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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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John 20章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

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この福音書記者は、他の者たちがそうしたようには自分の福音書を始めなかったが、彼らがそうしたように、キリストの復活の歴史をもってこれを結ぶ。事柄そのものについてではなく、彼らのだれも彼がどのようによみがえられたかを描写しないが、彼がよみがえられたことを示した証拠と証明について。本章で私たちが持つキリストの復活の証拠は次のとおりである。一、墓ですぐに生じたもの。1. 墓が空であることが見いだされ、納骨布が整然としていたこと(ヨハネ 20:1-10)。2. 二人の御使いが墓でマグダラのマリヤに現れたこと(ヨハネ 20:11-13)。3. キリストご自身が彼女に現れたこと(ヨハネ 20:14-18)。二、その後使徒たちの集まりで生じたもの。1. 一つには、キリストがよみがえられたその日の夕方、トマスが不在のとき(ヨハネ 20:19-25)。2. もう一つには、八日後のその日、トマスが共にいたとき(ヨハネ 20:26-31)。ここで語られる事がらは、主として他の福音書記者たちが省いたものである。

John 20章 1-10 Matthew Henry's Complete Commentary

The Resurrection

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復活

¹週の初めの日、マグダラのマリヤは、まだ暗いうちに早く墓に来た。そして石が墓から取りのけられているのを見た。 ²そこで彼女は走って、シモン・ペテロ、またイエスが愛されたもうひとりの弟子のところに来て、彼らに言った。「主が墓から取り去られました。どこに置かれたのか、私たちは知りません」。 ³そこでペテロとそのもうひとりの弟子は出て行き、墓に向かった。 ⁴ふたりは共に走った。しかし、もうひとりの弟子がペテロよりも速く走って、先に墓に着いた。 ⁵そして身をかがめてのぞき込むと、亜麻布が置かれているのを見た。しかし中には入らなかった。 ⁶続いてシモン・ペテロもやって来て、墓に入り、亜麻布が置かれているのを見た。 ⁷また、イエスの頭に巻いてあった布は、亜麻布と一緒に置かずに、別の場所に巻かれて置かれているのを見た。 ⁸その時、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来て、見て、信じた。 ⁹彼らはまだ、イエスは死んだ者の中からよみがえらなければならないという聖書の言葉を知らなかったからである。 ¹⁰それから弟子たちは、自分たちのところへ帰って行った。

使徒たちが確固たる証拠を提示することにこれほど関心を持った事は、その主人の復活について他のいかなることにもましてであった。1. それが彼ご自身が、ご自身がメシヤであることの最後で最も説得力ある証拠として訴えられたものだから。他のしるしを信じない者たちは、預言者ヨナのこのしるしにゆだねられた。それゆえに敵たちはこの告知をもみ消すことに最も熱心であった。この事がこの問題にかけられていたからである。もし彼がよみがえったなら、彼らは単なる殺人者ではなく、メシヤの殺人者となる。2. それが、わたしたちの贖いと救いのために彼が行った引き受けの成就に依存していたから。彼がそのいのちを贖いとして与え、それを再び取らないなら、その提供が満足として受け入れられたとは現れない。もし彼がわたしたちの負債のために投獄され、そのまま横たわるなら、わたしたちは破滅する(Ⅰコリ 15:17)。3. 彼がその復活の後、すべての民に生きていることを示されなかったからである(使 10:40、41)。わたしたちなら言うであろう。「その恥ずべき死は私的に、その栄光ある復活は公にさせよう」と。しかし神の思いはわたしたちの思いではない。神はそれをそのように定められた。その死は太陽の前で公なものと。太陽がそれに恥じて顔を隠したことによって。しかし復活の実証は、特定の友人たちへの恵みとして取っておかれ、彼らによって世に公表される。それによって見ないで信じた者が祝福されるためである。証明の方法は、キリストの教えと律法を敬虔に受け入れる気質のある者には十分な満足を与え、また故意に無知で不信仰において頑強な者には異議を唱える余地を残す。そしてこれは公平な試みであり、見習いの者たちの場合にふさわしい。

ヨハ 20:1-10に、キリストの復活の証明への第一歩がある。墓が空であることが見いだされたことである。ここにはおられない。もしそうなら、彼がどこにいるかを言わなければならない。さもなければよみがえったと結論する。

一. マグダラのマリヤが墓に来て、石が取りのけられているのを見いだした。この福音記者はマグダラのマリヤと共に行ったほかの女たちに言及しない。ここだけに。彼女がこの墓への訪問において最も活動的で先駆的であり、彼女に最も愛情が現れていたからである。そしてそれはキリストが彼女のためにされた大いなる事の考慮において、良い原因によって点火された愛情であった。多くが赦されたので、彼女は多く愛した。彼女は彼が生きておられた時、その愛情を示した。その教えに従い、その持ち物で彼に仕えた(ルカ 8:2、3)。彼女が今エルサレムに用事があったようには見えない。ただ彼に仕えるためであった。女たちは祭りに上ることを義務づけられていなかった。おそらく彼女とほかの者たちは、今や自分たちの主人が間もなく自分たちの頭から取り去られることを知って、エリシャがエリヤにしたように、いっそう密接に彼に従った(Ⅱ列 2:1-6)。その死の後も続いた彼女への敬意の実例は、彼女の愛の誠実さを証明する。注。キリストへの愛は、心からのものであれば、絶え間ないものである。彼女のキリストへの愛は死のように強く、十字架の死のように。それはそれに寄り添ったから。墓のように残酷で。それはそれを訪ね、その恐れにひるまなかったから。

1. 彼女は墓に来た。その涙で死んだからだを洗うために。彼女は墓に行って、そこで泣くためであり、備えた香油で塗るためであった。墓は人々が訪問することを気にしない家である。死んだ者の中で自由な者は生ける者から離されている。その墓をわたしたちにいとおしくさせるのは、その人への並々ならぬ愛情でなければならない。特に弱くて臆病な性にとっては恐ろしい。石を転がして取りのけるほどの力もない彼女が、墓に入るほどの落ち着きを持ち得たか。ユダヤ人の宗教は、墓と死体に必要以上に関わることを禁じた。キリストの墓を訪問することで、彼女は、おそらく弟子たちをも、彼を盗み出す企みの疑いにさらした。そしてそれによって彼にどんな現実の奉仕ができたか。しかし彼女の愛はこれらの、また千のそのような異議に答える。注。(1) わたしたちは、まだキリストに益をもたらせない事において、キリストに誉れを帰するよう努めなければならない。(2) キリストへの愛は、死と墓の恐怖を取り除く。もしその暗い谷を通らなければキリストに来られないとしても、その中でも、彼を愛するなら、悪を恐れない。

2. 彼女はできるだけ早く来た。なぜなら彼女は、(1) 週の初めの日に、安息日が終わるとすぐに来た。穀物を売り、小麦を並べるため(アモ 8:5のように)ではなく、墓にいるために。キリストを愛する者は、自分の敬意を証明する最初の機会を取る。これは最初のキリスト教的安息日であった。彼女はそれに応じてキリストを尋ね求めることでそれを始めた。彼女は前日を創造のわざの記念に過ごし、それゆえ休んだ。しかし今や彼女は贖いのわざを調べようとしており、それゆえキリストと十字架につけられた彼を訪問する。(2) 早く来た。まだ暗いうちに。それほど早く出発した。注。キリストを尋ね求めて見いだす者は、早く求めなければならない。すなわち、[1] 切実に求める。眠りを破るほどの配慮をもって。見失うことを恐れて早く起きる。[2] 勤勉に求める。キリストを追求するにあたり、自分と自分の安らぎを否定しなければならない。[3] 早い時に求める。自分の日々の早い時に、毎日早い時に。朝にあなたは私の声を聞かれます。このように始められた日は、良く終わる有望な道にある。まだ暗いうちにキリストを勤勉に尋ね求める者は、彼についてますます輝く光を与えられるであろう。

3. 墓の戸に転がされてあるのを見た石が取りのけられているのを見いだした。これは、(1) 彼女にとって驚きであった。彼女はほとんど期待していなかった。十字架につけられたキリストはいのちの泉である。その墓は救いの井戸の一つ。もし信仰をもってそこに来るなら、肉的な心には閉ざされた泉であっても、石が取りのけられている(創 29:10のように)のを見いだし、その慰めへの自由な出入りを得る。驚くべき慰めは、早く求める者のしばしばの励ましである。(2) 栄光ある啓示の始まりであった。主はよみがえられた。彼女は最初それをそうとは悟らなかったが。注。[1] キリストへの従順において最も絶え間なく、キリストを尋ね求めるにおいて最も勤勉な者は、神の恵みの最初で最も甘い告知を普通受ける。マグダラのマリヤはそのへり下げにおいて最後までキリストに従った。その高挙において最初に彼に出会った。[2] 神は普通、わたしたちの期待を起こし、探求を速めるために、段階的にご自身とその慰めを啓示される。

二. 石が取りのけられているのを見いだして、彼女は急いでペテロとヨハネのところに戻る。彼らはおそらく町のその端に一緒に宿を取っていた。近くに。そしてこれを知らせる。「主が墓から取り去られました。そのような立派な埋葬場所の誉れをねたんで。そしてどこに置かれたか私たちは知りません。最後の敬意を払うためにどこで彼を見いだすかも」。ここで観察せよ。1. マリヤが事を、今現れた通りに、どのように考えたか。彼女は石がなくなっているのを見、墓をのぞき、空であるのを見た。さて普通、最初に浮かぶ考えは、主はよみがえられたに違いない、と期待される。なぜなら彼がいつも、彼らに十字架につけられるべきことを告げた時—彼女は最近それが成就するのを見た—同じ息の中で三日目によみがえられると付け加えられたから。墓に来る、あるいは来る準備をする途中に起こった大いなる地震を彼女が感じ、今墓が空であるのを見て、なお復活の考えが彼女の心に入らなかったのか。いや、その推測、その疑いもなかったのか。石が取りのけられたことについての彼女の奇異な解釈が示すように、そうであるようである。それは非常に無理なものであった。注。雲と暗い日に自分自身のふるまいを振り返る時、後に明らかになるような考えを見逃したこと、機会が必要だった時にそれらがこれほど道から外れていたことについて、自分の鈍さと忘れっぽさに驚き立つであろう。彼女は示唆した。主が取り去られました。祭司長たちが、もっと悪い場所に置くために取り去ったのか。あるいはヨセフとニコデモが、再考の上、ユダヤ人の悪意を避けるために取り去ったのか。彼女の疑いが何であれ、からだがなくなったことは彼女にとって大いなる悩みと混乱であったようである。もしそれを正しく理解していたなら、これ以上幸いなことはなかったのに。注。弱い信者はしばしば、実際には希望の正当な根拠であり、喜びの材料であるものを、嘆きの材料とする。わたしたちはこれやあれの造られた慰めが取り去られ、それらを取り戻す方法が分からないと叫ぶ。しかし実際には、わたしたちが嘆く世的な慰めの除去は、わたしたちも喜ぶべき霊的な慰めの復活のためである。2. 彼女がペテロとヨハネにした報告。彼女は悲しみに一人でじっとしていず、友人たちにそれを知らせた。注。悲しみの共有は、聖徒たちの交わりの一つの良い用い方。観察せよ。ペテロはその主人を否んだが、主人の友人たちを見捨てなかった。これに彼の悔い改めの誠実さが現れる。彼がイエスの愛された弟子と交わっていたことによって。また、弟子たちが彼の失敗にもかかわらず、以前と同様に彼との親密さを保ったことは、過ちのあった者を柔和な霊をもって回復するよう教える。もしその悔い改めの上で神が彼らを受け入れたなら、なぜわたしたちがそうしないのか。

三. ペテロとヨハネは、告げられた事の真理を確かめ、さらに何か発見できるかを見るために、全速力で墓に行く(ヨハ 20:3、4)。ある人々は、知らせが来た時、ほかの弟子たちもペテロとヨハネと共にいたと考える。彼らがこれらのことを十一人に告げたから(ルカ 24:9)。ほかの人々は、マグダラのマリヤはその物語をペテロとヨハネにだけ告げ、ほかの女たちはほかの弟子たちに告げたと考える。しかしペテロとヨハネ以外は墓に行かなかった。彼らはキリストの弟子の最初の三人のうちの二人であり、特別な恵みによって他の者たちと区別されていた。注。弟子としての特権で他の者たちよりも誉れられる者が、弟子としての義務において他の者たちよりも活動的である時、それは良い。良いわざにおいて労し、危険を冒すことをいっそう喜んで。1. 他者の経験や観察をどのように用いるべきかを見よ。マリヤが見たことを彼らに告げた時、彼らはこの意味で彼女の言葉を取らず、自分の目で見に行った。ほかの者が儀式の慰めと益について語るなら、わたしたちはそれによって試みるよう促されるべきである。神に近づくことがいかに良いか来て見よ。2. いかに進んで友人たちの心配や恐れに分かち合うべきかを見よ。ペテロとヨハネは墓に急いだ。マリヤの嫉みに満足のいく答えを与えられるように。キリストの弱く臆病な従う者を助け、慰めるために取る労を惜しむべきでない。3. 良いわざにおいて、良い使いに行く時に、どれほど急ぐべきかを見よ。ペテロとヨハネは安らぎも威厳も顧みず、墓に走った。その熱心と愛情の強さを示し、時間を失わないために。神の戒めの道にいるなら、その道を走るべきである。4. 良いわざにおいて良い仲間を持つことがいかに良いことかを見よ。おそらくこれらの弟子のどちらも一人では墓に行く勇気がなかった。しかし共にいたのでためらわなかった。伝 4:9を見よ。5. 弟子たちの間で、どちらが良さにおいて勝るか、超えるかを競うことがいかに称賛に値するかを見よ。ヨハネが若くてもペテロを追い抜き、先に立つことは不作法ではなかった。わたしたちは最善を尽くすべきであり、より良くできる者をねたんでも、できる範囲でする者が後れても見下してはならない。(1) この競走で先頭に立ったのはイエスが愛された弟子であり、それゆえ特別な仕方でイエスを愛した者。注。キリストのわたしたちへの愛の感覚が、わたしたちに再び彼への愛を点火し、徳において勝たせる。キリストの愛は何よりもわたしたちを義務に豊かにさせる。(2) 後れを取ったのはペテロであった。彼は主人を否み、そのために悲しみと恥の中にあり、これが重荷として彼を妨げた。罪悪感はわたしたちを縛り、神への奉仕において広がるのを妨げる。良心が侵されるとわたしたちは地を失う。

四. 墓に来たペテロとヨハネは、尋ね求めを続けるが、発見においてはほとんど進まない。

1. ヨハネはマグダラのマリヤがした以上には進まなかった。(1) 墓をのぞく好奇心を持ち、それが空であるのを見た。彼は身をかがめて、のぞき込んだ。キリストの知識を見いだそうとする者は身をかがめ、のぞかなければならない。へりくだった心で神の啓示の権威に服し、じっと見なければならない。(2) しかし墓に入る勇気はなかった。最も温かい愛情が常に最も大胆な決意を伴うわけではない。宗教の競走を走ることに速い多くの者が、その戦いを戦うことに強くない。

2. ペテロは最後に来たが、最初に入り、ヨハネよりも正確な発見をした(ヨハ 20:6、7)。ヨハネが彼を追い抜いたが、それゆえ引き返したり、立ち止まったりせず、できるだけ速く彼の後を追った。そしてヨハネが慎重にのぞいている間、彼は来て、大いなる勇気をもって墓に入った。

(1) ここにペテロの大胆さと、神がその賜物を様々に分け与えられることを見よ。ヨハネはペテロを追い抜くことができたが、ペテロはヨハネを勇気においてしのぐことができた。ダビデがサウルとヨナタンについて詩的に語るように、鷲よりも速く、しかも獅子よりも強くであることが同じ人に当てはまることはまれである(Ⅱサム 1:23)。ある弟子たちは速く、彼らは遅い者を速めるのに役立つ。ほかの者は大胆であり、彼らは臆病な者を大胆にするのに役立つ。賜物の多様、しかし御霊はひとつ。ペテロの墓への冒険は教えることができる。[1] 真剣にキリストを尋ね求める者は、幽霊や愚かな空想で自分を怖がらせてはならない。「道に獅子がいる。墓に幽霊がいる」と。[2] 良いクリスチャンは墓を恐れる必要はない。キリストがその中に横たわったから。彼らにとってそこには恐ろしいものは何もない。それは滅びの穴ではなく、その中の虫は死ぬことのない虫でもない。それゆえ死んだからだを見た時、あるいは墓の中に一人でいる時に抱きがちな恐れを甘やかさず、征服しよう。そしてやがてわたしたちも死んで墓に入るのだから、死と墓を近い親族として親しんでおこう(ヨブ 17:14)。[3] 墓を通ってキリストに行くことを喜んで受けよう。その道を彼はその栄光に行き、わたしたちもそうしなければならない。もし神の御顔を見て生きることができないなら、見ないよりは死ぬ方が良い。ヨブ 19:25などを見よ。

(2) 彼が墓の中のものをどのような状態で見いだしたかを観察せよ。[1] キリストはその埋葬用の衣をそこに残された。弟子たちに現われる時どんな衣を着ておられたかは告げられていない。しかし決して埋葬用の衣で現われなかった。幽霊がすると想定されるように。いや、それらを脱ぎ捨てられた。第一に、もはや死ぬためによみがえられたのではないから。死はもはや彼を支配しない(ロマ 6:9)。ラザロは埋葬用の衣を着たままで出てきた。再びそれを使うから。しかしキリストは不滅のいのちによみがえり、そのような束縛から自由になって出てこられた。第二に、栄光の衣を着せられようとしておられたから。それゆえこれらのぼろを脱ぎ捨てられた。天的なパラダイスでは地的なパラダイスと同じように衣の必要はない。昇天する預言者はその外套を落とした。第三に、罪の死から義のいのちによみがえる時、埋葬用の衣を後に残さなければならない。すべての腐敗を脱ぎ捨てなければならない。第四に、キリストはそれを墓に、まるでわたしたちの用のために残されたかのように。もし墓が聖徒たちの寝床であるなら、彼はその寝床にシーツをかけ、彼らのために備えた。そして別に置かれた布は、喪に服する残された者たちがその涙をぬぐうのに役立つ。[2] 埋葬用の衣は非常に良い秩序の中に見いだされた。これは彼のからだが人々の眠っている間に盗まれたのではないことの証拠となる。墓泥棒は衣を取ってからだを残すことが知られていた。しかし近代の墓荒らしの慣行以前には、からだを取って衣を残した者はいなかった。特にそれが上等な亜麻布で新しいものであった時には(マル 15:46)。だれでも裸よりは衣を着た死んだからだを運ぶ方を選ぶであろう。あるいは、盗んだと想定される者たちが埋葬用の衣を後に残したとしても、亜麻布を折り畳む暇を見つけたとは考えられない。

(3) ペテロの大胆さがヨハネをいかに励ましたかを見よ。今や彼は心を強め、入る勇気を持った(ヨハ 20:8)。そして見て、信じた。マリヤが言ったこと—からだがなくなったこと—を単に信じたのではない(見たことを信じるのに感謝する必要はない)。イエスがいのちによみがえられたと信じ始めた。しかし彼の信仰は、今のところ弱く、揺れ動いていた。

[1] ヨハネは冒険においてペテロに従った。ペテロが先に入らなければ、彼は墓に入る勇気がなかったようである。注。他者の大胆さによって良いわざにおいて大いに励まされることは良い。困難と危険の恐れは、他者の決断と勇気を観察することによって取り除かれる。おそらくヨハネの速さがペテロを速く走らせ、今やペテロの大胆さがヨハネをさらに冒険させる。そうでなければどちらもしなかったであろうのに。ペテロが最近脱落者の不名誉の下にあり、ヨハネが信任された者の誉れに高められていた(キリストがその母を彼にゆだねられた)にもかかわらず、ヨハネはペテロと交わっただけでなく、彼に従うことを不名誉と思わなかった。

[2] しかしながら、信じるにおいてヨハネはペテロに先んじたようである。ペテロは見て驚いた(ルカ 24:12)。しかしヨハネは見て信じた。観想に向いた心は、行動に向いた心よりも早く神的真理の証拠を受け取るかもしれない。しかしなぜ彼らはそれほど信じるのに心が鈍かったのか。福音記者が告げる(ヨハ 20:9)。彼らはまだ聖書を知らなかった。すなわち、彼らが死んだ者の中からよみがえらなければならないことについての聖書の知識を考え、適用し、正当に用いなかった。旧約聖書はメシヤの復活について語っていた。彼らは彼をメシヤと信じていた。彼ご自身がしばしば彼らに、旧約聖書の書物に従って彼はよみがえると告げられた。しかしそれらによって現在の現れを説明するのに十分な心の落ち着きを持たなかった。ここで観察せよ。第一に、最初には弟子たち自身がどれほどキリストの復活を信じにくかったか。それは彼らが後に大いなる確信をもってそれについて与えたあかしを強める。なぜなら彼らの信じることへの後ろ向きによって、彼らがそれについて軽信ではなく、すべての言葉を信じるような単純な者たちでなかったことが現れるから。もし彼らがそれによって自分たちの関心事を進める企みを持っていたなら、その証拠の最初の火花に貪欲に飛びつき、お互いの期待を奮い立たせ、支え、それに従う者たちの心をその告知を受け入れるために備えたであろう。しかし反対に、彼らの望みは挫折し、それは彼らにとって奇妙な事であり、彼らの思いから最も遠い事のひとつであったことがわかる。ペテロとヨハネは最初にそれを信じることにこれほど慎重であったので、後に大いなる確信をもってそれをあかしするには、その事が可能な最も説得力ある証拠以上のものが必要であった。これによって彼らが他者を欺かない正直な者であり、自分自身が欺されない慎重な者であることが現れる。第二に、彼らが信じることに鈍かった理由。まだ聖書を知らなかったからである。これは福音記者自身の他の者たちと共に自身の過ちを認めることのようである。彼は「まだイエスが彼らに現れず、その手とわき腹を示されなかったから」とは言わず、「まだ彼らの理解を開いて聖書を理解させることをされなかったから」(ルカ 24:44、45)と言う。それは最も確かな預言の言葉であるから。

3. ペテロとヨハネはこれ以上尋ね求めを追わず、信仰と不信仰の間を揺れながらやめた(ヨハ 20:10)。弟子たちは帰って行った。それほど賢くなったわけではなく。自分たちのところへ。pros heautous—自分たちの友人や仲間のところ、残りの弟子たちのところ。あるいは各自の宿のところ。エルサレムに家はなかった。彼らは帰って行った。(1) からだを盗み出す企みの疑いで捕らわれること、あるいはそれがなくなった今それで訴えられることを恐れて。信仰を強める代わりに、彼らの配慮は自分自身を守り、自分自身の安全のために立ち回ることであった。困難で危険な時には、良い者でさえふさわしい決断をもってそのわざを続けることは困難である。(2) 困り果て、次に何をすべきか、見たものをどう理解するかを知らなかったから。それゆえ墓に留まる勇気を持たず、帰ることを決心し、神がこれをも彼らに啓示されるのを待つ。これは彼らの今の弱さの実例である。(3) 残りの弟子たちが一緒にいたことはあり得る。彼らのところに帰り、発見したことを報告し、何をすべきか相談するために。そしておそらく今、彼らは晩の集会を定めた。キリストが彼らに来られた時。観察すべきは、ペテロとヨハネが墓に来る前、御使いがそこに現れ、石を転がし、衛兵を恐れさせ、女たちを慰めた。彼らが墓を去るとすぐ、マグダラのマリヤは墓の中にふたりの御使いを見る(ヨハ 20:12)。しかしペテロとヨハネは墓に来て、それに入り、誰も見ない。これをどう理解するか。ペテロとヨハネが墓にいた時、その前と後に現れた御使いはどこにいたのか。[1] 御使いたちは与えられた命令と指示に従い、望みのままに現れ、消える。彼らは見えずに実際にいることができる。いや、同時にひとりには見え、ほかの者には見えないこともできるようである(民 22:23、Ⅱ列 6:17)。どのようにして彼らが自分を可視にし、次に不可視にし、再び可視にするかを問うことは、わたしたちの僭越である。しかしそうすることはこの物語から明らかである。[2] この恵みは、キリストを尋ね求めるにおいて早く絶え間ない者に示された。最初に来て最後まで留まった者の報酬であった。しかし一時的な訪問をした者には拒まれた。[3] 使徒たちは御使いからではなく、恵みの御霊からその教えを受けるべきであった。ヘブ 2:5を見よ。

John 20章 11-18 Matthew Henry's Complete Commentary

The Resurrection

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復活

¹¹しかしマリヤは墓の外で泣いていた。彼女が泣いている間、身をかがめて墓の中をのぞき込んだ。 ¹²すると、白い衣を着たふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方にすわっているのを見た。 ¹³彼らは彼女に言った。「女の人。なぜ泣いているのですか」。彼女は言った。「だれかが私の主を取り去りました。どこに置いたのか知りませんから」。 ¹⁴こう言ってから、後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることがわからなかった。 ¹⁵イエスは彼女に言われた。「女の人。なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」。彼女はイエスを庭師だと思って言った。「先生。もしあなたが彼をここに運び去ったのなら、どこに置いたのか教えてください。そうすれば、私が彼を引き取ります」。 ¹⁶イエスは彼女に言われた。「マリヤ」。彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」と言った。それは先生という意味である。 ¹⁷イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけない。わたしはまだ父のもとに昇っていないからである。しかし、わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに昇る』と告げなさい」。 ¹⁸マグダラのマリヤは行って、弟子たちに、自分が主を見たこと、またこれらのことをイエスが彼女に語られたことを告げた。

聖マルコは、キリストが最初にマグダラのマリヤに現れたことを告げる(マル 16:9)。その現れはここに詳しく記されている。そして観察し得る。

一. マグダラのマリヤの主イエスへの愛情の不変さと熱心(ヨハ 20:11)。

1. 彼女は墓にとどまった。ペテロとヨハネが去った時に。そこに彼女の主人が横たわっていたから。そしてそこで彼女は彼についての何らかの知らせを聞く可能性が最も高かった。注。(1) キリストへの真の愛がある所には、彼への絶え間ない固執と、心を決めて彼に固くつく決意がある。この良い女は、彼を失ったのに、彼を見捨てたように見えるくらいなら、彼のゆえに彼の墓のそばにとどまり、その慰めを欠く時でさえその愛に続く。(2) キリストとの知恵ある交わりの真の願いがある所には、知識の手段への絶え間ない出席がある。ホセ 6:2、3を見よ。三日目に彼はわたしたちを生き返らせる。その時わたしたちはその復活の意味を知るであろう。もしマリヤのように知ることを続けるなら。

2. 彼女はそこで泣きながらとどまった。そしてこれらの涙は彼女の主人への愛情を大声で告げた。キリストを失った者は泣く理由がある。彼女はその苦い苦しみの思い出に泣いた。その死と、彼女とその友人たちと国がそれによって被った損失に泣いた。彼なしで家に帰ることを思って泣いた。今やそのからだを見いださないので泣いた。キリストを捜す者は悲しみながら捜さなければならない(ルカ 2:48)。泣かなければならない。彼のためではなく、自分たちのために。

3. 彼女が泣いている間、彼女は墓の中をのぞき込んだ。その目がその心に影響を与えるように。失ったものを捜す時、最後にそれを置いた場所、見つかると期待した場所に何度も何度も見る。彼女はなお七たび見ようとする。ついに何らかの励ましを見るかもしれないと思って。注。(1) 泣くことは捜すのを妨げてはならない。彼女は泣いたが、身をかがめて中をのぞき込んだ。(2) 愛情をもって捜す者、涙をもって捜す者は捜し当てるであろう。

二. 墓の中のふたりの御使いの彼女が見た幻(ヨハ 20:12)。ここで観察せよ。

1. 彼女が見た者たちの描写。彼らは白い衣を着たふたりの御使いであった。(おそらく岩に掘られた何らかの腰掛けまたは棚に)すわって、墓の頭と足にひとりずつ。ここに、

(1) その性質。彼らは御使いであった。天からの使者。この大いなる機会のために特に遣わされた。[1] 子に栄光を与え、その復活の厳かさを飾るため。神の御子が再び世界にもたらされる今、御使いたちはその誕生の時のように彼に従うよう命じられている(ヘブ 1:6)。[2] 聖徒たちを慰めるため。悲しみにある者たちに良いことばを語り、主が甦ったことを知らせることで彼らをその目の見えるように備えるため。

(2) その数。ふたり。賛美を歌う天の軍勢の群れではなく、あかしするためのただふたり。ふたりの証人の口からこのことばが確立されるために。

(3) その服装。彼らは白い衣を着ていた。示す。[1] その純潔ときよさ。最も良い人でも御使いたちの前に立ち、彼らと比べられると汚れた衣を着ている(ゼカ 3:3)。しかし御使いは傷がない。そして栄光を受けた聖徒たちは、御使いのようになる時、白い衣でキリストと共に歩む。[2] その栄光と、この機会における誇り。彼らが現れた白さは、キリストが今甦った状態の輝きを表した。

(4) その姿勢と場所。彼らはすわっていた。まるでキリストの墓で休むように。御使いたちは回復を必要としなかったが、その確立のためにキリストに負っていたから。これらの御使いたちは墓に入った。それを恐れないこと、そこにしばらく休むことがわたしたちの不死に何らの損害とならないことを教えるために。いや、事はそのように定められている。墓は天への道からあまり外れていない。また御使いたちが聖徒たちについて用いられることを暗示する。その死に—その魂をアブラハムのふところに運ぶために—だけでなく、大いなる日にそのからだをよみがえらせるために(マタ 24:31)。これらの御使いの衛兵(御使いたちは見張りと呼ばれる。ダニ 4:23)が、敵が立てた衛兵を追い払った後に墓を所有することは、暗やみの力に対するキリストの勝利、彼らを敗走させ、打ち破ることを表す。このようにミカエルとその御使いたちは征服者以上である。彼らが互いに向かい合ってすわること—ひとりはその枕元に、もうひとりはその足元に—は、キリストの全体のからだ、その自然的ならびに神秘的なくらだについての彼らの配慮を示す。頭から足まで。またふたりのケルビムを思い起こさせる。贖いの座の両端に置かれ、互いに向かい合って(出 25:18)。十字架につけられたキリストは大いなる贖いの座であった。その頭と足にこれらのふたりのケルビムがいた。燃えるつるぎを持ってわたしたちを遠ざけるのではなく、いのちの道に導く歓迎の使者として。

2. マグダラのマリヤの悲しみの原因に対する彼らのあわれみ深い問い(ヨハ 20:13)。女の人。なぜ泣いているのですか。この問いは、(1) 彼女の泣きへの叱責であった。なぜ泣いているのですか。あなたには喜ぶ理由があるのに。わたしたちの涙の洪水の多くは、その源へのこのような探求の前には乾き去るであろう。なぜあなたは思い煩うのか。(2) 御使いたちが聖徒たちの悲しみにどれほど関心を持つかを示すために意図された。彼らの慰めのために仕えるよう命じられているから。クリスチャンもまた互いに同情すべきである。(3) 単に彼女の喪を喜びに変えるであろうこと、荒布を脱がせ、喜びで帯を締めることを彼女に知らせる機会を作るため。

3. 彼女が彼らに与える憂鬱な現在の苦悩の報告。彼らが私が油を塗りに来た祝福されたからだを取り去り、どこに置いたか私に告げないから。同じ物語を彼女はヨハ 20:2で語った。その中に、(1) 彼女の信仰の弱さを見る。もし彼女がからし種一粒ほどの信仰を持っていたなら、この山は移されたであろう。しかしわたしたちはしばしば想像上の困難によって不必要に自分自身を悩ます。信仰はそれらを現実の利点として発見するであろうに。多くの良い人々が自分たちの下にある雲と暗やみについて訴える。それはその魂のへりくだめ、その罪の治め、キリストを彼らに愛させるための恵みの必要な方法である。(2) 彼女の愛の強さを見る。キリストへの真の愛情を持つ者は、その魂における彼の愛の慰めとなるしるし、またはその定めにおいて彼と交わり、彼に誉れを与える慰めとなる機会のいずれかを失った時に、大きな苦しみにあることを免れない。マグダラのマリヤは幻の驚きによってその問いからそらされず、その誉れに満足しない。しかし依然として同じ弦を弾く。彼らは私の主を取り去った。御使いの幻とその微笑みは、キリストの幻と神の彼における微笑みなしには十分ではない。いや、御使いの幻は彼女のキリストへの問いを追う機会にすぎない。すべての被造物は—最も優れた、最も愛らしいものさえ—神とキリストにおいて知り合うための手段として、そして手段としてのみ用いられるべきである。御使いたちは彼女に問うた。なぜ泣いているのですか。彼女は言う。泣く理由は十分にある。彼らは私の主を取り去った。そしてミカのように、これ以上私に何がありますか。あなたがたは尋ねる。なぜ私が泣くかと。私の愛する方は身を隠し、去られた。注。見捨てられた魂の悲しみを知る者は、それを経験した者だけである。キリストにおいて神の愛の慰めとなる証拠と、天の望みを持っていたが、今やそれらを失い、暗やみを歩む者。そのような傷ついた霊をだれが耐え得ようか。

三. 御使いたちと語り、彼らにその事を告げている間の彼女へのキリストの現れ。彼らが彼女に何らかの答えを与える前に、キリストご自身が介入し、彼女の問いを満たされる。神は今やその御子によってわたしたちに語られるから。彼ご自身だけがわたしたちをご自身に導くことができる。マリヤは彼女の主がどこにいるか知りたいと切に願う。そして見よ、彼は彼女の右の手にある。注。1. キリストの幻より少ないもので満足しない者は、それより少ないものでは追い払われない。彼は彼を捜す魂にむなしく捜したと言われたことはない。「キリストを得たいのか。キリストを得るであろう」。2. キリストは彼を捜す者たちにご自身を現すにおいて、しばしば彼らの期待にまさる。マリヤはキリストの死んだからだを見ることを切に願い、その喪失を訴える。そして見よ、彼は生きておられるのを見る。このように彼は祈る民のために彼らが求め、考える以上のことをされる。このマリヤへのキリストの現れにおいて観察せよ。

(1) どのように彼は最初彼女からご自身を隠されたか。

[1] 彼は普通の人として立ち、彼女もそのように見た(ヨハ 20:14)。彼女は御使いたちからの彼女の訴えへの答えを期待して立っていた。そして背後の何人かの人の影、または足音を見るか聞くかして、御使いたちと語るから後ろを振り向いた。そしてイエスご自身が立っているのを見た。まさに彼女が捜していた方。しかしそれがイエスであることがわからなかった。注。第一に、主は心の砕かれた者に近い(詩 34:18)。彼らが気づく以上に。キリストを捜す者は、彼を見なくても、彼が彼らから遠くないことを確信し得る。第二に、主を勤勉に捜す者は、彼を捜すにおいてあらゆる方向に振り向くであろう。マリヤは何らかの発見を期待して後ろを振り向いた。古代の者の何人かは、マリヤが御使いたちが立ち上がり、マリヤより前に見た主イエスに敬意を払うことによって、後ろを見るよう導かれたと示唿する。そして彼女がだれにこれほどの深い敬意を払っているのかを見るために振り返ったと。しかしもしそうなら、彼女が彼を庭師とみなしたであろうとは考えにくい。むしろそれゆえに、彼女の捜す真剣な願いが彼女をあらゆる方向に振り向かせたのであった。第三に、キリストはしばしばその民の近くにおられ、彼らは気づいていない。彼女はそれがイエスであることがわからなかった。彼が他の姿で現れたからではない。彼女の目が思い煩いに満ちていたため、彼女の目はあまりよく区別できなかったか、彼女が彼を知らないようにその目が留められたからである。ふたりの弟子のように(ルカ 24:16)。

[2] 彼は彼女に普通の質問をし、彼女もそれに答えた(ヨハ 20:15)。

第一に、彼が彼女にした質問はごく自然であり、だれもが彼女にしたであろうもの。女の人。なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。こんなに早く庭に何の用がありますか。そしてこの騒ぎはみんな何のためですか。おそらくいくらかの荒っぽさをもって語られた。ヨセフがその兄弟たちに身を知られせる前に、彼らに身を奇妙にさせた時のように。これはキリストが復活後に語った最初のことばであったようである。なぜ泣いているのですか。わたしは甦った。キリストの復活には、わたしたちのすべての悲しみを和らげ、わたしたちの涙の流れを止め、その泉を乾かすのに十分なものがある。ここで観察せよ。キリストは認識する。1. その民の悲しみを。そして問う。なぜあなたがたは泣くのか。彼はその涙を瓶に集め、その書に記す。2. その民の心配を。そして問う。あなたがたはだれを捜すのか。何を望むのか。彼らが彼を捜していることを知っても、なお彼らからそれを知ろうとされる。彼らは彼にだれを捜すかを告げなければならない。

第二に、彼女が彼にした返答はごく自然である。彼女は彼に直接の答えを与えない。しかしあるかのように言う。「なぜ私をからかい、私の涙をとがめるのですか。あなたは私がなぜ泣くか、だれを捜すかをご存知です」。それゆえ、彼を庭師—ヨセフがその庭の手入れと管理のために雇った者—と思い込んで、彼女は、この方はこんなに早く仕事に来たと思って、言った。先生。もしあなたが彼をここに運び去ったのなら、どこに置いたのか教えてください。そうすれば私が彼を引き取ります。ここを見よ。1. 彼女の理解の誤り。彼女はわたしたちの主イエスを庭師と思った。おそらく彼女がそこにいる何の権威を持つかと問われたから。注。悩める霊は、曇った暗い日に、キリストを自分たちに誤って表し、その摂理と恵みの方法に誤った解釈を置きがちである。2. 彼女の愛情の真理。キリストを見いだすことに彼女の心がどれほど固定されていたかを見よ。彼女は出会うすべての者に問う。注意深い花嫁のように。あなたはわたしの魂の愛する方を見ましたか。彼女は庭師に敬意をもって語り、先生と呼ぶ。彼女の愛する者について何らかの情報を得ることを期待して。彼女がキリストについて語る時、彼を名指ししない。しかし、もしあなたが彼をここに運び去ったのなら。この庭師が彼女と同様にこのイエスについての思いに満ちていると仮定し、それゆえ彼女がだれを意味するか知らざるを得ないと。彼女の愛情の強さのもうひとつの証拠は、彼がどこに置かれようと、彼女は彼を移すことを引き受けることであった。そのようなからだに、そのような香料の重さがあるのでは、彼女が運べると主張する以上であった。しかし真の愛は自分以上のことができると思い、困難を何とも思わない。彼女はこの庭師が、不名誉な十字架刑にされた者のからだがその主人の新しい墓に置かれる誉れを持つことをねたみ、それゆえそれをよりふさわしいと彼が思うみじめな場所に移したと思った。しかしマリヤは彼の主人に告げ、彼をその場所から追い出すと脅さない。むしろ彼が歓迎されるであろう他の墓を見いだすことを引き受ける。キリストは負担と思われる所にとどまる必要はない。

(2) キリストがついにどのように彼女にご自身を知らせ、喜ばしい驚きによって彼女にその復活の確実な保証を与えられたか。ヨセフはついにその兄弟たちに言った。わたしはヨセフです。このようにキリストはここにマグダラのマリヤに、高められた状態に入られた今。観察せよ。

[1] キリストが涙をもって彼を捜していたこの良い女にどのようにご自身を啓示されたか(ヨハ 20:16)。イエスは彼女に言われた。マリヤ。それは強調をもって、彼が彼女に語るために用いた親切と自由の様子をもって語られた。今や彼はその声を変え、庭師のようにではなく、ご自身らしく語られた。キリストがその民にご自身を知らせる方法は、そのみことばによって、彼らの魂に適用されたみことばによって、彼らに特に語ることによって。神がその愛の計議の中で名によって知った者たち(出 33:12)が、その恵みの効力において名によって呼ばれる時、その時そのみ子を彼らのうちに啓示する。パウロの場合のように(ガラ 1:16)。キリストが名によって彼に呼ばれた時。サウロ、サウロ。キリストの羊はその声を知る(ヨハ 10:4)。このひとこと、マリヤは、嵐の中の弟子たちへのことばのようであった。わたしである。その時キリストのことばは、わたしたちが戒めと約束に自分たちの名を入れる時にわたしたちに良いことをする。「このキリストのことばにおいて、キリストはわたしに呼びかけ、わたしに語られる」。

[2] 彼女がこの啓示をいかに容易に受け取ったか。キリストが「マリヤ。わたしを知らないのか。あなたとわたしはこれほど見知らぬ者になったのか」と言われた時、彼女はすぐにそれがだれであるかに気づいた。花嫁のように(雅 2:8)。それは私の愛する方の声。彼女は振り向いて言った。ラボニ。わたしの先生。それは問いをもって適切に読め得る。ラボニ? わたしの先生ですか。いや、本当にそうですか。観察せよ。第一に、彼女が彼に与える敬意の称号。わたしの先生。didaskale—教える先生。ユダヤ人はその博士たちをラビ—大いなる者—と呼んだ。その批評家たちはラボンは彼らの間でラビよりも誉ある称号であったと告げる。それゆえマリヤはそれを選び、所有のしるしを加える。わたしの大いなる先生。注。キリストが喜んでわたしたちに与之える交わりの自由にもかかわらず、彼がわたしたちの先生であり、神聖な恐れをもって近づかれるべきことを思い起こさなければならない。第二に、彼女がどのような愛情の活気をもってこの称号をキリストに与えるか。彼女は振り向いた。目に留めていた御使いたちから離れて、イエスに目を向けた。わたしたちはすべての被造物から—最も明るく最も良い者からさえ—わたしたちの視線を取り去り、キリストに固定しなければならない。何ものもわたしたちを彼からそらしてはならず、何ものも彼と競ってはならない。彼女が庭師だと思った時、彼に語りながら別の方向を見ていた。しかしそのキリストの声を知った今、彼女は振り向いた。キリストの声を聞き、彼に振り向く魂は、喜びと勝利をもって彼をわたしの先生と呼ぶ。キリストを愛する者がその上にある権威について語る喜びを見よ。わたしの先生。わたしの大いなる先生。

[3] キリストが彼女に与えられたさらなる指示(ヨハ 20:17)。わたしにすがりついてはいけない。しかし行って弟子たちに知らせなさい。

第一に、彼はこの時に彼と親密な交わりと語らいの期待から彼女をそらされる。わたしにすがりついてはいけない。わたしはまだ昇っていないから。マリヤは彼女の愛する主人の幻に我を忘れて、自分自身と、彼が今入っている栄光の状態を忘れ、彼を愛情を込めて抱擁することによって彼女の喜びを表そうとした。それをキリストはこの時禁じられた。1. わたしにすがりついてはいけない。わたしは天に昇るから。このように全体的に。彼は弟子たちに信仰の確認のために触れるよう命じた。女たちにはその足を取り、礼拝することを許された(マタ 28:9)。しかしマリヤは、彼がラザロのように彼らの間に常に住み、以前のように自由に彼らと交わるために甦ったと仮定して、その通常の自由をもって彼の手を取ろうとした。この誤りをキリストは訂正された。彼女は彼が高められたとして信じ、拝しなければならない。しかし以前のように親密であることを期待してはならない(Ⅱコリ 5:16を見よ)。彼は彼女がその身体的臨在に愛着することを禁じ、これに心を留めたり、その継続を期待したりせず、彼が父に昇った後に彼女が持つべき霊的な交わりと交わりに彼女を導かれた。彼の復活の最大の喜びは、それが彼の昇天への歩みであったから。マリヤは、主人が甦った今、彼はすぐに彼らが長く約束してきたような現世的な王国を立てるであろうと思った。「いや」とキリストは言われる。「そのような思いでわたしにすがりついてはいけない。わたしをここに引き留めるようにわたしを捕らえてはならない。わたしはまだ昇っていないが、わたしの兄弟たちのところに行って、わたしは昇ることを告げよ」。その死の前と同様に、復活の後も、彼は去ることについて弾き続ける。もはや世にいない。それゆえ彼らはその身体的臨在以上に高く見、現在の事の状態以上に遠くを見なければならない。2. わたしにすがりついてはいけない。今すがりつくためにとどまってはならない。今さらに問いをしたり、喜びの表現をしたりするためにとどまってはならない。わたしはまだ昇っていない。すぐに出発するわけではない。別の機会にしてもよい。あなたが今できる最も良い奉仕は、弟子たちに知らせを運ぶことである。それゆえ時間を無駄にせず、大急ぎで行きなさい。注。公の奉仕は私的な満足に優先されるべきである。受けるよりも与える方が幸いである。ヤコブは天使を行かせなければならない。夜が明け、家族の世話をする時になったから。マリヤは主人と語るためにとどまってはならない。そのことばを運ばなければならない。それは良い知らせの日であるから。彼女はその慰めを独占せず、他者に渡さなければならない。その物語を見よ(Ⅱ列 7:9)。

第二に、彼は彼女が弟子たちに運ぶべきことばを導かれる。しかしわたしの兄弟たちのところに行って、告げなさい。わたしが甦ったことを(彼女は自分で彼らに告げることができた。彼を見たから)だけでなく、わたしが昇ることを。観察せよ。

a. このことばがだれに送られるか。わたしの兄弟たちのところに行け。彼は彼らをそう呼ぶことを恥とされないから。(1) 彼は今やその栄光に入り、以前以上に大いなる力をもって神の御子として宣言されたのに、弟子たちを兄弟として認め、以前よりもっと優しい愛情をもって彼らについて語られる。彼は彼らを友と呼んだが、今まで兄弟とは呼ばなかった。キリストは高くとも高慢ではない。その昇格にもかかわらず、貧しい親族を認めることを軽蔑しない。(b) 弟子たちは最近彼に対して非常に不誠実であった。彼らが皆彼を見捨てて逃げた時から、彼は彼らを共に見ていなかった。今彼らに怒りのことばを送っても正当であったのに。「向こうの裏切り者の逃亡者たちの所に行って、わたしはもはや彼らを信じない、彼らとかかわりを持たないと告げよ」。いや、彼は赦し、忘れ、責めない。

b. だれによって送られるか。マグダラのマリヤ—彼女から七つの悪霊が追い出された—によって。しかしこのように恵まれた。これはキリストに固執し、彼を捜すことにおける彼女の不変さへの報酬であった。そして使徒たちへの暗黙の叱責であった。彼らは死にゆくイエスに出席するにおいて彼女ほど密接ではなく、よみがえるイエスに会うにおいて彼女ほど早くなかった。彼女は使徒たちへの使徒となる。

c. ことばそのものは何か。わたしはわたしの父のもとに昇る。これらのことばに慰めの二つの豊かな胸がある。

(a.) キリストとの合一から生じる神との共同の関係は、語り尽くせない慰めである。その光、いのち、至福の尽きることのない泉について語りながら、彼は言う。わたしの父、そしてわたしたちの父。わたしの神、そしてあなたがたの神。これはキリストと信じる者との間に存する近い関係を非常に表現的に示す。きよめる方と、きよめられる者たちは皆ひとつである。彼らはひとつに同意するから(ヘブ 2:11)。ここにクリスチャンのこのような昇格と、キリストのこのようなへりくだりがあり、それらを非常に近くにもたらす。その合一のために事が見事に工夫されている。[a] 信じる者の大いなる誉れは、わたしたちの主イエス・キリストの父が、彼において、彼らの父であること。実際に関係のそれぞれの基礎の間には大いなる違いがある。彼は永遠の生成によってキリストの父、恵み深い養子縁組によってわたしたちの父。しかしこれさえわたしたちがキリストがしたようにアバ、父と呼ぶことを正当化する。これはキリストが彼らを兄弟と呼んだ理由を与える。彼の父が彼らの父であったから。キリストは今や父との弁護者として現れるために昇る。—彼の父と共に。それゆえわたしたちは彼が何事についても勝つことを望み得る。—わたしたちの父と共に。それゆえわたしたちは彼がわたしたちのために勝つことを望み得る。[b] キリストの大いなるへりくだりは、信じる者の神をその神として認めることを喜ばれること。わたしの神、そしてあなたがたの神。わたしのもの。それゆえあなたがたのものとなり得る。贖い主の神—彼を支えるために(詩 89:26)—が、贖われた者の神—彼らを救うために—となり得るために。新しい契約の要約は、神がわたしたちの神となることである。それゆえ契約の確保者であり頭であるキリスト—主に扱われ、信じる者は彼の霊的な種としてのみ彼を通じて—が第一に扱われるので、この契約関係はまず彼に固定され、神は彼の神、そしてわたしたちの神となる。わたしたちが神聖な性質にあずかるので、キリストの父はわたしたちの父。そして彼が人間の性質にあずかるので、わたしたちの神は彼の神。

(b.) わたしたちのためのその引き受けのさらなる遂行におけるキリストの天への昇天も、同様に語り尽くせない慰めである。「彼らにわたしはまもなく昇ると告げよ。それがわたしが取る次の歩みである」。これは意図された。[a] これらの弟子たちへの注意のことば。地の上での彼の身体的臨在の継続や、彼らが夢見たような現世的な王国の確立を期待してはならない。彼らが夢見たように。「いや、彼らに告げよ。わたしは彼らと共に留まるためにではなく、彼らの用のために天へ行くために甦った」と。このようにキリストの復活に一致して霊的ないのちに生かされる者は、自分たちが昇るために生かされたことを計算しなければならない。彼らはキリストと共に生かされ、天の所に彼と共に座るためである(エペ 2:5、6)。この地が自分たちの家であり休み所であると思ってはならない。いや、天から生まれたので、天に向かっている。彼らの目とねらいはもうひとつの世界に向けられなければならず、これが常に彼らの心になければならない。わたしは昇る。それゆえわたしは上のものを求めなければならない。[b] 彼らと、彼らのことばによって彼を信じるすべての者への慰めのことば。彼はその時昇りつつあり、今や彼の父、そしてわたしたちの父のもとに昇った。これは彼の昇格であった。彼はそのへり下ろしの報酬としての誉れと力を受けるために昇った。彼は勝利をもってそれを言う。彼を愛する者が喜ぶために。これはわたしたちの利益である。彼は征服者として昇った。捕虜を捕らえて(詩 68:18)。彼はわたしたちの先駆者として昇った。わたしたちのために場所を備えるために。そしてわたしたちを受け入れる準備ができるために。このことばはヨセフの兄弟たちがヤコブに彼について伝えたもののようであった(創 45:26)。ヨセフはまだ生きている。そしてそれだけではなく。vivit imo, et in senatum venit—彼は生きている。いや、元老院にも来る。彼はエジプトの全土を治める総督である。すべての権威が彼のものである。

ある者はわたしはわたしの神でありあなたがたの神である方のもとに昇るということばを、キリストの復活の価徳におけるわたしたちの復活の約束を含むと考える。キリストはわたしはアブラハムの神であるというこれらのことばから死者の復活を証明されたから(マタ 22:32)。それゆえキリストはここでほのめかす。「彼がわたしの神であり、それゆえわたしを生き返らせたように、彼はあなたがたの神であり、それゆえあなたがたを生き返らせ、あなたがたの神となるであろう(黙 21:3)。わたしが生きるので、あなたがたも生きる。わたしは今、わたしの神に栄光を帰するために昇る。そしてあなたがたはあなたがたの神として彼に昇るであろう」。

四. ここにマグダラのマリヤが彼女の見聞きしたことを弟子たちに忠実に報告したことがある(ヨハ 20:18)。彼女は来て弟子たちに告げた。彼女が共にいたのを見いだした者たちに。自分が主を見たことを。ペテロとヨハネは彼女を涙をもって注意深く彼を捜すままにして去り、彼女と共に捜すためにとどまらなかった。そして今や彼女は彼を見いだしたことを告げ、死んだからだを捜すことによって彼女が彼らを導いた誤りを訂正するために来る。今やそれが生きたからだ、栄光を受けたからだであることを見いだした。このように彼女は捜したものを見いだし、さらに無限に良いものを見いだした。彼女は主人の幻において彼女自身喜びを持ち、その喜びを伝えることを喜んだ。それが彼らに良い知らせとなることを知ったから。神がわたしたちを慰める時、それはわたしたちが他者を慰めることができるためという設計による。そして彼女が見たことを彼らに告げたように、聞いたことも告げた。彼女は主が生きておられるのを見た。これがそのしるしであった(そして良いしるしであった)。これらのことを彼女に語られたことが彼らに伝えられるべきことばとしてであり、彼女はそれを忠実に伝えた。キリストのことばに親しんでいる者は、他者の益のために自分たちの知識を伝えるべきであり、ほかの者が自分たちと同じほど知ることを惜しんではならない。

John 20章 19-25 Matthew Henry's Complete Commentary

Christ with His Disciples

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弟子たちと共におられるキリスト

¹⁹その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがユダヤ人を恐れて集まっていた所の戸が閉ざされていると、イエスが来られて真ん中に立ち、彼らに言われた。「平安がありますように」。 ²⁰こう言われてから、イエスはご自分の手とわき腹とを彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。 ²¹そこでイエスは彼らに再度言われた。「平安がありますように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」。 ²²こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 ²³あなたがたがだれの罪でも赦すなら、その人は赦される。あなたがたがだれの罪でもそのままにするなら、それはそのまま残される」。 ²⁴ところが十二弟子のひとりで、ディデモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時に彼らと共にいなかった。 ²⁵そこでほかの弟子たちが彼に言った。「わたしたちは主をお見た」。しかし彼は言った。「私がその手に釘の跡を見、私の指をその釘の跡に差し込み、私の手をそのわき腹に差し入れない限り、決して信じない」。

キリストの復活の確実な証拠は、生きておられるご自身を現されることであった(使 1:3)。これらの節に、彼がよみがえられた日に弟子たちのグループに現れた最初の現れの記録がある。彼は信頼できる確かな使者たちによってご自身の復活の知らせを彼らに送られた。しかし彼らへの愛を示し、彼らの信仰を確立するために、ご自身で来られ、その真理について彼らが望み得るすべての保証を与えられた。彼らが伝聞や第二の手によってではなく、ご自身が生きている目撃者となるために。なぜなら彼らはそれを世にあかしし、そのあかしの上に教会を建てなければならなかったから。今や観察せよ。

一. この現れがいつ、どこであったか(ヨハ 20:19)。それは彼がよみがえられたその日、週の初めの日、ユダヤの安息日の翌日であった。弟子たちの私的な集会において。十人と、彼らの友人の何人かが共にいた(ルカ 24:33)。

わたしたちの主イエスが、その教会を支え、主要な定め—みことば、聖礼典、祈り—を正しく執行するために、その教会の中に存続させるために制定された三つの第二次の定め(と呼び得るもの)がある。主の日、荘厳な集会、常任の務めである。それぞれに関するキリストの思いは、これらの節でわたしたちに平然と示されている。最初の二つはここに、この現れの事情のうちに。もうひとつはヨハ 20:21に。キリストの王国は、その復活の直後に人々の中に立てられることになっていた。それゆえ彼がよみがえられたまさにその日に、小さな事の日であったが、教会のすべての時代を通じて宗教の顔を保つのに役立つ荘厳さで恵まれていたのを見いだす。

1. ここに弟子たちによって守られ、わたしたちの主イエスによって認められたクリスチャンの安息日がある。キリストが弟子たちになされた訪問は週の初めの日であった。そして週の初めの日は(わたしは考えるに)新約聖書のすべてにおいて数によって言及される唯一の、週、月、年の唯一の日である。そしてこれは宗教的に守られる日として何度も語られる。ここで(ヨハ 20:1)キリストが週の初めの日に甦られたことが明示的に語られたにもかかわらず、ここで(ヨハ 20:19)同じ日の夕方に現れたと言えば十分であったかもしれないのに、日に栄誉を与えるために週の初めの日であってと反復される。使徒たちが日に栄誉を置こうと意図したからではなく(彼らはまだその機会について疑っていた)。神がそれに栄誉を置こうと意図された。彼らが一緒にいて、その日にキリストの最初の訪問を受けるように定めることによって。このようにして彼は事実上その日を祝福し、きよめられた。その日に贖い主が安息したからである。

2. ここに弟子たちによって荘厳にされた、また主イエスによって認められたクリスチャンの集会がある。おそらく弟子たちは何らかの宗教的務めのために、共に祈るためにここに集まった。あるいはおそらく、記録を比較し、主人の復活について十分な証拠を持っているかどうかを考察し、今なすべきことを相談するために集まった。共にとどまるか、散るか。彼らは互いの思いを知り、互いの手を強め、現在の危機的な時に取るべき適切な措置を協定するために集まった。この集会は私的であった。公に現れることができなかったから。特に集団では。彼らは家に集まった。しかし戸を閉ざしておいた。共に見られないように。そして彼らの知る者以外はだれも彼らの中に入れないように。ユダヤ人を恐れたから。ユダヤ人は弟子たちを犯罪者として訴えるであろう。彼らが世を欺くために用いた嘘—弟子たちが夜のうちに来て、彼を盗み出した—を信じているように見せるために。注。(1) キリストの弟子たちは、困難な時にあっても集会をやめてはならない(ヘブ 10:25)。群れの羊は嵐の中に散らされた。しかし羊は群れをなす。再び集まる。キリストの弟子たちの集会が隅に追いやられ、荒野に追い立てられることは珍しいことではない(黙 12:14、箴 28:12)。(2) 神の民はしばしば自室に入り、戸を閉ざすことを余儀なくされた。ここでユダヤ人を恐れて。迫害は彼らに割り当てられ、迫害からの隠退は彼らに許される。その時どこに彼らを探すべきか。地のほら穴と洞穴に。このように身を隠すことはキリストの弟子たちにとって現実の悲しみであるが、現実の非難ではない。

二. 弟子たちへのキリストの訪問、および彼らとの面会において語られ、なされたこと。彼らが集まった時、イエスが彼らの中に来られた。ご自身の姿で。しかし今や栄光を受け始めたそのからだの輝きにベールを引きながら。そうでなければ変貌の時のように彼らの目を眩ませたであろう。キリストが彼らの中に来られたのは、二人または三人がわたしの名において集まっている所には、わたしがその中にいるという約束の成就の標本を与えるためであった。戸が閉ざされていても彼は来られた。これは彼が復活後に現実の人身を持っていた証拠を少しも弱めない。戸が閉ざされていても、彼は如何なる音も立てずにそれを開く方法を知っておられた。彼らが聞かないようにして入られた。以前彼が水の上を歩いたように。しかも真実のからだを持って。クリスチャンの荘厳な集会が私的に縮小される時、キリストの臨在を締め出すことのできる戸はないことは、弟子たちの慰めである。このキリストの現れに五つの事がある。

(1) 弟子たちへの優しく親しい挨拶。平安がありますように。これは友の集まりで一般的に用いられる通例のことばではなく、その死と復活のすべての祝福された実りと効果を彼らに授ける厳かで、普通でない祝福であった。その句は一般的であったが、その意味は今や特別であった。平安がありますようには、すべての良いことがあなたがたにありますように、すべての手段によって常にすべての平安がありますように、と同じである。キリストはその平安を遺産として彼らに残された(ヨハ 14:27)。遺言者の死によって遺言は効力を持ち、彼は今や死者の中からよみがえり、遺言を証明し、ご自身でその執行人となるためであった。それゆえ彼はここで遺産の迅速な支払いをされる。平安がありますように。平安を語ることは平安を作る。くちびるの実、平安を創造する。神との平安、自分自身の良心における平安、互いの間の平安。すべてこの平安があなたがたと共に。世との平安ではなく、キリストにある平安。彼らが彼について疑いに満ち、自分たちについて恐れに満ちている時に彼らの真ん中に現れることは、彼らをある程度の混乱と恐怖に陥れないではいられなかった。その波の音を彼はこのことばで静められる。平安がありますように。

(2) 彼らへの明確で否定し得ないご自身の現れ(ヨハ 20:20)。ここで観察せよ。

[1] 彼がその復活の真理を確信させるために取った方法。彼らは今、二、三日前に大ぜいが死んだのを見た者を生きて見た。今や唯一の疑いは、彼らが生きて見たこれが、死んだのを見られた同じの個人としてのからだであるかどうかであった。そしてそれがそうであることのこれ以上の証拠をだれも望み得ない。からだの傷の傷跡や印を除いて。さて、第一に、傷の印、しかも非常に深い印が(しかし痛みや痛みを伴わずに)主イエスのからだに復活後も残っていた。それらがその真理の証拠となり得るために。征服者はその傷の印を誇りとする。キリストの傷は地においてそれが彼ご自身であることを語るためであった。それゆえ彼はそれらと共に甦られた。それらは天において、彼が永遠になすべきとりなしにおいて語るためであった。それゆえ彼はそれらと共に昇天し、屠られたかのような小羊として、新たに血を流しつつ**御座の真ん中に現れた(黙 5:6)。いや、彼はその傷跡と共に再び来られるようである。彼らが突き刺した者を彼らが見るために。第二に、これらの印を彼は弟子たちに確信のために示された。彼らが同じ顔つきで顔を向け、これほど長く慣れ親しんだ同じ声で語るのを見、聞く満足を持っただけではなく(Sic oculos, sic ille manus, sic ora, ferebat—その身振り、その目、その手はかくのようであった!)、これらの特別の印のさらなる証拠を持った。彼はその手を彼らに開き、その上の傷の印を見せられた。乳母がその胸を子に開くように、その胸を開いてそこにある傷を彼らに見せられた。注。高められた贖い主は常に忠実な友人と従う者すべてに対して開かれた手と開かれた心を示される。キリストがその御霊の慰めによって信じる者たちに愛を現される時、彼が生きるのであって、あなたがたもまた生きることを保証される時、その手とわき腹を彼らに示される。

[2] それが彼らに与えた印象、また彼らにした良いこと。第一に、彼らは主を見たと確信した。このように彼らの信仰は確認された。最初、彼らは幻、幻影を見たと思った。しかし今やそれが主ご自身であることを知った。このように多くの真の信じる者が、弱い間はその慰めが想像にすぎないと恐れるが、後に恵みによってそれらが現実で実質的なものを見いだす。彼らは問わない。それは主かと。しかし確信する。それは彼であると。第二に、その時彼らは喜んだ。信仰を強めたものは喜びを高めた。信じて喜ぶ。福音記者はいくらかの歓喜と勝利をもってそれを書いているようである。その時!その時!弟子たちは主を見て喜んだ。ヨセフがまだ生きていると聞いてヤコブの霊が生き返ったなら、イエスが再び生きていると聞いてこれらの弟子たちの心はいかに生き返ることであろうか。彼らにとってそれは死人からのいのちである。今やキリストのことば(ヨハ 16:22)が成就した。わたしは再びあなたがたを見る。あなたがたの心は喜ぶであろう。これは彼らの目からすべての涙を拭い去った。注。弟子の心を喜ばせるのはいつでもキリストを見ることである。キリストをより多く見るほど、より多く彼において喜ぶ。そしてわたしたちの喜びは彼をあるがままに見る所に来るまで決して完全にはならない。

(3) 教会の植え付けにおけるその代理人としての彼らへの誉れある十分な委任(ヨハ 20:21)。ここに、

[1] 彼らの委任の前書き。前に挨拶の厳かな反復であった。平安がありますように。これは意図された。第一に、彼らが与えられようとしている委任に注意を向けるため。以前の挨拶は彼らの恐れの騒ぎを静めるためであった。彼らが落ち着いて復活の証拠に注意を向けるように。これは彼らの歓喜の高まりを抑えるためであった。彼がさらに語ろうとすることを穏やかに聞くように。あるいは、第二に、彼らが与えられている委任を受け入れるよう励ますため。それが多くの悩みを彼らにもたらすとしても、彼はその中に彼らの誉れと慰めを意図し、結局において彼らにとって平安となるであろう。ギデオンはこのことばと共に委任を受けた。平安がありますように(士 6:22、23)。キリストはわたしたちの平和である。彼が共におられるなら、平安がある。キリストは今や弟子たちを世に平安を公刊するために遣わされた(イザ 52:7)。そして彼はここで彼らの自身の満足のためにそれを授けるだけでなく、平安の子らすべてに彼らによって伝えられるべき信託として彼らに委ねられる(ルカ 10:5、6)。

[2] 委任そのもの。それは非常に大いなるものとして響く。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。

第一に、キリストがどのように彼らを遣わされたかを理解するのは容易である。彼は彼らに、地の上で彼のわざを続け、彼の福音の拡散と人々の間の彼の王国の確立のために自分たちを捧げるよう任命された。彼は彼らを神聖な委任状をもって権威づけ、神聖な力をもって武装して遣わされた。平和を取り計らうために大使として、それを宣布するために伝令として、結婚に招くためにしもべとして。それゆえ彼らは使徒—遣わされた者—と呼ばれた。

第二に、しかしキリストがどのように父が彼を遣わされたように彼らを遣わされたかは容易には理解できない。確かに彼らの委任と力は彼のものに比べて無限に劣っていた。しかし、1. 彼らのわざは彼と同じ種類のものであり、彼らは彼がやめた所で続くことであった。彼らは彼のように祭司や王としてではなく、ただ預言者として遣わされた。彼が真理にあかしするために遣わされたように、彼らもそうであった。和解の仲介者としてではなく、その説教者と公刊者としてのみ。彼は仕えられるためではなく、仕えるために遣われたのか。ご自身の意志ではなく、彼を遣わされた方の意志を行うために。律法と預言者を滅ぼすためではなく、それらを満たすために。彼らも同様であった。父が彼をイスラエルの家の失われた羊に遣わされたように、彼は彼らを全世界に遣わされた。2. 彼は彼らを遣わす力を、彼を遣わした父の力と等しいものとして持っておられた。ここに比較の力点があるようである。父がわたしを遣わされたのと同じ権威によって、わたしはあなたがたを遣わす。これはキリストの神格を証明する。彼が与えた委任は、父が与えたものと等しい権威を持ち、あらゆる意図と目的のために有効で効果的であった。彼が旧約の預言者たちに幻において与えたものと等しい。ペテロとヨハネの委任は、キリストの平易なことばによって、主が御座に着いておられるイザヤやエゼキエルのものと同じくらい良い。いや、そのわざのために調停者ご自身に与えられたものと等しい。彼がそのわざのために論争の余地のない権威と抵抗し得ない能力を持っていたように、彼らも彼らのもののために持っていた。あるいはこう。父がわたしを遣わされたようには、まるで彼の力の朗読である。調停者としての権威の価徳において、彼はその代理人として、彼らの務め人として、彼の名において、人の子らと共に行動する権威を彼らに与えられた。それゆえ彼らを受け入れるか拒む者は、彼を受け入れ、彼を拒むのであり、彼を遣わされた方も同様である(ヨハ 13:20)。

(4) 彼らの委任によって彼らにゆだねられた信託を遂行するための彼らの資格づけ(ヨハ 20:22)。彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。観察せよ。

[1] 彼が今彼らに授与しようとしておられる賜物を彼らに確信させ、感動させるために用いたしるし。彼らに息を吹きかけられた。このいのちの息によって彼ご自身が現実に生きていることを彼らに示すためだけでなく、彼らが彼から受け取るべき霊的ないのちと力を、彼らの前にあるすべての奉仕のために示すため。おそらく彼は彼らすべてに共に息を吹きかけられた。それぞれに別々にではなく。トマスは彼らと共にいなかったが、主の御霊はエルダドとメダドにしたように彼を見いだす所を知っておられた(民 11:26)。キリストはここで最初の人の創造に言及しているようである。いのちの息を彼に吹き入れることによって(創 2:7)。そしてご自身がそのわざの著者であり、務め人とクリスチャンの霊的ないのちと力が彼から派生し、彼に依存することを、アダムとその子孫の自然ないのちと同じように暗示する。全能者の息が人にいのちを与え、古い世界を始めたように、力強い救い主の息がその務め人にいのちを与え、新しい世界を始めた(ヨブ 33:4)。今やこれはわたしたちに暗示する。第一に、御霊はキリストの息であり、子から出るものである。御霊は旧約では息に例えられる(エゼ 37:9)。来たれ、息よ。しかし新約はそれがキリストの息であることを告げる。神の息はその怒りの力のために用いられる(イザ 11:4、30:33)。しかしキリストの息はその恵みの力を意味する。脅しの息はキリストの執り成しによって愛の息に変えられる。わたしたちのことばはわたしたちの息によって発せられる。このようにキリストのことばは霊であり、いのちである。ことばは御霊から来る。そして御霊はことばと共に来る。第二に、御霊はキリストの賜物である。使徒たちは手を按手することによって聖霊を伝えた。その手はまず祈りのうちに上げられて。なぜなら彼らはこの祝福を乞うことしかできず、使者としてそれを運ぶことしかできなかったから。しかしキリストは息を吹きかけることによって聖霊を授けられた。彼がその賜物の著者であり、彼からそれが本来来るから。モーセはその御霊を与えることができなかった。神がした(民 11:17)。しかしキリストはご自身でされた。

[2] このしるしによって意味された厳かな授与。聖霊を受けなさい。今は一部において、多くの日ならずしてさらに受けるべきものの保証として。彼らは今やこれまで受けた以上の聖霊を受けた。このように霊的な祝福は漸次的に与えられる。持つ者には与えられる。今やイエスが栄光を受け始めるにつれて、御霊の授与が始まった(ヨハ 7:39を見よ)。この授与に何が含まれるかを見よう。第一に、キリストはここによって彼らの将来のわざにおける御霊の助けを彼らに保証される。今与えられた委任の執行において。「わたしはあなたがたを遣わす。そしてあなたがたと共に行く御霊を持つであろう」。今や主の御霊が彼らの上に休んで、彼らの前にあるすべての奉仕のために彼らを資格づけた。キリストが用いる者はその御霊によって衣を着せ、すべての必要な力を備えられる。第二に、彼はここによって彼らの現在の場合における御霊の影響の経験を彼らに与えられる。彼はその復活の真理を確信させるためにその手とわき腹を彼らに示された。しかし最も平明な証拠もそれ自体では信仰を働かせない。兵卒たちの不信仰が証しである。彼らは復活の唯一の目撃者であったのに。「それゆえ聖霊を受けなさい。あなたがたのうちに信仰を働かせ、あなたがたの理解を開くために」。彼らは今ユダヤ人の危険にあった。「それゆえ聖霊を受けなさい。あなたがたのうちに勇気を働かせ」。キリストが彼らに語られたことを、彼はすべての真の信じる者に語られる。聖霊を受けなさい(エペ 1:13)。キリストが与えるものをわたしたちは受けなければならない。わたしたち自身とわたしたちの全魂を祝福された御霊の生かす、きよめる影響に服させる。その動きを受け入れ、それに従う。その力を受け入れ、それを用いる。このようにこのことばを戒めとして守る者は、約束としてその益を持つであろう。彼らはその道の導き手として、その受け継ぎの保証として聖霊を受けるであろう。

(5) その委任によって彼らに与えられた力のひとつの特定の枝が特に記される(ヨハ 20:23)。あなたがたがだれの罪でも赦すなら、ゆだねられた力の正当な執行において、その人は赦される。そしてその慰めを取ることができる。あなたがたがだれの罪でもそのままにするなら、すなわち赦されない、その咎が縛られたと宣告するなら、それはそのまま残される。そして罪人はその悲しみのためにそれを確かめることができる。これは彼らが聖霊を受けたことに続く。なぜなら、もし彼らが特別の識別の御霊を持っていなかったなら、そのような権威を信託されるにふさわしくなかったから。厳密な意味において、これは使徒たち自身と福音の最初の説教者たちへの特別の委任である。彼らは苦さの絆と不義のきずなにある者とそうでない者とを区別できた。この力の価徳において、ペテロはアナニヤとサッピラを死に撃ち、パウロはエルマを盲目にした。しかしそれは教会とその務め人たちへの一般的な特許として理解されなければならない。世のだれまたは会社に判断の無誤性を保障するものではなく、神の奥義の忠実な管家たちに、彼らが遣わされて宣べ伝える福音に固執することを励ます。神ご自身がそれに固執されるから。使徒たちは罪の赦しを宣べ伝えるにあたり、エルサレムから始めなければならなかった。たとえ彼女が最近キリストの血の咎を自らに招いたとしても。「しかし福音の条件に従って彼らの罪が赦されたと宣言し得る」。そしてペテロはそうした(使 2:38、3:19)。キリストはわたしたちの義認のために甦り、その福音の伝令たちにヨベルの始まり、今通過した恩赦の法を宣布するよう遣わされる。そしてこの規則によって人がさばかれる(ヨハ 12:48、ロマ 2:16、ヤコ 2:12)。神は決してこのさばきの規則を変えず、それから外れない。福音が無罪とする者は無罪とされ、福音が罪に定める者は罪に定められる。これは務めに計り知れない栄誉を与え、務め人たちに計り知れない勇気を与えるべきである。使徒たちとキリストの務め人たちが罪を赦し、またそのままにする二つの方法。両方とも権威を持って。[1] 健全な教理によって。彼らは世に、救いが福音の条件において得られること、そしてそれ以外にはないことを告げるよう委任される。そして神がそれにアーメンと言われるのを見いだすであろう。彼らの宣告がそのようになる。[2] 厳格な規律によって。福音の一般規則を特定の者に適用して。「福音の規則に従ってあなたがたとの交わりに入れる者を、神はご自身との交わりに入れられる。そして不悔改で、悪意ある罪に固執する者として交わりから追い出す者を、神の正しいさばきに縛られる」。

三. この報告がなされた時のトマスの不信仰。これはキリストの第二の現れをもたらした。

1. ここにこの集会からのトマスの不在がある(ヨハ 20:24)。彼は十二弟子のひとりと言われる。使徒たちのグループのひとり。今は十一人であったが、かつて十二人であり、再びそうなるはずであった。彼らは十一人にすぎず、そのうちのひとりが欠けていた。キリストの弟子たちは大いなる日の一般的集会まで決してすべて共にいることはないであろう。おそらくトマスの不幸は彼が不在であったことであった。—気分が悪かったか、通知を受けなかった。あるいはおそらく彼の罪と愚かさであった。—業務や会社によって気を散らされ、この機会を優先した。あるいはユダヤ人を恐れて来られなかった。そして自分の臆病さを慎み深さと警戒と呼んだ。いずれにせよ、その不在によって彼は主人が甦られたのを見、その機会に弟子たちと喜びを分かち合う満足を逃した。注。クリスチャンの定められた荘厳な集会から不注意に不在する者は、自分たちが何を失うかを知らない。

2. ほかの弟子たちが主人が彼らになされた訪問について彼に与えた報告(ヨハ 20:25)。次に彼に会った時、彼らは喜んで彼に言った。わたしたちは主を見た。そして疑いなく、特に彼らにその手とわき腹を示されたことによって与えた満足を含め、すべてを彼に語った。トマスはその時彼らから離れていたが、長く離れていなかったようである。一時的な不在者は永遠の背教者として非難されてはならない。トマスはユダではない。彼らがどれほど歓喜と勝利をもってそれを語るかを観察せよ。わたしたちは主を見た。これまで見た最も慰めに満ちた光景を。これを彼らはトマスに言った。(1) 彼の不在をとがめるために。わたしたちは主を見た。しかし君は見ていない。あるいはむしろ、(2) 彼に知らせるために。わたしたちは主を見た。君もここにいて、彼を見られたらよかったのに。十分に満足させられたであろうに。注。キリストの弟子たちは、聞いたことを繰り返すことによって不在していた者に—第二の手で聞かせることによって、また経験したことを伝えることによって、互いに最も聖なる信仰の上に互いを建て上げることに努めるべきである。信仰によって主を見、彼が恵み深いことを味わった者たちは、神がその魂のためになされたことを他者に告げるべきである。ただ誇りは除かれるべきである。

3. トマスがその証拠に対して提起した異議。自分がそれを受け入れることの不本意さを正当化するために。「あなたがたが主が生きておられるのを見たと言わないでください。あなたがたは軽信すぎる。誰かがあなたがたを馬鹿にしたのでしょう。わたしとしては、私がその手に釘の跡を見、それに指を差し込むだけでなく、わき腹の傷に手を差し入れるのでなければ、決して信じないと決心しています」。これを(ヨハ 11:16、14:5)で彼が語ったことと比較する者は、彼を荒っぽく、無愛想な性分の者と推測する。すべての良い人が同じように性分において幸いであるわけではないから。いずれにせよ、この時の彼の行いには確かに多くの悪いところがあった。(1) 彼はキリストがしばしば語られたこと、しかも旧約に従って、三日目に甦るであろうということを、注意しなかったか、あるいは正当に顧みなかった。それゆえ彼は、たとえ彼を見ず、彼を見た者と語らなくても、彼は甦ったと言うべきであった。(2) 彼は同労者たちの証しに正当な敬意を払わなかった。彼らは知恵と誠実さの持ち主であり、信用されるべきであった。彼は彼らが正直な者であることを知っていた。十人全員が大いなる確信をもって証しに一致した。しかし彼らの記録が真実であると言うようには自分を説得できなかった。キリストは彼らをこのまさにこのことのすべての国民への証人として選ばれた。しかしトマス、彼ら自身の仲間のひとりは、彼らが有能な証人であることを認めようとせず、見る以上に彼らを信じようとしなかった。しかし彼が疑ったのは彼らの誠実さではなく、彼らの思慮であった。彼は彼らが軽信すぎるのではないかと恐れた。(3) 彼はキリストを試み、イスラエルの聖なるかたを制限した。自分の方法によって、あるいは全く納得しないという時に。使徒たちが彼らが見たと言った釘の跡が、それに指を差し込むことを許すであろうと確信できなかった。またわき腹の傷が手を差し入れることを許すであろうとも。また生きたからだにそのように粗雑に扱うことはふさわしくなかった。しかしトマスはこの証拠に信仰を縛った。彼は自分の気まぐれを満足させ、自分の空想を喜ばせるか、そうでなければ信じない(マタ 16:1、27:42を見よ)。(4) 弟子たちの前でのこの公の宣言は、彼らへの offence と落胆であった。それは罪であるだけでなく、不祥事であった。ひとりの臆病者が多くを作るように、ひとりの不信者、ひとりの懐疑者は、その兄弟たちの心を自分の心のように弱ませる(申 20:8)。彼がただこれを悪いと思い、口に手を置いてそれを抑えたなら、彼の誤りは自分自身と共にとどまったであろう。しかし彼の不信仰の宣言、しかもそのように独断的なものは、まだ弱く揺れ動くほかの者たちに悪い結果をもたらし得た。

John 20章 26-31 Matthew Henry's Complete Commentary

The Incredulity of Thomas

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トマスの不信仰

²⁶八日ののち、弟子たちがまた室内におり、トマスも共にいた。その時、イエスが来られた。戸は閉ざされていたのに。そして彼らの真中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 ²⁷それからトマスに言われた。「あなたの指をここに出しなさい。わたしの手を見なさい。あなたの手を出して、わたしのわき腹に差し入れなさい。信じない者にならず、信じる者になりなさい」。 ²⁸トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神」。 ²⁹イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」。 ³⁰また、イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。 ³¹しかし、これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスはキリスト、神の御子であると信じるためであり、また信じて、御名によっていのちを得るためである。

ここには、トマスが今や彼らと共にいた時の、復活後の弟子たちへのキリストのもう一つの現れについての記述がある。これについて次のことを観察できる。

一. キリストが弟子たちへの訪問を繰り返されたのはいつであったか。八日ののち。すなわち彼がよみがえられてから一週間後。それゆえにあの時と同様、週の初めの日でなければならなかった。

  1. 彼は次の現れをしばらく延期された。弟子たちに、彼が以前のように彼らと絶えず交わるためによみがえられたのではなく、別の世界に属し、天使がするように、時々、必要がある時にだけこれを訪れる者であることを示すために。これらの八日の間、また地にとどまられた残りの間、キリストがどこにおられたかを問うことは愚かであり、決定することは僭越である。どこにおられても、疑いなく御使いたちは彼に仕えた。その奉仕の初めに、彼は四十日間見えず、悪霊によって試みられた(マタ 4:1、2)。そして今、その栄光の初めに、彼は四十日間、ほとんど見えず、良い霊たちに仕えられた。

  2. 彼は七日間もそれを延期された。なぜか。(1) トマスの不信仰を責めるため。彼は弟子たちの前の集会を怠った。そして今後そのような恵みの季節をより良く尊ぶことを教えるために、彼は数日間そのような機会を持てない。一つの潮を逃す者は、次の潮のために長く待たなければならない。トマスは非常に憂鬱な一週間を過ごしたであろうと考える理由がある。他の弟子たちが喜びに満ちている間、落ち込み、不安の中に。そしてそれは彼自身とその自分の愚かさによるものであった。(2) 他の弟子たちの信仰と忍耐を試みるため。彼らが主を見たと確信した時に、大いなる点を得た。その時、弟子たちは喜んだ。しかし数日間彼を見ない時に、得た地を保てるかどうかを試みる。そしてこのように彼は彼らをその肉の臨在から徐々に離乳される。彼らはそれに溺れ、あまりに依存していた。(3) 週の初めの日を尊び、それがキリスト教会においてキリスト教的安息日、聖なる休息と聖なる集会の毎週の日として守られるべきであるというご自身の御旨の平明な示唩を与えるため。七日のうちの一日が宗教的に守られるべきことは、最初からの、無垢と同じくらい古い定めであった。そしてメシヤの王国において週の初めの日がその荘厳な日となるべきことは、キリストがその日に一度ならず再び弟子たちを宗教的な集会において迎えられたことで十分な表示であった。非常に可能性が高いのは、前の現れにおいて、彼は彼らに一週間後に再び集まるようにと命じ、彼らに会うことを約束されたことである。また、四十日間、他の時に加えて、毎週の初めの日に彼らに現れたことである。その日の宗教的な遵守はそれ以来、教会のあらゆる時代を通じてわたしたちに伝えられた。それゆえにこれは主が造られた日である。

二. キリストが彼らにこの訪れをどこで、どのように、なされたか。それはエルサレムにおいてであった。戸は以前と同様、ユダヤ人を恐れて閉ざされていた。彼らはそこに、種入れずのパンの祭りを七日間守るためにとどまった。それはこの日の前日に終わった。しかしその週の初めの日であるゆえに、キリスト的安息日であったから、ガリラヤへの旅に出発せず、翌日までとどまった。さて次のことを観察せよ。1. トマスが彼らと共にいた。彼は一度身を引いたが、二度目はしなかった。一つの機会を失った時、次を捉えるためにいっそう真剣に注意を払うべきである。そうして損失を回復するために。そのような損失がわたしたちの願いを鋭くするなら、それは良いしるしであり、それが冷ますなら、悪いしるしである。弟子たちは彼を仲間に受け入れ、キリストの復活を自分たちがするように信じることを彼に主張しなかった。それはまだ暗く啓示されていただけであったから。彼らは彼を疑いの論争に受け入れたのではなく、来て見るようにと歓迎した。しかし観察せよ。キリストはトマスの満足のために、彼を他の弟子たちと共に社会の中にいるのを見つけるまで、彼に現れになさらなかった。それはキリスト教徒と奉仕者の集会を認めるためである。そこに彼は彼らの真中にいるからである。さらに、彼はすべての弟子たちに、トマスに与えた責めの、しかしそれとともに彼に対する やさしい配慮の証人となることを望まれた。2. キリストが彼らの真中に来て、立たれた。そして彼らは皆彼を知った。彼は今、以前に示されたのと全く同じように示された(ヨハ 20:19)。相変わらず同じであり、変化しない。わたしたちの主イエスのへりくだりを見よ。天の門は彼に開かれる用意ができており、そこで彼は無数の御使いたちの礼拝の真中にいることができたであろう。しかし、その教会の益のために、彼は地にとどまり、貧しい弟子たちの小さな私的な集会を訪れ、その真中におられた。3. 彼は以前と同様、友好的な仕方で彼らすべてに挨拶された。平安があなたがたにあるようにと言われた。これはむだな繰り返しではなく、キリストが与える豊かで確かな平安と、その民への祝福の継続を意味する。それらは絶えず、毎朝新しく、毎回の集会で新しくされる。

三. この集会においてキリストとトマスとの間に何が行われたか。そしてそれだけが記録されている。他の者たちにも多くを語られたと想定できるが。ここに、

  1. トマスへのキリストの恵み深いへりくだり(ヨハ 20:27)。彼を他の者たちから選び出し、特に彼に向かわれた。「あなたの指をここに出しなさい。そして、あなたがそうしたいのなら、わたしの手を見なさい。そして釘の跡についての好奇心を極限まで満足させなさい。あなたの手を出して、もしそれ以外に納得するものがなければ、わたしのわき腹に差し入れなさい」。ここに次のことがある。(1) トマスの不信仰の暗黙の責め。トマスの語ったことの平明な言及において。語を語に答える。彼はそれを聞いていた—見えないままで。そして彼がそれを彼に告げたことは、彼を恥じ入らせるであろうと思われる。注。わたしたちの舌の上に不信仰の語が一つもなく、いつでも心に思いがない。しかし主イエスに知られている(詩 78:21)。(2) この弱さへの明示的なへりくだり。二つのことに現れる。[1] 彼はその知恵に指示されることを許される。偉大な霊は、その下の者に指示されることをしない。特にその恵みのわざにおいて。しかしキリストはここで、彼と決裂し、不信仰に彼を残すよりは、むしろ不要な事においてトマスの空想にご自身を適応させることを喜ばれる。彼は傷ついた葦を折らず、良い牧者として追いやられたものを集める(エゼ 34:16)。わたしたちはこのように弱い者の弱さを担うべきである(ロマ 15:1、2)。[2] 彼はその傷がほじくられることを許される。もしそれでついに信じるなら、トマスがその手をわき腹に突っ込むことさえ許す。このように、わたしたちの信仰の確認のために、彼はその死を記憶に留めるためにことさら定めを設けられた。それは恥ずべき、恥辱的な死であり、忘れられ、もう語られない方がよいと思われるであったのに。しかし、それがわたしたちの信仰への励ましとなる愛の証拠であったので、その記念の祝うことを任命された。そして主の死を示すその定めにおいて、わたしたちはまるで指を釘の跡に置くように召される。助け、招き、与える手を差し出される方に、あなたの手を出しなさい。

キリストがトマスに語るべきことを閉じられる、感動的な言葉である。信じない者にならず、信じる者になりなさい。me ginou apistos—不信仰者にならないように。まるで彼が今従わないなら、不信仰の下に封印されるであろうかのように。この警告はわたしたちすべてに与えられる。信じない者にならず。なぜなら、もしわたしたちが信じないなら、キリストのない、恵みのない、希望のない、喜びのない者となるから。それゆえに言おう。主よ。わたしは信じます。わたしの不信仰を助けてください。

  1. イエス・キリストへのトマスの信じる同意。彼は今その不信仰を恥じ、叫ぶ。「私の主。私の神」(ヨハ 20:28)。彼が指を釘の跡に入れたかどうかは告げられていない。入れなかったようである。なぜならキリストが言われるから(ヨハ 20:29)。「あなたは見て、信じたのですか」。見ることで十分であった。そして今、信仰は不信仰との戦いの後に征服者として現れる。

(1) トマスは今、キリストの復活の真理について完全に満足した—十字架につけられた同じイエスが今生きており、この方であること。彼の信じることの遅さと後ろ向きは、わたしたちの信仰を強めるのに役立つかもしれない。なぜならこれによって、世にそれをあかしし、その上に自分たちのいのちを質に入れたキリストの復活の証人たちが、信じやすい軽信な者ではなく、十分に慎重であり、望みうる最大の証拠を見るまでその信じることを保留したことが現れるから。このように食べる者から肉が出た。

(2) それゆえに彼を主であり神であると信じた。そしてわたしたちもそう信じるべきである。[1] その神格を信じなければならない—彼が神であることを。神とされた人ではなく、人とされた神として。この福音記者が最初にその主題を置いたように(ヨハ 1:1)。わたしたちの聖なる宗教の著者また頭は、神の知恵、力、主権、不変性を持つ。それは必要であった。なぜなら彼はその創設者であるだけでなく、その絶え間ない支持のためのその土台、またその供給のためのいのちの泉となるべきであったから。[2] その執り成しを—彼が主であることを、唯一の主(Ⅰコリ 8:6、Ⅰテモ 2:5)。彼は十分に権威を与えられている。全権大使として、神と人の間にある大いなる関心事を解決し、必然的にわたしたちの破滅となるであろう論争を取り上げ、わたしたちの幸福に必要な対応を確立するために(使 2:36、ロマ 14:9を見よ)。

(3) 彼は自分の主であり自分の神として彼に同意した。信仰において、福音の真理への理解の同意と同様に、福音の条件への意志の同意がなければならない。わたしたちはキリストを、父が彼に任命されたものとして自分たちに受け入れなければならない。私の主はアドナイ—私の基礎と支え—に関わる。私の神はエロヒム—私の君であり裁き主—に。神が彼を仲裁者と裁定者として定められたので、わたしたちはその選択を承認し、完全に自分自身を彼にゆだねなければならない。これが信仰の本質的な行為である。彼はわたしのもの(雅 2:16)。

(4) 彼はこれを公に告白した。自分の不信仰の疑いの証人であった者たちの前で。彼はキリストに向かってそれを言う。そして意味を完全にするために、あなたは私の主、私の神、と読まなければならない。あるいは兄弟たちに向かって、この方こそ私の主、私の神、と。わたしたちはキリストを主なる神として受け入れるか。彼のところに行き、そう告げなければならない。ダビデのように(詩 16:2)。自分の行為として引き渡しを彼に渡し、他者にも告げなければならない。キリストとの関係において凱歌する者のように。この方は私の愛する方。トマスは愛情の激しさをもって語る。キリストを全力で掴んだ者のように。私の主。私の神。

  1. 全体に対するキリストの判断(ヨハ 20:29)。「トマス。あなたはわたしを見たから信じたのですか。どんな条件の上であれ、ついにそこに至ったことは良い。しかし見ずに信じる者は幸いです」。ここに、

(1) キリストはトマスを信じる者と認める。健やかで誠実な信じる者は、たとえ遅く、弱くても、主イエスに恵み深く受け入れられる。長く抵抗した者も、もし最後に従うなら、赦す準備ができた方を見いだす。トマスがキリストに同意するやいなや、キリストは彼にその慰めを与え、彼が信じていることを知らせる。

(2) 彼はその以前の不信仰を責める。彼は次のことを考えるとよく恥じるべきであった。[1] これほど信じるのに後ろ向きであり、自分自身の慰めにこれほどゆっくり来たこと。誠実にキリストに同意した者は、もっと早くしなかったことを嘆く多くの理由を見る。[2] 最後に信じるために多くの骨折りがなければ連れて来られなかったこと。もし生きておられるわたしを見なかったなら、あなたは信じなかったであろう。しかしもしそれ自身の感覚の証拠以外認められず、わたしたち自身が目撃者でないものは何も信じないなら、あらゆる交わりと会話に別れを告げよ。もしこれが証明の唯一の方法でなければならないなら、世はどのようにキリストの信仰に回心されるのか。それゆえ彼がこれほど重きを置いたことは正当に非難される。

(3) 彼はより容易な条件で信じる者の信仰を褒める。信じる者としてトマスは真に祝福されていた。しかし見ない者はさらに幸い。これは信じる対象を見ないこと(それは目に見えないから—ヘブ 11:1、Ⅱコリ 4:18)ではなく、信じる動機—キリストの奇跡、特にその復活—を見ないことを意味する。これらを見ず、なおキリストを信じる者は幸いである。これは振り返ることも、前を見ることもできる。後ろに向けては、旧約の聖徒たちに。彼らは彼らが見たものを見なかったのに、父祖たちになされた約束を信じ、その信仰によって生きた。前に向けては、後に信じる者たちに。異邦人に。彼らはユダヤ人がしたように肉においてキリストを見たことがなかった。この信仰は見て信じた者たちのものよりも称賛され、褒められる。なぜなら、[1] それは信じる者たちのより良い心の状態を証拠するから。見ずに信じることは、真理を探求するにより大いなる勤勉を、それを受け入れるにより大いなる素直さを主張する。見ることによって信じる者は、一種の暴力によってその抵抗を征服される。しかし見ずに信じる者は、ベレヤ人のように、気高く、より優れている。[2] それは神の恵みの力のより大いなる実例である。証拠が感覚的でなければないほど、信仰のわざが主のわざであることがますます現れる。ペテロはその信仰において祝福されている。肉と血がそれを啓示したのではないから(マタ 16:17)。肉と血は見て信じる者の信仰に、見ずに信じる者の信仰よりも多くを寄与する。ライトフット博士はあるラビの言葉を引用する。「一人の改宗者の方が、シナイ山の前に立ったイスラエルの何千よりも神に受け入れられる。彼らは見て律法を受けたが、改宗者は見ずに受け入れるから」と。

四. 福音記者がその叙述について行う注釈。歴史家が結論に向かって引き寄せるように(ヨハ 20:30、31)。ここに、

  1. 彼は多くの他の事が起こったことを保証する。それはすべて記録されるに値するが、この書には書かれていない。多くのしるし。ある人々はこれをイエスがその全生涯の間になされたすべてのしるしに帰する。語られたすべての奇跡の言葉、なされたすべての奇跡のわざ。しかしそれはむしろ復活後になされたしるしに限定されるようである。なぜならこれらはここで語られている弟子たちの前だけでなされたから(使 10:41)。その現れのいくつかは記録されていない。Ⅰコリ 15:5-7に現れるように。使 1:3を見よ。さて、(1) わたしたちはここに、他にも多くのしるしがあったという一般的な証明を向上できる。わたしたちの信仰の確認のために。そして特定の叙述に加えられて、それらは証拠を非常に強める。キリストの復活を記録した者たちは、証拠を探すために、見つけ短く乏しい証拠を取り上げ、残りを推測で埋めることはしなかった。いや、彼らには十分すぎる証拠があり、必要以上の証人がいた。これらの他のしるしがなされた弟子たちの前で、他者へキリストの復活の宣教者となるべきであった。それゆえex abundanti—豊かに—その証拠を持つことが必要であった。いのちとすべてをその上に冒険する者たちが、強い慰めを持つために。(2) なぜそれらがすべて書かれなかったのか、なぜこれ以上または他のものが書かれなかったのかを問う必要はない。聖霊の御心にそうされたのであって十分であるから。その霊感によってこれが与えられた。もしこの歴史が単なる人間の作品であったなら、宣誓供述や宣誓陳述書の多数で膨らみ、キリストの復活の論争された真理を証明し、その実証のために長い論証が引き出されたであろう。しかし神の歴史であるので、筆者たちは高尚な確信をもって書く。教えられたいと願う者を確信させ、不信仰において頑強な者を定めるのに十分な、有能な証拠となるものを語る。もしこれで満足しないなら、もっとあっても満足しないであろう。人は信用を得るために持っているすべてを語る。しかし神はそうしない。神は信仰を与えることができるから。もしこの歴史が好奇心を満たすために書かれたのであれば、もっと豊かであったか、すべての事情が物語を輝かせ、飾ったであろう。しかし、それは人々を信じるに至らせるために書かれた。そしてその意図に答えるのに十分なことが語られた。人々が聞くか、差し控えるかに関わらず。

  2. 彼はここで見いだすものを記録した設計においてわたしたちに教える(ヨハ 20:31)。「これらの記述はこの章と次の章で与えられた。あなたがたがこれらの証拠の上で信じるため。イエスはキリスト、神の子であると信じるため。復活によってそうであると力をもって宣言された」。

(1) ここに福音を書いた者たちの設計がある。ある者は気晴らしのために書き、利益や拍手のために出版する。他の者はアテネ人の気質に応じるために、他の者は世俗的な利益のために世界に芸術や科学を教えるために。しかし福音記者たちは、自分自身や他者の世的な利益の見地なしに書いた。人々をキリストと天に導くために。そしてこのために人々に信じるよう説得するために。そしてこのために最も適切な方法を取った。彼らは世に、正当な証拠で支えられた神の啓示をもたらした。

(2) 福音を読み、聞く者の義務。それは信じる義務、キリストの教えを受け入れる義務、また彼について与えられたあかしを受け入れる義務である(Ⅰヨハ 5:11)。[1] ここでわたしたちが信じるべき大いなる福音の真理が告げられる。イエスがそのキリスト、その神の子であること。第一に、彼がキリストであること。メシヤの称号の下に、旧約の聖徒たちに約束され、待望された方。またその名の意味に従い、君であり救い主として油注がれた方。第二に、彼が神の子であること。執り成し手としてだけでなく(そうであれば、預言者、執り成し手、律法制定者であったモーセ以上ではなかったであろうが)、執り成し手であることに先立って。なぜなら、もしそ方が神の位であり、神の力を授けられ、神の栄光にあずかるものでなかったなら、その引き受けに資格がなかったであろうから—贖い主のわざをするにも、贖い主の冠を戴くにもふさわしくなかったであろうから。[2] わたしたちが希望すべき大いなる福音の祝福が何であるか。信じて、御名によっていのちを得ること。これは、第一に、わたしたちの信仰を導く。それはいのちに、いのちの冠に、わたしたちの前に置かれたいのちの木に目を留めなければならない。キリストの御名によるいのち—キリストにおいてわたしたちと結ばれた契約において提案されるいのちは、わたしたちの喜びの満ち満ち、またわたしたちのすべての奉仕と苦難の豊かな報いとして、自分たちに提案すべきものである。第二に、わたしたちの信仰を励まし、信じるよう招く。ある大いなる利益の見込みの上に、人は遠くまで冒険する。そしてこのいのちのことば(福音はそう呼ばれる—使 5:20)が提供するもの以上に大いなる利益はあり得ない。それは神への同形と神との交わりにおける霊的ないのちと、神の見ることと楽しむことにおける永遠のいのちの両方を含む。両方ともキリストの御名によって、その功績と力によって。そして両方ともすべての真の信じる者に取り消せなく確かである。