Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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Isaiah 2章 1-5 Matthew Henry's Complete Commentary
¹ アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて見たみことば。
² 終わりの日に、主の家の山は、もろもろの山のかしらに堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立ち、すべての国がそこに向かって流れてくる。
³ 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はご自身の道を私たちに教えられる。私たちはその道を歩もう」と。律法はシオンから出て、主のことばはエルサレムから出るからだ。
⁴ 主は国々の間をさばき、多くの民を責められる。彼らはその剣をすききれに打ち直し、その槍を刈り込みばさみに打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない。
⁵ ヤコブの家よ。さあ、主の光の中を歩もう。
この説教の個別の標題(Isa 2:1)は、書全体の一般的な標題(Isa 1:1)と同じである。ただそこで 幻 と呼ばれるものが、ここでは イザヤが見たみことば(あるいは彼が見た事、事物)と呼ばれる。その真理について、彼は自分の心の中で、肉体の目で見たかのように十分な確信を持っていた。あるいはこのことばは幻の中で彼にもたらされた。神からのこのメッセージを受けたとき、彼は何かを見たのである。ヨハネは自分に語りかけた 声を見るために 振り向いた。Re 1:12。
この説教は終わりの日、メシアの御国が世界に立てられる、モーセの時代の終わりにおけるメシアに関する預言から始まる。地のエルサレムの終わりの日、その滅びの直前に、この天のエルサレムが立てられる、Heb 12:22,Ga 4:26。注、福音の時代は終わりの日である。なぜなら 1. それは来るのに長くかかり、旧約の聖徒たちによって長く待ち望まれ、ついに来たからである。2. 私たちは福音のうちにある神の恵みの啓示以外のいかなるものも期待してはならない、Ga 1:8,9。3. 私たちは時の終わりにおけるイエス・キリストの再臨を、旧約の聖徒たちがその最初の来臨を期待したように待ち望むべきである。これは終わりの時である、1Jo 2:18。
さて、預言者はここで次の事を予告する。
I. キリストの教会の設立と、キリスト教の世界への植え付け。キリスト教はそのとき主の家の山となる。それが告白されるところどこでも、神はご自身の臨在を与え、ご自身の民の礼拝を受け、かつてシオンの山の神殿でなしたように教えと祝福を与えられる。キリストの勅許によって組織された福音の教会は、そのときアブラハムのすべての霊的子孫の集合場所となる。ここで次のことが約束される。1. キリスト教は公に宣べ伝えられ、告白される。それは山々の頂に 備えられる(余白読み)とあり、すべての者の目と耳に。それゆえキリストの弟子たちは 隠れることのできない 山の上の町にたとえられる、Mt 5:14。彼らには多くの目が注がれた。キリストご自身 世界に向かって公に語られた、Joh 18:20。使徒たちがした事は 片隅でなされたのではない、Ac 26:26。それはかがり火の点火であり、旗の掲揚であった。それが至る所で 反対されて語られた ということは、それが至る所で 語られた ことを前提とする。2. それはしっかりと固定され、根づく。それは永遠の山々の頂に立てられ、岩 の上に建てられ、よみの門もそれに勝てない。山々を根こぎにできなければであるが。安らかに住む者は 高きに住む と言われる、Isa 33:16。主は福音のシオンを建てられた。3. それはすべての反対に打ち勝つだけでなく、すべての競合をしのぐ。それは 丘よりも高くあげられる。この 奥義における神の知恵 はこの世のすべての知恵、そのすべての哲学とすべての政治をしのぐ。それが導入する霊的礼拝は異邦人の偶像礼拝を退ける。そして宗教における他のすべての制度はこれと比べて取るに足りない卑しいもののように見える。Ps 68:16 を見よ。なぜお前たち高い丘は跳ねるのか。これこそ神が住むことを望まれる山である。
II. 異邦人がその中に導き入れられること。1. 国々がその中に受け入れられる。エルサレムの神殿の中庭に入ることを禁じられていた割礼を受けていない者たちでさえ。彼らを締め出していた隔壁は取り除かれる。2. すべての国がそこに流れ入る。近づく自由を得て、彼らはその自由を活かし、群衆がキリスト教信仰を受け入れる。彼らは水の流れのようにそこに流れ入る。それは福音がなす回心者の豊かさと、教会に入って来る際の彼らの速やかさと喜びを示す。彼らは強い入れられるのではなく、自然に流れ入る。あなたの民は進んで従う、すべて志願者である、Ps 110:3。キリストに 民の集いがなる、Ge 49:10。Isa 60:4,5 を見よ。
III. この回心者たちの合流が互いに与える相互の助けと励まし。彼らの敬虔な思いと決意は入り混じり、一つの満ちた流れとなって入って来る。ユダヤ人が国中のあらゆる所から年三度エルサレムで礼拝するために上って来たとき、道すがら友人たちを呼び、共に行くよう励ましたように、多くの異邦人がその親族、友人、隣人に、キリスト教信仰を共に受け入れるよう働きかける(Isa 2:3)。「さあ、主の山に登ろう」。登り坂であり、心に逆らうものであっても、それは 主の山 である。主は私たちのたましいがご自身に向かって上るのを助けられるからだ。注、自ら神との契約と交わりに入ろうとする者は、できるだけ多くの人を共に連れて来るべきである。クリスチャンは互いに善きわざに駆り立て、互いをその中に招くことによって聖徒の交わりを進めることにふさわしい。「あなたが主の山に登り、私たちのために祈ってくれ。私たちは家に留まる」のではなく、「私たちが行くから、あなたは好きにしなさい」でもなく、「さあ、共に行こう、協力して行こう。そうすれば互いの手を強め、互いの評判を支えることができる」と。「私たちが考え、相談して、後で行こう」ではなく、さあ、今すぐ行こう である。Ps 122:1 を見よ。多くの者がこう言う。これを言われた者は他の者に言う。福音の教会はここで 主の山 だけでなく ヤコブの神の家 と呼ばれる。その中で神のヤコブとの契約、その祈りの子孫との契約が保たれ、成就する。今私たちにとっても、彼らと同じように、神は決して 私を seek れと無駄に言われたことはない からである、Isa 45:19。さて、ここを見よ。1. 主の山 に登ることにおいて彼らが自分たちに期待するもの。そこで 主はご自身の道を教えられる。注、神の道は神の教会で、神の民との交わりにおいて、制定された規定の用いにおいて学ばれる。私たちがその中を歩むことを求められる務めの道であり、神が私たちに向かって歩まれる恵みの道である。神がご自身の民を教えるのは、ことばと御霊によってである。ご自身の道を教えられるために、ご自身の聖なる山に登るために苦労を惜しむ価値がある。そしてその苦労を惜しまない者は決してそれがむなしい労働であったと思うことはない。そのとき 主を知ることを追い求めれば、私たちは知るであろう。2. 彼らが 自分たちと互いのために約束する もの。「もし主が ご自身の道を教えられる なら、私たちは その道を歩もう。もし主が私たちの義務を知らせられるなら、私たちはその恵みによってそれを行うことを良心とする」。この謙遜な決意をもって神のことばにあずかる者は、その教訓を受けずに帰されることはない。
IV. これがもたらされる手段。シオンから律法が出る、新約の律法、キリストの律法が、かつてシナイ山からモーセの律法が出たように。エルサレムから主のことばが 出る。福音は律法、信仰の律法である。それは 主のことば である。神殿の建てられたシオンから、そしてエルサレムから 出た。キリストご自身はガリラヤから始められた、Mt 4:23,Lu 23:5。しかし、使徒たちにすべての国に福音を宣べ伝えるよう任じられたとき、エルサレムから始めるよう定められた、Lu 24:47。Ro 15:19 を見よ。彼らのほとんどはガリラヤに故郷があったが、エルサレムに留まってそこで 御霊の約束を受ける べきであった、Ac 1:4。そしてシオンの山の神殿で彼らは福音を宣べ伝えた、Ac 5:20。この誉れは、キリストがそこで十字架につけられた後でさえ、エルサレムに許された。それがかつて何であったかのためである。そしてこのエルサレムに起こった福音によって、福音の教会は 山々の頂に立てられた。これが シオンから送られた神の力の杖 であった、Ps 110:2。
V. 世界における贖い主の王国の確立。主は国々の間をさばかれる。シオンから出るそのみことばによって、ご自身にたましいを従わせるだけでなく、彼らのうちに治められる、Isa 2:4。知恵と義をもって教会の善のために世界の事を整え、ご自身の利益に反対する者を責め、制される。御霊が人の良心に働くことによって主はさばかれ、責めが人を試み、これを引き止める。その王国は霊的であり、この世のものではない。
VI. 世界における福音の成功の結果としての大いなる平和(Isa 2:4)。彼らはその剣をすききれに打ち直す。戦争の道具が農具に変えられる。反対に、戦争が宣言されるとき、すききれは剣に打ち直される、Joe 3:10。そのとき国々は国々に向かって剣を上げず、今のように もはや戦いを学ばない。それをもはや必要としないからである。これはクリスチャン間のすべての戦争を絶対的に不法とするものではなく、メシアの日に戦争がないという預言でもない。ユダヤ人はこれをクリスチャンに対する論拠として用い、この約束が成就していないからイエスはメシアではないと主張する。しかし、1. それはキリストが生まれた時代の穏やかさにおいて部分的に成就した。そのとき戦争は大部分がやんでいた。課税 がその証拠である、Lu 2:1。2. 福音の目的と傾向は平和を作り出し、すべての敵意を殺すことである。そこには平和への最も力強い義務と動機がある。それゆえそれがこの効果を持つと合理的に期待できたであろうし、戦争や争いが起こるもととなる人間の情欲がなければ持ったであろう。3. ユダヤ人と異邦人は福音によって和解し、共に集められ、もはやかつてのような戦争はなかった。彼らは 一人の牧者の下に一つの羊の群れ となったからである。Eph 2:15 を見よ。4. キリストの福音は、勝つところどこでも、人を穏やかにし、人の霊を和らげ、甘くする。心に注がれるキリストの愛は、人々が互いに愛し合うよう駆り立てる。5. 初代クリスチャンは兄弟愛によって名高かった。その敵でさえそれに気づいた。6. 私たちにはこの約束がクリスト教会の後の時代に、御霊が高きからより豊かに注がれるとき、より完全に成就するという希望を持つ根拠がある。そのとき地に平和がある。神がこれをなされるとき、だれが生き得ようか。しかし定めの時に神はそれをなされる。神は人ではないから、偽らない からである。
最後に、ここにこれらすべてから引き出された実践的な推論がある(Isa 2:5)。ヤコブの家よ。さあ、私たちは主の光の中を歩もう。ヤコブの家によって意味されるのは、次のいずれかである。1. 肉によるイスラエル。彼らがこれによって 聖なる競争心に 駆り立てられるように、Ro 11:14。「異邦人がこのように神のために用意し、決意しているのを見て、主の家に上るために進んで出かけるのを見て、私たちも立ち上がって行こう。異邦人の罪人たちがヤコブの家よりも聖なる山の良き友であったなどと決して言わせないように」。このようにある人々の熱心が多くの人を駆り立てるべきである。あるいは、2. 霊的イスラエル、ヤコブの神に導かれたすべての者。福音の時代にこのような大いなる知識(Isa 2:3)と大いなる平和(Isa 2:4)があるなら、私たちはこれらの特権にあずかるのではないか。それなら来たれ、それにふさわしく生きよう。他の者がどうしようと、さあ、さあ! 私たちは 主の光の中を歩もう。(1)この知識の光の中で慎重に歩もう。神がご自身の道を教えられるか。キリストの顔にご自身の栄光を示されるか。それなら私たちは 光と昼の子どもとして歩もう、Eph 5:8,1Th 5:8,Ro 13:12。(2)この平和の光の中で慰められて歩もう。もはや戦争がないのか。それなら喜んで道を進もう。そしてこの喜びを神に向かわせ、私たちの力としよう、Ne 8:10。このようにして私たちは義の太陽の光線の中を歩むであろう。
Isaiah 2章 6-9 Matthew Henry's Complete Commentary
⁶ それゆえ、あなたはあなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らが東から満ち、ペリシテ人のように占い師であり、異邦人の子らを喜ぶからである。
⁷ 彼らの地は銀と金で満ち、彼らの宝には果てがない。彼らの地は馬にも満ち、彼らの戦車にも果てがない。
⁸ 彼らの地は偶像で満ちている。彼らは自分の手のわざ、自分の指が造ったものを拝む。
⁹ 卑しい者も身をかがめ、高貴な者もへりくだる。それゆえ、彼らを赦さないでほしい。
異邦人の招きにはユダヤ人の退けが伴った。彼らのつまずき、すなわち彼らの減じることが異邦人の富となり、彼らの退けが世界の和解となった(Ro 11:12-15)。そしてこれらの節はそれを指し示し、その中で神を正当化するように意図されているように思われる。しかし同時に、預言者が生きた世代の人々に悔いめざめを与えるために第一義的に意図されている可能性も高い。預言者たちが当時の事柄を、恵みとさばきの面で、後の事がらの型として語ることが常であったからである。ここに次のことがある。
I. イスラエルの運命。これはこの段落の最初と最後の二つの言葉で示される。しかしそれらは恐るべき二つの言葉であり、次のことを告げる。1. 彼らの状態は悲しい、非常に悲しい(Isa 2:6)。それゆえ、あなたはあなたの民を捨てられた。神に捨てられた民の状態は惨めであり、神がかつてご自身の民であった者を捨てられるなら、その挑発は確かに大いなるものでなければならない。これはユダヤの教会がキリストを退けた後の嘆かわしい状態であった。Migremus hinc——さあ、ここから去ろう。あなたがたの家は荒廃に残される(Mt 23:38)。ユダヤ人に重い災難が臨むたび、主は彼らから助けと救援を引き退けられたゆえに、彼らを捨てられたと言われえた。そうでなければ彼らは敵の手に落ちなかったであろう。しかし神はだれをも、その者がまず神を離れるまでは決してお見捨てにならない。2. 彼らの状態は絶望的、全く絶望的である(Isa 2:9)。それゆえ、彼らを赦さないでほしい。この預言的な祈りは、彼らが赦されないという脅しに等しく、ある人々はこうも読めると考える。そしてあなたは彼らを赦されないであろう。これは個人に言及するのではなく(彼らの多くは悔い改めて赦された)、その民族の全体に対して、完全に断ち切られ、その教会が完全に解体され、二度とそのような体として形成されず、また古い特許状が回復されないという、取り消し不能の宣告であった。
II. イスラエルがこの運命を自ら招いた理由、およびその根拠。一般的に、彼らに滅びをもたらすのは罪である。神がその民をお見捨てになるよう怒らせるのは、これだけであり、これ以外の何ものでもない。預言者が具体的に挙げる特定の罪は、当時彼らの間に蔓延していたものであり、彼が当時説教した人々を説得し目覚めさせるために言及したものである。後になって満杯の罪、すなわちキリストを十字架につけ、その従者たちを迫害した罪となったものというよりは。なぜなら、すべての時代の罪が最後の恐るべき勘定を構成するのに寄与したからである。そしてバビロン捕囚による部分的かつ一時的な退けが差し迫っており、それはローマ人による彼らの最終的な滅びの型であり、ここに言及された罪が彼らにもたらした。彼らの罪は、彼らに対する神のすべての親切で恵み深い計画に直接矛盾するものであった。
1. 神は彼らを特別の民として、他のすべての民と区別し、その上に誉れを与えて、ご自身のために聖別された(Nu 23:9)。しかし彼らは東から満ちた。彼らは外国人を改宗(プロゼライト)させるのではなく帰化させ、彼らの間に定住することを奨励し、彼らと交わった(Ho 7:8)。彼らの国はシリヤ人とカルデヤ人、モアブ人とアンモン人、および他の東方の国々で満ち、彼らと共にそれらの国々の風習と慣習を受け入れ、異邦人の子らを喜んだ。彼らを好み、自分の国よりも彼らの国を好み、彼らに従えば従うほど、いっそう洗練され上品であると考えた。こうして彼らはその冠と契約を汚した。注記せよ。神に疎外される危険にあるのは、神に縁遠い者たちと交わることを喜ぶ者たちである。私たちは好む交わりの者の道をすぐに学ぶからである。
2. 神は彼らに神の託宣を与えられ、彼らがそこに助言を求めることができた。聖書と先見者だけでなく、さばきの胸当ても。しかし彼らはこれらを軽んじ、ペリシテ人のように占い師となり、彼らの占術を導入し、星や雲や鳥の飛びや獣の内臓やその他の魔術的な迷信によって、隠された事を発見し、未来の事を予告すると称する者たちに耳を傾けた。ペリシテ人は占い師で有名であった(1Sa 6:2)。注記せよ。真の神意を軽んじる者は、偽りの占いに正当に引き渡される。そしてこのように神とそのあわれみを偽りのむなしいもののために捨てる者は、確かに神に見捨てられる。
3. 神は彼らが神に信頼することを奨励し、神が彼らの富と力となることを確証された。しかし彼らは神の力と約束を不信し、金をその望みとし、馬と戦車で自分たちを武装し、それらを安全のために頼みとした(Isa 2:7)。神は彼らの王たちに対してさえ、自分たちのために馬を増やすこと、銀と金を大いに増やすことを明確に禁じられた。彼らがただ神のみに依存するようにするためであった。しかし彼らは、神における彼らの関係が、隣人たちと同様の銀と金の満ちた宝と、恐るべき数の戦車と馬を持たない限り、隣人たちに匹敵しないと考えた。銀と金、馬と戦車を持つこと自体が神を怒らせるのではない。しかし、(1.) それらを飽くことなく求めること、宝に果てがなく、戦車に果てがなく、それらへの欲望に境界や限界を設けないこと。神(ただお一人で全き方)において決して満足を得ない者は、最善でも不十分なこの世のもので決して十分を知らない者たちである。(2.) それらに頼ること。それらがなければ安全でも安楽でも幸福でもなく、それらがあればそうでなければならないかのように。
4. 神ご自身が彼らの神であり、彼らの礼拝の唯一の対象であり、神ご自身が彼らのために礼拝の規定を制定された。しかし彼らは神と神の制定されたものを軽んじた(Isa 2:8)。彼らの地は偶像で満ちていた。すべての町にその神があった(Jer 11:13)。そしてその地の豊かさに応じて、美しい像を造った(Ho 10:1)。一人の神では少なすぎると思う者は、二神では多すぎると思うであろう。しかも数百でも十分でなかった。偶像を愛する者はそれらを増やすからである。彼らはそれほど愚かで、みじめにも惑わされ、自分の手のわざを拝んだ。それが単なる被造物であるだけでなく、彼ら自身の被造物であり、彼ら自身の空想が工夫し、彼ら自身の指が造ったものであるのに、それが彼らに神になりうるとでも。彼らの偶像礼拝を加重したのは、神が銀と金で彼らを富ませられたのに、その銀と金で偶像を造ったことである。このようにエシュルンは肥え太って蹴った(Ho 2:8参照)。
5. 神は彼らを高め、誉れを与えられた。しかし彼らは卑しく自らを貶め、軽んじた(Isa 2:9)。卑しい者もその偶像に身をかがめる。これは少しでも理性の残っている最も卑しい者以下の行為である。罪は最も貧しい者や最も下位の階級の者にも不名誉なことである。卑しい者が目上の者に身をかがめるのはふさわしいが、木の切株に身をかがめるのはふさわしくない(Isa 44:19)。しかしこれは無学で卑しい者だけがするのではない。高貴な者も自分の威厳を忘れて偶像を拝むためにへりくだり、自分より良くない人間を神格化し、自分よりはるかに劣る石を聖別する。偶像礼拝者は地獄にまでおのれを貶めると言われる(Isa 57:9)。高貴な者たちが真の神の奉仕を自分より下のものとみなし、へりくだって仕えようとしないのに、偶像に身をかがめるためにへりくだるとは、なんと恥ずべきことであろうか。ある人々はこれを、神のさばきが命令と共に来るとき、卑しい者たちが低くされ、高貴な者たちがへりくだらされるという脅しと解する。
¹⁰ 岩に入り、主の恐れとその威厳の栄光のために、ちりの中に身を隠せ。
¹¹ その日、人の高ぶった目は低くされ、人の誇りは屈められ、主おひとりが高くされる。
¹² 万軍の主の日は、すべて誇り高ぶる者、すべて高慢な者、すべて高く挙げられる者の上に来る。そして彼は低くされる。
¹³ 高く挙げられたレバノンのすべての杉の木、バシャンのすべての樫の木の上に。
¹⁴ すべての高い山、すべての高く挙げられた丘の上に。
¹⁵ すべての高い塔、すべての堅固な城壁の上に。
¹⁶ すべてのタルシシュの船、すべての美しい絵画の上に。
¹⁷ その日、人の誇りは屈められ、人の高ぶりは低くされ、主おひとりが高くされる。
¹⁸ 偶像は全く廃される。
¹⁹ 人々は岩の穴、地の洞窟に入る。主の恐れとその威厳の栄光のために。神が地を恐るべきものとするために立ち上がられるとき。
²⁰ その日、人はそれぞれ自分が拝むために造った銀の偶像、金の偶像を、もぐらとこうもりに投げ捨てる。
²¹ 岩の割れ目、荒れた岩の頂に入ろうとして。主の恐れとその威厳の栄光のために。神が地を恐るべきものとするために立ち上がられるとき。
²² 鼻に息のある人に頼るな。彼は何によって重んぜられようか。
預言者はここで、神が彼らを見捨てられたとき、彼らの地にどのような荒廃がもたらされるかを示し続ける。これは特にカルデヤ人による最初の滅亡と、その後のローマ人による滅亡を指すかもしれない。あるいは、高ぶる罪人たちを呼び覚まし、へりくだらせ、彼らが神よりも喜び、頼りにしたものへの幻想を打ち砕くために神が取られる一般的な方法に関係するかもしれない。私たちはここで、遅かれ早かれ神が道を見いだされると聞く。
I. 安きに流れる罪人たち——彼らは自分たちに平安を告げ、神と神の裁きに挑む——を驚かせ、目を覚まさせること(Isa 2:10)。「岩に入れ。神は恐るべき裁きをもってあなたがたを攻撃し、それに対する恐るべき予感をもってあなたがたを打たれるので、あなたがたは岩に入り、主の恐れのためにちりの中に身を隠さざるを得なくなる。あなたがたはすべての勇気を失い、葉の揺れにも震え、あなたがたの心は恐れのために衰え(Lu 21:26)、追う者がいなくても逃げるであろう」(Pr 28:1)。同じ趣旨で Isa 2:19 がある。*彼らは岩の穴、地の洞窟に入る。*最も暗く、最も深い場所である。*彼らは岩や山に、自分たちの上に崩れ落ちよと呼びかけ、覆ってくれないよりはむしろ押しつぶしてくれと願う(Ho 10:8)。ローマ人によるエルサレムの滅亡(Lu 23:30)と、迫害する異教の勢力の滅亡(Re 6:16)のとき特にそうであった。そしてこれらはすべて主の恐れとその威厳の栄光のためである。*そのとき彼らは神を焼き尽くす火とし、自分たちを神の前の刈株とみなす。*神が立って地を恐るべきものとされるとき、*悪人をその中から振り落とし(Job 38:13)、彼らが自らを支えてきたすべての地の支柱と支えを揺り動かし、彼らの下から振り落とすとき。銘記せよ。 1. *神には恐るべき威厳があり、*その栄光は遅かれ早かれ私たちすべてを神の前から逃げさせるであろう。 2. 神を恐れ、神に逃げることをしない者たちは、神を恐れ、偽りの避け所へ逃げることを強いられる。 3. 神の怒りに追われる者たちがそれから逃げ、身を隠し、避難することを考えるのは愚かである。 4. 地のものは揺り動かされるものである。それは動揺を受けやすく、解体に向かっている。 5. 地の揺れは、地のものにのみ心を向ける者たちにとって恐ろしいものであり、またそうなる。 6. 地自体が揺れ動くとき、地の洞窟に避け所を見いだすことはむなしい。そのとき神と上にあるもの以外に避け所はない。
II. 高ぶる罪人たち——大きく構え、自分を高く評価し、周囲のすべてを軽蔑する者たち——をへりくだらせ、低くすること(Isa 2:11)。*人の高ぶった目は低くされる。高きを狙う目、心の誇りが現れる顔つきは、恥と絶望の中に下げられる。そして人の誇りは屈められ、*その霊は砕かれ、意気消沈し、誇っていたものを恥じる。それは繰り返される(Isa 2:17)。*人の誇りは屈められる。*銘記せよ。誇りは何らかの仕方で堕落する。人の高ぶりは、神の恵みがその誇りの悪を確信させ、謙遜を着せることによって、あるいは神の摂理が彼らが誇っていたすべてのものを奪い、彼らを低くすることによって、低くされる。私たちの救い主はしばしば、自分を高くする者は低くされるという格率としてこれを置かれた。彼は真の悔い改めにおいて自らを低くするか、あるいは神が彼を低くし、彼に軽蔑を注がれる。さてここで私たちは次のように聞く。
1. なぜこれがなされるのか。主おひとりが高くされるからである。銘記せよ。高ぶる者たちは、主おひとりが高くされるから、卑しめられる。高ぶる者たちをへりくだらせることは神の力の栄光のためである。これによって神はご自分が神であることを証明し、神と競争しようとしたヨブの主張を退けられる(Job 40:11-14)。見よ、すべて誇る者を、彼を低くせよ。そうすれば私もあなたに告白しよう。それはまた神の公正の栄光のためである。高ぶる者たちは神と競争する立場にある。神はご自分の栄光のためにねたむ方であり、人々が神だけに払うべきものを自分たちで取ったり、他の者に与えたりすることを許されない。彼らはまた神に対立する立場にある。彼らは神に抵抗し、それゆえに神は彼らに抵抗される。神は異邦人の間で高くされ(Ps 46:10)、神おひとりが高くされる日が来る。そのとき神はすべての対立する支配と権威と力を退けられる(1Co 15:24)。
2. これがどのようになされるか。人々をくじき、低くする、へりくだらせる裁きによって(Isa 2:12)。万軍の主の日、神の怒りと裁きの日は、すべて誇る者の上に来る。神は今彼らの無礼を笑われる。神の日が来ているのを、この日が、彼らの知らないうちに彼らの上に来るのを見ておられるからである(Ps 37:13)。この主の日は高く挙げられたレバノンのすべての杉の木の上に来ると言われる。ヒエロニュムスは、杉の木は神を賛美し(Ps 148:9)、主の木であり(Ps 104:16)、神の植えられたもの(Isa 41:19)であるのに、ここで神の怒りが杉の木に及ぶのは(彼によれば)、すべての階層の人々、すなわち一部の偉大な人々は救われ、一部は滅びることを意味すると言う。神の御声の力が杉の木を折る(Ps 29:5)ことが実例として挙げられ、ここでは主の日が杉の木、すなわちレバノンの杉の木(最もまっすぐで堂々とした)、バシャンの樫の木(最も強くたくましい)の上に、自然の高地と要塞である最も高い山と高く挙げられた丘(Isa 2:14)、谷を見下ろし空を突くように見えるもの、そして人工の要塞であるすべての高い塔、すべての堅固な城壁(Isa 2:15)の上に来ると言われる。これらを次のように理解せよ。(1.) 自分たちを杉の木や樫の木のように、しっかり根づき、いかなる嵐にも揺るがされず、周囲のすべてを低木とみなす高ぶる人々自身を表す。これらは地を満たすように見え、すべての人に注目され、自分たちは動かせないと考えるが、神の雷撃に最もさらされる高い山や高く挙げられた丘である。Feriuntque summos fulmina montes——最も高い丘が最も落雷にさらされる。神の怒りの力の前では、これらの山々は散らされ、これらの丘々は屈み、ろうのように溶ける(Hab 3:6, Ps 68:8)。やかましい鐘が掛けられ、雷鳴のような殺戮の大砲が据えられた高い塔のようなこれらの誇示的な人々、生まれつきの頑固さで自らを要塞化し、その拠点に陣取るこれらの堅固な城壁は打ち倒される。(2.) 彼らが誇り、頼みとし、自慢するものを具体化する。主の日は彼らが力と安全として信頼したまさにそのものの上に来る。神は彼らが信頼したすべての武具を彼らから取り上げられる。レバノンの住民は自分たちの杉の木を、バシャンの住民はどの国も比べられない自分たちの樫の木を誇ったか。主の日はそれらの杉の木、樫の木、そしてそれで建てられた家々を引き裂くであろう。エルサレムは周囲の山々を攻略できない要塞として、あるいは城壁と防壁として誇ったか。これらは主の日に平らにされ、低くされる。彼らが力と安全のために持つもののほかに、彼らは誇った。[1.] 海外の貿易を。しかし主の日はすべてのタルシシュの船の上に来る。それらはヨシャパテのものがそうであったように砕かれ、海で難破するか、港で座礁するであろう。ゼブルンは船の港であったが、今やその出入りを喜ばないであろう。神が一つの民に滅びをもたらされるとき、その収入のすべての部門を沈めることができる。[2.] 家庭内の装飾品を。しかし主の日はすべての美しい絵画の上に来る。ある者たちは船の絵画と理解し、他の者たちは他の国々、おそらく後に画家で有名になったギリシャから船で持ち帰った精巧な絵画と言う。見るために美しいすべてのものの上に来るとある者たちは読む。おそらく彼らは親戚の絵であり、それゆえ楽しいものであったか、偶像礼拝者にとって楽しいものであった彼らの神々の絵であった。あるいは彼らはその色彩や筆致の精巧さに感嘆した。絵を造ること、また部屋を絵で飾ることは、第二の戒めも第七の戒めも犯さない限り、害はない。しかし私たちの絵を楽しみとするものの中に置き、それを愛し、誇りとし、慈善に使うべきものをそれに費やし、それに心を向けることは、楽しむべき多くの実質的なものを持つ者たちにはふさわしくないだけでなく、神が私たちからそのようなむなしい装飾品をすべて剥ぎ取られるように挑発する傾向がある。
III. 偶像礼拝者たちに、その偶像と、彼らがそれらに対して持ったすべての愛情と尊敬を恥じさせること(Isa 2:18)。偶像は全く廃される。主おひとりが高くされるとき(Isa 2:17)、神はパロのように神に逆らって高ぶる高ぶる者たちに軽蔑を注ぐだけでなく、神聖な栄光を巡って神と競争するすべての自称神々に、はるかに多く軽蔑を注がれる。それらは廃され、全く廃される。彼らの友人たちは彼らを捨て、敵たちは彼らを破壊するであろう。こうして何らかの仕方で、完全な排除がなされる。ここで見よ。 1. 偽りの神々の空しさ。彼らは自分自身を守ることすらできない。その礼拝者を守ることができるのはなおさらである。 2. まことの神の彼らに対する勝利。真理は大いなるであり、勝つからである。ダゴンは契約の箱の前に倒れ、バアルはエリヤの主、神の前に倒れた。異邦人の神々は飢えさせられ(Zep 2:11)、次第に滅びるであろう(Jer 10:11)。正当な主権者はすべての僭称者に勝利する。そして神が偶像を廃されるように、その礼拝者たちも偶像を捨てるであろう。偶像の空しさと偽りに対する恵み深い確信から(エフライムが私と偶像とに何の関わりがあろうかと言ったように)、あるいは彼らが助けることができないという遅く悲しい経験と、彼らによる救いの悲惨な絶望から(Isa 2:20)。人々が神の裁きによって岩の穴や地の洞窟に逃げ込み、自分の安全のためにむなしく立ち回っていることに気づくとき、彼らは自分たちの神とし、必要のときに友人としようと望んだ偶像を、もぐらやこうもりに、見えないどこかに投げ捨てるであろう。そしてその妨げから解放されて、主の恐れのために岩の割れ目に入ることができるように(Isa 2:21)。銘記せよ。(1.) その罪から理性によって出ようとしない者たちは、遅かれ早かれ恐怖によって出させられる。(2.) 神は人々が最も愛した偶像——最も貴重な銀や金の偶像でさえ——に飽きさせることができる。貪欲な者たちは銀と金を自分の偶像とし、金を自分の神とする。しかし時が来れば、それがかつて自分の信頼であったのと同じくらい自分の重荷であると感じ、かつてそれによって守られると望んだのと同じくらいそれによってさらされるかもしれない。それが敵を誘惑し、船を沈め、逃走を遅らせるとき。水夫たちが商品を、いや小麦さえも海に投げ込んだ(Jon 1:5, Ac 27:38)ときがあり、スリヤ人が急いで衣服を投げ捨てた(2Ki 7:15)ときがあった。あるいは、そのような折れた葦に頼った自分自身に憤ってそれを捨てるかもしれない(Eze 7:19 を見よ)。ここで偶像礼拝者たちは、偶像を恥じ、それらを信頼した自分たちの愚かさを恥じて偶像を捨てるか、神の裁きが広がっているときに偶像が自分たちの所有から見つかることを恐れて捨てる。盗人が捜索されたり追われたりするときに盗品を捨てるように。(3.) もぐらやこうもりが住まう最も暗い穴は、目があっても見えない偶像に最もふさわしい場所である。そして神は人々に彼らの望んだ樫の木を恥じるとき(Isa 1:29)に、自分の偶像をそこに捨てるよう強いることができる(Isa 30:22)。モアブはケモシュを恥じるであろう。イスラエルの家がベテルを恥じたように(Jer 48:13)。(4.) 罪は憎まれ、捨てられながらも、真に悔い改められないことがあり得る。飽き飽きして憎み、犯す機会がないので捨てるが、神へのいかなる愛からでもなく、ただ神の怒りの奴隷的な恐れから悔い改めないのである。
IV. 肉の腕を信頼した者たちに、その信頼を恥じさせること(Isa 2:22)。*「人に頼るな。*あなたがたに関する神の摂理がこれを大声で語るであろうから、あらかじめ警告を受け、失望の不快と恥を防げ。そして次のことを考えよ。 1. 人がいかに弱いか。*その息はその鼻にあり、毎瞬吐き出され、すぐに永遠に去る。」人は死ぬべき被造物であり、すぐに死ぬかもしれない。息のある鼻はからだの外側の部分にある。そこにあるものは、戸口に立って去ろうとする者のようである。いや鼻の戸は常に開いており、その中の息は私たちが気づかないうちに一瞬に抜け去るかもしれない。それでは人は何によって重んぜられようか。ああ!彼は計算に入れられない。彼は見かけ通りではなく、自称する通りではなく、私たちが想像する通りではないからである。人は空しさに似ており、いや、彼は空しさであり、全く空しく、聖所の秤で量られるとき、空しさよりも小さく、軽い。 2. それゆえに人に頼まない者たちがいかに知恵あるか。それは私たちの務めであり、私たちの利益である。「人を頼るな。最も偉大で最も強い人でさえ、あなたの信頼としてはならない。そうすることをやめよ。人の力に目を向けるな。それは有限で制限されており、派生し依存するからである。あなたの判断は彼から出るのではない。彼を恐れてはならず、彼をあなたの望みとしてはならない。むしろすべての人の力が服し従属する神の力を見上げよ。神の怒りを恐れ、神の恵みを確保し、神をあなたの助けとし、あなたの望みをあなたの神、主に置け。」
本章から新しい説教が始まり、それは続く二章にわたって続く。この論述の主題はユダとエルサレムである(イザヤ2:1)。本章で預言者は次のことについて語る。一、キリスト者の、すなわちエルサレムの、後の時代における福音の教会の栄光について。多くの者がそれに加わることにおいて(イザヤ2:2-3)、またそれが世界にもたらす大いなる平和において(イザヤ2:4)。そこから彼はヤコブの家の務めを推論する(イザヤ2:5)。二、ユダヤ人の、すなわちエルサレムの恥について。その当時のままの、そして福音を拒み、神に拒まれた後の姿として。1. 彼らの罪は彼らの恥であった(イザヤ2:6-9)。2. 神はさばきによって彼らをへりくだらせ、恥をかかせる(イザヤ2:10-17)。3. 彼ら自身、自分たちの偶像と肉の腕に対する信頼を恥じることになる(イザヤ2:18-22)。さて、これら二つのエルサレムのどちらに私たちは住む者となろうか。神の知識に満ちた、私たちの永遠の誉れとなる方か。それとも馬と戦車、銀と金、そのような偶像に満ちた、ついには私たちの恣じとなる方か。