Barnes' Notes on the Bible
Albert Barnes · 1834
Albert Barnes' Notes on Revelation Of St. John The Divine (New Testament, English original, public domain). Sourced from the Christian Classics Ethereal Library (CCEL). Public domain. Retrieval mirror: biblehub.com/commentaries/barnes.
- 翻訳進捗
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- 原文言語
- en
「だれがわれわれの聞いたことを信じたか」− 預言者のこの預言のこの部分全体を通しての主な目的は、疑いなく、贖い主が大いに高められるであろうという事実を述べることである(Isaiah 52:13、Isaiah 53:12 を参照)。しかしその高挙の公正な眺めを提供するためには、彼の卑下の深さ、彼の悲しみの激しさ、また、彼が遣わされた者たちによって拒まれるであろうという事実をも示すことが必要であった。それゆえ預言者はこの節で、カルヴァンの言葉を借りれば、自分の論述の順序に突如割り込んで、彼が語ったこと、そしてこれから語ろうとすることは、だれによってもほとんど信じられないであろうと叫ぶのである。彼の高挙に、また彼に与えられるであろう栄誉に先立って、彼は拒まれ、蔑まれるであろう。「聞いたこと」と訳された語(שׁמוּעה shemû‛âh)は、本来、聞かれるところのもの、便り、消息、知らせを意味する。欄外では「聞くこと」あるいは「教え」。セプトゥアギンタはこれを Ἀκοή Akoē――「うわさ」「消息」――と訳す。これはメシヤについてなされた告知、消息、伝達を指す。ここで語っているのはイザヤであり、「われわれの」という語は、イザヤと他の預言者たちとの消息が同じように拒まれたという事実を指す。彼は自分を他の預言者たちと共に一つにまとめ、彼らが贖い主についてなした告知が軽んじられたと言うのである。疑問形は、ある真理を強調して表現しようとするときにしばしば用いられる。それゆえその意味は、メシヤに関する消息が拒まれ、ほとんどだれもそれを信じて受け入れなかったということである。
「また、主の腕はだれに現れたか」− 腕は私たちが目的を実行するために用いるものであり、しばしば力の象徴として用いられる(Isaiah 33:2、Isaiah 40:10 の注解を参照)。ここではそれは、メシヤを通して示されるであろう神の全能あるいは力を指す。その意味は、「だれが贖い主のみわざにおいて示された力を知覚したか。彼を通して、また彼のみわざと結びついて及ぼされるその力は、だれに現れたのか」である。それは、私見によれば、彼の奇跡を行う力というよりも、罪人を滅びから救い出すことに示された全能を指す。新約聖書では、福音はしばしば「神の力」と呼ばれる(Romans 1:16。1 Corinthians 1:18)。それは、神が人々を救うにおいて御自分の力を現すものだからである。ここでの考えは、比較的少数の者だけがその力の下に導かれ、それによって益を受けるであろう、すなわち、メシヤの時代に、メシヤの宣教の下でそうなるというものである。この幻の場が贖い主のみわざのまっただ中に置かれていることを覚えておかなければならない。預言者は、彼が苦しむ者、蔑まれ拒まれた者であるのを見る。わずかな者しか彼のもとに来ず、救い主として彼を受け入れないのを見る。預言者は、自分と他の預言者たちが彼についてなした「聞いたこと」と告知を思い起こす。何世紀も前にメシヤについてなされた記録を思い出す。そして、贖い主が生き、宣教したときにその場にいるかのように、深い感情とともに、自分と他の預言者たちが彼について語ったことをだれが信じたのかと問うのである。群衆はそれをすべて拒んだ。それゆえこの箇所は、贖い主の奉仕に関連した出来事において、また非常に多くの者に彼が拒まれたという事実において成就した。贖い主は、宣教者としてのみわずにおいて、普通考えられているよりも成功していたが、それでもなお、国民の大多数によって蔑まれ、彼のまことの性格とみわざについてなされた告知が拒まれたことは真実である。