Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ 助けを求めてエジプトに下って行く者は災いである。彼らは馬に頼み、戦車が多いから、また騎手が非常に強いからと言ってそれらに信頼する。しかし、彼らはイスラエルの聖なる方に目を留めず、主を尒ね求めない。
² しかし主もまた知恵ある方であり、わざわいをもたらし、ご自身のことばを取り消されない。主は悪を行なう者たちの家、不義を行なう者たちの助けに立ち向かわれる。
³ さて、エジプト人は人であって神ではなく、彼らの馬は肉であって霊ではない。主が御手を伸ばされるとき、助ける者もつまずき、助けられる者も倒れ、彼らは皆ともに滅びる。
⁴ 主が私にこう仰せられたからである。獅子、若い獅子が獲物の上でほえているとき、羊飼いたちの群れがそれに向かって召集されても、彼らの声を恐れず、彼らの騒ぎのゆえに身を低くしないように、万軍の主もシオンの山とその丘のために戦うために下って来られる。
⁵ 飛ぶ鳥のように、万軍の主はエルサレムを守られる。守ってそれを救い出し、過ぎ行ってそれを保たれる。
これは「災いである」で始まる連続した四章の最後のものである。これらのわざわいはすべて、神を告白する民の中に見出された罪人たちに臨む。すなわちエフライムの酔いどれたち(Isa 28:1)、アリエル(Isa 29:1)、反逆する子たち(Isa 30:1)、そしてここでは助けを求めてエジプトに下る者たちに臨む。というのは、神の律法を軽蔑して生きるなら、教会との関係があっても神のわざわいから安全ではないからである。見よ、
I. ここで責められる罪とは何か、Isa 31:1。1. エジプト人を偶像視し、彼らにへつらうことである。まるでエジプト人を友人と同盟者として持つ民が幸福であるかのように見なした。彼らはあらゆる危機に際して助けを求めてエジプトに下って行く。偽の神々を拝む者が天においてより良い利害関係を持ち、生けるまことの神のしもべたちよりも地において成功する可能性が高いかのように。彼らをエジプトに引き寄せたのは、エジプト人が彼らに提供すべき多くの戦車と、強い馬と騎手を持っていたという点であった。もし彼らがそこから自分たちに仕える良質の軍勢を得ることができるなら、アッシリヤの王とその多数の軍勢に対処できると考えた。彼らの王たちは馬と戦車を増やすことを禁じられ、それらに頼る愚かさについて聞かされていた(Ps 20:7)。しかし彼らは自分たちが聖書よりも知恵があると考える。2. イスラエルの神を軽んじることである。彼らはイスラエルの聖なる方に目を留めない。この苦難において、まるで御方が顧みる価値のない方であるかのように扱う。彼らは御方に相談せず、御方の寵愛を求めず、御方を自分の友人とするのにいかなる配慮も払わない。
II. この罪のひどい不条理と愚かさ。1. 彼らは、望みを置かないにせよ恐れる理由のある方を軽視した。彼らは主を尒ね求めず、御方に近づかない。しかし主もまた知恵ある方である、Isa 31:2。彼らはエジプト人が政治的な民という評判であるので、彼らと同盟を結ぼうと努める。しかし神もまた知恵ある方ではないか。無限の知恵が彼らの味方として働くなら、エジプトのあらゆる策よりも彼らの助けにならないだろうか。彼らは退屈な旅をしてエジプトに下る労苦をとる。しかし天を見上げさえすれば、より良い助言とより良い助けを得られたのに、そうしなかった。しかし彼らが神の知恵が自分たちのために働くように求めないなら、それが自分たちに逆らって働くのを見ることになる。神は知恵ある方であり、彼らが出し抜くことのできないほど知恵ある方である。主はこのように御自身を侮る者たちにわざわいをもたらされる。主は人々がするように(彼らは気まぐれで愚かであるから)ご自身のことばを取り消されない。むしろ悪を行なう者たちの家、すなわちエジプトに下る彼らのこの陰謀に対して立ち上がり、彼らが不義を行なう者たちから引き入れようとする助けに反対される。ある人々は、エジプト人が彼らとの同盟の条件の一つとしてエジプトの神々を礼拝することを求め、彼らがそれに同意したので、両者とも悪を行なう者たちと不義を行なう者たちと呼ばれると考える。2. 彼らは自分たちを助ける力がなく、まもなくそうであることが明らかになる者たちに信頼した、Isa 31:3。彼らがそれほど頼りにしているエジプト人は人であって神ではないことを知らせよ。人が自分が人にすぎないことを知る(Ps 9:20)のが良いように、私たちが愛し頼りにする者たちも人にすぎないことを考えるのも良い。それゆえ彼らは神なしには何もできず、神に逆らって何もできず、神に比べて何もできない。彼らは人であるゆえに気まぐれで愚かであり、変わりやすく死すべき存在である。今日あって明日は消え去る。彼らは人であるゆえに、彼らを私たちの望みと確信とし、神にのみ見出せるものを彼らに期待することによって、彼らを神としてはならない。彼らは神ではなく、神ができ、かつ私たちが御方に信頼すればしてくださることを、私たちのためにできない。それゆえ彼らを求めて神を軽んじてはならない。永遠の岩を捨てて折れた葦を求め、生ける水の泉を捨てて漏る水溜りを求めてはならない。エジプト人に非常に強い馬があるのは事実である。しかしそれらは肉であって霊ではない。それゆえどれほど強くても、長い行軍に疲れ、役に立たなくなり、戦いで傷つき殺されて、乗り手を踏みつけられるままに残すことがある。エジプト人が神でなく、彼らの馬が霊でないことは誰もが知っている。しかしそれらに助けを求める者たちはそれを考えない。そうでなければそのような確信を彼らに置かないだろう。罪人は、否めないが信じようとしない最も明白で自明な真理によって、自分の愚かさを悟らされることがある。3. 彼らは自分たちが信頼したエジプト人と共に必ず滅びる、Isa 31:3。主が御手を伸ばされさえすれば、いかに容易く、いかに効果的に、彼らのエジプトへの信頼を恥じ入らせ、エジプト人が彼らに信頼を促したことを恥じ入らせることか。助ける者も助けられる者も共に倒れ、彼らの相互同盟は共同の滅びと明らかになる。エジプトはまもなく精算を受けることになっていた。エジプトに対する重荷(Isa 19:1-25)から見られる通りである。そのとき、避難所と助けを求めて彼らに走った者たちも彼らと共に倒れる。神のさばきを逃れる道はないからである。悪は罪人を追う。私たちが偶像とする被造物を、神が私たちへのむちとされるのは正しい。4. 彼らは神のわざを御手から奪い取った。彼らはエジプトとの同盟を勧めることによってエルサレムを保護することに大きな配慮があるかのように見せかけた。他の者たちが彼らの方策に同意しないとき、彼らは自己保存を主張し、自らエジプトに行った。さて、預言者はここで、エルサレムがエジプトの助けなしに保護され、そこに留まった者たちは安全であり、エジプトに逃げた者たちは滅びるであろうと告げる。エルサレムは神の保護の下にあったので、エジプトの保護の下に置く必要はなかった。しかし神の全備に対する実際の不信仰が、私たちが罪を持って神から離れて被造物に向かうすべての根底にある。預言者は、彼がそれを神の口から直接受けたと言う。主が私にこう仰せられた。彼らはこれを頼りにすることができた。(1.) 神は獲物の上の獅子の大胆さをもってエルサレムの敵に立ち向かわれる、Isa 31:4。獅子が獲物を捕らえに出てくるとき、多くの羊飼いたちがそれに向かって出て来る。人や財産が危険にあるとき、隣人が互いに助け合うのが当然だからである。これらの羊飼いたちはあえて獅子に近づくことはできない。彼らにできるのは声を立てることだけであり、それで獅子を驚かせ追い払えると考える。しかし獅子はそれを気にかけるか。いや、彼らの声を恐れず、獲物を放棄したり、獲物を捕らえるのに普段より急ぐほど、その騒ぎに少しも動じない。このように万軍の主はシオンの山のために戦うために下って来られる。いかなる反対にも揺るがない、そのような揺るぎない恐れのない決意をもって。獅子が子羊を引き裂くように、主はアッシリヤの軍勢を容易く、抗いがたく滅ぼされる。神に立ち向かうために現れる者はだれでも、獅子に向かって叫ぶ哀れで単純な羊飼いの群れにすぎない。獅子は彼らに気をとめたり、彼らのために歩調を変えたりする価値がないとみなす。そのような保護者を持つ者たちは、助けを求めてエジプトに行く必要がない。(2.) 神はその雛に対する鳥の優しさをもってエルサレムの友人のために立ち向かわれる、Isa 31:5。神はめんどりがその雛を翼の下に集めるようにエルサレムを集めようとされた(Mt 23:37)。しかしエジプト人に信頼した者たちは集まろうとしなかった。飛ぶ鳥が、巣が襲われているのを見てあらん限りの速さで巣に飛び、あらん限りの心配をもって巣の周りを羽ばたき、雛の上に留まって彼らを守り、襲撃者を追い払うように、そのように大きなあわれみと愛情をもって万軍の主はエルサレムを守られる。鷲が雛が危険にあるとき彼らを刺激し、彼らを取ってその翼に乗せるように、主はイスラエルをエジプトから導き出された(De 32:11,12)。そして今も御方は当時と同じ優しい配慮を彼らに持ち続けておられるので、彼らは再び避難所を求めてエジプトに逃げる必要はない。守って、救い出される。主はその安全が続くように守り、しばらく守って最後に見捨てるのではなく、敵の手に落ちないように守られる。わたしはこの町を守って救う、Isa 37:35。過ぎ行って保たれる。過ぎ行くという語は、ここと Ex 12:12,23,27 にのみこの意味で用いられ、滅ぼす使いがエジプト人のすべての初子を撃つときイスラエル人の家を過ぎ越したことを指す。この箇所はその物語を参照している。アッシリヤの軍勢は滅ぼす使いによって敗走し、その使いはエルサレムが滅ぼされるに値したにもかかわらずその上を過ぎ越し、その剣をただ包囲者たちに対してのみ抜く。彼らは疫病で殺されるが、包囲された者の中でだれもその感染を受けない。このように主は再び御自分の民の家々を過ぎ越して彼らを安全にされる。
Isaiah 31章 6-9 Matthew Henry's Complete Commentary
⁶ イスラエルの子らが深く反逆したその方に立ち返れ。
⁷ その日、各人が自分の手で罪のために造った銀の偶像と金の偶像を投げ捨てる。
⁸ そのときアッシリヤは強い者の剣でない剣に倒れ、卑しい者の剣でない剣が彼を飲み尽くす。彼はその剣から逃げ、彼の若者たちは打ち負かされる。
⁹ 彼は恐れのために自分の要塞に逃げ込み、彼の君たちは旗に恐れる。主が言われる。その火はシオンにあり、その炉はエルサレムにある。
これはエルサレムの救いについての前の約束を説明する。エルサレムは救いにふさわしく備えられ、そのとき救いがそのためになされる。神はそのような仕方で救われるからである。
I. エルサレムは改革され、そうして城壁の内の敵から救われる(Isa 31:6,7)。ここに次のことがある。
1. 悔い改めへの恵み深い召し。これは町の中で叫ぶ主の御声、杖の御声、剣の御声、そしてさばきを解き明かす預言者たちの御声であった。立ち返れ。おお、今こそあなたがたの悪い道から神に立ち返れ。イスラエルの子らが深く反逆した——あなたがたイスラエルの子らよ、反逆した——その方に忠誠に立ち返れ。彼は彼らの出生と血統を思い出させる。彼らはイスラエルの子らであり、それゆえにイスラエルの神に想像しうる最大の義務の下にあった。これは彼らがその方から反逆したことを重くし、同時に彼らがその方に立ち返るよう励める。*彼らは退いた子どもたちであったが、それでも子どもたちである。それゆえに彼らを立ち返らせよ。そうすれば彼らの退きはいやされる。彼らは深く反逆した。*自分たちが思うには巧みに(反逆者は深い、Ho 5:2)。しかし結果は彼らが危険に反逆したことを証明するであろう。彼らの罪のしみは、エチオピヤ人の黒さのように、容易には抜けないほどその性質の深くに入った。彼らは深く自分自身を腐らせた(Ho 9:9)。彼らは惨めさの深くに沈み、容易には回復できない。それゆえにあなたがたは神への帰還を急ぐ必要がある。
2. この召しの良い成功についての恵み深い約束(Isa 31:7)。その日、各人が自分の偶像を投げ捨てる。アッシリヤの侵入によって警告を受けるまでは多くが従うことを拒んだヒゼキヤの命令に従って。私たちを罪から驚いて逃げさせる恐れは幸いな恐れである。(1.) それは一般的な改革となる。各人が自分の偶像を投げ捨てる。他人の偶像を打ち壊す前に自分の偶像から始める。各人が自分を改革すれば、他人の偶像を打ち壊す必要はない。(2.) それは徹底的な改革となる。彼らは偶像礼拝、彼らの愛した罪と別れる。銀と金の偶像、彼らが最も好む偶像と。多くの者は自分の銀と金を偶像とし、その偶像の愛によって神から反逆するように引き込まれる。しかし神に立ち返る者はそれを心から投げ捨て、神が召されるときそれと別れる準備ができている。(3.) それは正しい原理——政治的原理ではなく敬けんの原理——に基づく改革となる。彼らは自分の偶像を投げ捨てる。それが自分たちに罪——罪の機会——となったから。それゆえにそれが自分の手のわざであったゆえに特別な愛着を持っていたにもかかわらず、彼らはそれとかかわりを持たない。罪は私たちの手のわざであるが、それを行うにおいて私たちは自分の滅亡を作ってきた。それゆえに私たちはそれを投げ捨てなければならない。そうしなければ自分自身が捨てられる者となるのを見ながら、それを投げ捨てるよう説得されない者たちは、奇妙なほどそれに固執している。ある人々はこれを、偶像に信頼する者たちが、それが自分たちに役立たないことが分かると、憤ってこれを投げ捨てるという予告にすぎないと見なす。しかしこれはIsa 30:22と正確に合致するので、私はむしろ真摯な改革の約束として見なす。
II. エルサレムの包囲者たちは敗走し、そうして城壁の外の敵から救われる。前者がこれへの道を開く。民が神に立ち返れば、敵に対する彼らの訴えを弁護することを神に委ねることができる。彼らが偶像を投げ捨てたそのとき、アッシリヤは倒れる(Isa 31:8,9)。
1. アッシリヤの軍隊は強い者の剣でなく、卑しい者の剣でもない剣によってその場で死に倒される。すなわちイスラエル人でもエジプト人でもない、いかなる人の剣でもなく、強い者の剣のように強制的にでも、卑しい者の剣のように隠密にでもなく、強い者よりも強く打ちながら卑しい者よりも隠密に打つ御使いの剣、すなわち主の剣、御使いの御手にある神の力と怒りによって。このように軍隊の若者たちは溶け、打ち負かされ、死に貢ぐ者となる。神がその教会の敵に対してなすべきわざがあるとき、私たちはそれが強い者たちと卑しい者たち、将校たちと一般兵たちによってなされなければならないと予期する。しかし神は御望みなら、そのいずれもなしにそれをなすことができる。御使いの軍団を御命令される方に人の軍隊は必要ない(Mt 26:53)。
2. アッシリヤの王は同じ理由で逃げる。その見えない剣から逃れ、その手の届かぬところに出ようと逃げる。彼は自分の領土の要塞へ全力で向かい、軍隊が敗走した今、ユダヤ人が自分を追撃するのではないかと恐れてそうする。センナケリブは自分がエルサレムを掌握すると確信し、最も横暴な仕方で神とヒゼキヤの両方に挑んだ。しかし今や彼は両方に対する恐れで震えるようになる。神は最も誇り高い者にも恐怖を打ち込み、最も強い心をも震わせることができる。Job 18:11, 20:24を見よ。彼と共にいる彼の君たちは旗を恐れる。おそらく滅ぼす御使いが致命的な弓を放つ前に空中に掲げた旗を思い出して絶えず恐れのうちにある。あるいは彼らは見るすべての旗を恐れる。それが自分たちを追撃するユダヤ人の部隊ではないかと疑うから。神がその民を励ますために掲げられる旗(Ps 60:4)は、神と神の民の敵にとって恐怖となる。このように神は君たちの霊を断ち、地の王たちに恐るべき方となる。しかし、だれがこれを行われるのか。その火はシオンにあり、その炉はエルサレムにある主である。(1.) その御住まいがそこにあり、人が火と竈がある所で生活を設けるように、そこに住まいを保たれる方。そこは大いなる王の都である。それゆえにアッシリヤ人が神を神の家の所有から追い出そうと思うことのないように。(2.) そこですべての敵に対して焼き尽くす火であり、神の怒りの日に彼らを燃える炉のようにされる方(Ps 21:9)。神ご自身エルサレムの回りの火の城壁であり、エルサレムを襲う者は誰でも自分の危険をもってそうする(Zec 2:5、Re 11:5)。(3.) そこに神の祭壇を持ち、その上に聖なる火が絶えず燃やされ、日々神の誉れのためにいけにえが献げられ、神はそれに満足される。それゆえに神はこの都を守られる。特にそこでまた献げられるべき大いなる供物——すべての供物が型であったその供物——に目を留められて。私たちが心と家で聖なる愛と献身の火を保ち続けるなら、神が私たちとそれらを守ってくださることに依存できる。
本章は前章の要約である。その要点はほぼ同じである。ここには次の事柄がある。一、アッシリアの軍勢が侵略して来た時、助けを神ではなくエジプト人たちに頼った者たちへの災い(イザヤ31:1-3)。二、その危険と苦難の時に、神がエルサレムのために心を配られることの保証(イザヤ31:4-5)。三、悔い改めと改革への招き(イザヤ31:6-7)。四、アッシリアの軍勢の没落、およびそれによってアッシリアの王が陥る恐怖の予告(イザヤ31:8-9)。