Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ 律法は来たるべき良いことの影を持っているのであって、そのものの姿ではない。それゆえ、年々絶えずささげられる同じいけにえをもっては、近づく者たちを完全にすることは決してできない。
² もしそうでなかったら、それらのいけにえはささげることをやめなかったであろうか。礼拝する者が一度きよめられたなら、もはや罪の良心を持たないはずであるから。
³ しかし、これらのいけにえには、年年罪が思い出される。
⁴ 雄牛ややぎの血が罪を取り除くことはできないからである。
⁵ それゆえ、キリストが世に入って来られるとき、こう言われる。「あなたはいけにえとささげ物とを望まれなかった。しかし、あなたはわたしのために、からだを備えられた。
⁶ 燔祭と罪のためのいけにえとは、お気に召さなかった。
ここで使徒は、神の霊の導きによって、レビの制度を低く置くことに取りかかる。それは神の定めであり、その時と場所において非常に優れた有用なものであったが、民を導くことだけを意図されたキリストと競争するように立てられたときは、その弱さと不完全さを示すことが非常に適切かつ必要であった。使徒はいくつかの論拠からこれを効果的に行う。すなわち、
Ⅰ. 律法は来たるべき良いことの影を、影だけを持っていた。そして実体が来たのに、良いことの影であっても、誰が影に心を奪されようか。観察せよ。1. キリストと福音の事がらは良いことである。それらは最善のことである。それら自体において最善であり、私たちにとって最善である。それらは優れた性質の実体である。2. これらの良いことは、旧約の下では来たるべき良いことであり、明確には示されず、十分には享受されなかった。3. 当時ユダヤ人はキリストの良いことの影、その影画しか持っていなかった。私たち福音の下にある者は実体を持っている。
Ⅱ. 律法は来たるべき良いことのそのものの姿ではなかった。姿とは、それによって表されるものの正確な図面である。律法はそこまで進んだのでなく、ただの影であった。鏡の中に映る人の姿が、壁に映る影よりもはるかに完全な表現であるように。律法は神の恵みの大いなる計画の非常に粗い図面であり、それゆえそれほど心を奪われるべきではなかった。
Ⅲ. 律法的ないけにえは年年ささげられ、近づく者たちを完全にすることは決してできなかった。もしそうであれば、それらをささげることに終わりがあったはずだからである(Heb 10:1,2)。もしそれらが義の要求を満たし、不義のあがないをなし、良心をきよめ、和らげることができたなら、ささげる者たちの良心にもう罪が横たわっていなかったはずであるから、これ以上必要でなくなり、止められたであろう。しかし、これはそうではなかった。一つのあがないの日が過ぎた後、罪人は再び一つの過ちにでも陥り、それゆえもう一つのあの子の日が、毎日の奉仕に加えて毎年必要であった。ところが今、福音の下では、あの子は完全であり、繰り返されてはならない。そして一度赦された罪人は、その状態に関して永遠に赦されており、継続する赦しの慰めに満ちた感覚を持つために、ただその悔い改めと信仰を新たにする必要があるだけである。
Ⅳ. 律法的ないけにえはそれ自体では罪を取り除かなかったように、取り除くことは不可能であった(Heb 10:4)。それらには本質的な欠陥があった。1. それらは罪を犯した私たちと同じ性質のものではなかった。2. 神の義と支配に向けられた侮辱のあがないをするのに十分な価値のものではなかった。それらは犯した性質と同じ性質ではなく、それゆえふさわしいものではなかった。さらに、犯された性質と同じですらなかった。そして犯された性質以下のものは、その罪過の完全なあなしをなし得ない。3. 律法の下でささげられた獣は、自らを罪人の身代わりとする場所に置くことに同意できなかった。あなしのいけにえは同意しうるものでなければならず、自ら進んで罪人の身代わりとならなければならなかった。キリストはそのようにされた。
Ⅴ. 大いなる神によって定められ、預言された時があり、その時が今や来た。その時これらの律法的ないけにえはもはや神に受け入れられず、人々の益とならない時であった。神はかつてそれら自体のゆえに望まれたことはなく、今やそれらを廃止された。それゆえ今それらに固執することは神に抵抗し、神を拒絶することであろう。レビの律法が廃止されるこの時はダビデによって預言され(詩篇第四〇篇6,7節)、今や来たものとしてここに引用される。このように使徒はモーセの制度を念入りに低く置くのである。
⁷ その時わたしは言った。『見よ、わたしは来た。書の巻にわたしについて書いてあるとおり、神よ、わたしはあなたのみこころを行うために。』
⁸ 上記のように、いけにえとささげ物、燔祭と罪のためのいけにえとをあなたは望まれず、またこれらで喜ばれなかった。これらは律法に従ってささげられるものである。
⁹ その時言われた。『見よ、わたしは来た。神よ、わたしはあなたのみこころを行うために。』この方が第二のものを立てるために、最初のものを取り除かれる。
¹⁰ このみこころによって、私たちはイエス・キリストのからだのささげ物によって一度だけ聖別られたのである。
¹¹ すべての祭司は日々立ち仕え、同じいけにえを度々ささげるが、これらは決して罪を取り除くことができない。
¹² しかし、この方は罪のために一つのいけにえを永遠にささげてから、神の右に座につき、
¹³ この方の敵がこの方の足台とされる時まで、待っておられる。
¹⁴ なぜなら、一つのささげ物によって、この方は聖別された者たちを永遠に完成されたからである。
¹⁵ これについて聖霊もまた私たちにあかしされる。すなわち、前述の後、
¹⁶ 「それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである、と主は言われる。わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いの中に書きつける」、と
¹⁷ また、「彼らの罪と不法とを、わたしはもはや思い出さない」。
¹⁸ では、これらの赦しがあるところには、もはや罪のためのささげ物はない。
ここで使徒は、レビの祭司職を低く下げたのと同じほど高く、主イエス・キリストを高め上げる。この方を真の大祭司、真のあがないのいけにえ、他のすべての反型として彼らに勧める。そしてこれを次のように説明する。
Ⅰ. キリストに関する神の目的と約束から。これらは神の書の巻の中に頻繁に記録されている(Heb 10:7)。神はキリストが来られ、教会の大いなる大祭司となられ、完全で完全化するいけにえをささげられることを、定めただけでなく、モーセと預言者たちによって宣言された。キリストについては、神の書の初めに、女の種が蛇の頭を砕くと書かれていた。そして旧約はキリストに関する預言に満ちている。さて、この方がそれほどしばしば約束され、それほど多く語られ、神の民によってそれほど長く待望された方である以上、この方は大いなる誉れと感謝とをもって受け入れられるべきである。
Ⅱ. キリストのためにからだ(すなわち人性)を備えられたという、神がなされたことから。これによってこの方は私たちの贖い主また弁護者となる資格を得られた。二つの性をそのご自身の人格において結合されたので、この方は神と人との間に立つふさわしい仲保者、両方に御手を置く仲裁人、彼らを和解させる平和をつくる者、神と被造物との間の永遠の一致の帯となられた。「わたしの耳を開いてくださった。あなたはわたしに十分に教え、わたしにそのわざのために備えさせ、これに適合させ、これに従事させてくださった」(詩篇第四〇篇6節)。さて、このように神ご自身によってこれほど特異な仕方で備えられ、準備された救い主は、大いなる愛情と喜びをもって受け入れられるべきである。
Ⅲ. ほかのいけにえが受け入れられなかったとき、このわざに従事するために示されたキリストの準備と意欲から(Heb 10:7-9)。キリストご自身のいけにえ以下のものが神の義への適切な満足となりえなかったとき、キリストは自らこれに来られた。*「見よ、わたしは来る。わたしはあなたのみこころを行うことを喜ぶ、神よ。あなたの呪いを私に落ちさせよ、しかし彼らを行かせよ。父よ、私はあなたの計画を成就すること、彼らのためのあなたとの契約を果たすことを喜ぶ。私はあなたのすべての約束を行い、すべての預言を成就することを喜ぶ。」*これはキリストと私たちの聖書を私たちに愛すべきものとする。キリストにおいて私たちは聖書の成就を持つからである。
Ⅳ. キリストが来られた用向きと目的から。そしてこれは神のみこころを行うことであった。預言者として神のみこころを啓示するためだけでなく、王として神聖な律法を授けるためだけでなく、祭司として義の要求を満たし、すべての義を成就するためであった。キリストは二つの点において神のみこころを行うために来られた。1. 第一の祭司職、神が喜ばれなかったものを取り除くことにおいて。行いの契約の呪いを取り除き、罪人としての私たちに対して宣告された判決を取り消すだけでなく、不十分な型的祭司職を取り除き、儀式的な規定の手書きの文書を消し去って、これをご自身の十字架に釘づけにされた。2. 第二のもの、すなわちご自身の祭司職と永遠の福音を立てることにおいて。最も純粋で完全な恵みの契約の制度。これが永遠から神の心にかけられていた大いなる目的である。神のみこころはこれに集中し、これに終わる。そしてこれは神のみこころにかなうのと同じくらい、人々の魂に有益である。なぜならこのみこころによって私たちはイエス・キリストのからだのささげ物によって一度だけ聖別られたからである(Heb 10:10)。観察せよ。(1.) キリストがその民のためにされたすべての源は、神の主権のみこころと恵みである。(2.) 私たちがキリストが私たちのためにされた事にどのようにあずかるか。聖別られ、回心し、効果的に召されることによって。そこにおいて私たちはキリストに結合され、この方の贖いの益をあずかる。そしてこの聖別は、この方がご自身を神にささげたことによる。
Ⅴ. キリストの祭司職の完全な効力から(Heb 10:14)。一つのささげ物によって、この方は聖別された者たちを永遠に完成された。すなわち、この方のもとに移された者たちを、罪のすべての罪責、力、罰から救い出し、また完全に救い出される。そして彼らを完全な聖性と幸福の確実な所有に置かれる。これはレビの祭司職が決してできなかったことである。そして、もし私たちが本当に完全な状態を目指しているなら、私たちをその状態に導きうる唯一の大祭司として主イエスを受け入れなければならない。
Ⅵ. 私たちの主イエスが今高挙された場所、そこでの誉れ、そしてさらに得られる誉れから。この方は罪のために一つのいけにえを永遠にささげてから、神の右に座につき、この方の敵がこの方の足台とされる時まで待っておられる(Heb 10:12,13)。ここで観察せよ。1. キリストが人また仲保者として高挙されたのはどのような誉れか。神の右、力と利益と働きの座。与える御手。神がその民に賜るすべての恵みはキリストを通して彼らに届けられる。受け取る御手。神が人々から受け入れられるすべての務めはキリストによってささげられる。働く御手。摂理と恵みの国に属するすべての事はキリストによって管理される。それゆえこれは最高の名誉の地位である。2. キリストがどのようにこの誉れに至ったか。単に父の目的や賜物によるのではなく、この方の苦しみにふさわしい報いとして、ご自身の功績と買い取りによって。そしてこの方が決して奪われないほど当然の名誉であるので、この方はそれを決して放棄せず、またその民の益のためにそれを用いることをやめられない。3. この方がこの誉れをどのように楽しんでおられるか。最大の満足と安息をもって。この方はそこに永遠に座しておられる。父はこの方に満足し、この方に同意される。この方はご自身の父のみこころと臨在に満足される。これが永遠にこの方の安息。ここにこの方は住まわれる。この方がそれを望み、またそれにふさわしいから。4. この方にはさらに期待がある。そしてそれは裏切られない。なぜなら父の約束に基づいているから。父はこの方にわたしの右に座せよ、わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでと言われた(詩篇第一一〇篇1節)。キリストのような方が地獄以外に敵を持つことはできなかったであろうと思う。しかし地上にも敵がいることは確かである。非常に多くの、非常に根深い敵が。それゆえキリスト者たちは、すべての人と平和に暮らしたいと願うが、敵を持っても驚いてはならない。しかしキリストの敵はこの方の足台とされる。ある者は回心によって、ほかの者は混乱によって。どの道であれ、キリストは誉れを受ける。これをキリストは確信しており、これを待ち望んでおられる。そしてその民はこの待望に喜ぶべきである。なぜなら、この方の敵が服させられるとき、この方のゆえにそうである彼らの敵もまた服させられるから。
Ⅶ. 使徒は聖書において聖霊がキリストについて与えたあかしからキリストを勧める。これは主として、この方の低き姿と苦しみの幸いな実と結果に関係する。これは一般にこの方の満足に基づき、この方の血によって封印された、新しい恵みの契約である(Heb 10:15)。これについて聖霊もまたあかしされる。その箇所はエレミヤ第三一章31節から引用され、その契約において神は次のことを約束される。1. 神はご自身の霊をその民の上に注がれる。これによって彼らに知恵と意志と力とを与え、ご自身のことばに従わせる。神はご自身の律法を彼らの心に置き、彼らの思いの中に書きつける(Heb 10:16)。これが彼らの務めを平易で、容易で、快いものにする。2. 彼らの罪と咎を神はもはや思い出さない(Heb 10:17)。これは単独で神の恵みの豊かさと、キリストの満足の十分さを示す。それゆえ繰り返す必要がない(Heb 10:18)。真の信者に対して、今彼らを恥じらせ、後で彼らを罪に定めるための罪の思い出しはもはやない。これはレビの祭司職といけにえがなしえたことよりもはるかに大いなることであった。
そして今、私たちはこの手紙の教義的部分を終えた。その中で私たちは多くの暗く理解しにくい事に出会った。これは私たち自身の思いの弱さと鈍さに帰すべきである。さて使徒は、この大いなる教義を適用し、彼らの感情に影響を与え、その実践を導き、福音の状態の尊厳と務めを彼らの前に示すことに進む。
Hebrews 10章 19-39 Matthew Henry's Complete Commentary
¹⁹ それゆえ、兄弟たちよ、私たちはイエスの血によって聖所にはいるにあさいだをもっている。
²⁰ この方は新しい生ける道を私たちのために開かれた。すなわち垂れ幕、すなわちこの方の肉をとおして。
²¹ また神の家の上に大祭司がおられるのである。
²² それゆえ、私たちは邪悪な良心から心を注がれ、からだをきよい水で洗われ、信仰の全き確信をもって、まことの心をもって近づこうではないか。
²³ 私たちの信仰の告白を動揺することなく堅く守ろうではないか。約束された方は真実であるから。
²⁴ そして、愛と善き行いを励ますために、互いに考え合おうではないか。
²⁵ ある人々の習慣のように集会をやめないで、むしろ互いに勧め合おうではないか。そして、その日が近づいているのを見るに及んで、ますますそうしようではないか。
²⁶ もし私たちが真理の知識を受けた後、故意に罪を犯すなら、もはや罪のためのいけにえは残されていない。
²⁷ ただ裁きと、敵対者たちを滅ぼす燃える怒りとを、恐るべき期待として待つだけである。
²⁸ モーセの律法を軽んじた者は、二つか三つの証人のゆえにあわれみを受けずに死んだ。
²⁹ まして神の子を足で踏みつけ、自分を聖別た契約の血を普通のものとみなし、恵みの霊を侮辱した者は、さらにどれほど重い罰を受けるに値すると思うか。
³⁰ 復讐はわたしのものである、わたしは報復すると主は言われる。そしてまた、主はその民をさばかれる、と私たちは知っている。
³¹ 生ける神の御手に落ちることは恐ろしいことである。
³² しかし、以前の日のことを思い出せ。その日々、あなたがたは光照された後、大いなる戦いの苦しみを耐え忍んだ。
³³ ある時はそしりと苦しみとによって見せ物とされ、ある時はそのように扱われた者たちの仲間になった。
³⁴ あなたがたは私が獄にあったとき私に同情し、また自分たちの持ち物が奪われるのを喜んで忍んだ。自分たちのためには、天にまさる永遠の財産があることを知っていたからである。
³⁵ それゆえ、大いなる報いのあるあなたがたの確信を投げ捨ててはならない。
³⁶ 忍耐が必要である。それは、神のみこころを行った後、約束を受け継ぐためである。
³⁷ 「なおしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。」
³⁸ 「義人は信仰によって生きる。しかし、もし退くなら、わたしの魂は彼を喜ばない。」
³⁹ しかし私たちは、滅びに退く者ではなく、魂の救いに至る信仰を持つ者である。
Ⅰ. ここで使徒は福音の状態の尊厳を示す。信者たちがキリストが彼らのために獲得された誉れと特権を知ることはふさわしい。彼らが慰めを受けると同時に、すべての栄光をこの方に帰すためである。その特権とは、1. 聖所に入る大胆さ。彼らは神への近づき方があり、彼らを導く光があり、その導きに従う霊とことばの自由がある。彼らはその特権に対する権利とそのための準備があり、これを用い向上させるための助けと、受け入れと利益との保証がある。彼らはその聖なるみことば、礼典、摂理、契約において神の恵みの臨在に入ることができ、こうして神との交わりに入る。そこで彼らは神から伝達を受け、神の栄光の臨在に天に入る準備ができるまで。2. 神の家の上に大祭司がいること。すなわちこの祝福されたイエス。この方は地上の戦いの教会とその各肢体を、また天の勝利の教会を治められる。神は地上で人と共に住むことを望まれ、人が天で神と共に住むことを望まれる。しかし堕落した人は、和解の仲保者であり、ここでの和解の、また後での享楽の仲保者である大祭司なしには神と共に住めない。
Ⅱ. 使徒はキリスト者がどのようにしてそのような特権を享受するか、その道と手段を告げる。一般に、イエスの血によってである。すなわち、この方があがないのいけにえとして神にささげたその血の功績による。この方はここで恵みの礼典において、また栄光の国において神への自由な近づき方を、この方を信じるすべての者のために買い求められた。この血は良心に注がれると、奴隷的な恐れを追い払い、信者にその安全と神の臨在への歓迎の両方の確信を与える。さて使徒は神への近づき方についてのこの一般的な説明を与えた後、その詳細に入る(Heb 10:20)。すなわち、1. それは唯一の道である。これ以外に道は残されていない。いのちの木への第一の道は、すでに久しく閉ざされている。2. それは新しい道である。行いの契約に対して、また旧約の古びた制度に対して。それは最後の道であり、人々に開かれる最後の道である。この道に入らない者は永遠に自分を除外する。それは常に効果的な道である。3. それは生ける道である。行いの契約の道で神に来ようとするのは死である。しかしこの道で神に来ることができ、生きることができる。それは生ける救い主による。この方は死なれたが生きておられる。そしてこれに入る者にいのちと生ける希望を与える道である。4. それはキリストが垂れ幕、すなわちこの方の肉をとおして、私たちのために聖別られた道である。幕屋と神殿の垂れ幕はキリストのからだを意味した。この方が死なれたとき、神殿の垂れ幕は真っ二つに引き裂かれ、これは夕方のいけにえの時であり、人々にこれまでになかった至聖所への驚くべき視野を与えた。私たちの天への道は十字架につけられた救い主を通る。この方の死は私たちにとっていのちの道である。これを信じる者にこの方は尊いものとなる。
Ⅲ. 彼はヘブル人たちに、このような特異な仕方で授けられたこれらの特権のゆえに彼らに課せられる務めを示す(Heb 10:22,23、など)。
1. 彼らは神に近づかなければならない。そして正しい仕方で。彼らは神に近づかなければならない。神への近づき方と立ち帰り方の道がこのように開かれたのに、依然として神から遠ざかっていることは、最大の忘恩と神とキリストの軽視であろう。彼らは回心によって、またその契約をすがることによって近づかなければならない。彼らはすべての聖なる交わりにおいて、エノクが神と共に歩んだように近づかなければならない。彼らはへりくだった崇拝において、その足台において礼拝することによって近づかなければならない。彼らは聖なる依存において、また彼らに対する神の導きの厳格な観察において近づかなければならない。彼らは神への同化と、神との交わりにおいて、その祝福された影響の下に生き、神の臨在に住むようになるまで、ますます近づくように努めながら。しかし正しい仕方で神に近づくかどうかを確かめなければならない。(1.) まことの心をもって。いかなる許された欺きや偽善もなしに。神は心を探る方であり、内なる部分に真実を要求される。真摯さは私たちの福音の完全さである。私たちを義とする義ではないが。(2.) 信仰の全き確信において。神にキリストによって来るとき、私たちが聞き入れられ、受け入れられるという完全な確信にまで成長した信仰をもって。すべての罪ある不信を捨てるべきである。信仰なしには神を喜ばせることはできない。そして私たちの信仰が強いほど、より多くの栄光を神に帰する。(3.) 邪悪な良心から心を注がれ。キリストの血を私たちの魂に信頼して適用することによって。罪責、汚れ、罪ある恐れと苦悩、神と務めへのすべての忌避、無知と誤りと迷信、また人が罪のゆえに受ける良心のすべての悪から清められる。そして(4.) からだをきよい水で洗われ。すなわち洗礼の水によって(これによって私たちはキリストの弟子、その神秘なるからだの肢体として記録される)、あるいは聖霊の聖別る力によって。これが内なる構造と同様に外なる歩みを改め、整え、肉の汚れと同様に霊の汚れをきよめる。律法の下の祭司たちは、主の前に進んでいけにえをささげる前に洗わなければならなかった。神に近づくためにはふさわしい準備がなければならない。
2. 使徒は信者たちに信仰の告白を堅く守るように勧める(Heb 10:23)。ここで観察せよ。(1.) 務めそのもの。信仰の告白を堅く守ること。福音のすべての真理と道を抱き、それらにしっかりとつかまり、すべての誘惑と反対に耐えてそのつかまりを保つこと。私たちの霊的な敵は私たちの信仰と希望と聖性と慰めを私たちの手から奪い取ろうとするが、私たちは最良の宝として宗教を堅く守らなければならない。(2.) 私たちがこれを行うべき仕方。動揺することなく、疑うことなく、論争することなく、背教への誘惑と戯れることなく。神と私たちの魂との間のこれらの大いなる事を一度定めた以上、堅固で動かされない者でなければならない。キリスト教の信仰と実践において動揺し始める者は、落ちる危険にある。(3.) この務めを促す動機や理由。約束された方は真実である。神は信者たちに大いなる尊い約束をなされ、真実な神であり、そのことばに忠実である。神には偽りも気まぐれもなく、私たちにもそうあるべきである。神の真実は私たちが真実であるように励まし励起するはず。そして私たちの神への約束よりも神の私たちへの約束に頼り、十分な恵みの約束を神に頼み求めなければならない。
Ⅳ. 背教を防ぎ、忠実と堅忍を促進するための手段が規定される(Heb 10:24,25、など)。いくつか挙げる。1. 互いに考え合い、愛と善き行いを励ます。キリスト者は互いに対する優しい配慮と関心を持つべきである。それぞれの欲求、弱さ、誘惑が何であるかを愛情をもって考えるべきである。そしてこれは互いに責めるためでなく、怒りではなく、愛と善き行いに励ますためである。自分自身と互いに、神とキリストをより愛し、務めと聖性をより愛し、キリストにある兄弟をより愛し、互いのからだと魂にキリスト者の愛情のすべての善き奉仕を行うように呼びかける。他者に与えられた良い模範は、愛と善き行いへの最も良く最も効果的な励ましである。2. 集会をやめない(Heb 10:25)。キリストの弟子たちが共に集まることはキリストのみこころである。時には交わりと祈りのために、より私的に。また公けに、福音の礼拝のすべての礼典を聞き、加わるために。使徒の時代に、またすべての時代にあるべき、神の礼拝のため、また相互の徳の建立のためのキリスト者の集会があった。そしてそれらの時代にさえ、これらの集会を捨て、宗教そのものから背教し始めた者がいくらかいたようである。聖徒の交わりは大いなる助けと特権であり、堅実と堅忍の良い手段である。これによって彼らの心と手は相互に強められる。3. 互いに勧め合う。自分自身と互いを勧め、後戻りの罪と危険について自分自身と互いに警告し、務め、失敗と腐敗を自分自身と仲間のキリスト者に思い出させ、互いを見守り、敬虔なねたみをもって自分自身と互いをねたむ。これが真の福音の霊をもって進められるなら、最も良く最も心からの友情となる。4. 試練の時の接近を観察し、それによってより大いなる勤勉に活気づくべきこと。その日が近づいているのを見るに及んで、ますます。キリスト者は神が予告された時のしるしを観察すべきである。近づいている日があった。ユダヤ民族にとって恐ろしい日。その町が滅ぼされ、民の本体がキリストを拒絶したゆえに神に拒絶される日。これは選ばれた残りの者にとって離散と誘惑の日となるであろう。さて使徒は彼らに、そのような恐ろしい日の接近のしるしが何であるかを観察し、共に集まり互いに勧めることにますます忠実であるように促す。それによってそのような日のために良く準備できるように。私たちすべてに試練の日が来る。死の日であり、私たちはその接近のすべてのしるしを観察し、務めにおいてより大いなる目覚めと勤勉のためにこれらを用いるべきである。
Ⅴ. これらの確立の手段を挙げた後、使徒は章の終わりに、堅忍への、また背教に対する勧めを、多くの非常に重い考察によって強める(Heb 10:26,27、など)。
1. 背教の罪についての彼の記述から。それは真理の知識を受けた後、故意に罪を犯すこと。すなわち、確信的な証拠を持った真理に対して故意に罪を犯すこと。この箇所はある敬虔な魂に大いなる苦悩の機会となった。彼らは、確信と知識に反するすべての故意の罪がゆるせない罪であると結論する用意ができていた。しかしこれは彼らの弱さと誤りであった。ここで述べられている罪は、全体的で最終的な背教である。人が満ちた固定した意志と決意をもって、唯一の救い主であるキリストを軽んじ拒否し、唯一の聖別る者である霊を軽んじ抵抗し、唯一の救いの道である福音と永遠のいのちのことばを軽んじ放棄する。そしてこれを、キリスト教を知り、認め、告白した後に、頑固にまた悪意をもって続ける。これが大いなる違反である。使徒は思うがままに罪を犯す者に関する律法に言及するようである(民数記第一五章30,31節)。彼らは断ち切られるべきであった。
2. そのような背教者の恐るべき運命から。(1.) そのような罪のためのいけにえはもはや残されていない。そのような罪人を救うために来るべき他のキリストはない。彼らは最後の頼りと救済に対して罪を犯す。律法の下では、そのためのいけにえの備えのない罪があった。しかし、それらを犯した者が真に悔いたなら、たとえ一時的な死を逃れられなくても、永遠の滅びを逃れることができた。キリストが来てあがないをなさるから。しかし今、福音の下で、キリストを受け入れず、この方によって救われようとしない者には、他の避け所が残されていない。(2.) 彼らにはただ、恐るべき裁きの期待だけが残されている(Heb 10:27)。ある人々はこれはユダヤの教会と国家の恐ろしい滅びを指すと考える。しかし確かにこれはまた、死と裁きにおいてすべての頑固な背教者を待っている完全な滅びをも指す。その時裁判者は彼らに対して燃える怒りを示される。これは敵対者たちを滅ぼすであろう。彼らは滅ぼす火と永遠の燃焼に委ねられるであろう。この滅びについて、神は地上にいる間、ある悪名高い罪人に、彼ら自身の良心において恐るべき予感を与えられる。これに対する恐ろしい期待、これを忍び抜くことも逃れることも決してできないという絶望と共に。
3. モーセの律法を軽んじた者に対する神の義の方法から。すなわち思うがままに罪を犯し、その権威、その脅し、その力を軽んじた者。これらの者は二つか三つの証人によって有罪とされたとき、死刑に処された。彼らはあわれみを受けずに死んだ。一時的な死を。観察せよ。賢明な支配者は、思うがままに罪を犯す者を罰することによって、その政府の信用と律法の権威を保つように注意すべきである。しかしその場合、事実の十分な証拠がなければならない。このように神はモーセの律法において定められた。そしてここから使徒は、キリストから背教する者に下る重い運命を推論する。ここで彼は彼ら自身の良心に委ねる。(彼らが知ったと告白した後に)キリストを軽んじる者がどれほど重い罰を受けることになりそうかを判断するために。そして彼らは罪の大きさによって罰の大きさを判断できる。(1.) 彼らは神の子を足で踏みつけた。普通の人を踏みつけることは許しがたい傲慢さを示す。誉れある人をそのように卑劣な仕方で扱うことは耐え難い。しかし、ご自身が神である神の子をこのように扱うことは最高の挑発でなければならない。この方の人格を踏みつける、すなわちこの方がメシアであることを否定する。この方の権威を踏みつけ、その御国を損なう。この方の肢体を万物のあくとうのように踏みつけ、世に生きるにふさわしくないとする。そのような人々にとってどのような罰が大きすぎようか。(2.) 彼らは自分を聖別た契約の血を普通のものとみなした。すなわちキリストの血。これによって契約は買い求められ、封印され、これによってキリストご自身が聖別られた。あるいはこれによって背教者が聖別られた。すなわち洗礼によって、新しい契約に目に見える形で入れられ、主の晩餐にあずかることを許された。観察せよ。人があずかりながら落ちうるある種の聖別がある。彼らは一般の賜物と恵み、外的な告白、敬虔な形式、務めの習慣、一連の特権によって区別されうる。それにもかかわらず最終的に落ちうる。以前にキリストの血を高く尊んでいたように見える者が、それを普通のもの、犯罪人の血と変わらないと考えるようになるかもしれない。それが世の贖いであり、その一滴一滴が無限の価値あるものであったのに。(3.) 恵みの霊を侮辱した。人々に恵み深く与えられ、また恵みを働かせる霊。恵みの霊。最大の注意をもって尊ばれ、仕えられるべき霊。彼らはこの霊を悲しませ、抵抗し、消し、いや、これを侮辱した。これは悪しさの最高の働きであり、罪人の状態を絶望的なものとし、福音の救いが自分に適用されることを拒否する。さて彼はすべての良心に委ね、普遍的な理性と公正に訴える。このような加重された犯罪がふさわしい罰を受けないはずがないかと。すなわちあわれみ受けずに死んだ者たちよりも重い罰を。しかし、あわれみを受けずに死ぬことよりも重い罰とは何であろうか。答えよう。恵みによって、すなわち彼らが軽んじた恵みとあわれみによって死ぬことである。神の義だけでなく、そこなわれた神の恵みとあわれみが復讐を叫ぶ時、その状態はどれほど恐ろしいことであろうか。
4. 神の報復的な義の性質についての聖書の記述から(Heb 10:30)。私たちは神が復讐はわたしのものと言われたことを知っている。これは詩篇第九四篇1節から取られた。復讐はわたしのものである。主の恐ろしさは啓示と理性の両方によって知られている。報復的な義は神の栄光ある、とはいえ恐ろしい属性である。それは神に属し、神はこれを用い、ご自身の恵みを軽んじるような罪人たちの上にこれを執行される。神はご自身と、ご自身の子と、霊と、契約とのために、背教者に復讐される。その時彼らの状態はどれほど恐ろしいことであろうか。もう一つの引用は申命記第三二章36節から。主はその民をさばかれる。神はご自身の目に見える教会を探り試み、ユダヤ人であると言うがそうでなく、サタンの会堂に属する者たちを発見し暴き出される。そして尊いものを卑しいものから分け、シオンの罪人たちを最大の厳しさをもって罰される。さて、復讐はわたしのもの、わたしは報復すると言われた方を知る者は、使徒がするように結論しなければならない(Heb 10:31)。生ける神の御手に落ちることは恐ろしいことであると。神の恵みから生じる喜びを知る者は、それによって神の報復的な怒れの力と恐ろしさを判断できる。ここで観察せよ。不悔改の罪人と背教者の永遠の苦しみは何か。彼らは生ける神の御手に落ちる。その罰は神ご自身の御手から来る。神は彼らをその義の御手に取られる。神ご自身が彼らに対処される。彼らの最大の苦しみは魂に対する神の怒りの直接的な印象である。被造物によって罰するとき、器具は打撃の力のいくらかを減ずる。しかし、ご自身の御手によってするとき、それは無限の苦しみである。これを彼らは神の御手から受ける。彼らは悲しみのうちに身を横たえる。彼らの滅びは神の栄光ある力ある臨在から来る。彼らが地獄に悲しい寝床を設けるとき、そこに神がおられるのを見出す。そして神の臨在が彼らの最大の恐怖と苦悩となる。そして神は生ける神である。神は永遠に生き、永遠に罰せられる。
5. 彼らにキリストのために耐え忍んだ以前の苦しみを思い出させることによって、堅忍を促す。しかし、以前の日のことを思い出せ。あなたがたは光照られた後、大いなる戦いの苦しみを耐え忍んだ(Heb 10:32)。福音の初めには、キリスト教の告白者たちに対して非常に激しい迫害が起こされ、信じるヘブル人もその分を受けた。彼らに次のことを思い出させる。
(1.) いつ苦しんだか。以前の日に、光照られた後。すなわち、神が彼らの魂にいのちを吹き込み、神聖な光をその思いに生じさせ、彼らをその恵みと契約に取り入れられたとすぐに。その時、地と地獄は彼らに対してすべての力を合わせた。ここで観察せよ。自然な状態は闇の状態であり、その状態に留まる者はサタンと世から攪乱を受けない。しかし恵みの状態は光の状態であり、それゆえ闇の力はこれに激しく反対する。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者はみな迫害を受けなければならない。
(2.) 何を苦しんだか。彼らは大いなる戦いの苦しみを耐え忍んだ。多くのさまざまな苦しみが彼らに対して結集し、彼らはそれらとの大いなる戦いを持った。義人の悩みは多い。[1.] 彼らは自分自身において苦しんだ。自分自身の人格において。彼らは見せ物、世と御使いと人々への奇観とされた(コリント人への第一の手紙第四章9節)。その名と評判において(Heb 10:33)。多くのそしりによって。キリスト者はその評判を尊ぶべきである。特に宗教の評判が関与するので。これがそしりを大いなる苦しみとする。彼らは持ち物において苦しんだ。その財産が奪われ、罰金と没収によって。彼らはその兄弟たちの苦しみにおいて苦しんだ。ある時はそのように扱われた者たちの仲間になった。キリスト者の霊は同情する霊であり、利己的な霊ではなく、あわれむ霊である。すべてのキリスト者の苦しみを自分のものとし、他者をあわれみ、訪れ、助け、彼らのために執り成す。キリスト者は一つのからだであり、一つの霊によって生かされ、一つの共通の事業と利益に乗り出し、その民のすべての苦しみにおいて苦しむ神の子たちである。からだの一つの肢体が苦しむとき、残りは皆これと共に苦しむ。使徒は彼らがどのように彼に同情したかを特に認める(Heb 10:34)。あなたがたは私が獄にあったとき私に同情した。私たちは、苦しみの下にあったキリスト者の友人たちが示してくれた同情を感謝して認めるべきである。
(3.) どのように苦しんだか。彼らは以前の苦しみの下で強く支えられた。彼らはその苦しみを耐え忍び、それだけでなく、喜んでこれを神からの恵みと誉れとして受けた。キリストの御名のためにそしられるに値すると思われて。神はその苦しむ民を、すべての忍耐と寛容とに、しかも喜びをもって内なる人において強めることができる(コロサイ人への手紙第一章11節)。
(4.) 何が彼らをこのように苦しみの下で持ち堪えさせたか。彼らは自分たちのうちに、天にまさる、永遠の財産があることを知っていた。観察せよ。[1.] 天における聖徒の幸福は財産であり、現実の重みと価値のあるものである。ここにあるすべてのものは影にすぎない。[2.] それは彼らがここで持ち得、また失い得るいかなるものよりもまさる財産である。[3.] それは永遠の財産であり、時間を生き延び、永遠に並行して走る。彼らは決してこれを使い果たせない。その敵が彼らの地上の持ち物をしたように、これを彼らから奪うこともできない。[4.] これは彼らがここで失い、苦しみ得るすべての豊かな埋め合わせとなる。天において彼らはより良いいのち、より良い財産、より良い自由、より良い交わり、より良い心、より良いわざ、すべてにおいてより良いものを持つであろう。[5.] キリスト者はこれを自分自身のうちに知るべきである。これの確信を自分自身のうちに得るべきである(神の霊がその霊と共にあかしする)。なぜならこの確実な知識は、彼らがこの世で出会うかもしれないいかなる苦しみの戦いをも耐え忍ぶのを助けるから。
6. すべての忠実なキリスト者を待つ報いの報復から、彼らに堅忍を促す(Heb 10:35)。それゆえ、大いなる報いのあるあなたがたの確信を投げ捨ててはならない。ここで、(1) 彼は確信、すなわち彼らの聖なる勇気と大胆さを投げ捨てないように勧める。以前にそのためにこれほど苦しみ、その苦しみをこれほど良く耐え忍んだ告白を堅く守るように。(2) 彼らの聖なる確信の報いが非常に大いなるであろうことを確かめることによって、これを励ます。それは聖なる平安と喜びの現在の報いを持ち、神の臨在とその力の彼らの上にある休息を持ち、後には大いなる報いの報復を持つであろう。(3) 忍耐の恵みが現在の状態においていかに必要な恵みであるかを示す(Heb 10:36)。忍耐が必要である。神のみこころを行った後、約束を受け継ぐために。すなわちこの約束された報いを。観察せよ。聖徒の幸福の最大の部分は約束の中にある。彼らは約束を受ける前にまず神のみこころを行わなければならない。そして神のみこころを行った後、約束が成就する時を待つために忍耐が必要である。神が彼らを呼び出される時まで生きるために忍耐が必要である。キリスト者の忍耐の試練である。そのわざが終わった後に満足して生き、報いを神の時まで待つこと。もはやその働き手でありえない時、神の待つしもべでなければならない。すでに大いなる忍耐を持ち、これを行使した者たちは、死ぬまでさらに持ち、さらに行使しなければならない。(4) 彼らの忍耐を助けるために、キリストの来臨の解放と報いの接近を確かめる(Heb 10:37)。なおしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。この方は死において間もなく彼らに来られ、すべての苦しみを終わらせ、いのちの冠を与えられる。この方は裁きのために間もなく来られ、教会全体(その神秘なるからだのすべてのもの)の苦しみを終わらせ、最も公けの仕方で豊かで栄光ある報いを与えられる。両方のために定められた時があり、その時を越えて遅れることはない(ハバクク書第二章3節)。キリスト者の現在の戦いは激しいかもしれないが、間もなく終わるであろう。
7. これが彼らの特徴であり、彼らの幸福となることを告げることによって、堅忍を促す。他方、背教はすべて罪ある者の恥であり、またその滅びとなる(Heb 10:38,39)。義人は信仰によって生きる、など。(1) 最大の苦しみの時に信仰によって生きることができることは、義人の名誉ある特徴である。彼らは神の約束の真実についての確実な確信によって生きることができる。信仰は彼らにいのちと活力を与える。彼らは神に信頼し、神によって生き、神の時を待つことができる。そして彼らの信仰が現在その霊的ないのちを維持するように、後には永遠のいのちによって冠される。(2) 背教は神が喜ばない者たちのしるしであり刻印であり、また神の激しい不満と怒りの原因である。神は忍耐しない者たちの形式的な告白と外的な務めと奉仕に決して喜ばれなかった。神はその時彼らの心の偽善を見ていた。そして彼らの宗教における形式が宗教からの公然たる背教に終わるとき、大いに刺激される。神は彼らを大いなる不満をもって見られる。彼らは神にとってつまずきである。(3) 使徒は彼自身とこれらのヘブル人とについて、義人の特徴と幸福を失い、悪者の刻印と悲惨の下に陥らないという良い希望を宣言して結ぶ(Heb 10:39)。しかし私たちは、など。まるで彼がこう言ったかのようである。*退く者たちのうちにないことを希望する。私は希望する。あなたと私、これまでに大いなる試練に会い、恵みによってその信仰を強められてその下で支えられた者が、いつか自分自身に任されて滅びに退くようなことがないように。神がいまにその全能の力によって信仰を通じて救いまで守り続けられることを。*観察せよ。[1.] 告白者は大いに進み、その後に退くことがある。そしてこの神からの退くは滅びへの退くである。神から遠ざかるほど、滅びに近づく。[2.] 過去において大いなる試練の中で忠実に保たれた者は、同じ恵みが彼らがいのちと忍耐の終わり、すなわち魂の救いを受けるまで、引き続き信仰によって生きるのを助けるに十分であると希望する理由がある。もし私たちが信仰によって生き、信仰によって死ぬなら、私たちの魂は永遠に安全である。
使徒は、手紙を書いたヘブル人たちがレビの制度に不思議なほど愛着を持っていたことをよく知っていた。それゆえ彼らをそれから離れさせるための論拠で口を満たした。そしてそのために、この章において次のように進める。Ⅰ. その祭司職といけにえの全体を低く置く(Heb 10:1-6)。Ⅱ. 彼らにキリストとその福音を効果的に勧めるために、キリストの祭司職を非常に高く上げる(Heb 10:7-18)。Ⅲ. 信者たちにその状態の誉れと尊厳を示し、ふさわしい務めに召す(Heb 10:19-39)。