼らは無駄に来たのではなかった。ここの始まりは小さかったが、「後には大いに増し加わった」。今や彼らはピリピに教会の土台を据え、それは非常に際立ったものとなり、監督と執事を持ち、パウロの手紙(ピリピ人への手紙1:1、4:15-16参照)が示すように、ほかのどの教会よりもパウロに寛大な民を持つようになった。たとえ労苦の実をすぐに見なくても、牧師たちが落胆してはならない。蒔かれた種は土の塊の下で失われたように見えるが、時が来れば豊かな収穫として再び立ち上がるのである。
バルナバにとってある叱責となるのは、彼がパウロを離れた後は、彼がキリストのために何をしたか、何を苦しんだかについて、もはや聞かれないことである。しかしパウロは、兄弟たちによって神の恵みに推薦されたように、これ以降のキリストへの奉仕が詳しく記録されている。我々はこの章で彼に従って、彼が良いことをしながら場所から場所へと向かう。どこに行っても、水を注ぐか植えるか、新しいわざを始めるか、なされたものを改良するかであった。ここには次の事柄がある。一、テモテとの知り合いの始まりと、彼を助手として迎えたこと(使徒16:1-3)。二、彼が教会の確立のためにした訪問(使徒16:4,5)。三、マケドニヤへの招き(他のいくつかの場所に行くことから彼が禁じられた後)、およびマケドニヤの主要な都市ピリピへの到着と、そこでのもてなし(使徒16:6-13)。四、そこでのルデヤの回心(使徒16:14,15)。五、一人の娘から出た悪霊の追い出し(使徒16:16-18)。六、そのことのゆえにパウロとシラスが告発され、乱暴に扱われ、投獄され、屈辱を受けたこと(使徒16:19-24)。七、獄吏が奇蹟的にキリストの信仰に回心したこと(使徒16:25-34)。八、長官たちによるパウロとシラスの名誉ある釈放(使徒16:35-40)。