Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ そしてイエスは十二人の弟子たちを呼び集め、すべての悪霊を追い出し、病気を癒す力と権威とをお与えになった。
² そして神の国を宣べ伝え、病気を癒すために彼らを遣わされた。
³ そして彼らに言われた。「旅のために何も持って行ってはいけません。杖も、袋も、パンも、金も持たず、下着を二枚持ってはいけません。
⁴ どこかの家にはいったら、そこから出て行くまでそこに留まりなさい。
⁵ あなたがたを受け入れない者たちがいるなら、その町を出るときに、彼らに対するあかしとして、足のちりを払い落としなさい。」
⁶ 彼らは出て行き、村々を巡って至る所で福音を宣べ伝え、病を癒した。
⁷ 分封王ヘロデは、イエスによってなされたすべての事を聞いた。彼は惑わされた。ある人々は、ヨハネが死人の中からよみがえったと言い、
⁸ ある人々はエリヤが現れたと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが再びよみがえったと言っていたからである。
⁹ そこでヘロデは言った。「ヨハネは私が首をはねた。しかし、私がこんなことを聞いているこの人は、いったいだれだろう。」そして、イエスに会いたければ希望していた。
ここに次の事が見られる。
一、キリストがご自身の福音を広め、その光を普及させ、強いるために取られた方法である。キリストご自身が「宣教し、癒す」ために巡り歩かれたが、一度に一つの場所にしかおられなかった。それゆえ今、十二人の弟子たちを「遣わされた」。彼らはこの頃には現在の神の配剤の性質についてかなりよく教え込まれており、他者に教え、彼らが「主から受けた」ものを「彼らに伝える」ことができた。彼らに、ある者はある方へ、ある者はある方へと散らばり、メシアによって今にもう立てられようとしている「神の国を宣べ伝え」、人々にその霊的な性質と傾向を知らせ、彼らをその国の利益と方策に来るよう説得させよ。その教理は新しく驚くべきものであり、律法学者やパリサイ人たちから教えられたものとは非常に異なり、また人々がそれを受け入れるかどうかに多くがかかっていたため、彼らの教理を裏付けるために、キリストは彼らに奇跡を行う権能を与えられた(ルカ 9:1,2)。「すべての悪霊に対する権威」を与え、彼らを追い払い、追い出せるように。たとえ数が多く、巧みで、激しく、頑固であっても。キリストは暗やみの国への完全な敗北と滅亡を計画された。それゆえ「すべての」悪霊の上に権能を与えられた。また「病気を癒し」、「病める者を癒す」権威を彼らに与え、任命された。それは彼らが行くところどこでも歓迎され、人々の判断を確信させるだけでなく、彼らの愛情を得るためであった。これが彼らの委任であった。さて観察せよ、
キリストが彼らに、この委任の遂行においてこの時にするよう命じられたこと。彼らは「遠くに行かず」、「長く離れない」はずであった。(1) 彼らは外見によって人々の尊敬を得るよう気を配ってはならなかった。今や彼ら自身のために立ち上がり始めるにあたり、彼らは服装を持たず、キリストに従っていた時にした以外の姿を作ろうと図ってはならなかった。「そのまま行く」べきで、着替えたり、新しい靴を一足履いたりしてはならなかった。(2) 彼らは摂理と友人たちの親切に依存し、必要なものを備えてもらうべきであった。「パンも金も」持って行かず、しかし欠けることはないと信じるべきであった。キリストはご自身の弟子たちに、友人たちの親切を受けるのを「恥じてはならない」と望まれた。むしろそれを「期待する」ように。しかしパウロは、負担にならないために「自分の手で働いた」時、この規則に従わない理由を見た。(3) 彼らは宿を変えてはならなかった。もてなす者たちが自分たちに「飽きている」と疑っては。彼らがそうである理由はない。箱は常にそのもてなしの対価をよく払う客であるから。「どこかの家にはいったら、そこに留まりなさい」(ルカ 9:4)。人々があなたがたをどこに探せばよいか知るため、友人たちがあなたがたが彼らに「仕える」のを厭わないことを知るため、敵たちがあなたがたが彼らに会うのを恥じず恐れないことを知るため。その町から「出る」まで「そこに留まりなさい」。慣れた者たちと共におれ。(4) 彼らは権威を帯び、彼らを「拒む」者たちに「警告」を語るべきであった。彼らを受け入れる者たちに慰めを与えるのと同様に(ルカ 9:5)。「もしあなたがたをもてなさない場所があれば、もし支配者たちがあなたがたの入場を拒み、浮浪者として扱うと脅すなら、彼らを去れ。無理に彼らの上に押し通してはならず、彼らの中に危険に走り込んではならない。しかし同時に、そのことについて神のさばきに彼らを引き渡せ。『彼らに対するあかしとして、足のちりを払い落としなさい』」。これは彼らに対する証拠として、さながら提示されるであろう。福音の使者たちが彼らの中にいて、恵みと平安の公正な申し出をしたと。このちりを彼らは後に残したから。それゆえ彼らが不信仰のままに最後に滅びる時、これは彼らの血を彼ら自身の頭の上に置き、残すであろう。「足のちりを払い落とせ」。彼らの都を見捨て、彼らとこれ以上関わらないと、さながら言うように。
彼らがこの委任の遂行においてしたこと(ルカ 9:6)。「彼らは主人の臨在から出発した」。しかし依然としてキリスの霊的な臨在、その「目」と「腕」が共にあり、こうして支えられて「村々を巡った」。彼らのうちの何人かが、彼らに割り当てられた範囲内のすべての村を。「福音を宣べ伝え、至る所で癒した」。彼らのわざは主人と同じであり、魂にもからだにも良いことをした。
二、ヘロデの当惑と、これに対する苦悩である。キリストの名において遣わされ、キリストの権威によって働く者たちにキリストの力が伝えられたことは、ほかの何にもまして、キリストがメシアであるという「驚くべき」「確信させる」証拠であった。キリストご自身が奇跡を行うだけでなく、他の者たちにも奇跡を行う権能を与えることができる。これが何よりもキリストの名声を広め、この「義の太陽」の光線を、使徒たちのような卑しく学のない男たちからでさえ「地」から「反射」させることで強めた。彼らには他に推薦するものがなく、彼らに何らかの期待を抱かせるものもなかった。ただ「彼らはイエスと共にいた」ことだけがあった(使徒 4:13)。国がこのような者たちがイエスの名で「病める者を癒す」のを見る時、警鐘が鳴らされる。さて観察せよ、
それが「民衆」の中に起こした「様々な推測」。彼らはわたしたちの主イエスについて「正しく」は考えなかったが、「誉れをもって」考えずにはいなかった。イエスは特別な方、あの世から来た方であると。あるいは最近神の大義のために迫害され殺されたバプテスマのヨハネか、あるいはその大義のために昔迫害され殺された「昔の預言者のひとり」が、この誉れによって苦しみへの報いを受けるため、「再びよみがえった」か。あるいは火の戦車で生きたまま天に取られたエリヤが、天からの特使として「現れた」か(ルカ 9:7,8)。
ヘロデの心に作り出した「大きな当惑」。「キリストによってなされたすべての事を聞いた」時、彼の罪ある良心が彼に向かって飛びかかり、彼らと共に「ヨハネが死人の中からよみがえった」と結論しがちであった。彼はヨハネから逃れ、二度と彼に煩わされることはないと思っていた。しかし誤っていたようである。ヨハネが再び生き返ったか、あるいはここに彼の霊と力においてもう一人いる。神は決して「ご自身であかしのない」ようにはされないから。「今どうしようか」とヘロデは言う。「ヨハネは私が首をはねた。しかし、いったいこの人はだれか。彼はヨハネのわざを続けているのか、それともヨハネの死に復讐するために来たのか。ヨハネはバプテスマを授けたが、彼は授けない。ヨハネは奇跡を行わなかったが、彼は行う。それゆえヨハネよりも恐ろしく見える」。観察せよ、神に反対する者は、ますます「当惑する」自分を見出すであろう。しかしそれでも、彼は「イエスに会いたい」と望んだ。彼がヨハネに似ているかどうかを見るためであろうか。しかし、もしそれが分かろうとさえすれば、何千人もが知っていたこと――イエスがヨハネの首はねられるずっと前から宣教し奇跡を行っていたゆえ、ヨハネが死人からよみがえったはずがないことを――自分で確かめていれば、まもなくこの不安から出られたであろう。「彼はイエスに会いたいと希望していた」。なぜ彼は行って会わなかったのか。おそらく、彼は行くことも、彼を呼び寄せることも自分には「ふさわしくない」と思ったからであろう。彼はバプテスマのヨハネには十分であり、これ以上そのような罪の責め手とかかわりを持つことを気にかけなかった。彼は会いたいと望んだが、彼が会ったのは自分の法廷においてであり、その時「彼もその兵士たちもイエスを軽んじた」(ルカ 23:11)。もし彼が今自分の確信を追及し、会いに行っていたなら、誰が知ろう、彼に幸いな変化がもたらされたかもしれないのに。しかし今それを遅らせることで、彼の心はかたくなになり、会った時には他の誰と同様に彼に対して偏見を持っていた。
¹⁰ 使徒たちが戻って来て、自分たちがしたことをすべてイエスに告げた。イエスは彼らを連れて、ベツサイダという町のほうへ、自分たちだけで荒野の場所に退かれた。 ¹¹ 群衆はそれと知って、イエスについて行った。イエスは彼らを迎え、神の国について語り、いやしを必要としている者たちをいやされた。 ¹² 日が暮れかけたとき、十二人がやって来て、イエスに言った。「群衆を解散させてください。回りの村々や田舎に行って宿を取り、食べ物を買うようにさせるためです。ここは荒野ですから。」 ¹³ しかしイエスは彼らに言われた。「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが行って、この全部の民衆のために食物を買うほかありません。」 ¹⁴ というのは、男が約五千人いたからである。イエスは弟子たちに言われた。「五十人ずつ一组になってすわらせなさい。」 ¹⁵ 弟子たちはそのようにして、みなをすわらせた。 ¹⁶ そこでイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げてそれらをほめたたえ、裂いて、群衆の前に置くように弟子たちに渡された。 ¹⁷ みんなは食べて満腹した。残ったパン切れを集めると、十二のかごあった。
ここには次のことがある。一、十二人が師に、その奉仕の成功について報告したこと。彼らは長く出ていなかったが、 戻って来て、自分たちがしたことをすべて告げた 。使いに出されたしもべにふさわしく。彼らは 自分たちがしたこと を告げた。もし何か誤りをしたなら、次はそれを直せるように。
二、彼らの 退隠 。少しの 休息 のため。 イエスは彼らを連れて、自分たちだけで荒野の場所に退かれた 。わざから少しの解放を得て、いつも緊張状態にないようにするため。注意すべきは、私たちの男しもべや女しもべに休息を定められた方は、ご自身のしもべたちにも休息を望まれるということ。最も公の立場にあり、最も公に役立つ者たちも、時には、体を回復するために、また黝想によってさらなる公のわざのために心を整えるために、ひそかに退くべきである。
三、人々がキリストのもとに集まったこと、そしてキリストが彼らを親切に 受け入れられた こと。彼らは ついて行った 。たとえ 荒野 であっても。というのも、キリストのいるところは荒野ではないから。そして、これによってキリストがご自身と弟子たちのためにここで意図された休息が妨げられたにもかかわらず、キリストは彼らを 歓迎された (ルカ 9:11)。注意すべきは、敬虔な熱心は少しの無礼を許すということ。それはキリストにおいてそうであったし、私たちにおいてもそうであるべき。彼らは時節を得ないときに来たが、キリストは彼らが求めたものを与えられた。1. キリストは 神の国 について彼らに語られた。彼らが縛られるべきその御国の律法と、彼らが祝福されるその御国の特権。2. キリストは いやしを必要としている者たちをいやされた 。そしてその必要の自覚において、キリストに近づいた。病気がどんなに慢性で、医者には治せなくても、患者がどんなに貧しく身分が低くても、キリストは 彼らをいやされた 。 必要とする すべての者に、たましいのためであれ体のためであれ、キリストにはいやしがある。キリストは依然として体の病に対する権威を持ち、 いやしを必要とする 民をいやされる。時にキリストは、体の いやし よりもたましいの善のために 病気 が必要であると見られる。そのとき私たちは しばらくの間 、 必要があるから 、 悲しみの中に いることを進んで受け入れるべき。しかしキリストが いやし を必要とされるを見られるとき、私たちはそれを受ける。死はキリストのしもべであり、聖徒を すべての病 からいやす。キリストは恵みと慰めによって霊的な病をいやし、その事態が求めるものをそれぞれに持つ。あらゆる緊急事態に救済がある。
四、キリストに従った群衆のためにキリストがなされた豊かな備え。 五つのパン と 二匹の魚 で、 五千人 を養われた。この物語は以前に二度あり、また再び出会う。これは救い主の奇跡の中で、四人の福音書著者すべてによって記録された唯一のものである。そこから次のことだけを観察しよう。1. 義務の道においてキリストに勤勉に従う者、その中で自分を否定し、または身をさらす者、神の家への熱心によって自分自身や外的便宜を忘れさせられた者は、特別の配慮の下に置かれ、 エホバ・イレ — 主は備えられる に依拠できる。キリストを恐れ、忠実に仕える者が、何か良いものを欠くのを見られない。2. 私たちの主イエスは自由で寛大な霊の持ち主であった。弟子たちは言った。 「解散させて、食物を得させなさい」 。しかしキリストは言われた。 「いや、あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。私たちの持っているものが届くところまで行かせよう。彼らはそれを歓迎する」 。こうしてキリストは、牧者とキリスト者の両方に、 惜しみなくもてなしをする ことを教えた(ペテロ第一 4:9)。わずかしか持たない者は、そのわずかでできることをしなさい。それがそれを多くする道である。 散らしても増える者がある 。3. イエス・キリストには、信仰によってキリストに近づくすべての者のために、薬だけでなく食物がある。キリストは いやしを必要とする者をいやす だけでなく—たましいの病をいやす— 食べる必要がある者を養う 。霊的ないのちを支え、その必要を救済し、その願いを満足させる。キリストはたましいをその病によって滅びるのから救うだけでなく、永遠のいのちへのたましいを養い、すべての霊的な訓練のために強める備えをされた。4. キリストの賜物はすべて、教会において規則正しく秩序ある仕方で受けるべき。 「五十人ずつ一组になってすわらせなさい」 (ルカ 9:14)。ここで各組の数が、肉の分配を良くし、客の数の計算を容易にするために、キリストが定められたことが注意されている。5. 私たちが被造物の慰めを受ける際、私たちは 天を見上げなければならない 。キリストがそうして、私たちにそうするよう教えるために。私たちはそれらを神から受けることを認め、受けるに価しないことを認める。すべてを、またその中に持つすべての慰めを、呪いが取り除かれ、平和の契約が定まったキリストの執り成しに負っていることを。それらが私たちに役立つようにする神の祝福に依存し、その祝福を求める。6. キリストの祝福は、わずかを遠くまで及ばせる。 正しい者の持つわずかは、多くの悪者の富にまさる。野菜の食事は肥えた牛にまさる 。7. キリストが 養う 者をキリストは 満たす 。お与えになる者には十分に与える。キリストには すべて のために十分であるように、 おのおの のために十分である。キリストはすべての飢えたたましいを満たし、 ご自身の家の豊かさ で豊かに満足させる。ここに パン切れ が集められた。私たちの父の家には 十分のパンがあり、余りがある ことを保証するために。私たちはキリストにおいて制限されず、減らされない。
Luke 9章 18-27 Matthew Henry's Complete Commentary
¹⁸ イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが一緒にいた。そして彼らに問うて言われた、「群衆は私をだれと言っているか」。 ¹⁹ 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと。しかしある人はエリヤだ、またほかの人は昔の預言者のひとりが生き返ったのだと言っています」。 ²⁰ 彼らに言われた、「それでは、あなたがたは私をだれだと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。 ²¹ するとイエスは彼らを戒め、この事をだれにも語らないように命じられた。 ²² 言われた、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならない」。 ²³ そしてすべての人に言われた、「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。 ²⁴ すべて自分のいのちを救おうとする者は、それを失い、私のために自分のいのちを失う者は、それを救い出すであろう。 ²⁵ 人が全世界を得ても、自分自身を失い、または損じたら、なんの得になろうか。 ²⁶ もし人が私と私の言葉とを恥じるなら、人の子もまた、その者を恥じるであろう。自分の栄光と、父の栄光と、聖なる御使たちの栄光とをもって来るときに。 ²⁷ しかし私は真実をあなたがたに告げる。ここ立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない人々がある」。
これらの節に、キリストが「神の国に属する」大いなる事柄について弟子たちと語られることがある。そしてこの説教の一つの状況が、他の福音書記者にはなかったが、ここで注目される。キリストが「ひとりで祈っておられ」、その「弟子たちが一緒にいた」こと(ルカ 9:18)。観察せよ。1. キリストは多くの公のわざを持っていたが、自分自身と、父と、弟子たちとの交わりのために「ひとりで」私的にいる時間を見出された。2. キリストがひとりでおられたとき、彼は「祈っておられた」。私たちが孤立を信心のために用いることは良い。「私たちがひとりのとき」「ひとりではない」ように。「父と共にいる」ために。3. キリストがひとりで祈っておられたとき、その「弟子たちは一緒にいた」。彼の祈りに加わるために。それでこれは家族の祈りであった。家を預かる者はその家族と共に、親は子どもと共に、主人はしもべと共に、教師や家庭教師は学生や弟子と共に祈るべきである。4. キリストは彼らを「試みる」前に彼らと共に「祈られた」。彼らが彼への祈りによって、彼に答えるように導かれ励まされるために。教えを与える相手のため、また共に祈るべきである。彼は彼らと語る。
一、 ご自身について。そして問う。
「民衆」が何と言っているか。「群衆は私をだれと言っているか。」キリストは彼らよりもよく知っておられた。しかし弟子たちに、彼についての他の者の誤りによって、彼と彼についての真理を知る者たちがどれほど幸いかを悟らせたかった。私たちは他の者の無知と誤りに気づき、それによって「ご自身を私たちに、世には現されなかった」方に感謝し、彼らを「あわれみ」、彼らを助け、より良く教えるためにできることをしたい。彼らは、普通の人々との交わりで聞いた彼についての憶測を告げる。奉仕者は、普通の人々とより頻繁に親しく交わるなら、その教え、責め、助言を、普通の人々のケースによりよく合わせることができるであろう。そうすれば彼らは、彼らの観念を正し、不規則を直し、偏見を取り除くために適切なことを言うのに、より良くなるであろう。医師が患者と親しくするほど、彼は患者のために何をすべきかをより良く知る。ある者は彼がバプテスマのヨハネ——他ならぬ昨日首を切られた——だと言い、他の者はエリヤ、あるいは「昔の預言者のひとり」と言った。彼が何であるかは別として。
「彼ら」が何と言っているか。「さあ、あなたがたは弟子であることによってどのような利点を持つかを見よ。あなたがたはよりよく知っている。」「そうです」とペテロは言う。「私たちの師に感謝。私たちはあなたが『神のキリスト』、『油注がれた者』、約束されたメシヤであることを知っています。」私たちの主イエスが「神の油注がれた者」であることは、私たちに言葉に尽くせない慰めである。なぜなら、彼はそのわざについて疑いのない権威と能力を持つから。「油注がれた」ことは、彼がそのわざに任命され、資格を与えられたことの両方を意味する。さて、この真理をこれほど十分に知り確信していた弟子たちに、キリストが出会うすべての者にそれを公表するように命じられると期待されたであろう。しかしいや、彼は「この事をだれにも語らないように」彼らに「厳しく命じられた」。すべての事に時があるから。その証拠を完成した復活の後、ペテロは宮にそのことを響かせた。「神はこのイエスを主またキリストとした」と(使徒 2:36)。しかしまだ証拠はまとめられる準備がなく、それゆえ隠されなければならなかった。そうである間、その信仰は救いに必要でなかったと結論できる。
二、 ご自身の「苦しみ」と「死」について。これについて彼はまだ少ししか言っていなかった。今や弟子たちが彼がキリストであるという信仰において確立し、それに耐えられるようになったとき、彼はそれらを明示的に、大いなる確信をもって語られる(ルカ 9:22)。それは彼らがまだ彼が「キリスト」であることを宣べ伝えてはならない理由として来る。彼の死と復活に伴う驚くべき事がらが、彼が「神のキリスト」であることの最も説得力のある証拠となるから。彼が「父の右」への「高挙」によって完全に「キリスト」として宣言され、それに伴う御霊の派遣によって(使徒 2:33)であった。それゆえそれがなされるまで待て。
三、 彼のための彼らの苦しみについて。彼らは彼の苦しみを「防ぐ」方法を考えるどころか、むしろ自分たちの苦しみのために準備しなければならない。
私たちは「自己否認」と「忍耐」のすべての場合に自分を「慣れさせ」なければならない(ルカ 9:23)。これは殉教への最良の準備である。自己否認、肉の治死、世を軽んじる生活をしなければならない。安楽と食欲にふけてはならない。そうすればキリストのために労苦と疲れと欠乏に耐えるのは難しくなる。私たちは「日々」患難にさらされ、それに「合わせ」、その中で神の御旨に「服し」なければならない。そして困難に耐えることを学ばなければならない。私たちは義務の道においてしばしば十字架に出会う。そして、自分たちの頭にそれらを引き寄せるべきではないが、それらが置かれたとき、それらを「取り上げ」、キリストの後に運び、最善にしなければならない。
私たちは「自分の魂の救いと幸福」を、いかなる「世的な関心」よりも優先しなければならない。こう考えよ。(1)自分の自由や財産、力や昇進を保つために、いな、いのちを救うためにさえ、キリストとその真理を否み、故意に良心を傷つけ、神に対して罪を犯す者は、損得が釣り合うとき、最終的に救う者ではなく、言葉に尽くせない「損をする者」となる。「これらの条件の上で自分のいのちを救おうとする者はそれを失う。」無限に価値のあるもの、その尊い魂を失う。(2)また、もしキリストとその宗教に固く従うためにいのちを失うなら、それを言葉に尽くせない益をもって「救う」と固く信じなければならない。正しい者の復活において豊かに報いられるから。そこで新しい永遠のいのちとして再び得る。(3)もしキリストを捨て、世の関心に加わるなら、全世界を得ても、魂の永遠の損失と破滅を相殺するどころか、何の比例もしない(ルカ 9:25)。もしキリストを否むことで、世のすべての富、誉れ、快楽を得ると想定できても、「そうすることで」「自分自身を」永遠に失い、最後に「捨てられる」なら、世的な利得が何の役に立つか。観察せよ。マタイとマルコでは恐ろしい結末は人の「自分の魂を失う」ことであるが、ここでは「自分自身を失う」ことである。これは「私たちの魂」が「私たち自身」であることを明らかに示す。Animus cujusque is est quisque——「魂がその人である」。そして私たちにとって良いか悪いかは、魂にとって良いか悪いかによる。もし彼らが自分の罪悪と腐敗の重さの下で永遠に滅びるなら、「私たち」が破滅するのは確実である。体は、たとえこの世で大いに苦しみ圧迫されても、魂がもう一つの世で惨めであれば、幸せにはなれない。しかし魂は、たとえこの世で体が大いに苦しみ圧迫されても、幸せであり得る。もし人が自分自身を「捨てられる」、e zemiotheis——「損なわれる」、あるいは罰せられる、si mulctetur——「その魂に罰金を課せられるなら」、キリストの義なる宣告によって、その大義と関心を不実に捨てたのだから。すべての祝福の没収と宣告され、その没収が取られるなら、彼の利得はどこにあるか。彼の望みは何か。
それゆえ私たちはキリストとその福音を「決して恥じてはならない」。彼とそれに忠実に従うゆえに受けるかもしれない恥辱や非難をも(ルカ 9:26)。「もし人が私と私の言葉とを恥じるなら、人の子もその者を恥じる。」正当に。キリストの奉仕と誉れがその証しと活動を求めたとき、彼はそれらを否んだ。「キリストの関心」が「軽蔑された」関心、「いたるところでそしられる」ものであったから。それゆえ大いなる日に、そのケースがキリストの代弁を求めるとき、キリストがそのような臆病で世的な、卑しい霊を認めることを恥じる以外に期待できず、「彼は私のものではない。私には属さない」と言われるであろうことを。キリストには「卑しめ」と「高挙」の状態があったように、その大義にも同じである。それが苦しむときに共に苦しむことを望む者だけが、それが治めるときに共に治める。しかし、その「恥辱」を分かち、「もしこれが卑しくあることなら、私はさらに卑しくあろう」と言うことを心に見出せない者は、その「凱歌」にあずからない。ここで観察せよ。キリストが現在の恥辱の下で自分と従者を支えるために、いかにその第二の来臨の輝きについて「壮大に」語られるか。その予見において彼は「十字架を忍び、恥を軽蔑した」。(1)彼は「ご自身の栄光」において来られる。これはマタイとマルコにはなかった。彼は仲保者としての栄光において来られる。父が彼に「回復された」「すべての栄光」。世界の初めから神と共にあったもの。彼がそのわざを成し遂げるために「預け」「質に入れた」ように、そしてそれを成し遂げたとき再び求めたもの。「今、父よ、私を栄光であってください」(ヨハ 17:4,5)。父が「ご自身の右に彼を置き」「教会の上のすべてのかしらとして彼をお与えになった」とき、「彼に与えられた」「すべての栄光」において。神の栄光の擁護者、すべての聖徒の栄光の著者として彼に due なすべての栄光において。これが「彼自身の栄光」である。(2)彼は「父の栄光」において来られる。父はすべてのさばきを彼にゆだね、世界を彼によってさばかれる。それゆえさばきにおいて彼を「ご自身の栄光の輝き」「ご自身の本体の像」として公に認める。(3)彼は「聖なる御使たちの栄光」において来られる。彼らは皆彼に「従い」、「仕え」、その現れの輝きに加え得るすべてを加える。その日に祝福されたイエスはなんと輝くことであろう! 私たちがそれを信じるなら、今彼やその言葉を決して恥じないであろうに。
「最後に」、彼のための苦しみにおいて彼らを励ますために、「神の国」が、どれほど大いなる反対がなされても、「間もなく」「立てられる」ことを彼らに確証される(ルカ 9:27)。「人の子の第二の来臨は遠くにあるが、神の国は今の世代のうちに、ここにいる一部の者が生きている間に、力において来るであろう。」彼らは御霊が注がれたとき、福音が全世界に宣べ伝えられ、国々がそれによってキリストに導かれたとき、「神の国を見た」。彼らは異邦人の国々がその「改宗」において、ユダヤ人の国がその「破壊」において、神の国が凱歌するのを見た。
²⁸ これらのことを語られてから八日ばかりたって、イエスはペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために山に登られた。 ²⁹ 祈っておられると、その顔の様子が変り、その着物が真白く輝いた。 ³⁰ すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであった。 ³¹ このふたりは栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて、語り合っていた。 ³² ところがペテロや共にいた者たちとは、ひどく眠っていたが、目をさまして、イエスの栄光と、共に立っていたふたりの人とを見た。 ³³ このふたりがイエスから離れて行ったとき、ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいることは、ありがたいことです。それでは、仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。これは彼が何を言っているのか、わからないでいたのである。 ³⁴ 彼がこう言っているうちに、雲がわき起って彼らをおおった。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。 ³⁵ 雲の中から声がして、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」と言うのを聞いた。 ³⁶ また声が止んだとき、イエスがひとりだけそこにおられた。彼らはその期間人には何も語らず、自分たちの見たことをだれにも話さなかった。
ここにキリストの変貌の物語がある。これは、キリストが世をさばくために来られる栄光の見本として意図されたものであり、キリストが最近語っておられたことの、したがって、弟子たちがキリストのために苦しみ、決してキリストを恥じないように励ますためのものでもあった。われわしはこの記事をマタイとマルコにすでに見た。これはわれわしに繰り返され、再考されるにふさわしい。「父の栄光の輝き」であり世の光である主イエスに対するわれわしの「信仰の確認」のため、体をまとっておられるにもかかわらずキリストに対する「高く」「誉れある」思いでわれわしの心を「満たす」ため、キリストが「昇天」の際に入り、今や幕の内側に「現れて」おられる「栄光」についての「ある観念」をわれわしに「与える」ため、そして将来の状態においてすべての信者のために備えられている栄光に関するわれわしの「希望」と「期待」を「起こし」「励ます」ためである。
一. ここに、これを記したほかの二人の福音書員とは異なるように見える物語の一つの事情がある。彼らは前の語りごとの「六日後」であったと言った。ルカは「八日ばかり後」であったと言う。すなわち、一週間後、完全な六日が間にあり、八日目であった。ある者たちは、弟子たちが眠っていた(苦悶のときと同様に)、また夜にはキリストの輝かしい出現がいっそう顕著になるであろうから、キリストが変貌されたのは「夜」であったと考える。もし夜であれば、時間の計算はより不確かになるであろう。おそらく、第七日と第八日の間の夜、それで「八日ばかり後」であった。
二. ここに、非常に重要ないくつかの事情が加えられ、説明されている。
1. キリストが「祈って」おられたときにこの栄誉を受けたことが「ここに」告げられている。キリストはよくされたように、「祈るために山に登られた」(ルカ 9:28)。「祈っておられると」「変貌された」。キリストが祈りのためにみずからを「低く」されたとき、このように「高められた」。キリストはこの時にこれがご自身のために意図されていることを前もって知っておられた。それゆえ祈りによってこれを求められた。キリストご自身が、ご自身のために意図され、約束された恵みを「請い求め」なければならない。「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたの嗣業として与えよう」(詩篇 2:8)。そしてこのようにキリストは、祈りの義務に「栄誉」を置き、これをわれわしに「勧める」意図を持たれた。祈りは変貌させる、変える義務である。もしそれにおいて心が高められ、広げられ、「主の栄光を見る」ようになるなら、「栄光から栄光へと、同じ像に変えられる」(コリント第二 3:18)。祈りによって、知恵、恵み、喜びを引き出す。これらは「顔を輝かせる」。
2. ルカは「変貌した」――metamorphothe(マタイとマルコが用いた)という語を用いない。おそらく異邦の神学でこれが多く用いられたからであろう。しかしそれと等価な表現を用いる。「顔の様子が別のものになった」――to eidos tou prosopou heteron。その顔はモーセが山から下ってきたときよりもはるかに輝いた。また「着物」は「真白く輝いていた」――exastrapton――「いなずまのように輝く」(ここでのみ用いられる語)。それでキリストは光をまとっているかのようであり、「光を衣のようにまとわれた」かのようであった。
3. マタイとマルコには、モーセとエリヤが「彼らに現れた」とあった。ここでは「栄光のうちに現れた」とある。これは、死者である聖徒たちが「栄光のうちに」、すなわち「栄光の」状態にあることを教えるためである。彼らは栄光の中に輝く。キリストが栄光のうちにあったので、彼らは「栄光のうちにキリストと共に現れた」。すべての聖徒がまもなくそうするように。
4. キリストと旧約の二人の大預言者との間の語り合いの主題がここに告げられている。「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて、語り合っていた。」Elegon ten exodon autou――「彼の出発、彼の旅立ち」について。すなわち「彼の死」。(1) キリストの死はここで「出口」、「出て行くこと」、「世を去ること」と呼ばれている。モーセとエリヤはこの観念の下にキリストにこれについて語った。キリストをこれに和解させ、その予見をキリストの人間性にとってより容易にするためである。聖徒たちの死は彼らの「出エジプト」、この世のエジプトからの出発、奴隷の家からの解放である。ある者たちは、キリストの昇天がここで彼の出発に含まれると考える。というのは、イスラエルのエジプトからの出国は「凱旋の」出発であったからであり、キリストが地から天へ行ったときも同様であった。(2) この出発を彼は「遂げ」なければならなかった。このように定められていたから。事は神の御計らいにおいて不変に固定され、変えることはできなかった。(3) ガリラヤに主に住んでいたにもかかわらず、エルサレムでこれを遂げなければならなかった。というのは、最も悪意に満ちた敵がエルサレムにおり、そこで預言者をさばくと称するサンヒドリンが座していたからである。(4) モーセとエリヤがこれについて語ったのは、キリストの「苦しみ」と「栄光への入場」が、モーセと「預言者たち」が「語ったこと」であったことを示唆するためである。ルカ 24:26-27、ペテロ第一 1:11を見よ。(5) われらの主イエスは、変貌のうちにあってさえ、ご自身の死と苦しみについての語り合いに入ることを喜ばれた。これは、死についての黙想――それがこの世からもう一つの世への出発である限り――は決して時節はずれではなく、とりわけわれわしが「高められる」時にふさわしいことを教えるため。「過度に高く引き上げられないように」。地上での最大の栄光においてさえ、ここには「続く町はない」ことを覚えよう。
5. われわしが以前には知らなかったことがここに告げられている。弟子たちは「ひどく眠っていた」(ルカ 9:32)。幻が始まったとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは眠く、眠りに傾いていた。あるいは遅かったか、疲れていたか、前の晩に休息を妨げられたか。あるいは、魅惑的な落ち着いた空気、あるいは甘美な旋律の響きが、彼らを柔らかく穏やかなまどろみに導き、これが幻の前置きであったかもしれない。あるいは、おそらく罪深い無関心によるものであったかもしれない。キリストが彼らと共に祈っておられたとき、彼らはすべきであったようにキリストの祈りを重んじなかった。そしてその罰として、キリストが「変貌」し始めたときに彼らは「今眠れ」と残され、この不思議なわざがどのように行われたかを見る機会を失った。この三人は、キリストが「栄光のうちに」あったときにも、後の「苦悶のうちに」あったときにも眠っていた。最良の者にあっても、人間性の「弱さ」と「脆さ」、そして神の恵みの必要を見よ。これらの弟子たちにとって、主人の「栄光」と「苦悶」よりも感銘を与えるものはなかったであろう。そして両者ともに最高度であった。しかしそのいずれも彼らを「目を覚ましておく」には役立たなかった。われわしは、われわしを「生きている」だけでなく「活発にする」生かす恵みを神に祈ることをどれほど必要としていることか。しかしこの「天からのしるし」の有能な証人となるために、一つのしるしを求める者たちに、まもなく彼らは「みずとを取り戻し」、完全に目を覚ました。そしてそのとき、すべての栄光を正確に見た。それで彼らは、キリストと共に「聖なる山」にあったときに起こったすべてについて、特定的な説明を与えることができた。その一人がそうしているように(ペテロ第二 1:18)。
6. モーセとエリヤが去ろうとしていたときに、ペテロが「主よ、わたしたちがここにいることは、ありがたいことです。仮小屋を三つ建てましょう」と言ったことがここで観察されている。このように、われわしは失おうとするまで、自分の恵みの価値に気づかないことがしばしばある。また恵みが去ろうとするまで、その継続を切に求めない。ペテロはこれを、「何を言っているのか、わからないで」言った。天において栄光を受けた聖徒たちのために地上に仮小屋を作ることを語る者は、何を言っているのかを知らない。彼らは天の宮により良い住まいを持ち、そこに帰ることを慕い求めているのである。
7. 彼らを「おおった」「雲」について、彼らが「その雲に囲まれたとき、恐れた」ことがここに加えられている。この雲は、神のより特別な臨在のしるしであった。神は古くから雲の中に幕屋と宮を取られた。そして雲が幕屋をおおったとき、「モーセは入ることができなかった」(出エジプト 40:34-35)。宮に満ちたとき、「祭司たちはそのために立って奉仕することができなかった」(歴代第二 5:14)。この雲もそのようなものであった。それゆえ弟子たちが「それに入るのを恐れた」のも不思議ではない。しかしイエス・キリストと共に雲に入ることを恐れてはならない。というのは、キリストは必ず彼らを無事に連れて行かれるからである。
8.天から来た「声」は、ここにもマルコにも、マタイほど完全には記されていない。「これはわたしの愛する子である。これに聞け。」マタイとペテロにある「わたしの心にかなう者」ということばは表現されていないが、「これはわたしの愛する子である」の中に含意されている。というのは、神が「愛し」、「心にかなう」者はすべて同じことになるからである。われわしは「愛される者において受け入れられる」。
「最後に」、使徒たちはこの幻を秘密にしておいたと言われている。「彼らはその期間人には何も語らなかった」。キリストが神の子であることの証拠が、御霊の注ぎにおいて完成し、その教理が全世界に公にされるべき別の機会のために、その発見を取っておいた。語る「時」があるように、沈黙する「時」もある。すべてのものはその季節において美しく、有用である。
³⁷ 翌日、彼らが山を下りて来ると、大ぜいの群衆がイエスを出迎えた。 ³⁸ すると、群衆のうちの一人が叫んで言った。「先生。お願いです。私の子を見てやってください。私のただ一人の子です。 ³⁹ ご覧なさい。霊が彼に取りつきますと、彼は突然叫び出します。そして霊は彼を引きつけさせて泡を吹かせ、なかなか離れず、彼を傷つけてやっと去っていくのです。 ⁴⁰ お弟子たちに、それを追い出していただくように頼みましたが、できませんでした。」 ⁴¹ イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰で曲がった時代だ。いつまで私はあなたがたと一緒にいて、あなたがたに耐えようか。あなたの子をここに連れて来なさい。」 ⁴² まだ来る途中の時、悪霊は彼を投げ倒して引きつけさせた。イエスは汚れた霊をしかりつけ、その子をいやして、父親に返された。
マタイとマタイにおけるこの物語は、キリストの変貌とその後の弟子たちとの対話に直接続いている。しかしここでは、 翌日、彼らが山を下りて来たとき と言われている。これはキリストが 夜に 変貌されたという推測を裏付ける。そして、ペテロが提案したように 幕屋を建てなかった が、彼らは夜通し休むための何らかの避難所を見つけたようである。彼らが 山を下りた のは翌日であった。そしてそのとき、弟子たちの間にいくらかの乱れを見いだされた。モーセが山から下りたときほどではなかったが。賢くて良き人々が愛する隠退にあるとき、自分たちが 公の立場 で求められていないかを考えるのがよいであろう。
この記述において、次のことを観察せよ。1. 人々がキリストの帰還に際してキリストを迎えることに熱心であったこと。キリストがほんの少しの間不在であったのに、 大ぜいの群衆がイエスを出迎えた 。他の時には大ぜいの群衆がイエスに 従った ように。というのも、キリストについて 人々の集合は彼に向かうであろう と預言されていたからである。2. てんかんの子の父が、キリストに助けを求めて切迫していたこと(ルカ 9:38)。 「お願いです。私の子を見てやってください」 。これが彼の願いであり、非常に慎み深いものである。キリストのあわれみ深い一瞥で、すべてが正されるのに十分である。私たち自身や子どもたちをキリストに連れて行き、 見ていただこう 。彼の訴えは、 「私のただ一人の子です」 。多くの子を持つ者は、一人の苦しみを他の子の慰めで埋め合わせることができる。しかし、もし一人の子が悲しみであれば、その苦しみは、神が私たちのためにご自分のひとり子を与えてくださった神の愛によって埋め合わせることができる。3. 子 の状態がどれほど 嘆かわしかった か(ルカ 9:39)。彼は悪霊の力の下にあり、 取りつかれた 。その性質の病は、単に自然の原因から生じるものよりも恐ろしい。発作が何の前触れもなく彼を襲ったとき、彼は突然 叫んだ 。幾度となくその鋭い叫びが父の優しい心を突き刺した。この悪意ある霊は彼を 引きつけさせ 、 傷つけ 、非常な困難と、別れる際の致命的な痛みなしには 彼から離れなかった 。ああ、この世の悩む者の悩みよ。そしてサタンは占拠したところでどんなに害をなすことか。しかしキリストに近づく者は幸いである。4. 弟子たちの信仰がどれほど 欠けていた か。キリストは彼らに 汚れた霊に対する権威 を与えられたのに、彼らはこの 悪霊 を追い出すことが できなかった (ルカ 9:40)。おそらく彼らは力を引き出すべき源を、あるいは与えられた委任を疑ったか、あるいは彼らがすべきように祈って努めなかった。これをキリストはとがめられた。 ああ、不信仰で曲がった時代よ 。クラーク博士はこれを弟子たちに語られたと理解する。 「あなたがたはまだ不信仰で不信に満ちて、私が与えた委任を行うことができないのか」 。5. キリストがこの子に行われたいやしがどれほど 効果的 であったか(ルカ 9:42)。キリストは弟子たちができないことを私たちのためにできる。 イエスは汚れた霊をしかりつけられた 。悪霊が最も激しく暴れたときに。悪霊は 子を投げ倒し、引きつけさせ 、引き裂こうとしたかのように彼をねじ曲げた。しかしキリストの一言が 子をいやし 、悪霊が彼に与えた損害を回復させた。そしてここで、彼を 父親に返された ことが付け加えられている。注意すべきは、子どもたちが病気から回復したとき、私たちは彼らを再び渡されたものとして受け取り、死の中から命として、初めて受け取ったときと同じように受け取るべきである。キリストの手から子どもたちを受け取ることは慰めである。キリストが彼らを再び私たちに渡されるのを見ることは。 「さあ、この子を受け取り、感謝しなさい。受け取り、私のために育てなさい。あなたは再び私からそれを受け取ったのだから。受け取り、心をあまりにこれに向けすぎてはならない」 。このような警告と共に、両親は キリストの手 から子どもたちを受け取り、それから慰めをもって再び キリストの手 に委ねるべきである。
⁴³ するとみんなの者が、神の大いなる力に驚嘆した。イエスのなさったすべての事に、人々がみな驚いている間に、イエスは弟子たちに言われた、 ⁴⁴ これらの言葉をあなた方の耳に深くとめておきなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている。 ⁴⁵ 彼らはこの言葉がわからず、またその意味が彼らに隠されていて、それが悟られなかった。そして彼らは、その言葉についてイエスに尋ねるのを恐れた。 ⁴⁶ そのとき、弟子たちの間に、自分たちのうちでだれが一番大きいかという議論が起った。 ⁴⁷ そこでイエスは彼らの心の思いを見とおして、ひとりの子供を自分のそばに立たせて、 ⁴⁸ 彼らに言われた、「だれでもわたしの名のゆえにこのような子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。そしてだれでもわたしを受け入れる者は、わたしを遣わされたかたを受け入れるのである。あなた方全体でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。 ⁴⁹ するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはあなたの名を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従って来ないので、彼を止めました」。 ⁵⁰ イエスは彼に言われた、「止めないでやれ。あなた方に逆らわない者は、あなた方の味方である」。
ここで次のことが観察される。一.キリストの奇跡がすべての目撃者に与えた印象(ルカ 9:43)。「みんなの者が、神の大いなる力に驚嘆した。」キリストのなされたすべての奇跡において彼らが見ずにはいられなかった神の全能の力。注意せよ。神の全能の力のわざは驚くべきものである。とりわけ主イエスの手によってなされたものは。というのは、キリストは「神の力」であり、その名は「不思議な助言者」であるから。彼らの驚きは普遍的であった。「みなが驚いた。」その原因も普遍的であった。「イエスのなさったすべての事に」驚いた。キリストのすべての行動には、非凡で驚くべきものがあった。
二.近づく苦しみについての、弟子たちへのキリストの通知。「人の子は人々の手に渡される。」悪い者たち、最悪の性格の者たちの手に。彼らは彼を思いのままに虐待することが許される。ここに「暗示される」ものは、ほかの福音書員によって「明示される」。「彼らは彼を殺すであろう。」しかしここで特有なのは、1. これと次に続くこととの関係。人々がキリストの奇跡を見て打たれた称賛との関係(ルカ 9:43)。「人々がみなイエスのなさったすべての事に驚いている間に、イエスは弟子たちにこれを語られた。」彼らはキリストの世的な王権、キリストが支配し、彼らも世俗的な壮麗と力と共にキリストと共に支配するという、甘い考えを持っていた。そして今、この「大いなる力」が容易にその事を成し遂げ、奇跡によって人々の心に得た関心がこれに寄与するであろうと思った。それゆえ、彼らの心にあるものを知っておられたキリストは、この機会をとって、以前に告げたことを改めて告げる。すなわち、人々が「キリストの手に渡される」どころか、キリストが「人々の手に渡され」なければならないこと。誉れのうちに生きるどころか、恥辱のうちに死ななければならないこと。そしてキリストのすべての奇跡、またこれらによって人々の心に得た関心は、これを防ぐことができない。2. これを導入する荘厳な前置き。「これらの言葉をあなた方の耳に深くとめておきなさい。」わたしの語ることに特に注意を払い、信仰をもってこれを混ぜよ。「メシアの世的な王権についてのあなた方の観念が、これに逆らって耳を閉ざさず、またこれを信じることを厭わせないように。わたしの語ることを受け入れ、これに服せよ。」「あなた方の心に深く沈ませよ。」シリア語とアラビア語はこう読む。キリストのことばは、われわしがこれを頭と心に深く沈ませない限り、何の益ももたらさない。3. キリストの苦しみのこの予測に関する、弟子たちの説明のつかない愚鈍さ。マルコには「彼らはそのことばを悟らなかった」とあった。それは十分に明らかであった。しかし彼らは自分たちの観念に合わなかったので、文字通りの意味で悟ることを「欲しなかった」。そしてほかのどのような意味でも悟ることは「できず」、「楽しい夢から覚まされる」ことを恐れて「尋ねることを恐れた」。しかしここに加えられているのは、それが彼らに「隠されていて、彼らはそれを悟らなかった」ことである。信仰の弱さと偏見の力を通じて。これが「慈悲のうちに」彼らに隠されたと考えることはできない。将来の苦しみの展望に過度の悲しみにのまれないように。そうではなく、それは逆説であった。彼らがみずからそれをそう「した」からである。
三.自分たちのうちでだれが一番大きいかという議論に対する、弟子たちへのキリストの戒め(ルカ 9:46-48)。この箇所はわれわしが以前に持っていた。残念なことには、われわしは再び同様のものに出会うであろう。ここで次のことを観察せよ。
1.誉れへの野心、優越と上位のための争いは、われらの主イエスの弟子たちに最もつきやすく陥る罪であり、彼らは厳しく戒められるに値する。これらは彼らが屈服させ、殺すべき高度にかかわる腐敗から流れ出る(ルカ 9:46)。この世で「大きい」者となろうと期待する者は、通常高く狙い、「一番大きく」なる以外は満足しない。これは彼らを多くの誘惑と悩みにさらす。「小さく」あること、「一番小さく」あること、「最も小さい者よりも小さく」あることに満足する者は、これらから安全である。
2.イエス・キリストはわれわしの心の思いと意図を完全に知っておられる。「彼らの思いを見とおされた」(ルカ 9:47)。思いはキリストには「ことば」であり、「ささやき」は「大声の叫び」である。われわしが自分の思いの厳格な統治を保つべき良き理由は、キリストがこれらの厳格な認識を取られるからである。
3.キリストは弟子たちに、安らかでへりくだる謙遜によって得られる誉れをめざさせ、休むことのない野心的な野心によって得られる誉れをめざさせない。キリストは「ひとりの子供を自分のそばに立たせた」(ルカ 9:47)。(キリストは小さな子供たちにいつも優しさと親切を示されたから。)そして「この子供」を彼らに模範として提示された。(1) この子供の「性質」を持て。「へりくだり」「安らか」で、自分に「易しい」者となれ。世的な壮麗、威厳、高位の称号を愛してはならない。この子供のようにこれらに死んだ者となれ。この子供がそうであった以上に、競争者やライバルに悪意を持ってはならない。もし何か自分の有用さに寄与するなら、「一番小さい者」になることを喜べ。善を行うことができる最も卑しい務めに身をかがめることを。(2) これが昇進への道であることを確信せよ。というのは、これは彼らを兄弟たちの尊敬に推薦するから。キリストを愛する者たちは「それゆえ」彼らを「その名において受け入れる」であろう。彼らがキリストに最も似ているから。そして彼らはキリストの恵みに自らを推薦する。というのは、キリストが彼らにされた親切を、ご自身になされたとして取るから。「だれでもこのような子供をわたしの名のゆえに受け入れる者は。」すなわち、このような性質を持つ福音の説教者を。その人はその敬意を正しく置き、「わたしを受け入れるのである。」「そしてだれでもわたしを受け入れる者は。」そのような伝道者において。「わたしを遣わされたかたを受け入れるのである。」そしてこの世で人が達しうるよりも大いなる誉れは何であろうか。神とキリストの使者として人々に受けれられること。そして神とキリストが、彼においてご自身を受け入れ、歓迎されたと認めること。この誉れはイエス・キリストのすべてのへりくだった弟子たちが持つ。そしてこのように彼らのうちの「最も小さい者」が真に「大きい者」となる。
四.キリストを尊び、キリストに仕えたが、彼らの交わりに属さなかった者を妨げたことに対する、弟子たちへのキリストの戒め。十二弟子の一人でもなく、七十人の一人でもなく、彼らと交わったことのある者でもなく、彼らに仕えた者でもない。ただ、機会にキリストを聞いて信じ、悪霊を追い出すために、信仰と祈りをもって真剣な仕方でキリストの名を用いた者。さて、1. この男を彼らは「戒め、禁じた」。彼に祈り、説教することを許さなかった。たといそれがキリストの誉れのためであり、人々に善をなし、サタンの国を弱めるものであっても。「彼が彼らと共にキリストに従わない」から。彼は彼らの教会から分離し、彼らのように按立されず、彼らに敬意を払わず、交わりの右手を与えなかった。さて、もしいつかこの世のクリスチャンの社会が、自分たちの交わりに属さない者を沈黙させる理由を持つとしたら、この時の十二弟子がそうであった。しかるに、2. イエス・キリストは彼らのしたことを責め、再びそのようなことをしないよう、また使徒たちの後継者を自称するすべての者に警告した。「『彼を止めてはならない』(ルカ 9:50)。むしろ彼を励ませ。というのは、彼はあなた方と同じ設計を進めているから。たとい彼自身に最もよく知られている理由のために、『あなた方と共に』従わないとしても。そして彼は『同じ終わり』であなた方に会うであろう。たとい『同じ道』であなた方に同行しないとしても。あなた方は自分のしているように『よくしている』。しかしそれゆえに彼が彼のしているように『悪くしている』こと、またあなた方が彼を禁令の下に置くことが良いことだということにはならない。『あなた方に逆らわない者は、あなた方の味方である』から。それゆえわれわしに是認されるべきである。」われわしは友人を一人も失う必要はない。これほど少なく、これほど多くの敵を持っている間は。キリストの忠実な従者であり、そのような者としてキリストに受け入れられる者が見出されるかもしれない。たとい彼らが「われわしと共に」従わなくても。マルコ 9:38-39を見よ。おお、この物語の箇所が正当に考慮されさえすれば、教会に、キリストとの関係を誇り、「キリストのためにねたむ」ふりをする者たちからさえ、どれほどの害が防がれることであろうか。
Luke 9章 51-56 Matthew Henry's Complete Commentary
⁵¹ イエスが上げられる日が近づいたとき、イエスはエルサレムに行くために、顔を固く定められた。 ⁵² そしてご自分の前に使者たちを遣わされた。彼らは行って、イエスのために準備をするために、サマリヤ人の村に入った。 ⁵³ しかし人々はイエスを受け入れなかった。イエスの顔がエルサレムに行こうとしているかのようであったからである。 ⁵⁴ 弟子のヤコブとヨハネはこれを見て言った。「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き払ってしまいましょうか。エリヤがしたように。」 ⁵⁵ しかしイエスは振り向いて、彼らを叱責し、言われた。「あなたがたは自分がどんな霊のうちにあるのか知らない。 ⁵⁶ 人の子は人々のいのちを滅ぼすために来たのではなく、救うために来たからである。」そして彼らは別の村に行った。
この物語の箇所は他の福音書記者にはなく、直前の箇所との親和性のゆえにここに入ってきたようである。というのも、これにおいてもキリストは弟子たちを叱責されたが、それは彼らがキリストのゆえにねたんだからである。そこではキリストへの熱心の色の下に、彼らは分離派を黙らせ、制限しようとした。ここでは同じ色の下に、彼らは不信仰者を死に処そうとした。そしてあのことについてと同じく、これについてもキリストは彼らを戒められた。というのも、偏狭と迫害の霊はキリストとキリスト教の霊に直接反するからである。ここで次のことを観察せよ。
一、私たちの贖いと救いのために大いなる務めを遂行するにおける、主イエスの「準備」と「決意」。この例を私たちは持つ(ルカ 9:51)。「イエスが上げられる日が近づいたとき、イエスはエルサレムに行くために、顔を固く定められた。」次のことを観察せよ。1. 主イエスの苦しみと死のために定められた時があり、キリストはそれがいつかをよく知っておられ、明確で確かな予見を持っておられた。それにもかかわらず、道を外れるどころか、その時にもっとも公に現れ、もっとも忙しく働かれた。時が短いことを知っておられたからである。2. キリストはご自身の死と苦しみが近づいているのを見たとき、それを通し、それを越えて、続く栄光を見た。キリストはそれを「栄光に上げられる」(テモテへの手紙第一 3:16)——最高の天に上げられ、そこで王座に着く——時と見なされた。モーセとエリヤはキリストの死をこの世からの「出発」として語り、それを「恐ろしい」ものにしなかった。しかしキリストはさらに進み、それをより良い世への移動と見なされた。それは死を非常に「望ましい」ものにした。すべての善良なクリスチャンは死について同じ観念を自分たちに形作ることができ、それをキリストがおられる所でキリストと共にいるために「上げられる」と呼ぶことができる。そして彼らが「上げられる」「時」が近づいたとき、彼らは頭を上げるがよい。「自分たちの贖いが近づいた」ことを知るからである。3. この前に置かれた喜びの望みに基づいて、キリストは「エルサレムに」——苦しみ、死ぬ場所——「行くために、顔を固く定められた」。キリストは行くことを完全に「決意」され、説得されて思いとどまることはなかった。キリストは「直接」エルサレムに行かれた。今やそこにキリストの用事があったからであり、ほかの町々に行ったり、遠回りしたりしなかった。もしキリストが通常そうされたようにそうしていたなら、サマリヤを通って行くことを避けられたであろう。キリスはそこで何が起こるかを知っておられながら、喜んで、勇気をもってそこに行かれた。キリストは「しなんだり、落胆したりせず」「火打石のように顔を固く定め」、ただ「義とされる」だけでなく「栄光化される」(イザヤ書 50:7)ことを知っておられた。ただ「打ち負かされ」ないだけでなく、「上げられる」。これがどれほど私たちを、キリストのためにし、キリストのために忍ぶことへの私たちの後ろ向きの姿勢を恥に入れ、恥によって追い出すことであろうか。私たちの救いのわざを全うするために、すべての反対に顔を向けて立たれた方の奉仕から、私たちは引き下がり、顔を背ける。
二、「ある村」(名前がない。名付けられる値打ちもないが)のサマリヤ人の「無礼」。彼らはキリストを「受け入れ」ようとせず、たとえキリストの道がそれを通っていても、彼らの町で休ませようとしなかった。ここで次のことを観察せよ。1. キリストが彼らにどれほど「礼儀正しかった」か。「ご自分の前に使者たちを遣わされた」——弟子たちの何人かが、宿を取り、キリストと一行が彼らの中で宿を借りる許可が得られるかどうかを知るために行った。というのも、キリストは「つまずきを与える」ために来ず、もし彼らがキリストの従者たちの数に不安を覚えるとしても来なかったからである。キリストは幾人かを遣わして「準備をさせられた」——威厳のためではなく、都合のため、そしてキリストの来訪が驚きとならないように。2. 彼らがキリストにどれほど「無礼であった」か(ルカ 9:53)。彼らは「イエスを受け入れなかった」。キリストを自分たちの村に入れようとせず、見張りにキリストを締め出すよう命じた。キリストは「注文した」ものすべてに「代価を払い」、彼らの中で気前の良い客となられたであろう。彼らに善をなし、以前ほかのサマリヤ人の町にしたように(ヨハネによる福音書 4:41)、福音を宣べ伝えられたであろう。彼らが望むなら、彼らの村にこれまで来た最大の祝福となられたであろうのに、彼らはキリストに入ることを禁じた。このような扱いをキリストの福音と奉仕者はしばしば受けてきた。さて理由は「イエスの顔がエルサレムに行こうとしているかのようであったから」であった。彼らはキリストの動きによって、キリストがそちらへ向かっていると気づいた。ユダヤ人とサマリヤ人の間の大きな論争は礼拝の場所についてであった——エルサレムか、それともスカルに近いゲリジム山か(ヨハネによる福音書 4:20参照)。そして彼らの間の論争は激しく、「ユダヤ人はサマリヤ人と関係を持たず」、サマリヤ人も彼らと関係を持たなかった(ヨハネによる福音書 4:9)。しかし私たちは、彼らが祭りに上るときでさえ、ほかのユダヤ人の宿泊を断らなかったと推測できる。もしそれが彼らのいつもの慣行であったなら、キリストはそれを試みなかったであろうし、ガリラヤ人の何人かがサマリヤを通らずにほかの道でエルサレムに行くことは大きな遠回りになったであろう。しかし彼らは特にキリスト——有名な教師——に対し、その神殿の祭司たちがキリストのかたきであるのに、エルサレムの神殿を認め、それに従うことに憤慨した。彼らはそれがキリストを「自分たちの」神殿で拝しに来させ、それに評判をもたらすように追い立てると希望していた。しかしそれにもかかわらず、キリストがエルサレムに向かって進むのを見たとき、彼らはおそらく以前キリスがエルサレムへの旅で示していた一般的な礼儀を示そうとしなかった。
三、この侮辱に対するヤコブとヨハネの表現した「憤り」(ルカ 9:54)。この二人がこの知らせを受けたとき、彼らはすぐに炎上し、この村にソドムのさばきを下すこと以外には承服しなかった。「主よ、天から火を呼び下して、ただ『脅かす』ためではなく、『焼き払う』ために、と私たちにお許しください。」
ここには確かに称賛すべきものがあった。彼らは次のことを示したからである。(1) イエス・キリストから受けた力に対する大きな確信。これは彼らの委任の中で特に述べられていなかったが、彼らは一言で「天から火を」もたらすことができた。Theleis eipōmen——「私たちが言いますか」——そうすれば事は成る。(2) 主人の栄誉に対する大きな熱心。キリストがどこへ行っても善をなし、心から歓迎されたのに、卑しいサマリヤ人の一団によって道の自由を拒否されたことを彼らは非常に悪く受け取った。主人がこのように軽んじられることを考えるだけで、彼らは憤りを覚えずにはいられなかった。(3) それにもかかわらず、主人の善意と意向に従うこと。キリストが許さない限り、彼らはそのようなことをしようとはしない。「私たちがそれをするのを、あなたはお望みですか。」(4) 先立つ預言者たちの模範への配慮。「エリヤがしたように」するのである。もしソルジャーたちを捕らえに来たときエリヤがそうしていなかったなら、彼らはそのようなことを考えなかったであろう(列王記第二 1:10、12)。彼らはこの「先例」が自分たちの「保証」になると考えた。私たちがいかに善い人々の模範を誤用し、事柄が並行しないのに、自分たちが与える不規則な自由において自分たちを正当化しようとするかを示す。
しかし彼らの語ったことには正しいものがあったとしても、悪いものはずっと多かった。(1) これは主イエスがこのように侮辱された初めてのことでなかった。ナザレ人がキリストを自分たちの町から追い出したこと、ガダラ人が自分たちの地域から出て行くように願ったことなどがあかしする。しかしキリストは彼らに対していかなるさばきも呼び求めず、忍耐して傷つけられたことに耐えられた。(2) これらはサマリヤ人であり、彼らからより良いことは期待できなかった。おそらく彼らはキリストが弟子たちに「サマリヤ人の町に入らないように」と禁じたことを聞いていた(マタイによる福音書 10:5)。だからこれは、キリストについてより多くを知り、キリストから多くの恵みを受けていたほかの者たちにおけるほど悪くなかった。(3) おそらく事柄を知っていたのは町の少数だけであり、その無礼な知らせをキリストに送った者だけであった。彼らの知る限り、もしキリストがそれほど近くにいることを聞いていたなら、キリストに出会いに行き、歓迎したであろう者が町には多くいたかもしれない。なのに少数の悪者のゆえに全村を灰にするのだろうか。義人を悪人と共に滅ぼすのだろうか。(4) 彼らの主人はどんな機会にも「天からの火」を呼び求めたことがなかった。否、パリサイ人たちが「天からのしるし」を求めたとき、それを与えることを拒否された(マタイによる福音書 16:1-2)。それなのに彼らがそれを導入しようとするのはなぜか。ヤコブとヨハネは、キリストが「ボアネルゲ——雷の子」と呼ばれた二人の弟子であった(マルコによる福音書 3:17)。それだけでなく「いなずまの子」にもならなければならないのだろうか。(5) エリヤの模範はこの場合に当てはまらなかった。エリヤは律法の恐ろしさを示すために遣わされ、それを証明し、アハブの宮廷の偶像礼拝と悪に対する大胆な責め手としてあかしするためであった。彼がそのように召しを証明されることは彼に十分にふさわしかった。しかし今や導入されるのは恵みの時代であり、そのような恐ろしい神の正義の示しは少しもふさわしくない。ティロットソン大主教は、彼らが今サマリヤの近くにいて、そこでエリヤが天から火を呼び求めたことが、彼らの頭にそれを浮かばせるのに役立ったかもしれないと示唆する。おそらくまさにその場所で。しかし「場所」は同じでも「時代」は変わっていた。
四、ヤコブとヨハネの燃えるような激しい熱心に対するキリスの「叱責」(ルカ 9:55)。キリストは正当な不快をもって「振り向」き、彼らを「叱責し」た。というのも、「キリストが愛される者はだれても、キリストは責め、懲らしめられる」——特に彼らがキリストへの熱心の色の下で、不規則でふさわしくないことをしたことについて。
キリストは彼らの間違いを具体的に示される。「あなたがたは自分がどんな霊のうちにあるのか知らない。」すなわち、(1) 「あなたがたは自分がどれほど悪い霊と性質のうちにあるか気づいていない。主人への熱心という口実の下に、どれほどの高慢、激情、個人的な復讐が隠されているか。」注目せよ。善い人々の心の中にも、潜み、さらに活動している腐敗が多くありうる。そして彼ら自身がそれに気づかないことがある。(2) 「あなたがたは、これと直接反対の『良い霊』のうちに『あるべきである』ことを『考えていない』。あなたがたがキリストとキリスト教の霊が何であるかを、これほど長く学んできたのに、まだ学ばなければならないとは確かに思えないか。あなたがたは『敵を愛し』、『のろう者を祝福し』、天からの火ではなく天からの恵みを彼らの上に呼び求めるよう教えられなかったか。あなたがたが『導入される』はずであった福音の設計に、自分たちの性向がどれほど反しているかを知らない。あなたがたは今や束縛と恐怖と死の時代の下にあるのではなく、愛と自由と恵みの時代の下にある。それは『地の上に平和』『人々への善意』の宣言と共に始まった。あなたがたはそれに自分たちを適合させるべきであり、このようなのろいの言葉で自らに反対すべきではない。」
キリストは彼らにご自身の宗教の一般的な設計と傾向を示される(ルカ 9:56)。「人の子」はご自身で来られたのではなく、だからあなたがたを「人々のいのちを滅ぼすために」遣わすのではなく、「救うために」である。キリストはご自身の聖なる宗教を愛と優しさ、すべての招き、愛着を起こすものによって広めることを計画された。火と剣、血と虐殺によらず。破壊の奇跡と疫病によらず、いやしの奇跡によって。イスラエルがエジプトから導き出されたように。キリストはすべての敵意を「殺す」ために来られ、それを助長するためではない。自分たちの考えと道にないすべての者を、暴力と迫害によってアナテマ(破門)とし、根絶しようとする者は、確かに福音の霊を持たない者である。キリストは人の「魂」を救うためだけでなく、彼らの「いのち」も救うために来られた。それはキリストがなさった多くの、もしそうでなければ「致命的」であったはずの病のいやしの奇跡によってあかしされる。これにより、また千のほかの善行の例により、キリストが弟子たちにすべての者にその力の限り善をなし、だれにも害を加えないことを望まれることが分かる。「人の綱と愛の帯」で人々をご自身の教会に導き、「暴力のむち」や「舌のむち」で教会に追い込もうとは望まれない。
五、この村からの「退去」。キリストは彼らの無礼のゆえに彼らを罰するだけでなく、道を通る自分の権利(それは隣人にとってと同じくキリストにも自由であった)に固執しようとせず、ご自身の道を無理に通そうとせず、静かに穏やかに「別の村に行かれた」。そこでは人々はそれほどけちで偏狭ではなく、そこでキリストは休まれ、道を進まれた。注目せよ。反対の流れが強いとき、それと戦うよりも、その道から外れることが知恵である。もし誰かが非常に無礼であれば、復讐する代わりに、ほかの者がもっと礼儀正しくないか試みるべきである。
本章には次の事柄が記されている。一、十二使徒に対し、しばらくの間福音を宣べ伝え、奇跡によってそれを裏付けるために出て行くよう、キリストが与えた委任(ルカ 9:1-6)。二、わたしたちの主イエスの成長する偉大さに対するヘロデの恐れ(ルカ 9:7-9)。三、使徒たちのキリストへの帰還、彼らと共に寂しい場所へ退かれたこと、それにもかかわらず人々が大挙して集まったこと、および五つのパンと二匹の魚で五千人の男を養われたこと(ルカ 9:10-17)。四、ご自身と、彼らのためにキリストが受ける苦しみ、ならびにキリストのために彼らが受ける苦しみについて、弟子たちと交わされた語り(ルカ 9:18-27)。五、キリストの変貌(ルカ 9:28-36)。六、てんかんの子の癒し(ルカ 9:37-42)。七、近づく苦しみについてキリストが弟子たちに繰り返し告げられたこと(ルカ 9:43-45)。八、弟子たちの野心への戒め(ルカ 9:46-48)、および悪霊に対する権威を自分たちだけに独占しようとしたことへの戒め(ルカ 9:49,50)。九、サマリヤ人の村から受けた侮辱に対して、度を越えた怒りを抱いた弟子たちへの責め(ルカ 9:51-56)。十、キリストに従おうとする傾きを持ちながらも、思慮深く、あるいは熱心に心からそうしようとしなかった数人の人々に与えられた答え(ルカ 9:57-62)。