Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ これらは、あなたが彼らの前に置くべき定めである。 ² もしあなたがへブル人の奴隷を買うなら、彼は六年間仕え、第七年にはただで自由に出て行かなければならない。 ³ もしその者が独身で入って来たなら、独身で出て行かなければならない。もし妻をもって入って来たなら、その妻は彼とともに出て行かなければならない。 ⁴ もしその主人が彼に妻を与え、彼女が彼に息子たちか娘たちを産んだなら、その妻とその子どもたちは主人のものであり、彼は独身で出て行かなければならない。 ⁵ もしその奴隷がはっきりと、「私は主人と、妻と、子どもたちとを愛します。私は自由に出て行きません」と言うなら、 ⁶ その主人は彼を裁き主のところに連れて行かなければならない。そして彼を戸口、すなわち鴨居のところに連れて行き、主人はきりでその耳に穴をあけなければならない。そうして彼は永遠に仕えるであろう。 ⁷ もしある人がその娘を女奴隷として売るなら、彼女は男奴隷がするように出て行ってはならない。 ⁸ もしその娘が、自分の妻としてめとることになっていた主人の気に入らないなら、彼は彼女を贖わせなければならない。彼は欺いて彼女に接したのであるから、他国の民に売る権利を持たない。 ⁹ もしその人が彼女を自分の子にめとるなら、娘に対するならわしにしたがって彼女に接しなければならない。 ¹⁰ もしその人がほかの女をめとるなら、その食物と着物と夫婦の義務を減らしてはならない。 ¹¹ もしこの三つの事を彼女に行わないなら、彼女はお金なしで自由に出て行かなければならない。
出エジプト記21:1は、この章とその次の二章に含まれる律法の一般的な表題である。その一部は神への宗教的礼拝に関するが、大部分は人と人との間の事柄に関する。彼らの政治は純粋に神政政治であったから、他国においては人間の思慮によって定められるべきことが、彼らの間では神の定めによって導かれた。それゆえ彼らの政体は、彼らを幸福にするために格別に適合させられていた。これらの律法は「定め」と呼ばれる。それは、それらが無限の知恵と公正とによって組み立てられ、また彼らの裁き主が民にしたがって判決を下すべきものだからである。それまでに生じた疑わしい事例においては、出エジプト記18:15に見るように、モーセは彼らのために特に神にお尋ねしていた。しかし今や神は、特定の事例を決定するための一般的な定めを彼に与えられた。モーセはさらに、これを同じ理由の下に立ち、ゆえに同じ規則の下に立つ、起こりうる他の類似の事例にも適用しなければならなかった。神は奴隷に関する律法から始められる。これは彼らに対するあわれみと節度を命じるものである。イスラエル人はつい最近まで自ら奴隷であった。今や彼らは自らの主人となっただけでなく、奴隷の主人ともなった。それゆえ、彼ら自身がエジプトの監督者たちからひどいあつかいを受け、きびしく支配されたように、奴隷を虐待することのないよう、奴隷を穏やかに優しく取り扱うための規定がこれらの律法によって設けられたのである。注、私たちの上に権力を持つ者たちが私たちに不義を行ったからといって、それが少しも私たちの言い訳にはならない。もし私たちが同じように、自分たちの権力の下にある者たちに不義を行うなら、かえって私たちの罪を重くするだけである。なぜなら、その場合私たちは、いっそう容易に自分の魂を彼らの魂の代わりにおくことができるからである。ここに、
一、男奴隷に関する律法がある。これは貧困のゆえに、本人自身か両親によって売られたか、あるいはその犯罪のゆえに裁き主たちによって売られた者に関するものである。後者の場合であっても(へブル人であれば)、奴隷状態が続くのは最長七年であった。その期間のうちに、彼らは自分の愚かさや罪に対して十分に罰を受けたとみなされたのである。七年の終わりに、奴隷は自由に出て行くか(出 21:2,3)、あるいはその後の奴隷状態が彼自身の選択となるかのいずれかであった(出 21:5,6)。もし主人から与えられた妻と子どもたちがいたなら、彼は彼らを残して自由に出て行くか、あるいは彼らに対して、自由に出て行くよりも奴隷のままで彼らと一緒にいることを選ぶほどの好意を持つなら、その耳を鴨居に穴あけられ、主人の死あるいはヨベルの年まで仕えなければならなかった。
この律法によって神は、(1) へブル人の奴隷の気高さと自由への高貴な愛を教えられた。彼らは主の自由人であったからである。与えられた自由を、たとえほかの点で称賛に値する理由によるのであっても、拒否する者には不名誉のしるしが置かれなければならなかった。このように、キリスト者は「代価をもって買い取られ、自由へと召された」のであるから、人々の、また人々の欲情のしもべとなってはならない(一コリ 7:23)。自由で気高い霊は、キリスト者を支えるのに大いに役立つ(詩 51:12)。神はまた、(2) へブル人の主人に対し、貧しい奴隷を踏みつけてはならないことを教えられた。主人たちは、奴隷が生まれにおいて自分たちと同等であったこと、また数年のうちに再び同等となることを知っていたからである。このように、キリスト者である主人は信じるしもべたちを敬意をもって見なければならない(ピレモン 1:16)。
この律法はさらに、私たちにとって、(1) 信じる両親の子どもに対する神の権利を解明し、また彼らが神の教会のうちに持つ位置を解明する。彼らはバプテスマによって神のしもべとして登録される。それは彼らが「神の家で生まれた」からであり、ゆえに「彼に向かって生まれた」からである(エゼ 16:20)。ダビデは自分を神のしもべであると認め、「はしための子」として(詩 116:16)、それゆえ守りにあずかるとされた(詩 86:16)。(2) 大いなる贖い主がご自身に負わされた、私たちの救いのみわざを成し遂げる義務を説明する。それは彼が(詩 40:6)「あなたは私の耳を開かれました」と言われるからであり、これはこの律法を指しているように見える。彼はご自分の父と、とりこになっている花嫁と、自分に与えられた子どもたちとを愛し、ご自身のわざから自由に出て行くことをせず、永遠にそれに仕えることを約束されたのである(イザ 42:1,4)。このように私たち自身を永遠に神に仕えるよう献げるには、私たちにはそれ以上の理由がある。私たちには、主人とそのみわざを愛し、その耳を主人の鴨居に穴あけられる、すなわち神の奉仕から自由に出ることを望まず、ますますその奉仕に自由とされ、そのうちに見いだされることを願う、あらゆる理由がある(詩 84:10)。
女奴隷については、極度の貧困のゆえに両親が、彼女たちが成長したとき結婚するであろうと期待して、まだ幼いころに売った娘に関するものである。もしそうならなかったとしても、彼女たちをよそ者に売ってはならず、むしろその失望に対して報いる方法を考慮しなければならない。もし結婚したなら、立派に養わなければならない(出 21:7-11)。このように神はイスラエルの娘たちの慰めと名誉のために配慮し、夫たちに、たとえ妻の出所がいかに卑しくても、「弱き器」として妻に「誉れを与える」ことを教えられた(一ペテ 3:7)。
¹² 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。 ¹³ しかし、もし人が待ち伏せしたのではなく、神がその人を彼の手に渡されたのなら、私はその人が逃げる場所をあなたに指定しよう。 ¹⁴ もしある人が隣人に対して高ぶって、だまって殺そうとするなら、あなたは私の祭壇から彼を取って、彼を死なせなければならない。 ¹⁵ 自分の父あるいは母を打つ者は、必ず殺されなければならない。 ¹⁶ 人を盗み、それを売る者、あるいはそれが彼の手の中に見つかった者は、必ず殺されなければならない。 ¹⁷ 自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。 ¹⁸ もし人々が共に争い、一方が他方を石か、こぶしで打ち、その人が死なずに床につくなら、 ¹⁹ もしその人が再び起き上がり、杖をついて外を歩くなら、打った者は免れる。ただし彼はその失われた時間のために償いをし、彼を完全にいやさなければならない。 ²⁰ もしある人がその奴隷、あるいはその女奴隷を杖で打ち、その人が彼の手の下で死ぬなら、彼は必ず罰せられなければならない。 ²¹ しかし、もしその者が一日か二日生きているなら、彼は罰せられてはならない。彼は彼の金だからである。
ここに、一、殺人に関する律法がある。神はつい最近「殺してはならない」と言われたばかりであったが、ここでは、1. 故意の殺人を罰するための規定(出 21:12)。「人を打つ者」、それが突然の激情によるものであれ、悪意をもって企てたものであれ、「その人が死ぬ」なら、政府は殺人者が「死刑に処せられる」よう取り計らわなければならない。それは古い律法(創 9:6)、「人の血を流す者は、人によってその血を流される」にしたがうものである。神は、ご自身の摂理によっていのちを与え、それを保っておられる方として、その律法によっていのちを守られる。ゆえに、故意の殺人者に対して示されるあわれみは、そのほかの全人類に対する真の残酷さである。そのような者を、神はここで、保護を求めて逃れるかもしれない「祭壇から」でさえ取って来ると言われる(出 21:14)。そして、もし神が彼をかくまわれないなら、「彼を穴に逃れさせ、だれも彼を引き止めてはならない」。2. 偶発的な殺人――不法ではなく、あるいは不慮による死――の救済のための規定。人が、だれにも害を与える意図なしに合法的な行為をしていて、偶然に他の者を殺してしまった場合、あるいはここに記されているように、「神が彼をその手に渡された」場合である。偶然に起こることは何一つない。私たちには純粋に偶然と思われることも、私たちには秘密の、賢く聖なる目的のために神の摂理によって定められている。この場合、神は他人の死の原因となったが、その者の過失ではない者たちを保護するための逃れの町を備えられた(出 21:13)。私たちにとっては、復讐者は裁き主たち以外に知られていないので、律法そのものが、心は無実であっても手は罪ある者たちのための十分な聖所であり、それ以上のものを必要としない。
二、反抗的な子どもに関する律法である。子どもが、1. 父母を打つこと(出 21:15)。血を流すまでか、打たれた場所をあざや腫れさせるような打撃を与えること。あるいは、2. 父母をのろうこと(出 21:17)。もし彼らがその際に神の御名のいずれかを汚したなら、とラビたちは言う。注、子どもの親に対する不孝な振る舞いは、私たちの共通の父である神に対する非常に大きな挑発である。もし人々がこれを罰さないなら、神が罰される。親に対する敬意と義務のきずなを、ことばでも行いでも親自身を虐待するほどの度合いにまで破り去った者は、すべての徳を完全に失い、あらゆる悪に身を委ねている。このきずなを振りほどいた者が、ほかのどんなくびきを負おうか。子どもたちは、親に対して少しでも不孝や軽蔑の味わいのする思いや感情を心にいだかないよう気をつけなければならない。義なる神は心を探られるからである。
三、ここに人さらいに対する律法がある(出 21:16)。「人を盗む者」(すなわち人、男、女、子どものいずれであれ人格者)を、異邦人に売る目的で盗む者(イスラエル人はだれも彼を買わないので)は、この定めによって死刑に処せられた。この定めは使徒によって確認されている(一テモ 1:10)。そこでは「人を売る者」が、キリスト者の君主が律法を制定すべき悪人のうちに数えられている。
四、死に至らなくても、人に危害を加えた場合の償いについての配慮がある(出 21:18,19)。危害を加えた者は損害賠償の責任を負い、いやしのためだけでなく、失われた時間のために支払わなければならない。ユダヤ人はさらに、痛みのため、またもしあれば傷痕のためにも、何らかの報いを与えなければならないと付け加える。
五、もし奴隷が主人の懲らしめによって死んだ場合にどうすべきかの指示が与えられている。この奴隷はイスラエル人であってはならず、異邦人の奴隷でなければならない。主人が彼を杖で打ち、致命傷を与えそうなもので打ったのではないと想定される。しかし、もし彼が自分の手の下で死んだなら、事情を考慮した上で、裁き主たちの裁量によってその残酷さのゆえに罰せられなければならない(出 21:20)。しかし、もしその懲らしめの後一日か二日生きていたなら、主人は奴隷を失うことによって十分に苦しんだとみなされた(出 21:21)。私たちの法律では、主人が合理的なむち打ちによって奴隷を死なせた場合、単に「不慮の事故」とされる。しかし、すべての主人はしもべに対して暴君となることを慎まなければならない。福音は主人たちに、おどしをさえ控え、穏やかにすることを教える(エペ 6:9)。聖なるヨブとともに、「神が立ち上がられるとき、私はどうしようか」(ヨブ 31:13-15)と考えつつ。
²² もし人々が争い、身ごもった女に打撃を与えて胎児が出ても、しかし害が続かないなら、彼は必ず罰せられなければならない。その女の夫が彼に負わせる額にしたがい、また裁き主たちが定めるように。 ²³ もし害が続くなら、あなたは命には命を、 ²⁴ 目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、 ²⁵ やけどにはやけどを、傷には傷を、打ち傷には打ち傷を与えなければならない。 ²⁶ もしある人がその奴隷、あるいはその女奴隷の目を打って、その目を失わせるなら、その目のゆえに彼を自由に出さなければならない。 ²⁷ もし彼がその男奴隷、あるいは女奴隷の歯を打ち砕くなら、その歯のゆえに彼を自由に出さなければならない。 ²⁸ もし雄牛が男か女を角で突いて死なせるなら、その雄牛は必ず石打ちにされ、その肉は食べてはならない。しかし雄牛の主人は免罪される。 ²⁹ しかし、もしその雄牛が以前から突く癖があり、そのことが主人に警告されながら、彼がそれを閉じ込めずに、男か女を殺したなら、雄牛は石打ちにされ、その主人もまた死刑に処せられなければならない。 ³⁰ もし彼に身代金が課されるなら、彼は自分の命の贖いとして、課されるものは何でも与えなければならない。 ³¹ その牛が息子を突いたか、娘を突いたかにかかわらず、この判決にしたがって彼に行われなければならない。 ³² もし雄牛が男奴隷か女奴隷を突くなら、その主人に銀三十シェケルを与えなければならない。雄牛は石打ちにされる。 ³³ もしある人が穴を開けるか、穴を掘ってそれを覆わず、雄牛かろばがそこに落ちるなら、 ³⁴ 穴の主人はそれを償い、その持ち主に金を払わなければならない。死んだ獣は彼のものである。 ³⁵ もしある人の雄牛がほかの者の雄牛を傷つけて死なせるなら、彼らは生きている雄牛を売ってその金を分け、死んだ雄牛も分けなければならない。 ³⁶ あるいは、その雄牛が以前から突く癖があることが知られていて、その主人がそれを閉じ込めなかったことが明らかであるなら、彼は必ず雄牛には雄牛を償わなければならない。死んだものは彼のものである。
ここで観察しよう。
一、律法が身ごもった女たちに対して特に配慮したこと。すなわち、流産の原因となるような危害が彼女たちに加えられないようにした。自然の法は、その場合には木も実も一緒に滅ぼされることのないよう、特に慎重であるよう私たちに義務づける(出 21:22,23)。身ごもった女たちは、このように神の律法の特別な保護の下に置かれた者たちである。もし彼女たちが神を恐れて生きるなら、今なお神の摂理の特別な保護の下にあると信じ、子を産む時に救われるとの望みを抱くことができる。この機会に、救い主が言及されるあの報復の一般律法が入り込んでくる(マタ 5:38、「目には目を」)。さて、1. この律法の執行は私たちの救い主が言及されたところのそれとは異なり、私人の手には委ねられていない。まるで各人が自ら復讐できるかのようであったなら、普遍的な混乱が入り込み、人々を海の魚のようにしてしまったであろう。長老たちの伝承はこれに腐った注解を施したようであり、それに対抗して、救い主は傷害を許し、復讐を企てないよう命じられた(マタ 5:39)。2. 神はしばしば摂理の道のりにおいてこれを実行し、多くの場合、罰を罪に応うものとされる(士 1:7、イザ 33:1、ハバ 2:13、マタ 26:52)。3. 裁き主たちは、犯罪者を罰し、傷つけられた者に正義を行うにあたって、この規則に目を留めるべきである。行われた危害の性質、質、程度が考慮されなければならない。それは被害者に賠償がなされ、他の者たちが同じことを行わないように抑止されるためである。「目には目が」取られるか、あるいは失われた目は金額によって贖われる。注、危害を行う者は、行った危害にしたがって、この方かあの方で報いを受けることを期待しなければならない(コロ 3:25)。神は時に、人々の暴挙を彼ら自身の頭の上にもたらされる(詩 7:16)。裁き主たちは、この点において「復讐者」(ロマ 13:4)として、正義の奉仕者であり、彼らは剣をむだに帯びてはいない。
二、神がしもべたちに対して配慮されたこと。もし主人たちが彼らを傷つけたなら、たとえ一本の歯を砕くだけであっても、それが彼らの解放とならなければならなかった(出 21:26,27)。これは、1. 彼らが虐待されることを防ぐためであった。主人たちはしもべの奉仕を失うことのないよう、彼らに暴力を加えないよう注意するであろう。2. もし虐待された場合、彼らを慰めるためであった。一肢の喪失は自由の獲得であり、それは彼らが受けた痛みと不名誉の両方に対してある程度の埋め合わせとなるであろう。いや、
三、「神は雄牛のために配慮されるのか」。しかり、この章の次の律法によって明らかなように、神は配慮される。「私たちのために」(一コリ 9:9,10)。ここでイスラエル人は、次の場合になすべきことを指示されている。
雄牛やその他の獣によって危害が加えられた場合。律法は、疑いなく、すべての類似の事例に及ぶよう意図されていた。(1) 人のいのちに対する神の配慮の実例として(たといそれが神の正義の手の中に千回も没収されていても)、また殺人の罪に対する神の忌み嫌いのしるしとして。もし雄牛が男、女、子どものいずれかを殺したなら、その雄牛は「石打ちに」されねばならなかった(出 21:28)。そして、下等の造られた物の最も大いなる誉れは人に仕えることであるから、犯罪者はその誉れを拒否される。「その肉は食べてはならない」。このように神は、ご自身の民の心に、殺人の罪と野蛮なすべてのことに対する根深い忌み嫌いを保とうとされた。(2) 人々が、自分の家畜のうちのどれも危害を加えることのないよう注意深く、あらゆる可能な手段によって危害が防がれるようにするためであった。もし獣の主人が、その獣が人に害を加える性質であることを知っていたなら、彼は加えられた危害に対して責任を負わなければならず、事情が彼の関与の度合いを多く示すか少なく示すかにしたがって、「死刑に処せられる」か、金額で自分の命を贖わなければならなかった(出 21:29-32)。私たちの古い書物のいくつかは、これをイングランドの一般法による重罪とし、こう理由をつける。「獣が人に害を加える性質であることを知りながら、それを自由に放っておいた主人は、危害が加えられることを非常に喜んでいたことを示す」。注、私たち自身が危害を加えないだけでは不十分であり、私たちが制止する力にある者たち――人であれ獣であれ――によって危害が加えられないよう配慮しなければならない。
雄牛やその他の家畜に対して危害が加えられた場合。(1) もしそれらが穴に落ちて死ぬなら、穴を開けた者がその損失を償わなければならない(出 21:33,34)。注、私たちは有害なことだけでなく、害を及ぼしうることを行わないよう気をつけなければならない。危害を企てたくみだてるだけでなく、危害を防ぐように工夫しなければならない。そうでなければ、私たちは隣人の損失に対する共犯者となる。悪意によって行われる危害は大いなる罪過である。しかし、怠惰と、十分な配慮と思いやりを欠くことによる危害も、過失がないわけではなく、危害の程度にしたがって大きな後悔をもって省みられなければならない。とりわけ、私たちは兄弟の道に罪を招く機会を置くことによって、ほかの人々の罪に対する共犯者となるようなことを何もしないよう注意しなければならない(ロマ 14:13)。(2) もし家畜が争い、一方が他方を殺すなら、飼い主たちは損失を等しく分け合わなければならない(出 21:35)。ただし、危害を加えた獣が人に害を加える性質であることを主人が知っていた場合には、彼は損害に対して責任を負わなければならない。彼はその獣を殺すか閉じ込めておくべきであったからである(出 21:36)。これらの事例の決定は、それ自体の公正の証拠を伴い、人と人との間に生じる類似の論争の決定のために、当時も今も用いられているような正義の規則を与える。しかし私は、これらの事例が、ほかの事例よりもむしろ指定されたのではないかと推測する(あるものは些細に見えるが)。なぜなら、それらは実際にモーセの前に係争中であった事実上の事例であったからである。彼らが密集して宿営し、家畜の群れを彼らの間に持っていた荒野においては、最後に言及したような危害は起こりそうであったからである。これらの律法によって私たちが教えられるのは、直接にも間接にも決して不正を行わないよう非常に注意すべきであるということ、そして、もし不正を行ったなら、進んで償いを行い、だれも私たちによって損をしないように切望すべきであるということである。
本章に記された律法は第五および第六の戒めに関するものである。これらは私たちの制度には、特に隷従の点において適合していないし、付された刑罰も私たちを縛るものではないが、道徳律の説明および自然の正義の規則としては大いに役立つ。ここにはいくつかの展開がある。一、特定の関係に関する第五の戒めについて。1. 主人がそのしもべ、すなわち男奴隷(出 21:2-6)および女奴隷(出 21:7-11)に対する義務。2. 親を打つ(出 21:15)あるいは親をのろう(出 21:17)不従順な子に対する刑罰。二、人の身に対するすべての暴力を禁じる第六の戒めについて。ここには、1. 殺人について(出 21:12-14)。2. 人さらいについて(出 21:16)。3. 暴行および傷害について(出 21:18,19)。4. しもべを懲らすことについて(出 21:20,21)。5. 妊婦を傷つけることについて(出 21:22,23)。6. 報復の律法について(出 21:24,25)。7. しもべに傷を負わせることについて(出 21:26)。8. 牛が人を突くことについて(出 21:28-32)。9. 穴を開けることによる損害について(出 21:33,34)。10. 家畜同士の争いについて(出 21:35,36)。