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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Isaiah 66章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

無題

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本章の趣旨は前章とほぼ同じであり、その表現の多くも同じである。したがって本章も同じ方向を見て、捕囚からの帰還時におけるユダヤ人の中の善人と悪人の異なった状態を眺めているが、それはメシアの時代におけるユダヤ人の拒絶、異邦人の回心、および福音の御国が世界に立てられることを型として示している。本章のイザヤ66:1は、ステパノによってキリスト教会の樹立による神殿の解体に適用されている(使徒7:49-50)。これは本章全体の鍵として役立つ。ここには次の事柄がある。一、道徳的な務めに比べて儀式的な奉仕を神が軽んじられること、そしてその中に、間もなく神殿と犠牲とに終わりを置き、それらに固執する者たちを退けるという神のご計画の示唆があること(イザヤ66:1-4)。二、神が時至って、抑圧者の手からご自身の民のために成し遂げられる救い(イザヤ66:5)。それは迫害する者たちには恐れを(イザヤ66:6)、迫害される者たちには慰めを語り、速やかで完全な救い出し(イザヤ66:7-9)、喜ばしい回復(イザヤ66:10-11)、異邦人が彼らに加わることと、その中にある豊かな満足を約束する(イザヤ66:12-14)。三、神がご自身の教会と民の敵に対して下される恐るべき復讐(イザヤ66:15-18)。四、広く確固とした土台の上に教会が確立され、常に神に仕え、敵に勝利すること(イザヤ66:19-24)。そして、この福音的預言者は、ここで預言の締めくくりとして、終わりの日、最後の日、永遠の日々にまではるか先を見渡す(実際に彼はそうしている)と、私たちは十分に期待してよいのである。

Isaiah 66章 1-4 Matthew Henry's Complete Commentary

The Vanity of Mere Ritual Obedience (706 BC)

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単なる儀式的従順の空しさ(紀元前706年)

¹ 主はこう仰せられる。天はわたしの玉座、地はわたしの足台。あなたがたがわたしのために建てる家はどこにあるのか。わたしの安息の場所はどこにあるのか。
² 主は仰せられる。わたしの手がこれらすべてのものを造った。そしてこれらすべてのものがあった。しかし、わたしが顧みる人はこのような人である。すなわち、貧しく、悔いる霊を持ち、わたしの言葉を恐れおののく者である。
³ 雄牛を屠る者は、人を殺すようなものである。子羊を犠牲としてささげる者は、犬の首を折るようなものである。供え物をささげる者は、豚の血をささげるようなものである。香をたく者は、偶像をほめたたえるようなものである。彼らは自分たちの道を選び、彼らのたましいはその忌むべきものを喜ぶからである。
⁴ わたしもまた彼らの惑わしを選び、彼らが恐れるものを彼らの上にもたらす。わたしが呼んでも答える者がなく、わたしが語っても聞かなかったからである。彼らはわたしの目の前に悪を行い、わたしが喜ばないものを選んだ。

ここで、

I. 恵み深い魂と比較して、神殿は軽んじられる(Isa 66:1,2)。預言者の時代のユダヤ人たち、そしてその後キリストの時代のユダヤ人たちは、神殿を大いに誇り、それから大いなることを期待した。それゆえ彼らをへりくだらせ、そのむなしい確信を揺るがすために、預言者たちとキリストはともに神殿の滅びを予告した。すなわち神がそれを離れられれば、それはまもなく荒廃するであろうと。それがカルデヤ人によって破壊された後、まもなく回復し、儀式的な奉仕もそれと共に復活した。しかしローマ人によって永遠の荒廃とされ、儀式律法もそれと共に廃止された。世がこれに備えられるように、彼らはここでされるように、神殿が神にとっていかに些細なものであるかをしばしば告げられた。1. 神はそれを必要とされなかった。天は神の栄光と支配の玉座である。そこで神はすべてのほむべき誉れと賛美の上に、最高の尊厳と主権をもって無限に高く座している。地は神の足台である。その上に立って、ご自身の御旨に従ってそのすべての事を支配される。もし神がこれほど明るい玉座とこれほど大きな足台を持っておられるなら、それで彼らが神のために建てうる家はどこにあるのか。神の栄光の住処となりうるものは。神の安息の場所はどこにあるのか。永遠の御心が、人の手で造られた家にどのような満足を見出しうるか。疲れることも、弱ることもなく、まどろむことも眠ることもない方が、私たちのように休むための家を必要とされる理由があろうか。あるいは必要とされても、神は私たちに告げられない(Ps 50:12)。神の手がこれらすべてのものを造られたからである。天とそのすべての庭、地とそのすべての境界、および両者のすべての万軍を。これらすべてのものがあった。すなわち神の力によってその始まりを持った。そして神はそれらがある前から永遠に幸いであったので、それらによって益を得ることはできなかった。これらすべてのものがある(ある人々はこう読む)。それらは造ったのと同じ力によって保たれ、今も存続する。それゆえ私たちの善は神に及ばない。もし神がご自身の住むための家を必要とされたなら、世界を造られたときにご自身で一つを造られたであろう。もしそうされたなら、他の被造物が神の定めに従ってそうであるように、今日まで存続したであろう。それゆえ神は手で造られた神殿を必要とされなかった。2. 神は神殿を、へりくだり悔いる恵み深い心と同じようには顧みられない。神はご自身で造られた天と地を、人が造った神殿を持っておられる。しかし神はそれらすべてを見過ごし、霊の貧しい者、へりくだって真面目な者、自分を低くし自分を否む者、すなわち罪に対して真に砕かれ、それを悔い、それが赦されるために苦しむ心を持つ者、神の言葉を恐れおののく者を恵みをもって顧みようとされる。それはフェリクスがしたように、説教が終われば過ぎ去る一時的な不安としてではなく、神の威厳と純潔に対する習慣的な畏れと、神の正義と怒りに対する習慣的な恐れとして、おののくこと。そのような心は神のための生ける神殿である。神はそこに住まわれ、そこが神の安息の場所である。それは天と地、神の玉座と足台のようである。

II. 恵みのない手から来る犠牲は軽んじられる。悪者の犠牲は受け入れられないだけでなく、主への忌むべきものである(Pr 15:8)。これがここに大いに示されている(Isa 66:3,4)。観察せよ。1. 彼らの犠牲が神にとっていかに忌むべきものであったか。肉的なユダヤ人たちは、捕囚から帰還した後、偶像礼拝に逆戻りしなかったが、神への奉仕において非常に不注意で緩んだ。彼らは引き裂かれたもの、足の不自由なもの、病気のものを犠牲として持ってきた(Mal 1:8,13)。これが彼らの奉仕を神にとって忌むべきものとした。彼らが自分たちの犠牲を重んじなかったので、どうして神がそれらを重んじられると考えられたのか。信じないユダヤ人たちは、福音が宣べ伝えられ、その中ですべての儀式的奉仕を終わらせる大いなる犠牲の供え出しが告げられた後も、まるでモーセの律法がまだ効力を持ち、そこに来る者を完全にしうるかのように、犠牲を捧げ続けた。これは忌むべきことであった。自分の食卓のために雄牛を屠る者はそうしてよい。しかし今や神の祭壇のためにそれを屠る者、このようにして屠る者は人を殺すのと同じである。それは殺人そのものと同様に神への大いなる罪である。それを行う者は事実上キリストの犠牲を無にし、契約の血を足で踏みつけ、キリストが廃するために死なれたものを立てることによって、主の体と血の罪責に加担するのである。子羊を犠牲としてささげる者が、もしそれが腐ったものであり、彼の群れの雄、彼の最も良いものでないなら、何かでもって神をごまかそうとするなら、彼は神を喜ばせるどころか侮辱する。それは犬の首を折るのと同じである。犬は律法の目には非常に卑しい被造物であり、ろばは贖うことができたが、犬の値は決して宮の金庫に入れられなかった(De 23:18)。供え物をささげる者、穀物の供え物や飲みの供え物をささげる者は、豚の血で贖おうと考えるようなものである。豚は食べてはならず、触れてもならない被造物であり、その煮汁でさえ忌むべきであった(Isa 65:4)。ましてその血はなおさらである。神に香をたく者、こうしてキリストのとりなしの香を軽んじる者は偶像をほめたたえるのと同じである。それは彼らが偽りの神に礼拝を捧げたのと同様に神への大いなる侮辱であった。偽善と不敬けんは偶像礼拝と同様に神を怒らせる。2. 彼らの犠牲をこのように忌むべきものにした彼らの悪とは何であったか。それは彼らが自分たちの道を選んだからであり、彼らの手だけでなく彼らのたましいがその忌むべきものを喜んだからである。彼らはその歩みにおいて邪悪で不道徳であり、神の戒めの道よりも罪の道を選び、神を怒らせることを喜んだ。これが彼らの犠牲を神にこのように忌まわしいものとした(Isa 1:11-15)。宗教の告白によって神を誉れとするふりをしながら、悪い生涯を送る者たちは、まるで神が罪の後援者であるかのように神を侮辱する。そして彼らの悪を加重したのは、悔い改めて立ち返るよう頻繁に呼ばれたにもかかわらず、彼らがそれに固執したことである。彼らは神の正義のすべての警告と神の恵みのすべての申し出に耳を閉ざした。わたしが呼んでも答える者がなかった。前と同様である(Isa 65:12)。そしてそこでしたのと同じことがここでも続く。彼らはわたしの目の前に悪を行った。神の語られたことに耳を閉ざしたので、彼らは神の見られることを気にかけず、かえって神が喜ばれないことを知りながら、それを選んだ。自分たちの歩みにおいて神を喜ばせることは全くせず、かえって神を怒らせようと計った者たちが、どうして自分たちの礼拝において神を喜ばせることを期待できたのか。3. このことのゆえに彼らに下された宣告。彼らが自分たちの道を選んだので、それゆえ神は言われる。わたしも彼らの惑わしを選ぶ。彼らは彼らの選択をした(ガタカー氏が言い換えたように)。今やわたしはわたしの選択をする。彼らはわたしに対して彼らの好きな道を取った。わたしも彼らに対してわたしの好きな道を取る。わたしは彼らの幻影、あるいはあざけり(ある人々はこう読む)を選ぶ。彼らが悪によって神をあざけり、辱めたように、神も彼らを彼らの敵に引き渡し、彼らに踏みつけられ、侮辱されるようにされる。あるいは彼らが自分自身を欺いたそのむなしい確信によって欺かれるであろう。神は彼らの罪を彼らの刑罰とされる。彼らは自分自身のむちで打たれ、自分自身の惑わしによって滅びへと急き立てられる。神は彼らが恐れるものを彼らの上にもたらされる。すなわち彼らに大いなる恐怖となるもの、あるいは彼ら自身が恐れ、罪深い術策によって逃れようとしたものを。信じない心と、清められず平安を得ていない良心は、自分自身の恐れが臨むこと以上に、彼らを惨めにするものを必要としない。

Isaiah 66章 5-14 Matthew Henry's Complete Commentary

Encouragement to the Persecuted; The Enlargement of the Church (706 BC)

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迫害される者たちへの励まし;教会の拡大(紀元前706年)

⁵ そのみことばによって震える者たちよ、主のことばを聞け。私の御名のゆえにあなたがたを憎み、あなたがたを追い出したあなたがたの兄弟たちは言った。「主が栄光をお受けになるように。」しかし彼はあなたがたの喜びのために現れ、彼らは恥じるであろう。
⁶ 町から騒ぎの声、宮から声が聞える。それはその敵に報復をなされる主の声である。
⁷ 彼女は産みの苦しみをする前に産み、その痛みが来る前に男の子を産んだ。
⁸ このような事を聞いた者があろうか。このような事を見た者があろうか。地が一日で産み出されるだろうか。あるいは一つの国が一瞬に生まれるだろうか。しかしシオンが産みの苦しみをすると、すぐにその子らを産んだ。
⁹ 主が言われる、私が誕生させ、また産ませないだろうか。あなたの神が言われる。私が産ませ、胎を閉じるだろうか。
¹⁰ エルサレムを愛するすべての者よ、彼女と共に喜び、彼女と共に楽しみを得よ。彼女のために嘆くすべての者よ、彼女と共に喜びのうちに楽しみを得よ。
¹¹ それはあなたがたがその慰めの乳を吸い、満ち足りるためである。あなたがたがその栄光の豊かさによって乳をしぼり出し、喜ぶためである。
¹² 主がこう仰せられる。見よ、私は彼女に川のように平安を、流れる小川のように異邦人の栄光を延べる。そのときあなたがたは乳を吸い、彼女の脇に抱かれ、彼女のひざの上で揺られる。
¹³ 母がその子を慰めるように、私があなたがたを慰める。あなたがたはエルサレムで慰められる。
¹⁴ あなたがたがこれを見るとき、あなたがたの心は喜び、あなたがたの骨は草のように茂る。主の御手はそのしもべたちに向かって知られ、その憤りはその敵に向かって知られる。

預言者は、神のことばを嘲り、神が彼らを呼ばれたときに応じようとしなかった偽善的な国民に対して神の裁きを宣告した後、ここでそのみことばによって震れる者たちに語りかけ、彼らを慰め励まそうとする。彼らは不信仰な国民に下る裁きに巻き込まれることはない。奉仕者たちはこのように区別しなければならない。悪者に恐怖を語るとき、義人の心を悲しませてはならない。Bone Christiane, hoc nihil ad te——良いキリスト者よ、これはあなたとは何の関係もない。預言者は神のことばに震れる者たちに神からの恵み深いまなざしを確証した後(Isa 66:2)、ここで神からの恵み深いメッセージを彼らにもたらす。神のことばは、罪に対する真のへりくだりによってそれを受け入れる準備ができた者たちのために、慰めを蓄えている。神が語られても聞こうとしなかった者たちがいたが(Isa 66:4)、ある者たちが聞かないなら、他の者たちが聞く。心がみことばに震れるなら、耳はそれに開かれる。ではここで彼らに何と言われるか。

I. 神が彼らの正当しかし傷つけられた訴えを、彼らの迫害者たちに対して弁護されることを知らせよ(Isa 66:5)。あなたがたを憎むあなたがたの兄弟たちは言った。「主が栄光をお受けになるように。」しかし彼はあなたがたの喜びのために現れる。これはおそらく捕囚から帰還した一部のユダヤ人たちの場合を指すかもしれないが、歴史にはそれに類するものが現れないので、むしろユダヤ人の中で最初に福音を宣べ伝え、告白した者たちの場合に当てはめるのがふさわしい。このことばは彼らの場合に非常によく当てはまる。観察せよ。 1. 神の忠実なしもべたちがどのように迫害されたか。彼らの兄弟たちが彼らを憎んだ。使徒たちは出生においてユダヤ人であったが、異邦人の町々でさえ、そこで出会ったユダヤ人たちが彼らの最も苦々しく容赦のない敵となり、彼らに向かって異邦人を扇動した。花嫁は私の母の子たちが私に向かって怒ったと訴える(So 1:6)。ピラトは私たちの主イエスにこれをもって責めた。あなたの同国人があなたを私に引き渡した(Joh 18:35)。彼らの兄弟たちは、そのわざのゆえに彼らを愛し励ますべきであったのに、彼らを憎み、彼らを会堂から追い出し、彼らが実はその教会と国民の最大の祝福であったのに、まるで最大の傷であるかのように破門した。これは蛇の裔が女の裔に対して抱いた古い敵意の実であった。キリストを憎んだ者たちはその弟子たちも憎んだ。彼らが神の国と利益を支えたからであり(Joh 15:18)、彼らがその御名のゆえに彼らを追い出したのは、彼らがその御名によって呼ばれ、その御名を呼び、その御名を高めるために身を捧げたからであった。銘記せよ。教会の懲戒が誤用され、その防衛のために意図されたその大砲が、その指導者たちの裏切りによってその最良の友人たちに向けられるのは珍しいことではない。そしてこれを行った者たちは*「主が栄光をお受けになるように」と言った。すなわち彼らは良心と、神と教会の栄光に対する熱心を装い、すべての信仰の形式をもってこれを行った。私たちの救い主はこれを説明し、これを指しているようである(Joh 16:2)。彼らはあなたがたを彼らの会堂から追い出すであろう。そしてあなたがたを殺す者はだれでも、それが神に奉仕することだと考える時が来る。In nomine Domini incipit omne malum——主の御名においてあらゆる種類の悪が始まる。あるいは私たちはこれを、神に逆らって語られた言葉として理解することもできる。「あなたがたは神があなたがたの救いにおいて栄光をお受けになると言う。それなら神が栄光をお受けになるようにさせよ。神が急いでそのわざを早めるようにさせよ」(Isa 5:19)。神が彼を喜ばれるから、神が彼を救われるように。ある者たちはこれを、捕囚の中にいた不敬虔なユダヤ人たちの言葉とみなす。救いを望む兄弟たちを嘲り、彼らがしばしば自分自身を慰めとしていた期待、すなわち神がやがてその中で栄光をお受けになるとの期待を嘲笑した。彼らはこのように貧しい者の計り事を恥じ入らせようと(Ps 14:6)できる限りのことをした。 2. 彼らがこれらの迫害の中でどのように励まされたか。「あなたがたの信仰と忍耐をもう少し保て。あなたがたの敵はあなたがたを憎み抑圧し、あなたがたの兄弟たちはあなたがたを憎んで追い出す。しかし天にいますあなたがたの父はあなたがたを愛し、他の誰も進んで、あるいはあえてしないとき、あなたがたのために現れるであろう。神の摂理はあなたがたの慰めとなるように事を整えられる。神はあなたがたの喜びのために、またあなたがたを虐待し踏みつける者たちの混乱のために現れる。彼らは自分たちのあなたがたに対する敵意を恥じるであろう。」これは、エルサレムの迫り来る滅亡のしるしが与えられたとき、ユダヤ人たちの心が恐怖のために衰えたが、彼らが憎み迫害したキリストの弟子たちは自分たちの贖いが近づいたことを知り、喜んで頭を上げた*(Lu 21:26,28)ときに成就した。神がご自分を隠されているように見えても、定められた時にご自分を現される。

II. 神が彼らのために現れることは、世の中で大きな騒ぎを起こすようなものであることを知らせよ(Isa 66:6)。町から騒ぎの声、宮から声が聞える。ある者たちはこれを教会の友人たちの喜びと勝利に満ちた声とし、他の者たちは町で不意を襲われ、無駄に宮に避難所を求めて逃げる教会の敵の恐ろしい嘆きの声とみなす。これらの声は今やその敵に報復をなされる**主の声の反響にすぎない。そしてこの恐怖を語られる神を聞こうとしない者たちは、その警報が哀れな悲鳴となって返ってくるのを聞くであろう。長い包囲の後、エルサレムがついにローマ人によって陥落したとき、町と宮にどれほど混乱した騒ぎがあったかを容易に想像できる。ある者たちはこの預言が、ヨセフスがその『ユダヤ戦記』(4.388 および 6.311)で伝える、エルサレムの滅亡に先立った前兆の中で成就したと考える。すなわち宮の扉が突然ひとりでに開き、祭司たちが至聖所で何かが動く、あるいは移動する音を聞き、やがてここから出て行こうという声を聞いた。そしてその後しばらくして、イエス・バル・アンナスという者が仮庵の祭りに町を巡り歩き、東からの声、西からの声、四方からの風からの声、エルサレムと宮に向かっての声、この民全体に向かっての声であると絶えず叫んだ。

III. 神が世の中にご自分のために教会を立て、それが短い時のうちに豊かに満たされることを知らせよ(Isa 66:7)。彼女は産みの苦しみをする前に産んだ。これは型としては、ユダヤ人たちがバビロンの捕囚から救い出されたことに適用すべきである。その救いは彼らがエジプトから連れ出されたときのような苦痛やあがきなしに、非常に容易に静かにもたらされた。エジプトからのそれは力と勢いによって(De 4:34)なされたが、これは万軍の主の御霊によって(Zec 4:6)なされた。その救いの男の子は喜ばれたが、母はそのために決して産みの苦しみをしなかった。*その痛みが来る前に彼女は産んだ。これはエジプトの助産婦たちがヘブルの女たちについて語った物語——彼らは元気で、助産婦が彼女たちのところに来る前に産んだ(Ex 1:19)——のほかには、全く驚くべき、寻常でなく、前例のないことである。しかし地が一日でその産物を出すだろうか。*そうではない。地の面を新しくし、それをその産物で覆うことは春の数週間のわざである。ある者たちはこれを次の節と同じ意味に読む。地が一日で産み出されるだろうか、あるいは一つの国が一瞬に生まれるだろうか。一人の女が一度の出産で一国を満たすのに十分な子どもを産み、彼らが瞬時に成年に達すると想像できるか。否。これに似たことは創造のときになされたが、神はその後そのようなわざをすべて休まれ、第二次的原因が漸次その結果を生み出すに任せられた。Nihil facit per saltum——神は突飛なことはなさらない。しかしこの場合、シオンが産みの苦しみをするとすぐに産んだ。キュロスの勅令が出されるや否や、捕囚の民は一つの群体に形成され、自分たちの地へ向かって最善を尽くして出発する準備ができた。そしてその理由が与えられる(Isa 66:9)。それは主のわざであり、神のわざは完全だからである。神がご自分の民を救いのために備えるにおいて誕生させるなら、救いを成就するにおいて産ませるであろう。すべてが彼らの解放のために熟し準備され、彼らの月数が満ちて、子どもたちが誕生の時に達したとき、*産む力を与えず、*母と子を最も惨めな状態で共に滅びさせるだろうか。これが神のあわれみとどう合致するか。わざを始めてそれを貫徹しないのだろうか。それが神の力と完全さとどう合致するか。私が産ませる者であって、(次の節はこう読める)*私は彼女を閉じるだろうか。*神が人類とすべての生き物の種類を繁殖させ、地を満たさせながら、*シオンを閉じるのだろうか。*教会を満たす祝福された子孫においてシオンを多産にさせないのだろうか。あるいは、私が誕生させた者であって、産ませないように閉じるのか。神がその目的と約束においてその救いを誕生させたのに、その成就と実現において産ませないのだろうか。しかしこれは世にキリストの教会を立て、イエス・キリストの名に由来すると名づけられるその家族を子どもで満たすことの象徴であった。御霊が注がれ、福音がシオンから出たとき、その膨大な産物に比べて、短い時のうちに、わずかな労力で無数の人々が回心した。使徒たちは産みの苦しみをする前に産んだ。キリストに生まれた子どもたちはそれほど多く、それほど突然容易にもたらされたので、彼らは母の胎から生まれた息子というよりは、むしろ朝の胎から生まれた露のようであった(Ps 110:3)。福音の成功は驚くべきものであった。その光は朝のように不思議に広がり、ついに地の果てをもとらえた。町々や国々が一度にキリストに生まれた。御霊が注がれたその同じ日に、三千の魂が教会に加えられた。そしてこの栄光あるわざが一度始められると、想像を超えて驚くべき仕方で進められた。*神のことばがそのように力強く成長し、勢いを得た。*罪の確信において誕生させた方が、神への徹底的な回心において産ませられた。

IV. 彼らの現在の悲しみが間もなく豊かな喜びに変えられることを知らせよ(Isa 66:10,11)。観察せよ。 1. 教会の友人たちがどのように描写されるか。彼らは彼女を愛し、彼女と共に、また彼女のために嘆く者たちである。銘記せよ。神を愛するすべての者はエルサレムを愛する。彼らは神の教会を愛し、その利益を心の非常に近くに置く。彼らは教会の美しさを慕い、それとの交わりを喜び、心からその大義を受け入れる。そして教会に対して真の愛着を持つ者たちは、教会が戦う状態にあるすべての思いと悲しみに心からの同情を持つ。彼らは教会のために嘆く。教会のすべての苦悩が彼らの悲しみである。エルサレムが苦難の中にあるなら、彼らの琴は柳の木に掛けられる。 2. 彼らがどのように励まされるか。彼女と共に喜べ、そして繰り返し私は言う、喜べ。これはエルサレムが喜ぶ理由を持つことを暗示する。彼女の嘆く日々は終わり、彼女が苦しんだ時に比例して慰められるであろう。彼女のすべての友人が彼女の喜びに共に加わることが神のみこころである。彼らは彼女の喜びの理由となる祝福を彼女と共に分かち合うからである。私たちがキリストと共に苦しみを受け、その教会と共に悲しむなら、私たちは神と共に治め、彼女と共に喜ぶであろう。ここで私たちは呼ばれる。(1.) 教会の賛美にあずかるように。「来たれ、彼女と共に喜べ、彼女と共に喜びのうちに楽しみを得よ。大いに喜べ、喜んで、なぜ喜ぶかを知って喜べ、公の感謝のために定められた日に喜べ。彼女の悲しみの中で彼女のために嘆いたあなたがたは、同じ原則から彼女の喜びの中で彼女と共に喜ばずにはいられない。」(2.) 教会の慰めにあずかるように。私たちはその慰めの乳を吸い、満ち足りなければならない。神のことば、恵みの契約(特にその契約の約束)、神の規定、そして神に仕え神と交わるすべての機会は、教会がその慰めの乳と呼び、みなす乳である。そこにその慰めが蓄えられ、そこから信仰と祈りによって汲み上げられる。それゆえに私たちは彼女と共にこの乳から吸わなければならない。神の約束を自分自身に適用し、神の規定に勤しく参加することによって。そしてここから汲み上げられた慰めをもって満ち足り、地の慰めがどんなに少なくても不満としてはならない。教会が主をその神として持つこと、子としての身分と神への奉仕が彼女に属することが教会の栄光であり、私たちはこの栄光の豊かさによって喜ばなければならない。私たちは神との関係と神との交わりを、人の子らや娘らのすべての楽しみよりも喜ばなければならない。何であれ教会の栄光であるものは、特に教会の純潔、一致、成長は、必ず私たちの栄光と喜びでなければならない。

V. 彼らに喜ぶようこの招きを与えられる方が、彼らにそうする理由とそうする心を与えられることを知らせよ(Isa 66:12-14)。

1. 神は彼らにそうする理由を与えられる。(1.) 彼らは長く途切れない繁栄の過程を楽しむであろう。私は彼女に平安を(すなわちすべての良いものを彼女に)川のように延べる、あるいは延ばしている。その川は絶え間ない流れとして流れ、海に呑み込まれるまで増し続ける。福音はその力において受け入れられるところどこでも、このような平安をもたらす。その平安は川のように流れ、川がその流れる地にそうするように、魂にすべての良いものを供給し、彼らを実らせる。それは世の慰めの泉が送り出すことも、世の悩みの堤防が塞いだり、逆流させたり、その砂が吸い込むこともできない平安の川であり、限りなく終わりのない至福の海へと私たちを運ぶそのような平安の川である。(2.) 彼らに大いなる有益な付加がなされるであろう。異邦人の栄光が流れる小川のように彼らに来る。異邦人の回心者たちが教会に注ぎ込み、彼女の平安と繁栄の川を膨らませる。彼らがその栄光を携えて来るからである。彼らの富と誉れ、彼らの権力と影響力がすべて神への奉仕に捧げられ、教会の益のために用いられるであろう。「そのときあなたがたはその慰めの乳を吸うであろう。あなたがたがそのような慰めに分け前を得ようと群がるのを見るとき、あなたがたは自分の分を確保しようと、いっそう切実に、いっそう力強く努めるであろう。他の人々が入ってきてキリストにあずかることで自分たちが少なくなることを恐れるからではなく」(その危険はない。神はすべてに十分であり、各人に十分である)、「むしろ彼らの熱心があなたがたを聖なるねたみへと駆り立てるからである。」それがそうなるとき、良いことである(Ro 11:14, 2Co 9:2)。(3.) すべてにおいて神が栄光を受けられる。それが他の何よりも私たちの喜びの理由となるべきである(Isa 66:14)。主の御手はそのしもべたちに向かって知られる。すなわちその全能の力の保護し支える御手と、その尽きぬ善良さの供給し豊かにする御手。そのしもべたちがこの両方によって受ける益は、彼らの栄光のためだけでなく神の栄光のためにも知られるであろう。そしてこれをいっそう輝かしいものとするために、神は同時にその敵に向かってのその憤りを知らせられる。神の mercy と公正の両方が現れ、永遠に高く上げられる。

2. 神は彼らに喜ぶ理由を与えるだけでなく、彼らに慰めを語り、彼らの心に語りかけられる。それができるのは神だけであり、それをそこにしっかりととどめることができるのも神だけである。シオンのすべての子たちのために慰めのために何をされるかを見よ。(1.) 彼らの国が彼らの優しい乳母となる。あなたがたは彼女の脇に、その腕の下に、幼子がそうするように抱かれ、*彼女のひざの上で揺られる。特に疲れ、機嫌が悪く、眠らせなければならないとき、愛児がそうするように。教会に加えられた者たちはこのように愛情ある扱いを受けなければならない。大牧者は小さい羊をその腕に集め、そのふところに抱かれる。*下級の牧者たちもそうしなければならない。そうして小さい羊たちが落胆しないように。回心者たちは愛される者とならなければならない。(2.) 神ご自身が彼らの力強い慰め主となる。*母がその子を慰めるように、*その子が病んだり傷ついたり、何らかの理由で悲しみの中にあるとき、*私があなたがたを慰める。*思慮深い父が用いる合理的な論拝だけでなく、愛する母の優しい愛着と同情をもって。その母は自分の苦しんでいる子が転んで傷ついたとき、それをあわれみ、なだめ、楽にし、あるいは叱って喧嘩した後にそれを鎮めようと努める(Jer 31:20)。*私が彼を責めて語るたびに、私の内臓は彼のために痛む。彼は愛すべき子、喜ばしい子である。母はこのように慰める。このようにあなたがたはエルサレムで慰められる。*すなわちあなたがたが共にあずかる教会に与えられた恵みの中で、またあなたがたが共にする教会が捧げる感謝の中で。(3.) 彼らはこの慰めの祝福された効果を自分の魂の中に感じる(Isa 66:13)。*あなたがたがこれを、すなわち教会が回復されたその幸福な状態を見るとき、*あなたがたの舌と顔つきだけでなく、*あなたがたの心が喜ぶ。*これはキリストの弟子たちがその奉仕の成功において得た驚くべき満足の中で成就した。キリストはそれを念頭に置いて彼らに言われた(Joh 16:22)。*あなたがたの心は喜び、あなたがたの喜びをだれも奪い取らない。*そのとき枯れて衰えていた(その髄が完全に枯渇していた)あなたがたの骨が若さの力と活気を回復し、*草のように茂る。*神の慰めは内なる人にまで及ぶ。それは骨の髄であり、潤いである(Pr 3:8)。骨はからだの力である。それがこれらの慰めによって茂るであろう。主を喜ぶことはあなたがたの力である(Ne 8:10)。

Isaiah 66章 15-24 Matthew Henry's Complete Commentary

Divine Judgment; Judgment and Mercy; The Enlargement of the Church (706 BC)

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神の裁き;裁きとあわれみ;教会の拡大(紀元前706年)

¹⁵ 見よ、主は火と共に来られ、その戦車はつむじ風のようである。激しい怒りをもってその憤りを注ぎ、炎をもってその責めを加えられる。
¹⁶ 主は火とその剣によってすべての肉なる者と争われる。主に殺される者は多い。
¹⁷ 園々の中、その真ん中にある一つの木の後ろで身をきよめ、身を浄める者たち、豚の肉と忌むべきものとねずみを食べる者たちは、共に滅ぼし尽くされる、と主は言われる。
¹⁸ わたしは彼らのわざと彼らの思いを知っている。時が来れば、わたしはすべての国々と舌を集める。彼らは来てわたしの栄光を見る。
¹⁹ わたしは彼らの中に一つのしるしを立て、彼らの中のがれた者たちを国々のうちに、すなわち弓を引くタルシシュ、プル、ルドに、すなわちトバルとヤワンに、すなわちわたしの名声を聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない遠くの島々に遣わす。彼らは異邦人の中でわたしの栄光を宣べ伝える。
²⁰ 彼らはすべての国々の中からあなたがたのすべての兄弟を馬と戦車と駕籠と騾馬と速い獣に乗せて、主への供え物として、わたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。イスラエルの子らがきよい器に供え物を入れて主の宮に持って来るように。
²¹ わたしはまた彼らの中から祭司とまたレビ人として選び取る、と主は言われる。
²² わたしが造る新しい天と新しい地がわたしの前に常にあるように、あなたがたの子孫とあなたがたの名は常にある、と主は言われる。
²³ そしてこうなる。すなわち新月から新月まで、安息日から安息日まで、すべての肉なる者がわたしの前に来て礼拝する、と主は言われる。
²⁴ 彼らは出て行って、わたしに罪を犯した者たちの死体を見る。そのうじは死なず、その火も消されず、彼らはすべての肉なる者に忌み嫌われる。

これらの節は、雲と火の柱のように、神の御国の敵とその王権にそむくすべての反逆者に対しては暗い面を向け、神に忠実な臣民に対しては明るい面を向けている。おそらくこれらの節は、バビロンでの捕囚のユダヤ人たちを指している。彼らのある者たちは損なわれるためにそこに遣わされたと言われており、神はここで彼らとの論争を続けると脅される。彼らは改革されることを嫌い、それゆえ災いによって滅ぼされるであろう(Jer 24:9)。ほかの者たちは彼らの益のためにそこに遣わされ、その苦難は彼らにとって聖別され、時にはそれをよく切り抜け、その後に多くの良い日々を見るであろう。ここで用いられている多くの表現はその栄光ある経綸に合わせられている。しかし疑いなく、この預言はさらに遠く、キリストがかつてこの世に来られ、また再び来られるその裁きと、その御言葉が両方の場合において尊いものと卑しいものとの間に設ける区別を見ている。

I. キリストはキリストに最後まで抵抗するすべての者の混乱と恐怖となるために現れる。時には神は現世的な裁きにおいて現れる。不信仰を固守したユダヤ人は火によってまたその剣によって断ち切られた。その滅亡は非常に広範であった。その時主はすべての肉なる者と争われ、彼らが断ち切られたのは神の剣であったので、彼らは神の正義に献げられた主に殺された者と呼ばれ、多い。大いなる日に神の怒りは神の火と剣となり、それをもって悔いないすべての者を断ち切り、滅ぼし尽くされる。また神の御言葉は罪人の良心を捉える時、火のように燃え上がり、どんな両刃の剣よりも鋭い。怒りの日には特に偶像礼拝者たちが取り扱われる(Isa 66:17)。おそらくバビロンから帰還した者たちの中には、ここに言及されるような偶像礼拝と迷信の事例をそのまま留めていた者たちがいた。彼らの園に偶像を置き(あえて高き所に公に立てられなかった)、そこで偶像礼拝の儀式を行う時、一人一人順番に、あるいは私たちが読むようにその真ん中にある一つの木の後ろで、すなわち彼らがその名で拝んでいた偶像であるアハドあるいはエハドの後ろで(まことの神の礼拝者が常にそうしたように)身を浄め、その偶像を記念して(神の律法で明確に禁じられた)豚の肉とねずみのような、あるいはそれに似たほかの獣のようなほかの忌むべきものを食べたであろう。しかしこの預言は、神を軽蔑して生き、世と肉に身を捧げて神を怒らせる罪人に、神の御言葉に従って神の怒りがをもたらすすべての裁きを指すこともできる。彼らは共に滅ぼし尽くされる。私たちは天の幸福からすべての偶像礼拝者と忌むべきことを行うすべての者が明確に除外されているのを見る(Re 21:27,22:15)。報復の日には隠された悪が光に引き出され、その責任を問われる。(Isa 66:18)わたしは彼らのわざと彼らの思いを知っているからである。神は人々が何をするかだけでなく、どのような原理からどのような意図で行うかも知っておられ、それゆえ人々の隠れた事を裁くことができるので、世を裁くのにふさわしい(Ro 2:16)。

II. 神はこの世に神の国、すなわち恵みの国であり栄光の国の証印であり初穂であるその国を立てるにおいて、神に忠実なすべての者の慰めと喜びとなるために現れる。神がすべての国々と舌を御自身に集め、彼らがイエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を見るようになる時が来る(Isa 66:18)。これはすべての国々が弟子とされ、そのために異言の賜物が与えられた時に成就した。教会はそれまで一つの民族に限られ、ただ一つの言語でのみ神が礼拝されていた。しかしメシアの時にはその隔ての壁が取り壊され、神に異邦人であった者たちが神を知るようになり、ユダヤ人が聖所で神の栄光を見たように、福音の中で神の栄光を見るようになる。これに関してここで約束される、

1. ユダヤ民族のある者たちが、神の恵みによって残りの者たちから区別され、救いのために印づけられる。わたしは彼らの中に異邦人が求めて来る集めの旗を立てるだけでなく(Isa 11:12で約束されたように)、彼らの中にわたしが区別のしるしを置く者たちがいるであろう。その言葉はそういう意味であるから。彼らが腐敗し堕落した民族であっても、神は彼らの中の残りの者を取り分け、神に捧げ神のために用いられるようにし、彼らに印を置かれる。それほど確かに神は彼らを神のものとして認められる(Eze 9:4)。神のしもべたちはその額に封印される(Re 7:3)。主はご自身のものを知っておられる。キリストの羊には印が押されている。

2. このように神の恵みによって区別された者たち自身が、他の者たちを招いて来てその恵みの益を受けさせる任務を受ける。その民族の大多数を不信仰に留めている偏見の力からのがれた者たちが、国々に遣わされ、彼らの中に福音を携え、すべての造られたものにそれを宣べ伝える。見よ、来るべき怒からのがれた者たちは、燃えさかる火から切り出された木のように、他の者たちをも救い出すためにできるすべてをすべきである。神はご自身の使いとして、そのメッセージを心から、また体験的に伝えることができ、自らその危険をかろうじてのがれた者として、罪による人々の危険を警告できる者たちを遣わすことを選ばれる。

(1.) 彼らは国々に遣わされる。そのうちのいくつかがここでタルシシュ、プル、ルドなどとして名指しされる。ここでどの国々が意図されているかは不確実であり、解釈者たちも意見が一致しない。タルシシュは一般に海を意味するが、ある者たちはキリキアのタルソスとみなす。プルは時折アッシリヤの王たちの一人の名として言及される。おそらくその国のある地域も同じ名を帯びていた。ルドは弓術で名高い好戦的な民族リディアとみなされる。リディア人は弓を扱い引き絞ると言われる(Jer 46:9)。トバルは、ある者たちが考えるにはイタリアかスペインであり、ヤワンはほとんどがギリシャ、すなわちイオニア人と同意する。またヤペテの子孫が住んだ(Ge 10:5)異邦人の島々が、おそらくここでわたしの名声を聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない遠くの島々として意図されている。ただユダにおいてのみ神は知られ、そこでだけ神の御名は多くの世代の間、大いなるものであった。他の国々は暗闇の中に座し、喜ばしい音を聞かず、喜ばしい光を見なかった。彼らのこの嘆かわしい状態がここであわれみをもって語られているようである。人の子のうちのだれ一人、造り主からそれほど遠く離れ、神の御名を聞かず、神の栄光を見ないことは惜しいことだからである。これを考慮して、

(2.) 国々に遣わされた者たちは神の使いを帯びて行き、異邦人の中で神の栄光を宣べ伝える。国々の中に散らされたユダヤ人が、彼らの民族に関する神の摂理の栄光をずっと宣べ伝え、また神の定めの中で彼らの中に現れた神の栄光によって、多くの者が彼らと加わるよう招かれる。国々のすべての言語から出たある者たちがユダヤ人となった者の衣のすそを握り、彼に自分たちに目を留め、自分たちをその仲間に入れ、準備ができるまで少し待ってくれるよう懇願し、『神があなたがたと共におられることを聞いたので、わたしたちはあなたがたと共に行こう』と言うであろう(Zec 8:23)。このように神の栄光は異邦人の中に一部宣べ伝えられた。しかし使徒たちと福音の初期の宣教者たちによってより明確に、また完全に宣べ伝えられた。彼らは幸いなる神の栄光ある福音を宣べ伝えるために全世界に、遠くの島々にまで遣わされた。彼らは出て行って至る所で宣べ伝え、主が彼らと共に働かれた(Mk 16:20)。

3. これによって多くの回心者が生じる(Isa 66:20)。

(1.) 彼らはあなたがたのすべての兄弟を(改宗者は兄弟として認められ受け入れられるべきであるから)主への供え物として連れて来る。神の栄光は彼らに無駄に宣べ伝えられず、彼らは主に加わるように招かれ、導かれる。彼らに遣わされた者たちがその交渉で非常に成功し、それによって国中のあらゆる所からすべての男子が空の手で現れずにそこに集まった、厳かな祭の時に常にそうであったように、エルサレムに大群衆が押し寄せるようになる。見よ。[1.] 彼らが来るために備えられる便宜。ある者たちは馬に乗って来る。彼らは遠くから来たので、ユダヤ人が祭に通常したように歩いて来るには旅が長すぎた。身分の高い人々は戦車で来る。老人、病気の者、小さな子供たちは駕籠や覆いのある車で運ばれ、若い人々は騾馬と速い獣に乗って来る。これは彼らが来ようとする熱心と積極性を示す。彼らはエルサレムに至るために労力も費用も惜しまない。馬に乗れない者は駕籠で来る。彼らは非常に急ぎ、遅れに耐えられないので、乗れる者は騾馬と速い獣に乗る。これらの表現は比喩的であり、これらの様々な運搬手段が積み重ねられているのは(博学なゲイタカー氏が言うように)、神の選ばれた者たちをキリストのもとに連れて来るのに必要なすべての恵みの助けが豊かに備えられていることを示すためである。すべての者が歓迎され、彼らの助けと励ましに欠けるものは何もない。[2.] 彼らが連れて来られる身分。彼らは以前エルサレムに来たように、供え物を献げる者としてではなく、彼ら自身が主への供え物として来る。これは彼らが生きた供え物として神に献げられることを霊的に理解すべきである(Ro 12:1)。使徒はこれを説明し、おそらくこれを指している。Ro 15:16で彼は異邦人に福音を仕えること、すなわち異邦人の献げ、すなわち異邦人を供え物として献げることが受け入れられるものとなるようにと語る。彼らは自分自身を献げ、彼らの回心の器となった者たちは、キリストのために取った戦利品として、キリストの奉仕と栄光に捧げられた者として彼らを献げる。彼らはイスラエルの子らがきよい器に供え物を入れて持って来るように連れて来られる。彼らがきよく、罪から浄められ、神に聖別されるように大いに注意が払われる。回心した異邦人について(Ac 15:9)彼らの心は信仰によってきよめられたと言われる。神に持って来られたものはすべて、宗教的な用途に区別された器、きよい器に入れられて持って来られた。神は神が定めた方法で、神ご自身が制定された定めの中で仕えられ、栄光を受けられる。それらの定めがこれらの霊的供え物のための適切な器である。魂が神に献げられる時、体はそれを入れるきよい器でなければならない。不潔の情欲ではなく、聖別と誉れをもって持つ(1Th 4:4,5)。キリストに回心した者たちは悪い良心からきよめられるだけでなく、その体もきよい水で洗われる(Heb 10:22)。さて、

(2.) これは次を指すことができる。[1.] メシアの国が現れることを期待して天の下のあらゆる国からエルサレムに共に集まったユダヤ人、敬虔な人たち、改宗者たち(Ac 2:5,6,10)。彼らはあらゆる所から主への供え物として聖なるエルサレムの山に来て、そこで彼らの多くが使徒たちに注がれた異言の賜物によってキリストを信じる信仰に導かれた。あの歴史とこの預言の間にはある対応があるように思われる。あの宦官もしばらく後に自分の戦車でエルサレムに礼拝に来て、キリストとそのきよい宗教に関する知識を持って帰った。[2.] キリストに回心してその教会に加えられる、すべての国々の中の一部である異邦人たち。これは霊的な加えであるが、預言ではしばしば場所の移動で表される。使徒はすべてのまことのクリスチャンについて、彼らがシオンの山と天のエルサレムに来たと言う(Heb 12:22)。これはこの箇所を説明し、このすべての行列の意味が、ただ彼らが神の恵みによって、またその恵みの手段を用いることによって、戦車や駕籠で運ばれるかのように注意深く、安全に、快適に教会に連れて来られるということであることを示す。このように神はヤペテを説き伏せ、彼はセムの天幕に住む(Ge 9:27)。

4. 教会がこのようにこれほど多くの会員の追加によって拡大されるに従い、その教会に福音の務めが立てられる(Isa 66:21)。わたしは彼らの中から(改宗者たち、異邦人の回心者たちの中から)選んで祭司とレビ人とする。聖なる事に仕え、彼らの宗教的集会を主宰させる。これは教理と礼拝と規律のために非常に必要である。これまで祭司とレビ人はすべてユダヤ人の中から選ばれ、すべて一つの部族に属していた。しかし福音の時代には、神は回心した異邦人の中から選んで聖なる事をもって神に仕えさせ、人々を教えさせ、主の御名によって彼らを祝福させ、律法の下での祭司とレビ人がそうであったように神の秘儀の執事とさせ、牧師と教師(あるいは監督)として御言葉と祈りに専念させ、執事として食卓に奉仕させ、レビ人のように神の家の外の務めを世話させる(Php 1:1, Ac 6:2-4)。使徒たちはすべてユダヤ人であり、七十人の弟子たちも同様であった。異邦人の大いなる使徒自身もヘブル人の中のヘブル人であった。しかし異邦人の中に教会が植えられた時、彼ら自身の中から、各教会の長老たちから成る務め者たちが任職された(Ac 14:23, Tit 1:5)。これは務めがより容易に広まり、より親しみやすくなり、より尊崇されなくてもより受け入れられるようにした。福音の恵みが、預言者が自分の国で尊崇を受けないようにしたその腐敗から人々をいやすことが期待された。神はわたしは選ぶと言われるが、彼らすべてを選ぶとは言われない。彼らがすべて霊的な意味で私たちの神にとって王と祭司とされたにもかかわらず。彼らの中から、すなわちその一部を選ぶ。務め者に任職を与えて務め者とするだけでなく、その奉仕にふさわしい資格を与え、その方へ心を傾けて務め者を選ぶことも本来神のわざである。わたしは彼らを選ぶ、すなわちたとえ異邦人であっても、わたしは彼らを受け入れ、彼らと彼らの奉仕を受け入れる。これは異邦人の教会にとって大いなる誉れであり、益である。神がイスラエルの子らの中から預言者を起こし、その若者たちの中からナジル人を起こしたことがユダヤの教会にとってそうであったように(Am 2:11)。

5. 教会と務めがこのように定着した後、一つの世代から次の世代へと継承されて続けられ、保たれる(Isa 66:22)。メシアの国が立てられることによってもたらされる変化はここで次のように描写される。(1.) 非常に大きく普遍的な変化である。それは新しい世界、前に約束された新しい天と新しい地となる(Isa 65:17)。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった(2Co 5:17)。特殊性の古い契約は廃され、新しい契約、恵みの契約が確立された(Heb 8:13)。私たちは今や文字の古さではなく、御霊の新しさによって仕える(Ro 7:6)。天と地の両方に関する新しい戒めが与えられ、両方に関する新しい約束が与えられ、この両者が共に新約をなす。それゆえそれらは神が創造される新しい天と新しい地であり、これらは終わりの時に予定された新しい天と新しい地のための準備である(2Pe 3:13)。(2.) 神ご自身のなされる変化である。神が新しい天と新しい地を創造される。その変化は新しい世界を造る力だけでなく、新しい定めを制定する権威を持つ方によってなされた。(3.) それは持続的で恒久的な変化、決して変えられない変化、常に新しく決して古びない新しい世界となる。消えようとするものが古びるのとは異なる。それはわたしの前に変わらずある。福音の経綸は時の終わりまで続けられ、他の何ものにも取って代わられないからである。キリストの国は揺り動かされない国であり、その律法と特権は揺り動かされないものであり、とこしえに存続する(Heb 12:27,28)。それゆえ存続する。神の前にあるからである。神の目と配慮と特別な保護の下にある。(4.) それはキリストに仕える子孫の中で維持される。あなたがたの子孫、そして彼らの中であなたがたの名がある。務め者の子孫、クリスチャンの子孫。その両方の一つの世代が過ぎ去れば、もう一つの世代が来る。このようにキリストの御名がクリスチャンの御名と共に、地のある間は地の上に続き、その王座は天の日々のようである。陰府の門がたとえ教会と戦っても勝つことはなく、いと高き方の聖徒たちをすり減らすこともない。

6. このように主への供え物として連れて来られたすべての者が、宗教的集会において神への公の礼拝に注意深く絶えず出席する(Isa 66:23)。これは旧約の経綸にふさわしい表現で描写され、儀式律法が廃止され、宮の奉仕が終わっても、神が依然として以前と同様に規則正しく、絶えず、受け入れられるように礼拝されることを示す。以前はただユダヤ人だけが神の前に現れるために上り、彼らは一年に三度だけ、しかも男子だけが出席するよう拘束されていた。しかし今はすべての肉なる者が、ユダヤ人だけでなく異邦人も、男子だけでなく女子も、来て神の前に礼拝する。エルサレムの神の宮においてではなく、全世界に散らばった宗教的集会において神の臨在の中でそうする。その集会は彼らにとって会見の天幕がユダヤ人にとってであったようである。神はそれらの集会の中に御名を記される。たとえ二人や三人が集まるだけでも、神は彼らの中にいて、彼らに会い、彼らを祝福される。そして彼らは以前のように年に三度の祭だけでなく、すべての新月とすべての安息日に、頻繁にこれらの聖なる集会の益を享受する。かつての宮のような一つの定められた場所は必要ない。キリストが私たちの宮であり、その中にすべての信者が信仰によって集まる。今や教会がこれほど遠くまで拡大されたので、すべてが一つの場所に集まることは不可能である。しかし定められた時が指定されるのはふさわしい。それは礼拝が確実に頻繁に行われるようにし、それによってすべてのクリスチャンの集会が信仰と希望ときよい愛によって互いに享受する霊的交わりのしるしを与えるためである。新月と安息日が言及されるのは、律法の下では年次の祭はエルサレムで祝われなければならなかったが、新月と安息日は最初預言者の学校で、後に会堂で国中至る所で敬虔に守られたからである(2Ki 4:23, Am 8:5, Ac 15:21)。その模型に従ってキリスト教の集会が形成されたようである。主の日が毎週聖別され、主の晩餐が毎月行われ、両者が正当に出席される所で、この約束が成就し、そこでクリスチャンの新月と安息日が守られる。ここで見よ。(1.) 神は厳粛な集会で礼拝されるべきであり、機会のある限りその集会で神に仕えることがすべての者の義務である。*すべての肉なる者が来なければならない。*たとえ肉が弱く、腐敗し、罪があっても、その肉が殺されるように彼らを来させよ。(2.) 神を礼拝する時、私たちは神の前に自分自身を献げ、特別な仕方で神の臨在の中にいる。(3.) これを行うために定められた時があるべきであり、またある。そして私たちがこれらの時を絶えず、また良心に従って守ることが私たちの義務であるだけでなく益であることを知らなければならない。

7. 不信仰と不敬虔を固守し、その中で滅びる者たちの恐るべき運命と滅亡を考えることによって、神が彼らに与えられた区別の恵みに対する彼らの感謝の思いが大いに増し加わる(Isa 66:24)。万軍の主を礼拝し、その家の善さの中で神の前に喜んでいた者たちは、自分たちの幸福をより深く実感するために、悪人たちの惨めさを眺める。見よ。(1.) ここでその惨めさが描写されている者たちはだれか。彼らは神に罪を犯した人々である。神の律法を破っただけでなく、神との契約を破り、神と争うことができると思った者たち。これは特にキリストの福音を拒んだ不信仰のユダヤ人たちを指す。(2.) 彼らの惨めさは何か。それはここで、殺された者たちの死体で覆われた戦場の恐ろしい光景で表される。その死体は地の上に腐って横たわり、それらの上を這い回り食ううじで満ちている。そしてそれらを焼こうとすれば、それらはあまりにも散らばっており、一か所に集めるのは非常に不快なわざで終わりがなく、火は決して消えない。こうして彼らはすべての肉なる者に忌み嫌われ、だれもそれらに近づこうとしない。さて、これは時折現世的な裁きにおいて成就する。おそらくローマ人によるエルサレムとユダヤ民族の滅亡においてよりも文字に近かったことはない。その滅亡において初めから終わりまで二百万人以上が剣で断ち切られたと計算される。これは飢饉と疫病で死んだ者を除いた数である。これはまた不信仰のユダヤ人たちに臨んだ霊的裁きを指すこともできる。パウロがそれを見て私たちに示す(Ro 11:8等)。彼らは罪の中で死んだ者、二度死んだ者となった。ユダヤ人の教会は教会の死体であり、そのすべての会員が腐った死体であった。彼らのうじは死なず、彼ら自身の良心が彼らを絶えず不安にし、福音に対する彼らの怒りの火は消えなかった。これは彼らの刑罰であると同時に彼らの罪であった。そして彼らは太陽の下のいかなる民族よりもすべての肉なる者に忌み嫌われるようになった。しかし私たちの救い主はこれを後の状態における悔いない罪人たちの永遠の惨めさと苦しみに適用される。そこでは彼らのうじは死なず、彼らの火は消されない(Mk 9:44)。良心が絶えず苦しめる者であるその魂は不死であり、怒りが絶えず恐れさせる方である神は永遠であるから。(3.) それにどのような注目がなされるか。神を礼拝する者たちは出て行って彼らを見る。自分たちがどのような惨めさから贖われたかを見る時、自分たちの贖い主の愛をもって自分の心を感動させるためである。他の者たちが天の国におり自分たちは追い出されたのを見ることが、滅ぼされた者たちの惨めさを加重するように(Lu 13:28)、自分たちの罪過の中で死んだ者たちがどうなるかを見ることは、祝福された者たちの喜びと栄光を明らかにする。そして自分たち自身がその火から引き出された焦げた木であったことを思うことは、彼らの賛美を高める。このように彼らを区別されたその無代価の恵みの栄光のために、主に贖われた者たちに、すべての謙遜をもって、またきよいおののきを伴って、その勝利の歌を歌わせよ。