Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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Leviticus 3章 1-17 Matthew Henry's Complete Commentary
¹ もし彼のささげ物が平安のささげ物のいけにえで、群れからささげるなら、雄であれ雌であれ、傷のないものを主の前にささげなければならない。
² 彼はそのささげ物の頭に手を置き、会見の天幕の入口でそれを殺さなければならない。祭司であるアロンの子らはその血を祭壇の周りに振りまかなければならない。
³ 彼は平安のささげ物のうちから主への火によるささげ物をささげる。すなわち内臓をおおう脂肪と、内臓の上にあるすべての脂肪、
⁴ および二つの腎臓と、その上にある脂肪で、腰にあるもの、および肝臓の上の網は腎臓と共に取り除かなければならない。
⁵ アロンの子らはそれを、木の上の火にある全焼のささげ物の上で、祭壇の上で焼かなければならない。それは主への香ばしいかおりの火によるささげ物である。
全焼のささげ物は、最も完全で優れたものとしてご自身にある神に向けられた。それらは純粋に礼拝を表すものであったから、完全に焼かれた。しかし平安のささげ物は、被造物への恵み深い方、すべての良いものをわれわしに与える方としての神に向けられた。それゆえこれらは祭壇、祭司、所有者の間で分けられた。平和は、1. 和解、一致、交わりを意味する。それゆえこれらは「平安のささげ物」と呼ばれた。これらにおいて神とその民は、友情のしるしとして共に宴を楽しんだかのようであったから。人のために神に関する事柄に任別された祭司は、この平安のささげ物の一部を神に与えた(神が要求された部分であり、まず仕えられるのがふさわしかった)、神の祭壇の上でそれを焼くことによって。一部はささげる者に与え、彼がその家族や友人と共に食べるため。そして一部は彼自身が、両者の上に手を置く仲介者として取った。彼らは一致していなければこのように共に食べることはできなかった。それゆえそれは神と人との間の友情と交わりの象徴であり、平和の契約の確認であった。2. それは繁栄とすべての幸福を意味する。「あなたがたに平和があるように」は「すべての良いことがあなたがたにありますように」と同様であった。それゆえ平安のささげ物は、(1) 求められ、望まれるある良いことのために、願いまたは求めとしてささげられた。もし人が何らかのあわれみを追い求め、または期待しているなら、彼はそのための祈りを平安のささげ物によって裏付け、おそらくささげ物の頭に手を置くときに祈りを捧げた。キリストはわれわしの平和、われわしの平安のささげ物である。彼を通してのみ、われわしはあわれみを受け、祈りへの平和の答えを期待できる。そして彼において正しい祈りは受け入れられ、成功する。平安のささげ物をささげなくても。われわしの信心が費用のかからないものであればあるほど、より活気に満ち、真剣でなければならない。あるいは、(2) 受けた特定のあわれみへの感謝として。「感謝の平安のささげ物」と呼ばれる。それは時にはそうであったから。他の場合には「誓い」(レビ7:15,16)。そしてある人々は原語の言葉を「報い」と意味すると考える。彼らが特別なあわれみを受け、何をささげるべきかを尋ねるとき、彼らになされた善に対する感謝の承認として、彼らはそのあわれみの神にこれをささげるよう導かれた(詩116:12)。そしてわれわしは絶えず、われわしの平和であるキリストによって、賛美のささげ物を神にささげなければならない。そうすればこれは雄牛や肥え牛よりも主を喜ばせるであろう。観察せよ。
一、平安のささげ物の材料については、群れからであれば、傷のないものでなければならなかった。もしそうであれば、雄でも雌でも構わなかった(レビ3:1)。われわしの霊的ささげ物において、神がご覧になるのは性ではなく、心である(ガラ3:28)。
二、その取扱いについては。1. ささげる者は荘厳な譲渡によって、その中の自分の権利を神に移さなければならなかった(レビ3:2)。犠牲の頭の上に「手を置き」、これを感謝のささげ物として意図する特定のあわれみを認めなければならなかった。もしそれが誓いであれば、祈りをしなければならなかった。2. それは殺されなければならなかった。これは庭のどこで行われてもよかったが、「会見の天幕の入口で」と言われる。受けた、または期待するあわれみが神から来ることを認め、祈りや賛美が神に向けられ、両者とも、かのように、その門を通してであったから。われわしの主イエスは言われた、「わたしは門である」。彼は確かに幕屋の門であるから。3. 祭司は「血を祭壇の上に振りまか」なければならなかった。魂のために贖いをするのは血であったから。これは罪のささげ物ではなかったが、われわしのすべてのささげ物において、罪のためにキリストをなだめのささげ物として見なければならないことが教えられる。最善の奉仕でさえ、彼を通してその罪が赦されない限り、受け入れられないことを知る者として。悔いる告白は常に感謝の承認と共になければならない。また、どんなあわれみを祈り求めるにしても、そのためには罪の除去を祈らなければならない。それが良いものをわれわしから遠ざけておくから。「まずすべての不義を取り去り」、それから「恵みをもってわたしたちを受け入れ」、または「良いものをお与えください」(ホセ14:2)。4. 内臓のすべての脂肪――われわしがたるとすいエトと呼ぶもの――それをおおう網とその中にある腎臓は取り除かれ、火によるささげ物として祭壇の上で焼かれなければならなかった(レビ3:3-5)。そしてこれが平安のささげ物から主にささげられたすべてであった。残りがどのように処分されるべきかは後で分かる(レビ7:11-34以下)。それは全焼のささげ物の上に焼かれるよう命じられる。すなわち毎日の全焼のささげ物、毎朝他のささげ物がささげられる前にささげられた子羊の上に。こうして平安のささげ物の脂肪はそれへの追加であり、その継続であった。世の罪を取り除く神の小羊の、平和の大いなるささげ物は、賛美のささげ物のための祭壇を備える。われわしが和解するまではそれらは受け入れられない。さて、この脂肪の燃焼は次を意味すると考えられる。(1) すべての祈りと賛美において、われわしの良い感情を神にささげること。神は内臓を取られる。われわしは祈りにおいて魂を注ぎ出し、心を上げなければならないから。またその内にあるすべてをもってその名をほめたたえなければならない。神と関係するすべての事柄において内なる者であることが求められる。脂肪は最も良く、最も選ばれたものを意味する。それは常に神に献げられなければならない。神はわれわしのために肥えたものの宴を設けられたから。(2) われわしの腐敗した感情と欲情を殺し、神の恵みの火によってそれらを焼き尽くすこと(コロ3:5)。われわしは、罪を手放し、「さばきの霊」と「焼き尽くす霊」によってすべての感覚性から心を清めるとき(イザ4:4)、かつてのあわれみに真に感謝し、さらなるあわれみを受ける準備ができる。
⁶ もし主への平安のささげ物のいけにえとしての彼のささげ物が群れからであれば、雄でも雌でも、傷のないものをささげなければならない。
⁷ もし子羊をそのささげ物としてささげるなら、彼はそれを主の前にささげなければならない。
⁸ 彼はそのささげ物の頭に手を置き、会見の天幕の前でそれを殺さなければならない。アロンの子らはその血を祭壇の周りに振りまかなければならない。
⁹ 彼はその平安のささげ物から主への火によるささげ物をささげる。その脂肪、すなわち背骨の近くで切り取る尾の全体、および内臓をおおう脂肪と、内臓の上にあるすべての脂肪、
¹⁰ 二つの腎臓と、その上にある脂肪で、腰にあるもの、および肝臓の上の網は腎臓と共に取り除かなければならない。
¹¹ 祭司はそれを祭壇の上で焼かなければならない。それは主への火によるささげ物の食物である。
¹² もし彼のささげ物がやぎであれば、彼はそれを主の前にささげなければならない。
¹³ 彼はその頭に手を置き、会見の天幕の前でそれを殺さなければならない。アロンの子らはその血を祭壇の周りに振りまかなければならない。
¹⁴ 彼はそこからそのささげ物をささげる。すなわち主への火によるささげ物。内臓をおおう脂肪と、内臓の上にあるすべての脂肪、
¹⁵ 二つの腎臓と、その上にある脂肪で、腰にあるもの、および肝臓の上の網は腎臓と共に取り除かなければならない。
¹⁶ 祭司はそれらを祭壇の上で焼かなければならない。それは香ばしいかおりの火によるささげ物の食物である。すべての脂肪は主のものである。
¹⁷ これはあなたがたの住むすべての場所において、代々にわたる永遠のおきてとなる。あなたがたは脂肪も血も食べてはならない。
ここに平安のささげ物が羊ややぎである場合の指示が与えられている。全焼のささげ物のためにささげられる山鳩や若い家鳩は、平安のささげ物のためには許されなかった。祭壇の上で焼くに足るほどの脂肪がないから。また平安のささげ物の律法に従って分けられるなら、ほとんど何もなくなってしまうから。平安のささげ物としてささげられる子羊ややぎに関する律法は、雄牛に関するものとほぼ同じであり、ここではほとんど新しいことはない。しかし、1. 羊の尻尾は内臓の脂肪と共に祭壇の上で焼かれなければならなかった。「尾の全体」(レビ3:9)。それらの国々では非常に太く大きかったから。ある人々はこれから、物がどれほどささやかであっても、神がそれをご自身の奉仕に適用することによって誉れあるものとできることを観察する。このように神は「欠けたところのある部分に、より豊かな誉れ」を与えられると言われる(コリ第一12:23,24)。2. 祭壇の上で焼かれたものは「ささげ物の食物」と呼ばれる(レビ3:11,16)。それは聖なる火を養った。われわしにとっての食物のように、神に受け入れられた。また幕屋において神は、かのように、彼らの間に家を持ち、祭壇の上のささげ物によって良い食卓を設けられた。ソロモンがその宮廷でしたように(王第一4:22-28以下)。3. ここに一般規則が定められている。「すべての脂肪は主のものである」(レビ3:16)。またそれに基づく律法が制定される。彼らは「脂肪も血も食べてはならない」。私的な家においてさえ(レビ3:17)。(1) 「脂肪」については、肉と共に混ぜてあるもの(それは食べてよかった、ネヘ8:10)ではなく、内臓の脂肪、犠牲の獣から常に神の分であったすいエトを意味する。それゆえ彼らはそれを食べてはならなかった。日常の用のために殺す獣からであっても。このように神はご自身に聖別られたものの誉れを守られた。彼らは祭壇の食物となる脂肪を食べてはならないだけでなく、それに似たものも食べてはならなかった。「主の食卓」(祭壇はこう呼ばれる)が、もしそれに特有のものが予約されなければ、軽蔑されるものとなり、「その果实、すなわちその食物が軽蔑される」ことのないように(マラ1:7,12)。(2) 血も同様に普遍的に禁じられた。脂肪と同じ理由で。すべてのささげ物における神の分であったから。異邦人はその犠牲の血を飲んだ。それゆえ彼らの「血の注ぎのささげ物」について読む(詩16:4)。しかし神は、贖いをする血が普通のものとして用いられることを許されなかった(ヘブル10:29)。また、なされた贖いの慰めを持つとしても、それをする誉れにおいて何らかの分を自分に取ることを許されない。誇る者は主において誇れ。すべての血が注ぎ出され、その誉れに帰せられるように。
この章には平安のささげ物に関する律法が記されている。 一、牛の群れから、子牛や雌牛である場合(レビ3:1-5)。 二、羊の群れから、子羊(レビ3:6-11)ややぎ(レビ3:12-17)である場合。 これらのおきてはそれぞれほとんど同じであるが、すべての奉仕が定めに従ってなされるよう注意すべきこと、またそのように行われる奉仕に神が喜びを取られることを示すために繰り返されている。また、戒めに戒めを、規則に規則を重ねる必要があることを示すためでもある。