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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Acts 8章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

無題

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この章には、キリスト者たちの迫害と、それによってキリスト教が広められたことが記されている。奇妙ではあるが、まことに真実であった。キリストの弟子たちは、苦しめられれば苦しめられるほど、ますます増え広がった。一、ここに苦しむ教会がある。ステパノを死に渡したことをきっかけとして、非常に激しい嵐が起こり、多くの者をエルサレムから追い出した(使徒8:1-3)。二、ここに、その機会に散らされたピリポや他の者たちの奉仕によって広がる教会がある。ここには次の事柄が記されている。1. サマリヤに福音がもたらされ、そこで宣べ伝えられ(使徒8:4,5)、そこで受け入れられ(使徒8:6-8)、魔術師シモンによってさえ受け入れられたこと(使徒8:9-13)。信じたサマリヤ人たちの何人かに、ペテロとヨハネの按手によって聖霊の賜物が与えられたこと(使徒8:14-17)。そして、その賜物を授ける力をお金で買おうとした魔術師シモンに対し、ペテロが厳しく責めたこと(使徒8:18-25)。2. 福音がエチオピヤに送られたこと。その国の身分ある人である宮廷宦官によって。彼は戦車に乗ってエルサレムから帰る途中であった(使徒8:26-28)。ピリポが彼のところに遣わされ、彼の戦車の中で彼にキリストを宣べ伝え(使徒8:29-35)、彼がキリスト教の信仰を告白したので彼にバプテスマを授け(使徒8:36-38)、彼を去った(使徒8:39,40)。このように異なる方法と道によって、福音は諸国民の間に散らされ、何らかの形で「彼らはみな聞いたのではないか」となる。

Acts 8章 1-3 Matthew Henry's Complete Commentary

Persecution of the Church

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教会に対する迫害

1 サウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する大迫害が起こり、使徒たちのほかはみな、ユダヤとサマリヤの全地方に散らされた。
2 さて、信仰深い人たちがステパノを葬り、彼のために大きく嘆き悲しんだ。
3 サウロは教会を荒し回り、家々に押し入って、男女を引きずり出して、牢に投じた。

これらの節においてわたしたちは次のことを見る。

一、ステパノとその死についてのさらなること。人々がそれにどういう態度を取ったか。一般にそのような場合、事柄に対する人々の異なる感情に応じて、様々であった。キリストは別れるときに弟子たちに言われた(ヨハネ16:20)、「あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶであろう」。それに従ってここにあるのは、1. ステパノの死を喜んだ者が一人いた。おそらく多くの者がそうであったが、特に一人、それはサウロ、後のパウロであった。彼は彼の死に賛成した。syneudokon—喜んで同意した(ことばはそう意味する)。彼はそれに満足した。彼はこの血なまぐしい光景で目を満たした。それがキリスト教の成長を止めるであろうと期待して。パウロがルカにこれを挿入するよう命じた理由がある。自分自身への恥として、自由な恵みへの栄光として。このように彼は自分がステパロの血に対して有罪であることを認め、次のことによってそれを重くする。すなわち彼が後悔と嫌悪をもってではなく、喜びと十分な満足をもってそれをしたこと。そのような事をする者たちだけでなく、それをする者たちを喜ぶ者たちのように。2. ステパノの死を嘆き悲しんだ他の者たち(使徒8:2)。信仰深い人たち。ある者はこれを本来そう呼ばれた者たち、すなわち改宗者たちと理解する。その一人にステパノ自身もおそらく属していた。あるいは、より広く取ることもできる。教会の中で他の者たちよりも信仰深く熱心であった何人かが行って、貧しく押しつぶされ砕かれた遺骸を集め、それにきちんとした埋葬を与えた。おそらく以前に旅人を葬るために買われた血の地に。彼らは彼を荘厳に葬り、彼のために大きく嘆き悲しんだ。彼の死は彼自身には大きな益となり、教会には大きな奉仕となったが、彼らはそれを一般的な損失として嘆いた。それほどに彼は奉仕のために良く適格であり、執事としても論争者としても有用であることが期待されたからである。そのような人々が取り去られるとき、それが心に留められないのは悪い兆候である。それらの信仰深い人々はステパノにこれらの最後の敬意を払った。(1) 彼らが彼が苦しみのためのその大義を恥じていないこと、またその敵である者たちの怒りを恐れていないことを示すため。というのは、彼らが今勝ち誇っても、その大義は正しい大義であり、ついには勝利する大義だからである。(2) 彼らがこのイエス・キリストの忠実なしもべ、福音の最初の殉教者に対して抱いていた大きな価値と尊敬を示すため。その記憶は彼らにとって常に尊い。彼の死の恥辱にもかかわらず。彼らは神が誉れを与えられた者に誉れを与えるよう努める。(3) 死者の復活と、来たるべき世のいのちに対する彼らの信仰と希望を証しするため。

二、ステパノの殉教ののちに始まるこの教会の迫害についての記述。ユダヤ人たちの激怒がステパノに対してこれほどの激しさと高さに達したとき、それは直ちに止まることも、使い果たすこともできなかった。血を流す者は聖書でしばしば血に飢えた者と呼ばれる。血を味わうと、さらに渇くからである。ステパノの死に際の祈りと死に際の慰めが彼らを打ち負かし、クリスチャンとキリスト教についてのより良い意見に彼らを溶かしたであろうと思われた。しかしそうはならなかったようである。迫害は続く。彼らは何の勝利も得られないのを見て、いっそう激怒した。そして神ご自身に勝つことを望むかのように、打撃を続けることを決意した。おそらく、ステパノを石で打ったからといってその場で死に打たれる者がいなかったので、彼らの心は悪を行うことにいっそう堅く定まった。おそらく弟子たちも、ステパノがいかにも勝利をもってその道を全うしたのを見て、彼と同じように彼らに反論するのにいっそう大胆になり、それが彼らをいっそう激怒させたのであろう。観察せよ。

1. この迫害が誰に対して起こされたか。それはエルサレムの教会に対してであった。その教会は植えられるやいなや迫害された。キリストが、みことばのゆえに患難と迫害が起こるとしばしば示唿したように。またキリストは特に、エルサレムが間もなく彼の従者たちには暑すぎるようになると予告された。その都市は預言者たちを殺し、遣わされた者たちを石で打つことで有名であったからである(マタイ23:37)。この迫害で多くの者が死に渡されたと思われる。パウロはこの時死に至るまでこの道を迫害したと認めている(使徒22:4)。また(使徒26:10)彼らが死に渡されるとき、彼は彼らに反対する票を投じた。

2. 誰がその中で活動的な者であったか。サウロほど熱心で忙しい者はいなかった。若いパリサイ人(使徒8:3)。サウロについては(前に二度言及され、今や悪名高い迫害者としてふたたび)彼は教会を荒し回った。彼はそれを荒廃させ、破壊するためにできる限りのことをした。彼はキリストの弟子たちにどれほどの危害を与えても気にせず、いつ止まるべきかも知らなかった。彼は福音のイスラエルを断ち切り、その名がもはや記憶されないようにすることだけをねらった(詩篇83:4)。彼は大祭司たちが自分たちの目的に仕えるために見出すことのできた最も適した道具であった。彼は弟子たちに対する一般の密告者であり、集会を捜し、その道に好意的であると疑われるすべての者を押収するために用いられる大議会の使者であった。サウロは学者、紳士として育てられたが、そのような最も卑しいわざに用いられることを卑しいと思わなかった。(1) 彼は家々に押し入った。夜であれ昼であれ、戸を打ち破ることをためらわず、そのために彼についてくる力を持っていた。彼らが集会を持つのに用いた家々、あるいはクリスチャンがいる、あるいはいると思われる家々におのおの押し入った。自分の家が自分の城であっても、誰も安全ではいなかった。(2) 彼は、最もののしりと残酷さをもって、男女を引きずり出し、弱い性の柔らかさに全く配慮せずに、彼らを通りで引きずり回した。彼は福音によってパン種を持たされた最も卑しい者たちをも取り上げるほどまで低く身を下げた。それほどまでに彼は偏狭であった。(3) 彼は彼らを、さばかれ、死刑にされるために牢に投じた。彼らがキリストを否まない限り。そしてある者たちは、彼によって神をけがすことを強いられたことがわかる(使徒26:11)。

3. この迫害の結果は何であったか。彼らはみな散らされた(使徒8:1)。すべての信者ではなく、主にねらわれ、彼らを捕らえるために令状が出されたすべての宣べ伝える者たち。彼らは、わたしたちの主の規則(彼らが一つの町で迫害するとき、他の町へ逃げよ)を思い出し、ユダヤとサマリヤの全地方に互いの同意によって散った。それほどまでに苦しみを恐れたからではない(ユダヤとサマリヤはエルサレムからそれほど遠くないので、もし彼らが決心したようにそこで公に現れたなら、彼らの迫害者の力はそこにまで及んだであろう)。むしろこれを散らすための摂理の示唆と見なしたからである。彼らのわざはエルサレムではかなりよく果たされた。そして今や他の場所の必要を考える時であった。彼らの主が、彼らはまずエルサレムで、次にユダヤ全土とサマリヤで、次に地の果てまで(使徒1:8)自分の証人とならなければならないと告げていたからであり、彼らはこの順序を守る。迫害はわたしたちをわざから遠ざけるかもしれないが、摂理の合図として、他で働くためにわたしたちを送るかもしれない。宣べ伝える者たちはみな散らされた。使徒たちのほかは。おそらく彼らは、しばらくの間エルサレムに留まるよう御霊に導かれた。神の特別な摂理によって嵐から守られ、神の特別な恵みによって嵐に立ち向かう力を与えられて。彼らはエルサレムに留まった。氷を砕くために遣わされた他の宣べ伝える者たちによって最も必要とされる助けに行く用意ができるため。キリストがご自身が行こうと計画された場所へ弟子たちを行かせたように(ルカ10:1)。使徒たちは、すべての世界に行き、すべての国民を弟子とするという命令と委任を考えれば、驚くほど長くエルサレムに共に留まった。使徒15:6、ガラテヤ1:17を見よ。しかしそれでも、彼らが遣わした福音伝道者たちによってなされたことは、彼らによってなされたと見なされた。

Acts 8章 4-13 Matthew Henry's Complete Commentary

The Spreading of the Gospel; Philip's Success

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福音の拡散、ピリポの成功

⁴ それで、散らされた人々は出て行き、あちこちでみことばを宣べた。 ⁵ ピリポはサマリヤの町に下って行き、彼らにキリストを宣べた。 ⁶ 群衆はみな一つになって、ピリポの語ることに耳を傾けた。彼のなした奇跡を聞きまた見たからである。 ⁷ 汚れた霊が大声で叫びながら、それにつかれていた多くの人から出て行った。また、中風や足の不自由な多くの人がいやされた。 ⁸ その町には大きな喜びがあった。 ⁹ さて、その町にシモンという人がいた。以前からこの町で魔術を行ってサマリヤの人々を驚かせ、自分は偉大な者だと言いふらしていた。 ¹⁰ 人々は小さい者から大きい者までみな彼に心を寄せ、「この人は大能なる神の力だ」と言っていた。 ¹¹ 人々が彼に心を寄せたのは、彼が長い間魔術で彼らを驚かせていたからである。 ¹² しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じたとき、男も女もバプテスマを受けた。 ¹³ シモン自身も信じてバプテスマを受け、ピリポと一緒にいた。奇跡としるしが行われるのを見て驚いたからである。

サムソンのなぞなぞがここでも再び解かれる。強きから甘きが、食らう者から食物が出る。教会を根絶しようと企てた迫害は、神の至上の摂理によって教会拡大の機会とされた。キリストはわたしは地上に火を投げるために来たと言われた。彼らはその火で燃えた人々を散らすことによって火を消そうとした。しかしそれによって彼らは火を広めるのに役立ったにすぎない。

一. ここには彼らすべてのなしたことの概要がある(使 8:4)。彼らは出て行き、あちこちでみことばを宣べた。彼らは苦難を恐れて身を隠しに行ったのではない。いや、自分たちの苦難を誇るためでもない。彼らは上へ下へと歩き回り、自分たちが散らされたあらゆる場所でキリストの知識を撒き散らした。彼らはどこへでも行った。以前は禁じられていた異邦人の道や、サマリヤ人の町々にも(マタイ 10:5)。彼らは一団となって集まったままでなかった。それは彼らの力になったであろうに。しかし彼らはあらゆる地方に散り、安息のためではなく、働きを見出すために。彼らは世界に福音を宣べ伝え、福音のことばを宣べた。これが彼らを満たし、彼らが国を満たそうと努めたものであった。説教者たちは説教によって、他の人々は日常の交わりによって。彼らは今や見知らぬ国にいたのではない。キリストとその弟子たちはユダヤ地方で多く交わっていた。それゆえ彼らのために基礎が据えられており、そこに建て上がることができた。そして少し前にイエスがそこで宣べた教えが今どうなったか、失われ忘れられたのでないかと信じさせられていたかもしれない人々に、それがそうでないことを知らせる必要があった。

二. ピリポのなしたことの特別な記録。他の人々の進展と成功については後で聞くことになろう(使 11:19)が、ここではピリポの動きに注目しなければならない。使徒ピリポではなく、執事ピリポである。彼は食事の奉仕のために選ばれ按手されたが、執事の務めをよく果たして、良い立場と信仰における大きな大胆さを得た(Ⅰテモテ 3:13)。ステパノは殉教者の位に進み、ピリポは伝道者の位に進んだ。彼はそれに従事するにあたり、ことばと祈りに身をささげるよう求められたので、疑いなく執事の職から解かれた。サマリヤで説教しているのに、その職によってエルサレムで食事の奉仕をする義務があろうか。おそらくステパノとピリポの代わりに他の二人が選ばれたのであろう。次のことを観察せよ。

1. ピリポの説教にいかに素晴らしい成功があり、いかなる受け入れがあったか。

(1) 彼が選んだ場所はサマリヤの町であった。サマリヤの首府、その国の中心都市。かつてサマリヤの町があった所にあり、その建設についてはⅠ列王 16:24に記されている。現在はセバステと呼ばれていた。ある人々はそれがシケムすなわちスカルであり、キリストがいたサマリヤの町と同じであると考える(ヨハネ 4:5)。その町の多くの人々が当時キリストを信じた。キリストは彼らの中に奇跡を何も行われなかったのに(使 8:39,41 がこれと言及するが、これは誤りであろう、実際にはヨハネ 4 章のこと)。三年後、ピリポは当時始められたわざを続けた。ユダヤ人はサマリヤ人との交わりを持たなかった。しかしキリストはご自身の福音を、すべての敵意を、特にユダヤ人とサマリヤ人の間の敵意を打ち砕くために送り、彼らを一つとされた。

(2) 彼が宣べた教えはキリストであった。彼はほかの何も知ろうと決心しなかった。彼は彼らにキリストを宣べた。キリストを彼らに告げ知らせた(その言葉はそういう意味である)。王が王位に就くとき、その領土全体で宣言されるように。サマリヤ人はメシアの到来を期待していた。それはヨハネ 4:25 によって分かる。さてピリポは彼らに、彼が来たこと、そしてサマリヤ人も彼に迎えられることを告げる。牧者の務めはキリストを宣べ伝えることである。十字架につけられたキリスト、栄光を受けたキリストを。

(3) 彼が教えの確証のために提示した証拠は奇跡であった(使 8:6)。彼が天からの委託を受けていること(それゆえ彼らは彼の語ることに信頼できるだけでなく、それに服する義務がある)を確信させるため、彼は真理の神が決して偽りに付けない天の大いなる封印を彼らに示した。奇跡は否定できないものであった。彼らは彼の行った奇跡を聞きまた見た。彼らは彼の命じることばを聞き、その驚くべき結果をすぐに見た。彼が語ると、事が成った。奇跡の性質は彼の委託の意図にふさわしく、それに光と輝きを与えた。[1] 彼はサタンの力を打ち砕くために遣わされた。そのしるしとして、主イエスの御名によって去るよう命じられると、汚れた霊がそれらにつかれていた多くの人から出て行った(使 8:7)。福音が進むところ、サタンは人々に対する支配と関心を放棄せざるを得ない。そして彼が占有していた間は正気を失っていた人々が、自分自身と正気に戻る。福音が本来受けるべき受け入れと服従を得るところ、悪霊は追い出され、特に汚れた霊、すなわち魂に逆らう肉の欲へのすべての傾向が追い出される。神が私たちを聖めへ、汚れから召されたからである(Ⅰテサロニケ 4:7)。これは人々の体からこれらの汚れた霊が追い出されることによって示された。ここで彼らは大声で叫びながら出て行ったとある。それは彼らが非常にしぶしぶ、極めて不本意ながら出て行ったことを示す。しかしそれは優った力によって打ち勝たれたことを認めざるを得なかった(マルコ 1:26, 3:11, 9:26)。[2] 彼は人の心をいやし、病んだ世界を治し、それを健康な状態に置くために遣わされた。そのしるしとして、中風の者や足の不自由な多くの人がいやされた。最も自然の経過では治りにくい病気が指定されている(それによって奇跡のいやしがいっそう顕著になるため)。また罪の病と、神への奉仕に関して人の魂が負っている道徳的無力を最もよく表す病気が。福音における神の恵みは、霊的に足の不自由で中風の者、自分で助けられない者のいやしのために定められている(ローマ 5:6)。

(4) このように確証されたピリポの教えがサマリヤで受けた受け入れ(使 8:6)。群衆はみな一つになって、ピリポの語ることに心を向けた。最初は注目を得るために役立った奇跡によって導かれ、次第に同意を得るために。人々が自分の魂と永遠に関する事柄について語られることに注意を払い始めるとき、すなわち神のことばに、それを聞いて喜ぶ者として、理解し記憶することを願い、自分たちが関係していると見なす者として心を向け始めるとき、そこに人々についての何らかの希望が生まれ始める。庶民はピリポに心を向けた。hoi ochloi――群衆が。あちこちの一人や二人ではなく、一つになって。彼らは皆心を一つにした。福音の教えは吟味されるべきであり、それに公正な聞き入れがなされるべきだということに。

(5) 彼らがピリポの説教に聞き従い、それに注意を払うことにおいて得た満足、そして多くの人々におけるその成功(使 8:8)。その町には大きな喜びがあった。なぜなら(使 8:12)彼らはピリポを信じ、バプテスマを受けた。キリストの信仰に入れられて。彼らの大多数が、男も女も。次のことを観察せよ。[1] ピリポは神の国に関する事柄を宣べた。その国の構成、その律法と定め、その自由と特権、そして私たちが皆その国の忠実な民となるべき義務。そして彼はイエス・キリストの御名を、その国の王として宣べた。すべての名にまさる御名を。彼はその命令する力と影響力においてそれを宣べ伝えた。それによって彼がご自身を現されたすべてを。[2] 人々は彼の語ることに心を向けただけでなく、ついにそれを信じた。それが人からではなく神からであると完全に確信し、自分たちをその導きと支配にゆだねた。彼らがこれまで神を礼拝し、多くの宗教を置いてきたこの山については、彼らは今やかつてそれに執着していたのと同じくらいそこから離れた。そして真の礼拝者となり、御霊と真理によって、真の神殿であるキリストの御名において父を礼拝する者となった(ヨハネ 4:20-23)。[3] 彼らは信じたとき、ためらうことなく(彼らはサマリヤ人であったのに)、遅れることなくバプテスマを受けた。公にキリスト教の信仰を告白し、それに固く立つことを約束し、水によって洗われてキリスト教会の交わりに荘厳に入れられ、弟子たちによって兄弟として認められた。男子のみが割礼によってユダヤ教会に入ることができた。しかしキリスト・イエスにあっては男も女もなく(ガラテヤ 3:28)、両者が同じように彼に迎えられることを示すため、入りの儀式は女性も受けることのできるものである。彼女らは肉的なイスラエルではなく(民数 1:2)、霊的なイスラエルに数えられるからである。それゆえ、女性が主の晩餐にあずかることを認められるべきであることは容易に導かれる。それが最初に執行された相手の中に女性がいたかどうかは分からないが。[4] これは大きな喜びをもたらした。各人は自分のために喜んだ。畑に隠された宝を見つけた人のように。そして彼らは皆、自分たちの町にもたらされた祝福のために、また反対なしにそれが来たことを喜んだ。もしサマリヤが祭司長たちの管轄下にあったなら、反対なしには来なかったであろう。次のことに注意せよ。福音がどこにもたらされることは、その場所にとって喜び、大きな喜びの正当な理由である。それゆえ世界における福音の拡散は、しばしば旧約聖書で国々の中に喜びが広がることとして予言されている。国々よ、喜び、喜んで歌え(詩 67:4、Ⅰテサロニケ 1:6)。キリストの福音は人を憂鬱にするのではなく、受けるべきように受け入れられるなら喜びで満たす。それはすべての民への大きな喜びの良きおとずれだからである(ルカ 2:10)。

2. このサマリヤの町に、福音の成功を並外れて素晴らしいものにした特別な事情が何であったか。

(1) シモン・マグスがそこで活動し、人々の間に大きな影響力を得ていたにもかかわらず、彼らはピリポの語ることを信じたこと。悪いものを学び直すことは、良いものを学ぶことより難しいことがしばしばある。これらのサマリヤ人は、異邦人のように偶像礼拝者ではなく、父祖から受けた伝統によって福音に対する偏見もなかった。しかし最近、魔術師シモン(Magusはそういう意味である)に引かれて従った。彼は彼らの中で大いに騒ぎ立て、不思議にも彼らを驚かせた。次のことが語られている。

[1] この大いなる欺瞞者の関心に彼らを引き込んだサタンの欺瞞がいかに強力であったか。彼はしばらくの間、いや長い間この町にいて魔術を行っていた。おそらく彼は救い主がそこに行かれた後すぐに、悪魔の唆しによって、彼がそこで行ったことを取り消すために来たのであろう。良いわざをその芽と初期のうちに打ち砕くのは常にサタンのやり方であったから(Ⅱコリント 11:3、Ⅰテサロニケ 3:5)。さて、

第一に、シモンは相当なことを自分に仮定した。彼は自分が偉大な者であると言いふらした。すべての人々にそう信じさせ、それに応じて敬意を払わせようとした。そして他のすべてのことについては、彼らの好きにさせた。彼らの生活を改めたり、彼らの礼拝と信心を深めたりする意図はなかった。ただ彼らに、自分がtis megas――ある神聖な人物であると信じさせることだけを。ユスティヌス・マルティルは、彼がproton theon――最高神として礼拝されようとしたと言う。彼は自分を神の子、メシアであると言いふらした、とある人々は考える。あるいは御使い、あるいは預言者として。おそらく彼自身、どの名誉の称号を主張すべきか確信がなかった。しかしある偉大な者と思われたかった。高慢、野心、偉大さへの愛着は、常に世界と教会に多くの危害の原因であった。

第二に、人々は彼が望むものを彼に帰した。1. 彼らはみな、小さい者から大きい者まで彼に心を寄せた。若い者も年をとった者も、貧しい者も富んだ者も、支配者も支配される者も。彼らは彼に敬意を払った(使 8:10,11)。おそらくメシアの到来のために定められた時が今や過ぎぎ、この頃何か偉大な者の現れが一般に期待されていたためであろう。おそらく彼は彼らの国の出身であり、それゆえ彼らはいっそう喜んで彼を受け入れた。彼に誉れを与えることによって自分たちにそれを反映させようとしたのである。2. 彼らは彼について言った。この人は神の大いなる力である――神の力、大いなる力(そう読める)。世界を造った力。次のことを見よ。無知で軽率な人々が、サタンの力によってなされることを、まるで神の力によってなされるかのように誤解する様子。こうして異邦人の世界では、悪霊が神々として通用する。また反キリストの国においては、全世界は獣をあとに従い、竜が自分の力を与え、神に対して冒涜の口を開く獣を(黙示 13:2-5)。3. 彼らは彼の魔術によってそれに導かれた。彼はサマリヤの人々を驚かせた(使 8:9)。魔術で彼らを驚かせた(使 8:11)。すなわち、(1) 彼の魔術によって人々の心を惑わした。少なくともそのうちの何人かを。彼らが他の人々を引き込んだ。サタンは神の許しによって、彼らの心にシモンに従うように働きかけた。おろかなガラテヤ人よ、とパウロは言う。誰があなたがたを惑わしたのか(ガラテヤ 3:1)。これらの人々はシモンによって惑わされたと言われる。彼らが偽りを信じるためにこれほど不思議に愚かになったからである。あるいは、(2) 彼の魔術によって多くのしるしと偽りの不思議を行った。奇跡のように見えたが、実はそうでなかったもの。エジプトの魔術師たちのものや、罪の人のもののように(Ⅱテサロニケ 2:9)。彼らがもっとよく知らなかったときは、彼の魔術に影響された。しかしピリポの真の奇跡に触れると、一方は真実、もう一方は偽物であることがはっきり分かった。アロンの堅杖と魔術師たちのものとの間に大きな違いがあったように。もみがらは麦に何になろうか(エレミヤ 23:28)。

このように、シモン・マグスが彼らに及ぼした影響にもかかわらず、また人々には自分の誤りを認め、それを撤回することに一般的に気が進まないにもかかわらず、シモンとピリポの違いを見たとき、彼らはシモンを捨て、もはや彼ではなくピリポに心を向けた。そしてこのように、

[2] 真理そのものであるキリストに、大いなる欺きを解く方として彼らをもたらした神の恵みの力がいかに強力であったか。その恵みがことばと共に働くことによって、サタンに捕らえられていた人々がキリストへの服従にもたらされた。サタンが武装した強者として宮を占領し、安全であると思っていた所に、彼より強い方としてキリストが彼を追い出し、略奪品を分けた。捕われを捕らえて行き、悪魔が勝利した人々をキリストの勝利の戦利品とした。シモン・マグスに惑わされた者たちでさえ信じるにもたらされたのだから、最悪の場合でも絶望してはならない。

(2) ここにもう一つのさらに素晴らしいことがある。シモン・マグス自身が、しばらくの間、見せかけと告白においてキリストの信仰に改宗したこと。サウルも預言者の中にいるのか。そうである(使 8:13)。シモン自身も信じた。彼はピリポが真の教えを宣べたと確信した。それが真の奇跡によって確証されたのを見たからである。彼は自分自身の偽りの奇跡の種を知っていたので、それを判断する能力があった。[1] 現在の確信は彼がバプテスマを受けたほどに進んだ。他の信者と同じようにバプテスマによって教会に入れられた。そしてピリポが彼にバプテスマを授けたことは誤りではなかったと考えるべき理由はない。いや、彼にすぐにバプテスマを授けたことも。彼は非常に悪い男、魔術師、神的誉れを主張する者であったが、自分の罪に対する悔い改めとイエス・キリストに対する信仰を荘厳に告白したので、バプテスマを受けた。改宗前の大きな悪は、真の悔いる者を神の恵みの益から閉め出さないように、告白する者を教会の交わりからも閉め出すべきでない。放蕩息子は戻るとき、再び放蕩するのではないかと確信できなくても、喜んで迎えられなければならない。いや、彼が今や偽善者であり、苦さの胆と不義の縛めの中に実際にあり、しばらく試されたならすぐにそうであることが分かったであろうのに、ピリポは彼にバプテスマを授けた。心を知ることは神の特権であるから。教会とその牧者は、慈善の判断によって、その余地がある限り進まなければならない。法の格言である。Donec contrarium patet, semper præsumitur meliori parti――できる限り最善を望まなければならない。そして教会の規律の格言。De secretis non judicat ecclesia――心の秘密は神のみが裁く。[2] 現在の確信は彼がピリポと一緒にいたほどに長く続いた。後にキリスト教から背教したが、すぐではなかった。彼はピリポの交わりを求めた。そしてかつて自分を偉大な者と言いふらした彼が、福音の説教者の足元に座ることを満足とした。悪い人々、非常に悪い人々でさえ、時に良い状態、非常に良い状態にあることがある。またその心がなお貪欲に向かう者たちでさえ、神の民として神の前に来るだけでなく、彼らと共にいることがある。[3] 現在の確信は奇跡によって働かれ、保たれた。彼はしるしと奇跡においてこれほどまでに負かされたことに驚いた。多くの人々は神の真理の証拠に驚いても、その力を経験することはない。

Acts 8章 14-25 Matthew Henry's Complete Commentary

The Account of Simon Magus

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魔術師シモンのこと

¹⁴ エルサレムにいた使徒たちは、サマリヤが神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。 ¹⁵ 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。 ¹⁶ これは、主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、未だ聖霊はそのうちのだれにも下っておられなかったからである。 ¹⁷ そこで人々の上に手を置くと、人々は聖霊を受けた。 ¹⁸ シモンは、使徒たちが手を置くことによって聖霊が与えられるのを見て、彼らに金を差し出した。 ¹⁹ 「この権威を私にもください。私が手を置く者がみな、聖霊を受けられるように」と言って。 ²⁰ しかしペテロは彼に言った。「あなたの金は、あなたと一緒に滅びるがよい。神の賜物が金で買えると思っているからだ。 ²¹ あなたはこのことにおいて、分け前も相続地も持っていない。あなたの心が神の前に正しくないからだ。 ²² だから、この悪事について悔い改め、主に祈りなさい。そうすれば、あなたの心の思いが赦されるかもしれない。 ²³ あなたが苦い胆汁と不法の縛めの中にいるのを、私は見ているからだ。」 ²⁴ シモンは答えて言った。「あなたがたの語ったことが私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」 ²⁵ こうして彼らは、主のことばについて力強く証し、語って後、エルサレムに帰り、サマリヤ人の多くの村々で福音を宣べ伝えた。

神はサマリヤでの福音伝道者としてのピリポの務めを不思議に用いられた。しかし彼は福音伝道者として以上のことはできなかった。使徒職の尊厳を保つために、ある特別な権能が使徒たちのために取って置かれていた。ここにはそのうちの二人がそこでしたことの記述がある——ペテロとヨハネである。十二人はエルサレムに集まっていた(使 8:1)。そこにこの良い知らせがもたらされた。サマリヤが神のことばを受け入れたと(使 8:14)。魂の大きな収穫が集められ、キリストに集められそうであった。神のことばは彼らに宣べ伝えられただけでなく、彼らによって受け入れられた。彼らはこれを歓迎し、その光を受け入れ、その力に服した。*彼らはこれを聞いて、彼らにペテロとヨハネを遣わした。*もしペテロが、ある人々が言うように、使徒たちの首長であったなら、彼らのうちのだれかを遣わしたか、理由があれば自分自身で自発的に行ったであろう。しかしそれとはほど遠く、彼は家の命令に服し、からだの僕として、彼らが彼を遣わすところへ行った。二人の使徒——最も卓越した二人——がサマリヤに遣わされた。1.ピリポを励まし、彼を助け、彼の手を強めるためである。より高い地位にあり、賜物と恵みに優れる奉仕者は、より低い立場にある者たちに役立つ方法を工夫し、彼らの慰めと有用性に貢献すべきである。2.人々の間に始まった良いわざを進め、彼らを豊かにした天の恵みをもって、彼らに霊的な賜物を授けるためである。さて見よ。

一.彼らがその中の真摯な者たちをいかに進め、向上させたか。(使 8:16)で言われている。聖霊は未だ彼らのうちのだれにも下っておられなかった。ペンテコステの日に聖霊が降下したことによって伝えられた、あの特別な力において。彼らのうちのだれも異言の賜物を与えられていなかった。それは当時、聖霊の注ぎの最も普通の直接的な結果であったようである。使 10:45,46を見よ。これは信じない者たちには顕著なしるしであり、信じる者たちにはすぐれた奉仕であった。これやその他のそのような賜物を彼らは持たなかった。ただ主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけであった。こうして彼らはキリストに結ばれ、キリストにあずかり、それは救いに必要であった。そして彼らはこれにおいて喜びと満足を持っていた(使 8:8)。異言を語ることができなくても。キリストに本当に明け渡され、恵みの御霊のきよめる影響と働きを経験した者たちは、感謝する大きな理由を持ち、飾りのための賜物——自分たちを輝かせるであろう賜物——を持たないからといって不満を言う理由はない。しかし現在の務めの完成に向かって進むことが意図されていた。福音のより大いなる栄光のためである。ピリポ自身は聖霊のこれらの賜物を受けていたと思われる理由があるが、これを授ける権能は持たなかった。使徒たちが来てこれを行わなければならなかった。そして彼らはバプテスマを受けたすべての者にではなく、そのうちのいくらかに対して行った。しかも教会のある職に任じられるよう定められた者、あるいは少なくともその顕著な活動的成员となるべき者であったようである。そのうちのいくつかには聖霊の一つの賜物を、ほかの者には別の賜物を。コリント第一 12:4,8、14:26を見よ。さてこれに向かって、1.使徒たちは彼らのために祈った(使 8:15)。御霊は、私たち自身にだけではなく(ルカ 11:13)、ほかの者にも、祈りに答えて与えられる。わたしはわたしの御霊をあなたがたのうちに置く(エゼキエル 36:27)。しかしわたしはこれについて尋ね求められる(エゼキエル 36:37)。私たちはこの模範から励ましを得て、霊的な幸福について私たちが関心を持つ者たち——子どもたち、友人たち、奉仕者たち——のために、聖霊の新たにする恵みを与えてくださるよう神に祈ることができる。私たちは祈るべきである。しかも熱心に。彼らが聖霊を受けるようにと。これはすべての祝福を含むからである。2.彼らは彼らの上に手を置いた。自分たちの祈りが答えられたこと、聖霊の賜物が彼らに授けられたことを示すために。というのも、このしるしを用いることで、彼らは聖霊を受け、異言を語ったからである。手を置くことは古くから、権威をもって祝福する者によって祝福において用いられた。このように使徒たちはこれらの新改宗者たちを祝福し、ある者たちを奉仕者に任じ、ほかの者たちをそのキリスト者としての歩みにおいて堅く立たせた。私たちは今、誰もこのように手を置いて聖霊を与えることはできない。しかしこれは、私たちが祈る者たちに対して私たちの努力を用いるべきことを私たちに示唆する。

二.彼らがその中の偽善者をいかに発見し、排除したか。これが魔術師シモンであった。彼らは尊いものと卑しいものとを分ける方法を知っていたからである。さてここを見よ。

1.シモンの悪い提案。これによってその偽善が発見された(使 8:18,19)。使徒たちが手を置くことによって聖霊が与えられるのを見たとき——これは彼のキリストの教理に対する信仰を確め、使徒たちへの尊敬を増すべきであった——それは彼に、キリスト教は一つの高められた魔術に過ぎないという観念を与えた。彼は使徒たちと対等になれると思い、ゆえに*彼らに金を差し出した。「この権威を私にもください」と言って。*彼は自分が聖霊自身を受けるために自分の上に手を置くよう彼らに求めたのではない(それによって何かを得られるとは予想しなかったから)。むしろほかの者に賜物を授ける権能を彼に伝えるよう求めた。彼は使徒の誉れを持つことを求めたが、キリスト者の霊と性分を持つことには全く関心がなかった。ほかの者に善を行うよりも、自分自身に誉れを得ることを求めた。さて、この申し出において、(1)彼は使徒たちに大いなる無礼を働いた。彼らが金銭的であるかのように、何でも金のためにするかのように、彼と同じように金を愛するかのように。しかも彼らはキリストのために自分たちの持ち物を捨てたのであって、これを増やそうとするのではるかに遠い。(2)彼はキリスト教に大いなる無礼を働いた。その証明のために行われた奇跡が魔術によってなされたかのように。ただ彼自身が以前に行っていたのとは異なる性質のものとして。(3)彼はバラムのように、占いの報酬を狙っていたことを示した。というのも、この権能のために金を差し出さなかったなら、それによって金を得られると希望しなかったはずだから。(4)彼が自分自身を非常に高く評価しており、その心が真にへりくだったことがないことを示した。バプテスマの前に彼がであったような悪人は、放蕩息子のように、雇われしもべの一人にしてもらうよう願うべきであった。しかし、彼は家族に迎え入れられるや、家宰の一人となり、ピリポ自身が持たず、使徒たちだけが持つ権能を託されるという、それ以下の地位では満足しない。

2.彼の提案の正当な拒絶、およびそれに対するペテロの鋭い叱責(使 8:20-23)。

(1)ペテロは彼の罪を示す(使 8:20)。*あなたは神の賜物が金で買えると思っている。こうして、[1]彼はこの世の富を過大評価していた。何かの等価であるかのように。ソロモンが言うように、それはすべての事に答える——今の生涯に関する限り——ので、来たるべき生涯のすべての事に答え、罪の赦し、聖霊の賜物、永遠のいのちを購入するかのように。[2]彼は聖霊の賜物を低く評価し、自然と摂理の普通の賜物と同列に置いた。使徒の権能が、医者や弁護士の忠告と同じように、良い謝礼で得られると思った。これは恵みの御霊に対しなしうる最大の冒涜であった。ローマ教会における赦免や免罪符のすべての売買は、この同じ悪い思いの産物である——神の賜物が金で買えるという。*神の恵みの申し出がそれほど明確に、金なく、価値なくと述べられているのに。

(2)彼は彼の性格を示す。これは彼の罪から推論される。人が言ったりしたりするすべての誤りから、その人が宗教の告白において偽善者であると推論することはできない。しかしシモンのこれは、恵みの状態とは到底両立しない根本的な誤りであった。金を差し出すことは(しかも魔術によって得た金を)、彼がまだ世的で肉の心の力の下にあり、御霊の事を受け入れない、また知ることもできない自然の人であったという議論の余地のない証拠であった。それゆえペテロは彼に率直に告げる。[1]彼の心は神の前に正しくないと(使 8:21)。「あなたは信じると告白し、バプテスマを受けているが、真摯ではない。」私たちは心のようである。心が正しくなければ、私たちは誤っている。そして心は神の前に開かれている。神はこれを知り、これをさばき、これによって私たちをさばかれる。私たちの心は、欺くことのできない神の前にあるそのものである。もしそこで正しくなければ、私たちの主張が何であれ、私たちの宗教はむなしく、私たちには役立たない。私たちの大きな関心は、自分の誠実さにおいて神に認められることである。さもなければ私たちは自分自身を騙して自分自身を滅びに至らせる。ある人々はこれを特に彼の申し出に帰する。彼が求めたことは拒まれた。彼の心が神の前に正しくないから——求めるにおいて。彼はそれにおいて神の栄光やキリストの誉れを目指さない。自分自身のために利用しようとする。彼は求めても得られない。自分の欲望のために費やして、なお大した者だと思われたいために誤って求めるからである。[2]彼は苦い胆汁と不法の縛めのうちにいる。あなたがそうであるのを私は見ている(使 8:23)。これは率直な物言いである。そして魂と永遠について扱うとき、率直な物言いが最善である。シモンは民の間に大きな名を持っていた。そして近来は神の民の間にも良い名を持っていた。しかしここでペテロは彼に黒い性格描写を与える。見よ。人が罪の力の下にありながら、敬虔の形を着ることが可能である。私は見ているとペテロは言う。これはペテロが与えられていた見分けの霊によるというよりは、シモンがその申し出においてこれを現したことによる。見よ。偽善者の偽装は多くの場合すぐに見抜かれる。羊の皮を被っていても、狼の本性が現れる。さてここでシモンに与えられている性格描写は、実はすべての悪人についての性格描写である。第一に、彼らは苦い胆汁のうちにいる——神に忌み嫌われる。胆汁が私たちに苦いように。罪は主が憎む忌むべきものである。そして罪人はこれによって神に忌み嫌われる者とされる。彼らはその本性において腐敗している。内住する罪は苦い根であり、胆汁とよもぎを実らせる(申命記 29:18)。諸能力は腐敗し、心はすべての善に対して苦くされる(ヘブル 12:15)。これはまた罪の有害な結果をも示す。終わりはよもぎのように苦い。第二に、彼らは不法の縛めのうちにいる——罪の咎によって神の裁きに縛られ、罪の力によってサタンの支配の下に縛られ、その意のままに捕えられている。そしてそれはエジプトでのように過酷な奴隷であり、いのちを苦くする。

(3)彼は二つの点で彼の運命を読み上げる。

[1]彼は過大評価していた世的富と共に沈む。*あなたの金は、あなたと一緒に滅びるがよい。*第一に、これによってペテロは最大の軽蔑と憤りをもって彼の申し出を拒絶する。「あなたは私たちが信託を裏切り、託された権能をこのような価値のない手に渡すよう、賄賂で私たちを買収できると思うか。お前もお前の金もあっちへ行け。私たちはどちらにも関わらない。サタンよ、私の後ろに下がれ。」金で悪事をするよう誘惑されるとき、私たちは金がいかに滅びゆくものであるかを見、これに偏らされることを軽蔑すべきである。正しい人の性格は、賄賂を握ること、触れることから手を揺るがすことである(イザヤ 33:15)。第二に、彼はこの思いのままであれば完全な滅びの危険があることを警告する。「あなたの金は滅び、あなたはそれを失う。そしてそれで買えるすべてのものを。食物は腹のために、腹は食物のために(コリント第一 6:13)あるように、財物は金のために、金は財物のためにある。しかし神はこれもそれも滅ぼされる——使用するうちに滅びる。しかしこれが最悪ではない。*あなたはそれと共に滅び、それはあなたと共に滅びる。*そしてそれはあなたの滅びを悪化させ、あなたの滅びゆく魂に重い荷となる。あなたには金があった。それは良い目的に向けられるかもしれず(ルカ 16:9)、慈善として使徒たちの足元に置かれれば受け入れられたであろうが、賄賂として彼らの手に押し付けられ、拒まれた。子よ、これを思い出せ。」

[2]彼は低く評価していた霊的な祝福に届かない(使 8:21)。*「あなたはこのことにおいて、分け前も相続地も持っていない。」*あなたは聖霊の賜物には無関係である。これを理解せず、これから除外され、自分の戸口にかんぬきを差し込んだ。自分自身が聖霊を受けることも、ほかの者に聖霊を授ける権能も持てない。*あなたの心が神の前に正しくないからである。*もしキリスト教をこの世で生きるための商売だと思うなら、ゆえにあなたは福音が提供するもう一つの世の永遠のいのちにおいても、分け前も相続地も持たない。見よ。第一に、キリスト教を告白しながら、その事において分け前も相続地も持たない者——キリストにおいて分け前を持たない(ヨハネ 13:8)、天のカナンにおいて相続地を持たない者たちが多くいる。第二に、彼らは心が神の前に正しくない者たちである。正しい霊によって生かされず、正しい規則によって導かれず、正しい目的に向けて導かれない。

(4)彼はそれにもかかわらず彼に良い忠告を与える(使 8:22)。彼に怒っていたが、見捨てなかった。彼に自分の状態が非常に悪いことを悟らせたいが、絶望的だとは思わせたくない。*それでもなお、イスラエルには望みがある。*見よ。

[1]彼が彼に勧めること。彼は初めのわざを行わなければならない。第一に、彼は悔い改めなければならない——自分の誤りを見てこれを撤回する——思いと道とを変える——自分のしたことでへりくだり、恥じる。彼の悔い改めは特定でなければならない。「これについて悔い改め、これにおいて自分自身を有罪と認め、これを悲しめ。」彼はこれについて自分に荷を負わせなければならない。これを過ちとか、誤った熱心と呼んで軽くしてはならない。むしろ悪事、自分の悪事、自分自身の腐敗の実として呼んで重くしなければならない。誤って言ったりしたりした者たちは、悔い改めによってできる限り、それを取り消し、やり直さなければならない。第二に、彼は神に祈らなければならない。神が悔い改めを与え、悔い改めの上に赦しを与えてくださるよう祈る。悔いる者は祈らなければならない。これは神への願いと、キリストに対する確信を含む。魔術師シモンは、彼が自分を大した者だと思っていても、ほかの罪人が受け入れられるのと異なる条件——悔い改めと祈り——以外には、いかなる条件でも使徒たちの交わりに迎えられることはない。

[2]彼がこれをするよう励ますこと。そうすれば、あなたの心の思い——あなたのこの悪い思い——が赦されるかもしれない。見よ。第一に、心の思いには多くの悪があって、その偽った観念、腐敗した愛情、悪い計画は、悔い改められなければ、私たちは滅びる。第二に、心の思いは、どんなに悪くても、悔い改めの上に赦される。私たちに負わされない。ここでペテロがこれにたぶんを置くとき、疑いは悔い改めの真摯さについてであり、もし悔い改めが真摯なら彼の赦しについてではない。もしそうかすれば、あなたの心の思いが赦されるかもしれないと読める。あるいは、彼の罪の大きさが、福音の約束が真の悔い改えの場合には疑いを除外したにもかかわらず、赦しを正当に疑わしいものにするかもしれないことを示す。(哀歌 3:29)のように。もしそう、望みがあるなら。

[3]シモンが彼らに自分のために祈ってくれるよう願う(使 8:24)。彼はペテロの語ったことに驚き、混乱した。自分が両手を広げて迎えられると思ったことが、このように憤られたのを見て。そして彼は叫ぶ。*「あなたがたの語ったことが私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」*ここには、第一に、良いことがあった。彼が与えられた叱責に心を動かされ、自分について与えられた性格描写に恐れを抱いた。最も強い心をも震わせるに十分なものに。そしてこれがそうであったので、彼は使徒たちのとりなしを求めた。彼らが天に良い影響力を持っていると信じて、それにあずかろうとした。第二に、欠けていることがあった。彼は彼らに自分のために祈ってくれるよう願ったが、自分で自分のために祈るべきであったのにしなかった。そして彼らに祈ってくれるよう願うにおいて、彼の関心は、自分が招いた裁きが防がれることよりも、自分の腐敗が殺がれ、自分の心が神の恵みによって神の前に正しくされることに対して少なかった。パロがモーセに主にとりなってくれるよう願ったように。この死だけを取り去ってくださるように。この罪、この心のかたくなさを取り去ってくださるようにではなく(出エジプト 8:8、10:17)。ペテロがアナニヤとサッピラに対してしたように、彼に対してある特定の裁きを宣告したと考える者もいる。それは彼のこの服従により、使徒のとりなしによって防がれた。あるいは、語られたことから、神の怒りのあるしるしが彼に下るだろうと推測し、これを恐れ、これを避けようとした。

最後に、ここに使徒たちのエルサレム帰還がある。彼らが来た用事を済ませたとき。というのも彼らはまだ散らされる時ではなかった。しかし彼らは使徒として特有のわざをするためにここに来たが、機会が与えられると、すべての福音の奉仕者に共通するわざに励んだ。1.サマリヤの町で、彼らは説教者であった。*彼らは主のことばについて力強く証しした。*福音の真理を荘厳に証言し、ほかの奉仕者たちが説いたことを裏付けた。彼らは使徒であっても、何か新しいものをもたらすふりはしなかった。むしろ受けたままに主のことばについて証しした。2.帰路において、彼らは巡回説教者であった。彼らはサマリヤ人の多くの村々を通り過ぎるとき、福音を宣べ伝えた。そこでの会衆は、数においても身分においても、町でのようには立派ではなかった。しかし彼らの魂は同じように尊く、使徒たちは彼らに福音を宣べ伝えることを自分たちにふさわしくないと思わなかった。神はイスラエルの村の住民に目を留められる(士師 5:11)。私たちもそうすべきである。

Acts 8章 26-40 Matthew Henry's Complete Commentary

Philip and the Ethiopian

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フィリポとエチオピヤの宦官

²⁶ しかし主の御使いはピリポに向かって言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザへ下る道、あの荒野の道を行け。」(これは今は寂れた道である。)
²⁷ 彼は立って出かけた。すると見よ、エチオピヤ人の宦官、エチオピヤの女王カンダケのすべての財宝をつかさどる力ある宦官が、礼拝のためにエルサレムに上っていた者が、帰る途中であった。
²⁸ ちょうど彼は戦車の上に座って、預言者イザヤの書を読んでいた。
²⁹ 御霊がピリポに言った。「行って、この戦車に近づけ。」
³⁰ ピリポは走り寄り、彼が預言者イザヤの書を読むのを聞いて言った。「あなたは、読んでいることが分かりますか。」
³¹ 彼は言った。「読んでいることをだれが教えてくれようか。だれかが導いてくれればと。」そしてピリポに招いて、一緒に乗るように頼んだ。
³² 彼が読んでいた聖書の個所はこれであった。「羊のようにほふり場に引かれて行き、毛を刈る者の前で黙っているように、彼は口を開かない。
³³ 彼が受けたさばきは慎み深く行われた。その世代のうちで、だれが、彼が生きた者の地から絶たれることを語ったか。彼の民のそむきのために、彼は打たれて死に至った。
³⁴ 宦官はピリポに答えて言った。「預言者についてお尋ねします。その方が語っているのは、自分自身のことですか。それともほかの誰かのことですか。」
³⁵ ピリポは口を開き、この聖書のことばから始めて、彼にイエス・キリストの福音を宣べ伝えた。
³⁶ 道を進むうちに、水のある所に来た。すると宦官は言った。「見よ、ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何が妨げとなりますか。」
³⁸ 彼は戦車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中に下りて行き、彼にバプテスマを授けた。
³⁹ 水から上がって来た時、主の霊がピリポを連れ去った。宦官はもう彼を見なかったが、喜んでその道を進んで行った。
⁴⁰ しかしピリポはアゾトに現われ、通り過ぎるすべての町々で福音を宣べ伝え、カイザリヤに着いた。

ここにはピリポのエチオピヤの宦官への幸いな務めの物語がある。互いに見知らぬこれらの二人の出会いは、両者が自分の道を導いた方の導きによるものであった。そして二人が出会ったのは、彼らが共に属する方の栄光のためであった。見よ。

I. エチオピヤ人が導かれて、ピリポに会うために、読んでいる所、学んでいる所に来たこと。彼がいかにしてエルサレムに来たか、そして読んでいた箇所に導かれたかを見よう。

1. エチオピヤ人がいかにしてエルサレムに来たか。彼はそこに礼拝のために、すなわちユダヤ人の宗教を知り、それに加わるために来ていた。彼はエチオピヤ人、すなわちその生まれによる異邦人であり、宦官であった。彼の外側の不利にもかかわらず、神は彼を恵みにおいて顧みられた。彼が造られたその欠陥にもかかわらず。神はそのような者を、特にそのような状態で、神を慕い求める者とされたことは注目すべきである。エチオピヤ人がその国の富のすべてをつかさどる高い位にありながら、エルサレムまで旅をして神を礼拝し、神の書を求めたことは、彼の敬虔の大いなる証拠である。注目せよ。(1) 真の宗教は、その崇拝者をあらゆる土地に、あらゆる身分に植え付ける。いと高き方の僕たちはすべての国と民と国語と民族の中から贖われ、すべての国のうちに神ご自身のための民とされる。(2) 敬虔な人々は、自分たちの務めと繁栄を自らの敬虔のために用いるべきである。彼は女王カンダケの財宝のすべてをつかさどる者であった。彼はその高い位をキリストのために、そして彼自身の知識と聖化に用いた。注目すべきは、彼の務めへの愛着がその敬虔を妨げず、その敬虔が務めを損なわなかったこと。(3) 私たちは、神と真実な宗教とが最も確かに見出される所へ、その宗教の務めの機会と能力に応じて、礼拝のために進んで行くべきである。彼はエルサレムに来た。なぜならそこに神の名があり、神の礼拝の定めがあったから。礼拝の公の機会と神の言葉の働きは、それらを楽しむことができる者にとって、霊的な祝福への道である。彼は上った。上って、戻ってきた。来た時に出会った祝福された機会に満足して。神の家の訪問から戻る旅路は、もし私たちがそれを正しく用いるなら、非常に慰めに満ちたものであるべきだ。

2. 彼がいかにしてその聖書の個所に導かれたか。彼は戦車に座って、預言者イザヤの書を読んでいた。注目せよ。彼はエルサレムでその書を手に入れたに違いない。そこで彼はユダヤ人の宗教を受け入れ、その聖書を得た。そして帰りの旅の間、退屈しのぎのためでも、虚栄のためでもなく、憩いと楽しみのためでもなく、それを読んでいた。彼がその占い高い地位にありながら、熟考と理解をもって神の言葉を読むためにこれを用いたことは、彼の敬虔をさらに大いに証しする。敬虔な読者は神の言葉を心で熟考する。注目せよ。(1) 聖書を読むことは、楽しむ特権であると同時に、なすべき務めである。礼拝の機会が終わっても、私たちは神の言葉を読み続けることができるし、そうすべきである。(2) 聖書は旅のうちにも、退寂のうちにも読まれるべきである。私たちはどんな状況にあっても、神との交わりを保つべきである。注目すべきは、彼が読んでいた特定の個所は、キリストの苦しみと死に関するイザヤの預言(第53章)の一部であったこと。この個所は読むのに非常に適している。キリストの十字架は、誠実な心にとって、最も魅力的な対象である。そして御霊が彼を導いてこの特定の個所に導いたのは、ピリポが彼を見出してキリストを説き、彼を回心に導くための道を備えるためであった。

II. ピリポが導かれて、彼に会い、彼をキリストに導くために彼に仕える所に来たこと。

1. ピリポはどのようにして彼に遣わされたか。(1) 主の御使いが彼に現れて、彼をこの務めに任命した(Ac 8:26)。*立って南へ行き、エルサレムからガザへ下る道、あの荒野の道を行け。*神の御使いは、福音の務めのすべての機会を整える。神がエチオピヤ人にあわれみをかけようとされた時、神の御使いはピリポに、彼に仕えるために彼のもとに行くよう命じた。注目すべきは、神はその恵みの意図を成就するために、僕たちを送られる。そして最も遠く離れた者たち、最も取るに足らないと思われる者たちのために、特別な備えをなさる。(2) ピリポは命じられた通りに即座に従った(Ac 8:27)。*彼は立って出かけた。*神の呼びかけに従う者は、問うことなく、ためらうことなく進む。アブラハムが命じられたように。おのが所を出て。ピリポはサマリヤでの豊かな成功のただ中にいたが、神の栄光と一人の魂の救いのために、すべてを捨ててこの荒野の道に出るよう召された。注目すべきは、神の僕たちは神の栄光と魂の善のために、最も低い務め、最も寂しい奉仕に進んで行くべきである。一人の魂をキリストに導くことは、キリストにとって全世界に勝る価値がある。(3) 彼が行くと、宦官の戦車を見出した。御霊はさらに彼を導いた(Ac 8:29)。*御霊がピリポに言った。「行って、この戦車に近づけ。」*御使いが彼を宦官に近づけたが、御霊は彼を戦車そのものに近づけた。外的な備えは御使いによってなされ、内的な導きは御霊によってなされる。福音の僕は御霊の導きに従うべきである。そして御霊は、忠実で進んでする僕を、良い機会がどこにあるかを知らせ、そこに導く。

2. ピリポは宦官にいかにして近づいたか。(1) 彼は熱心に近づいた(Ac 8:30)。*ピリポは走り寄った。*急いで、勤勉に、進んで。福音の機会は熟心に捉えられるべきである。(2) 彼は敬意と慎重さをもって近づいた。彼は宦官が読んでいるのを聞き、あなたは、読んでいることが分かりますかと尋ねた。直接に教え始める前に、彼はその人の状態と準備を探った。注目すべきは、福音の僕は教える機会を見出すために、慎重に探るべきである。そして人々の問いと困難に応じて教えるべきである。(3) 宦官は謙遜に教えを求めた(Ac 8:31)。*読んでいることをだれが教えてくれようか。だれかが導いてくれればと。*これは真の回心への準備である。知識のないことを認め、教えを求める謙遜な心。彼は大いなる権力者でありながら、神の言葉の理解においては教えられる必要があることを認めた。注目すべきは、最も偉大で最も学ある者たちも、聖書においては教えを必要とする。そして最も取るに足らない者からでも、彼らは教えられることがある。(4) 彼はピリポを戦車に招いた。*ピリポに招いて、一緒に乗るように頼んだ。*喜んで教えを聞き、導きを求める者は、福音の僕を歓迎し、彼らと交わるべきである。

3. ピリポは彼に何を教えたか。(1) 彼は宦官が読んでいた個所から始めた(Ac 8:32-33)。それはキリストの苦しみに関するイザヤ53章の預言の一部であった。羊のようにほふり場に引かれて行き。この個所は、キリストの受難の恵み、自発性、有効性を美しく描く。ピリポはこの聖書の個所を用いて、キリストの死の必要性と十分性を示した。(2) 宦官の問いに答えた(Ac 8:34)。*預言者についてお尋ねします。その方が語っているのは、自分自身のことですか。それともほかの誰かのことですか。*この問いは、彼がこの個所の真の意味を知りたいという真摯な願望を示す。ピリポがこの個所から始めたのは賢明であった。なぜならそこから、彼が他のすべての聖書の個所と同様に、キリストについて証しするものであることを示せたから。(3) 彼はそこからキリストを宣べ伝えた(Ac 8:35)。*ピリポは口を開き、この聖書のことばから始めて、彼にイエス・キリストの福音を宣べ伝えた。*注目すべきは、すべての聖書の中心的な主題はキリストである。そして福音の僕は、聖書のどんな個所からでもキリストに至ることができるし、そうすべきである。彼はイエス・キリストを宣べ伝えた。すなわち、イエスがキリスト、約束されたメシアであり、その死と苦しみがこの預言の成就であり、その王国が霊的で永遠であることを。彼は福音を宣べ伝えた。すなわち、キリストの死と復活による罪の赦しと永遠のいのちの良い知らせを。

4. この務めの結果。宦官は回心し、バプテスマを受けた。(1) 彼はバプテスマを求めた(Ac 8:36)。*見よ、ここに水があります。バプテスマを受けるのに、何が妨げとなりますか。*これは彼の信仰の告白と、キリストへの献身の願望を示す。注目すべきは、真に回心した者はキリストの定めを喜んで受け入れる。バプテスマはキリストの偉大な任命であり、信じる者すべての義務である。(2) ピリポは彼にバプテスマを授けた(Ac 8:38)。*彼は戦車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中に下りて行き、彼にバプテスマを授けた。*注目すべきは、バプテスマはキリストの名において、信仰と悔い改めの後に、公の告白とともに授けられる。(3) 彼は喜んでその道を進んだ(Ac 8:39)。*宦官はもう彼を見なかったが、喜んでその道を進んで行った。*キリストを見出した者は、キリストにおいて喜ぶ。罪の赦しの確信と神との和解は、たましいに真の喜びをもたらす。注目すべきは、神の恵みの経験は、心に喜びと慰めを生み出す。(4) ピリポは他の務めに遣わされた。*主の霊がピリポを連れ去った。*神はご自身の僕をご自身のみこころと務めの場所に置かれる。そしてピリポはアゾトに現われ、通り過ぎるすべての町々で福音を宣べ伝え、カイザリヤに着いた(Ac 8:40)。注目すべきは、一つの務めを終えた福音の僕は、次の務めに進むべきである。そして福音は至る所で宣べ伝えられるべきである。一人の魂をキリストに導いた後、彼は他の多くの町々で福音を宣べ伝えた。神の恵みは一つの魂に制限されず、すべての人に及ぶ。