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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Leviticus 7章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

無題

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ここには次のことが記されている。 一、罪過のささげ物の律法(レビ7:1-7)。全焼のささげ物と穀物のささげ物に関するさらの指示とともに(レビ7:8-10)。 二、平安のささげ物の律法。それを食べること(レビ7:11-21)。この機会に脂肪や血を食べてはならないという禁止が繰り返され(レビ7:22-27)、祭司の分け前についても記される(レビ7:28-34)。 三、これらの制度の結論(レビ7:35-38以下)。

Leviticus 7章 1-10 Matthew Henry's Complete Commentary

Law of the Trespass-Offering (1490 BC)

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罪過のささげ物の律法(紀元前1490年)

¹ 同様にこれが罪過のささげ物の律法である。それは最も聖なるものである。
² 全焼のささげ物を殺す場所で、彼らは罪過のささげ物を殺さなければならない。そして祭司はその血を祭壇の周りに振りまかなければならない。
³ 彼はそのすべての脂肪をささげなければならない。尾全体と、内臓をおおう脂肪、
⁴ 二つの腎臓と、その上にある脂肪で、腰にあるもの、および肝臓の上の網は腎臓と共に取り除かなければならない。
⁵ 祭司はそれらを主への火によるささげ物として祭壇の上で焼かなければならない。それは罪過のささげ物である。
⁶ 祭司のうちのすべての男子はそれを食べなければならない。聖なる場所で食べられなければならない。それは最も聖なるものである。
⁷ 罪のささげ物がそうであるように、罪過のささげ物もそうである。これらには一つの律法がある。それによって贖いをする祭司がそれを受ける。
⁸ ささげる祭司は、全焼のささげ物の皮を自分のものとする。人の全焼のささげ物をささげる祭司は、そのささげた全焼のささげ物の皮を自分のものとする。
⁹ かまどで焼かれるすべての穀物のささげ物、なべや平なべで調理されるすべてのものは、それをささげる祭司のものとなる。
¹⁰ 油を混ぜたすべての穀物のささげ物、および乾いたすべてのものは、アロンのすべての子らに、ひとりひとり等しく帰する。

ここで観察せよ。1. 罪過のささげ物については、それが罪のささげ物とほぼ同じ性質のものであるので、同じ規則によって治められるべきであった(レビ7:6)。血と脂肪が贖いをするために神にささげられるとき、祭司たちはその肉を、罪のささげ物と同様に、聖なる場所で食べなければならなかった。ユダヤ人には(学あるパトリック監督から伝えられる)、「祭壇の周りに振りまく罪過のささげ物の血」に関する伝承がある。「祭壇の真ん中を正確に巡る緋色の線があって、全焼のささげ物の血は線の上に振りまかれたが、罪過のささげ物と平安のささげ物の血は線の下に振りまかれた」と。罪過のささげ物の肉については、それを受ける権利はそれをささげた祭司に属した(レビ7:7)。わざをする者が賃金を受けるべきであった。これは祭司たちが祭壇に勤勉に仕えることへの励みであった。より準備があり、忙しければ忙しいほど、より多く得たから。注。宗教の奉仕においてより勤勉であるほど、その益をより多く刈り取るであろう。しかし祭司の誰でも、その家族の男子は、それを持つ者から共にあずかるよう招かれた。「祭司のうちのすべての男子はそれを食べる」。すなわち、聖なる場所で食べてよい(レビ7:6)。そして疑いなく、互いにその職務の特権でもてなすことが習わしであった。それによって祭司たちの間に友情と交わりが保たれた。無料で受けたのだから、無料で与えなければならなかった。ささげる者自身は、平安のささげ物の場合のように、自分の罪過のささげ物の何らの分け前も持たなかったようである。それはすべて祭壇と祭司の間で分けられた。彼らは恵みへの感謝において平安のささげ物をささげ、そのとき宴を持つのが適切であった。しかし彼らは罪の悲しみにおいて罪過のささげ物をささげ、そのとき断食の方が、聖なる悲しみのしるしとして、また罪から遠ざかる決意として、より適切であった。2. 全焼のささげ物については、ここで、それをささげる祭司が皮を持つべきことが定められる(レビ7:8)。それは疑いなく金に換えることができた。「これ」(ユダヤ人は言う)「は個人がささげる全焼のささげ物についてのみ意味する。会衆のための毎日の全焼のささげ物の皮の利益は聖所の修繕に向けられたから」と。ある者は、この定めが神がわれわしの最初の両親に「皮の衣」を着せられたことを理解するのを助けると示唆する(創3:21)。その皮を持つ獣が全焼のささげ物としてささげられ、アダムがそれをささげた祭司であったことがあり得る。そして神は彼にその皮を、報酬として、自分と妻とのための着物を作るために与えられた。その記念として、以後皮は常に祭司に属することになった(創27:16を見よ)。3. 穀物のささげ物については、もしそれが調理されたものであれば、すぐに食べるのに適していた。それゆえそれをささげる祭司がそれを持つべきであった(レビ7:9)。もしそれが乾いたものであれば、急いで用いる必要はなかった。それゆえその時当番にあったすべての祭司の間で平等に分配されなければならなかった(レビ7:10)。

Leviticus 7章 11-38 Matthew Henry's Complete Commentary

Law of the Peace-Offering (1490 BC)

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平安のささげ物の律法(紀元前1490年)

¹¹ これが主にささげる平安のささげ物の律法である。
¹² もしそれを感謝としてささげるなら、感謝のささげ物と共に、油を混ぜた種なしの菓子と、油を塗った種なしのせんべいと、油を混ぜた揚げた細麦粉の菓子をささげなければならない。
¹³ この菓子のほかに、その平安のささげ物の感謝のささげ物として、種入りのパンをそのささげ物としてささげなければならない。
¹⁴ そのうちから一つを全ささげ物から取り、主への捧げ物としてささげなければならない。それは平安のささげ物の血を注ぐ祭司のものとなる。
¹⁵ 感謝のための平安のささげ物の肉は、それがささげられるその日に食べられなければならない。そのうち何も朝まで残してはならない。
¹⁶ しかしもしそのささげ物が誓願、または自発的なささげ物であるなら、それがささげられるその日に食べられなければならない。またその翌日に残りのものを食べてもよい。
¹⁷ しかし第三日に残ったささげ物の肉は火で焼かれなければならない。
¹⁸ もし第三日に平安のささげ物の肉を少しでも食べるなら、それは受け入れられず、それをささげる者に帰せられない。それは忌み嫌われるべきものであり、それを食べる者は自分の不義を負う。
¹⁹ 汚れたものに触れる肉は食べてはならない。火で焼かれなければならない。すべて清い者はその肉を食べることができる。
²⁰ しかし主に属する平安のささげ物の肉を、汚れを身に着けて食べる者は、その者は民から断ち切られなければならない。
²¹ もし人が人の汚れ、または汚れた獣、または忌み嫌われる汚れたものに触れ、主に属する平安のささげ物の肉を食べるなら、その者もまた民から断ち切られなければならない。
²² 主はモーセに語って言われた。
²³ イスラエルの子らに告げて言え。あなたがたは牛、羊、やぎの脂肪をいっさい食べてはならない。
²⁴ 自然に死んだ獣の脂肪と、野獣に引き裂かれたものの脂肪は、ほかの用途に用いてもよい。しかし決してそれを食べてはならない。
²⁵ だれでも火によるささげ物として主にささげる獣の脂肪を食べる者は、それを食べる者は民から断ち切られなければならない。
²⁶ またあなたがたは、鳥であれ獣であれ、いっさいの血を食べてはならない。あなたがたのすべての住まいにおいて。
²⁷ いっさいの血を食べる者は、その者は民から断ち切られなければならない。
²⁸ 主はモーセに語って言われた。
²⁹ イスラエルの子らに告げて言え。主に平安のささげ物をささげる者は、その平安のささげ物のささげ物を主に携えて来なければならない。
³⁰ 主への火によるささげ物は彼自身の手が携えて来なければならない。脂肪と共に胸を携えて来る。主の前に揺りのささげ物として胸を揺り動かすためである。
³¹ 祭司は脂肪を祭壇の上で焼く。しかし胸はアロンとその子らのものとなる。
³² あなたがたは平安のささげ物の捧げ物として、右のももを祭司に与えなければならない。
³³ アロンの子らのうち、平安のささげ物の血と脂肪をささげる者は、右のももをその分け前として受ける。
³⁴ わたしはイスラエルの子らの平安のささげ物から、揺りの胸と捧げのももを取り、永遠の定めとしてアロン祭司とその子らに与えたからである。

これらはすべて平安のささげ物に関するものであり、前に見たところの繰り返しと説明であり、種々の付加を伴っている。

一、平安のささげ物の性質と意図がここでより明確に示される。それは次のいずれかのためにささげられた。1. 何らかの特別の恵みを受けたことへの感謝。病気からの回復、旅の途上での守り、海での救出、捕囚からの贖いなど、これらはすべて詩107:1-43で具体的に言及され、そのために人々は感謝のささげ物をささげるよう呼びかけられている(レビ7:22、おそらく詩107:22の意)。または、2. 悩みの中でした誓願の成就(レビ7:16)。これは前者よりも誉れが少なかったが、その履行を怠ることはいっそう非難されるべきであった。または、3. 追求し期待している何らかの特別の恵みのための願い。ここでは自発的なささげ物と呼ばれる。これは人がその祈りに伴うものであり、前者が賛美に伴ったように。人が律法によって、誓願によって自分自身を縛らない限り、罪を犯した場合の贖罪のささげ物を持って来るように、そのような機会にこれらの平安のささげ物をささげる義務があったとは見いだせない。祈りと賛美が悔い改めと同様にわれわしの本分でないのではない。しかしここでは、彼らの恵みの感覚の表現において、神は彼らを罪の感覚の表現におけるよりも自由にお任せになった。彼らの献身の寛大さを試すため、また彼らのささげ物が自発的なささげ物として、いっそう称賛され受け入れられるものとなるためである。そして彼らに贖罪のささげ物を持って来ることを義務づけることによって、神は大いなる贖いの必要を示そうとされた。

二、平安のささげ物に関する儀式と作法が詳しく説かれる。

  1. もし平安のささげ物が感謝のためにささげられるなら、素祭がそれと共にささげられなければならなかった。数種類の菓子とせんべい(レビ7:12)。そして(平安のささげ物に特有であったが)種入りのパンがささげられなければならなかった。祭壇の上で焼かれるためではなく、それは禁じられていたから(レビ2:11)。ささげ物の肉と共に食べるためであった。それによって完全で楽しい宴に何も欠けるところのないように。種なしのパンは味において劣っていたので、過越においては特別の理由のために命じられたが、ほかの祭りでは軽くて快い種入りのパンが定められた。それによって人々は神の席でも自分の席でも同様に宴会できるように。またある者は、素祭がすべての平安のささげ物と共に、感謝のささげ物と同様に持って来ることが求められると考える。それを要求する律法(レビ7:29)によって。席が祭壇と同様に整えられるように。

  2. 平安のささげ物の肉は、祭司の分け前であれ、ささげる者の分け前であれ、速やかに食べられ、長く保存されてはならなかった。生のままであれ、調理されて冷えたままであれ。もし感謝のための平安のささげ物であれば、すべてその当日に食べられなければならなかった(レビ7:16、15節の意)。もし誓願または自発的なささげ物であれば、その当日または翌日に食べられなければならなかった(レビ7:16)。もし定められた時刻を越えて何かが残ったなら、それは焼かれなければならなかった(レビ7:17)。そしてそのように残ったものを食べた者があれば、その行いは非常に重い違反として処罰されるべきであった(レビ7:18)。彼らは最も聖なるささげ物と呼ばれるもののように聖所でそれを食べる義務はなかったが、自分の天幕に持ち帰ってそこで宴会することができた。しかし神はこの律法によって、それと他の食物との間の違いを彼らに知らせ、敬虔にそれを観察させようとされた。彼らが他の食物を好むままに長く家に冷やしておき、望むなら再び温め、三日四日後に食べることができたとしても、平安のささげ物の肉についてはそうしてはならなかった。それは直ちに食べられなければならなかった。(1) 神はその聖なる肉が腐敗する危険や、蝇がつく危険にさらされることを望まれなかったからである。それを防ぐためには、もし保存されるなら火で塩づけられなければならなかった(マコ9:49の表現のように)。用いられる場合には塩で塩づけられたように。(2) 神はご自身の民が吝嗇で節約に走り、摂理を不信するのではなく、神が与えるものを喜んで楽しみ(伝8:15)、それをもって善を行い、明日について不安に思い悩まないことを望まれたからである。(3) 平安のささげ物の肉は神の盛宴であった。それゆえ神はその処分を持ちたもうた。そしてそれが友人の接待に寛大に、貧しい者の救いに慈悲深く用いられるよう命じた。それによってご自身が惜しみなく与える方であることを示すため。「豊かにすべてのものを楽しませる」方、その日のパンをその日に与える方として。もしそのささげ物が感謝であったなら、彼らは特に聖なる宴会によって神のいつくしみにおける聖なる喜びをあかしする義務があった。この律法は非常に厳格に定められた(レビ7:18)。もしささげる者が、定められた時刻のうちに、自分自身またはその家族、友人または貧しい者によってすべてのささげ物を食べさせず、また何かが残った場合にそれを焼く(祭壇の上のささげ物が火によって消費されるので、これが最も正しい処分の仕方であったが)ことをしないなら、そのささげ物は受け入れられず、彼に帰せられなかった。注。われわしの宗教的奉仕の益はすべて、もしそれを活かさず、その後正しく歩まないなら失われる。それらがわれわし自身の上に正当な影響を持たないなら、神に受け入れられない。もしある人が平安のささげ物を持って来るにおいて寛大に見えながら、後にそれを用いるにおいて卑しく卑怯であったなら、それはまるで持って来なかったかのようであった。いや、「それは忌み嫌われるべきもの」となる。注。神の受け入れとその忌み嫌いの間に中間はない。もしその人がその行いにおいて真実で正しければ受け入れられ、そうでなければ忌み嫌われる(箴15:8)。定められた時刻の後にそれを食べる者は「自分の不義を負う」。すなわち「民から断ち切られる」。この律法が繰り返されている(レビ19:8)ところで説明されているように。この平安のささげ物を第三日の前に食べるという律法、それが腐敗しないためのものは、二日後のキリストの復活に適用される。神の「聖なる方」として、腐敗を見ないためである(詩16:10)。またある者は、この律法はわれわしに、キリストとその恵みに速やかに、遅延なくあずかり、今日信仰によって養い、それにあずかるよう教えると考える。「今日と呼ばれる間」に(ヘブル3:13,14)。間もなく遅すぎるになるからである。

  3. しかし肉、およびそれを食べる者は清くなければならなかった。(1) 肉は「汚れたものに触れてはならなかった」。もしそうすれば、食べてはならず、焼かれなければならなかった(レビ7:19)。もしそれを祭壇から食べる場所に運ぶ途中で、犬がそれに触れたり、死体または他の汚れたものに触れたりすれば、それは宗教的な宴に用いるのに適さなかった。聖なる神に誉れを帰してささげるすべてのものは清く、すべての汚れから注意深く保たれなければならない。聖なる肉はその触れによって普通のものに聖さを伝えることができないと判示された(ハガ2:12)。しかしこの律法によって、汚れたものの触れによってそれは汚れを受けることが定められた。これは罪の感染が恵みの香りよりも容易にかつ頻繁に伝えられることを暗示する。(2) 汚れた者がそれを食べてはならなかった。ある者が何らかの理由で儀式的に汚れているとき、平安のささげ物の肉を食べてはならないのは当然であった(レビ7:20,21)。聖なるものは聖なる者のためだけにある。食物の聖さが儀式的なものであったので、儀式的な汚れの下にある者はそれにあずかる資格がなかった。しかしわれわしはこれによって、すべての罪の汚れから自分自身を清く保つよう教えられる。キリストのささげ物の益と慰めを持つために(ペテ第一2:1,2)。われわしの良心は死んだわざから清められなければならない。それによって「生ける神に仕える」に適する者となるためである(ヘブル9:14)。しかしもし悔い改めていない罪の汚れの下に主の席にあずかり、聖なるものを汚す者があれば、彼らは「さばきを自分に食べ飲みする」。平安のささげ物を食べた者たちがそうであったように(レビ7:20)。また(レビ7:21)にもあるように。「主に属する」ものである。主に属するものはすべて聖なるものであり、大いなる畏敬をもって用いられ、聖別されていない手で用いられてはならない。「あなたがたは聖なる者となれ」。神が聖なる方であり、あなたがたは神に属するからである。

  4. 血と内臓の脂肪を食べることがここで再び禁じられる。そしてこの禁令は前にそうであったように平安のささげ物の律法に付加される(レビ3:17)。(1) 脂肪の禁令は、ささげ物に用いられる獣、すなわち牛、羊、やぎに限定されるようである。しかし鹿、雄鹿、ほかの清い獣の脂肪は食べてよかった。ささげ物が持って来られるものだけがここで言及されるからである(レビ7:23-25)。これは神の祭壇に対する畏敬を彼らの心に保つためであった。その上で内臓の脂肪が焼かれたからである。ユダヤ人は言う。「もし人がオリーブ一つほどの禁じられた脂肪を食べるなら――もし故意にするなら、神の手によって断ち切られる危険にある――もし無知によるなら、罪のささげ物を持って来なければならず、その不注意のために高くつく」と。自然に死んだもの、または野獣に引き裂かれたものの肉を食べることは不法であった。しかしそのようのものの脂肪を食べることは二重に不法であった(レビ7:24)。(2) 血の禁令はより一般的である(レビ7:26,27)。脂肪は承認のしるしとしてのみ神にささげられたが、血は「魂のために贖いをなした」からである。それゆえ脂肪の燃焼よりもはるかにキリストのささげ物を型示した。これに対してはより大いなる畏敬が払われなければならなかった。これらの型がキリストのからだの一度限りのささげにおいて成就するまで。ユダヤ人はこの律法を、「いのちの血」のみを禁じるものとして正しく解釈する。彼らが表現するように。われわしが肉汁と呼ぶものではない。それについては食べることが合法であると考えた。

  5. 平安のささげ物における祭司の分け前がここで定められる。平安のささげ物としてささげられるすべての獣から、それをささげる祭司は胸と右のももを自分のものとして受ける(レビ7:30-34)。ここで観察せよ。(1) ささげ物が殺されるとき、ささげる者自身がその手で、神の分け前をささげなければならなかった。それによって彼がそれを喜んで神に献げること、またそれが受け入れられることを願うことを示すためである。彼はその手をもってそれを「持ち上げ」なければならなかった。天の神としての神への尊敬のしるしとして。そして「前後に揺り動か」さなければならなかった。全地の主としての神への尊敬のしるしとして。このようにして、手の届く限り、神に誉れを帰することを示して。このように捧げられ、揺り動かされたものは脂肪と胸と右のももであった。これらはすべて神にささげられた。そして神は脂肪をその祭壇に、胸とももをその祭司に割り当てられた。両者とも神の受け手であった。(2) 脂肪が焼かれたとき、祭司はその分け前を取った。それについて彼とその家族は宴会した。ささげる者とその家族と同様に。聖なる喜びと感謝において、われわしの奉仕者がわれわしに先立ち、われわしの神への口となってくれることは良いことである。種蒔く者と刈り入れる者が共に喜ぶとき、その調べは美しい。祭司に割り当てられた部分に意味のあることを観察する者もいる。胸とももは感情と行いを示す。これらはすべて神の民によって神の誉れのために、またすべての祭司によって教会の奉仕のために献げられなければならない。われわしの大いなる平安のささげ物であるキリストは、すべての霊的祭司を胸とももでもって宴会させる。最も深い愛と最も甘く最も強い支えとをもって。キリストは神の知恵であり神の力であるから。サウルが王に選ばれたとき、サムエルは平安のささげ物のももを彼の前に置くよう命じた(サム第一9:24)。それは彼に何か伟大で神聖なことが意図されていることを暗示した。イエス・キリストはわれわしの大いなる平安のささげ物である。ご自身をささげ物とされた。罪のあがないをするため、われわしをのろいから救うためだけでなく、われわしのために祝福を購い、すべての良いものを得るためである。われわしが贖いの益に喜んであずかることによって、われわしは「ささげ物にあずかる」。これを示すために主の晩餐が制定された。

³⁵ これがモーセが彼らを祭司の職に任じて主に奉仕させた日に、主の火によるささげ物のうちから、アロンの油そそぎの分け前、およびその子らの油そそぎの分け前である。
³⁶ 主が彼らを油そそいだ日に、彼らの世代を通じて永遠の定めとして、イスラエルの子らから彼らに与えるよう命じられたものである。
³⁷ これが全焼のささげ物、素祭、罪のささげ物、愆祭、任職のささげ物、および平安のささげ物の律法である。
³⁸ 主がシナイの荒野で、イスラエルの子らにそのささげ物を主にささげるよう命じられた日に、シナイ山でモーセに命じられたものである。

ここに、これらのささげ物に関する律法の結論がある。もっともそのうちのいくつかは後に繰り返され、説明されるが。これらは次のように考えるべきである。1. 祭司への賜与として(レビ7:35,36)。彼らがそのわざと職に任じられた日に、彼らの快い維持のための備えがなされた。注。神に用いられる者がよく支払われ、よく備えられるように、神は配慮される。御霊の油そそぎを受けて主に奉仕する者は、主のささげ物のうちからその分け前を持つ。それは価値ある分け前となる。神のわざはそれ自身の報酬であり、従順には従順のうちに現在の報いがある。2. 民への永遠の定めとして。彼らは定められた規則にしたがってこれらのささげ物を持って来て、祭司にそのうちの分け前を喜んで与えるべきであった。神は「イスラエルの子らにそのささげ物をささげるよう命じられた」(レビ7:38)。注。宗教的礼拝の荘厳な行いは命じられている。それらはわれわしが自由に任され、してもしなくてもよいものではない。われわしはその時節においてそれを行う避けられない義務の下にあり、もしそれを怠るなら危険にある。キリストの律法の遵守は、モーセの律法の遵守よりも必要性が少ないはずがない。