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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Daniel 8章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

無題

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この章の幻と預言は、ペルシャとギリシャの君主国において間もなく起こるべきだったできごとのみを、そして完全にそれらを見ており、それ以上の言及は全くないようである。カルデヤの君主国についてはここでは何も語られていない。それは今まさにその終わりにあったからである。それゆえこの章は、前の六章がカルデヤ人の益のためにカルデア語で書かれたのとは異なり、ヘブル語で書かれている。書の終わりまでの残りの章も同様である。ユダヤ人の奉仕のために。彼らが前にある悩みとその結末を知り、それに応じて備えることができるように。この章において私たちは次のものを持つ。I. 雄羊と雄やぎ、そして一定の限定された期間、神の民に対して戦い、勝つべき小さな角の幻。Da 8:1-14。II. 御使によるこの幻の解釈。雄_ram はペルシャ帝国、雄やぎはギリシャ帝国、小さな角はギリシャ君主国の王を意味し、それはユダヤ人と宗教に対抗して自らを立てる者、すなわちアンティオコス・エピファネスであったことが示される。Da 8:15-27。ユダヤ人の教会はその初めから、ずっと、多かれ少なかれ、預言者たちの祝福を受けていた。神の摂理において神の御心を彼らに説明し、彼らに臨むべきことのいくらかの展望を与えるために、神的霊感を受けた人々。しかしエズラの時の後まもなく、神的霊感は止み、福音の日が明け始めるまで預言者はもはやいなかった。それゆえその時代のできごとはここでダニエルによって予告され、記録として残された。それはその時にも、神が自ら証人なしにおられず、彼らを導き手なしにされないためである。

Daniel 8章 1-14 Matthew Henry's Complete Commentary

The Vision of the Ram and Goat (553 BC)

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雄羊と雄山羊の幻(紀元前553年)

¹ ベルシャザル王の治世の第三年に、一つの幻がわたし、すなわちダニエルに現われた。初めにわたしに現われたものの後であった。
² わたしは幻の中で見た。そしてわたしが見ていると、わたしはシュシャンの城にいた。それはエラムの州にある。そしてわたしは幻の中で見た。わたしはウライ川のほとりにいた。
³ そこでわたしは目を上げて見た。見よ、川の前に一本の雄羊が立っていた。それには二本の角があった。その二本の角は高かったが、一つは他よりも高く、高い方は後に生えた。
⁴ わたしはその雄羊が西、北、南に向かって突き進むのを見た。どの獣もその前に立ち向かうことはできず、その手から救い出す者もいなかった。それはその思いのままに行い、大いなる者となった。
⁵ わたしがこれを考えた時、見よ、一匹の雄山羊が西から、全地の面に来て、その足は地に触れなかった。その山羊の目の間には一つの目立つ角があった。
⁶ その雄山羊は川の前に立っているのをわたしが見た、あの二本の角のある雄羊のところまで来て、激しい力の勢いでそれに向かって走った。
⁷ わたしは彼が雄羊の近くに来るのを見た。彼は雄羊に向かって激しく怒り、雄羊を打って、その二本の角を折った。雄羊には彼の前に立つ力はなかった。彼は雄羊を地に投げ倒し、それを踏みつけた。雄羊をその手から救い出す者はなかった。
⁸ こうしてこの雄山羊は非常に大いなる者となった。しかしその強くなった時、その大いなる角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって四本の目立つ角が生え上がった。
⁹ その一つから一つの小さな角が出て、南と東と麗しい地に向かって非常に強大となった。
¹⁰ そしてそれは天の万軍にまで強大となり、天の万軍と星のうちのいくらかを地に投げ落とし、それらを踏みつけた。
¹¹ みずからを天の万軍の君にまで高くした。そして常供のいけにえはそのゆえに取り除かれ、その聖所の所は投げ倒された。
¹² そして一方では、そむきの罪によって、常供のいけにえに対する軍勢が彼に与えられた。そしてそれは真理を地に投げ落とし、行って栄えた。
¹³ その時わたしは、ひとりの聖者が語るのを聞いた。そしてもうひとりの聖者が語ったその聖者に言った。常供のいけにえと荒らす憎むべき事に関するこの幻、ならびに聖所と万軍が踏みつけられる事は、いつまで続くのであろうか、と。
¹⁴ 彼はわたしに言った。二千三百日まで。その時聖所は清められるであろう、と。

ここに、I. この幻の日付。Da 8:1。それはベルシャザルの治世の第三年であった。多くの者の計算によればそれは彼の最後の年であった。それゆえこの章も時の順序では第五章の前になるはずである。バビロンの破壊が今や間近に迫っていることにダニエルが驚かないように、神は彼に、その時代にはバビロンと同じほど強力であった他の王国の将来の破壊を予見させる。後に起こる変革を予見できれば、私たちは自分の時代の変革をそれほど驚き、それほど心を動かされることもないであろう。なされた事はなされるべき事だからである。Ec 1:9。その時に一つの幻がわたし、すなわちわたしダニエルに現われた。ここで彼は厳かにその真実さを証言する。その幻は彼に、すなわち彼に示された。彼はその目撃者であった。そしてこの幻は彼に、初めに彼に現われた、この治世の第一年に現われた以前の幻を思い出させる。彼がこれに言及するのは、この幻がその説明と確認であり、同じできごとの多くを指しているからである。それは夢、すなわち眠りの中の幻であったようであるが、これは彼が目を覚ましていた時に見たようである。

II. この幻の場面。それが置かれた場所は宮殿のあるシュシャンであった。ペルシャの王たちの王座の一つで、川のウライの岸に位置し、その川が町を取り囲んでいた。それはエラムの州、すなわちバビロンに最も近いペルシャの一部にあった。ダニエルは体ではそこにいなかった。彼は今バビロンにいて、捕囚としてベルシャザルの下で何らかの業務に就き、そのような遠い国には、特に今は敵地であるから、行くことができなかった。しかし彼は幻の中でそこにいた。エゼキエルがバビロンで捕囚としていた時、しばしば霊においてイスラエルの地に連れて来られたように。次のことに注意せよ。体が捕らわれている時、魂は自由になり得る。私たちが縛られていても、主の霊は縛られていないからである。その幻はその国に関わるものであったので、そこに彼は自分が本当にそこにいるかのように強く影響されるよう想像させられた。

III. 幻そのものとその経過。

1. 彼は二本の角のある雄羊を見た。Da 8:3。これは第二の君主国で、メディアとペルシャの王国がその二本の角であった。その角は非常に高かったが、後に生えたものがより高く、前者に先んじた。このように後の者が先となり、先の者が後となる。キュロスにおいて後に興ったペルシャの王国は、メディアの王国よりも目立つものとなった。

2. 彼はこの雄羊がその角で周囲のあらゆる方向に突き進むのを見た(Da 8:4)。西に(バビロン、シリア、ギリシャ、小アジアに向かって)、北に(リディア人、アルメニア人、スキタイ人に向かって)、そして南に(アラビア、エチオピア、エジプトに向かって)。これらすべての国にペルシャ帝国はある時、その支配を広げるために攻撃を試みたからである。そしてついにそれはどの獣もその前に立ち向かえないほど強力になった。この雄羊は、しばしば捕食される動物の種でありながら、捕食する獣たちにさえ恐るべきものとなった。その前に立つことも、逃れることも、その手から救い出す者もなく、すべてがそれに屈服しなければならなかった。ペルシャの王たちはその思いのままに行い、国々でのすべての道において栄え、国内では抑えることのできない力を持ち、大いなる者となった。彼は自分のしたいことをしたから自分を偉大だと思った。しかし善を行うことが人を真に偉大にするのである。

3. 彼はこの雄羊が雄山羊に打ち勝かされるのを見た。彼は雄羊を考え(これほど弱い動物がこれほど勢力を持つようになったことを不思議に思いながら)、その成り行きはどうなるかと思っていた時、見よ、一匹の雄山羊が来た。Da 8:5。これはアレクサンダー大王、マケドニアの王ピリッポスの子であった。彼は西から、ペルシャの西にあるギリシャから来た。彼はその軍勢と共に大きな迂回をした。彼は全地の面に来た。彼は事実上世界を征服し、それから征服すべきもう一つの世界がないために座して泣いた。Unus Pellæo juveni non sufficit orbis—ペッラの若者には一つの世界でも足りなかった。この雄山羊(Pr 30:31でその歩みの優美さで名高い生き物)は信じられないほどの速さで進み、その足は地に触れなかった。それほど軽やかに動いた。地の上を歩くというより、地の上を飛んでいるようであった。あるいは地の上のだれも彼に触れなかった、すなわち彼はほとんど、あるいはまったく抵抗に遭わなかった。この雄山羊、あるいは雄鹿には、目の間にユニコーンのような目立つ角があった。彼は力を持ち、自らの力を知っていた。自分がすべての隣人に匹敵することを知っていた。アレクサンダーはその征服をこれほど速く、これほど激しく押し進めたので、彼が攻撃した王国のいずれも立ち向かい、その勝利の腕の進行をくい止める勇気がなかった。六年のうちに彼は当時知られていた世界の大部分の主人となった。彼が目立つ角と呼ばれるのも当然である。彼の名は戦争において世界がかつて知った最も称賛される指揮官の一人の名として、今も歴史に生きているからである。アレクサンダーの勝利と業績は今なお才能ある人々の話題である。この雄山羊は二本の角のある雄羊のところに来た。Da 8:6。アレクサンダーはその勝利の軍勢と共にペルシャの王国を攻撃した。歩兵三万、騎兵五千からなる軍勢で。彼は激しい力の勢いでその動きを察知する前に驚かせるためにそれに向かって走った。彼は雄羊に近づいた。アレクサンダーとその軍勢はダレイオス・コドマヌス、当時のペルシャの皇帝に追いつき、彼に向かって激しく怒った。Da 8:7。アレクサンダーがダレイオスに対する戦争をこれほどの暴力で押し進めた。ダレイオスは膨大な数を戦場に投入したが、技術の不足から不釣り合いな相手であったので、アレクサンダーは彼と交戦するたびに彼に打ち勝ち、彼を打ち、地に投げ倒し、踏みつけた。この三つの表現は、ある者の考えでは、アレクサンダーがダレイオスに対して得たグラニコス、イッソス、アルベラの三つの有名な勝利を指す。これらによって彼はついに完全に敗走し、最後の戦いで六十万人が殺されたので、アレクサンダーはペルシャ帝国のすべての絶対的な主人となり、その二本の角、すなわちメディアとペルシャの王国を折った。Da 8:4でその前にあるすべてを滅ぼした雄羊は今や自ら滅ぼされる。ダレイオスにはアレクサンダーの前に立つ力はなく、彼をその手から救い出す友人や同盟国もない。次のことに注意せよ。力を持っていた時にそれを乱用し、だれも立ち向かえなかったゆえに悪を行うことを控えなかった王国は、やがてその力を奪われ、同じ仕打ちを受けることを期待し得る。Isa 33:1。

4. 彼はこれによって雄山羊が非常に目立つ者とされるのを見たが、このすべての戦果を挙げた大いなる角は折れた。Da 8:8。アレクサンダーは戦争を始めた時およそ二十歳であった。彼がおよそ二十六歳でダレイオスを征服し、ペルシャ帝国全体の主人となった。しかしおよそ三十二、三歳、その力の絶頂にあった時、彼は折れた。彼は名誉の戦場で戦死したのではなく、酔っての食い過ぎで、あるいはある者が疑うように毒で死に、彼が果てしなく労して得たものを楽しむために生きた子を残さず、世俗の虚栄と力のむなしさ、そして人を幸せにするには不十分であることの永続的な記念碑を残した。

5. 彼はこの王国が四つの部分に分けられるのを見た。その一つの大いなる角の代わりに四本の目立つ角が生え上がった。アレクサンダーの四人の将軍たちで、彼がその征服を遺贈した者たちである。彼はそれほど多くを持っていたので、四つに分けられても、それぞれが一人の人には十分であった。これらの四本の目立つ角は天の四方に向かい、ひょうの四つの頭(Da 7:6)と同じである。シリアとエジプト、アジアとギリシャの王国で、シリアは東に、ギリシャは西に、小アジアは北に、エジプトは南にある。次のことに注意せよ。富を積み上げる者はそれを集める者がだれであるか、彼らが用意したそれらすべてのものがだれのものとなるかを知らない。

6. 彼は小さな角を見た。それは教会と神の民の大いなる迫害者となった。これがこの幻で彼に示されることを意図された主要な事であった。後にDa 11:30以下のように。これがアンティオコス・エピファネス(彼は自らをそう呼んだ)—輝かしき者—であることにすべてが同意する。しかし他の者は彼をアンティオコス・エピマネス—激怒のアンティオコスと呼んだ。彼はここで(前のようにDa 7:8で)小さな角と呼ばれる。その起こりが軽べつすべきものであったからである。彼と王国の間には他の者がおり、彼は卑しく奴隷的な性質を持っていた。彼には王としての資質は何もなく、しばらくの間ローマで人質、捕虜であり、そこから逃げ出し、末弟であり、兄が生きていたにもかかわらず王国を得た。彼は南に向かって非常に強大となった。エジプトを奪い取ったからである。また東に向かって。ペルシャとアルメニアを侵略したからである。しかしここで特に注目されるのは、彼がユダヤの民になした害である。彼らは明示的に名指されていない。預言はあまりに明示的であってはならないからである。しかしここで彼らは、聖書の言葉を理解する者にはだれを意味するかが容易に分かるように描写され、ユダヤ人はこれを前もって知らされることによって、これらの苦難の試みの時に自らとその子どもたちを備えるよう目を覚まされ得た。(1.) 彼は麗しい地、すなわちイスラエルの地に対抗して立ち上がった。実りと人間生活のすべての喜びのゆえにすべての地の栄光と呼ばれたが、とりわけ神の臨在の印がその中にあり、神的啓示と制度によって祝福されていたからである。シオンの山は高く美しく、全地の喜びであった。Ps 48:2。その地の麗しさは、そこでメシアが生まれることであった。その方はその民イスラエルの慰めであり栄光となる方である。次のことに注意せよ。聖なる場所、神が住まわれ、私たちが神と交わる機会を持ち得る場所を、私たちは麗しい場所とみなす理由がある。確かに「ここにいるのは良い」のである。(2.) 彼は天の万軍に、すなわち神の民、教会に対して戦った。それは天の御国、地上の戦う教会である。聖徒たちは上から生まれ、天の市民であり、ある意味で天の御使いたちがするように神の御旨を恵みによって行うゆえに、天の万軍と適切に呼ばれ得る。あるいは幕屋の奉仕に用いられ、そこで良い戦いを戦った祭司とレビ人がこの天の万軍であった。アンティオコスは彼らに対抗して立ち上がり、彼らに逆らい、彼らを侮って天の万軍に向かって強大となった。(3.) 彼は万軍のいくらかを(すなわち星の。それらは天の万軍と呼ばれるから)地に投げ落とし、それらを踏みつけた。教会と国家の両方において最も傑出していた者たち、その時代に燃えて輝く光であった者たちのいくらかを、彼はその偶像礼拝に従うよう強いるか、あるいは死に処した。彼らをその手に捕らえ、彼らを踏みつけ、彼らの上で勝利した。年老いたエレアザルや七人の兄弟のように。彼らは豚肉を食べることを拒んだゆえに残酷な拷問で殺された。2Mac 6:7。彼はここにおいて天ご自身を侮辱し、そのみくらげを神の星の上に高く上げたことを誇った。Isa 14:13。(4.) 彼はみずからを万軍の君にまで高くした。彼は大祭司オニアからその尊厳を奪ってこれに立ち向かった。あるいはむしろ、神ご自身、古くからイスラエルの王であられ、とこしえにシオンの王として治められる方、ご自身の戦いを戦う天の万軍をご自身で率いる方に対して。アンティオコスはこの方に向かってみずからを高くした。パロが「主とはだれか」と言ったように。次のことに注意せよ。神の民を迫害する者は神ご自身を迫害する。(5.) 彼は常供のいけにえを取り除いた*。神がその祭壇の上で毎日その誉れのためにささげるよう定められた朝と夕の小羊を、アンティオコスはささげることを禁じ、妨げた。彼が他のすべてのいけにえを取り除いたことは疑いないが、常供のいけにえのみが言及される。それがすべての中で最大の損失であったからである。それによって彼らは神との絶え間ない交わりを保ち、それは時折りのものより好ましいものであった。神の民はその毎日のいけにえ、朝と夕の信仰の務めを、毎日の最も必要な務めと最も喜ばしい慰めとみなし、何をもってしてもそれらを手放さない。(6.) 彼はその聖所の所を投げ倒した。彼は神殿を焼き払い打ち壊しはしなかったが、それを汚し、ゼウス・オリンポスの神殿とし、その中に偶像を立てた時、それを投げ倒した。彼はまた真理を地に投げ落とし、真理の言葉である律法の書を踏みつけ、それを引き裂き、焼き、完全に滅ぼして失われ忘れられるようにと努めた。これらがその悪い君の計画であった。これらにおいて彼は行い、そして(信じられようか)これらにおいて栄えた。彼は事を非常に遠くまで押し進め、自分の目的を達したように見え、神の右の手が植えたその聖なる宗教を根絶するところまで行った。しかし彼や他のだれかが、ここにおいて神ご自身に打ち勝ったかのように勝ち誇ることのないよう、事はここで説明され、真の光の中に置かれる。[1.] 神がそれを許さなければ、彼はこれを行い得なかった。上から与えられなければイスラエルに対する力を持てなかったであろう。神はこの力を彼の手に与え、常供のいけにえに対する軍勢を彼に与えた。神の摂理がその剣を彼の手に置き、それによって彼がこのようにあらゆるものを圧倒し得たのである。次のことに注意せよ。教会の敵のすべての企てと成功において神の手を見、認めるべきである。彼らは神の手にある鞭にすぎない。[2.] 神の民が神を怒らせなければ、神はこれを許さなかったであろう。それはそむきの罪のゆえに、すなわちイスラエルのそむきの罪、それを彼らのために正すために、アンティオコスが用いられてこのすべての悩みを彼らに与えたのである。次のことに注意せよ。麗しい地とそのすべての麗しいものが荒らされる時、罪がその荒廃のすべての招く原因であることを認めなければならない。ヤコブを略奪に渡したのはだれか。我々の罪を犯した主ではなかったか。Isa 42:24。捕囚後のユダヤ人(偶像礼拝からは治された)の大きな罪は、聖なるものに対する軽べつと汚れであった。神の奉仕を鼻で笑い、引き裂かれたものや足の不自由なものをいけにえとして持って来、まるで主の食卓が軽べつすべきものであるかのようであった(Mal 1:7-8に見るように。また祭司たちがこれを犯したことがMal 2:1,8にある)。それゆえ神はアンティオコスを遣わして常供のいけにえを取り除き、その聖所の所を投げ倒させた。次のことに注意せよ。神の家の特権を軽べつし汚す者からそれらを奪うことは、神にとって正しい。また、楽しむことによってその価値を知ろうとしなかった者に、それらの欠乏によってその価値を知らせることも。

7. 彼はこの災いの時が制限され決定されているのを聞いた。それがいつ来るかの時ではなく(それはここでは定められていない。神はご自身の民に常に備えさせたいからである)、いつまで続くかを。彼らがどれくらい続くかを告げる預言者がもはやいない時(Ps 74:9。この詩篇はこの暗く悲しい日のために作られたようである)、時にかなって救いの望みを彼らに与えるこの預言を持つことができるために。これについて私たちはここに、

(1.) それについて問われた質問。Da 8:13。次を観察せよ。[1.] だれが質問をしたか。わたしはひとりの聖者が語るのを聞いた。そしてもうひとりの聖者が彼に次いだ。「ああ、この悩みがいつまで続くかを知りたいものだ!」 御使いたちはここで聖者と呼ばれる。彼らは聖なる者たちであるから(Da 4:13)。聖なる万軍。Jude 1:14。御使いたちは教会の事柄に関心を持ち、もし教会の一時的な救いについてここのように問うなら、まして大いなる救いを見ようと切に望む。1Pe 1:12。ひとりの聖者がその事について語り、もうひとりがそれについて問うた。このようにキリストのふところにいたヨハネが、ペテロに合図されてキリストに質問をした。Joh 13:23-24。[2.] だれに質問が向けられたか。彼は語ったパルモニに言った。ある者はこのある聖者を、他の者たちよりも多くを理解する優位な御使いとし、それゆえ彼らはその問い合わせのために彼のところに来たとする。他の者はそれを永遠の御言葉、神の御子とする。その方は知られない方である。パルモニはペロニ・アルモニの複合と思われる。それは(Ru 4:1で)おい、そこの人のために用いられ、(2Ki 6:8で)ある場所のために用いられる。キリストはなお名のない方であった。なぜその名を尋ねるのか。それは秘密だから。Jdg 13:18。ある者の翻訳では彼は秘密の数える者である。彼からは何も隠されていないからである。ある者は素晴らしい数える者。その名は不思議な助言者と呼ばれる。次のことに注意せよ。もし私たちが神の御心を知りたいなら、イエス・キリストに頼らなければならない。その方は父のふところにおり、そのうちに知恵と知識のすべての宝が隠されている。私たちからではなく、私たちのために隠されている。[3.] 問われた質問そのもの。「常供のいけにえに関するこの幻はいつまで続くのか。その禁止はいつまで続くのか。麗しい地はその厳しい禁令によっていつまで麗しくなくされるのか。荒らす憎むべき事(ゼウスの像)、すべての聖なるものを荒廃させるその大きなそむきは、いつまで神殿に立つのか。聖所と万軍は、聖なる場所とそこに仕える聖なる人々は、いつまで圧迫者に踏みつけられるのか。」 次のことに注意せよ。御使いたちは地上の教会の繁栄に関心を持ち、その荒廃の終わりを見ることを切望する。御使いたちは、ダニエルの満足のために、彼が知りたいと切望していることを疑わずに、これらの災いがいつまで続くかを問うた。その質問は、それらがいつまでも続かないことを前提としている。正しい者の分け前の上に悪人のつえは休まない。彼らの分け前に来ることはあっても。キリストはその苦しみの中でこれをもって慰めた。「わたしに関する事には終わりがある」(Lu 22:37)。教会もその苦しみの中で同様である。しかしいつまで続くかを知ることは望ましい。それに応じて備えることができるからである。

(2.) この質問に与えられた答え。Da 8:14。キリストは聖なる御使いたちに教えを与える。彼らは私たちの同労者であるから。しかしここでは答えはダニエルに与えられた。彼のために質問がされたからである。彼はわたしに言った。神は時に、彼らの友人たちの問いと願いに答えて、その民に大いなる恵みを与えられる。さて、[1.] キリストは彼に悩みが終わることを保証する。それは二千三百日まで続き、それ以上は続かない。その多くの夕べと朝(言葉はそうである)。その多くの昼夜、創世記の初めのように夕べと朝によって数えられる。彼らが最もその喪失を悲しみ、それらを奪われている間時の過ぎるのが非常に遅いと感じた夕べと朝のいけにえであったからである。ある者はこの数の中の朝と夕を二つを意味するとし、そうすれば二千三百の夕べと同じ数の朝はわずか千百五十日になる。そしてその約ほどの日数の間、常供のいけにえは中断された。そしてこれは(Da 7:25の)一時と二時と半時の計算に近い。しかしこれらをそれだけの自然日と理解する方が無理がない。二千三百日は六年と三か月、およそ十八日である。ちょうどその間、民の離反(大祭司メネラオスによって、セレウコス朝の王国の第百四十二年、その年の第六の月、その月の第六日—ヨセフスはそう記す—から、聖所の清めと彼らの間の宗教の再樹立まで、それは第百四十八年、第九の月、その月の第二十五日であった。1Mac 4:52)と計算する。神はご自身の民の患難の時を数えられる。Re 2:10、「あなたは十日の患難を持つであろう」。[2.] その方は彼らがその後より良い日を見ることを保証する。「その時聖所は清められるであろう。」 次に注意せよ。聖所の清めは、いかなる民にとっても良いことのための幸いな兆しである。彼らが改革され始める時、まもなく助けられるであろう。正しい神はその民の訓戒のために、しばらくの間その聖所が汚されるに任せられるが、ねたむ神はご自身の栄光のために、時にかなってその清めを見られる。キリストはその教会を清めるために死なれ、ついにはそれをしみも傷もないものとしてご自身にささげるまでに清められるであろう。

Daniel 8章 15-27 Matthew Henry's Complete Commentary

The Vision of the Ram and Goat (553 BC)

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雄羊と雄山羊の幻(紀元前553年)

¹⁵ わたしダニエルがこの幻を見て、その意味を知ろうとしたとき、見よ、わたしの前に人の姿のような者が立っていた。
¹⁶ わたしはウライ川の両岸の間から人の声が呼ばわって、こう言うのを聞いた、「ガブリエルよ、この幻をこの人に悟らせよ」。
¹⁷ すると彼はわたしの立っている所に近づいてきた。彼が来たとき、わたしは恐れて、ひれ伏した。しかし彼はわたしに言った、「人の子よ、悟れ。この幻は終りの時に関するものであるから」。
¹⁸ 彼がわたしに語っている間、わたしは地に向かってひれ伏したまま深い眠りに陥っていた。しかし彼はわたしに触れて、わたしを立てた。
¹⁹ そして彼は言った、「見よ、わたしは怒りの終りに起ることをあなたに知らせよう。それは定められた時のことであるから、終りは必ず来る」。
²⁰ あなたの見た二つの角を持つ雄羊は、メディアとペルシャの王たちである。
²¹ また毛の多い雄山羊はギリシャの王である。その目の間にある大いなる角は、初めの王である。
²² その角が折れて、それに代って四つの角が立ったが、それはその国から四つの王国が立つことであろう。しかしその勢力は彼のものではない。
²³ また彼らの国の終りの時、反逆者が罪の極みに達したとき、容貌の恐ろしい者で、謎を解する者が立ち上がる。
²⁴ その勢いは激しい。しかし自分の力によるのではない。彼は恐ろしい破壊を行い、成功し、事をなして、力ある者と聖なる民を滅ぼす。
²⁵ 彼はその策略によって巧みなわざを栄えさせ、その手の中で成功させる。彼は心に高ぶり、平和なうちに多くの人を滅ぼす。また彼は君の君に立ち向かうであろう。しかし人の手によらずに砕かれる。
²⁶ あなたに告げられた夕暮れと朝の幻は真である。それゆえ、あなたはこの幻を秘めておけ。これは多くの日のためであるから」。
²⁷ わたしダニエルは疲れはてて、数日間病気になった。そののち起きて王の事務を執ったが、わたしはこの幻に驚きおそれた。しかしだれもこれを悟らなかった。

ここには次のことが記されている。

I\. ダニエルがこの幻の説明を切に願ったこと(Da 8:15)。「わたしはその意味を知ろうとした」。 note、神の事を正しく知る者は、それについてさらに多くを知り、その奥義にさらに導かれることを願わずにはいられない。また、神から見たことや聞いたことの意味を見出そうとする者は、それを求め、熱心に求めなければならない。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」。ダニエルは事を考え、以前の啓示と比較して、理解できるかどうかを試みた。しかし特に祈りによって求めた(Da 2:18でそうしたように)。そして彼の求めはむだではなかった。

II\. この幻に関してダニエルに知らせるよう、御使ガブリエルに命じられたこと。人の姿をした者が(ある人々はこれをキリストご自身と考える。御使に命じることができるのは誰であるか)、ガブリエルにこの幻をダニエルに悟らせよと命じた。神は時として、ご自分の子らを守るためだけでなく、教えるために、御使の奉仕を用いることを喜ばれる。ご自分の摂理の善意だけでなく、恵みの善意にも仕えるためである。

III\. 教師が近づいたときのダニエルの狼狽(Da 8:17)。「彼が近づいたとき、わたしは恐れた」。ダニエルは分別と勇気に富んだ人であり、全能者の幻に親しんできたが、天からの特別な使者が近づくと、彼はこの恐怖に陥った。彼はひれ伏した。御使を拝むためではなく、その栄光のまばゆい輝きにこれ以上耐えられなかったからである。いや、地にひれ伏したまま、彼は深い眠りに陥った(Da 8:18)。これは幻を軽視したためでも、無関心であったためでもなく、彼の衰弱と、啓示の多さのゆえに受けていた霊の圧迫の結果であった。園での弟子たちは悲しみのために眠った。そこでもここでも、「霊は熱心であったが、肉は弱かった」。ダニエルは目を覚ましておきたかったが、できなかった。

IV\. 御使がダニエルに与えた救援と、この幻の意味の満足な啓示を期待させる大きな励まし。1. 御使は彼に触れ、彼を立たせた(Da 8:18)。ヨハネが同じような状況で同じような狼狽に陥ったとき、キリストは右の手を彼の上に置かれた(Re 1:17)。ここで御使がダニエルに与えたのは優しい触れであった。彼がダニエルを傷つけるためではなく、大いなる力をもって彼に抗議するためでもなく、重い手を彼の上に置すためではなく、彼を助け、彼に力を注ぐため(Job 23:6)に来たことを示すためであった。神はひとすじの触れでそれができる。わたしたちがこの地の上でまどろみ、うつぶせになっているとき、わたしたちは神からの言葉を聞き、神と交わるのに非常に不適切である。しかし神がわたしたちのために教えを備えられるなら、恵みによってわたしたちをまどろみから目覚めさせ、下の事から引き上げ、立たせてくださる。2. 御使は彼に知らせることを約束した。「人の子よ、悟れ」(Da 8:17)。「あなたは悟るであろう。もしあなたが悟ろうと心を向けるなら」。彼を人の子と呼んだのは、彼の器を考慮し、人の能力に合わせて彼に優しく接するつもりであることを示すためであった。あるいはこうして彼に謙遜を説くため。御使と交わることを許されたからといって、高ぶってはならない。自分が人の子であることを覚えなければならない。あるいはこの称号は彼に誉れを与える。メシアは最近人の子と呼ばれた(Da 7:13)。ダニエルはその方に縁があり、預言者として、また大いに愛される者としてその方の型である。御使は彼に怒りの終りに何が起るかを知らされると確信させる(Da 8:19)。これらの災難の時代を生きて見る者たちの慰めのために記しておこう。それには終りがある。「怒りはやむ」(Isa 10:25)。「過ぎ去る」(Isa 26:20)。それは中断し、また戻ることがあるかもしれない。しかし終りは栄光あるものとなる。善いことがそれに続く。いや、善いことがそこから引き出される。彼はダニエルに告げる(Da 8:17)。「終りの時にこの幻はある。怒りの終りが来るとき、この摂理の過程が完了するとき、出来事によって幻が明らかになり理解できるようになる。幻によって出来事が明らかになり理解できるようになるように」。あるいは、「ユダヤの教会の終りの時、その後の時代に、この幻は成就する。これから300年あるいは400年後である。それゆえにこれを悟れ。それは後の世代のために記録として残すためである」。しかし彼がさらに具体的に問うなら、「終りの時はいつか。それが来るまでどれくらいかかるのか」。この答えで十分であろう(Da 8:19)。「定められた時に終りは来る。それは変更することのできない神の定めの中に固定されており、詮索すべきではない」。

V\. 御使が与えた幻の説明。

1\. ペルシャとギリシャの二つの王国について(Da 8:20-22)。雄羊はメディアとペルシャの王たちの継承を表し、毛の多い雄山羊はギリシャの王たちを表す。大いなる角はアレクサンダーであり、それに代わって生じた四つの角は、彼の征服地が分割された四つの王国であった。これについては前に述べた(Da 8:8)。彼らは国々から立ち上がると言われるが、その勢力によるのではない。彼らのうちのだれもアレクサンダーが果たした役割を果たすことはなかった。ヨセフスは次のように伝えている。アレクサンダーがツロを奪い、パレスチナを征服し、エルサレムに向けて進軍したとき、その時の大祭司ヤドア(ネヘミヤはその名のひとりに言及している)は、彼の怒りを恐れ、共同の安全のために祈りと犠牲によって神に頼り、夢で警告された。アレクサンダーが近づくとき、町の門を開け放ち、彼と他の祭司たちはその衣を着て、すべての民は白い衣で出迎えるべきであると。アレクサンダーはこの一行を遠くに見て、ひとりだけで大祭司のところに行き、その額の金牌に刻まれた神の名の前にひれ伏し、まず彼に挨拶した。そして自分の部下のひとりからなぜそうしたのかと問われて、彼は答えた。自分がまだマケドニアにいて、アジアの征服を思い巡らしていたとき、このような服装の者が現れ、自分をアジアに招き、その征服に成功することを確約した、と。祭司たちは彼を神殿に導き、そこで彼らの指示の通りにイスラエルの神に犠牲をささげた。そしてそこで彼らは預言者ダニエルのこの書を彼に示した。そこにはギリシャ人が来てペルシャを滅ぼすことが預言されており、それはダレイオスに対して彼が今計画している遠征を大いにはげました。これによって彼はユダヤ人とその宗教を保護下におき、今進軍しているバビロンとメディアにいる彼らの同宗教者に親切にすることを約束した。彼を記念して、その年に息子が生まれた祭司はみなその息子をアレクサンダーと名づけた(Joseph. lib. 11)。

2\. アンティオコスとユダヤ人に対する彼の圧迫について。これはギリシャ人の王国の後の時代のことであると言われる。反逆者が罪の極みに達したとき(Da 8:23)。すなわち、堕落したユダヤ人が不義の度合いを満たし、この破壊のために熟し、神がもはや彼らを耐えることができなくなったとき、この王が立ち上がる。ユダヤ人を懲らめるための神の手にあるむちとして。ここで次のことを観察しよう。(1.) 彼の性格。彼は容貌の恐ろしい王、無礼で激怒しやすく、神を恐れず、人を顧みない。謎を解する者、あるいは(むしろ)暗いわざに熟練した者。不正直の隠された事。彼は偽装と欺瞞のすべての術に熟練し、だれにも劣らずサタンの深い事を知っていた。彼は悪を行うのに賢かった。(2.) 彼の成功。彼は周囲の国々に恐ろしい破壊をもたらす。その勢いは激しく、すべてを押し流す。しかし自分の力によるのではない(Da 8:24)。同盟者エウメネスとアッタロスの援助、多くのユダヤ人、彼の利益に入った祭司たちでさえも卑劣さと裏切り、特に神の許しによる。彼が恐ろしい破壊を行い、大いなる破壊者となることで偉大な人物になったと思うのは、自分の力ではなく、上から与えられた力によるのであった。彼は実に恐ろしい破壊を行う。彼は破壊する。[1.] 力ある民、そして彼らはその力によって彼に抵抗できない。エジプトの君たちはその全軍をもっても彼の前に立つことができず、彼は彼らに対して策略をめぐらし、成功する。 note、地の力ある者たちは通常、ついには自分より強い者、自分より力ある者に出会う。それゆえ強い人は、自分より強い者がいないと確信できない限り、その力がどんなに大きくても、その力を誇ってはならない。[2.] 彼は聖なる民、あるいは聖なる者たちの民を滅ぼす。彼らの神聖な性格は、彼が彼らを滅ぼすのを思いとどまらせることも、彼らが滅ぼされるのを防ぐこともしない。すべての事はすべての人に同じように臨み、この世では力ある者にも聖なる者にも同じ出来事がある。[3.] 彼がこの成功を得る方法。真の勇気、知恵、正義によるのではなく、その策略と巧みなわざ(Da 8:25)、詐欺と欺瞞、蛇のような巧妙さによって。彼は巧みなわざを栄えさせる。そのように巧みに計画を進めるので、おだての術によって目的を達する。「平和のうちに多くを滅ぼす」。他の者が戦争によってするのを、彼は平和によってする。条約、同盟、連合を装って、彼らの権利を侵し、彼らを服従させるよう巧みに仕向ける。このように時として、真に勇敢な国民が正義の戦いで得たものを、真に卑劣な国民が裏切りの平和で取り戻すことがあり、巧みなわざが栄えることがある。[4.] 彼が宗教に及ぼす害。彼は心に高ぶり、自分がすべての人に法を定め、命令するのにふさわしいと思い、「君の君」、すなわち神ご自身に立ち向かう。彼は神殿と祭壇を汚し、礼拝を禁じ、礼拝者を迫害する。ある人々の不敬虔が彼らをどれほどの厚かましさの高みに連れて行くかを見よ。彼らは神が王の王であるにもかかわらず、公然と神ご自身に挑戦する。[5.] 彼がついにもたらされる破滅。「彼は人の手によらずに砕かれる」。すなわち人間の手によらずに。彼は戦争で殺されるのではなく、暴君たちが通常そうであったように暗殺されるのでもない。彼は生ける神の手に陥り、神の復讐の直接的な打撃によって死ぬ。彼はユダヤ人が彼が神殿に置いたジュピター・オリンピウスの像を投げ出したことを聞き、ユダヤ人に対して激しく怒り、エルサレムを共同墓地にすると誓い、ただちにそこへ進軍することを決めた。しかしこの誇り高い言葉を口にするやいなや、彼は腸に不治の疫病にかかった。彼の体に虫があまりにも速く繁殖し、肉片が時折彼から落ちた。彼の苦痛は激しく、病気の悪臭はだれも近づくことができないほどであった。彼はこの惨めな状態に長く留まった。初めはユダヤ人への脅しを続けた。しかしついに回復を絶望し、友人たちを集め、ユダヤ人に加えた傷害とエルサレムの神殿を汚したことのために、これらすべての惨めな事が自分に臨んだことを認めた。そしてユダヤ人に丁重な手紙を書き、もし回復したら彼らに宗教の自由な行使を許すと誓った。しかし病気が自分の身に増し加えるのを見て、自分の悪臭に耐えられなくなったとき、彼は言った。「神に従うのが正しい。人間は死すべき者であるから、神に伍してはならない」。そしてバビロンに近いパカタの山で異郷の地に惨めに死んだ。ウッシャーの年代記(A.M. 3840)、キリストの誕生の約160年前による。

3\. 常供の燔祭の停止の続き期間として定められた時については、ここでは説明されず、ただ確認されるだけである(Da 8:26)。「夕暮れと朝の幻は真である」。言葉の本来の意味において、説明を要しない。神がご自分の聖所をこのように汚されることがいかにありそうもなく思えても、それは真である。あまりにも真である。そのようになる。

VI\. この幻の結び。ここに、1. 当分の間これを秘めておくようダニエルに与えられた命令。「この幻を秘めておけ」。カルデヤ人の間で公に知られないように。まもなく王国を所有するペルシャ人が、ユダヤ人に対してこれで憤慨するといけないからである。これによって彼らの王国の没落が預言されており、ペルシャの王からの解放の勅令が期待されている今、それは時宜を得たことではない。「これを秘めておけ。それは多くの日のためであるから」。この幻の時からその成就の時までは約300年であった。それゆえ彼は当分の間、ユダヤの民からさえこれを秘めておかなければならなかった。彼らを当惑させ、混乱させるからである。しかし成就の時の頃に生きる将来の世代のために安全に保管しておくべきであった。彼らにとってそれは最も理解しやすく、最も役立つものとなるであろう。 note、神の事について知っていることは慎重にたくわえておくべきである。後日、必要なときに忠実に用いることができるように。また今は何の役にも立たないものでも、別の時には役立つかもしれない。神の真理はわたしたちの宝の中に封印しておくべきである。多くの日を経て再び見出せるように。2. このような命令を受けた後、彼がそれを秘めておくためにとった配慮(Da 8:27)。彼は疲れはてて病気になった。この幻によって引き起こされた内なる多くの思いのゆえに。彼が見たことを公にすることが禁じられたので、それは彼を一層圧迫し、圧倒した。「その腹は出口のないぶどう酒のよう」(Job 32:19)。「新しい皮袋のように張り裂けそうであった」。しかし彼はこれを自分の内に留め、彼の受けていた関心を抑え、隠した。それで彼と交わる人たちはそれに気づかなかった。彼は王の事務を執った。自分の地位の義務に従って、それが何であれ。 note、この世に生きている限り、わたしたちはこの世で何かをしなければならない。そして神に最も多くの恵みで誉れを与えられた者たちでさえ、自分の仕事を離れてよいと思ってはならない。また神との交わりの喜びが特定の召しにおける義務からわたしたちを離れてはならない。それらのうちにあって常に神と共に留まるべきである。特に公務を委ねられた者たちは、良心に従ってその信託を果たすように留意すべきである。