Jamieson-Fausset-Brown Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible
Robert Jamieson, A. R. Fausset, David Brown · 1871
Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible (1871). CCEL expanded electronic edition states it is in the public domain.
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アモ 9:1-15.
第五の、そして最後の幻。
来たるべきさばきをいかなる隠れ場においても逃れることはできない。神は遍在し抗し得ぬ方だからである
(アモ 9:1-6)。
一つの王国としては、イスラエルは彼と契約関係にあったことが全くなかったかのように滅びる。しかし個々人としては、ヤコブの家は全く滅びず、いや義人のうちの最も小さい者も一人も倒れず、ただすべての罪人たちのみが倒れる
(アモ 9:7-10)。
倒れたダビデの幕屋が再び建てられた後、ユダヤ人がついに自分の地へ回復されること。その結果すべての異邦人が回心する
(アモ 9:11-15)。
1. 主が . . . 祭壇のそばに立たれる――すなわちベテルの偶像礼拝の神殿にある祭壇のこと。前に述べた子牛は
アモ 8:14
に記されている。彼らはアッシリア人から守られるためにそこへ逃れ、空しく信頼していた対象と共に廃墟の中で滅びるであろう〔ヘンダーソン(Henderson)〕。エホバはここに立って、それと彼らと偶像礼拝の国民の破壊を指揮される。彼は祭壇の上に多くの犠牲を求められるが、それは人間の犠牲でなければならない。カルヴァン(Calvin)とフェアバーン(Fairbairn)らはこれをエルサレムの神殿とみなす。さばきはイスラエルとユダの双方に下るべきであった。両国の奉仕はともにエルサレムの神殿の祭壇で捧げられるべきであったので、エホバは観念上まさにそこに立たれる。あたかも全民族がそこに集まり、彼らの忌わしい罪が実際には他の場所で行われたのに、そこで赦されずに置かれ、復讐を叫んでいるかのようである(比較
エゼ 8:1-18)。
この見解は、アモスの幻が
イザ 6:1-13、
すなわちエルサレムでの幻と類似していることと調和する。またこの章の終わり
(アモ 9:11-15)、
すなわちユダとイスラエルの双方に当てはまる「ダビデの幕屋」、すなわちエルサレムにある幕屋とも調和する。「立っておられる」という御姿は、御旨の確かさを暗示する。
覆い――むしろ柱の球状の頭飾りである〔マウラー(Maurer)〕。
柱――むしろ「敷居」である。
イザ 6:4、
欄外のとおり。神殿は完全な破壊を確実にするため、上だけでなく下も打たれなければならない。
彼らの頭を打ち砕け――すなわち柱の頭飾りと柱の破片をもってそうする(比較
詩 68:21; ハバ 3:13)。
その残りの者を剣で殺せ――彼らの子孫を指す〔ヘンダーソン(Henderson)〕。生き残った者たちを指す〔マウラー(Maurer)〕。エホバの命令は、さばきの奉仕者である彼の御使いたちに向けられる(比較
エゼ 9:1-11)。
彼らのうちから逃げる者も逃げられない――自分は安全であり、敵の手の届かないところにいると思う者も捕えられる
(アモ 2:14)。