Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
- 翻訳進捗
- 4,537 / 4,537
- 原文言語
- en
学習資料
複数のパブリックドメイン注解書と scripture.how の韓国語訳を、書巻と章ごとに閲覧できます。注解書を切り替えながら、訳文だけでなく原文と訳文を並べて読むこともできます。
現在の注解書
Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
全項目
4,537
翻訳 4,537 件
注解書ごとに原資料、著者、翻訳進捗、ライセンス情報を分けて表示します。scripture.how の韓国語訳・編集物は原文資料とは別に管理されます。
¹ さて、過越といわれる種なしパンの祭りが近づいた。 ² 祭司長たちや律法学者たちは、イエスをどうして殺そうかと計った。彼らは民を恐れていたからである。 ³ そのとき、十二人のひとりであるイスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入った。 ⁴ 彼は行って、祭司長たちや守衛長たちと、どうしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。 ⁵ 彼らは喜んで、彼に金をやろうと約束した。 ⁶ 彼は承知し、群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡す機会をねらった。
あがなわれた年 が今や 来た 。永遠から神の議会で定められ、イスラエルの慰めを待ち望む者たちによって長く待ち望まれていた。多くの時代の変遷の後、ついに 来た (イザヤ 63:4)。そして注目すべきは、その年の 最初の月 に贖いが成し遂げられたということである。あがない主がご自身の務めを行うことをこれほど急いでおられた。 成就する まで 切迫されて いたのである。同じ月に、月の同じ時に( 月の始まり に、出エジプト 12:2)、神はモーセによってイスラエルをエジプトから導き出された。それは型が反型に対応するためであった。キリストはここで、 種なしパンの祭りが近づいたとき に引き渡された(ルカ 22:1)。その祭りのほぼ同じ期間前に彼らがその準備を始めたように、ここでは私たちの過越が私たちのためにささげられる準備がなされていた。ここには次のことがある。
一、キリストの敵たちがこれを謀った(ルカ 22:2)。 祭司長たち 、聖なる人々、律法学者たち、学ある人々が、 イエスを殺すために 力ずくでも計略でも 求めた 。彼らの思い通りになれば早く済んだであろうが、 民を恐れた 。そして今や彼らがキリストの説教に熱心に出席しているのを見て、いっそう恐れた。
二、裏切りの弟子が彼らに加わり、彼らを助けるために来た。ユダ、 イスカリオテ と呼ばれる者。ここで 十二人の数のうちの 者と言われている。あの尊ばれた際立った数。すべての人を 知っておられた キリストが その数 に裏切り者を入れたこと、そして キリストを知らず にはいられない その数の 一人がこれほど卑しくもキリストを裏切ったことには、驚かされる。しかしキリストはユダを弟子に取ることに聖く賢い目的を持っておられた。そしてキリストをこれほどよく知っていた者がどうしてキリストを裏切るに至ったか、ここで告げられている。 サタンがユダにはいった (ルカ 22:3)。それは悪魔のわざであった。悪魔はこれによってキリストの務めを滅ぼし、 その頭を砕こう と考えた。しかしそれは結局 そのかかとを砕く こととなった。キリストであれ、キリストの真理や道であれ、裏切る者は誰であれ、それに駆り立てるのはサタンである。ユダは祭司長たちがどれほどキリストを手に入れたいと願っているかを知っていた。そしてユダのようにキリストの隠れ場を知る者の助けなしには、安全にそれができないことも。それゆえユダは自ら行き、彼らに提案した(ルカ 22:4)。注意すべきは、キリストの御国に、公然の敵の力と策略によって以上に、偽りの友の裏切りと利己心によってなされる損害が多いかどうか、言い難いということである。いや、後者がなければ、敵たちは彼らのするように目的を達することはできない。ユダが 祭司長たち と相談しているのを見たら、何かの損害が孵化していると確信せよ。彼らが頭を寄せ合っているのは何の良いためでもない。
三、彼らの間の交渉の結果。1. ユダは キリストを彼らに引き渡さ なければならない。騒ぎの危険なく彼らがキリストを捕えることができる場所に彼らを導かなければならない。そして彼らはそれを 喜ぶ であろう。2. 彼らはそれに対して金を与えなければならない。そしてユダはそれを喜ぶであろう(ルカ 22:5)。 「彼らは彼に金をやろうと約束した」 。取引が成立すると、ユダは イエスを引き渡す機会 を探した。おそらく、ユダより師に親しかったペテロやヨハネに、こんな時にどこにいるか、過越の後どこに退くかを巧みに尋ねたのであろう。彼らは鋭くユダを疑うほどではなかった。こうしてかのように、まもなくユダは求めていた利点を得、 群衆のいない 、 騒ぎのない 時と場所を定めたのである。
⁷ さて、過越の小羊をほふらなければならない種なしパンの日が来た。 ⁸ イエスはペテロとヨハネを遣わして言われた。「行って、過越の食事の準備をしなさい。私たちが食べるように。」 ⁹ 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」 ¹⁰ イエスは彼らに言われた。「見なさい。町に入ると、水がめを運んでいる人に出会うでしょう。その人が入って行く家に従って行きなさい。 ¹¹ そしてその家の主人にこう言いなさい。『先生があなたに言われます。私が弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこですか、と。』 ¹² するとその主人は、備えの整った広い二階の部屋を見せてくれるでしょう。そこに準備をしなさい。」 ¹³ 彼らは出かけて行って、イエスの言われたとおりに見つけ、過越の準備をした。 ¹⁴ 時刻になったとき、イエスは席に着き、使徒たちも共に着いた。 ¹⁵ イエスは彼らに言われた。「私は苦しむ前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願って願っていた。 ¹⁶ あなたがたに言っておく。神の国においてこれが成就するまでは、私はもはや過越を食べることはない。 ¹⁷ そして杯を取り、感謝して言われた。「これを取って、あなたがたの間で分け合いなさい。 ¹⁸ あなたがたに言っておく。神の国が来るまでは、私はもはやぶどうの木の産物を飲むことはない。」 ¹⁹ またパンを取り、感謝してこれを裂き、彼らに与えて言われた。「これはあなたがたのために与えられる私のからだである。私を思い出してこれを行いなさい。」 ²⁰ 食事の後、同じように杯を取りて言われた。「この杯は、あなたがたのために流される私の血による新しい契約である。」
種なしパンの祭りは七日間続き、民が毎朝、早朝からキリストの説教に耳を傾けるほど熱心であったとき、その間キリストが宮での説教によって多くの善を行うという有望な見通しがあった。しかしここでそれにストップがかけられた。キリストは別の種類のわざに取りかからなければならない。しかしそれにおいて、キリストは他方よりも多くの善を行うであろう。なぜなら、キリストの、またその教会の苦難の日々は、彼らの怠惰な空虚な日々ではないからである。ここに次のことが記されている。
一、 律法に従い過越の小羊がほふられるべき「種なしパンの日」その日に、キリストが弟子たちと共に過越を食べるための準備(ルカ 22:7)。キリストは律法の下に造られ、その定め、特に過越のそれを守られた。それは同じように私たちに、ご自身の福音の定め、特に主の晩餐のそれを守り、おろそかにしないよう教えるためである。おそらくキリストは朝、宮で説教するために出かけ、その間ペテロとヨハネを別の道から町に遣わして「過越の準備」をさせた。自分のために世俗の事務を大いに行ってくれる従者を抱える者は、これが自分たちが「怠惰である」ことを「許す」と考えてはならない。それは彼らが「霊的」なわざ、あるいは「公衆」への奉仕において、さらに自分自身を用いることを「義務づける」のである。キリストは用いる者たちに行く先を示された(ルカ 22:9,10)。「水がめを運んでいる人に従って行かなければならない」。その人が家への案内となる。キリストは家を彼らに描写することもできた。おそらく彼らの知っている家で、「ある人の家へ行け」とか、「こんなしるしのある、こんな通りの家へ」と言うだけで済んだかもしれない。しかしキリストは彼らをこのように導いた。それは摂理の導きに頼り、それに「一歩ずつ」従うことを教えるためである。彼らは「どこへ行くのか」「誰について行くのか」を知らずに行った。家に着いて、彼らは家の主人に部屋を見せてもらうように頼まなければならなかった(ルカ 22:11)。そして主人は喜んでするであろう(ルカ 22:12)。それが友人の家であったか宿屋であったかは明らかでない。しかし弟子たちは案内者と、家と、部屋を、キリストの言われたとおりに見つけた(ルカ 22:13)。キリストの言葉に基づいて行く者は失望を恐れる必要はない。彼らは与えられた命令に従い、「過越」のためにすべてを整えた(ルカ 22:11)。
二、 律法に従っての過越の執行。「時刻になった」、食事に行くべき時、イエスは「席に着いた」。おそらく食卓の上座に。そして「十二使徒も共に」。ユダも例外ではなかった。なぜなら、心がサタンとあらゆる種類の悪で満たされている者たちでさえ、もっともらしい宗教の告白を続け、その外面的な礼拝の実行の中に見出され得るからである。そしてそれが心の中にあり、何か不名誉なものに爆発しない限り、そのような者はその外面的な告白の外面的な特権を拒否できない。ユダはすでに反逆の「あからさまな行為」を犯していたが、それが公に知られていなかったので、キリストは彼を過越の席に他の者たちと共にすわることを許された。ここで次のことを観察しよう。
キリストが「この過越を歓迎」された仕方。それは同じように私たちに、キリストの過越、主の晩餐を歓迎し、食欲をもって来ることを教えるためである(ルカ 22:15)。「『私は切に願って』、最も熱心に願っていた。『苦しむ前に、あなたがたと一緒にこの過越を食べることを』。」キリストはこれがご自身の苦難の序幕となることを知っておられた。それゆえ「それゆえに」これを願われた。それはご自身の父の栄光と人の贖いのためであったから。キリストは仲介者としてご自身に関する「神の御心」のこの部分を行うことさえも「喜ばれた」。私たちの救いのわざにおいてこれほど「進んで」くださった方のために、何かの奉仕に「後ろ向き」になるだろうか。弟子たちに対するキリストの愛を見よ。キリストは彼ら「と共に」これを食べることを願われた。それはキリストと彼らが一緒に、彼らだけで、私的な語り合いの時間を持つためであった。これはこの機会でなければエルサレムでは持てなかった。キリストは今にも彼らを去ろうとしておられたが、「苦しむ前に、彼らと一緒にこの過越を食べる」ことを非常に切望された。その慰めがご自身の苦難をより快く通り抜けさせ、それらをキリストにより容易にするかのようであった。なお、信仰によってイエス・キリストと共に食べる私たちの福音の過越は、苦難と試練と死そのものへの優れた備えとなる。
過越においてキリストが「すべての過越に別れを告げられた」仕方。これによってキリストは、儀式律法のすべての定めを廃止されることを示される。過越はそのうちで「最も古く」「最も著名な」ものの一つであった(ルカ 22:16)。「『私はもはやこれを食べない』。私の弟子たちによって祝されることもない。『神の国においてそれが成就するまでは』。」(1)それは「キリストが私たちの過越の小羊としてほふられた」(コリ一 5:7)ときに成就した。それ「ゆえに」その型と影は捨てられた。今や「神の国」において実体が来た。それがこれに取って代わったからである。(2)それは「主の晩餐」において成就した。福音の国の定めで、その中で過越はその完成を得た。弟子たちは御霊の注ぎの後、これをしばしば祝った。使徒 2:42,46 に見るように。彼らはそれを食べ、キリストは彼らと共に食べたと言われ得た。彼らがその定めにおいてキリストと持つ霊的交わりのゆえに。「主は彼らと共に食し、彼らは主と共に食する」と言われる(黙 3:20)。しかし、(3)その自由の記念の完全な完成は栄光の国においてである。神の霊的イスラエルのすべてが死と罪の束縛から解放され、約束の地の所有に置かれるとき。キリストが過越の小羊を食べることについて語られたことを、キリストは「過越のぶどう酒」、すなわち過越の食事の終わりに、一同が宴の主人に杯を挙げた「祝福の杯」、あるいは「感謝の杯」について繰り返された。この杯をキリストは習慣に従って「取り」、「感謝をささげられた」。イスラエルのエジプトからの救出と、その長子の守りのために。それから言われた。「これを取って、あなたがたの間で分け合いなさい」(ルカ 22:17)。これは後で聖餐の杯について語られていない。「新しい契約の」という血であること、おそらくはるかに重く価値があるもので、キリストはそれを一人ひとりの手に与えて、各自の魂に特別な適用をすることを教えられたのかもしれない。しかし、廃止される過越の杯については、「『取って』、『あなたがたの間で分け合いなさい』、好きにするがよい。もはやその必要はない(ルカ 22:18)」と言うだけで十分である。「『私はもはやぶどうの木の産物を飲まない』。もはや飲まれることもない。『神の国が来るまでは』。御霊が注がれるまでは。そのときあなたがたは『主の晩餐』において、はるかに栄光ある贖いを記念するであろう。エジプトからの救出と過越の記念の両方は、その型と象形であった。神の国は今や設定されようとしており、来るまではもはや食べたり飲んだりする必要はない。」翌日に死なれるキリストがこれを開いた。キリストが多くの喜びをもって、福音的な霊的また聖餐的なもののために、すべての律法的な祭り(過越と共に当然廃れるもの)に別れを告げられたように。良いクリスチャンも、戦う教会から勝利の教会へ移るように召されるとき、霊的なごちそうさえも、まして聖餐的なものを、永遠の宴と喜んで交換するであろう。
三、 主の晩餐の制定(ルカ 22:19,20)。「過越」と「エジプトからの救出」は、死によって私たちを罪と死とサタンの専制から救うべき来たるべきキリストの「型的」「預言的」なしるしであった。しかし彼らはもはや「地、すなわちエジプトの地から私たちを上らせられた主は生きておられる」とは言わないであろう。はるかに大いなる救出がその輝きを覆い隠すからである。それゆえ主の晩餐は、すでに来て、死によって私たちを救ったキリストの記念のしるし、あるいは記念として制定される。そしてキリストの死がその定めにおいて特別に私たちの前に置かれる。
「私たちのための犠牲としてのキリストのからだの裂かれ」が、「パンを裂くこと」によって記念される。律法の下の犠牲は「私たちの神のパン」と呼ばれた(レビ 21:6,8,17)。「これはあなたがたのために与えられる私のからだである。」そしてその犠牲の上に宴会が制定され、その中で私たちはそれを自分自身に適用し、その益と慰めを取る。私たちのために与えられたこのパンは、私たちの魂の食物として私たち「に」与えられる。キリストが罪の贖いをなし、その贖いにおける私たちの関与の確証という教理以上に、私たちの魂に「栄養」と「満足」を与えるものはないからである。私たちの罪の罪責を満たすために私たちの「ために」「裂かれ」「与えられた」このパンは、私たちの魂の願いを満たすために私たち「に」「裂かれ」「与えられる」。そしてこれは私たちが死なれたとき、私たちのためにしてくださったことの「記念」として、私たちが自分自身を「キリストのあずかる者」とし、永遠の契約においてキリストにつく」ことを「する」ことの「記念」として、私たちがこれを行う。ヨシュアが「あかし」のために立てた石のように(ヨシュ 24:27)。
贖いのなされた「キリストの血の流し」(「血はたましいのために贖いをする」レビ 17:11)は、杯のぶどう酒によって表される。そしてそのぶどう酒の杯は、私たちと結ばれた新しい契約、あるいは新しい契約のしるしであり、印である。それはキリストの血による契約の購いを「記念し」、契約の約束を「確証する」。それらの約束はすべてキリストにおいて「しかり」であり「アーメン」である。これは「心を喜ばせる」ぶどう酒のように、私たちの魂に生気と爽快を与える。キリストの血の流しのすべての記念において、私たちはそれが私たち「のために」流されたとしてこれに目を向けなければならない。私たちはそれを必要とし、これにつかみ、これによって益を得ることを望む。「私を愛し、私のためにご自身を与えられた方」。そして新しい契約のすべてに関して、私たちは「キリストの血」に目を向けなければならない。それが新しい契約にいのちと存在を与え、そのすべての約束を私たちに封印する。キリストの血がなければ、私たちは決して新しい契約を持たなかったであろう。そして新しい契約がなければ、私たちは決してキリストの流された血の意味を知らなかったであろう。
Luke 22章 21-38 Matthew Henry's Complete Commentary
²¹ しかし見よ、私を裏切る者の手が、私と共に食卓にある。
²² 人の子は定められた通りに行く。しかし、その人はわざわいだ。彼によって人の子が裏切られるのだから。」
²³ 弟子たちは互いに、この事をするのは自分たちのうちのだれだろうかと調べ始めた。
²⁴ また、自分たちのうちでだれが一番偉いと思われるかという争いも彼らの間に起こった。
²⁵ イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちには、彼らの上に主君権をふるう者、また、権威を振り回す者は恩人と呼ばれる。
²⁶ しかし、あなたがたはそうであってはならない。あなたがたのうちで一番偉い者は若い者のようになり、支配する者は仕える者のようになりなさい。
²⁷ 食卓に着く者と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓に着く者ではないか。しかし、わたしはあなたがたの間にあって給仕する者としている。
²⁸ あなたがたは、私の試緮の中で私と共に踏みとどまってくれた者たちである。
²⁹ 父が私に国をお任命になったように、わたしもあなたがたに国を任命する。
³⁰ 私の国で私の食卓で食べ飲み、十二の部族をさばくために座につくためである。」
³¹ 主は言われた。「シモン、シモン、見よ、サタンがあなたがたを麦のようにふるい分けたいと願い求めた。
³² しかし、わたしはあなたのために祈った。あなたの信仰が失敗しないために。そして、あなたが立ち返ったら、兄弟たちを力づけなさい。」
³³ ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたと共に牢にも、死にも行く覚悟です。」
³⁴ しかしイエスは言われた。「ペテロ、あなたに告げましょう。きょう鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うでしょう。」
³⁵ そして彼らに言われた。「私があなたがたを、財布も袋もくつも持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。」彼らは「何もありません」と言った。
³⁶ すると彼らに言われた。「しかし今は、財布を持つ者はそれを取り、同様に袋も取りなさい。剣を持たない者は、上着を売って剣を買いなさい。
³⁷ あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていることが、わたしにおいて成就されなければなりません。わたしに関する事は終わりを迎えるのです。」
³⁸ 彼らは言った。「主よ、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに言われた。「それで十分です。」
ここには、食後のキリストと弟子たちとの対話が記されている。その多くはここに新しいものである。またヨハネの福音書には他の追加が見いだされるであろう。私たちは彼から、食卓において善であり、徳を高めるような、聞く者に恵みを与えるそのような対話によって、家族や友人を楽しませ、徳高くする手本を取るべきである。特に主の食卓にあずかった後は、キリスト教的な語り合いによって互いにふさわしい心を保つべきである。キリストがここで語った事がらは重みがあり、その場の目的にかなうものであった。
一、彼は、今そこにいた、自分を裏切るはずの者について彼らと語り合った。1. 彼は彼らに、裏切り者が今彼らの中にいて、彼らのひとりであることを示された(ルカ22:21)。これを主の食の制定の後に置くことによって(マタイとマルコではその前に置かれているが)、ユダが主の食にあずかったこと、そのパンを食べ、その杯を飲んだことは明らかなようである。儀式が終わった後、キリストは言われたからである。見よ、私を裏切る者の手が、私と共に食卓にある。キリストと共にパンを食べながら、彼を裏切った者たちがあった。2. 彼は裏切りが成就することを予告された(ルカ22:22)。まことに、人の子は定められた通りに行く。裏切られる場所へと行く。彼は神の定めと予知によって引き渡されているのでなければ、ユダは彼を引き渡すことはできなかったからである。キリストは苦しみへと追いやられたのではなく、喜んでそれらに向かわれた。彼は言われた。見よ、わたしは来ると。3. 彼は裏切り者を脅かされた。その人はわざわい。彼によって人の子が裏切られるのだから。覚えておきなさい。聖徒たちの苦しみの下での忍耐も、彼らの苦しみに関する神の定めも、彼らの苦しみに手を貸した者たち、彼らを迫害した者たちにとっては言い訳にはならない。神がキリストが裏切られることを定め、キリストご自身が喜んでそれに服したとしても、ユダの罪も罰も少しも減るわけではない。4. 彼は、その裏切りは彼らのひとりであると言い、どの者であるかを示さなかったことによって、残りの弟子たちを自分自身への疑いへと怖れさせた(ルカ22:23)。彼らは互いに調べ始めた。自分自身を問いただし、自分自身に問いを立てた。この事をするのはだれか。これほど良い主人にこれほど卑劣なことができるのは。問いは、あなたですか、あるいはあの人ですかではなく、私ですかであった。
二、優越あるいは至上権に関する彼らの間の争いについて。
1. 争いが何であったかを見よ。自分たちのうちでだれが一番偉いと思われるか。御霊が彼らの上に注がれる前に、弟子たちの間での尊厳と支配に関するこのような、そしてこれほど多くの争いは、御霊が彼らから去るように引き起こされた後に、教会における至上権のための同様の争いや野心の悲しい前兆であった。これはルカ22:23の事といかに矛盾するか。そこで彼らは誰が裏切り者かを問い返し、ここで誰が君となるかを問うている。同じ人々の中に、これほど近くして、へりくだりの一例と、高慢と虚栄の一例とが見いだされえたか。これは甘い水と苦い水が同時に同じ泉から湧き出るようなものである。欺きの人の心はなんと自己矛盾的であろうか。
2. この争いに対してキリストが何を言われたかを見よ。彼は予期されたように(このまさに同じ事のために彼らをしばしば訓戒されていたのに)彼らを激しく責めるのではなく、穏やかにその罪と愚かさを示された。
(1.) これは自分たちを異邦人の王たちのようにすることであった。彼らは世的な壮麗さ、世的な権力を愛する(ルカ22:25)。彼らは臣民の上に主君権をふるい、たえず自分たちと同じくらい良い、自分たちと同じくらい強いとは思わない周りの君たちの上にも主君権をふるおうと努める。覚えておきなさい。主君権をふるうことは、キリストの使者たちよりも異邦人の王たちにふさわしい。しかし見よ。権威を振り回す者、自ら支配し、法を与える者は恩人と呼ばれる。Euergetas。彼ら自身そう自称し、そのおべっか使いたちもそう呼び、自分たちに仕えることに身を置いた者たちもそう呼ぶ。彼らが恩人であったと見せかけ、そのゆえに支配を認められるべきであるとされる。いや、権威をふるうことにおいて彼らは恩人であると。彼らが実際には自分自身に仕えているにしても、彼らは国に仕えていると思われたがる。プトレマイオスの一人はEuergetes―恩人とあだ名された。さて、私たちの救い主はこれに言及することによって、次のことを示唆される。[1.] 善を行うことは偉そうに見えることよりもはるかに誉れあることである。これらの力ある者たちの恐怖であった君たちは、そう呼ばれることを望まず、むしろ乏しい者たちの恩人と呼ばれることを望んだ。それゆえ彼ら自身の告白によって、国の恩人は国の支配者よりもはるかに価値ある者とされる。[2.] 善を行うことは偉くなるための最も確かな道である。そうでなければ、支配者になろうと志す者が恩人と呼ばれることにこれほど熱心にならなかったであろう。それゆえ彼は弟子たちに次のことを信じさせようとされる。彼らの最大の誉れは、世の中でできる限りの善を行うことである。彼らは福音をもたらすことによって、まさに世の恩人となるであろう。彼らが実際に権利を得るその称号を尊ぶべきである。そうすれば誰が一番偉いかを争う必要はない。なぜなら、彼らは皆、その上に主君権をふるう地の王たちよりも、人類へのより大いなる祝福となるからである。もし彼らが、恩人であるという、より大いなる誉れを認められて持つなら、支配者であるというより小さな誉れを軽んぜよ。
(2.) これは自分たちをキリストの弟子たちらしくなく、キリストご自身らしくなくすることであった(ルカ22:26,27)。あなたがたはそうであってはならない。あなたがたが真理と恵みの力によって以外の方法で支配することは決して意図されなかった。あなたがたは仕えるべきであった。教会の支配者が外なる壮麗さと権力を愛し、世的な利益や影響力によって自分を支えるとき、彼らはその職を貶める。それはイスラエルが、主がその王であったのに、周囲の国民のように王を持ちたがったときの退廃のようなものである。見よ。[1.] キリストが弟子たちに与えた規則は何か。あなたがたのうちで一番偉い者、すなわち年長者、その年齢のゆえに優越の当然な者は、若い者のようになるべきである。場の低さにおいて(若い者と共に座り、彼らと自由に親しくあるように)も、労苦と働きにおいても。私たちは言う。若い者は労働へ、年長者は誉れへ。しかし年長者は若い者と同様に労苦すべきである。その年齢と誉れは、彼らが安らぐことを許すのではなく、二重の働きに彼らを縛る。そして支配する者、ho hegoumenos―大学あるいは集会の議長は、仕える者のようになるべきである。hos ho diakonon―執事のように。公共利益のために、必要ならば最も卑しく、最も骨の折れる奉仕に身をかがめるべきである。[2.] キリストご自身がこの規則に与えられた手本は何か。食卓に着く者と給仕する者と、どちらが偉いのか。給仕する者か、給仕される者か。さてキリストは弟子たちの間に、まさに給仕する者のようであられた。彼は彼らの奉仕を命じることによって威厳を保つこと、安らぐことからほど遠く、彼らのために親切と奉仕のいかなる務めをも喜んで行われた。その足を洗われたことがその証拠である。しもべの姿をとられた方に従う者と自称する者たちが、君たちの姿をとるであろうか。
(3.) 彼らは世的な誉れや壮大さのために争ってはならなかった。なぜならキリストは、別の性質の、より良い誉れを彼らのために備えておられたからである。すなわち御国、祝宴、王座。それぞれのための。そこで彼らは皆等しくあずかり、優越のために争う必要がなかった(ルカ22:28-30)。そこで観察せよ。
[1.] キリストの弟子たちの忠実さに対する称賛。これは彼らにとって十分な誉れであり、これ以上を争う必要はなかった。称賛と拍手の調子で語られる。あなたがたは、私の試緮の中で私と共に踏みとどまってくれた者たちである。他の者たちが私を見捨て、背を向けたとき、あなたがたは私のそばに立ち、私に固くついてくれた。キリストにはその試緮があった。彼は人々に侮られ、拒絶され、そしり、罵られ、罪人たちの反逆に耐えられた。しかし弟子たちは彼と共に留まり、彼のすべての苦しみにおいて苦しんだ。彼らが彼に与えられた助け、あるいは奉仕はわずかなものであった。それでも彼は彼らが彼と共に留まったことを親切に受け止められた。そして彼らが自分の恵みの助けによって留まったのであるにもかかわらず、ここで彼らの親切を認められた。キリストの弟子たちはその務めにおいて非常に欠けていた。私たちは彼らが多くの過ちと弱さにおいて罪あることを見いだす。彼らは非常に鈍感で、非常に忘れっぽく、しばしば過ちを犯した。しかしその主人はすべてを見過ごし、忘れられた。彼はその弱さを責めない。むしろこの記憶すべき証明書を与えられる。あなたがたは、私と共に踏みとどまってくれた者たちであると。このように彼は別れ際に褒められる。心が自分と共に正しいことを知っている者たちの最善をいかしたがる方であることを示すために。
[2.] 彼らの忠実さに対してキリストが意図された報い。わたしは国をあなたがたに任命する。diatithemai。わたしは国をあなたがたに遺贈する。あるいはこう。父がわたしに国を任命されたように、わたしもあなたがたに任命する。あなたがたがわたしの食卓で食べ飲みするためである。これを次のように理解せよ。第一に、この世で彼らのためになされる事について。神はその子に人々の間の御国を与えられた。福音教会であり、その生ける、いのちを与える、支配するかしらであるキリストのものである。この御国を彼は使徒たちと福音の奉仕におけるその後継者たちに任命された。彼らが福音の慰めと特権を楽しみ、福音の定めによって他者にそれを伝えるのを助け、教会の役員として王座に座り、宣言的にだけでなく、勧告的に不信仰に固執するイスラエルの部族をさばき、彼らに神の怒りを告げ、教会の制定された規律をもって、柔和と愛をもって執行することによって、福音のイスラエル、霊的イスラエルを治めるためである。これがあなたがたのために保留されている誉れである。あるいは第二に、来るべき世で彼らのためになされる事について。私が主として意図するところはこれである。彼らはこの世でその奉仕を続けよ。彼らの昇進は来るべき世にある。神は彼らに御国を与えられる。そこで彼らは確実に持つであろう。1.最も豊かなごちそう。彼らはキリストの国でその食卓で食べ飲みする。彼が語られたもの(ルカ22:16,18)。彼らはその奉仕と苦しみの報いである喜びと楽しみにあずかる。彼らは神の観想と享受において魂の十分な満足を持つ。そしてここにおいて彼らは祝宴のように、完全な愛において最良の交わりを持つ。2.最も高い尊厳。「あなたがたはダビデのメフィボシテのように、王の食卓で養われるだけでなく、王の王座にまで優遇される。わたしと共にわたしの王座に座する(黙示録3:21)。その大いなる日にあなたがたは王座に座り、キリストの陪席として、十二の部族をさばくキリストのさばきを承認し、称賛する。」聖徒が世界をさばくのなら(コリント人への手紙第一6:2)、教会はなおさらである。
三、ペテロがキリストを否認することについて。そして対話のこの部分において、私たちは次のことを観察することができる。
1. キリストがペテロに与えられた、ペテロと他の使徒たちに対する悪魔の企てに関する一般的な知らせ(ルカ22:31)。主は言われた。シモン、シモン。わたしが言うことを観察せよ。サタンがあなたがたを麦のようにふるい分けたいと願い求めた。キリストに語るにおいて他の者たちの口であったペテロは、ここでは他の者たちの耳とされた。そして彼らすべてへの警告として意図されたもの(あなたがた皆は私のゆえにつまずく)がペテロに向けられた。彼が特に、誘惑する者によって特に打撃を受けたからである。サタンがあなたがたを願い求めた。おそらくサタンは、ヨブを訴えたように、弟子たちを神に、キリストに従うにおいて利己的であり、その中でこの世で自分を富まし、高めること以外には何も目指していないと訴えたであろう。「いや」、と神は言われる。「彼らは正直な人々、誠実な人々である」。「私に試みさせてください」、とサタンは言う。「特にペテロを」。サタンは彼らを持つことを願い求めた。彼らをふるい分けるために。彼らが麦ではなく、もみ殻であることを示すために。今彼らの上に来ていた苦難はふるいであり、彼らの中に何があるかを試すものであった。しかしこれだけではなかった。サタンはその誘惑によって彼らをふるい分けることを願い求めた。それらの苦難によって彼らを罪に引き込もうと努めた。彼らを損失と混乱の中に置くために。穀物がふるい分けられるときにもみ殻を最上部に引き出すように。あるいはむしろ麦を振り出し、もみ殻だけを残すために。観察せよ。サタンは神が許しを与えられなければ彼らをふるい分けることはできなかった。彼は彼らを持つことを願い求めた。ヨブを試み、誘惑する許しを神に乞うたように。Exetesato。彼はあなたがたを挑んだ。あなたがたが偽善者の一団であることを証明しようと引き受けた。特にペテロ、あなたがたの最も進んだ者を。ある者たちは、サタンが誰が一番偉いかを争ったこと―その争いでペテロはおそらく非常に熱かった―の罰として彼らをふるい分ける許しを求めたと示唆する。「彼らを私に任せよ。そのためにふるい分けよう」。
2. この試みに関連して、キリストがペテロに与えられた特定の励まし。わたしはあなたのために祈った。彼らすべてを持つことを願うが、彼はあなたにだけ最も強い攻撃を加えることが許されているからである。あなたは最も激しく襲われるであろう。しかしわたしはあなたのために祈った。あなたの信仰が失敗しないために。それが完全に、最終的に失敗しないために。覚えておきなさい。(1.) 誘惑の時に信仰が保たれるなら、私たちは倒れることはあっても、全く打ち倒されることはない。信仰はサタンの燃える矢を消す。(2.) 真の信じる者たちの信仰には多くの失敗があるかもしれないが、その信仰の完全で最終的な失敗はない。それは彼らの種であり、根であり、彼らのうちに留まる。(3.) イエス・キリストのとりなしと執り成しのゆえに、その弟子たちの信仰は、時にひどく揺さぶられても、沈まないのである。もし彼らが自分たちに任されたら、彼らは失敗するであろう。しかし彼らは神の力とキリストの祈りによって保たれている。キリストの執り成しは一般的なものではなく、信じるすべての人のためであるが、特定の信じる者のためでもある(わたしはあなたのために祈った)。これは私たちが自分自身のために祈るための励ましであり、他の人々のためにも祈ることを私たちに義務付ける。
3. ペテロが自ら神の助けを受けるように、他者を助えるためにキリストがペテロに与えられた命令。あなたが立ち返ったら、兄弟たちを力づけなさい。神の恵みによって回復され、悔い改めに導かれたとき、他の者たちを回復させるためにできる限りをしなさい。自分の信仰が失敗から保たれていることを見いだしたとき、他の者たちの信仰を確認し、彼らを確立するために労しなさい。自分自身が神にあわれみを受けたことを見いだしたとき、他の者たちもまたあわれみを見いだすという希望を彼らに励ますように。覚えておきなさい。(1.) 罪に陥った者たちは、その罪から立ち返らればならない。それてしまった者たちは帰らなければならない。初めの愛を離れた者たちは、初めのわざをしなければならない。(2.) 恵みによって罪から立ち返った者たちは、立っている兄弟たちを強め、彼らの倒れるのを防ぐためにできる限りをしなければならない(詩篇51:11-13、テモテへの手紙第一1:13を見よ)。
4. ペテロが、どんな犠牲を払ってもキリストに固くつくと宣言した決意(ルカ22:33)。主よ、あなたと共に牢にも、死にも行く覚悟です。これは大きなことばであった。しかし私はそれがこの時彼が意味した以上のものではなく、また果たすと思った以上のものでもないと信じる。ユダは、キリストを否認することに対して、しばしば警告されたにもかかわらず、このように抗議したことはなかった。彼の心はペテロの心がそれに反対したのと同じように、悪に固く定められていたからである。覚えておきなさい。キリストのすべての真の弟子たちは、誠実に彼に従うことを願い、意図する。彼がどこへ行かれようとも、彼らをどこへ導かれようとも。牢に入れられようとも、世から出されようとも。
5. キリストが彼の三度の否認の明示的な予告(ルカ22:34)。ペテロ、あなたに告げましょう(あなたは自分の心を知らないが、あなたがそれを知り、二度とそれに頼まないように、少しの間あなたを自分自身に委ねられなければならない)。きょう鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うでしょう。覚えておきなさい。キリストは私たちが自分自身を知る以上に私たちを知っておられ、私たちのうちにある悪、私たちによってなされるであろう悪をご存じである。それは私たち自身は疑わないものである。キリストが私たちの弱い所を私たち以上によくご存じであり、それゆえ十分な恵みをもってどこに介入すべきかをご存じであることは、私たちにとって幸いである。誘惑がどこまで及ぶかをご存じであり、それゆえここまで来て、それ以上は進まないと述べるべき時を知っておられる。
四、すべての弟子たちの状況について。
1. キリストはこれまでの事について彼らに訴えられた(ルカ22:35)。彼らが忠実なしもべであったことを認められた(ルカ22:28)。さて彼は別れ際に、彼らがすべてを捨てて彼に従って以来、彼が彼らに親切で注意深い主人であったことを彼らが認めることを期待される。私があなたがたを、財布も袋もくつも持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。(1.) 彼は、自分が彼らを非常に貧しく、裸の状態で遣わしたことを認められる。裸足で、財布に金を持たずに。彼らは遠くへ行かず、長く外出しないことになっていたからである。また彼はこうして彼らに神の摂理に頼ることを教えようとされた。その下では、友人たちの親切に。(2.) しかしこれにもかかわらず、彼らが何も足りないものがなかったことを彼らに認めさせようとされた。彼らはかつてないほど豊かに、慰めよく暮らした。そして彼らは進んでそれを認めた。何もありません、主よ。私にはすべてがあり、満ちあふれています。覚えておきなさい。[1.] 私たちの生涯を通じて私たちに関する神の摂理をしばしば振り返り、私たちが出会った苦境や困難をいかに通り抜けてきたかを観察することは、私たちにとって良いことである。[2.] キリストは良い主人であり、その奉仕は良い奉仕である。そのしもべたちは時に低くされるかもしれないが、彼は彼らを助けられる。彼は彼らを試みるが、彼らを見捨てられない。エホバ・エレ(主は備えられる)。[3.] 私たちは、生活の必要な支えを持っていたなら、ごちそうや余分なものはなくとも、顧みられたとみなし、不満を言わず、感謝しなければならない。たとえその日暮らしであったとしても、友人たちの親切によって生きたとしても。弟子たちは献金によって暮らした。しかしその生計が不安定であることを不満に思わず、主人の誉れのために、それは十分であったことを認めた。彼らは何も欲しなかった。
2. キリストは今近づいている、彼らの状況の非常に大きな変化について彼らに知らせられた。なぜなら、(1) 彼らの主人であった方が今その苦しみに入ろうとしておられたからである。彼はしばしば予告された(ルカ22:37)。今、書かれていることがわたしにおいて成就されなければならない。そのうちの一つ。彼は不法な者たちとともに数えられた。彼は犯罪人として、最も卑劣な犯罪人たちと共に苦しみ、死ななければならない。これがなお成就されるべきことであり、他のすべての後に。そしてわたしに関する事、わたしについて書かれた事は終わりを迎える。そのときわたしは成し遂げられたと言うであろう。覚えておきなさい。苦しむキリストにとってそうであったように、苦しむキリスト者にとって、その苦しみが予告され、天の定めにおいて定められ、まもなく天の喜びにおいて終わることは慰めとなりうる。彼らについて書かれたのであり、彼らは終わりを迎える。そして永遠に良く終わる。(2) それゆえ彼らは苦難を予期しなければならず、もはやこれまでのような容易で慰めある生活を持てると思ってはならなかった。いや、場面は変わるであろう。彼らは今ある程度、その主人と共に苦しまなければならない。そして彼が去られた後は、彼のように苦しむことを予期しなければならない。しもべはその主より良いではない。[1.] 彼らはもはや、友人たちがこれまでのように親切で寛大であることを期待してはならなかった。それゆえ、財布を持つ者はそれを取りなさい。必要があるかもしれないから。また彼が使い得るすべての倹約のために。[2.] 彼らは今、敵たちがこれまでよりも激しく彼らを襲うことを予期しなければならなかった。彼らは店だけでなく武器庫も必要であろう。剣を持たない者は、強盗や暗殺者から身を守るための(コリント人への手紙第二11:26)それが大いに欠けていることを見いだし、ある時は、上着を売って剣を買えばよかったと思うであろう。これは、時代が非常に危険なものとなることを示すためだけに意図されている。剣を腰に帯びなければ、誰も自分を安全と思わないほどに。しかし御霊の剣こそ、キリストの弟子たちが自分たちのために備えるべき剣である。キリストが私たちのために苦しみ、私たちは同じ心をもって自分を武装すべきである(ペテロへの手紙第一4:1)。苦難の予期をもって自分を武装する。それが私たちにとって驚きとならないために。また、その中にある神の御心への聖なる服従をもって。私たちのうちにそれへの反対がないために。そうしてこそ、上着を売って剣を買う以上に備えられたことになる。弟子たちはそこで自分たちの力がどれほどかを問い返し、自分たちの間に二振りの剣があることを見いだした(ルカ22:38)。そのうちの一つはペテロのものであった。ガリラヤ人は一般に剣を携えて旅をした。キリストご自身は帯びなかったが、弟子たちが帯びることに反対されなかった。しかしそれで十分と言われたとき、彼らがこれに頼ることをいかに少なく望まれるかを示唆された。ある者たちは皮肉であると考える。「十二人の男のうち二振りの剣! 敵たちが大群をもって、しかも各自が剣をもって私たちに向かって来ようとしているのに、あなたがたは実に勇ましく武装している」。しかしふたりの剣で十分である。神ご自身をその助けの盾、その力の剣として持つ者には(申命記33:29)。
³⁹ イエスは出て、いつものようにオリーブ山へ行かれた。弟子たちも従って行った。 ⁴⁰ そしてその場所に来て、彼らに言われた。「誘惑に陥らないように祈りなさい。」 ⁴¹ そして彼らから石を投げるほど離れて、ひざまずいて祈られた。 ⁴² 言われた。「父よ、もし御心ならば、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心が成るようにしてください。」 ⁴³ すると御使いが天から現れて、イエスを力づけた。 ⁴⁴ イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地面に落ちていた。 ⁴⁵ 祈りから立ち上がって弟子たちのところに来ると、悲しみのゆえに彼らが眠っているのを見つけられた。 ⁴⁶ そして言われた。「なぜ眠っているのか。起きて祈りなさい。誘惑に陥らないように。」
ここには、裏切りに遭う直前のキリストの「園での苦悶」の恐るべき物語があり、これは他の福音書記者によって詳しく記されていた。この苦悶の中でキリストは、今や進み入ろうとしているご自身の務めの一部——すなわち「ご自分のいのちを罪のためのささげ物とする」こと——に「ご自身を適合させられた」。キリストは、贖うべき罪に対する悲しみと、人が罪によって自らを晒してしまった神の怒りに対する理解をもって、ご自分のいのちを苦しめられた。そして、いけにえとして、その印象を受け入れることをよしとされた。というのも、いけにえが天からの火によって焼き尽くされることは、その受け入れの最も確かなしるしであったからである。この苦悶の中でキリストは暗闇の力との戦いに臨み、彼らが望むあらゆる有利な条件を与えたにもかかわらず、彼らに打ち勝たれた。
一、この箇所にあって、すでに以前に得ていた事柄は次のとおりである。1. キリストが外出されたとき、夜であり長い道のりであったのに、「弟子たち」(ユダはずり落ちていたので十一人であった)が「従いて行った」こと。彼らは今までキリストの試みの中に留まってきたので、今さらキリストを離れることはしなかった。2. キリストが「いつもの」静かな場所に行かれたこと。これはキリストが隠退に慣れておられ、しばしば独りでいられたことを示している。それは、神や自分自身の心と自由に交わるために、私たちもそのようであるべきことを教えるためであった。キリストは園のほかには隠退の場を持たなかったのに、隠退された。これは特に、主の食卓に与った後に私たちがなすべき実践である。そのとき私たちには、独りになることを要する務めがある。3. キリストが弟子たちに「祈る」ように勧めたこと。差し迫った試練は避けられないとしても、その中で罪への「誘惑に陥らない」ように、すなわち最大の恐怖と危険の中にあっても、キリストを見捨てるいかなる傾向も持たず、その方への一歩も踏み出さないように。「罪から守られるように祈りなさい。」4. キリストが彼らから離れて、ご自身で祈られたこと。彼らには恵みの御座における用事があり、キリストにもご自分の用事があった。だから時に共通の用事があって共に祈るように、別々に祈ることがふさわしかった。キリストは園のさらに奥へ「石を投げるほど」(五十〜六十歩ほどと数える者もいる)退き、そこで「ひざまずかれた」(ここではそう記されている)。しかし他の福音書記者は、その後イエスが「顔を地に伏せて」、もし神の御心ならば、この苦しみの杯、この苦い杯が「私から取り除かれるように」と「祈った」と言っている。これは、真に、そして真実に人であられたキリストが、その性質として持ちえなかった苦しみに対する無垢の恐れの言葉であった。5. キリストは、苦しみ、死ぬことが御父の御心であること、そして私たちの贖いと救いのために、事が今のように定まった以上それは必要であることを知っておられたので、すぐにその願いを取り下げ、それに固執せず、天の父の御心にご自身を明け渡された。「しかし、私の思いではなく、御心が成るように」。人間の性質としての私の思いではなく、書物の巻に私について書かれているとおりの、「私の喜んで行う」神の御心が成るように(詩篇 40:7-8)。6. 弟子たちがキリストが祈っておられる時、また彼ら自身が祈るべき時に「眠っていた」こと(ルカ 22:45)。キリストが「祈りから立ち上が」られると、「彼らが眠っているのを見つけられた」。主の悲しみに無関心であった。しかし、ここでは他の福音書記者にはなかった好意的な解釈が与えられている——彼らは「悲しみのゆえに眠っていた」。その晩、彼らの主が別れを告げたことによる深い悲しみが彼らの霊を消耗させ、非常に鈍く重くし、(今は遅い時間であったので)眠気を誘ったのである。これは、兄弟の弱さについて最善の解釈をし、もしひとつの原因が他よりよいなら、寛容にそれに帰するべきことを私たちに教える。7. キリストが彼らを起こしたとき、彼らに祈るように勧めたこと(ルカ 22:46)。「なぜ眠っているのか。なぜ眠ることを自分に許すのか。起きて祈りなさい。眠気を『振り払いなさい』。そうすれば『祈るのにふさわしく』なろう。そして『恵みのために祈りなさい』。そうすれば眠気を『振り払う』ことができるようになろう。」これは嵐の中で船長がヨナに呼びかけた言葉(ヨナ書 1:6)、「起きて、あなたの神に呼ばわれ」に似ていた。私たちが外面的な状況や内面的な傾向によって誘惑に入りつつあるのを覚えるとき、「主よ、この『助けを必要とする時』に私を助けてください」と「起きて祈ること」は私たちに関わることである。しかし、
二、この箇所には、他の福音書記者にはなかった三つの事柄がある。
キリストが苦悶の中にあったとき、「御使いが天から」現れて「イエスを力づけた」(ルカ 22:43)こと。(1) これは主イエスの深いへり下りの例であった。すなわち、キリストは御使いの助けを「必要と」し、それを「受け入れる」ことをよしとされた。神の性質の影響力がしばし退けられ、そのとき人間の性質としては、キリストはしばらくの間御使いよりも低い者とされ、彼らから助けを受けることができた。(2) キリストが苦しみから救い出されなかったときでさえ、その下で「力づけられ」「支えられた」こと。それは「同等のこと」であった。もし神が荷物に応じて肩を備えてくださるなら、私たちが載せられるものが何であれ、文句を言う理由はない。ダビデは、悩みの日に「神がそのたましいに力をもって私を強くしてくださった」ことが祈りに対する十分な「答え」であることを認め、ダビデの子も同様である(詩篇 138:3)。(3) 御使いたちは主イエスの苦しみの中で仕えた。キリストは彼らの軍団を呼んで救い出すことができた。いや、この一人の御使いだけで、キリストを捕らえに来た兵士の一隊を追い払い、打ち破ることができた。しかしキリストはその奉仕をただご自身を「力づける」ためだけに用いられた。そしてこの御使いが、敵は起きていて友は眠っていたこの悲しみの中で、今キリストを訪れたことは、神の恵みの時宜を得たしるしであり、キリストにとって非常に大きな力づけとなったであろう。しかし、これだけではなかった。おそらく御使いはキリストを力づけるために「何かを語った」であろう。キリストの苦しみは御父の栄光、ご自身の栄光、そしてご自分に与えられた者たちの救いのためであることを思い出させ、キリストの前に置かれた喜び、キリストが見るべき子孫を描き出した。このような励ましをもって、キリストに喜んで前進するよう励ました。そして慰めとなるものは力づけとなる。おそらく御使いはキリストを力づけるために「何かをした」であろう。キリストの汗と涙を拭い、試みの後になされたように強心剤をささげたかもしれず、あるいは地面から立ち上がらせるためにキリストの腕を取り、キリストが気絶しそうになったとき支えたかもしれない。そしてこれらの御使いの奉仕において、聖霊は enischyon auton——「彼に力を注ぎ込んで」いた。というのも、言葉はそのように意味するからである。「主は彼を打ち砕かれた」のは事実である。しかし「ご自身の大いなる力で彼に抗議された」であろうか。いや、「彼に力を注がれた」(ヨブ記 23:6)。これは約束のとおりであった(詩篇 89:21、イザヤ書 49:8、50:7)。
キリストは「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた」(ルカ 22:44)。悲しみと苦悩が増すにつれて、キリストは祈りにおいてさらに執拗になられた。それ以前に祈りに冷たさや無関心があったからではない。今やそこに一層の激しさがあり、それはキリストの声と身振りに表れていた。祈りは決して時節はずれではないが、私たちが苦悶の中にあるときは特別に時宜にかなっているということに注意せよ。そして苦悶が強ければ強いほど、私たちの祈りはますます活気に富み、頻繁であるべきである。今こそキリストは「激しい叫びと涙とをもって祈りと願いをささげ」、その「恐れ」の中で聞き入れられた(ヘブル人への手紙 5:7)。そしてその恐れの中でヤコブが御使いと格闘したように「格闘された」。
この苦悶の中で、「キリストの汗は血のしずくのように地面に落ちていた」。汗は罪と共に入り込み、のろいの一枝であった(創世記 3:19)。だから、キリストが私たちのために罪と呪いとされたとき、キリストはひどい汗を忍ばれた。それは私たちが「顔の汗によって」パンを食べることができるためであり、キリストが私たちのすべての試練を聖別し、甘いものとしてくださるためであった。この「汗」が単に汗のしずくに「比べられた」のか(体の毛穴が並外れて開き、通常の汗のしずくよりもはるかに「濃く」なったのか)、それとも毛細血管からの「本物の」血が混ざり、色が血のように見え、真に「血の汗」と呼ばれうるものだったのかについて、批評家たちの間にはいくらかの論争がある。問題は大きくない。ある人々はこれを、キリストが私たちのために血を流された時の一つと数える。「血の注ぎがないでは罪の赦しはない」からである。すべての毛穴はまるで血を流す傷のようであり、キリストの血はキリストの衣をすべて染めた。これはキリストの「たましいの産みの苦しみ」を示していた。キリストは今や夜遅く、冷たい地面の上、涼しい季節に屋外におられた。それは汗を引っ込ませるのに十分であったはずである。それでもキリストは今や汗を噴き出し、それはキリストが陥っていた苦悶の極限を物語っている。
⁴⁷ イエスがまだそう話しておられると、群衆がやって来た。その群衆の先頭に立っていたのは、十二弟子のひとりでユダと呼ばれる者であった。このユダがイエスに近づいて、接吻しようとした。 ⁴⁸ しかしイエスは彼に言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。 ⁴⁹ イエスのそばにいた者たちは、事のなりゆきを見て言った、「主よ、つるぎで切りつけましょうか」。 ⁵⁰ そしてそのひとりが、大祭司の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。 ⁵¹ するとイエスはこれに対して言われた、「事はここまでにしておきなさい」。そしてその人の耳にさわって、おいやしになった。 ⁵² それからイエスは自分にむかって来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた、「あなた方は、盗人にでも向かうように、剣や棍棒を持って出て来たのか。 ⁵³ わたしが日々あなた方と一緒に宮にいた時には、私に手を伸ばす者はなかった。しかし今はあなた方の時であり、やみの権力である」。
サタンは、われらの主イエスを恐怖させ、それによってご自身のたましいの所有から追い出す企てにおいて挫折したのを悟ると、(そのいつもの方法に従って)武力と武器に訴え、キリストを捕縛するために一隊を戦場に連れて来た。そしてサタンは「彼らのうちに」いた。ここに次のことがある。
一.ユダによるキリストの目印。ここに多数の隊が現れ、ユダがその先頭にいた。彼は「イエスを捕らえた者たちの先導者」であったから。彼らはキリストをどこに「見出す」かを知らなかったが、ユダが彼らをその場所に連れて来た。彼らがそこにいても、だれがキリストであるかを知らなかった。しかしユダは彼らに告げた。「わたしが接吻する者がその人である。」それで彼は「接吻しようとして近づいた」。われらの主イエスが弟子たちに許しておられたいつもの自由と親しみにしたがって。ルカはキリストが彼に問うた質問に注意を払う。これはほかの福音書員にはない。「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」(ルカ 22:48)。何と。これが合図なのか。人の子が「裏切られ」なければならないのか。まるで何かがキリストから隠され得、知られずにキリストに対する陰謀が進められ得るかのように。キリストご自身の弟子の一人がキリストを裏切らなければならないのか。まるでキリストが彼らにとって厳しい主人であったか、あるいは彼らの手から悪を受けるに値したかのように。接吻によって裏切られなければならないのか。友情の記章が裏切りの道具とならなければならないのか。これまで愛のしるしがこのように冒涜され、乱用されたことがかつてあっただろうか。注意せよ。主イエスに対して、キリストと関係を告白し、キリストへの愛着を表白する者たちによって、接吻をもって裏切られること以上に大きな侮辱や悲しみとなるものはない。そのようなことをする者たちがいる。すなわち、キリストの誉れに対する熱心を装ってキリストのしもべたちを迫害する者たち。自由な恵みの誉れに対する愛着の外見のもとに、聖さと生活の厳格さの根に打撃を加える者たち。キリストが接吻によって裏切られる事例は多くある。「敬虔の形」の下に、その「力」に戦いをかける者たちによって。願わくは彼ら自身の良心が彼らにこの質問をなさんことを。キリストがここでユダになしたように。「あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか。」そしてキリストはこれに憤らないであろうか。これに復讐されないであろうか。
二.弟子たちがキリストの保護のためにした努力(ルカ 22:49)。「事のなりゆきを見た。」すなわち、武装した者たちがキリストを捕らえるために来たのを見た。彼らは言った。「「主よ、つるぎで切りつけましょうか」。あなたは二本の剣を持つことをお許しになりました。今これを用いましょうか。これほどの機会はかつてなかった。もし用いないなら、何のために持つのか。」彼らは主人からの命令なしには剣を抜かないかのように質問した。しかし彼らは答えを待つにはあまりにも「急ぎ」、あまりにも「熱していた」。しかしペテロは、「大祭司の僕」の頭を狙ったが、打ち損じ、その右の耳を切り落とした。キリストがキリストを捕らえに来た者たちを地に倒すことによって、キリストになし得たことを示されたように、ペテロはこの武功によって、もし許しがあったなら、これほど良き大義において自分もなし得たことを示した。ほかの福音書員は、キリストがペテロに与えた戒めを告げる。ルカはここで次のことを告げる。1. キリストがいかにしてその打撃を言い訳したか。「事はここまでにしておきなさい」(ルカ 22:51)。ホィットビー博士は、キリストがこれをキリストを捕らえに来た敵たちに語ったと考える。彼らをなだめるため。弟子たちに対する憤りを引き起こさないように。弟子たちはキリストが保存を引き受けた者たちであったから。「この傷害と侮辱を見逃してくれ。それはわたしの許可のないことであり、もう一撃も打たれないであろう。」キリストには彼らを打ち倒し、死に至らしめる力があったのに、キリストは彼らに「良いことば」で語りかけ、弟子の一人によってなされた襲撃について「許しを請う」かのように振る舞われた。われわしが敵にさえ良いことばを与えるよう教えるために。2. キリストがいかにして傷をいやされたか。これは傷害に対して十分以上の埋め合わせであった。「その人の耳にさわって、おいやしになった。」その耳を再びつけた。彼が「焼印を押された」まま去らないように。たとい彼がそれに値したとしても。キリストはこれによって彼らに証拠を与えた。(1) キリストの力について。「いやす」ことができる方は、望まれるなら「滅ぼす」こともできた。これは彼らを利益においてキリストに服させるべきであった。もし彼らがペテロに打ち返したなら、キリストはすぐに彼をいやしたであろう。そして、ただちに「病める者」と「傷ついた者」を助けることのできるそのような外科医を持つ小さな連隊ができなかったか。(2) キリストの慈悲と善良さについて。キリストはここで、ご自身の規則である「憎む者に善を行え」の輝かしい模範を与えられた。後に「侮辱する者のために祈れ」の模範を与えられたように。悪に善を返す者はキリストがなしたようにする。この気前の良い親切は彼らに勝ったであろうと、彼らの頭の上に積み上げられたこのような炭火は彼らを「溶かした」であろうと、恩人として自分自身を証明した者を犯罪者として縛ることはできなかったであろうと思う。しかし彼らの心はかたくなであった。
三.キリストを捕縛に来た分遣隊の将校たちに対するキリストの抗議。彼らがこのような騒ぎと喧噪を立てることの不条理を示すため(ルカ 22:52-53)。マタイはこれが「群衆」に語られたと記す。ルカはこれが「祭司長たち、宮の守衛長たち」に語られたと告げる。後者は祭司たちのさまざまな階級を指揮し、それゆえここで「祭司長たち」と「長老たち」の間に置かれる。それで彼らはすべて聖職者であり、宮の奉仕者であり、この忌まわしい奉仕に雇われた。そして高位の者の一部もこれに見えるほどまでに自分を貶めた。さてここで次を見よ。
1.キリストが彼らの手続きについて彼らと「論じられる」。真夜中に、「剣や棍棒」を持って出て来る必要がどこにあったのか。(1) 彼らはキリストが「抵抗」せず、彼らに対して暴徒を扇動しない者であることを知っていた。キリストはこのようなことを一度もしたことがなかった。それなら「なぜ盗人に向かうように出て来たのか」。(2) 彼らはキリストが「隠遁」しない者であることを知っていた。というのは、キリストは日々彼らと共に宮にいたから。彼らのただ中に。そして隠れようとしたことはなかった。彼らもキリストに手を伸ばそうとはしなかった。キリストの時が来る前には、彼らがキリストを捕らえようと思うことは愚かであった。そしてキリストの時が来た今、このような騒ぎをしてキリストを捕らえることは愚かであった。
2.キリストがいかにして彼らの手続きにご自身を調和させるか。これはわれわしが以前には持たなかったものである。「しかし今はあなた方の時であり、やみの権力である。」わたしがこのようにさらされることがいかに厳しく見えようとも、わたしは服従する。というのは、そのように定められているから。これはわたしに対してあなた方の意志を行うために「あなた方に許された」時である。わたしはそのために報復するために「わたしに指定された」時を持つ。今は「やみの権力」、すなわちサタン、「この世のやみの支配者」が、女の種のかかとを砕くためにその最悪をなすことが許されている。そしてわたしは甘んじることを決意する。彼にその最悪をさせよ。「主は彼を笑うであろう。彼の日が、彼の時が来ようとしているのを見るからである」(詩篇 37:13)。これを教会の敵の優勢の下でわれわしを静めよう。死にゆく時にわれわしを静めよう。(1) 反対者の凱旋のために許されたのは「時」、短い時間、限定された時間にすぎない。(2) それは「彼らの時」、彼らに指定され、彼らが力を試すことを許されている時である。それは彼らの転倒において全能がいっそう栄光を受けるためである。(3) それは「支配する」のは「やみの権力」である。そしてやみは光に道を譲らなければならず、やみの権力は光の君に服させられる。キリストはご自身の戦いが終わるまでご自身の凱旋を待つことを望まれた。われわしもそうでなければならない。
⁵⁴ それから人々はイエスを捕え、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れて従っていた。 ⁵⁵ 人々が中庭の真ん中に火を起こして、一緒に座ったとき、ペテロもその中に座った。 ⁵⁶ すると、ある女中が、彼が火のそばに座っているのを見つめ、こう言った。「この人もあの方と一緒にいました。」 ⁵⁷ しかしペテロはそれを打ち消して言った。「おんなよ、私はあの人を知らない。」 ⁵⁸ 少ししてから、ほかの者が彼を見て言った。「あなたもあの仲間の一人だ。」するとペテロは言った。「あなたたちは人間ではない。」ペテロは言った。「人の子よ、私はそうではない。」 ⁵⁹ さらに約一時間たってから、ほかの者が断言して言った。「確かにこの男もあの方と一緒にいたのだ。彼はガリラヤ人だから。」 ⁶⁰ するとペテロは言った。「人よ、あなたの言うことは私にはわからない。」まだこう言っているうちに、すぐに鶏が鳴いた。 ⁶¹ そして主は振り向いて、ペテロを見つめられた。ペテロは主が「鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 ⁶² そしてペテロは外に出て、激しく泣いた。
ここには、キリストが大祭司の前で取り調べを受けていたとき、また日が昇り次第、最高議会(ルカ 22:66)の前での公判に備えて、獲物を待ち受け、証拠を整える用意ができていた一団——密議の一団——の前で取り調べられていたときに、ペテロが自分の主を否認したという悲痛な物語が記されている。ただし、他の福音書記者と違って、ここではキリストが大祭司の前にて尋問を受けていることそのものには触れず、ただ「大祭司の家に連れて行かれた」(ルカ 22:54)ことだけが記されている。しかし表現の仕方が注目に値する。「彼を捕え、引いて行き、連れて入れた」とあるが、これはサウルについて述べた言葉(サムエル記第一 15:12)、「彼は回って、進み、下って行った」と似ており、獲物を捕らえた後でさえ彼らは混乱しており、群衆を恐れたか、あるいはむしろ見聞きしたことによって内面の恐怖に打たれ、遠回りに連れて行った、というよりは自分たちがどちらへ彼を急いでいるのか分からなかった、自らの胸の内がそれほどの慌てようであったことを示している。それでは次のことを見よう。
一、ペテロの転倒。1. それは「こそこそと近づく」ことに始まった。彼はキリストが捕らわれて連れて行かれるとき「従って」行った。これは善いことであり、主への関心を示していた。しかし彼は「遠く離れて」従った。危険の及ばないところにいようとしたのである。彼はうまく折り合いをつけようと考えた。すなわち「キリストに従う」ことで良心を満足させつつ、「遠く離れて」従うことで世間体を保ち、無傷で済もうとした。2. それは依然として距離を保ち続け、主のすぐそばにいるべき時に大祭司のしもべたちと交わることへと進んだ。「しもべたちは中庭の真ん中に火を起こして」「一緒に座り」、夜の遠征の手柄話をしていた。おそらくマルコもその中にいただろう。「ペテロは彼らの中に座った」、まるで自分も彼らの一人であるかのように、少なくともそう見られたいかのように。彼の転倒そのものは、キリストとのいっさいの交わりと関係を否定し、キリストが今や苦難と危険の中にあるという理由で主を知らないとすることであった。彼は、家に仕える取るに足らない一人の女中から、今これほど騒がれている「イエス」の取り巻きであるという非難を受けた。彼女は、彼が「火のそばに座って」いるのを、彼がよそ者でありこれまで見たことのない者だったというだけで注意深く見つめた。そして夜のこんな時刻にそこには中立の者はいないと判断し、彼を大祭司の一行の者とは知らないことから、このイエスの一行の者にちがいないと結論した。あるいは彼女が以前、宮で見回しているときに、イエスがそこにおり、ペテロがその周囲で熱心に仕えているのを見て記憶していたのかもしれない。そして「この人もあの方と一緒にいました」と言った。ペテロは、非難を「認める」勇気を持たなかったのと同様に、多様な方法でそれをかわす機知と冷静さも持ち合わせていなかった。そこでまっすぐに、あからさまにそれを否定した。「おんなよ、私はあの人を知らない。」4. 彼の転倒は二度目に繰り返された(ルカ 22:58)。「少ししてから」、彼が思い直す暇もないうちに、「ほかの者が彼を見て言った。『お前もあの仲間の一人だ。大祭司のしもべたちの中にこうして狡猾に座っているが。』」ペテロは「いや違う」「人よ、私はそうではない」と言った。そして「三度目」、約一時間後(「やつが倒れたなら、さらに倒せ。回復不可能になるまで打撃を追い続けよう」と誘惑者は言うように)、「ほかの者が確信をもって」力強く主張した。「確かにこの男もあの方と一緒にいた。彼がガリラヤ人であることはあなたがたも皆分かるだろうから、否定してみるがいい。」しかし一度嘘をついた者は、それに固執する強い誘惑に駆られる。「その罪のはじめは、水が漏れ出るようだ」。ペテロは今や、自分がキリストの弟子であることを否定しただけでなく、キリストについて何も知らないとさえ言った(ルカ 22:60)。「人よ、あなたの言うことは私にはわからない。私はこんなイエスという者のことは聞いたこともない。」
二、ペテロの再び立ち上がること。彼がいかに幸いにも立ち直ったか、というより、神の恵みが彼を回復させたかを見よ。それがどのようにしてもたらされたかを見よ。
彼が三度目にキリストを知らないと言ったちょうどその時に「鶏が鳴き」、これが彼を驚かせ、考え込むきっかけとなった。小さな偶然が大きな結果を伴うことがあるということに注意せよ。
「主は振り向いて、彼を見つめられた」。この事情は他の福音書記者には記されていなかったが、非常に注目すべき一つである。ここでキリストは「主」と呼ばれている。なぜなら、この出来事には神の知識、力、恵みが豊かに現れていたからである。見よ、キリストは今やペテロに背を向け、ご自身の裁判の最中にあった(その時、ほかにも気にかけるべきことがあるかのように思われるのに)、それでもペテロの語ったことすべてを知っておられた。キリストは、私たちが考える以上に、私たちの語ることや行うことに注意を払っておられるということに注意せよ。ペテロがキリストを知らないと言ったとき、キリストは彼を知らないとは言われなかった。もっともなこととして彼を突き放し、二度と彼を見ず、御父の前で彼を否認することもおできになったであろうに。キリストが私たちを私たちがキリストに対するように扱われないことは、私たちにとって幸いなことである。キリストは「ペテロを見つめられた」。それはペテロがやがてそれに気づくであろうことを疑われたからであった。なぜなら、彼は唇ではキリストを否認したものの、その目はなお主に向けられていることをご存知だったからである。見よ、ペテロは今や非常に大きな、また非常に 人を憤らせるような罪を犯していたのに、キリストは彼を「呼び」はしなかった。彼を「恥」に入れたり「晒」したりしないためであった。ペテロだけがその意味を理解できるような「ひとつのまなざし」を与えただけで、そこには多くのものが込められていた。(1) それは「説得する」まなざしであった。ペテロはキリストを「知らない」と言った。キリストは「振り向いて、彼を見つめられた」。あたかも「ペテロよ、あなたは私を知らないと言うのか。私の顔を見て、そう言ってみよ」と言うかのようであった。(2) それは「叱責する」まなざしであった。私たちは推測するに、彼を見つめて「眉をひそめ」、あるいは何らかの形でご自身の不快感を示された。私たちが罪を犯したとき、キリストがどれほど怒った顔で当然にも私たちを見つめられるかを思いみるがよい。(3) それは「論難し、責める」まなざしであった。「何と、ペテロ、あなたが今、私のためにあかしに来るべき時に、私を否認する者なのか。あなたが弟子なのか。神の子であることを最も進んで告白し、決して私を否認しないと荘厳に約束したのは、あなたではなかったか。」(4) それは「あわれみに満ちた」まなざしであった。彼を思いやりをもって見つめられた。「かわいそうなペテロよ、あなたの心はなんと弱いことか。私が助けなければ、あなたはなんと陥り、滅びてしまうことか。」(5) それは「方向を示す」まなざしであった。キリストは「その目で彼を導き」、あの取るに足らない仲間たちから出て「身を退け」、少し反省するように合図された。そうすれば自分がなすべきことをすぐに知るであろう。(6) それは「意味深な」まなざしであった。それはペテロの心に恵みを伝達し、彼が悔い改めることができるようにするという意味であった。鶏の鳴き声だけでは、このまなざしなしには彼を悔い改めに導くことはできなかったし、外的な手段だけでも特別な有効な恵みがなければ同じである。このまなざしには、ペテロの心を変え、彼を正気に、「正しい心」に立ち返らせる力が伴っていた。
「ペテロは主の言葉を思い出した」。神の恵みは「神の言葉」のうちに、またそれを通して働き、それを思い起こさせ、良心に深く刻み込み、こうして魂に幸いな転換を与えるということに注意せよ。Tolle et lege——「取り上げて、読め」。
そのとき「ペテロは外に出て、激しく泣いた」。キリストからのひとつのまなざしは、彼を罪に対する敬虔な悲しみの涙へと溶かした。ろうそくは消えたばかりで、その時ちょっとしたことで再び火が灯った。キリストは祭司長たちを見つめられたが、彼らにはペテロにしたような印象は与えなかった。ペテロには、働きかけるべき神の種が残っていたからである。ペテロを回復させ、彼を正しい状態に立ち返らせたのは、キリストからのまなざしそのものではなく、それに伴う神の恵みであった。
⁶³ イエスを捕らえていた人たちは、イエスを嘲り、打ちたたいた。 ⁶⁴ そして目隠しをして、「預言しなさい。打ったのは誰か」と言って、イエスの顔を打った。 ⁶⁵ このほかにも、イエスに対して冒涜的なことを、多く語った。 ⁶⁶ 夜が明けると、民の長老たち、祭司長たち、律法学者たちが集まって来て、イエスを議会に引いて行き、 ⁶⁷ 「あなたがキリストかどうか、私たちに言え」と言った。イエスは彼らに言われた。「私が言っても、あなたがたは信じないだろう。 ⁶⁸ そして、私が尋ねても、あなたがたは答えず、私を放っておかないだろう。」 ⁶⁹ しかし、人の子は今から後、全能の神の右の座に着くことになる。」 ⁷⁰ 彼らはみな言った。「それでは、あなたは神の子か。」イエスは言われた。「あなたがたが、私そうだと言っているのです。」 ⁷¹ 彼らは言った。「これ以上何の証人が必要でしょうか。私たち自身が、彼の口から直接聞いたのだから。」
ここで、他の福音書と同様に、次のことが告げられている。
一、私たちの主イエスが大祭司のしもべたちによってどのように 虐待された か。 卑劣な者たち 、荒々しく野蛮なしもべたちが、 キリストに向かって集まった 。 イエスを捕らえていた 者—法廷が開かれるまでキリストを拘置していた者—は、 イエスを嘲り 、 打った (ルカ 22:63)。彼らはキリストに一分の 休息 も許さず、夜通し眠らせなかった。 心を鎮める ことも許さず、裁判に急ぎ、その準備の時間を与えなかった。彼らはキリストをもてあそんだ。この悲しみの夜は彼らにとって楽しい夜となる。そして祝福されたイエスは、サムソンのように、劇の中の愚か者とされた。彼らはキリストに 目隠し をし、そして若者たちの間の普通の遊びにしたがって、 顔を打ち 、キリストが打った者を言い当てるまで続けた(ルカ 22:64)。これはキリストの預言者の職と、キリストが持つとされた隠された事の知識への侮辱を意図した。キリストが 何かを 言ったとは告げられていない。 すべてを耐え忍ばれた 。地獄が解き放たれ、キリストはそれが最悪をなすに任せた。祝福されたイエスにこれ以上の侮辱はできなかった。しかしこれは多くのうちの一つの例にすぎなかった。というのも、 このほかにも、冒涜的なことを多く語った から(ルカ 22:65)。キリストを冒涜者として罪に定めた彼ら自身が、かつてない最も卑劣な冒涜者であった。
二、キリストが大サンヘドリン— 民の長老たち、祭司長たち、律法学者たち —によってどのように訴えられ、罪に定められたか。彼らは皆、早起きし、この事を追及するために、 夜が明けるとすぐに 、朝五時頃に集まった。彼らは 自分たちの寝床でこの悪を行い 、 朝が 明るくなるとすぐに それを実行した(ミカ 2:1)。彼らはどんな善いわざのためにこれほど早起きしたことはなかっただろう。ここにあるのは、宗教法廷でのキリストの裁判の短い記録のみである。
彼らは尋ねた。 「あなたがキリストか」 。キリストは一般に弟子たちによってキリストであると信じられていた。しかし彼らは、キリストが これこれの言葉で かつてそう言ったことを証明できず、それゆえキリストにそれを認めさせようと迫った(ルカ 22:67)。もしこの質問を、キリストがキリストであることを認めようと、そうであればそれに応じて受け入れようとする意志をもって尋ねたなら、それは 良かった 。彼らにとって永遠に 良かった であろうに。しかし彼らは信じない決意で、キリストを陥れる意図で尋ねた。
キリストは彼らの不公平で不正な取り扱いについて正当に訴えた(ルカ 22:67-68)。彼らは皆、ユダヤ人としてメシヤを待望し、 この時 に待望していた。メシヤであると主張する他の者は現れず、また現れたこともなかった。キリストには競争者がなく、また持つ見込みもなかった。キリストには神的な力が伴う驚くべき証明が与えられており、それは自由で公平な調査に値するものとした。民の指導者たちがキリストを自分たちの議会に入れ、 犯罪者 としてではなく、メシヤ職の 候補者 として尋問するのが正義であった。 「しかし」 とキリストは言われる。(1) 「私がキリストであると告げても、どんなに説得力のある証拠を与えても、あなたがたは信じないと決めている。なぜ、すでに予審し、正しくても間違っていても、それを押し潰し、罪に定めると決めたあなたがたの前に、その訴えを持ってくるのか」 。(2) *「私が 私が提示する証拠に対して何の反論があるか と 尋ねても、あなたがたは答えない」 。ここでキリストは、キリストが彼らに尋ねた質問—彼らをキリストの権威を認めるように導いたであろう質問—に対する彼らの沈黙を指す(ルカ 20:5-7)。彼らは公平な裁判官でも、公平な論争者でもなかった。議論に詰まったときは、確信を認めるよりはむしろ沈黙することを選んだ。 「あなたがたは私に答えもせず、私を放してもくれない。私がキリストで ない なら、私がキリストであることを証明する議論に 答える べき。私がキリストであるなら、私を 放す べき。しかし、あなたがたはどちらもしない」 。
キリストは彼らを第二の再臨にゆだねた。彼らが今その証拠を認めないので、彼らの確信のために、キリストがキリストであることの完全な証明のために(ルカ 22:69)。 「人の子は今から後、全能の神の右の座に着き、着いておられるのを見られる。そのとき、彼がキリストであるかどうかを尋ねる必要はなくなる」 。
ここから彼らは、キリストがご自身を神の子として立てたと推測し、 そうであるか どうかを尋ねた(ルカ 22:70)。 「それでは、あなたは神の子か」 。キリストは 人の子 と呼んで、ダニエルの 人の子 の幻— 日の老いた者に近づいた者の (ダニエル 7:13-14)—を指した。しかし彼らは、もしキリストが その人の子 であるなら、 神の子 でもあると理解するほど十分に分かった。 あなたはそうなのか 。これによって、メシヤが 人の子 でも 神の子 でもあるべきことが、ユダヤ人の教会の信仰であったことが現れる。
キリストはご自身が神の子であることを認められた。 「あなたがたが、私そうだと言っているのです」 。すなわち、「あなたがたの言うとおり、私はそうである」。マタイ 14:62と比較せよ。 「イエスは言われた。『私はある』」 。これは、キリストが神の子であったというご自身に関するキリストのあかしを確認する。キリストがそれのために苦しむことを知りながら、それに固く立った。
これに基づいて彼らはキリストを罪に定めた(ルカ 22:71)。 「これ以上何の証人が必要でしょうか」 。それは真実であった。キリストが 神の子 であると言ったことを証明するために、これ以上の証人は必要なかった。彼らはそれを キリストの口から 直接聞いた。しかし、キリストがそうでないことを証明する必要はなかったのか。そうであると言ったために冒涜者として罪に定める前に。キリストがそうであるかもしれないという思いはなかったのか。もしそうなら、キリストを死刑にすることで自分たちがどんな恐るしい罪を負うか。いや、 彼らは知らず、理解しようともしない 。キリストが、彼らが期待するような世的な壮麗と豪華さに現れない限り、どんなに明らかに神の力と恵みを着せられていても、キリストがメシヤであるとは考えられない。その世の輝きへの憧れで目が盲目にされた彼らは、戦場への馬のように、この危険な訴追に突き進む。
四人の福音書記者は、それぞれ省略する箇所はあっても、キリストの死と復活について詳しい記述を残している。それは、キリストがわたしたちの罪のために死に、義認のために復活されたからである。本書の記者も他の誰と同じほど詳しく、これまで知られていなかった多くの事情や挿話を付け加えている。本章には次の事柄が記されている。一、イエスを捕らえる陰謀、およびユダがそれに加担したこと(ルカ 22:1-6)。二、キリストが弟子たちと共に過越の食事をされたこと(ルカ 22:7-18)。三、主の晩餐が制定されたこと(ルカ 22:19,20)。四、食後、いくつかの主題についてのキリストと弟子たちの対話(ルカ 22:21-38)。五、園での苦しみ(ルカ 22:39-46)。六、ユダの助力によるイエスの捕縛(ルカ 22:47-53)。七、ペテロの否認(ルカ 22:54-62)。八、イエスを拘束した者たちがキリストに加えた辱しめ、ならびに宗教法廷における裁判と判決(ルカ 22:63-71)。