Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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Isaiah 65章 1-7 Matthew Henry's Complete Commentary
¹ わたしはわたしを尋ね求めなかった者たちに求められ、わたしを探さなかった者たちに見いだされた。わたしは言った、見よ、わたしはここにいる、見よ、わたしはここにいる、と。わたしの名で呼ばれなかった国民に。
² わたしは終日、手を広げて、そむく民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに迎えられた。
³ 彼らはわたしの顔に向かって絶えずわたしを怒らせる民である。庭で犠牲をささげ、れんがの祭壇の上で香をたき、
⁴ 墓の間に住み、秘密の場所で夜を過ごし、豚の肉を食べ、彼らの器には忌むべきものの煮汁がある。
⁵ 彼らは言う、離れて立っていよ、わたしに近づくな、わたしはあなたより聖なる者だから、と。これらの者はわたしの鼻の煙であり、終日燃える火である。
⁶ 見よ、それはわたしの前に書き記されている。わたしは黙っていることはせず、報復する、まさに彼らのふところに報復する。
⁷ あなたがたの不義と、あなたがたの先祖の不義とを共に、と主は言われる。彼らは山々の上で香をたき、丘の上でわたしを侮った。それゆえ、わたしは彼らの先のわざを彼らのふところに量って返す。
使徒パウロ(私たちが依拠しうる解き明かし手)は、これらの節の真の意味を私たちに告げ、これらの節が指し示し、その中で成就した出来事が何であるかを告げた。すなわち、福音の宣教による異邦人の招きとユダヤ人の退けである(Ro 10:20,21)。そして彼はここでイザヤは非常に大胆であると観察する。決して実現しそうもない事を予告したからだけでなく、それをユダヤ人——これを自分の民族へのひどい侮辱と受け取るであろう者たち——に予告したからであり、その中でモーセの言葉が成就する(De 32:21)。わたしは民でない者によってあなたがたをねたむようにする。
I. ここに、遠くにいた異邦人が近く引き寄せられることが予告される(Isa 65:1)。パウロはこれをこう読む。わたしはわたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを求めなかった者たちに現された。彼らにどれほど驚くべき、幸いな変化が起こったか、また彼らがどのようにその変化に驚かされたかを観察せよ。1. 長く世において神なく過ごした者たちが、今や神を求め始める。わたしを造った神はどこにいるのかと言わなかった者たちが、今や神を尋ね求め始める。彼らも彼らの先祖も神の御名を呼ばず、祈りなく生きるか、人の手のわざである木や石に祈っていた。しかし今や彼らはバプテスマを受け、主の御名を呼ぶであろう(Ac 2:21)。大いなる神が、ご自身が求められることについてどれほど喜んで語り、特にかつて神を求めなかった者たちによって求められることをどれほど栄光とされることか。悔いる大いなる罪人によって天に喜びがあるからである。2. 神は彼らの祈りに先んじて祝福をもって応えられる。わたしはわたしを探さなかった者たちに見いだされた。神と異邦の世界とのこの幸いな交わりと通信は、神の側から始まった。彼らが神を知ったのは、神に知られたからであり(Ga 4:9)、神を求めて見いだしたのは、神が先に彼らを求め、見いだされたからである。その後の交わりにおいては、神は神を求める者に見いだされるが(Pr 8:17)、初めの回心においては神を求めない者に見いだされる。神が先に私たちを愛されたゆえに、私たちが神を愛するからである。彼らに対する一般の摂理の寛大さの目的は、彼らがもし手探りで神を求めて見いだすことができるなら、主を求めるためであった(Ac 17:27)。しかし彼らは神を求めず、依然として神は彼らに知られない神であったが、神は彼らに見いだされた。3. 神はかつて宗教の告白をしたことのない者たちに、神の啓示の利益を与えられた。わたしは言った、見よ、わたしはここにいる、見よ、わたしはここにいる(彼らにわたしを見せ、その慰めと利益を取るよう招いた)。これはユダヤ人が長い世代にわたってそうであったのとは異なり、わたしの名で呼ばれなかった者たちに対してであった。使徒たちがあちこちを巡り福音を宣べ伝えたとき、彼らが宣べ伝えたことの核心はこれであった。「神を見よ、神を見よ、神に向き直れ、あなたがたの心の目を神に向けよ、神と親しくなれ、神を驚嘆せよ、神を礼拝せよ。あなたがたが造った偶像から目を離し、あなたがたを造った生ける神を仰ぎ見よ。」彼らのうちにいるキリストが言われた、見よ、わたしはここにいる、見よ、わたしはここにいると、信仰の目をもって。わたしを仰ぎ見よ、そうすれば救われる。そしてこれは長くロ・アンミ、ロ・ルハマ(Ho 1:8,9)、すなわちわたしの民でなく、あわれみを得なかった者たちに対して言われたことであった(Ro 9:25,26)。
II. ここに、長く神に近い民であったユダヤ人が退けられ、遠く置かれることが予告される(Isa 65:2)。使徒はこれを自分の時代のユダヤ人、悪を行う者たちのすえに適用する。Ro 10:21、しかしイスラエルについては、こう言われる。終日、わたしは不従順で反対する民に手を広げた。ここで観察せよ。
1. ユダヤ人がどのように神の恵みに招かれたか。神ご自身が、その預言者たちを通じ、その子を通じ、その使徒たちを通じて、彼らに手を広げられた。知恵がそうしたように(Pr 1:24)。神は彼らと論じ、説得する者のように彼らに手を広げられた。指で招いただけでなく、手を広げられた。まるで彼らを抱き迎え入れる用意ができているかのように、彼らに神の恵みのしるしを差し出し、それを受け入れるよう切に勧められた。キリストが十字架につけられたとき、その手は広げられ、伸ばされた。まるで立ち返る罪人たちをそのふところに迎え入れる用意をするかのように。そしてこれを終日、すなわち福音の日の全日にわたってされた。神は恵みを施すのを待ち、待つことに疲れなかった。その日の第十一時に入って来る者たちでさえ退けられなかった。
2. 彼らがどのようにその招きを軽んじたか。その招きは、そむき反対する民に与えられた。彼らは婚宴に招かれたが、来ようとせず、自分たちに逆う神の旨を退けた。さてここに、次のことがある。
(1.) この民の悪い品性。彼らが神に退けられたのが理由のないことではなかったことを世は知るであろう。いや、そうではない。彼らが追い出されたのは、その姦淫のゆえであった。
[1.] 彼らの一般的な品性は、天のこれほど大いなる愛顧を受けた者たちに期待されるようなものではなかった。第一に、彼らは非常に強情であった。正しかろうと間違っていようと、自分の思いのままにした。「彼らは一般に良くない道——正しい道でも安全な道でもない道——を歩み続ける。彼らが自分の思い、自分の工夫と欲望に従って歩むからである。」もし私たちの導き手が私たち自身の思いであるなら、私たちの道が良くなることはありそうにない。私たちの心の思いの計画はみな、ただ悪いのみであるから。神は彼らに神の思い、神の御心と御旨が何であるかを告げられたが、彼らは自分の思いに従って歩み、自分が最も良いと思うことをしようとした。第二に、彼らは非常に怒らせる者であった。これが一貫した神の彼らについての嘆きであった。彼らは神を悲しませ、その聖なる霊を痛めつけた。まるでどうすれば神を自分たちの敵にできるかを工夫するかのようであった。彼らはわたしの顔に向かって絶えずわたしを怒らせた。神の権威を公然と軽蔑し、その正義に挑むように、神の目の前、御臨在のただ中にあっても、神にどのような侮辱を与えるかを気にかけなかった。そしてこれを絶えず行った。これは彼らが一つの民となって以来の彼らの道であり、様式であった。荒野での試みの日がその証人である。
[2.] 預言者は神が彼らを退けた根拠として、彼らの不義と彼らの先祖の不義についてより具体的に語る(Isa 65:7)。さて彼は両方の例を挙げる。
第一に、彼らの先祖の最も怒らせる不義は偶像礼拝であった。これが、預言者が彼らに告げるように、神の顔に向かって神を怒らせることであり、第二の戒めに現れるように、神がしばしば子孫に報いる不義である。これが彼らを捕囚に導いた罪であり、捕囚がかなりそれから彼らをいやしたが、その民族の最終的な滅びが来たとき、それがふたたび彼らに対する責めとして勘定された。神が報いる日にそれを報いるからである(Ex 32:34)。おそらく捕囚後長く経ってからも、他の神々に仕えなかったが、ここに言及された紊乱を犯した者が多かった。彼らが異邦の妻をめとったからである。1. 彼らは神の神殿を捨て、庭や小林で犠牲をささげた。自分たちの流儀で行う満足を得るためであった。彼らは神の制度を好まなかったからである。2. 彼らは神の祭壇を捨て、自分たちが工夫した祭壇であるれんがの上で香をたいた(自分たちの工夫に従って香をたいたが、神の制度に比べれば、それは神が香をたくように定めた金の祭壇に比べられんがの祭壇ほどに価値のないものであった)。あるいは瓦の上で(ある人々はこう読む)香をたいた。すなわち平らな屋根の家を覆う瓦で、彼らが時にその上で自分たちの偶像に香をたいたことが現れている(2Ki 23:12、そこでアハズの屋上の間の祭壇について読み、Jer 19:13で彼らが家の屋根で天の万軍に香をたいたことについて読む)。3. 「彼らは降霊術、すなわち死者に問うことを行い、そのために墓の間に住み、秘密の場所で夜を過ごした。」これは生ける者のために死者に求めることであり(Isa 8:19)、エンドルの魔女のようであった。あるいは彼らが墓に出没する悪霊に相談した。4. 彼らは食物に関する神の律法に背き、福音によって廃止される前に、清いものと汚れたものの区別を打ち破った。彼らは豚の肉を食べた。ある人々はマカベア物語のエレアザルや七人の兄弟のように、豚の肉を食べるくらいなら死を選んだが、多くの者が、特にそれが命をつなぐ条件となったとき、それを食べたであろう。私たちの救い主の時代に、私たちは彼らの間に庞大な豚の群れについて読む。これは当時、律法をほとんど良心にかけず豚の肉を食べる者が多かったのではないかと疑わせるものであり、その豚の滅びによって彼らは正当に罰せられた。そしてここで忌むべきものと呼ばれる他の禁じられた肉の煮汁、すなわち切身が彼らの器にあり、食物として用いられた。禁じられた肉は忌むべきものと呼ばれ、それに触れる者は自分自身を忌むべき者とすると言われる(Le 11:42,43)。肉をあえて食べなかった者も煮汁には手を出した。それは彼らが禁じられたものにできるだけ近づこうとし、禁断の実をどれほど慕っていたかを示すためであった。おそらくこれはここで、罪によって得られるすべての禁じられた快楽と利益、すなわち主が憎む忌むべきものを比喩的に示したものであろう。彼らはそれと戯れ、その煮汁を味わうことを好んだ。しかしこのように罪の境界やその縁に足を踏み入れることを誇る者は、その深みに落ちる危険にある。しかし、
第二に、私たちの救い主の時代のユダヤ人の最も怒らせる不義は、彼らの高ぶりと偽善であった。すなわち、キリストがこれほど多くの禍を宣告された律法学者とパリサイ人の罪である(Isa 65:5)。彼らは言う。「離れて立っていよ、退け」(原文はお前の仲間のところへ行けである)。「お前の同僚のところにいろ。わたしに近づくな、わたしを汚すから。わたしに触れるな。わたしはお前と親しく交わることを許さない。わたしはあなたより聖なる者だから。それゆえ、お前はわたしと交わるほど良くない。わたしは他の人たちのようではなく、この取税人のようなでもない。」これを彼らは出会うすべての者に言おうとした。こうしてわたしはあなたより聖なる者と言うことで、自分たちがだれよりも聖いと、ただ非常に良いとか、あるべきほど良いとか、良くあるべきほど良いというのではなく、隣人のだれよりも良いと考えた。これらの者はわたしの鼻の煙である(と神は言われる)。すなわちすぐに赤々と快くなる勢いの火から出る煙ではなく、終日燃え、煙以外何でない湿った木の火から出るような煙である。注記せよ。人において、自分自身への誇り高き思いと他者の軽蔑ほど、神に憎まれ、忌み嫌われるものはない。一般に自分がだれよりも聖いと考える者が最も不敬虔だからである。
(2.) このことのゆえに神が彼らと争われた論争。彼らに対する証拠は明白である。見よ、それはわたしの前に書き記されている(Isa 65:6)。それは将来彼らに対して思い出されるために書き記されている。彼らがただちに勘定されないかもしれないからである。罪人の罪、特に偽善者の虚栄の誇りと嘲りは、神と共に蓄えられる(De 32:34)。そして書かれたものは読まれ、それに従って処理されるであろう。「わたしは長く黙っていても、常に黙っていることはない。」彼らは時々そうしてきたように、神を自分たちと同じような方とは思わないであろう。むしろ神は報復する、まさに彼らのふところに報復する。誉れある神聖なものである宗教を、自分たちの高ぶりの材料とする者は、その宗教を卑劣に濫用する。ねたむ神はそれについて彼らと勘定される。彼らが誇る信仰告白は、彼らの罪定めを重くするのに役立つだけである。[1.] 彼らの先祖の不義が彼らに対して来る。だからといって、彼ら自身の罪が神が彼らに下されるいかなるさばきにも、いやそれよりはるかに重いさばきにもふさわしくないというわけではない。これを彼らも認めた(Ezr 9:13)。しかし神は彼らの先祖の罪に目を留められていなければ、彼らにこれほど大いなる荒廃を行われなかったであろう。それゆえエルサレムの最後の滅びにおいて、神は旧約の殉教者たちの血、アベルの血でさえ彼らにもたらされると言われる(Mt 23:35)。神は彼らと勘定される。彼らの先祖の偶像についてだけでなく、彼らの高き所、山々と丘の上で香をたいたことについて。たとえそれが真の神だけにささげられたものであったとしても。これは神を冒涜し、そしることであった。それは神が御名を置く場所として選ばれたことと、そこで彼らに会い、祝福すると約束されたことへの非難であった。[2.] 彼ら自身のものがそれと共に彼らに滅びをもたらす。あなたがたの不義とあなたがたの先祖の不義が共に、一方が他方を重くし、先のわざをなす。それは見過ごされ、忘れられたように見えても、彼らのふところに量り返される。神は公然の敵のふところにだけでなく(Ps 79:12)、偽りで裏切り的な友のふころにも、彼らが神をそしったそのそしりを返される。
⁸ 主はこう仰せられる。ぶどうのふさの中に新しいぶどう酒が見いだされると、ある者が「それを滅ぼすな、その中に祝福がある」と言うように、私も私のしもべたちのためにそのように行い、彼らを皆滅ぼし尽くさない。
⁹ 私はヤコブから種を、ユダから私の山々の相続人を出し、私の選んだ者がこれを相続し、私のしもべたちがそこに住む。
¹⁰ 私を求めた私の民のために、シャロンは羊の群れのおりとなり、アコルの谷は牛の群れが伏す所となる。
これは使徒パウロによって Ro 11:1-5 で説明されている。そこで、ユダヤ人たちの拒絶に際して、それでは神はご自分の民を捨てられたのかと問われるとき、彼は「そうではない。恵みの選びによる残りの者が今もある」と答える。この預言はその区別された残りの者に関するものである。その偽善的な国民が滅ぼされるべきとき、神は彼らの中から一部を分離し、ご自分のために確保される。ユダヤ人の一部はキリスト教信仰を受け入れるよう導かれ、教会に加えられ、そうして救われるであろう。そして私たちの救い主は、これらの選ばれた者たちのためにユダヤ人たちの滅びの日々が縮められ、そうでなければすべての肉が救われることのない程度にまで進んだであろう荒廃が止められるであろうと告げられた(Mt 24:22)。さて、
I. これはここで一つの比喩によって例証される(Isa 65:8)。ぶどうの木があまりにも痛めつけられ枯れて、その中に樹液も命もないように見え、それゆえにぶどう園の管理者がそれを引き抜くか切り倒そうと傾くときでさえ、新しいぶどう酒に適したぶどうの汁が少しでも、たとえ一つのふさにでも見いだされるなら、傍らに立つ者が介入し、それを滅ぼすな、その中に祝福があると言う。根に命があり、やがて何かに役立つようになるという望みがある。良い人々は彼らの住む場所の祝福である。そして時として神は、彼らの中のそのような少数の者のために丸々の都市や国民を惜しまれる。他の人々と区別されるだけでなく、他の人々に役立つというこの誉れを、私たちはどれほど切望すべきであろうか!
II. ここにこの救われ、救う残りの者を構成する者たちの描写がある。 1. 彼らは神に仕える者たちである。それは私のしもべたちのためにであり(Isa 65:8)、そこに住むのは私のしもべたちである(Isa 65:9)。神の忠実なしもべたちは、人々がどのように見ようとも、彼らの国の最良の友人である。そして神に仕える者は、それによって自分たちの世代に仕えるのである。 2. 彼らは神を求める者たちであり、神に栄光を帰することを人生の目的とし、神を呼ぶことを人生の務めとする。それは私を求めた私の民のためである。神を求める者は神を見いだし、神が豊かに報いてくださる方であることを見いだす。
III. ここに神が彼らのために備えておられるあわれみの説明がある。捕囚から帰還する残りの者は自分たちの地に再び幸福な定住を得るであろう。そしてそれは世襲の権利によるものである。ヤコブから出た種として、その中で家族が保たれ相続が保存され、そこからまかれた種から多数の増加が芽生えるであろう。そしてこれらは信仰によって福音の教会に組み込まれるヤコブの残りの者を象徴する。 1. 彼らは自分たちのための良い受くべき分を持つであろう。彼らは私の山々を相続する。すなわちエルサレムと宮が建てられた聖なる山々、あるいはカナンの山々、約束の地を相続する。これは恵みの契約を象徴し、神のすべてのしもべたち、その選ばれた者たちはその中に住み、またそれを相続する。彼らはそれを自分たちの避け所、安息と住処とし、そうしてその中に住み、その中で安んじる。そしてそれを永遠の受くべき分として受け入れ、それは彼らにとって朽ちることのない相続財産となる。神の選ばれた者たち、祈るヤコブの霊的な子孫は、神の至福と喜びの山々の相続人となり、涙の谷を通って安全にそれらに導かれる。 2. 彼らは自分たちの羊の群れのために青い牧場を持つであろう(Isa 65:10)。シャロンとアコルの谷は再びかつてそうであったように家畜で満たされる。シャロンは西のヨッパの近くにあり、アコルは東のヨルダンの近くにあった。それゆえにこれは彼らが全土の所有を回復し、全土を家畜で満たすことができ、それを平和的に享受し、彼らを乱したり恐がらせたりする者がいないことを暗示する。福音の規定はキリストの羊が入りまた出て、牧草を見いだす(Joh 10:9)野原と谷であり、伏させられる(Ps 23:2)所である。イスラエルの牛の群れがアコルの谷に伏したように(Ho 2:15)。
¹¹ しかし、あなたがたは主を捨て、わたしの聖なる山を忘れ、ガドのために食卓を設け、メニのために混ぜたぶどう酒を満たして注ぐ者たちである。
¹² それゆえ、わたしはあなたがたを剣に数える。あなたがたは皆ほふり場にひれ伏す。わたしが呼んでもあなたがたは答えず、わたしが語ってもあなたがたは聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばないことを選んだからである。
¹³ それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、わたしのしもべたちは食べて、あなたがたは飢える。見よ、わたしのしもべたちは飲んで、あなたがたは渇く。見よ、わたしのしもべたちは喜んで、あなたがたは恥を見る。
¹⁴ 見よ、わたしのしもべたちは心の喜びによって歌う。しかし、あなたがたは心の悲しみによって叫び、霊の悩みによって泣きわめく。
¹⁵ あなたがたが残す名は、わたしの選んだ者ののろいのことばとなる。主なる神はあなたを殺し、そのしもべたちを別の名で呼ばれる。
¹⁶ それゆえ、地で自分のために祝福を求める者は、真実の神によって自分のために祝福を求め、地で誓う者は真実の神によって誓う。以前の苦しみが忘れられ、わたしの目の前から隠されたからである。
ここでは、神に仕える者と悪しき者、信じたユダヤ人と依然として不信仰に留まる者たちの異なる状態が、いのちと死、善と悪、祝福とのろいのように、互いに对照されて並べ置かれている。
I. バビロンからの救出の後も偶像礼拝を固守し、キリストの福音が宣べ伝えられた後も不信仰を固守した者たちの恐るべき運命がここにある。見よ。
1. ここで脅されているその運みは何か。「わたしはあなたがたをほふり場に引かれる羊のように剣に数える。のがれる道もなく、抵抗する余地もない。あなたがたは皆ひれ伏して殺される」(Isa 65:12)。神の裁きは次のように来る。(1.) 規則正しく、その命令に従って執行される。剣に数えられた、数え出された者たちが剣に倒れる。それ以外の者はだれも倒れない。剣がこの人もかの人も無差別に飲み込むように見えても、剣はその数を知っており、それを超えない。(2.) 抗しがたく来る。最も強く最も頑なな罪人たちもその前にひれ伏さざるを得ない。神に逆らって心をかたくなにして栄えた者はかつて一人もいないからである。
2. 彼らを剣に数えさせる罪は何か。(1.) 偶像礼拝は古い罪であった(Isa 65:11)。「あなたがたはわたしを求め、わたしの民としてわたしに仕える代わりに、主を捨て、神を否認し、他の神々を受け入れるために見捨て、わたしの聖なる山を忘れる(それが与える特権とそれが負わせる義務を忘れる)者たちである。あなたがたは偶像の山で香をたき(Isa 65:7)、唯一のまことの生ける神を見捨てた。」彼らは異邦人が拝む神々の群れのために食卓を設け、その数えきれないほど多くの神々に灌祭を注いだ。一人の神では足りないと思った者たちは、数十、数百の神でも決して十分と思わず、かえってその数を増し続け、ついに神々の数が町々の数と同じほどになり、その祭壇が畑のうねの石の山のように立ち並んだ(Ho 12:11)。ある者たちは、私たちが群れと数と翻訳するガドとメニを彼らの二つの偶像の固有名詞とみなし、ユピテルとメルクリウスに相当すると考える。それらが何であれ、その礼拝者たちは栄光を帰すために費用を惜しまなかった。彼らはそれらのために食卓を設け、灌祭として混ぜぶどう酒を満たして注いだ。彼らは自分の献身を減らすよりはむしろ自分の家族を飢えさせた。これはまことの神に仕える者たちにその吝嗇を恥じさせるべきである。(2.) 不信仰は後のユダヤ人たちの罪であった(Isa 65:12)。わたしが呼んでも、あなたがたは答えなかった。これはIsa 65:2(わたしはそむく民に終日わたしの手を伸ばした)が指すのと同じことを指し、それは福音を拒んだ者たちに適用される。私たちの主イエスご自身が呼ばれた(神は立って叫ばれた、Joh 7:37)。しかし彼らは聞かず、答えようとしなかった。彼らはキリストの論証によっても説得されず、キリストの忠告によっても動かされなかった。キリストが彼らに与えられた死と滅びについての公正な警告と、いのちと幸福についての公正な提供の両方が軽べつされ、彼らに何の感化も与えなかった。しかし、これがすべてではなかった。*あなたがたはわたしの目の前に悪を行った。*思いがけず、あるいは不注意によってではなく、故意に行った。*あなたがたはわたしの喜ばないことを選んだ。*これは神が徹底的に憎み忌み嫌うことを意味する。善いものを選ぶように説得されようとしない者たちが、悪いものを選び追うことを固守するのは不思議ではない。罪の悪毒性を見よ。それは神の目に悪であり、神をひどく怒らせる。それにもかかわらず、それは神の目の前で、神の観察と臨在の中で、神を軽蔑して犯される。またそれは神の御心への矛盾である。神を喜ばせないと知りながら、あえてそれを行うことである。
II. 悔い改めと信仰に至った者たちの幸いな状態を考える時、この運命の加重。
1. 神に仕える者たちの祝福と、神にそむく者たちの惨めな境遇がここで互いに对照されて並べ置かれ、互いの引き立ての背景とされる(Isa 65:13-16)。(1.) 神のしもべたちは、その恵みがないために惨めとなった隣人たち—かたくなとなり、不信仰の中で永遠に滅びそうな者たち—を見る時、また自分たちが彼らの中に加わらなかったことがどれほど危うい回避であったかを見る時、自分たちを幸いと思い、自分たちをそのようにされた無代価の恵みに永遠に負い目のある者とみなす十分な理由がある。Isa 66:24を見よ。(2.) 滅びる者たちにとって、神のしもべたち(彼らが憎み、中傷し、極度の軽蔑をもって見た者たち)の幸福を見ることが、また自分たちの過ちでなければその祝福を共に享受できたはずだと考えることが、その悲しみを増す。地獄にいる金持が遠くにアブラハムとそのふところにいるラザロを見たことが、その苦痛をより耐え難いものとした(Lu 16:23)。Lu 13:28を見よ。時折、神の摂理はこの世で善人と悪人の間にこのような違いを設ける。義人の繁栄が悪人には耐え難い目の痛みとなり、心の悩みとなる(Ps 112:10)。そして大いなる日には確かにそうなる。*私たち愚か者は彼の生涯を狂気と思い、その終わりを誉れなきものとした。しかし今、彼はどうして聖徒たちの中に数えられ、その割り当ては選ばれた者たちの中にあるのか。*さて、
2. 彼らの状態の違いは二つの事柄にある。
(1.) 慰めと満足の点で。[1.] 神のしもべたちは食べ、飲む。彼らはいのちのパンを持って絶えず食べ、宴する。神の家の豊かさで豊かに満たされ、彼らに良いものは何一つ欠けることがない。天の幸福は彼らにとって永遠の宴となり、彼らは今飢え渇いているもので満たされる。しかし世に心を向け、そこに幸福を置く者たちは飢え渇く。常に空っぽであり、常に渇望する。それはパンではないから。それは飽きさせるが、満足させない。神との交わりと神への依拠には完全な満足がある。しかし罪深い追求には失望以外に何もない。[2.] 神のしもべたちは喜び、心の喜びによって歌う。彼らには常に喜ぶ理由があり、彼らに悲しみの種となるかもしれない何があっても、それを十分に和らげる手段がある。そして信仰が働き行使される限り、彼らには喜ぶ心があり、彼らの喜びは彼らの力である。彼らはその望みの中で喜ぶ。それが彼らを恥じさせないから。天は今涙によって種蒔くすべての者に永遠の喜びの世界となる。しかし他方、主を捨てる者たちはすべてのまことの喜びから自分たちを締め出す。彼らは恥を見るからである。自分自身と自分の義においたその空しい確信と、そこに積み上げた望みのゆえに。彼らが自分でふりまいた祝福の期待が裏切られる時、何という当惑が彼らの顔を覆うであろうか。その時彼らは*心の悲しみによって叫び、霊の悩みによって泣きわめく。*おそらくこの世で、彼らの笑いが哀しみに、彼らの喜びが重さに変わる時に。また確かにあの世で、その苦痛が終わりもなく、和らぐこともなく、救いの道もない時に。そこでは永遠に泣き、叫び、歯ぎしりする以外に何もない。この二つを比べよ。*今や彼は慰められ、おまえは苦しんでいる。*そして私たちはこの二つのどちらと共に自分の割り当てを取ることを選ぶのか。
(2.) 誉れと評判の点で(Isa 65:15,16)。義人の記憶は祝福であり、祝福されるが、悪人の名は朽ちる。[1.] 偶像礼拝者たちと不信仰者たちの名はのろいのことばとして残される。不名誉を着せられ、永遠に悪名高くされる。それは悪い品性を描写するのに用いられる—あなたはユダヤ人のように残酷だ。またのろいにおいて用いられる—神があなたをユダヤ人のように惨めにされますように。それは神の選んだ者へののろいのことばとなる。すなわち彼らへの警告となる。彼らはユダヤ民族に臨んだのろいの下に陥ることを、同じ不信仰の例にならって滅びることを恐れる。神が拒まれる者たちに臨んだのろいは、神の選んだ者たちを畏れをもって立たせる。主なる神はあなたを殺す。神はユダヤ人を完全に根絶やしにし、一つの民として断ち切られる。彼らはもはや一つの民族として生きず、二度と一つの国として合同されることはない。[2.] 神の選んだ者たちの名は祝福となる。神はそのしもべたちを別の名で呼ばれる。契約の子らはもはやユダヤ人と呼ばれず、クリスチャンと呼ばれる。そしてその名の下で、新しい契約のすべての約束と特権が彼らに保証される。この別の名は誉れある名となる。一つの民族に限られず、その名によって人々は地で自分のために祝福を求め、全世界至る所でそうする。神はすべての国々の中からしもべたちを置かれ、彼らは皆この新しい名で尊くされる。彼らは真実の神によって自分のために祝福を求める。第一に、彼らは祈りにおいても厳かな誓いにおいても神に誉れを帰す。自分の幸福として神の恵みを求める事においても、自分の裁き主として神の正義に訴える事においても。これは私たちが神に払うべき敬意の一部である。私たちは神において祝福を求めなければならない。すなわち、神を私たちの神として持てば、私たちを幸福にするのに十分であり、それ以上必要なく、それ以上望めないとみなすべきである。私たちが何において祝福を求めるか、何によって最も喜び、何への関心によって自分を評価するかは非常に重要である。世の人々は自分たちが持つこの世の財の豊かさの中で祝福を求める(Ps 49:18, Lu 12:19)。しかし神のしもべたちは神を自分たちに完全に十分な神として、神において祝福を求める。神は彼らの栄光の冠であり、美しさの頭飾りであり、彼らの力であり、割り当てである。また彼らは神によって誓い、何の被造物にも、何の偽りの神にも誓わない。彼らは自分たちの訴えを神の裁きに委ねる。すべての人の裁きは神から出るからである。第二に、彼らは神を真実の神、アーメンの神として誉れを帰す(原語がそうである)。ある者たちはこれをキリストと理解する。キリストご自身がアーメンであり、忠実な証人であり(Re 3:14)、その中にすべての約束が*「しかり、そしてアーメン」となる*(2Co 1:20)。私たちはキリストにおいて祝福を求め、キリストによって主に誓い、キリストと契約を結ぶべきである。地で祝福を受ける者は(ある者たちはこう読む)まことの神において祝福を受ける。キリストはまことの神であり永遠のいのちだからである(1Jo 5:20)。そして古くからキリストによって地のすべての民族が祝福を受けると約束された(Ge 12:3)。ある者たちはこれを、彼は忠実な民の神において自分のために祝福を求めると読む。すなわちすべての信じる者たちの神としての神において、彼らが受ける祝福にあずかることを望む以上、彼らが扱われるように自分も扱われることを望む以上、求めない。第三に、彼らは自分たちが経験するこの祝福された変化を引き起こされた方として神に誉れを帰す。彼らは自分たちに以前の苦しみを忘れさせた神を自分の神として持つことを幸いとみなす。その苦しみの記憶が今の慰めの中に飲み込まれたからである。それらが神の目の前から隠されたからである。すなわち完全に取り除かれたから。もし彼らの苦しみに少しでも残りがあれば、神は彼らをあわれみ、彼らのために心配して、必ずそれに目を留められたであろう。彼らはもはやそれを感じない。神がもはやそれを見られないからである。神は彼らを安らかにすることによってご自身も安らぎになられるかのように語られることを喜ばれる。それゆえ彼らは大いなる満足をもって神において自分のために祝福を求める。
¹⁷ 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。前のことは思い出されず、心に上らない。
¹⁸ しかし、あなたがたはわたしが創造するもので永遠に喜び楽しむ。見よ、わたしはエルサレムを喜びとして創造し、その民を楽しみとして創造する。
¹⁹ わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう泣く声も叫び声も聞かれない。
²⁰ そこには日数の少ないうちに死ぬ子供も、日々満たさない老人ももういない。百歳で死ぬ者は若者とみなされ、百歳の罪人はのろわれる。
²¹ 彼らは家を建ててそこに住み、ぶどう園を植えてその実を食べる。
²² 彼らが建てたものに他者が住まず、彼らが植えたものを他者が食べない。わたしの民の日数は木の日数のようであり、わたしの選んだ者はその手のわざを長く楽しむからである。
²³ 彼らはむなしく労することなく、悩みのために産むことはない。彼らは主に祝福された者の種であり、その子孫も彼らと共にいるからである。
²⁴ 彼らが呼ぶ前にわたしは答え、彼らがなお語っている間にわたしは聞く。
²⁵ おおかみと小羊は共に食べ、獅子は牛のようにわらを食べ、ちりは蛇の*食物となる。*主が言われる、わたしの聖なる山のどこでも、彼らは害を加えず、滅ぼさない。
これらの約束が、ユダヤ人たちが捕囚から帰還した後、自分たちの地に平和に定住し、まるで新しい世界に入ったかのようになった時に部分的に成就したとしても、それらは福音の教会において、まずは戦う教会として、ついには勝利する教会として完全に成就するものであった。上からのエルサレムは自由であり、わたしたちすべての母である。信者たちがキリストのうちに、またキリストから受ける恵みと慰めの中に、わたしたちはこの新しい天と新しい地を探し求めるべきである。古いものは過ぎ去った、見よ、すべて新しくなったと言われるのは福音のうちに実現することであり、キリストにある者たちが新しい被造物となることも福音による(2Co 5:17)。Isa 65:16に描写された、以前の苦難が忘れられるという偉大で幸いな変化は、それ自体で大いなるものであったが、ここではさらに高く立ち昇る。すなわち以前の世界さえも忘れられ、**もはや心に上らないのである。キリストの信仰に回心した者たちは、その慰めにあまりにも恍惚としたので、以前知っていたすべての慰めが彼らにとって無に等しくなった。彼らの以前の悲しみだけでなく、以前の喜びさえも、このうちに失われ、飲み込まれた。栄光化された聖徒たちはそれゆえにこの世を忘れるであろう。彼らがあの世に完全に捉えられるからである。見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。神の力がどれほど尽きることのないものかを見よ。一つの天と地を創造された同じ神が、もう一つの天と地を創造することができる。聖徒たちの幸福がどれほど完全なものかを見よ。それはすべて一つに整ったものであろう。新しい天と共に、神は彼らに(彼らを幸いにするのに必要であれば)新しい地をも創造される。あなたがたがキリストのものなら世界はあなたがたのものである(1Co 3:22)。神がわたしたちと和解される時、それはわたしたちに新しい天を与えるが、被造物たちもわたしたちと和解し、それはわたしたちに新しい地を与える。聖徒たちの将来の栄光は、彼らがかつて知ったいかなるものとも完全に異なるので、正しく新しい天と新しい地と呼ばれるにふさわしい(2Pe 3:13)。見よ、わたしはすべてのものを新しくする(Re 21:5)。
I. 新しい喜びがある。
1. 教会のすべての友人、教会に属するすべての者が喜ぶ(Isa 65:18)。あなたがたは*わたしが創造するもので永遠に喜び楽しむ。*神がその福音のうちに、また福音によって創造される新しいものは、すべての信者にとって永遠の喜びの根拠であり、またそうなる。わたしのしもべたちは喜ぶ(Isa 65:13)。今は悲しんでいても、ついには喜ぶであろう。あなたの主人の喜びに入れ。
2. 教会が彼らの喜びの根拠となる。教会の状態がそれほどまでに楽しく、それほどまでに栄えるからである。*わたしはエルサレムを喜びとして創造し、その民を楽しみとして創造する。*教会は喜ぶだけでなく、喜ばれるようになる。教会と共に悲しんだ者たちは教会と共に喜ぶであろう。
3. 教会の繁栄が神ご自身の喜びとなる。神はそのしもべたちの繁栄を喜ばれる(Isa 65:19)。わたしはエルサレムを喜びとして喜び、わたしの民を楽しむ。それはそのすべての苦難において神も共に苦難を受けられたからである。神は教会の善き行いを喜ぶだけでなく、ご自身喜んでそのために善を行い*、教会への愛のうちに安息される(Zep 3:17)。神が喜ばれるものをわたしたちも喜ぶのが当然である。
4. この喜びが薄れることなく、教会のこの幸いな状態が変わることもない。泣く声はもはやその中に聞かれない。もしこれがこの世における教会のいかなる状態に関連するものとすれば、以前の悲しみの機会が戻らないこと以上を意味しない。神の民が途切れることのない平安を長く楽しむということである。しかし天においては、約束された喜びの完全さと永続性の両面において完全に成就する。そこではすべての涙が拭い去られる。
II. 新しいいのちがある(Isa 65:20)。剣や病気による若死にが、以前のように、もはや知られなくなる。これによってもはや叫び声がない(Isa 65:19)。もはや死がない時には、もはや悲しみもない(Re 21:4)。死が罪によって王であったように、いのちが義によって王となる(Ro 5:14,21)。
1. キリストによる信者たちは、地でのいのちがどれほど短くても、いのちに満足する。幼子がすぐにその日を終えても、時ならずして死んだとはみなされない。そのいのちが短ければ短いほど、その安息は長いからである。アダムの罪過と同じような罪を犯さなかった者たちの上にも死が王であったとしても、第二のアダムであるキリストの腕の中で死に、その御国に属する彼らは、日数の少ない幼子と呼ばれるべきではなく、その子でさえ百歳で死ぬものとみなされる。彼は満ちた年齢で再び生き、永遠のいのちに復るからである。ある者たちはこれを、幼い頃に知恵と恵みが際立っており、死によって花のつぼみのうちに摘み取られたゆえに、百歳で死ぬと言い得る子どもたちについてのことと理解する。老人たちについては、彼らがその日を満たすことが約束される。義の実をもってそうする。彼らは老いてもなお結び実を結び、主の正しさを示す。その時それは幸いな老年である。知恵があり、善良で、役に立つ老人は、真にその日を満たしたと言える。世に心を置く老人たちは決してその日を満たさず、この世に決して満足せず、なお長くそこにとどまろうとする。しかしシメオンと共に神の救いを見、今は平安の中を去ることを願う者、その人が老いて死に、日満ちて死ぬ者である。
2. 不信者たちは、いのちがどれほど長くても、いのちに満足せず、不幸である。罪人は百歳まで生きても*のろわれる。*そのように長く生きることは、神の恵みと祝福のしるしとはならず、神の怒りとのろいからの避け所にもならない。彼が受けている宣告は必ず執行され、彼の長いいのちは長い執行猶予にすぎない。いや、それ自体が彼にとってのろいである。長く生きるほど怒りの日のために多くの怒りを蓄え、責任を負わなければならない罪が多くなるからである。それゆえ、地でのわたしたちのいのちが長いか短いかは大きな問題ではなく、わたしたちが聖徒のいのちを生きるか、罪人のいのちを生きるかが重大な問題である。
III. いのちの慰めを新しく楽しむことがある。以前はそれが非常に不確かで不安であった。彼らの敵が彼らの建てた**家に住み、彼らの植えた木の実を食べた。しかし今はそうではない。彼らは家を建ててそこに住み**ぶどう園を植えてその実を食べる(Isa 65:21,22)。これは彼らの手の労苦が祝福され、栄えることを示す。彼らは目指したものを得て、得たものは保たれ、彼らに確保される。彼らはそれを安らかに楽しみ、何ものもそれを彼らに苦くせず、彼らは生きてそれを長く楽しむ。見知らぬ者たちが以前時折そうしたように、押し入って彼らを追い出し、彼らの場所に自分たちを据えることはない。わたしの選んだ者はその手のわざをすり減らすほど、すなわち長く楽しむ。それは正直に得たものであり、よく耐える。それは彼ら自身が労して得たその手のわざであり、怠惰のパンや偽りのパンを食べることなくそれを楽しむことが最も慰めとなる。それを楽しむ心を持つなら、それは神の恵みの賜物であり(Ec 3:13)、生きてそれを長く楽しむなら、それは神の摂理の賜物である。これがここに約束されるからである。わたしの民の日数は木の日数のようである。*ナラの木の日数のようである(Isa 6:13)。葉を落としてもその中に本質があり、毎冬裸にされても回復し、何世代にもわたって続く。すなわちいのちの木の日数のようである。*七十人訳はそう訳す。キリストは彼らにとっていのちの木であり、そのうちに信者たちはここに約束された豊かな現世の祝福によって象徴されるすべての霊的慰めを楽しむ。そして彼らの敵にはこれらの祝福を彼らから奪い、その楽しみを妨げる力はない。
IV. これらの祝福を受け継ぎ楽しむ新しい世代が彼らに代わって立ち上がる(Isa 65:23)。彼らはむなしく労せず、彼らは自分の手のわざを自分たちで楽しむだけでなく、ソロモンが持ったような憂鬱な展望なしに(Ec 2:18,19)、満足してそれを後に来る者たちに残すからである。彼らは悩みのために子どもを生み出さない。*彼ら自身が主に祝福された者の種であり、先祖からの血統によって彼らに伴う祝福があり、彼らと共にいるその子孫もそれにあずかり、彼らと同様に主に祝福された者の種*となるからである。彼らは悩みのために産み出さない。
1. 神は彼らから立ち上がる子どもたちを彼らへの慰めとされる。彼らはその子どもが真理の中を歩むのを見る喜びを持つ。
2. 神は後に来る時代を彼らの子どもたちにとって平安なものとされる。彼らが良き者となるので、彼らにとっても良きことがある。彼らは悩みの日のために生み出されず、はらめない胎は幸いであると決して言われない。福音の教会において、キリストの御名は継承によって保たれる。一つの種が神に仕える(Ps 22:30)。すなわち主に祝福された者の種が。
V. 彼らと彼らの神との間に良い交わりがある(Isa 65:24)。彼らが呼ぶ前にさえ、わたしは答える。神はその善さの祝福をもって彼らの祈りに先立って答えられる。ダビデはわたしは告白しようと言っただけで、神は赦された(Ps 32:5)。放蕩息子の父は彼が帰る時に出迎えた。彼らがなお語っている間に、祈りを終える前に、わたしは彼らが祈るもの、あるいはその確証と手付金を与える。これらは祈りを聞く神の準備の高さを表す。そしてこれは律法の下よりも福音の恵みのうちにはるかに明らかに現れる。わたしたちはこの慰めを、父の御前でのわたしたちの擁護者であるキリストの執り成しに負い、感謝して神の招きに喜んで耳を傾ける義務がある。
VI. 彼らと隣人たちとの間に良い交わりがある(Isa 65:25)。おおかみと小羊は共に食べる。ノアの箱舟でそうであったように。神の民は、おおかみの真ん中にいる羊のようであっても、安全で傷つけられない。神は以前のように彼らの敵の力を砕き、その手を縛るだけでなく、彼らの心を変え、その恵みによって彼らの性向を変えられるからである。弟子たちを迫害していたパウロが(彼はベニヤミン族の者としておおかみのようにかみついた、Ge 49:27)、彼らに加わり、彼らの一人となった時、その時*おおかみと小羊は共に食べた。*またユダヤ人と異邦人の間の敵意が殺された時、すべての敵対がやみ、彼らは大いなる牧者であるキリストの下で一つの羊の群れとして共に食べた(Joh 10:16)。教会の敵は以前もたらした危害をやめ、その成員は以前のように互いに争い、傷つけ合うことをやめた。聖なる山のどこでも外からも内からも傷つけたり滅ぼしたりする者がなく、教会を乱す者がなく、まして滅ぼす者がなくなった。これは約束された通りである(Isa 11:8)。
1. 人々が変えられる。獅子はもはや獲物をねらう獣ではなく、牛のようにわらを食べ、牛がそうするように*その持ち主を知り**その主人の飼い葉桶を知る。*略奪と強奪で生き、正しくても誤ってでも自分を富ませようと貪った者たちが、神の恵みによって自分の状態に適応し、正直な労働で生き、持っているもので満足するようになる時、盗んでいた者たちがもはや盗まず、手で良いわざをするようになる時、獅子は牛のようにわらを食べるというこの言葉が成就する。
2. サタンが縛られ、竜が縛られる。ちりが再び蛇の食物となるからである。あの大いなる敵は、放たれた時、その扇動によって迫害された聖徒たちの尊い血と、その扇動によって迫害する者となり自分を永遠に滅ぼした罪人たちの尊い魂で自分を飽らせ、満足させた。しかし今、お前は腹ばいになり、ちりを食べる(Ge 3:14)という宣告に従い、ちりに閉じ込められる。蛇のように狡猾で有毒な神の教会のすべての敵は征服され、服してちりをなめるようにされる。キリストはその御国のすべての敵がその足台とされるまで、シオンの王として治められる。上にある聖なる山において、そこにおいてのみ、傷つけたり滅ぼしたりする者がいないというこの約束が完全に成就する。
私たちは今、この福音的預言の結論に近づいている。その最後の二章は私たちを新しい天と新しい地、福音の時代がもたらすべき新しい世界、そしてそれによって貴いものと卑しいものとの間に設けられる区別に向けて、限りなく遠くまで目を向けさせる。「私は審判のためにこの世界に来たからである」とキリストは言われる。それでは、すべての預言者があかしした事を、預言者がここで語るのが不条理に思えるだろうか。1Pe 1:10,11。ユダヤ人の拒絶と異邦人の招きは、新約でしばしば、預言者たちが前もって見、前もって語った事として言及される、Ac 10:43,13:40,Ro 16:26。この章で私たちは次のことを持つ。I. 福音の招きによる異邦人の先取り、Isa 65:1。II. そのかたくなさと不信仰のゆえのユダヤ人の拒絶、Isa 65:2-7。III. 彼らの残りの者を福音の教会に導き入れることによるその救い、Isa 65:8-10。IV. 拒絶されたユダヤ人を追う神の審判、Isa 65:11-16。V. キリストの教会のために蓄えられた祝福。それはその喜びと栄光となる、Isa 65:17-25。しかしこれらの事は、捕囚からの帰還後のユダヤ人のうちのある者とほかの者との間に、神を恐れる者と恐れない者との間に、神が設けるであろう区別の型と象徴の下に、また当時彼らのうちに見出された罪への責めと、当時彼らのために蓄えられていた祝福の約束とを伴って、預言されている。