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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Luke 8章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

無題

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本章の大部分は、マタイとマルコにすでに記されたキリストの宣教と奇跡の幾つかの挿話の繰り返しである。それらはすべて繰り返すに値する重みをもつため繰り返されているのであり、それによって二人だけでなく三人の証人の口によってすべてのことばが確立される。本章には次の事柄が記されている。一、キリストの宣教についての一般的な記述、ならびに敬虔な人々の慈善的な献げ物によってキリストご自身と大勢の身内が支えられていたこと(ルカ 8:1-3)。二、まく人と四種類の土のたとえ、その解き明かし、ならびにそこから導かれる幾つかの推論(ルカ 8:4-18)。三、従順な弟子たちに対して、肉による近親者よりもまさってキリストが与えられた優遇(ルカ 8:19-21)。四、ひとことばによって嵐を静められたこと(ルカ 8:22-25)。五、悪霊に取りつかれていた男から、悪霊の群れを追い出されたこと(ルカ 8:26-40)。六、長血をわずらう女を癒されたこと、およびヤイロの娘を生き返らせられたこと(ルカ 8:41-56)。

Luke 8章 1-3 Matthew Henry's Complete Commentary

The Ministry of Christ

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キリストの奉仕

¹ その後、イエスは神の国の福音を宣べ伝え、その知らせを述べ伝えるために、町々や村々を巡り歩かれた。十二人もイエスと共にいた。 ² また、悪霊や病気からいやされた数人の女たち—すなわち七つの悪霊を追い出されたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、 ³ ヘロデの家宰クザの妻ヨハンナ、スザンナ、その他多くの女たち—も、自分たちの持ち物をもってイエスに仕えていた。

ここで次のことが記されている。

一、キリストが 生涯の絶えずの務め として なされたこと —それは 説教 であった。このわざにおいてイエスはたゆまなかった。そして善を行いながら歩き回られた(ルカ 8:1)。 その後 — エン・トー・カテクセス — オルディネ 、適切な 時 あるいは 方法 において。キリストはわざを前に置き、規則正しく取り組まれた。イエスはわざの 系列 あるいは順序を守られた。ある善いわざの終わりは次の始まりであった。ここで次のことを観察せよ。1. どこで 説教されたか。 イエスは巡り歩かれた — ディオデウエ — ペラグラバト 。イエスは 巡回 説教者であり、一つの場所に局限せず、光の輝きを広げられた。 キルクミバト — 巡回された 。裁判官のように、おそらく新しいところで最も 受け入れられる 説教を見いだして。イエスは すべての町を巡り 、無知を言い訳にする者がいないようにされた。これによって弟子たちに模範を示された。弟子たちは地の諸国民を横断しなければならない。イエスがイスラエルの町々をしたように。また 町々 に局限せず、 村々 にも入られた。 村の住人に説くために 、平易な田舎の人々の間にも(士師 5:11)。2. 何を説教されたか。 神の国の福音を述べ伝えられた 。それが今や彼らの中に立てられることを。 神の国 の知らせは 喜ばしい知らせ であり、イエス・キリストが来てもたらしたものである。 忠誠を返す ことを願うすべての者を神が 守られる ことを、人の子たちに告げるため。世界が 改革され 、 和解する 希望があることは、世界にとって 喜ばしい知らせ であった。3. 従者は誰であったか。 十二人がイエスと共にいた 。イエスの面前で説教するためではなく、後に何を、どのように説教すべきかを学ぶためであった。また機会があれば、イエスの行けない場所に遣わされるためであった。これらのしもべたちは、イエスの知恵を聞いて幸いであった。

二、 どこから 生涯の 必要な支え を 得た か。キリストは友人たちの親切によって生きられた。 数人の女たち がおり、しばしばキリストの奉仕に出席し、 自分たちの持ち物をもってイエスに仕えた (ルカ 8:2-3)。そのうち数人が名ざしにされている。しかし その他多くの者たち もいた。彼女たちはキリストの教えに熱心に心を寄せ、自ら益を受けたので 正義 においてそれを 励ます ことを義務と考え、 慈愛 においても他の多くの者たちもまたそれによって益を得るかもしれないと望んだ。

  1. 彼女たちの大部分は キリストの患者 であった者たちであり、キリストの力とあわれみの記念碑であった。彼女たちは 悪霊や病気からいやされた 。そのうちの何人かは心を悩まされ、憂鬱であり、他の者たちは体を悩まされていた。そしてキリストは彼女たちにとって力あるいやし手であった。キリストは体と魂の医者である。そして キリストによっていやされた 者は、 キリストに何を返すべきか を研究すべきである。私たちは 利益 においてキリストに仕える義務がある。再発の場合に助けを求めるための準備ができるように。また 感謝 においても、私たちを 救い 、 それによって 救ってくださったキリストとキリストの福音に仕える義務がある。

  2. そのうちの一人はマグダラのマリヤであった。 七つの悪霊が追い出された 。不確かな数の確かな数。彼女は 非常に悪かった のだと考える者もいる。それならば彼女は、すぐ前に言及された 罪人であった女 であったと考えられる(ルカ 7:37)。ライトフット博士は、タルムードの著述家たちの書物の中に、マグダラのマリヤが 髪を編むマリヤ を意味することを見いだし、これが彼女に当てはまると考える。彼女は不義と不名誉の日に、 へりくだった服装 に反する 髪を編むこと で知られていたから(テモテ第一 2:9)。しかし、たとえ彼女が不節度な女であったとしても、悔い改めと改心の上にあわれみを見いだし、キリストの熱心な弟子となった。注意すべきは、最も大いなる罪人も赦しを絶望してはならず、回心前にいっそう悪かった者ほど、回心後にいっそうキリストのために働くよう努めるべきであるということである。あるいはむしろ、彼女は 非常に憂鬱であった 者であり、それならばおそらく、ベタニアのラザロの姉妹マリヤであった。 悲しみの霊 の女であり、もともとはマグダラの出身であったが、ベタニヤに移った。このマグダラのマリヤはキリストの十字架と墓に出席した。もし彼女がラザロの姉妹マリヤでなかったなら、キリストのあの特別な友人でありお気に入りであった者がそのとき出席しなかったか、あるいは福音書著者が彼女に言及しなかったかのいずれかとなろう。いずれも私たちは想定できない。こうしてライトフット博士は論じる。しかし、マグダラのマリヤは ガリラヤからイエスに従った女たちの中 に数えられている(マタイ 27:55-56)。一方、ラザロの姉妹マリヤはベタニヤに居住していたという反論がある。

  3. そのうちのまた別の一人は ヘロデの家宰クザの妻ヨハンナ であった。彼女はクザの妻であった(とある者は言う)。しかし今はやもめであり、良い状況に残された。もしこのとき彼女がクザの妻であったなら、夫がヘロデの宮廷で取り立てられていたにもかかわらず、福音を受け入れ、妻がキリストの聞き手であり、キリストへの寄与者であることを非常に喜んでいたと考えるべき理由がある。

  4. 彼女たちの中には 自分たちの持ち物をもってキリストに仕えた 者が多かった。それは、私たちの救い主がへりくだられた状態の卑しさ—キリストがそれを必要としたこと—の例であり、またキリストの大いなる謙遜と謙譲—キリストがそれを受け入れられたこと—の例であった。豊かであったにもかかわらず、私たちのために 貧しくなられ 、施しによって生きられた。摂理が困窮に陥れたとき、隣人の慈善に頼ることを軽蔑すると言う者がいてはならない。むしろ頼み、恵みとして感謝して受け取るべきである。キリストは、説教するために来た町や村で見知らぬ人々の負担になるよりも、知られた友人の世話になって、自分と弟子たちの養いを賄うことを選ばれた。注意すべきは、ことばにおいて教えられる者が、 すべての善いものにおいて教える者たちに分かち与える ことは、教えられる者の義務である。そしてこの点で寛大で喜んで与える者は、自分の持ち物をもって主を尊び、それに祝福をもたらすのである。

Luke 8章 4-21 Matthew Henry's Complete Commentary

The Parable of the Sower

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種まく人のたとえ

⁴ さて大ぜいの群衆が集まり、またいろいろな町からみんなのところにやって来たので、イエスはたとえで語られた。 ⁵ 「ある種まく人が種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。 ⁶ またほかの種は岩の上に落ち、生え出たが、湿気がなかったので枯れてしまった。 ⁷ またほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが一緒に生え出て、それをふさいでしまった。 ⁸ ところが、ほかの種は良い地に落ち、生え出て、百倍もの実を結んだ。」イエスはこれらの事を語ってから、叫んで言われた。「聞く耳のある者は聞くがよい。」 ⁹ すると弟子たちは、このたとえはどういう意味ですか、とイエスに尋ねた。 ¹⁰ そこで言われた。「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、たとえで語る。これは、『彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないため』である。 ¹¹ そこで、このたとえの意味はこうである。種は神の言である。 ¹² 道ばたにあるのは、聞く者たちである。そののち、悪魔が来て、彼らが信じて救われるために、その心からみことばを取り去る。 ¹³ 岩の上にあるのは、聞いたとき、喜んでみことばを受ける者たちである。しかし根がないので、しばらくは信じていても、試錬の時にはつまずいてしまう。 ¹⁴ いばらの中に落ちたのは、聞いてはいたが、思い煩いと富と生活の楽しみのためにふさがれて、実を熟させない人たちである。 ¹⁵ しかし良い地にあるのは、正しい良い心でみことばを聞いて保ち、忍耐して実を結ぶ人たちである。 ¹⁶ あかりをともしてから、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする者はいない。入って来る人々に、その光が見えるように、燭台の上に置くのである。 ¹⁷ 隠れているもので、現れて来ないものはなく、秘密にされているもので、知られてこないもの、明るみに出ないものはない。 ¹⁸ だから、どのように聞くかに気をつけよ。すべて持っている者は、さらに与えられ、持っていない者は、持っていると思っているものまでも取り上げられるであろう。」 ¹⁹ さて、イエスの母と兄弟たちとが、イエスに会いに来たが、群衆のためにそばへ行くことができなかった。 ²⁰ そこで「あなたの母と兄弟たちが、お目にかかりたいと申しています」と、ある人々がイエスに告げた。 ²¹ するとイエスは彼らに答えて言われた。「神の言を聞いて行う者こそ、私の母、私の兄弟である。」

前の段落はキリストの「宣教」における勤勉についての記述で始まった(ルカ 8:1)。これは人々の聞くことにおける勤勉についての記述で始まる(ルカ 8:4)。彼は「町々を巡って」宣教するために出て行かれた。それゆえ人々は、彼が自分たちの町に来たときに聞けば十分だと考えたであろう(そうする者たちを私たちは知っている)。しかしここには「いろいろな町から」彼のもとに「やって来た」者たちがいた。彼が「自分たち」に来るのを待たず、彼が「自分たち」を去ったときに十分であったとは考えず、自分たちの方へ向かっておられるときに「彼にお会いし」、自分たちから離れて行かれるときに「彼に従った」。彼は「町々へ」行くことを、自分のもとに来る者たちがいたからといってお休みにならなかった。なぜなら、来る者はいても、ほとんどは彼のもとに来るほどの熱心を持たず、それゆえその驚くべき謙遜によって、彼は彼らのところへ行かれるから。「彼は自分を尋ね求めなかった者に見出される」(イザヤ 65:1)。

ここに、どうやら大群衆、「大ぜいの人が集まった」ようであり、網を打つべき魚の豊かな集まりであった。そして彼は彼らが「教えられる」のと同じくらい喜んで進んで「教えられた」。さて、ルカ 8:4-21において次のことを見る。

一、 種まく人のたとえ、およびその説明と適用における、みことばを聞くための必要かつ優れた規則と警告。これらは私たちが前に二度にわたり、より詳しく見たものである。キリストがこのたとえを出された後、1. 弟子たちはその意味について「探究的」であった(ルカ 8:9)。彼らは「このたとえはどういう意味ですか」と尋ねた。なお、私たちは聞く言葉の真の意図と十分な広がりを知ることを切に求めるべきである。それは自分たちの知識において誤ったり欠けたりしないためである。2. キリストは彼らに、彼らが彼の言葉の奥義と意味を親しめる機会を持っていることが、いかに大いなる益であるかを悟らせた。他の者たちはその機会を持たなかった。「あなたがたには、それが許されている」(ルカ 8:10)。なお、キリストから教えを受けようとする者は、彼によって教えられることがいかに特権であるか、他の者が「そのような」暗黒に残されているとき、「そのような」光に導かれることがいかに区別された特権であるかを知り、考えるべきである。私たちが幸いであり、恵みのゆえに永遠の負債を負っているのは、他の者には単に「楽しませる」「たとえ」でしかない同じ事がらが、私たちには私たちを「照らし」「治める」「平明な真理」であり、私たちがその型に「造り変えられる」ときである。

さて、たとえそのものとその説明から、次のことを観察せよ。

(1)「人の心」は神の言の「種」に対する「土」のようなものである。それはそれを受けることができ、その実を結ぶことができる。しかし、その種がそこに蒔かれなければ、価値あるものは何も生み出さない。それゆえ「種」と「土」を一緒に持ってくることに注意しなければならない。もし「蒔かれ」なければ、聖書に「種」を持って何になろうか。もし私たちの心という土がその種で蒔かれなければ、土を持って何になろうか。

(2)「種まき」の「成功」は、「土」の性質と性格に大きく依存し、土が種を受けるように、あるいは受けないように準備されているかどうかによる。神の言は「私たちが」そうであるように、「私たちにとって」いのちからいのちへ、あるいは死から死への「かおり」である。

(3)悪魔は狡猾で悪意ある敵であり、神の言による私たちの益を妨げることを自分の業務とする。彼は「不注意な」聞き手の心から言葉を取り去る。「それは彼らが信じて救われるためでないように」(ルカ 8:12)。これはここで教えるために加えられた。[1] 私たちは「信じる」のでなければ「救われない」。福音の言は、信仰と混ぜられなければ、私たちを救う言葉とはならない。[2] それゆえ、悪魔は私たちが「信じる」のを妨げるために全力を尽くす。私たちが読み聞きする際に言葉を信じないようにするか、もし私たちが一時的にそれに注意を払うなら、再び忘れ去るようにする(ヘブル 2:1)。あるいは、もし私たちが覚えているなら、それに対する反意を心に作り出すか、私たちの心を他の事に「逸らす」。そしてそれはすべて「私たちが信じて救われるためでないように」。私たちが信じて「喜ぶ」間に、彼は信じて「震える」。

(4)神の言が「不注意に」聞かれるところでは、通常それに対する「軽蔑」もなされる。ここでたとえに付け加えられているが、道ばたに落ちた種は「踏みつけられた」(ルカ 8:5)。故意にみことばに耳を閉ざす者は、事実上それを足の下に踏みつける。彼らは「主の戒めを軽んじる」。

(5)みことばが「ある」印象を与えるが、それが「深く」「永続的」でない者たちは、試錬の時にその偽善を示す。岩の上に蒔かれた種のように、そこでは根を張らない(ルカ 8:13)。これらの者たちは「しばらくは信じる」。短いあいだ。その告白は何かを約束するが、「試錬の時」には良い始まりから「つまずき去る」。試錬が世の微笑から来ようと、しかめっ面から来ようと、彼らはそれに容易に打ち勝たれる。

(6)「この生活の楽しみ」は、他の何と同じように、良い種をふさぐ危険で有害ないばらである。これはここに(ルカ 8:14)加えられ、他の福音書記者にはなかった。「この生活の思い煩い」に絡め取られず、「富の欺き」に誘い込まれず、自分たちはそれらに死んだと誇る者たちでさえ、見せかけの無関心と安楽と快楽の愛によって天を妨げられるかもしれない。感覚の喜びは、合法的な喜びであっても、それにふけり、あまりに喜ぶなら、魂を滅ぼす。

(7)実が結ばれるだけでなく、「熟させられる」ことが必要である。完全に熟さなければならない。もしそうでなければ、実が全く結ばれないのと同じである。マタイとマルコで「実を結ばない」と言われるのが、ここで「熟するに至らない」と言われるのと同じだから。factum non dicitur quod non perseverat——「忍耐はわざの完成に必要である」。

(8)「良い実」を結ぶ「良い地」は、教えと戒めを受けるように良く準備された「正しい」「良い心」である(ルカ 8:15)。罪的な汚れから自由で、神と義務のために堅く定まった心、正直な心、柔らかな心、「みことばにおののく心」は、正しく良い心である。それはみことばを聞いた後、「悟る」(マタイではそう)、「受ける」(マルコではそう)、「保つ」(ここではそう)。土が種を単に「受け」だけでなく「保つ」ように、胃が食物や薬を単に「受け」だけでなく「保つ」ように。

(9)みことばがよく保たれるところでは、「忍耐」をもって実が結ばれる。これもここに加えられている。「耐える」忍耐と「待つ」忍耐の両方がなければならない。みことばのゆえに「起こるかもしれない」「患難」と「迫害」に耐える忍耐。善を行うことに終わりまで耐え続ける忍耐。

(10)これらすべてを考慮して、私たちは「どのように聞くか」に注意すべきである(ルカ 8:18)。私たちが聞く言葉による私たちの益を妨げる事がらに気をつけ、聞くとき心に気を配り、心が私たちを裏切らないように気をつける。私たちが不注意に、また軽率に聞かないように、いかなる理由でも、聞く言葉に対して反意を抱かないように気をつける。そして、みことばを聞いた後、自分たちが得たものを失わないように、自分たちの霊の状態に気をつける。

二、 みことばを宣べ伝えるように定められた者、またそれを聞いた者たちにも与えられる必要な教え。1. 「賜物を受けた」者は「それを用いなければ」ならない。福音の分配をゆだねられた奉仕者、みことばによって益を受け、それによって他の者を益する資格を得た人々は、自分たちを「ともされたあかり」と見なさなければならない。奉仕者は荘厳で権威ある宣教において、人々は兄弟的な親しい交わりにおいて、その光を広げなければならない。「あかり」は「器で覆われてはならず」、「寝台の下に置かれてはならない」(ルカ 8:16)。奉仕者とクリスチャンは世の光であり、「いのちの言葉を示す」者でなければならない。その光は人々の前に輝かなければならない。彼らは単に「良い」者であるだけでなく、「善を行う」者でなければならない。2. 今「秘密に」され、目に見えない源からなされていることは、間もなく「現わされ」「知らされる」ことを期待しなければならない(ルカ 8:17)。「秘密に」あなたにゆだねられたものは、あなたによって「現わされる」べきである。あなたの主人は、あなたの才能を埋めるためではなく、取引するために与えられたから。今隠されているものを「知らせよ」。もし「あなたによって」現わされなければ、「あなたに逆らって」現わされ、あなたの不実の証拠として引き出されるであろう。3. 私たちが持つ賜物は、神の栄光と兄弟たちの徳のためにそれらを用いるかどうかに応じて、私たちに保たれるか、取り上げられる。「すべて持っている者は、さらに与えられる」(ルカ 8:18)。賜物を持ち、それで善を行う者は、さらに与えられる。「自分の才能を埋める」者はそれを失う。持たない者からは、「持っているもの」までも取り上げられる——マルコではそう。持っていると「思っているもの」までも——ルカではそう。なお、失われた恵みは「見せかけの」恵みであり、決して「真の」恵みではなかった。人々は用いないものを単に「持っているように見える」だけであり、宗教の見せかけは失われ没収されるであろう。「彼らは私たちから出て行った。彼らが私たちのものではなかったからである」(ヨハ一 2:19)。私たちが真実な恵みを、「事の根」を自分たちのうちに持っていることを確かめよう。それは、持つ者から決して取り上げられない良い分である。

三、 「みことばを行う者」になることによって「忠実な聞き手」であることを証明する者たちに与えられる大いなる励まし。弟子たちを、最も近い親族にさえまさって優先されるという、キリストの弟子たちに対する特別な配慮の実例において(ルカ 8:19-21)。この物語の箇所は私たちが前に二度見た。観察せよ。1. キリストの後にどれほどの群衆がいたか。彼に従う群衆のために近づくことができなかった。彼らは非常に混み合っていたが、彼の会衆から締め出されることを望まなかった。2. その最も近い親族の一部が、彼の宣教を聞くことに最も関心がなかった。もし時間通りに来ていたなら容易にできたであろう「中に入って」「彼を聞く」ことを望む代わりに、「外に立って」「彼に会いたい」と望んだ。おそらく愚かな恐れから、彼が語りすぎて疲れ果ててしまうのではないかと。何もせず、彼を中断させ、切り上げさせることを意図して。3. イエス・キリストは友人たちと語るよりも、むしろわざに忙でいることを望まれた。彼は「母」と「兄弟たち」と語るために、宣教を離れなかった。そのように用いられることが彼の「食物と飲み物」であったから。4. キリストは「神の言を聞いて行う者」を、最も近く最も親しい親族として認めることを喜ばれる。彼らは彼にとって「母」や「兄弟」以上である。

Luke 8章 22-39 Matthew Henry's Complete Commentary

Christ's Power over the Winds; Christ's Power over the Devils

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風に対するキリストの権能 悪霊に対するキリストの権能

²² ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り込まれたところから始まった。そして彼らに、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで彼らは漕ぎ出した。 ²³ ところが航行中、イエスは眠ってしまわれた。すると、湖に突風が吹きおろして来て、彼らの舟は水をかぶって危険になった。 ²⁴ そこで、みそなわして、イエスを起こして言った、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」。そこでイエスが起き上がって、風と荒れ狂う水とをしかりつけられると、風も波も止んで、なぎになった。 ²⁵ そしてイエスは彼らに言われた、「あなた方の信仰はどこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて、互に言い合った、「この方は、いったい、どういう方なのだろう。風や水までさえ命じられ、そして従うのだ」。 ²⁶ それから、彼らはガリラヤの向かい側にあるゲラサ人の地に着いた。 ²⁷ イエスが陸にあがられると、長いあいだ悪霊につかれていたある町の人が、すぐに出迎えに来た。この人は着物を着ず、家に住まず、墓場に住んでいた。 ²⁸ 彼はイエスを見ると、わめきながらみ前にひれ伏し、大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたとわたしとに何の係わりがありますか。願いますが、わたしを苦めないでください」。 ²⁹ というのは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行けと命じられたからである。この霊は何度も彼を捕えていたのである。そして彼は鎖と足かせでつなぎとめられていたが、それを引きちぎり、悪霊に追い立てられて荒野へ行ったのである。 ³⁰ イエスは彼に「名前は何というか」とお尋ねになった。彼は「レギオン」と答えた。それは、多くの悪霊が彼の中にはいっていたからである。 ³¹ そして悪霊たちが、深淵へ行けと命じられないように、イエスに願いつづけた。 ³² さて、そこに豚の大群が山で飼われていた。悪霊たちは、その豚の中に入ることを許されるように願った。イエスはそれを許された。 ³³ すると悪霊たちはその人から出て、豚の中にはいった。すると群れはがけから湖へなだれ落ちて溺れ死んだ。 ³⁴ 飼っていた者たちは、起ったことを見て逃げて行き、町や村に告げ知らせた。 ³⁵ 人々は、何事が起ったのかを見に出てきて、イエスの所に来たところ、悪霊の抜け出た人が、着物を着て、正気づいてイエスの足もとにすわっているのを見、恐れた。 ³⁶ これを見た者たちも、悪霊につかれていた人がいやされた次第を人々に話した。 ³⁷ さてゲラサ人の地のあたりの群衆はみな、恐れ恐れたすえに、イエスに自分たちから去ってくれるように頼んだ。そこでイエスは舟に乗り、帰って行かれた。 ³⁸ 悪霊の抜け出た人は、イエスと一緒にいたいと懇願した。しかしイエスは彼を帰して言われた、 ³⁹ 「家に帰って、神があなたにしてくださった大きなことを、ことごとく話してきかせなさい」。そこで彼はゆき、ゆきとどいたる所の町々で、イエスが自分にしてくださった大きなことを、ことごとく宣べひろめた。

ここに、われらの主イエスの力の二つの輝かしい証拠がある。これらは以前にも示されたものである――「風」に対する力と、「悪霊」に対する力。マルコ 4:1-5:43 を見よ。

一. 「風」に対する力。風は「空中の勢力」であり、人々に恐怖を与え、とりわけ海上で多くの死者を出させる。次のことを観察せよ。

1. キリストは弟子たちに、風浪を静めることによって水面でご自身の栄光を示し、水面の向こう側の一人の貧しい悪霊憑きの人に善行を行うために、出航するよう命じられた。「イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれた」(ルカ 8:22)。キリストの命令に従う者は、キリストの臨在を確信することができる。もしキリストが弟子たちを遣わされるなら、キリストは「彼らとともに」行かれる。そしてキリストを伴う者は、どこへでも安全に大胆に進むことができる。「『湖の向こう岸へ渡ろう』と言われた。」そこでなすべき良いわざがあったからである。キリストは陸路で少し回って行くこともできた。しかし「水路」で行くことを選ばれた。それは「深みにおける不思議」を示すためであった。

2. 凪のときに、いや、キリストのことばに従って出航する者であっても、「暴風」に備えなければならない。そしてその暴風における最大の危険に備えなければならない。「湖に突風が吹きおろして来た」(ルカ 8:23)。まるでそこに、そこにだけあったかのように。そしてまもなく舟は波に激しく揺れ、水をかぶり、彼らはいのちの危険に陥った。おそらく、「空中の勢力の君」であり、神の許しによって「風を起こす」悪魔は、キリストがいま何かのことばからも洩らされたことによって、向こう側の貧しい人から悪霊の軍団を追い出すために、わざわざ湖を渡って来ようとしていることを疑い、それゆえキリストの乗っている舟にこの暴風を注ぎ込み、もしできればキリストを沈めてその勝利を妨げようと図ったのであろう。

3. キリストは暴風の中で「眠って」おられた(ルカ 8:23)。何らかの身体的なしるべを取らねばならなかった。そしてキリストはそれがご自身の務めの妨げにならない時に取ることを選ばれた。キリストの弟子たちは、海上で、暴風の中で、キリストの恵みの臨在を本当にいただいていながら、キリストがまるで「眠っている」かのように見えることがある。事柄が最後の極限にまで追い込まれたように見えるときでさえ、直ちに彼らの救いのために現れないことがある。このようにキリストは彼らの信仰と忍耐を試み、祈りによって目を覚まさせ、ついに来る救いをいっそう歓迎されるようにされるのである。

4. われわしの危険と、キリストの教会の悩みについてのキリストへの訴えは、キリストを目覚めさせ、われわしのために現れてくださるよう促すのに十分である(ルカ 8:24)。彼らは叫んだ。「先生、先生、わたしたちは死にそうです。」恐れを静める道は、それをキリストのもとに持ち、キリストの前に置くことである。誠実にキリストを「先生」と呼び、信仰と熱心をもって「自分の先生」としてキリストに呼び求める者は、キリストが彼らを「滅びる」ままにしておかれないことを確信することができる。罪の自覚と神の怒りへの恐れの下にある貧しい魂にとって、これほどの慰めはない。キリストのもとに行き、キリストを「先生」と呼び、「あなたが『わたしを助け』なければ、わたしは『滅びる』」と言うことである。

5. キリストの務めは「暴風を静める」ことである。悪魔の務めが「暴風を起こす」ことであるのに対して。キリストにはそれができる。キリストはなされた。キリストはそれを喜んでされる。というのは、キリストは「地に平和を告げる」ために来られたからである。キリストは「風と荒れ狂う水をしかりつけ」られた。すると直ちに「風も波も止んだ」(ルカ 8:24)。ほかの時のように次第にではなく、突然、「大いなぎ」となった。このようにキリストは、悪魔が空中の勢力の君であるかのように振る舞っているとしても、そこにおいても悪魔を鎖につないでいることを示された。

6. われわしの危険が過ぎたとき、自分自身の恐れの恥じらいを取り、キリストにその力の栄光を帰すことがふさわしい。キリストが「暴風」を「なぎ」に変えられたとき、「彼らはその静けさによって喜んだ」(詩篇 107:30)。そのとき、(1) キリストは彼らに、度を越した恐れに対する戒めを与えられる。「あなた方の信仰はどこにあるのか」(ルカ 8:25)。注意せよ。「真の信仰」を持つ多くの者が、それを使う機会が来たときにはそれを探し求めなければならない。第二原因が彼らにしかめつらをするとき、彼らは震え、落胆する。小さなことで勇気を失う。そのとき「彼らの信仰はどこにあるのか」。(2) 彼らはキリストに力の栄光を帰す。「彼らは恐れ驚いた。」暴風を恐れていた彼らは、危険が去った今、それを静めた方を正しく恐れ、「互に言い合った、『この方は、いったい、どういう方なのだろう』」と。彼らはむしろこう言ってもよかったであろう。「あなたのような神が、ほかにあろうか。」というのは、「海の騒ぎ、その波の騒ぎを静める」ことは神の特権だからである(詩篇 65:7)。

二. 「悪霊」に対する力。すなわち「空中の勢力の君」に対する。次の物語の段階で、キリストは「風」に命じられたときよりもさらに深く悪魔と格闘される。風が静まったのち、まもなく彼らは望む港に着き、「ゲラサ人の地に着き」、そこで上陸した(ルカ 8:26-27)。そしてキリストはまもなく、向こうでなすべきご自身の務めに遭い、暴風をくぐってでも成就する価値があると考えられたことに出会った。

われわしはこの物語から、地獄の、悪意ある霊の世界について多くを学ぶことができる。これらは今やここにあるようには通常の仕方で働いていないが、われわしは常に警戒すべきである。

1. これらの「悪意ある」霊は非常に「数多い」。この一人の人に憑いていた霊たちはみずからを「レギオン」と呼んだ(ルカ 8:30)。というのは、「多くの悪霊が彼の中にはいっていた」からである。彼は「長いあいだ悪霊につかれていた」(ルカ 8:27)。しかしおそらく、長く彼を支配していた霊たちは、われらの救い主が攻撃に来られることをあるしかじかの予見から、また自分たちが起こした暴風によってそれを防げないことを悟り、増援を呼び寄せ、これを「決定的な」戦いにしようと図り、これほど多くの汚れた霊を追い出した方に対して勝てることを期待し、打ち負かそうとしたのであろう。彼らは「軍勢」であり、「旗を立てた軍勢」のように恐るべきものであろうとした。少なくとも今は、長くチェスターに駐屯していたローマ軍の「第二十軍団」が呼ばれたように、legio victrix――「勝利の軍団」――であろうとしたのであろう。

2. 彼らは人と、人のすべての便宜と慰めに対して「根深い敵意」を抱いている。悪霊たちが支配し、それを長く保っていたこの人は、彼らの影響の下に「着物を着ず、家にも住まなかった」(ルカ 8:27)。しかも「着物」と「住まい」はこの生涯の必要な支えの一つである。そればかりか、人は死者の住処に自然の恐怖を抱くものであるから、彼らはこの人に「墓場に住まわせ」、彼自身にとっても、周囲のすべての者にとっても、いっそうの恐怖となるよう強いた。それゆえ彼の魂は、かつて誰の魂よりも、いのちに疲れ、「首を絞められ死ぬことを選ぶ」ほどの理由を持っていた。

3. 彼らは非常に「強く、激しく、手に負えない」。また制約されることを憎み、軽蔑する。「彼は鎖と足かせでつなぎとめられていた。」自分自身や他人に危害を加えないように。しかし「彼はそれを引きちぎった」(ルカ 8:29)。注意せよ。他の何ものにも「治められない」者は、それによってサタンの支配下にあることを示す。そしてそのような者たちのことばは、神とキリスト――彼らを自分たちのために良いこと以外には「縛らず」、また「縛り付けない」最良の友――に対してすら、「彼らの綱を断ち切ろう」というものである。「彼は悪霊に追い立てられた。」キリストの支配下にある者は「人の綱と愛のきずなによって甘く導かれる」。悪魔の支配下にある者は「激しく駆り立てられる」。

4. 彼らはわれらの主イエスに対して大いに憤り、キリストに対して大いなる恐怖と戦慄を抱いている。「悪霊の憑いていた」人が、悪霊の意のままに語るその人が、「イエスを見ると」、苦悩のうちに「わめき」、「み前にひれ伏し」て、その怒りをなだめようとした。そしてキリストを「いと高き神の子」と認め、キリストが自分よりはるかに高く、自分には手に負えないことを認めた。しかしキリストとのいかなる同盟や連合にも抗議した(これは律法学者やパリサイ人たちの冒涜的な異議を十分に黙らせるものであった)。「あなたとわたしとに何の係わりがありますか。」悪霊たちはキリストに仕える意向もなければ、キリストによって益を受ける期待もない。「わたしたちはあなたと何の係わりがありますか。」しかし彼らはキリストの力と怒りを恐れた。「願いますが、わたしを苦めないでください。」彼らは「わたしを救ってください」とは言わず、「わたしを苦めないでください」とだけ言う。地獄を苦しみの場として恐れるだけで、天を聖さと愛の場として慕うことのない者たちが、だれのことばを語っているかを見よ。

5. 彼らはわれらの主イエスの「命令」に完全に服し、その「力」の下にある。そして彼らはそれを知っていた。というのは、「深淵」――ギリシャ語 eis ton abysson――すなわち彼らの苦しみの場へ行けと命じないでくださいと懇願したからである。そしてキリストがこれをたやすく、かつ正当になし得ることを認めた。おお、主の民にとって、これはなんたる慰めであろうか。闇のすべての勢力が主イエスの検閲と統制の下にある。キリストは彼らをすべて鎖につないでおられる。キリストはみこころのときに彼らを「彼らの場所」に遣わすことができる。

6. 彼らは「危害を加える」ことを喜ぶ。この貧しい人から手を放さなければならないということが分かったとき、彼らは「豚の群れ」に憑く許しを求めた(ルカ 8:32)。悪魔が最初に人を惨めな状態に陥れたとき、彼は全被造物にのろいをもたらし、被造物は敵意に服するようになった。そしてここに、悪魔の広範な敵意の一例として、人を滅ぼすことができなかったとき、彼は豚を滅ぼそうとした。もし体において彼らに危害を加えることができなければ、彼らは財産において危害を加えようとした。これはしばしば人々をキリストから引き離す大いなる誘惑となる。ここのように。キリストは「豚の中にはいることを許された」。悪魔がもし許されるなら、その国でどれほどの危害を加えうるかをその国に悟らせるためであった。悪霊たちは許しを得るや否や「豚」の中に入った。そして豚の中に入るや否や、群れは「がけから湖へなだれ落ちて溺れ死んだ」。というのは、サタンに憑かれた者が滅びと滅亡に至らされないなら、それは憐れみの奇跡であるからである。これとほかの実例は、あのほえたける獅子、赤い竜が「何を、だれを」食い尽くそうと探しているかを示している。

7. ある魂において悪魔の力が打ち破られるとき、その魂はみずとを取り戻し、正しい状態に戻る。これはサタンに支配された者が自分自身の支配から外されていることを前提とする。「悪霊の抜け出た人は、イエスの足もとにすわっていた」(ルカ 8:35)。彼は悪魔の力の下にあったとき、イエスに「向かって飛びかかろう」としていた。しかし今は「イエスの足もとにすわっている」。これは彼が「正気づいた」しるしである。もし神がわれわしを支配しておられるなら、神はわれわしに自分自身の統治と享受を保たれる。しかし、もしサタンがわれわしを支配しているなら、サタンは両方をわれわしから奪い取る。それゆえ、われわしの魂におけるサタンの力を転覆させよ。そしてわれわしの心の正当な所有者である方が来られ、われわしは心をその方に献げよ。というのは、われわしがキリストのものとなる時こそ、われわしは最もわれわし自身のものとなるからである。

さて、この人から悪霊の軍団を追い出したこの奇跡が、どのような効果をもたらしたかを見よう。

(1) これが豚を失ったその国の人々にどのような効果をもたらしたか。「飼っていた者たちは、起ったことを見て逃げて行き、町や村に告げ知らせた」(ルカ 8:34)。おそらく人々をキリストに対して激怒させる意図をもって。「悪霊のつかれていた人がいやされた次第」(ルカ 8:36)を告げた。すなわち、悪霊を豚の中に送ることによってであった。これは、キリストが豚を悪霊に引き渡さなければ人を彼らの手から救い出せなかったかのように、意地悪く解釈しうるものであった。「人々は出てきて、何事が起ったのかを見た。」そして調べた。「そして恐れた」(ルカ 8:35)。「大いなる恐れに襲われた」(ルカ 8:37)。彼らは驚き呆然とし、これに対して何を言えばよいか分からなかった。彼らは貧しい悩める隣人の解放よりも、またその狂気が公の迷惑となっていたその国の恐怖からの解放よりも、豚の滅びを重んじた。それゆえ「群衆はみな、キリストに自分たちから去ってくれるように頼んだ」。キリストがほかのさばきをもたらすのではないかと恐れたからである。しかしそれは実際のところ、自分の罪を捨て、みずとをキリストに献げようとする者のだれもキリストを恐れる必要はない。しかしキリストは彼らのことばのとおりになさった。「イエスは舟に乗り、帰って行かれた。」自分の豚をより愛する者たちは、救い主と、そのうちにある希望を失うのである。

(2) これが、これによってみずとを取り戻した貧しい人にどのような効果をもたらしたか。彼はほかの人々がキリストの臨在を恐れたのと同じほどキリストの臨在を「求めた」。彼はキリストに、「悪霊や病気からいやされたほかの人々」(ルカ 8:2)がそうであったように、「一緒にいたい」と懇願した。キリストが彼の保護者、教師となり、彼がキリストのために誉れと称賛となるように。彼はキリストに去ってくれるよう求めたあの粗暴で獣のようなゲラサ人たちの間に留まることを欲しなかった。「わたしの魂をこれらの罪人たちと共に集めないでください。」しかしキリストは彼を連れて行くことをせず、彼を家に帰された。それは、神が彼のためにしてくださった大きなことを、彼を知る人々の間で宣べ伝えさせるためであった。このようにして彼はその国の祝福となることができた。以前はその国の重荷であったのに。われわしはしばしば、他の魂に仕える機会を得るために、霊的な益や慰めの満足すら断たなければならない。おそらくキリストは、豚の損失への憤りが少し収まれば、彼らは奇跡を考えるにより良い態度になることを知っておられた。それゆえ彼を彼らの間に残し、そのための記念碑と警告としての故たもうた。

Luke 8章 40-56 Matthew Henry's Complete Commentary

The Issue of Blood Healed; The Ruler's Daughter Raised

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血漏のいやし 會堂司の娘の生き返り

⁴⁰ イエスが帰ってこられたとき、群衆は大喜びして迎えた。みなが、イエスを待ち受けていたからである。 ⁴¹ するとそこに、ヤイロという名の人が来た。この人は會堂司であった。そしてイエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにと頼んだ。 ⁴² というのは、この人に十二歳ばかりの一人娘があって、それが死にかかっていたからである。イエスが行かれると、群衆が押し迫った。 ⁴³ 十二年のあいだ血漏をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどく苦しめられ、自分の持ち物をみな費やしてしまったが、なんの甲斐もなく、かえって悪くなる一方であった。 ⁴⁴ この女が後ろから近寄って、イエスの衣のふさに触れた。すると、たちどころに血漏が止まった。 ⁴⁵ そこでイエスは、「わたしにさわったのは、だれか」と言われた。ところが、みんながそむいて否んだとき、ペテロと共にいた者たちが、「先生、群衆があなたに押し迫り、押し立ております。それだのに、『わたしにさわったのはだれか』とおっしゃるのですか」と言った。 ⁴⁶ イエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」。 ⁴⁷ 女は自分の隠れられないのを知り、震えながら進み寄って、イエスの足もとにひれ伏し、眾人の面前で、なぜイエスにさわったか、また、さわった途端にいやされた次第を、ありのまま話した。 ⁴⁸ するとイエスは女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのだ。心安らかに帰りなさい」。 ⁴⁹ イエスがそう言っておられるうちに、會堂司の家からある者がきて、「お嬢様はなくなりました。もはや先生を煩わすにはおよびません」と告げた。 ⁵⁰ これを聞いて、イエスは彼にむかって言われた、「恐れるな。ただ信じなさい。そうすれば、娘は助かるであろう」。 ⁵¹ そして家にはいって行き、ペテロとヤコブとヨハネ、および子供の父と母のほかには、だれも一緒にはいるのをお許しにならなかった。 ⁵² 人々はみな泣いて、子供のために悲しんでいた。ところがイエスは、「泣かないでいなさい。死んだのではない。眠っているのだ」と言われた。 ⁵³ 人々は、その女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。 ⁵⁴ そこでイエスはみんなの者を外に出し、女の手をとって、「子よ、起きなさい」と呼ばれた。 ⁵⁵ するとその靈がもどり、女はたちどころに起きあがった。そしてイエスは、何か食べさせるようにと、さし渡された。 ⁵⁶ その両親は非常に驚いた。そこでイエスは、この出来事をだれにも話さないようにと、彼らに命じられた。

キリストは「ゲラサ人」によって追い払われた。彼らはキリストに疲れ、キリストを追い払いたかった。しかしキリストが水を渡り、「ガリラヤ人」のところに帰ってこられると、彼らは「喜んでキリストを迎え」、キリストの帰りを「待ち望み」、キリストが実際に帰ってこられたとき、心から「歓迎した」(ルカ 8:40)。もし「ある者たちが」キリストの差し出す恵みを受け「ない」なら、「ほかの者たちは受けよう」。もしゲラサ人が集められないとしても、「キリストが栄光となる」ような多くの者がいる。キリストは水面の向こう側でご自身のわざを終えられたとき、帰ってこられ、出て来た場所で新鮮なわざをなすべき場所を見出された。自分を与えて善を行う者は、その機会に事欠かない。「貧しい人たちをあなた方はいつも持っている。」

ここに、マタイとマルコにもあったように二つの奇跡が織り交ぜられている。すなわち、ヤイロの娘を生き返らせることと、群衆の中をヤイロの家へ向かう途中で血漏の女をいやすことである。ここに次のことがある。

一. 「會堂司」が、死にかかっていると周囲のすべての者に思われていた小さな娘のために、キリストに「公に」訴えたこと。その名は「ヤイロ」。この訴えは非常に謙遜で、敬意に満ちていた。ヤイロは「司」であったが、「イエスの足もとにひれ伏した」。キリストを自分より「上の」司として認めて。この訴えは非常に熱心であった。彼は「自分の家においでくださるように」「懇願した」。これは、遠くからいやしの「ことば」を「語って」いただくだけでよいと願った百人隊長の「信仰」、少なくとも「思い」を持たなかった。しかしキリストは彼の願いに応じられた。「キリストは彼とともに行かれた。」強い信仰は称賛され、弱い信仰も拒まれない。病と死のある家には、キリストの臨在があることが非常に望ましい。キリストが行かれるとき、「群衆が押し迫った」。ある者は好奇心から、ほかの者は愛着から。義務の道にあり、「善を行っている」間は、混雑や、押し合いや、忙しさに文句を言ってはならない。しかしそうでなければ、賢い者はできるだけこれを避けるであろう。

二. ここに「血漏」の女がキリストに「密かに」すがったこと。これは彼女の体を衰弱させ、その財布をも衰弱させていた。というのは、彼女は「医者に自分の生活費をすべて費やした」のに、いっこうに良くならなかったからである(ルカ 8:43)。彼女の病気の性質は、公に訴えることをためらわせるものであった(その性にふさわしい控えさから、これについて語ることを非常に避けた)。それゆえ彼女は「群衆の中で」キリストに近づくこの機会を利用した。人が多くいるほど、彼女は「隠される」だろうと考えたのである。彼女の「信仰」は非常に「強かった」。というのは、衣の「裾」に「触れる」ことによって、彼女は自分の救いのために十分ないやしの力をキリストから引き出すことができると疑わなかったからである。キリストをあふれるばかりの憐れみの泉と見なして、彼女はいやしを「盗み取り」、キリストはそれに「気づかない」だろうと考えたのである。このように多くの貧しい魂がキリストによって「いやされ」、「助けられ」、「救われる」が、そのような魂は「群衆の中に埋もれ」、誰にも気づかれない。女は自分の中にすぐに良くなった変化を感じ、病気がいやされたことを知った(ルカ 8:44)。信じる者がキリストとの慰めの交わりを持つように、キリストからの慰めの授けを「incognito」――「密かに」――受ける。「世の知らない食物を食べ」、「他人の干渉しない喜び」を持つ。

三. ここにこの密ないやしの「発見」がある。医者と患者の両方の栄光のために。

1. キリストはいやしがなされたことに気づかれる。「わたしから力が出て行った」(ルカ 8:46)。キリストから出た力によっていやされた者は、それを「認め」なければならない。というのは、キリストがそれを「知って」おられるからである。キリストはここでそれを「不満」として語るのではなく、まるでこれによって「弱められた」か、「損なわれた」かのように。むしろ「満足」として語られる。ご自身から「力」が出て行って誰かの善をなしたことはキリストの喜びであった。そして最も卑しい者にもこれを惜しまれなかった。彼らは太陽の光と熱に対すると同様に、これに歓迎されたのである。また、ご自身から力が出て行ったからといって、キリストのうちの力が「減った」わけではない。キリストは「あふれる泉」だからである。

2. 貧しい患者は自分の状態と、受けた恵みを認める。「女は自分の隠れられないのを知り、進み寄り、ひれ伏した」(ルカ 8:47)。注意せよ。「キリストから隠れることはできない」という認識は、われわれがキリストの「前に心を注ぎ出し」、すべての罪とすべての悩みを示すよう促すべきである。「彼女は震えながら来た。」しかも「彼女の信仰が彼女を救った」(ルカ 8:48)。注意せよ。救う信仰がありながら「震える」ことがあり得る。彼女は「眾人の面前で、なぜイエスにさわったか」を「話した」。というのは、触れればいやされると信じたからであり、事実そうなった。キリストの患者たちはお互いに自分の経験を分かち合うべきである。

3. 大医者は彼女のいやしを確認し、その慰めをもって彼女を帰される。「心安らかに帰りなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(ルカ 8:48)。ヤコブは隠れて、計略によってイサクから祝福を得た。しかし欺きが発覚したとき、イサクは意図的にそれを批准した。それは「こっそりと」「陰で」得られたが、「公に」確保され、確認されたのである。ここのいやしも同様であった。「さいわいである」、そして「さいわいであろう」。ここでも同様に、「いやされた」、そして「いやされるであろう」。

四. ここにヤイロへの励ましがある。娘がすでに死んでおり、知らせを持って来た者たちが「もう先生を煩わすには及びません」と助言したにもかかわらず、キリストの力を疑わないように。キリストは言われる。「恐れるな。ただ信じなさい。」注意せよ。われわしの「キリストへの信仰」は、「キリストへの熱心」と同様に、大胆で果敢であるべきである。キリストのために何かをしようとする者は、キリストが彼らのために、彼らが求め思い得る以上に大いなることをしてくださることに頼ることができる。患者が死ねば、祈りや手段を用いる余地はない。しかしここでは、子供は死んでいても、「信じよ。そうすればすべては良くなるであろう」。Post mortem medicus――死後に医者を呼ぶのは不条理である。しかし post mortem Christus――死後にキリストを呼ぶのはそうではない。

五. 娘を再び生き返らせるための「準備」。1. 奇跡を目撃する証人についてのキリストの「選択」。「群衆」が従った。しかし彼らは粗暴で騒々しかったであろう。いずれにせよ、紳士の家にそのような大群衆を入れるのはふさわしくない。とりわけ家族全員が悲しみにある今。それ「ゆえ」キリストは彼らを帰された。奇跡を彼らの精査に委ねるのを恐れたからではない。というのは、キリストはラザロややもめの子を「公に」生き返らせたからである。キリストはペテロ、ヤコブ、ヨハネのみを連れて行かれた。これはご自身が最も親密であった弟子たちの三頭政治であり、両親とともにこの三人を奇跡の唯一の観客として意図された。彼らは奇跡の真実を証明するに十分な数であったから。2. 嘆く者たちに対するキリストの「戒め」。「人々はみな泣いて、子供のために悲しんだ。」というのは、彼女は非常に愛すべき有望な子供であったようであり、両親だけでなく、すべての隣人に愛されていたから。しかしキリストは彼らに「泣かないように」命じられた。「死んだのではない。眠っているのだ。」キリストは彼女の特別な状態について、彼女はとこしえに死んだのではなく、まもなく生き返らされることを意味された。それゆえ友人たちには、彼女が数時間眠っていたかのように思われるであろう。しかしこれは主にあって死ぬすべての者に適用できる。それゆえわれわしは「望みのない」者のようには彼らのために悲しんではならない。というのは、死は彼らにとって「眠り」であるから。「時間の日々の」「労苦」からの「安息」であるというだけでなく、「とこしえの日々の」「栄光」への目覚めと立ち上がり、すなわち「復活」があるからである。これはキリストがこれらの嘆く者たちに語られた慰めのことばであった。しかしそれにもかかわらず、彼らは悪意をもってこれをあざけり、「キリストを笑い者にした」。ここに「豚の前に真珠を投げる」ことがあった。死を「眠り」と呼ぶことを不条理なこととしてあざけった者たちは、旧約聖書を知らなかった。しかしその「悪」からこの「善」が生じた。すなわち、これによって奇跡の真実が証明された。彼らは「彼女が死んだことを知っていた」。確信していた。それゆえ「神の力」以外には彼女を生き返らせることはできなかったのである。キリストが彼らに与えられた答えは見出されない。しかしキリストはまもなく「ご自身を説明された」。願わくは彼らの確信のために。それゆえ彼らは二度とキリストのどんなことばにも笑うことはなかったであろう。しかしキリストは「みんなの者を外に出された」(ルカ 8:54)。彼らはこの不思議なわざの証人となるにふさわしくなかった。悲しみのただ中にありながら、キリストの「語られたこと」に笑うほど陽気であった者たちは、おそらくキリストの「なされたこと」にも笑うべき何かを見出したであろう。それゆえ正当に締め出されたのである。

六. 「死者の集会」への「短い」訪問ののち、彼女がいのちに帰ったこと。「キリストは女の手をとられた」(睡眠から覚まし、助け起こすように)。そして「子よ、起きなさい」と呼ばれた(ルカ 8:55)。このように「キリストの恵みの手」は、それを有効にするために「みことばの呼びかけ」と共に働く。ここに、ほかの福音書員では暗示されるだけであったことが明示されている。「その靈がもどり」。彼女の魂が彼女の体を生かすために戻った。これは、魂は体から離れた状態において存在し、働くこと、それゆえ不滅であることを明らかに証明する。死は「主のともしび」を消すのではなく、「暗いランプ」から取り出すだけである。グロチウスが適切に観察するように、魂は体の krasis すなわち「気質」や、体と共に死ぬ何かではなく、「それ自体で存続する何か」――anthypostaton ti――であり、死後、体のある場所とは別の場所にある。この子供の魂がこの間隔の間どこにあったかは告げられていない。「霊たちの父」の手の中にあり、すべての魂は死時に帰る。彼女の「靈がもどった」とき、彼女は起きあがった。そして自分の動きによって生きていることを示した。食欲によっても同様であった。というのは、キリストは「何か食べさせるようにと、さし渡された」からである。新しく生まれた乳児が霊的な食物を欲するように、新しく生き返らされた者も、それによって成長するために霊的な食物を欲する。ルカ 8:56 において、「両親が非常に驚いた」のを見出しても不思議ではない。しかし、もしそれが「彼らだけが」そうであり、キリストをあざ笑ったほかの傍観者はそうでなかったことを意味するなら、彼らの愚鈍さに驚くであろう。そしておそらくそれが、キリストがこれを公にさせなかった理由であり、またご自身の謙遜の実例を示すためでもあった。