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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Ecclesiastes 5章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

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ソロモンは本章において、次のことについて論じる。I. 神の礼拝について。これは、知恵、学問、快楽、栄誉、権力、事業の中にすでに空しいと観察したすべてのものに対する救済として処方される。私たちがそれらのものに欺かれず、それらのうちに出会う失望によって霊を悩まされないように、神に対する務めを良心に留め、神との交わりを保とう。しかし同時に、宗教的行為の中にあまりにもしばしば見出される空しさ、それがこれらの行為の卓越性を奪い、ほかの空しさに抗する助けとなれないようにする空しさに対しても、必要な警告を与える。もしその宗教が空しい宗教であるなら、その空しさはなんと大きいことか。それゆえ、次の点において空しさに気をつけよう。1. みことばを聞き、いけにえを献げることにおいて、Ec 5:1。2. 祈りにおいて、Ec 5:2,3。3. 誓いを立てることにおいて、Ec 5:4-6。4. 神聖な夢を装うことにおいて、Ec 5:7。さて、(1.) これらの空しさに対する救済として、彼は神を恐れることを処方する、Ec 5:7。(2.) 良い人々の現在の苦しみから生じるかもしれないつまずきを防ぐために、彼は神を見上げるよう導く、Ec 5:8。II. この世の富と、それに伴う空しさと悩みについて。地の産物は確かにいのちの維持に必要であるが(Ec 5:9)、銀、金、富については、1. それらは満たさない、Ec 5:10。2. それらは益をもたらさない、Ec 5:11。3. それらは安らぎを奪う、Ec 5:12。4. それらはしばしば有害で破滅をもたらす、Ec 5:13。5. それらは滅びる、Ec 5:14。6. 私たちが死ぬときそれらは後に残されなければならない、Ec 5:15,16。7. もし私たちがそれらを活用する心を持たないなら、それらは多大な不安をもたらす、Ec 5:17。それゆえ、彼は神が与えてくださったものの快適な使用を、与えてくださる方に目を向けて行うことを勧める。これが、それを持つ目的に応えるとともに、大財産に通常伴う害を未然に防ぐ最善の方法である、Ec 5:18-20。それゆえ、もし私たちが本章から、宗教の務めとこの世の務め(この二つが私たちの時間の大部分を占める)を、両方とも良い実を結ぶように管理し、安息日も平日も失われないようにする方法を学び得るなら、私たちは二つの良い教訓を学んだと言う理由がある。

Ecclesiastes 5章 1-3 Matthew Henry's Complete Commentary

A Caution to Worshippers

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礼拝者への警告

¹ あなたは神の家に行くとき、自分の足を守れ。愚か者のいけにえを献げるよりも、聞くことに努めよ。彼らは悪を行っていることを考えないからである。
² あなたの口で軽率に語ってはならない。あなたの心も神の前に何事を急いで述べてはならない。神は天におられ、あなたは地にいるからである。それゆえ、あなたのことばを少なくせよ。
³ 夢は多くの事業から来る。愚か者の声は多くのことばによって知られる。

ソロモンは、この世の空しさを示すことで私たちを世から遠ざけるにあたり、私たちを神と務めへと駆り立てることを目的とする。私たちが世の道を歩まず、信仰の規則によって歩み、世の富に頼らず、信仰の利点に頼るように。それゆえ、

I. 彼はここで私たちを「神の家」に、公の礼拝の場に、彼自身が膨大な費用をかけて建てた神殿に遣わす。彼が他のすべてのわざを反省をもって振り返ったとき(Ec 2:4)、彼はそのことを悔いなかった。むしろ喜びをもって振り返った。しかし、誇りをもって振り返るように思われないよう、それに言及しない。彼はここで、世の空しさをさらに知りたいと思う者、被造物の中にむなしく探し求められた幸福を見出したい者をそこに遣わす。ダビデは困惑したとき、「神の聖所に入った」、Ps 73:17。被造物における私たちの失望が、創造主に目を向けさせよう。神の恵みのことばに頼り、それに相談し、恵みの御座に頼り、それに願いよう。みことばと祈りの中に、すべての傷のための香油がある。

II. 彼はそこで私たちがよく振る舞うよう命じる。そこで来た目的を逃さないように。信仰の務めは空しいものではない。しかし誤って管理すれば、私たちにとって空しくなる。それゆえ、

1. 私たちは可能な限りの真面目さと配慮をもってそれらに取り組まなければならない。「あなたの足を守れ」。神の家から足を引っ込めて守れというのではない(Ps 25:17 のように)。また神に近づくのをいとい、ゆっくりとそこに行くことでもない。「自分の歩みに気をつけ、自分の足の道を熟考せよ」。偽りの一步を踏まないように。神の礼拝に厳粛な休止をもって取り組み、それのために自分を整える時間を取れ。急いでそれに取り組まず。それは「足で急ぐ」と呼ばれる、Pr 19:2。あなたの思いをその働きからさまよい歩かせず。あなたの感情を誤った対象に走らせず。神の家の務めには全人のための働きが十分にあり、すべてを用いてもなお足りないほどだから。ある人々はこれがモーセとヨシュアに与えられた「くつを脱げ」という命令(Ex 3:5, Jos 5:15)への服従と従順のしるしとしての暗示と考える。「あなたの足を清く保て」、Ex 30:19。

2. 私たちが献げるいけにえが「愚か者のいけにえ」(悪人の)でないことに注意しなければならない。彼らは愚か者であり、その「いけにえは主への忌み嫌うべきもの」である、Pr 15:8。「引き裂かれたもの、足の不自由なもの、病気のものをいけにえとして」持ってこないこと。それは受け入れられないとはっきり告げられているから。それゆえ持ってくるのは愚かである。しるしと儀式、外面的な履行に安んじず、その意味と意図を重んじないこと。それが「愚か者のいけにえ」である。もし体の務めがすべてなら、それは冗談である。霊であられ、心を求められる方をそのように喜ばせることができると考えるのは愚か者だけである。誠実さを欠いたために、どれほどの骨折りが無駄になったかを見いだすとき、彼らの愚かさは明らかになる。彼らは「愚か者」である。「悪を行っていることを考えない」から。彼らは自分たちが神と自分自身に良い奉仕をしていると思う。実際には、偽善的な信仰によって神に大きな侮辱を与え、自分のたましいに大きな欺きを与えているのに。人は良いことをしていると告白しているとき、そして知らないとき、考えないときでさえ、悪を行っていることがある。「彼らは悪を行うほか知らない」とある人々は読む。悪しき心は信仰の行為の中でさえ、罪を避けることができない。あるいは、「彼らは悪を行っていることを考えない」。当てずっぽうに行動する。正しくても間違っていても、神に喜ばれても喜ばれなくても、彼らには同じことである。

3. 「愚か者のいけにえ」を献げないために、私たちは自分の務めを知り、行う心構えをもって神の家に来なければならない。「聞くことに努めよ」。すなわち、(1.) 読まれ語られる神のことばに勤勉に「注意を払わ」なければならない。「祭司たちがいけにえについて与える説明を『聞くのに急げ』」。その意図と意味を宣言し、彼らのすることをただ見つめるだけで十分だと思わない。それは「合理的な礼拝」でなければならない。そうでなければ「愚か者のいけにえ」である。(2.) 明らかにされた神のみこころに従うことを決意しなければならない。「聞く」はしばしば「従う」のために置かれる。それが「いけにえにまさる」ものである、1Sa 15:22, Isa 1:15,16。私たちが聖なる務めに正しい心構えで来るのは、「語ってください、主。しもべは聞きます」という心で来るとき。「主のことばを来てください」と(ある良い人が言った)。「もし私が600の首を持っていたら、その権威にすべてを曲げるであろう」。

4. 神への接近と語りかけのすべてにおいて、私たちは非常に慎重で思慮深くなければならない(Ec 5:2)。「あなたの口で軽率に語ってはならない」。祈り、宣言、約束をするにおいて。「あなたの心も神の前に何事を急いで述べてはならない」。注記。(1.) 私たちが「神の家」に、信仰の礼拝のための厳粛な集会の中にいるとき、私たちは特に神の前に、神の臨在の中にいる。そこで神はご自分の民と会うことを約束された。そこで神の目は私たちにあり、私たちの目は神に向かうべきである。(2.) 私たちは神の前に言うべきこと、述べるべきことがある。「聖なる務めにおいて神に近づく」とき。神は「私たちが関係を持つべき方」、極めて重要な用事を持つ方である。用事なしに来れば、何の益もなく去ることになる。(3.) 私たちが「神の前に述べる」ものは「心」から来なければならない。それゆえ「口で軽率に」してはならない。信仰において決して舌が思いを追い越してはならない。「私たちの口のことば」は常に「私たちの心の思い」の産物でなければならない。思いは神へのことばであり、ことばは思いから写し取られなければ風にすぎない。唇の労苦は、それがすべてであるなら、どれほど労しても、宗教においては失われた労働にすぎない、Mt 15:8,9。(4.) 私たちの言うことが心から来るだけでなく、整えられた心から来なければならず、突然の熱や激情からであってはならない。口が軽率であってはならないように、心も急いてはならない。語る前に二度考えなければならない。神から語る説教においても、神に語る祈りにおいても。不品行で未消化のものを述べてはならない、1Co 14:15。

5. 私たちは神の前でことばを控えなければならない。すなわち、畏れと思慮深さを持たなければならない。お互いに語るように大胆で無造作に神に語らず、思い浮かんだことを語らず、繰り返し繰り返し言わない。私たちがお互いにするように、理解され記憶され印象を与えるために。いや、神に語るときは考慮しなければならない。(1.) 神と私たちとの間には無限の距離がある。「神は天におられる」。そこで神は栄光のうちに私たちとすべての人の子の上に君臨される。そこで神は数え切れない聖なる御使いたちに仕えられ、「私たちのすべての賛美と誉れにはるかに高く昇っておられる」。「私たちは地にいる」。神の王座の足台。私たちは卑しく、神に似ず、神からのいかなる恵みを受けるにも、神とのいかなる交わりを持つにも全くふさわしくない。それゆえ非常に厳粛で、へりくだり、真面目でなければならない。はるかにまさる偉い人に語るときのように、畏れをもって神に語らなければならない。そのしるしとして、「私たちのことばを少なくせよ」。それが「よく選ばれる」ように、Job 9:14。これはすべての長い祈りを非難するものではない。もしそれらが良くなければ、パリサイ人はそれらを口実に用いなかっただろう。キリストは夜通し祈られた。私たちは「祈り続ける」よう導かれている。しかしそれは、不注意で心のない祈り、「無駄な繰り返し」(Mt 6:7)、「主の祈り」を数えて繰り返すことを非難する。神に、また神について、神ご自身のことば、聖書が教えることばで語ろう。そして私たちのことば、私たち自身の考案によることばを少なくしよう。規則によって語らないなら、語り損じるから。(2.) 信仰におけることばを増やすことは、それらを「愚か者のいけにえ」にする、Ec 5:3。混乱した夢、恐ろしく当惑させ、眠りを妨げる夢が、頭を満たす事業の慌ただしさの証拠であるように、祈りで用いられる多くのことば、急いだことばは、心に支配する愚かさ、神と自分自身の双方への無知と不慣れ、神の低い考え、自分のたましいへの軽率な考えの証拠である。日常の会話でさえ「愚か者はことばの多さによって知られる」。最も知らない者が最も多く語る(Ec 10:11)。とりわけ信仰において。そこでは疑いなく「おしゃべりな愚か者は倒れる」、Pr 10:8,10。受け入れられることに届かない。祈りにおいて「その多く語るゆえに聞かれる」と考える者は、確かに愚か者である。

Ecclesiastes 5章 4-8 Matthew Henry's Complete Commentary

The Obligation of a Vow

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誓いの義務

⁴ 神に誓いを立てたなら、それを払うのを引き延ばしてはならない。神は愚か者を喜ばれない。あなたが誓ったものを払え。
⁵ 誓わない方が、誓って払わないよりまし。
⁶ あなたの口が肉に罪を犯させないようにせよ。また御使の前に、それは過ちであったと言ってはならない。なぜ神はあなたの声に怒り、あなたの手のわざを滅ぼされようか。
⁷ 夢の多さと多くのことばの中には、また多様な空しさがある。しかし神を恐れよ。
⁸ もしあなたが貧しい者の抑圧と、州におけるさばきと正義の暴力的な曲げを見ても、その事を不思議に思ってはならない。最も高い者より高い者がこれに目を留められるからである。彼らより高い者たちがいる。

これらの節で私たちは四つのことに励まされる。

I. 誓いを払うことに良心を留めること。

1. 誓いはたましいの上の絆である(Nu 30:2)。私たちが荘厳に自分を義務づける。すでに義務づけられていることを行うという一般論だけでなく、特定の実例において、以前の義務の下にはなかったことを行う。神を尊ぶこと、あるいは人々の間に神の国の利益に仕えることに関する。ある苦難の感覚の下で(Ps 66:14)、あるあわれみの追求で(1Sa 1:11)、「神に」そのような誓いを誓ったなら、「あなたは主に向かって口を開けた。そして後戻りできない」ことを知れ。それゆえ、(1.) それを払え。約束したことを行え。神に献げ、神にささげたものを神に持って来よ。「あなたが誓ったものを払え」。全額で払え。「代価の一部を差し控えるな」。現物で払え。「それを変えたり、取り替えたりしてはならない」。律法はそうであった、Le 27:10。私たちは「自分自身を主に献げる」と誓ったか。それなら言葉通りにせよ。神の奉仕に働き、神の栄光のために、冒とく的に自分を異質のものにしてはならない。(2.) 「それを払うのを引き延ばしてはならない」。もし今日払う力が手にあるなら、明日まで残すな。「日を乞うな」。もっと都合の良い季節まで延ばすな。遅延によって義務の感覚は緩み、冷え、消え去る危険にある。それによって誓いを果たすことの嫌悪と後ろ向きを発見する。「今日気のない者は明日はいっそう不承忍になる」。引き延ばせば引き延ばすほど、自分をそれに向かわせることがいっそう困難になる。死が支払いを妨げるだけでなく、破られた誓いの罪責の下にあなたを審判に連れて行くかもしれない、Ps 76:11。

2. なぜ私たちが迅速に喜んで誓いを払うべきかの二つの理由。(1.) そうしなければ神を侮辱するから。神と愚か者遊びをする。まるで神に騙しを仕掛けるつもりのように。そして「神は愚か者を喜ばれない」。表現以上のことが含まれる。意味は、神はそのような愚か者とそのような愚かな取り引きをひどく憎まれるということ。「神は愚か者を必要とされるか」。いや。「騙されてはいけない。神は侮られる方ではない」。しかし、このように神とてんやわんやをする者と確かに厳しく清算される。(2.) そうしなければ自分を損なうから。「誓い」を立てる益を失う。いや、それを破る罰を被る。それゆえ「誓わない」方がはるかに「誓って払わない」より良かった。安全で有利であった。「誓わない」ことは単なる怠慢であったが、「誓って払わない」ことは裏切りと偽証の罪を被る。それは「神に偽ること」である、Ac 5:4。

II. 誓いを立てることに慎重であること。これは誓いを果たすことに良心を留めるために必要である、Ec 5:6。1. 私たちは決して罪であるもの、罪の機会となるものを誓わないように注意しなければならない。そのような誓いは悪く立てられ、破られなければならない。「そのような誓いによって」「あなたの口が」「肉に罪を犯させるな」。ヘロデの軽率な約束が彼にバプテストのヨハネの首を斬らせたように。2. 肉の弱さのゆえに果たせないと恐れるべき理由のあるものを誓ってはならない。独身生活を誓いながら誓いを守る方法を知らない者のように。これによって、(1.) 自分を恥じ入らせる。「御使の前に、それは過ちであったと言わなければならない」。意味しなかったか、考えなかったかのいずれか。どちらに取っても十分に悪い。「誓いを立てたとき、それを回避しようとしたり、義務から逃れるための口実を探したりしてはならない」「祭司の前に」、万軍の主の使いなる「御使」と呼ばれる者の前に、再考の結果、考えを変え、誓いの義務から解放されたいと言ってはならない。むしろそれに固執し、抜け出す穴を探してはならない。ある人々は「御使」を、各人に同行し、その行いを調べると想定される守護天使と理解する。他の人々は契約の御使キリストと理解する。神の民の集会に共におられ、心を探り、欺かれない方。「神の御名は彼のうちにある」ゆえに彼を怒らせるな。彼は厳格でねたむ方として表される、Ex 23:20,21。(2.) 神の怒りに自らをさらす。神は「このように口で偽り、舌でへつらう」者の「声に怒られる」。その偽りに不快感を持たれる。「彼らの手のわざを滅ぼされる」。すなわち、彼らの事業を打ち、誓いを立てたときその成功のために神に求めていた目的を挫折させる。もし私たちが不誠実に口のことばを取り消し、誓いを取り消すなら、神は正当に私たちの計画を覆し、このように神と不誠実に、無謀に歩む者と、対抗して、無謀に歩まれる。誓った後に尋ね求めることは「人の罠である」。

III. 神を恐れることを保つこと、Ec 5:7。昔、多くの者が「夢」によって神の御心を知ると称した。そしてそれらに満ちて、ほとんど神の民に「夢」で神の御名を忘れさせた(Jer 23:25,26)。そして今も多くの者が、恐ろしい夢や奇妙な夢、あるいは他の人の夢に思い煩い、それらがこれやあれの災いを予兆すると考える。夢に注意を払う者は、頭を満たすために多くの夢を持つ。しかしそれらすべての中には「多様な空しさがある」。多くのことばの中にあるように。それらに注意を払えば払うほど。「それらは子供や愚か者の怠惰で無関係な雑談のようなもの。それゆえ決して気にするな。忘れよ。それらを繰り返す代わりに、重きを置かず、不安な結論を引き出さず、神を恐れよ。神の主権に目を留め、神を前に置き、神の愛に留まり、神を怒らせるのを恐れよ。そうすれば愚かな夢で自分を乱さない」。天のしるしに怯えず、「異邦人の偶像を恐れない」ためには、「諸国の王として神を恐れる」ことである、Jer 10:2,5,7。

IV. それと共に人を恐れることを抑えること、Ec 5:8。「神を前に置け。そうすれば『貧しい者の抑圧を見ても』『その事を不思議に思わない』。神の摂理に欠点を見いださない。その目的がこのように曲げられるのを見て、行政の制度を悪く思わない。宗教が人不正から守らないのを見て、宗教を悪く思わない」。ここで観察せよ。1. 地上の憂鬱な光景。すべての良い人を悩ませずにはいられない。正義の感覚と人類への関心を持つ者が。貧しいゆえに貧しい者が抑圧され、州で「さばきと正義が暴力的に曲げられる」のを見る。法律の色の下で、権力に支えられた抑圧。王国全体は良い統治を持つかもしれない。しかし特定の州が悪い者に委ねられ、その悪政によって正義が曲げられることが起こり得る。賢王でも、地位を与える際にその人を確実にできるほど難しい。苦情が現れたときにそれを是正できるのみ。2. 天の慰めの光景。事がこのように憂鬱に見えるとき、これで満足できる。(1.) 圧制者が「高い」ても、神は「彼らの上に」いる。まさに彼らが「高ぶる」その事において、Ex 18:11。神は被造物の最も高い者、王子の最も高い者、「アガグよりも高い」王(Nu 24:7)、最も高い御使いたち、上の世界の「王座と主権」よりも高い。神は「全地の上の最も高い方」。神の「栄光は天の上に」。神の前では王子たちは虫。最も輝く者も発光虫にすぎない。(2.) 圧制者が安全でいても、神は彼らに目を留められる。彼らの暴力のさばきの曲げをすべて目に留め、記録に留め、再び呼び出されるために。「神は目を留められる」。見るだけでなく観察し、記録に留める。「神の目は彼らの道にある」。Job 23:33 を見よ。(3.) 御使いたちの世界がある。「彼らより高い者たちがいる」。彼らは傷つけられた者を守り、傷つける者を罰するために神の正義によって用いられる。センナケリブは強力な軍勢を誇った。しかし一人の御使が彼とそのすべての軍勢には強すぎた。ある人々は「彼らより高い者たち」を国の大会議、州の「王子たちが責任を負う」大統領(Da 6:2)、総督に対する告訴を受ける元老院、下級裁判所から上訴される上級裁判所と理解する。これらは王国の良い統治に必要である。圧制者への制止として。地上の上司が彼らを呼び出すかもしれない。いずれにせよ、至高の神である天の神がそうされるであろう。

Ecclesiastes 5章 9-17 Matthew Henry's Complete Commentary

The Vanity of Riches

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富の空しさ

⁹ また地の益はすべての人のためにある。王もまた畑に仕えられる。
¹⁰ 銀を愛する者は銀に満足することなく、豊かさを愛する者は収穫に満足しない。これもまた空しい。
¹¹ 財産が増えると、それを食う者も増える。その持ち主は目で見る以外に何の益を得ようか。
¹² 労する者の眠りは甘い。少し食っても多く食っても。しかし富者の満ち足りることは彼に眠ることを許さない。
¹³ わたしが日の下で見た悪い病がある。それはそれを持つ者に害を及ぼすために蓄えられた富である。
¹⁴ その富は悪い労苦によって滅びる。彼はひとりの子を得るが、その手には何もない。
¹⁵ 彼は母の胎から出たように裸で帰る。彼は来たように去り、その労苦から何一つ手に携えて行くことができない。
¹⁶ これもまた悪い病である。彼が来たと同じように去って行くこと。そして風のために労した者に何の益があろうか。
¹⁷ また彼は生きるすべての日をやみの中で食べ、悲しみと怒りと病とを共にする。

ソロモンは、快楽、陽気さ、美しい作品の空しさ、誉れ、権力、王の尊厳の空しさを示した。そして多くの貪欲な世的な人々が彼に同意し、これらのものについて彼と同じように軽く語るであろう。しかし、と彼は考える、お金は実質的なものであり、それを十分に持てば幸せである。これがソロモンが攻撃し、これらの節で正そうと試みる誤りである。彼は、大いなる富のうちに、それらに関する目の欲のうちに、肉の欲やいのちの誇りのうちにあるのと同じほどの空しさがあることを示す。人は、財産を費やすことによってでなく、それを蓄えることによっても、決して自分を幸福にはできない。

I. 彼は、人間生活の支えと慰めのための地の産物が価値あるものであることを認める(Ec 5:9)。地の益はすべての人のためである。人の体は地から造られたゆえに、そこから養いを得る(Job 28:5)。そしてそうであること、不毛の地が(反逆したゆえに当然受けるべきであったのに)その住処とされないこと(Ps 68:6)は、神のその人への大いなる恵みの実例である。地から得る益があり、それはすべての人のためである。すべての人がそれを必要とし、すべての人のために定められ、すべての者に十分である。それはすべての人のためだけでなく、すべての劣った被造物のためでもある。同じ地が家畜のための牧草をも、人に仕える草をも生じる。イスラエルは天から、御使いたちの食物なるパンを得たが、(へりくだるべき考察であるが)地は私たちの倉であり、獣は私たちと共にその恩恵にあずかる者である。王自身も畑に仕えられ、その産物なしには仕えられることも、飢え死にすることになる。これは農夫の召しに大いなる誉れを与える。人のいのちの維持にとって最も必要なものであるから。多くの人々がその益を受ける。強大な者もそれなしには生きられない。それはすべての人のためであり、王自身のためでもある。地の産物を豊かに持つ者は、それがすべての人のためであることを覚えなければならない。それゆえ自らの豊かさの執事にすぎず、その中から必要な者に与えなければならない。ごちそうや柔らかい衣はある人々のためにすぎないが、地の産物はすべての人のためである。海の豊かさを吸う者たち(De 33:19)も地の産物なしにはいられない。一方、地の産物を十分に持つ者は海の豊かさを軽蔑し得る。

II. 彼は、これらを超える富、すなわち用途のためではなく蓄えるための富は空しいものであり、人を安らかに、また幸福にはしないと主張する。私たちの救い主が言われたこと(Lu 12:15)、人のいのちは持ち物の豊富さにはないということが、ソロモンがここで多様な論拠によって証明しようとするものである。

1. 人々は持てば持つほどさらに欲しくなる(Ec 5:10)。人はわずかな銀を持ち、それに満足し、いつ十分かを知り、それ以上を欲しないこともある。信心は満足をもって大いなる得である。ヤコブは十分に持っていると言い、パウロはすべてがあり、満ちあふれていると言う。しかし、(1.) 銀を愛し、それに心を向ける者は、決して十分だと思わず、地獄のようにその欲望を広げ(Hab 2:5)、家に家を加え、畑に畑を加え(Isa 5:8)、ひるの娘たちのように、常に『与えよ、与えよ』と叫ぶ。自然の欲望は望むものが得られると静止するが、腐敗した欲望は満たされない。自然は少しで満足し、恵みはさらに少なくて満足するが、欲望は何事にも満足しない。(2.) 銀を豊かに持ち、それがいくら速く増えても、それが魂にいかなる確固たる満足をもたらすのを見いださない。銀そのものが満たせない肉体の欲望がある。もし人が飢えていれば、銀の延べ棒は粘土の塊と同じくらいしか飢えを満たさない。まして世的な豊かさが霊的な欲望を満たすことは少ない。いくら銀を持っていても、それだけでなく、別の性質の何かをさらに欲する。自分自身を世の奴隷とする者たちは、満たさないもののために労する(Isa 55:2)。腹を満たすが、決して魂を満たさない(Eze 7:19)。

2. 人々は持てば持つほど、それが必要になり、それにかかわることが増える。それゆえ長いも短いも同じである。財産が増えると、それを食う者も増える(Ec 5:11)。肉が多ければ口も多い。財産は栄えるか。その同じ時に家族はより大人数になり、子どもたちはより多くを必要とするように成長するのではないか。人々は持てば持つほど、より良い家を保たねばならず、より多くの召使いを雇い、より多くの客をもてなし、より多くを貧しい者に与え、より多くの者が彼らに寄りかかる。死体のある所に鷲が集まるように。食物と着る物を超えて持つものは他者のためにある。それなら持ち主自身に何の益があるか。目で見る喜び以外に。そしてそれは哀れな喜びである。空虚な思案が、持ち主と分け前を得る者のすべての違いである。持ち主は自分のものとして見るが、周囲の者はそれと同じだけの実際の利益を彼と同じように楽しむ。ただし他者に善を行う満足感、すなわちキリストが受けるよりも与える方が幸いであると言われたことを信じる者にとっての満足感を持つ。しかし、自分の傍らを過ぎるものはすべて失われたと考える貪欲な者にとって、他者が自分の増し加わるものを食べるのを見ることは絶え間ない苦悩である。

3. 人々は持てば持つほど、それに関する配慮が増え、それが彼らを悩ませ、休息を妨げる(Ec 5:12)。爽快な眠りは、食物と同じくらいこのいのちの支えであり慰めである。さて、(1.) 一般に、よく働き、そのために働いたものを持つ者たちが最もよく眠る。労する者の眠りは甘い。労苦で疲れたからだけでなく、それは眠りをいっそう歓迎し、深く眠らせる。また、頭を埋め、眠りを破る配慮が少ないからでもある。少ししか食べず、食べるものが少なくても、彼の眠りは甘い。疲れが彼を眠りに誘うからである。多く食べてもよく眠れる。労苦が良い消化を得させるからである。勤勉なクリスチャンの眠り、その長い眠りも甘い。自らと時を神の奉仕に費やしたのち、喜んで神に立ち返り、安らぎとして神に憩うことができるから。(2.) 他のすべてを持つ者たちが良い夜の眠りを確保できないことがしばしばある。目が覚まされるか、眠りが安らかでなく、爽快にならない。彼らの豊かさがその眠りを破り、妨げる。配慮の豊かさ(地が豊かに産出した時にどうしようかと考えた金持ちのように。Lu 12:17)と、心を重荷で圧迫し、病気にし、休息を妨げる飲食の豊かさの両方である。アハシュエロスは酒の盛宴ののち、眠れなかった。またおそらく、得ることと用いることの両方における罪の意識が、何よりも彼らの眠りを破る。しかし神はその愛する者に眠りを与えられる。

4. 人々は持てば持つほど、害をなすことにおいても、害を受けることにおいても、より大きな危険にある(Ec 5:13)。悪がある、一つの悪い病がある。ソロモン自身が日の下で、この罪と悲しみの劇場である下の世界で見たもの。持ち主たちの害のために残された富(彼らが勤勉に蓄え、安全に保管したものが)。彼らにはない方が良かったであろう。(1.) 彼らの富は彼らに害をなす。高慢で安心し、世を愛するようにし、彼らの心を神と義務から引き離し、天の御国に入ることを非常に困難にし、いな、そこから締め出すのを助ける。(2.) 彼らは富をもって害をなす。それは自らの欲望を満たし、贅沢に生きる能力に彼らを置くだけでなく、他者を虐げ、冷酷に扱う機会を与える。(3.) しばしば彼らは富によって害を受ける。もし彼らが豊かでなければ、羨まれず、奪われない。ほふら場に引かれて行くのは肥えた獣である。非常に富んだ者は(ある者が観察するように)、時として生命と財産の両方に関して一般恩赦から除外された。ただその莫大で過大な財産のゆえに。それゆえ富はしばしばその持ち主のいのちを奪う(Pr 1:19)。

5. 人々は持てば持つほど、失うものが増える。そしておそらくすべてを失うかもしれない(Ec 5:14)。多大な苦労で蓄え、多大な配慮で保管された富が悪い労苦によって滅びる。それを確保し増やすために払うまさにその苦労と配慮によって。多くの者が財産を進めるために過度に気を遣いすぎ、すべてに手を伸ばすことですべてを失った。富は滅びるものであり、私たちのどんな配慮もそれを別のものにはできない。それらは自ら翼を作って飛び去る。息子を紳士にすると思っていた者は、彼を物乞いにして去る。彼は子を得、財産の見込みの中で彼を育てるが、死ぬ時には価値と同じだけの負債の下にそれを残す。それゆえその手には何もない。これはよくあることである。大いに見栄えた財産が思った通りにならず、相続人を欺く。

6. 死ぬ時に人がどれほど持っていても、すべてを後に残さなければならない(Ec 5:15,16)。母の胎から出たように裸で帰る。ただし、彼が裸で世に入ってきた時に、友人たちが哀れんで産着で助けてくれたように、彼が出て行く時に彼らが経帷子で助けてくれる。それだけである。Job 1:21、Ps 49:17を見よ。これは、持っているもので満足すべき理由として強調される(1Ti 6:7)。体に関しては、来たように帰らなければならない。ちりはあったように地に帰る。しかし魂が来たように帰るなら、私たちの状態は悲惨である。私たちは罪のうちに生まれ、もし罪のうちに、きよめられないまま死ぬなら、生まれなかった方がましであった。そしてそれはここで語られる世的な人の状態のようである。彼は来た通りにすべての点で帰ると言われるから。同じように罪深く、同じように惨めに、いな、それ以上に。これは悪い病である。心が世に接着されている者がその労苦から手に携えて行けるものを何も取らないことは悪い病である。その富は別の世に同行せず、そこで何の役にも立たない。もし私たちが宗教において労するなら、その労苦によって得た恵みと慰めは心に携えて行け、永遠にそのために良きとなる。それは永続する食物である。しかしもし世のためにのみ労し、それで手を満たすなら、それを携えて行くことはできない。私たちは手を握りしめて生まれるが、手を広げて死ぬ。握っていたものを放す。それゆえ、このこと全体から、彼はよく風のために労した者に何の益があろうかと問う。次のことに注意せよ。世のために労する者は風のために労する。音はあっても実質はなく、不確かで常に変わり、満たさず、しばしば有害で、しっかりと保てず、もし分け前としてそれを受け入れるなら風のように私たちを養うことはできないもののために(Ho 12:1)。人は死ぬ時に労苦の利益がすべて消え去り、風のように分からない所へ消え去ったのを見る時に、風のために労したことを悟るであろう。

7. 多く持つ者は、もし心を向けるなら、不快な死だけでなく、不快ないのちも持つ(Ec 5:17)。この貪欲な世の人、財産を築き上げることに傾倒する者は、生きるすべての日をやみの中で食べ、多くの悲しみと怒りと病とを共にする。彼は財産の喜びを持たず、それを楽しんでいない。悲しみのパンを食べるからである(Ps 127:2)。それだけでなく、他者がそれを食べるのを見る多くの苦悩がある。必要な出費が彼を病ませ、苛立たせ、自分自身と周囲の者が食物なしでは生きられないことに怒っているようである。最後の句を私たちが読むように、それはこの貪欲な世の人が人生の一般的な不可避の災いをいかに耐え難く感じるかを示す。健康な時に彼はやみの中で食べる。常に持っていることへの配慮と恐れで鈍く。しかし病になれば、多くの悲しみと怒りと病とを共にする。病が仕事から彼を引き離し、世の追求を妨げることに苛立つ。すべての富がいかなる安らぎや救いも与えないことに苛立つ。とりわけ死(その病が前触れである)の恐怖、この世とそれに心を向けていた事物とを後に残すこと、そして準備をしていない世に移ることの恐怖に怯える。彼は神に従って悲しむような悲しみを持たない。悔い改めに至る悲しみを持たない。しかし悲しみと怒りを持つ。神の摂理に怒り、自らの病に怒り、周囲のすべてに怒り、不機嫌で癇癪を起こす。それは彼の苦悩を倍にする。善人は忍耐と病における喜びによって苦悩を減らし、軽くする。

Ecclesiastes 5章 18-20 Matthew Henry's Complete Commentary

Grateful Enjoyment

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感謝ある享受

¹⁸ 見よ、わたしの見たところによると、人が食べて飲み、神が与えられるいのちの日のすべての間、日の下で受けるすべての労苦の良いものを楽しむことは良いこと、また適切なことである。それは彼の分け前である。
¹⁹ 神が富と財産を与え、これを食べて自分の分け前を取り、自分の労苦を楽しむ力を与えられたすべての人にとって、これは神の賜物である。
²⁰ 彼は自分のいのちの日々をあまり思い出さない。神が彼の心の喜びによって彼に答えられるからである。

ソロモンは蓄えられた富の空しさから、私たちが取れる最善の道は、持っているものをよく用い、それで神に仕え、それで善を行い、自らと家族のためにその慰めを取ることであると推論する。彼はこれを前に押し出した(Ec 2:24,3:22)。次のことを観察しよう。1. ここで私たちに推薦されるもの。肉の食欲にふけることでも、現在の快楽や利益を分け前として受け入れることでもない。摂理がこの世を快適に通過するために割り当てられたものを、慎み深く節度をもって用いることである。貪欲のゆえに、また便利な食物を自分に与えられないゆえに、また世的な追求への熱心のゆえに、また過度の配慮と悲しみのゆえに、自らを飢えさせてはならない。むしろ食べて飲み、神の奉仕において魂に仕えるために体を良い状態に保つにふさわしいものを。労苦で自らを殺して、他者にその良いものを楽しませるのではなく、自分の手が労したものの慰めを取らなければならない。しかしそれを時々ではなく、神が与えられるいのちの日のすべての間。いのちは神の賜物であり、神は私たちのいのちの日数を定められた(Job 14:5)。それゆえそれらの日々を喜びと心の楽しみをもって私たちの神、主に仕えることに過ごそう。私たちは自分の召しのわざを苦役として行い、自らをその奴隷としてはならない。むしろ自分の労苦を喜び、困惑と不穏なしに成し遂げられる以上の仕事に手を出さず、神が私たちを置かれた召しに喜びを見いだし、陽気にそのわざを進めなければならない。これが自分の労苦を喜ぶことである。それが何であれ、その出て行くゼブルン、その天幕にいるイッサカルのように。2. これを私たちに推薦するために何が促されるか。(1.) これを行うことは良い、また適切なこと。それは良く、また見栄えがする。神が与えたものを快く用いる者は、それによって与え主を尊び、賜物の目的に応え、理性的で寛大に行動し、世において善を行い、持っているものを最善に用いる。それは彼らの名誉であり慰めである。良い、また適しいこと。そこに義務と品位がある。(2.) それはこの世の事物から持ち得るすべての善である。それは私たちの分け前であり、こうすることにおいて私たちは分け前を取り、悪いものを最善にする。これが世的な所有における私たちの分け前である。神は神の分け前を、貧しい者はその分け前を、家族はその分け前を持たなければならない。しかしこれは私たちのもの。それらから私たちに落ちるすべてである。(3.) こうする心は、神の摂理のすべての賜物に冠を置く神の恵みの賜物である。もし神が人に富と財産を与えられたなら、その恵みを完成し、それを確かに祝福とするのは、それと共にこれを食べる力、その善を取り、それで善を行う知恵と恵みを与えられる時である。もしこれが神の賜物なら、私たちはこの世の享受に関する最上の賜物としてそれを切に求めなければならない。(4.) これが自らのいのちを容易にし、地上のいのちが陥りやすい多くの労苦と悩みに対して自らを慰める道である(Ec 5:20)。彼は自分のいのちの日々をあまり思い出さない。悲しみと重い労苦の日々、働く日々、泣く日々を。彼はそれらを忘れるか、過ぎ去る水のように思い出す。自分の十字架をあまり心に留めず、その苦い味わいを長く保たない。神が彼の心の喜びによって彼に答えられるから。労苦のすべての不満をその喜びによって釣り合わせ、自分の手の労苦を食べることによって彼に報いる。もし神が彼の願いと期待を文字通りすべてに答えないとしても、それよりまさる同等以上のものをもって、心の喜びにおいて答える。陽気な霊は大いなる祝福である。それは私たちの働きのくびきを容易にし、私たちの苦難の重荷を軽くする。