Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ あなたは鉤でレビヤタンを引き出せるか。綱でその舌を引き下げられるか。 ² あなたはその鼻に鉤を通せるか。いばらでそのあごを刺し通せるか。 ³ それはあなたに多くの願いをするか。それはあなたにやさしい言葉を語るか。 ⁴ それはあなたと契約を結ぶか。あなたはそれをとこしへに仕える者とするか。 ⁵ あなたはそれを鳥のように扱うか。あなたはそれを自分の侍女たちのために縛るか。 ⁶ 同伴者たちはそれで宴会を設けるか。商人たちはそれを分けるか。 ⁷ あなたはその皮に鉄のもりを満たせるか。その頭に魚のやりを満たせるか。 ⁸ あなたの手をその上に置け。戦いを思い出せ。もう二度とするな。 ⁹ 見よ、それを捕える望みはむなしい。その姿を見るだけでだれか倒れないか。 ¹⁰ あえてそれを挑発するほど激しい者はない。それならだれが私の前に立つことができようか。
このレビヤタンが鯨であるか、わにであるかは、学者たちの間の大いなる論争であり、私は決定しようとはしない。ある詳細は一方により容易に、他の詳細は他方により容易に合致する。両者とも非常に強く激しく、創造者の力がその中に現れる。すぐれたリチャード・ブラックモア卿は、ベヘモトについては、それは象を意味しなければならないというより広く受け入れられた意見を認めつつも、レビヤタンについては、エジプトの川でよく知られていたわにであるという学者ボシャールの見解に同意する。私は告白する。私をむしろそれを鯨と理解する傾けるのは、それがはるかに大きく、より高貴な動物であるからだけでなく、創世の物語において、他のいかなる動物の種類にも増して、それが特別に言及されているからである(創世記 1:21「神は巨大な鯨を創造された」)。これにより、ヨブの少し後に生きたモーセの時代に、それらの地域で鯨がよく知られていただけでなく、鯨の創造が一般的に創造者の永遠の力と神性の最も輝かしい証拠と見なされていたことが現れる。そして私たちは、これがその理由であったと推測できる(さもなければ説明できないが)。なぜならモーセがそこで鯨の創造をかくも特別に言及したかというと、神がかくも最近まで、他のいかなる被造物よりもその被造物の大きさと力を、ご自身の力の証拠として強調されたから。そしてレビヤタンはここで海の住人として語られる(ヨブ記 41:31)。わにはそうではない。そして詩篇 104:25,26、「そこで広い海に、レビヤタンがいる」。これらの節で、
一、神はヨブがレビヤタンを制するにいかに不適任であるかを示される。1. 彼が小さな魚のように釣りで捕まえられないこと(ヨブ記 41:1,2)。彼はそれを欺く餌を持たず、それを捕える鉤を持たず、それを水から引き出す釣り糸を持たず、それを持ち帰るためにえらに通すとげを持たない。2. 彼がそれを捕虜にし、命乞いをさせ、無条件に降伏させることができないこと(ヨブ記 41:3,4)。「それは自分自身の力をよく知っている。『あなたに多くの願いをし』、『あなたと契約を結んで』、命を助ける条件であなたのしもべとなることをしない」。3. 彼がそれをかごに誘い入れ、子どもたちが遊ぶための鳥のようにそこに保てないこと(ヨブ記 41:5)。かく小さく、かく弱く、容易にかく制限され、勝たれる被造物がある。しかしレビヤタンはこれらの一つではない。それは人類の慰めではなく、恐怖のために造られた。4. 彼がそれを自分の食卓に供することができなかったこと。彼とその同伴者たちはそれで宴会を設けることができない。その肉は食物に適するには強すぎ、もしそうでなくても、それは容易に捕まらない。5. 彼らがその戦利品で富むことができなかったこと。「彼らはそれを商人たちの間で分けるか」。骨をある者に、油を他の者に。もしそれを捕まえられればそうするであろう。しかし鯨漁の術はその後のように当時完成されていなかったようである。6. 彼らがそれを滅ぼすことができなかったこと。「その頭に魚のやりを満たす」ことができなかった(ヨブ記 41:7)。それは殺戮の道具の届く範囲から外れていた。あるいは、彼らがそれに触れても、急所に触れることができなかった。7. それを試みるのは無駄であったこと。「それを捕える望みはむなしい」(ヨブ記 41:9)。もし人々がそれを捕らえようとすれば、それはかくも恐ろしく、その姿を見るだけで彼らを怯えさせ、強い人を気絶させそうにする。「その姿を見るだけでだれか倒れないか」。そしてそれは追跡者をその試みから思いとどまらせないだろうか。ヨブは自分の危険において、「その上に手を置け」と告げられる(ヨブ記 41:8)。「あえてするならそれに触れよ。『戦いを思い出せ』。かくも強い力に立ち向かうことにいかに不適任であるか。それゆえに戦いの結果が何であるかを。『もう二度とするな』。すなわち試みをやめよ」。戦いに従事する前に戦いを思い出すことは良い。それが無駄であると予見するなら、時に鎧を外すこと。ヨブはこれによって、神との論争を続けず、神と和睦することを戒められる。もし交戦すれば戦いが確実に何に終わるかを思い出せ。イザヤ書 27:4,5 を見よ。
二、そこから神は全能者と争うに彼がいかに不適任であるかを推論される。「あえてレビヤタンを挑発するほど激しい者はない」(ヨブ記 41:10)。それは確実に彼らより強いことが知られているから。「それならだれが神の前に立つことができようか」。神の手続きを起訴し呼び出すために、あるいは神の怒りの力に立ち向かうために。もし人の足の下に置かれ、人がその上に支配権を持つ下級の被造物でさえ、かくも私たちに畏敬を抱かせるなら、私たちの上に主権的な支配を持ち、人がかくも長く反逆してきた大いなる主の威厳はいかに恐るべきであろうか。「一度怒られる時、だれがその前に立ちえようか」。
¹¹ だれが先に私に与えて、私がそれに報いるべきか。天の下にあるすべてのものは私のものだ。 ¹² 私はその各部を隠さない。その力も、その美しい釣り合いも。 ¹³ だれがその着物の表をあらわにするか。だれが二重のくつわでこれに近づくか。 ¹⁴ だれがその顔の扉を開くか。その歯は周囲に恐ろしい。 ¹⁵ そのうろこはその誇り。密閉したように互いに固く閉じる。 ¹⁶ 一つは他に近く、空気がその間に入れない。 ¹⁷ それらは互いに結び合い、共に固く着いて、引き離せない。 ¹⁸ そのくさめで光が輝く。その目は明け方のまぶたのよう。 ¹⁹ その口から燃えるたいまつが出る。火の花が飛び出す。 ²⁰ その鼻から煙が出る。沸きたつなべやかめのように。 ²¹ そのいぶきは炭火を燃え上がらせる。炎がその口から出る。 ²² その首には力がある。その前では悲しみは喜びに変わる。 ²³ その肉のうろこは互いに結び合う。それらは自ら堅く、動かせない。 ²⁴ その心は石のように堅い。いな、下のひきうすのように固い。 ²⁵ それが身を起こす時、力ある者も恐れる。破れる音のゆえに彼らは身を清める。 ²⁶ それに迫る者の剣は持ちこたえない。槍も、投げ槍も、よろいも。 ²⁷ それは鉄をわらのように思う。青銅を腐った木のように。 ²⁸ 矢はそれを逃がさない。石投げの石はそれにはもみがらに変わる。 ²⁹ 投げ槍はもみがらと思われる。それは槍の振られるのを笑う。 ³⁰ 鋭い石がその下にある。それは泥の上にとがった物を広げる。 ³¹ それは淵をなべのように沸き立たせる。海を香油のなべのようにする。 ³² それはその後に道を輝かせる。淵を白髪のように思わせる。 ³³ 地の上にはこれに並ぶものがない。恐れなく造られた者。 ³⁴ それはすべての高いものを見る。それは誇りの子らすべての上の王である。
神は、ヨブ記 42:1-6 でヨブがレビヤタンを扱うにいかに不適任であるかを示された後、ここでその巨大で力ある被造物におけるご自身の力を示される。ここに、
一、神の主権的な支配と独立が立てられる(ヨブ記 41:11)。1. 神はその被造物のだれにも負傷を負わないこと。もしだれかが神は自分に負債であるとふるなら、その要求を出し、その負債を証明せよ。彼らは全額を、妥協ではなく、受けるであろう。「『だれが先に私に与えたか。』すなわち『だれが何らかの奉仕によって私に義務を負わせたか。だれが私に先んじたとふれるか。もしそのような者があれば、私は彼らに遅れをとらない。まもなく彼らに報いるであろう。』」使徒はすべての肉を神の前に沈黙させるためにこれを引用する(ローマ人への手紙 11:35)。「だれが先に神に与えたか。それが神に再び報いられるであろうか。」神が私たちに負うた悪を行われないように、神は私たちが受けるに値しない恵みを与えられる。2. 神はすべての被造物の正当な主であり所有者であること。「天の下にあるすべてのものは」、生あるものも生なきものも、「私のもの」(特にこのレビヤタン)。私の命令と処分の下に、私が争いのない所有権と支配権を持つもの。すべては神のもの。私たちは神のもの。私たちのすべて、なすすべて。それゆえに私たちは神を私たちの負債者とすることはできない。「主よ、あなたのものから私たちはあなたに捧げたのである」。すべては神のもの。それゆえにもし神がだれかに負債を負うとしても、神は彼らに報いる手段を持つ。負債は良い手にある。すべては神のもの。それゆえに神は私たちの奉仕を必要とされず、それらによって益を受けられない。「もし私が飢えても、あなたに告げない。世界は私のもの、その満ち満ちたものも」(詩篇 50:12)。
二、レビヤタンの驚くべき構造からの証明と解説(ヨブ記 41:12)。
その体の各部、それが特に攻撃された時にふるう力、そしてその全体の美しい釣り合いは、神が隠さないもの。それゆえに私たちが観察し、その中に神の力を認めるべきもの。それは巨大なかさの被造物であるが、その中に「美しい釣り合い」がある。私たちの目には美しさは小さいものにある(小さなものには独自の優雅さがある)。私たち自身がそうであるから。しかし神の目にはレビヤタンでさえ美しい。そして神が鯨でさえ、わにでさえ、かくと宣告されるなら、神のみ手のわざのいずれかを醜い、見苦しいと言うことは私たちのなすべきことではない。そう言うべきなのは、理由があるように、私たち自身のわざについてだけ。神はここでレビヤタンの解剖図を(いわば)与えようとされる。というのも、そのわざはいくつかの部分と釣り合いにおいて取られ、見られる時に、最も美しく優れて見え、神の知恵と力が最も現れるから。(1) レビヤタンは、一見して、恐ろしく近づきがたく見える(ヨブ記 41:13,14)。だれが生きている間に「着物の表」—着物のようにそれを覆う皮膚—をあらわにするため、あるいは馬のようにくつわをはめて連れて行くために、それに近づくことをあえてするか。その二重のくつわのように、あごの届く範囲に近づくことを。だれが馬の口にするように、その口をのぞき込むことを冒すか。「その顔の扉を開く」者は「その歯が周囲に恐ろしい」のを見る。強く鋭く、貪り食うのに適した。その間に足や腕を持つことを考えるだけで人を震えさせる。(2) 「そのうろこは」その美と力。それゆえに「その誇り」(ヨブ記 41:15-17)。わにのうろこは確かに顕著である。もしそれを鯨と理解するなら、これらの「盾」(その言葉はそう)によってその皮膚のいくつかの層を理解しなければならない。あるいはその国にうろこを持つ鯨がいたのかもしれない。うろこについて顕著なのは、それらがかくも密着して「くっつく」こと。それによってそれは暖かく保たれるだけでなく—空気はそれを刺し通せない—安全に保たれる—剣はそのうろこを通してそれを刺し通せない。水に住む魚は、それに応じて摂理の知恵によって要塞化される。衣服を与えるように寒さを与えるから。(3) それはそのいぶきや視線だけで恐怖をまき散らす。もしそれがくさめをするか水を吹き上げれば、あぶくやそれを通して輝く太陽の光のゆえに、光が輝くようである(ヨブ記 41:18)。鯨の目は夜に炎のように輝くと報告されている。あるいはここにあるように「明け方のまぶたのよう」。わにについても同様に言われる。この被造物のいぶきは内なる大いなる自然の熱のゆえにかくも熱く燃えるので、「燃えるたいまつや火の花」、煙と炎が「その口から出る」と言われる。炭火を燃え上がらせるのに十分であるかのように(ヨブ記 41:19-21)。これらの誇張された表現は、レビヤタンについて用いられるのであって、神の怒りの恐怖を示唆するためである可能性が高い。というのも、これらすべてが私たちに悟らせようとするものはそれだから。「その口からの火が貪り食う」(詩篇 18:7,8)。「全能者のいぶきは、硫黄の流れのように、トペテに火をつけ、とこしえにそれを燃やし続ける」(イザヤ書 30:33)。「悪しき者はその口のいぶきによって消される」(テサロニケ人への第二の手紙 2:8)。(4) それは抗しがたい力と最も恐ろしい猛烈さを持つ。それゆえにその道に来るすべての者を恐れさせるが、自らはだれにも恐れさせられない。その首を見よ。そこに力がとどまる(ヨブ記 41:22)。その頭と体はよく一緒に据えられている。「悲しみはその前で喜ぶ」あるいは「その前で勝ち誇る」。それがどこへ行っても恐ろしいわざをするから。あるいは、他者にとって悲しみである嵐はその喜び。他者にとって揺れることは、それにとっては踊ること。その肉はよく組み合わさっている(ヨブ記 41:23)。「その肉のうろこは」かくも密接に「結び合い」「かく堅い」ので、それを刺し通すことは困難。まるで骨ばかりであるかのよう。「その肉は真鍮である」。ヨブが自分のものはそうではないと訴えた(ヨブ記 6:12)。「その心は石のように堅い」(ヨブ記 41:24)。それは体の力に等しい霊を持つ。かさばってはいるが、活発で扱いにくくない。その肉と皮が刺し通せないように、その勇気も挫けない。むしろ逆に、出会うすべての者を挫け、恐怖に陥れる(ヨブ記 41:25)。「それが身を起こす時」、大水の中で動く山のように、「力ある者も恐れる」。船を転覆させるのではないか、あるいは他の危害を加えるのではないかと。それが水に「破れる音」—死を脅かす—のゆえに「彼らは身を清める」。自分の罪を告白し、祈りに身を捧げ、死の準備をする。ヨブ記 3:8 に、レビヤタンを起こす者がかくも恐れてその日をのろう者がいることが読まれる。それは、ある者をそののろいに駆り、他の者をその祈りに駆り立てる恐怖であったようである。なぜなら、今のように、当時も異なる性格の船乗りがおり、海の恐怖が彼らに反対の効果をもたらしたから。しかしレビヤタンが身を起こす時、彼らの間に大いなる恐怖があることには皆が同意する。(5) それに対して用いられるすべての殺戮の道具がそれに危害を加えない。それゆえにそれにとって誤りではない(ヨブ記 41:26-29)。近接して傷つける「剣」と「槍」はそれにとって何でもない。遠くから傷つける「投げ槍、矢、石投げの石」もそれに危害を加えない。自然はそれをすべてに対して隙間なく完全に武装している。レビヤタンと戦う時に人が用いる防御の武器、たとえば「よろい」や胸当ても、しばしば攻撃の武器と同様に役に立たない。「鉄も青銅も」それには「わらや腐った木のよう」。そしてそれはそれらを笑う。これは全能者の恐怖をさげすみ、神の言葉のすべての脅しを笑うかたくなな罪人の絵である。レビヤタンはそれに対して用いられる武器をかくも恐れないので、その勇敢さを示すために、鋭い石、とがった物の上に横たわることを選び(ヨブ記 41:30)、柔らかい泥の上に横たわるかのように安らかにいる。耐え忍ぶ者はそれに慣れなければならない。(6) 水の中でのその動きが水をかき乱し、発酵させる(ヨブ記 41:31,32)。それが転がり、揺れ、水の中で騒ぎ立てる時、あるいは獲物を追う時、「淵をなべのように沸き立たせる」。沸くなべ、特に「香油の」沸くなべの上にできるあぶくや泡のような大いなるあぶくや泡を水の上に立ち上らせる。そして「その後に道を輝かせる」。海の中の船でさえしないこと(箴言 30:19)。人は水面のあぶくによって水中のレビヤタンをたどることができる。しかし追跡においてそれに対してその有利さを取る者がだれか。人は雪の中の野兎をたどって殺す。しかしレビヤタンをたどる者はそれに近づくことをあえてしない。
「その各部と力と美しい釣り合い」のこの詳しい説明を与えた後、彼はこの動物について一般的な四つの事をもって結ぶ。(1) それは下級の被造物の中で並ぶ者のないもの。「地の上にはこれに並ぶものがない」(ヨブ記 41:33)。力と恐怖においてこの世界のかかる被造物は比類ない。あるいはここで地は海から区別される。「その支配は地の上にはない」(ある者の言うように)。「水の中にある」。地の上のすべての野獣は大きさと力においてこれに及ばない。そしてそれが水に限定され、そこで神の摂理によって「見張りが置かれている」(ヨブ記 7:12)ことは人のための幸い。もしのかかる恐ろしい被造物がこの地の上を歩き回り、暴れることが許されたなら、人の子らのために意図されたこの地は、安全で快適な住まいではなくなろう。(2) それは他のいかなる被造物よりも大胆で向こう見ずであること。「恐れなく造られた」。被造物は造られた通り。レビヤタンはその構成に勇気を持つ。何もそれを恐れさせられない。他の被造物は逆に、逃げるために造られたように見えるほど。これが戦うために。このように人々の中にも、その生まれつきの性質において大胆な者と、臆病な者がいる。(3) それは自身非常に誇り高い。深淵に宿っていても、「すべての高いものを見る」(ヨブ記 41:34)。転がる波、迫りくる岩、漂う雲、帆を上げた船を、この力ある動物は軽べつをもって見る。それらは自分を小さくするものでも、脅かすものでもないと思うから。大いなる者は軽べつになりがち。(4) 「誇りの子らすべての上の王」であること。すなわち、すべての誇り高い者の中で最も誇り高い者。それは誇るべきものを最も誇り高い人々よりも多く持つ(キャリル氏の説明するように)。そしてそれゆえに人々の高慢と高ぶる目への屈辱。人々が誇り、高ぶる身体的な達成が何であれ、レビヤタンはそれらに勝り、その「上の王」である。ある者はこれを神について理解するように読む。「すべての高いものを見る方、その方こそが、誇りの子らすべての上の王」。神はベヘモト(ヨブ記 40:19)とレビヤタンを、彼らが大きく、強情であるように、飼いならすことができる。これら二つの動物に関するこの談話は、誇り高い人々を見て彼らを低くし、「彼らを引き下げ」「踏みつけ」「ちりのなかに隠す」(ヨブ記 40:11-13)ことができるのは神のみであることを証明するために持ち出された。そしてそれゆえに、証明さるべきであったものをもって結ぶ。すべての高いものを見る方がおり、人が誇るにおいて、その上におられる。その方は「誇りの子らすべての王」。獣的であれ理性的であれ。そしてその方は彼らすべてをその前に曲がるか、折るかのいずれかにすることができる(イザヤ書 2:11)。「人の高ぶる目は低くされ、人の高慢は下され、このように主のみが高くされる」。
ヨブ記41章
ここでレビヤタン—非常に大きく、強く、恐ろしい魚あるいは水の動物—について与えられる描写は、ヨブが彼に対してこれほど大胆であったことの愚かさのためにへりくだらせるため、彼自身の無力と神の全能とをさらに彼に確信させることを意図している。 一、ヨブに自分自身の弱さを確信させるために、彼はここで、もしできるならこのレビヤタンを征服し飼いならし、自分のものとするよう挑まれる(ヨブ記41:1-9)。そしてこれができない以上、彼は大いなる神の前に立つことに全くできないことを認めなければならない(ヨブ記41:10)。 二、ヨブに神の力と恐るべき威厳を確信させるために、レビヤタンの力と恐ろしさのいくつかの特定の実例がここに与えられる。それは神が彼に与えた以上のものではなく、神が御手の下に置く以上のものでもない(ヨブ記41:11,12)。
レビヤタンの顔は恐ろしいものとして描写される(ヨブ記41:12,14)。そのうろこは密接し(ヨブ記41:15-17)。その息とくしゃみは火花を散らす(ヨブ記41:18-21)。その肉は堅く(ヨブ記41:22-24)。攻撃された時のその力と気概は克服できない(ヨブ記41:25-30)。その動きは乱暴で、水をかき乱す(ヨブ記41:31,32)。こうして全体として、彼は非常に恐ろしい被造物であり、人は彼の相手ではない(ヨブ記41:33,34)。