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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Daniel 12章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

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反キリストの力の下にあるキリスト教教会の悩みを前表する、アンティオコスの下でのユダヤ人の悩みの予告ののち、ここに私たちは次のものを持つ。I. 慰め。そして非常に尊い慰め。それらの悩みの時に神の民を支えるための強心剤として処方された。そしてそれらは、アンティオコスの下での以前の悩みの時にも、それによって前表された後の悩みの時にも等しく用い得るようなものである。Da 12:1-4。II. これらのできごとの継続の時についての、ダニエルの満足のために設計された、キリストと御使の間の対話。Da 12:5-7。III. ダニエル自身の満足のための問い。Da 12:8。そしてその問いに対して彼が受けた答え。Da 12:9-12。

Daniel 12章 1-4 Matthew Henry's Complete Commentary

The Promised Appearance of Michael; The Prophecy Sealed Up (534 BC)

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約束のミカエルの出現;預言の閉ざし(紀元前534年)

¹ その時、あなたの民の子らのために立つ大いなる君、ミカエルが立ち上がる。またその時は、国があった時からその時までなかったような悩みの時となる。しかしその時、あなたの民は救われる。すべて書物にしるされている者。
² また地のちりの中で眠る者の多くは目を覚ます。ある者は永遠のいのちへ、ある者は恥と永遠の憎しみへ。
³ 賢い者は大空の輝きのように輝き、多くを義に導く者は星のように、とこしえに及ぶ。
⁴ しかしダニエルよ、あなたはこれらの言葉を閉じ、終わりの時までこの書物に封印せよ。多くの者はあちこち走り回り、知識は増すであろう。

預言者たちが教会の悩みを予告する時、同時にそれに適切な解毒剤、すべての病のための薬を備えるのは彼らの習わしである。そしてキリストと未来の状態から取り出されるものほど、すぐれた、一般に適用でき、すべての場合に容易に適合し、強力な効き目を持つ救いはない。ここに慰めはそこから取り出される。

I. イエス・キリストは教会の擁護者と守り手として現れる。その時、迫害が最も激しい時に、ミカエルは立ち上がる(Da 12:1)。御使はダニエルに、ミカエルが教会にとってどれほど確かな友であるかを告げた(Da 10:21)。彼は上の世界でずっとこの友情を示した。御使いたちはそれを知っていた。しかし今やミカエルはその摂理において立ち、ユダヤ人のために救出を働く。彼らの力が去ったのを見る時(De 32:36)。キリストはその大いなる君である。地の王たちの君であるから(Re 1:5)。そしてもしその方が教会のために立たれるなら、誰がそれに逆らえようか。しかしこれですべてではない。その時(すなわち、まもなく)、ミカエルは私たちの永遠の救いの成就のために立ち上がる。神の御子は受肉し、悪魔のわざを滅ぼすために現われる。キリストは私たちの民の子らのために立たれた。その方が彼らのために罪と呪いとされた時、犠牲として彼らの代わりに立ち、彼らのためにその身に罰を負い、彼らからそれを取り除くために。彼は垂れ幕の内で永遠に生きてなす執り成しにおいて彼らのために立ち、彼らのために立ち上がり、彼らの友として立たれる。そして反キリストの破壊の後、アンティオコスはその型であったが、キリストは終わりの日に地の上に立ち、すべての者の完全な贖いのために現われる。

II. キリストが現われる時、その方はその民を悩ませる者たちに患難を報いるであろう。悩みの時がある。すべての者への脅しであり、神の王国のすべての融和し難い敵への滅亡となる。国があった時からなかったような悩み。これは適用可能である。1. エルサレムの破壊に。キリストは(おそらくこの予告を念頭に置いて)それを世の初めからこの時までなかったような大いなる患難と呼ぶ(Mt 24:21)。御使はこれについて多くを語った(Da 9:26,27)。そしてそれはキリストが世に福音の王国を立てたのと同じ頃に起こった。その時私たちの君ミカエルが立ち上がる。あるいは、2. 大いなる日のさばきに。炉のように燃え、誇り高き者とすべて悪を行う者を焼き尽くすその日に。それは私たちの君ミカエルが立ち向かうすべての者にとって、かつてなかったような悩みの日となる。

III. その方はその民のために救いを働く。「その時、あなたの民は救われる。アンティオコスが彼らのために計画した危害と滅亡から。保存のために印されたすべての者、生ける者のうちに書かれたすべての者」(Isa 4:3)。キリストが世に来られる時、その方は罪的なイスラエルを罪と地獄から救い、その再臨において彼らの救いを完成する。すなわち、与えられたすべての者、いのちの書にその名があるすべての者の救いを(Re 20:15)。彼らは世界の前にそこに書かれ、世界の終わりに書物が開かれる時にそこに書かれていることを見いだす。

IV. ちりのうちに眠る者たちの区別される復活がある(Da 12:2)。1. 神がその民のために迫害からの救出を働かれる時、それは一種の復活である。バビロンからのユダヤ人の解放が幻の中でそのように表された(Eze 37:1-28)。そしてアンティオコスからのユダヤ人の救出、および外側の繁栄への教会の他の回復も同様。それらは死の中からのいのちのようであった。不明と災いのちりのうちに長く眠っていた者たちの多くがその時目を覚ます。ある者は永らえる、持続するいのち、誉れ、慰めに。しかしその繁栄に戻る時にその不義にも戻る他の者にとっては、それは恥と軽蔑への復活となる。愚かな者の繁栄は彼らをさらし、滅ぼすだけだからである。2. 私たちの君ミカエルの出現に際して、その福音が宣べ伝えられる時、ちりのうちに眠る者たちの多く、ユダヤ人も異邦人も、それによって目を覚まされ、宗教の告白を引き受け、その異教主義やユダヤ教から立ち上がる。しかし真の聖徒と共に常に偽善者の交じりがあるので、福音がいのちにはいのちへの香りとなるいのちに立ち上がらされる者はそのうちの一部にすぎない。しかし他の者は恥と軽蔑に立ち上がらされる。キリストの福音は彼らにとって死には死への香りとなり、キリストご自身が彼らの倒れのために立てられる。福音の網は良いものも悪いものも共に閉じ込める。しかし、3. これは最後の日の一般的な復活を意味しなければならない。ちりのうちに眠る者の大群は目を覚ます。すなわち、すべての者。それは非常に多くの者であろう。あるいは、ちりのうちに眠る者の多くはいのちに、多くは恥に立ち上がる。ユダヤ人自身、これを時の終わりの死者の復活と理解する。そしてキリストはいのちの復活と審判の復活について語る時にこれに言及しているようである(Joh 5:29)。これに基づき、ユダヤ人はパウロによって正しい者と正しくない者双方の復活を期待するとされる(Ac 24:15)。そしてこれ以上時宜にかなったものはここに来られなかった。アンティオコスの迫害の下で、ある者は卑しくその宗教を裏切り、他の者は勇敢にそれに固く立った。さて、嵐が過ぎた後、一方に報い、他方を罰することができないのは彼らにとって悩みとなる。それゆえこれが彼らの満足となる。彼らは復活においてそのわざに従って両者とも報いられるであろう。そして使徒は、アンティオコスの下で殉教の死を遂げた敬虔なユダヤ人について語り、彼らが拷問を受けたが救出を受け入れなかったと告げる。彼らがこのより良き復活を得ることを望んだからである(Heb 11:35)。

V. 悩みと苦難の日に自ら賢く、多くを教えた者たちに栄光ある報いが与えられる。そのような者たちは迫害の預言(Da 11:33)において特に注目された。彼らは際立った奉仕をなし、それでも剣と炎によって倒れる。さて、もし後に別のいのちがなければ、彼らはすべての者のうちで最も惨めとなる。それゆえここに彼らは正しい者の復活において報いられることが確証される(Da 12:3)。賢い者は(教える者、ある者はこう読む。教師は知恵を必要とし、自ら知恵を持つ者はそれを他者に伝えるべきだから)大空の輝きのように輝き。栄光、天的な栄光、上の世界の栄光において輝く。そしてその持つ知恵と与える教えによって、義に、とりわけ多くを義に導くために役立つ器である者たちは星のように、とこしえに及ぶまで輝く。次のことに注意せよ。1. 未来の状態においてすべての聖徒、すべての賢い者、その魂と永遠のために賢い者のために栄光が蓄えられている。人の知恵は今その顔を輝かせる(Ec 8:1)。しかしその力が完成され、その奉仕が報いられるその状態においては、なおさらそうするであろう。2. この世でより多くの善を行う者、とりわけ人の魂のために、他の世でその栄光と報いはより大いなるものとなる。人を義に導く者、罪人をその道の誤りから立ち返らせ、その魂を死から救うのを助ける者(Jam 5:20)は、彼らが天に導くのを助けた者の栄光にあずかる。それは彼ら自身の栄光に大いなる加算となる。3. キリストの僕たち、その方からあわれみを得て忠実で成功し、それゆえにこの世で燃えて輝く光とされた者たちは、他の世で非常に明るく輝き、星のように輝く。キリストは恵みと栄光の両方の光の太陽、源である。僕たちは星として、その方から派生した光と、その方に比べれば diminutive 小さな光で両方において輝く。しかし土の器にとっては、その功績をはるかに超える栄光となる。彼らは異なる等級の星のように輝き、ある者はより少なく、他の者はより大きな輝きで。しかし秋の葉のように星が天から落ちる日が来ているが、これらの星はとこしえに及ぶまで輝き、決して没せず、決して食されない。

VI. これらの時代のこの預言は、今は閉ざされているが、当時生きる者たちに大いに用立つであろう(Da 12:4)。ダニエルは今言葉を閉じ、書物に封印しなければならない。これらの事が成就する前に時は長いからである。そしてそれはいくらかの慰めであった。ユダヤ民族は、バビロンからの帰還の初期に、少なく弱かった時にそのわざにおいて妨げに遭ったが、その宗教のゆえに迫害されるのは、彼らがある程度の強さと成熟に成長した後、ずっと後のことだった。彼は書物に封印しなければならない。それは理解されず、それゆえ顧みられないだろうから。その中に含まれる事が成就するまで。しかしそれを大きな価値の宝として安全に保たなければならない。後の時代のために備えられ、彼らに大いに用立つために。多くの者があちこち走り回り、知識は増すから。その時この隠された宝は開かれ、多くの者がそれを探り求め、銀のようにその知識のために掘る。彼らはその写しを求めてあちこち走り回り、照合し、それらが真実で信頼できるものか確かめる。彼らは繰り返し読み、それについて黙想し、心の中で走り回す。彼らはそれについて論じ、互いに語り合い、メモを比較する。どうにかしてその意味をふるい分け得るなら。そしてこのように知識は増す。この機会にこの預言を参照することによって、彼らは他の聖書を探求するよう導かれ、それは有用な知識の向上に大いに貢献する。主を知ることを追い求め続けるなら、その時私たちは知るであろう(Ho 6:3)。知識を増やしたい者は労しなければならない。怠惰と単なる願いの中に座っていてはならず、あちこち走り回らなければならない。知識のすべての手段を用い、誤りを正し、疑いを解き、神の事の知り合いを向上させるすべての機会を活用して、より多くを知り、知っていることをよりよく知るために。そしてここに希望する理由を見よう。1. 今は暗く不明な神の事は、後に明らかになり、理解しやすくなる。真実は時の娘である。聖書の預言はその成就によって解き明かされる。それゆえ与えられ、その解明のために蓄えられる。それゆえ前に告げられる。それが起こる時、私たちが信じるために。2. 軽蔑され、疎かにされ、役に立たないと投げ捨てられた神の事は、評判にもたらされ、大いに用立つことが見いだされ、請われるようになる。神的啓示は一時軽蔑されても、あがめられ、誉れとされ、とりわけ大いなる日のさばきにおいて、書物が開かれる時に、その書も他と共に。

Daniel 12章 5-13 Matthew Henry's Complete Commentary

Daniel's Solicitude to Know the Times; Period of Prophecy; Daniel Comforted (534 BC)

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時を知りたいとのダニエルの切望;預言の期間;ダニエルへの慰め(紀元前534年)

⁵ その時わたしダニエルは見た。見よ、ほかのふたりが立っていた。ひとりは川の岸のこちら側に、もうひとりは川の岸の向こう側に。
⁶ そのひとりが、川の水の上にいるあさぎぬを着た人に言った。これらの驚くべき事の終わりはいつまででしょうか、と。
⁷ そしてわたしは、川の水の上にいるあさぎぬを着た人が、右の手と左の手を天に向かって上げ、とこしえに生きる方によって誓うのを聞いた。「それは一時と二時と半時の間である。そして聖なる民の力を打ち砕き終わる時に、これらの事はすべて成就するであろう」と。
⁸ わたしは聞いたが悟らなかった。そこでわたしは言った。わが主よ、これらの事の終わりはどうなるでしょうか、と。
⁹ 彼は言った。ダニエルよ、あなたの道を行け。これらの言葉は終わりの時まで閉ざされ、封印されているから。
¹⁰ 多くの者は清められ、白くされ、練られる。しかし悪しき者は悪を行う。悪しき者はだれも悟らない。しかし賢い者は悟る。
¹¹ 常供のいけにえが取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日がある。
¹² 待ち望み、千三百三十五日に達する者は幸いである。
¹³ しかし終わりまであなたの道を行け。あなたは休み、日の終わりにあなたの分に立つであろう。

ダニエルは、神のイスラエルが関わる限りにおいて、国々と王国の驚くべき変革を予見させられていた。その中で彼は教会の悩みの時、苦難の試みの時を予見し、その展望は彼に深く影響を与え、彼を憂慮で満たした。さてこの事について適切に問うべき二つの質問があった。終わりはいつか。そして終わりは何か。これらの二つの質問はここで、書の終わりに問われ、答えられる。そして Da 12:1-4 で処方された慰めは、十分に満足なものであると思われるが、さらに豊かな満足のためにこれが加えられる。

I. 終わりはいつかという質問は、御使いによって問われる。Da 12:5-6。これについて次を観察できる。

1. 質問したのはだれか。ダニエルはあさぎぬを着た人としての栄光の中のキリストの幻を持っていた。Da 10:5。しかし彼の語りかけは御使いガブリエルとであった。そして今彼は見る。見よ、ほかのふたり(Da 12:5)。彼が以前に見なかった二人の御使い。川の岸の一方の側にひとり、もう一方の側にひとり。川が彼らの間にあるゆえに、互いにささやくことがなく、彼らの語ることが聞かれるように。キリストは川の水の上に立って(Da 12:6)、ウライの岸の間に。それゆえその従者である御使いたちはそれぞれの岸に立つのがふさわしかった。その方が命じるままに、一方は一方へ、もう一方はもう一方へ行く準備ができるように。これらの御使いたちは現れた。(1) 幻を飾り、それをより輝かしいものとするため。また人の子の栄光に加えるため。Heb 1:6。ダニエルは彼らを以前には見なかった。おそらくそこにいたであろうが。しかし今、彼らが語り始めた時、彼は目を上げ、彼らを見た。次のことに注意せよ。神の事の中をより深く探り、それらとより多く交わるほど、私たちはそれらの事をより多く見、依然として新しい啓示がなされるであろう。多くを知る者は、それを用いるなら、さらに多くを知るであろう。(2) 啓示を確認するため。二人または三人の証人の口によって、言葉が確立されるため。三人の御使いがアブラハムに現れた。(3) 自らを知るため。聞き、質問するため。神の国の奥義は御使いたちが見ようと切に望むもの(1Pe 1:12)であり、教会に知らされているものであるから。Eph 3:10。さてこれらの二人の御使いの一人が言った。「終わりはいつか」と。おそらく彼らの両方が問うた。まず一人が、次にもう一人が。しかしダニエルは一人しか聞かなかった。

2. この質問はだれに向けられたか。あさぎぬを着た人に。前に読んだ(Da 10:5)。私たちの大祭司キリストに。その方は川の水の上におり、その代言人、あるいは通訳である御使いガブリエルがずっとその間であった。この川はヒデケルであった(Da 10:4)。チグリスと同じ。予告されたできごとの多くがその周辺で起こるであろう場所。それゆえそこに場面が置かれる。ヒデケルはエデンの園を潤した川の一つとして言及された(Ge 2:14)。それゆえキリストがその川の上に立つのはふさわしい。その方によって神の楽園の木々は潤されるから。水は民を意味し、それゆえ水の上に立つことはその方がすべてを支配することを示す。その方は洪水の上に座し(Ps 29:10)。海の水の上を歩まれる。Job 9:8。そしてキリストは、これがその方であることを示すために、肉の日に水の上を歩かれた。Mt 14:25。その方は川の水の上に(ある者はそう読む)、川の上の空中に現れた。

3. 質問は何であったか。「これらの驚くべき事の終わりはいつまでか」 ダニエルは質問しなかった。隠されているものに立ち入らないように、また父がご自身の権威に置かれた時や季節について詮索するように見えないために。Ac 1:7。しかし彼が答えの満足を得るために、御使いは彼の聞く所で質問した。私たちの主イエスは時として、弟子たちが恐れたり恥じたりして問うことを控えた質問に答えられた。Joh 16:19。御使いは関心を持つ者として問うた。「いつまでか」 神の民の上に過ぎ去るべきこれらの苦難の試みの時について、神の計り事においてこれらの驚くべき事の終わりのために定められた時は何か。次のことに注意せよ。(1) 教会の悩みは御使いたちの驚きである。彼らは神がその教会をこのように悩まされるに任せられることに驚き、その悩みによって神が教会にどのような善を行われるかを知ることを切に望む。(2) 良い御使いたちは、神が啓示される以上の未来の事を知らない。まして悪い御使いたちは。(3) 天の聖なる御使いたちは地上の教会に関心を持ち、その悩みを心に留める。それなら私たちが、それにより直接に関わり、その平和の中に多くの平和を持つ者は、なおさらそうすべきではないか。

4. 本当に秘密の数える者であり、来るべき事を知っておられる方から、どのような答えが返されたか。

(1) ここに、問い合わせをした御使いへのこれらの悩みの継続に関するより一般的な説明(Da 12:7)。それらは一時と二時と半時続く。すなわち一年と二年と半年。前にも示されたように(Da 7:25)。しかし預言の週の半分である。ある者はこれを不定に理解する。不確かなための確かな時。それは一時(かなりの時)、二時(最初に思われたのの二倍の、さらに長い時)、しかしそれは実際には半時、あるいは時の一部にすぎない。それが終わる時、恐れられたほどの半分にも満たないと思われるであろう。しかしこれはむしろ確かな時として取られるべきである。私たちはこれをヨハネの黙示録で、時に三日半として—三年半の代わりに—、時に四十二か月、時に千二百六十日として出会う。さてこの時の決定はここで[1] 誓いによって確認される。あさぎぬを着た人は両手を天に上げ、とこしえに生きる方によって誓った。そのようになることを。このように聖ヨハネが見た力ある御使いは、この幻に明らかに言及して、右の足を海に、左の足を地に置いて立ち、手を天に上げて、もはや時がないと誓うものとして描かれる。Re 10:5-6。ダニエルの見たこの力ある方は両足を水に置き、両手を上げて誓った。次のことに注意せよ。誓いは確認のために有用である。神によってのみ誓うべきである。私たちが訴えるべき正しい審判者であるから。そして手を上げることは厳かな誓いにおいて用いられる非常に適切で意味のある印である。[2] 理由によって例示される。神は彼が聖なる民の力を打ち砕き終わるまで彼に勝たせる。神は彼に最悪をさせ、最大限まで走らせ、その時これらの事はすべて成就する。次のことに注意せよ。神がその民を助け、救い出される時は、その事が最後の極限に達した時である。主の山において、イサクがほふられようとするまさにその時に救われることが見られる。さてできごとは予告に答えた。ヨセフスはそのユダヤ戦争記の中で expressly 明示的に言う。アンティオコス、あだ名エピファネスは、力によってエルサレムを驚かせ、それを三年六か月間保持し、その後アスモウ人あるいはマカベヤ人によって国から追い出された。キリストの公の奉仕は三年半続いた。その間、その方は罪人たちから的反対に耐え、貧困と恥の中に生きた。そしてその力がその死において完全に散らされ、その敵たちがその方の上で勝ち誇った時に、最も栄光ある勝利を得て、「完了した」と言われた。

(2) ここに、ダニエルに語られた言葉の中で、それらの悩みの継続の時についてより特に付け加えられたものがある。Da 12:11-12。[1] 悩みの時が数えられるべきできごとが定められる。アンティオコスによる常供のいけにえの取り除きと、祭壇の上に立てられたゼウスの像、すなわち荒らす憎むべきものから。彼らは公の仪式の益を奪われた時に、悩みが本当にはじまると数えなければならなかった。それは彼らにとって悲しみのはじめであった。それを最も心に留めた。[2] その悩みの継続。それは千二百九十日、三年と七か月、あるいは(ある者の計算では)三年六か月と十五日続く。そしてその時、おそらく常供のいけにえは回復され、荒らす憎むべきものは取り除かれた。その記念として奉献の祭は救い主の時代まで守られた。Joh 10:22。歴史によってそれがちょうどその日数であったことは現れないが、悩みのはじめがセレウコス朝の第百四十五年、その終わりが第百四十八年であったことは現れる。そしていけにえの回復と像の取り除きがちょうどその日数の後であったか、あるいは記録されていない他の目立った前のできごとであったかのいずれかである。聖書の預言には多くの特定の時が定められているが、どんな歴史—神聖なものも世俗のものも—によっても、できごとが答えたことは現れない。しかし疑いなくそれは正確に答えた。Isa 16:14のように。[3] 彼らの解放の完成、あるいは少なくともそれへのさらなる前進が、前者の四十五日後に置かれる。ある者はそれをアンティオコスの死を指すと考える。神殿を汚してから千三百三十五日後。待ち望み、その時に来る者は幸いである。マカベヤ人たちは神的導きの下に神殿と町を回復したと言われる(1Mac 9:28, 10:1)。多くの良い解釈者たちはこれらを預言の日(すなわちそれだけの年)とし、ローマ人によるエルサレムの滅亡から数える。しかしその時それらがどのできごとに当たるかについては同意していない。他の者は反キリストによる福音の礼拝の腐敗から数える。その支配はヨハネの黙示録で千二百六十日(すなわち年)に限られ、その終わりに彼は倒れ始める。しかし三十年後に、千二百九十日の終わりに、彼は完全に倒れる。そしてさらに四十年長生きして千三百三十五日に達する者は、確かに栄光ある時を見るであろう。これがそこまで先を見るかどうかは分からない。しかしこれから学び得る。第一に、教会の悩みの終結とその解放の実現のために定められた時があり、この時は日にちまで正確に守られること。第二に、この時は信仰と忍耐をもって待たれなければならないこと。第三に、それが来る時、その長い期待に豊かに報いるであろうこと。幸いなるかな、長く待ち望んで、ついにそれに来る者。その時彼は理由あって言うであろう。「見よ、これこそわれわれの神、われわれはその方を待ち望んだ」。

II. 終わりは何かという質問はダニエルによって問われ、それに答えが与えられる。観察せよ。

1. ダニエルがなぜこの質問をしたか。彼が御使いに語られたことを聞いたが、それを悟らなかったからである。Da 12:8。ダニエルは非常に聡明な人であり、幻と預言に親しんでいたが、ここで彼は当惑した。彼は一時と二時と半時の意味を悟らなかった。少なくとも彼が望んだほど明確には、確実には。次のことに注意せよ。最も良い人々も神の事についての探求においてしばしば当惑し、悟らないものに出会う。しかし彼らが良ければ良いほど、自分の弱さと無知をより自覚し、それを認めることをよりいとわない。

2. 質問は何であったか。「わが主よ。これらの事の終わりは何か」 彼は自分と語った御使いではなく、直接キリストにその問いを向ける。私たちが問い合わせを持っていくべき方は、だれのほかにあるか。「これらの事の最終的な成り行きは何か。それらは何に向かうか。何に終わるのか」 次のことに注意せよ。私たちがこの世の事、およびその中にある神の教会の事を見る時、これらの事の終わりは何かと考えざるを得ない。私たちは事が動くのを見る。あたかも人の間の神の国の完全な滅亡に終わるかのように。悪徳と不信心の蔓延、宗教の衰退、正しい者の苦難、不敬虔な者の上での勝ち誇りを見る時、私たちはよく問うことができる。「わが主よ。これらの事の終わりは何か」 しかしこれは一般的に私たちを満足させ得る。すべてはついに良く終わるであろう。真理は大いなるものであり、ついには勝つであろう。すべての対抗する支配、主権、権威は打ち倒され、聖さと愛は勝ち誇り、永遠に誉れとされるであろう。この終わり、この終わりは来る。

3. この質問にどのような答えが返されたか。時に関するもの(Da 12:11-12、前述)のほかに、ここにダニエルに与えられ、彼がそれ以上の出席から解散させられるいくらかの一般的な教訓がある。

(1) 彼は自分に啓示されたものに満足し、それ以上問い求めてはならない。「ダニエルよ、あなたの道を行け」 これまで来るべき事の予見にこれほどまでに導かれたことで十分とせよ。しかしここで止まれ。「あなたの道を行って、再び王の事に就け」Da 8:27。「あなたの道を行って、見聞きしたものを後の代の益のために記録せよ。今はこれ以上見聞きすることを貪るな」 次のことに注意せよ。神との交わりはこの世での私たちの絶え間ない盛宴ではない。私たちは時にキリストの栄光の証人として取られ、「ここにいるのは良い」と言う。しかし山から下りなければならず、そこには続く町がない。多くを知る者は知るのは一部にすぎず、依然として暗闇の中に保たれている多くのものがあることを見、ベールが引き裂かれるまでそうありそうであることを見る。ここまでその知識は及ぶが、それ以上はではない。「ダニエルよ、あなたの道を行け。持っているもので満足して」

(2) 彼は語られたことが成就するまで完全には理解されないことを期待してはならない。「これらの言葉は閉ざされ、封印されている」 困惑の中に包まれており、終わりの時まで、すなわちこれらの事の終わりまで、いやすべての事の終わりまでそうありそうである。ダニエルは終わりの時まで書物に封印するよう命じられた。Da 12:4。ユダヤ人はよく言った。「エリヤが来る時、すべてを告げるであろう」と。「それらは閉ざされ、封印されている」。すなわち、それらによってなされるべき啓示は今や完全に定められ、完了している。それに付け加えることも、それから取ることもない。それは閉ざされ、封印されているからである。それゆえこれ以上を求めるな。Nescire velle quæ magister maximus docere non vult erudita inscitia est—大いなる教師が教えようと選ばない事を知らないことを望む者は、多くを学んだ者である。

(3) 彼は、世界が立っている限り、今見るのと同じ善と悪の混じりが常にそこにあることを覚悟しなければならない。Da 12:10。私たちは神の畑にすべて小麦で雑草のないものを、神の打ち場にすべて穀物でもみ殻のないものを見ることを切望する。しかしそれは集入れの時、選別の日が来るまでではない。両者は収穫まで共に育たなければならない。今までの通り、これからもそうである。「悪しき者は悪を行う。しかし賢い者は悟る」 この点で、他の点と同様に、聖ヨハネの黙示録はダニエルと同じように終わる。Re 22:11。「汚れた者は汚れたままでいよ。聖なる者は聖なるままでいよ」 [1] 悪人が悪を行うことは避けられない。そのような人々が世の終わりまで世にいる。[昔の人のことわにも言われるように、悪は悪人から出る](1Sa 24:13)。現代人の観察も同じことを言う。悪い人は悪い事をする。そして腐った木は決して良い実を結ばない。人はいばらからぶどうを集めるか、心の悪い倉から良いものを出すか。いや。悪い行いは悪い原理と性向の自然な産物である。それゆえその事を驚くな。Ec 5:8。前に悪しき者は悪を行うと告げられた。彼らからそれ以上は期待できない。しかしさらに悪いことに、悪しき者はだれも悟らない。これは、第一に、その罪の一部である。彼らは悟ろうとしない。光に背を向けて目を閉じる。見ようとしない者ほど盲目な者はない。それゆえ彼らは悪い。悟らないからである。もし彼らが神の真理を正しく知るなら、神の律法を進んで守るであろうに。Ps 82:5。故意の罪は故意の無知の結果である。彼らは悪いから悟らないのではなく、光を憎み、そのわざが悪いから光に来ない。Joh 3:19。あるいは、第二に、それはその罰の一部である。彼らは悪を行い、それゆえ神は彼らを心の盲目に引き渡し、彼らについて「悟らず、回復されず、いやされない」と言われた。Mt 13:14-15。神は彼らに見る目を与えない。彼らが悪を行うからである。De 29:4。[2] しかし世が悪くても、神はその中に良い人々の残りの者をご自身のために確保される。なお一部がいるであろう。多くの者がいるであろう。神の摂理と仪式が彼らにとっていのちにはいのちへの香りとなる間、他の者には死には死への香りとなる者たちが。第一に、神の摂理は彼らに善を行うであろう。多くの者はその悩みによって清められ、白くされ、練られる(Da 11:35と比較)。同じ悩みが悪人の腐敗をかき立て、より悪を行わせるだけである間に。次のことに注意せよ。良い人の苦難はその試みのために意図されている。しかしこれらの試みによって彼らは清められ、白くされ、その腐敗は取り除かれ、その恵みは明るくされ、より活発でより目立つものとされ、誉れと、尊栄と、栄光のために見いだされる。1Pe 1:7。自ら聖別され良い者にはすべてのできごとが聖別され、善のために働き、彼らをより良くするのを助ける。第二に、神の御言葉は彼らに善を行うであろう。悪しき者は悟らないが御言葉につまずく間、賢い者は悟る。実践において賢い者は教えを悟るであろう。神の律法と愛に影響され、導かれる者は神の光によって照らされるであろう。もしだれでもその御旨を行おうとするなら、その者は真理を知るであろう。Joh 7:17。賢い者に教えを与えよ、そうすれば彼はさらに賢くなる。

(4) 彼は死において、さばきにおいて、そして永遠に至る自らの幸福の喜ばしい展望によって自らを慰めなければならない。Da 12:13。ダニエルは今や非常に年老いており、天との親密な交わりと、この地上での多くの公の業務の両方に長く従事してきた。そして今、この現在の状態に別れを告げることを考えなければならない。「終わりまであなたの道を行け」 [1] 私たちが皆、この世から去ることを多く考えることは良い。私たちは常に去りゆき、まもなく去らなければならない。すべての地の道を行って。それが私たちの道でなければならない。しかしこれが私たちの慰めである。私たちが神によって別の世界に召されるまで、そしてこの世界で神が私たちを用い終わるまで、去ることはない。「あなたの道を行け。あなたはそのあかしを終え、そのわざをなし、雇い人としてその日を成就した。それゆえ今、あなたの道を行け。そしてあなたの席を取る者たちに任せよ」と神が言う時まで。[2] 良い人がこの世からその道を行く時、その者は休息に入る。「あなたは休む」 現在のすべての労苦と動揺から。そして次の代に来る悪を見ないであろう。神の子がその死に際の時ほど適切に「わたしの魂よ、あなたの安息に帰れ」と言える時はない。[3] 時と日は終わりを持つ。私たちの時と日はまもなく終わるだけでなく、すべての時と日はついに終わりを持つ。もう少しで時はなくなり、そのすべての回転は数えられ、終わるであろう。[4] 墓における私たちの休息は日の終わりまでにすぎない。その時、喜ばしい復活によって平和な休息は喜ばしく妨げられるであろう。ヨブはこれを予見して死者について言った。天がもはやないまで、彼らは目を覚まさず、その眠りから起き上がらないと。それはその時彼らがすると暗示している。Job 14:12。[5] 私たちは皆、日の終わりに自分の分に立たなければならない。大いなる日のさばきにおいて、私たちは体の中にあったもの、したものに従って、自分の割り当てを持たなければならない。「来たれ、祝福された者たちよ」あるいは「行け、のろわれた者たちよ」。そして私たちはその分に永遠に立たなければならない。それはダニエルにとっての慰めであり、すべての聖徒にとっての慰めである。時の日々におけるその分が何であれ、日の終わりに幸いな分を持つであろう。選ばれた者たちの間にその分を持つであろう。そして私たちのそれぞれの大いなる関心と憂慮は、日の終わりに幸いな分を確保することでなければならない。そうすれば私たちは現在の分で十分満足し、神の御旨を喜ぶことができる。[6] 天のカナンにおける、日の終わりの、祝福された分への信仰の望みと展望は、私たちがこの世から去る時に私たちを効果的に支え、死に際の慰めを提供するであろう。