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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Matthew 21章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

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イエス・キリストの死と復活は、救いの戸が回る二つの主要な蝶番である。キリストは贖いとしてそのいのちを与えるために、特に世に来られた。最近そう言われた(マタ20:28)。それゆえ、死に至るまでの苦難、およびよみがえりの歴史は、他のいかなる部分の物語よりも詳細にすべての伝道者によって記録されている。そしてこの伝道者は今、急いでそれに向かう。というのは、この章から受難週と呼ばれるものが始まるからである。キリストは弟子たちに一度ならず言われた。*「見よ、わたしたちはエルサレムに上って行き、そこで人の子は引き渡されなければならない」*と。道すがら多くの良いわざをなされたが、ついにエルサレムに上って来られた。ここに、一、受難週の初日、エルサレムへの公の入城(マタ21:1-11)。二、宮きよめと、買い手と売り手の追放においてそこで行使された権威(マタ21:12-16)。三、実を結ばないいちじくの木と、それに基づく弟子たちとの対話(マタ21:17-22)。四、ヨハネのバプテスマに訴えることによるご自身の権威の正当化(マタ21:23-27)。五、ふたりの息子のたとえによって、取税人たちの悔い改めを用いて、祭司長たちと長老たちの不信仰と頑なさを恥じ入らせること(マタ21:29-32)。六、恩知らずな農夫に貸し出されたぶどう園のたとえにおいて、不結果のゆえのユダヤ教会の判決を読むこと(マタ21:33-46)。

Matthew 21章 1-11 Matthew Henry's Complete Commentary

Christ's Entrance into Jerusalem

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キリストのエルサレム入城

¹ エルサレムに近づき、オリーブ山に向かうベテパゲに来た時、イエスはふたりの弟子を遣わして、 ² 言われた。「向かいの村に行きなさい。すぐに、ろばがつながれ、その子と一緒にいるのを見いだすであろう。それを解いて、わたしのところに連れて来なさい。 ³ もしだれかがあなたがたに何か言うなら、『主がお必要なのです』と言いなさい。すぐにそれを送ってくれるであろう。」 ⁴ これは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。 ⁵ 「シオンの娘に言え。見よ、あなたの王が、柔和で、ろばに乗って、ろばの子を連れて、あなたのところに来る。」 ⁶ 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 ⁷ ろばとその子を連れて来て、その上に自分たちの衣をかけ、イエスをそこに座らせた。 ⁸ すると大いなる群衆は自分たちの衣を道に敷いた。ほかの者たちは木から枝を切り落とし、道にまき散らした。 ⁹ 前に行く群衆も、後に従う者たちも、叫んで言った。「ダビデの子にホサナ。主の御名によって来る者は祝福されている。いと高き所にホサナ。」 ¹⁰ エルサレムに入ると、都全体が揺れ動いて言った。「これはだれか。」 ¹¹ 群衆は言った。「これはガリラヤのナザレの預言者イエスである。」

四人の伝道者すべてが、キリストの死の五日前の、*「勝利のうちにエルサレムに入城」した出来事に注目している。過越はその月の十四日であり、これは十日であった。この日に律法は過越の小羊を取り(出エジプト12:3)、その奉仕のために区別するよう定めていた。それゆえその日に、わたしたちのために犠牲とされるわたしたちの過越であるキリストは公に示された。それゆえこれはキリストの受難への前奏であった。キリストはエルサレムから遠くない村ベタニヤにしばらく宿を取っていた。前夜のそこでの食事でマリヤはキリストの足に油を塗った(ヨハネ12:3)。しかし大使のように、キリストは到着後しばらく経ってから公の入城を延期された。わたしたちの主イエスは多くを旅し、その習慣はガリラヤからエルサレムへ、数マイルを徒歩で旅することであった。それはへりくだりと労苦の両方であった。「善を行いながら歩き回られた」*時に、なんと多くの汚れ疲れた歩みがあったことか。主人がこれらのいずれもほとんど持っていなかった時に、キリスト者が自分自身の安らぎと状態に異常に心を配ることはどれほどふさわしくないか。しかしその生涯に一度、勝利のうちに乗られた。それは今、エルサレムに入り、苦しみ死ぬ時であった。あたかもそれがキリストが求めた喜びと昇進であるかのように。その時キリストは偉大に見え始めたと思われた。

さてここに、

一、この荘厳さのために備えられたもの。それは非常に貧しく普通であり、キリストの*「御国」が「この世のものではない」*ことを物語る。ここには武装した伝令官も、前を吹き鳴らすラッパも、国家の馬車も、制服もなかった。そのようなものはキリストの現在のへりくだりの状態に合わず、キリストの第二の来臨においてはるかにしのがれる。そこでキリストの壮麗な現れは蓄えられ、最後のラッパが鳴り、栄光の御使たちが伝令官と従者となり、雲がキリストの馬車となる。しかし今回の公の現れにおいては、

1. 準備は突然、即席であった。もうひとつの世のキリストの栄光、およびわたしたちがキリストと共にある栄光のためには、世の基の置かれる前に準備がなされた。それはキリストの心にかかっていた栄光であったから。この世でのキリストの栄光には死んでおられ、それゆえ見通しにあってもそれのために準備せず、次に来るものを取られた。彼らはエルサレムの郊外であったベテパゲに来た。ユダヤの博士たちが言うには、それはすべての事においてエルサレムと同様にみなされ、オリーブ山に向かって横たわる長く散在した通りであった。キリストはそれに入った時、「ふたりの弟子を遣わされた」。ある者はペテロとヨハネと思う。ろばを取りに。キリストには準備されたものがなかったから。

2. それは非常に取るに足らないものであった。キリストはろばとその子だけを求められた(マタ21:2)。ろばはその国で旅行に多く使われた。馬は偉い人と戦争のためだけに飼われた。キリストはケルビムを召して運ぶことができた(詩篇18:10)。しかし*「ヤハという名によって」、神を語る名によって、「天を乗り」、今や「イエス、インマヌエル、わたしたちと共におられる神」という名によって、へりくだりの状態で「ろばに乗られる」。しかしある者は、ここでキリストがイスラエルの士師が白ろばに乗る慣習(士師5:10)、その子らがろばの子に乗る慣習(士師12:14)に目を留めたと考える。そしてキリストは征服者としてではなく、「裁きのためにこの世に来た」*イスラエルの裁き主として入ろうとされた。

3. それはキリスト自身のものではなく、借りたものであった。キリストには自分の家がなかったが、友人の上に生きる旅人のように、自分のろばを持って運ばせることができたと思われる。しかしわたしたちのためにキリストはすべての点で貧しくなられた(コリント第一8:9)。*「借りて生きる者は悲しんで生きる」と普通に言われる。それゆえこの点においても、他の事と同様に、キリストは「悲しみの人」*であった。この世の財産で与えられる、または貸されるもの以外、何も持たなかった。

このろばを借りに行かされた弟子たちは、「主がお必要なのです」と言うよう指示された。必要な者は自分の必要を認めることを恥じてはならない。不正な管家のように「恥じて乞うことができない」(ルカ16:3)と言ってはならない。他方、必要でない時に乞い、または借りることで友人の親切を利用してはならない。このろばの借り入れにおいて、

(1.) キリストの知識の実例がある。事は全く偶然であったが、キリストは弟子たちがどこでろばがつながれ、その子と一緒にいるのを見いだすかを告げることができた。その全知は最も取るに足らない被造物にまで及ぶ。ろばとその子、そしてそれらが縛られるか解かれるか。「神は牛のことを気にかけるのか」(コリント第一9:9)。疑いなく気にかける。バラムのろばが虐待されるのを見ないわけにはいかれない。神はすべての被造物を知り、ご自身の目的に仕えるようにする。

(2.) 人の霊に対するキリストの力の実例がある。最も取るに足らない臣民の心も、王と同様に、「主の手の中にある」。キリストはそれをキリストのもとに持って来るよう命じて、ろばを使う権利を主張される。地の満ち満ちたものは主キリストの。しかし弟子たちがこの奉仕において出会うかもしれない妨害を予見される。彼らは*「ひそかに」取ってはならず、所有者の目の前で、まして「力と腕で」取ってはならず、所有者の同意をもって。そしてその同意を彼らが持つであろうと引き受ける。「もしだれかがあなたがたに何か言うなら、『主がお必要なのです』と言いなさい」。なお、キリストがわたしたちにするよう定められたことは、キリストはその中にわたしたちを支え、わたしたちが襲われるかもしれない反論への答えを備え、それらを有効にされる。ここのように。「すぐにそれを送ってくれるであろう」。ろばをその奉仕に命じるにおいて、キリストは万軍の主であることを示された。そして持ち主がそれをさらに保証なしに送るように傾けるにおいて、「すべての肉なる者の霊の神」*であり、人の心を曲げることができることを示された。

(3.) 正義と正直の実例がある。たとえ通り一、二の長さを乗るという小さな奉仕でも、所有者の同意なしにろばを使わないことに。後の節をあるように読むなら、それはさらに正義の規則を与える。「『主がお必要なのです』と言いなさい。そして主はすぐにそれを送り返す」。すなわち、主が、それを済ませたらすぐに安全に所有者に届くように配慮する。なお、借りたものは期日通り、良好な状態で返さなければならない。「悪者は借りて返さない」から。借りた財物は損なわれないよう注意されなければならない。「ああ、主人よ、それは借りたものです!」

二、これにおいて成就した予言(マタ21:4,5)。わたしたちの主イエスは、なされ、苦しまれたすべてにおいて、「聖書が成就するために」と目を留めることを非常に多く持たれた。預言者たちがキリストを前望みした(彼らはすべてキリストに証しした)ように、キリストは彼らを見つめ、メシアについて書かれたすべてのことが、キリストにおいて正確に成就するためであった。特にキリストについて書かれたこれ、ゼカリヤ9:9。そこでメシアの御国の大いなる予言を導入する。「シオンの娘に言え。見よ、あなたの王が来る」。これは成就しなければならなかった。さてここで見よ。

1. キリストの来臨がどのように予告されているか。「シオンの娘に言え」。教会、聖なる山に。「見よ、あなたの王があなたのところに来る」。なお、(1.) イエス・キリストは教会の王である。わたしたちの兄弟のひとり、御国の律法に従って(申命17:15)。教会の上に王として任命され(詩篇2:6)。教会によって王として受け入れられる。シオンの娘はキリストに忠誠を誓う(ホセア1:11)。(2.) 教会の王であるキリストは、この下の世界においてさえ、ご自身の教会に来られた。あなたのところに来る。あなたを治めるために、あなたのうちに治めるために、あなたのために治めるために。「教会に対してすべてのものの上に頭である」。「救い主はシオンから来る」(ローマ11:26)。シオンから律法が出るために。教会とその利益が贖い主にとってすべてであったから。(3.) 王の来臨は教会に前もって通知された。「シオンの娘に言え」。なお、キリストはご自身の来臨を待ち望まれ、期待される。その民がその期待に満ちるように。「シオンの娘たちに言え」。彼らが*「出て行き、ソロモン王を見る」ために(雅歌3:11)。キリストの来臨の通知は通常「見よ!」と共に来る。注意と驚嘆の両方を命じる音符。「見よ、あなたの王が来る」。見よ、キリストに驚け。見よ、キリストを迎えよ。ここに真に称賛すべき王の行列がある。ピラトはカヤパのように、自分が知らないことを言った。その大いなる言葉(ヨハネ19:14)において。「見よ、あなたがたの王」*。

2. キリストの来臨がどのように描写されているか。王が来る時、何か偉大で壮大なことが期待される。特に王国を所有するために来る時。王、万軍の主は*「高く上げられた御座の上に」見られた(イザヤ6:1)。しかしここにはそれがない。「見よ、柔和で、ろばに乗って、あなたのところに来る」*。キリストが栄光に現れようとする時、それはその威厳ではなく、柔和においてである。

(1.) キリストの気質は非常に穏やか。怒って復讐するためではなく、あわれみによって救いを働くために来られる。シオンの大義のために最大の傷害と屈辱を忍ぶために柔和。シオンの子どもたちの愚かさと不親切を耐え忍ぶために柔和。近づきやすく、求められやすい。教師としてだけでなく、支配者として柔和。愛によって治められる。その支配は穏やかで優しく、その律法は民の血ではなく、ご自身の血に書かれている。そのくびきは容易である。

(2.) その証拠として、その現れは非常に取るに足らない。ろばに乗って。威厳ではなく奉仕のために、戦いではなく荷のために造られた被造物。動きは遅いが、確かで、安全で、一定。これをずっと前に予告し、正確に成就するように配慮されたことは、それが特別の意義を持つことを示唆する。貧しいたましいがキリストに近づくことを励ますために。シオンの王は、怯えた願い出る者が近づけない駿馬、または足の遅い願い出る者がついていけない走馬にではなく、静かなろばに乗って来る。最も貧しい臣民もその近づきにおいて思いとどまらないために。預言に*「ろばの子、ろばの子」*が言及されている。それゆえキリストはろばと共にその子を求められた。聖書が成就するために。

三、行列そのもの。それは準備に応じるものであった。両方とも世的な華やかさを欠きながら、両方とも霊的な力を伴った。

見よ。1. キリストの装備。「弟子たちはイエスが命じられたとおりにした」(マタ21:6)。彼らはろばとその子を取りに行った。見いだすこと、また持ち主が貸すことを承知するを見いだすと疑わなかった。なお、キリストの命令は争われてはならず、従われなければならない。またそれに真実に従う者は、それにおいて躓いたり敗北したりしない。「彼らはろばとその子を連れて来た」。キリストが乗られた獣の取るに足らなさと軽蔑すべきさは、馬具の豊かさで補われるかもしれなかった。しかしそれらは、他のすべてと同様に、すぐ手に入るものであった。彼らはろばのための鞍さえ持たず、弟子たちはその上に自分たちの衣のいくつかを投げかけ、それがより良い設備の不足の代わりをしなければならなかった。なお、わたしたちは外的な便宜において、気難しく、好奇心旺盛で、または正確さに影響されてはならない。聖なる無関心や軽視は、これらの事においてわたしたちにふさわしい。それはわたしたちの心がそれらの上にないこと、また使徒の規則(ローマ12:16、欄外)「取るに足らないもので満足する」ことを学んだことを示す。旅行者には何でも役立つ。ある種の無頓着さ、高貴な怠慢には美しさがある。しかし弟子たちは持っている最善のものをもってキリストに備えた。「主がお必要なのです」と言われて衣が台無しになることを異議とはしなかった。なお、わたしたちはキリストの奉仕のために、キリストの貧しく困窮し苦しめられた肢体の衣のために、背中の衣を手放すには高すぎると思ってはならない。「わたしは裸であったが、あなたがたはわたしに着せた」(マタ25:36)。キリストはわたしたちのためにご自身を裸にされた。

2. キリストの随行。ここに立派なものや壮大なものはなかった。シオンの王がシオンに来て、シオンの娘はその来臨をずっと前に告げられていた。しかしその国の紳士たちに付き添われるのでもなく、市の行政官たちがその正式な儀式で出迎えるのでもなかった。期待されるかもしれなかったように。キリストには市の鍵が献呈されるべきであり、「裁きの御座、ダビデの家の御座」に可能な限り便宜よく導かれるべきであった。しかしここにはそのようなものは何もない。しかしきキリストには従者がいる。「大いなる群衆」。彼らはただの平民、群衆(わたしたちが*「暴民」と呼んだであろう者)であり、キリストの勝利の荘厳さを飾った。そしてそのような者だけ。祭司長たちと長老たちは後に十字架の上でキリストを虐待する群衆と共に群れた。しかしここでキリストに栄誉を帰した群衆と共に彼らのひとりも見いだされない。兄弟たちよ、あなたがたの召しを見よ。「有力な者、または貴族は多くない」がキリストに仕える。むしろ「この世の愚かなもの、軽蔑される卑しいもの」*(コリント第一1:26,28)。なお、キリストは従者の華やかさよりも、その数の多さによって誉れを受ける。キリストは人をその昇進、名、または名誉の称号ではなく、そのたましいによって評価されるから。

さて、この大いなる群衆について、ここで語られている。

(1.) 彼らのしたこと。彼らは能力の最善を尽くして、キリストに栄誉を帰すことを図った。[1.] 「自分たちの衣を道に敷いた」。キリストがその上を乗るために。フセが王として宣言された時、将軍たちは彼に服従のしるしとして自分たちの衣をその下に置いた。なお、キリストを王として取る者は、そのすべてをキリストの足の下に置かなければならない。衣を、心のしるしとして。キリストが来る時、他のだれが来るのでなくても、*「たましいに、彼が乗り越えるように低くかがめ」*と言われなければならない。ある者はこれらの衣が地の上ではなく、生け垣や壁の上に敷かれ、道を飾るためであったと考える。行列を美しくするために、バルコニーがタペストリーで飾られるように。これは取るに足らない威厳であった。しかしキリストは彼らの善意を受け入れた。そしてわたしたちはこれによって、いかにキリストを、キリストとその恵み、キリストとその福音を、自分たちの心と家に迎えるかを工夫することを教えられる。どのようにキリストへの敬意を表するのか。どのような栄誉と威厳がキリストに帰されるべきか。[2.] 「ほかの者たちは木から枝を切り落とし、道にまき散らした」。彼らが仮庵の祭にしたように。自由、勝利、喜びのしるしとして。その祭の奥義は特に福音の時代に属するものとして語られるから(ゼカリヤ14:16)。

(2.) 彼らの語ったこと。「前に行く者たちも、後に従う者たちも」、同じ調子であった。キリストの来臨を告げる者たちも、拍手をもってキリストに従う者たちも、「叫んで言った、ダビデの子にホサナ」(マタ21:9)。仮庵の祭で彼らが枝を持って歩く時、彼らは*「ホサナ」と叫ぶのが習わしであった。そしてそこから枝の束を彼らの「ホサナ」と呼んだ。「ホサナ」は「どうか今お救いください」を意味する。詩篇118:25,26に言及する。そこでメシアは「隅の首石」として預言され、「家を建てる者たちが拒んだ」にもかかわらず。そのすべての忠実な臣民はキリストと共に勝利し、そのすべての企ての繁栄への心からの良い願いをもってキリストに従って導かれる。「ダビデの子にホサナ」とは、「わたしたちはダビデの子に栄誉を帰してこれを行う」*ということ。

キリストに付き添ったホサナは二つのことを語る。

[1.] 彼らのその御国を歓迎すること。「ホサナ」は「主の御名によって来る者は祝福されている」と同じことを語る。このダビデの子について、「すべての国民が彼を祝福された方と呼ぶ」(詩篇72:17)と預言された。ここで彼らは始め、すべての時代のすべての真の信者がそれに同意し、彼を祝福された方と呼ぶ。それは信仰の真の言葉。なお、第一に、イエス・キリストは「主の御名によって来る」。聖別され、仲介者として世に遣わされた。「父なる神はこの方に印を押された」。第二に、主の御名によって来るキリストは「すべての受容に値する」。そしてわたしたちは皆、*「来る者は祝福されている」と言うべき。キリストを賛美し、キリストに喜ばされるべき。主の御名によって来るキリストを、強い愛情をもって、わたしたちの慰めのために、また喜ばしい歓呼をもって、キリストの栄光のために語ろう。「祝福された方」と語ってよい。わたしたちが祝福されるのはキリストにおいてであるから。「祝福をもってわたしたちに会われる」*キリストを、わたしたちの祝福をもって従ってよい。

[2.] 彼らのその御国のために良いことを願うこと。「ホサナ」に示唆される。繁栄と成功がそれに伴い、それが勝利の御国となることを切望する。「今、繁栄をその御国にお送りください」。もしそれを現世的な御国と理解し、彼らの心がそれに向けられたなら、それは彼らの誤りであった。少しの時がそれを正すであろう。しかし彼らの善意は受け入れられた。なお、世におけるキリストの御国の繁栄と成功を切望し、祈ることはわたしたちの義務。このように*「絶えず彼のために祈らなければならない」(詩篇72:15)。すべての幸福が世におけるキリストの利害に伴い、キリストがろばに乗っても、その威厳において「その柔和のゆえに栄えのうちに乗り進まれる」ように(詩篇45:4)。これが「御国を来たらせたまえ」と祈る時に意味すること。彼らは付け加える。「いと高き所にホサナ」。最高の度合いの繁栄がキリストに伴うように。すべての名の上の名、すべての御座の上の御座をキリストが持つように。または、最善の仕方でキリストを賛美しよう。キリストの教会の賛美が天に、最高の天に昇り、そこから平安と救いを持ち帰るように。詩篇20:6を見よ。「主はその油注がれた者を救い、その高い、聖なる天から聞かれる」*。

3. わたしたちはここにエルサレムでのキリストのもてなしを見る(マタ21:10)。「エルサレムに入ると、都全体が揺れ動いた」。すべての人がキリストに気づいた。ある者は事の目新しさに驚き、ある者はその取るに足らなさに笑った。おそらくある者は、*「イスラエルの慰めを待っていた」*者は喜んだ。パリサイ派の者たちはねたみと憤りに動かされた。このようにキリストの御国の接近に際して、人の心の動きは様々である。

この騒ぎにおいてさらに語られている。

(1.) 市民が言ったこと。「これはだれか」。[1.] 彼らはキリストについて知らなかったようである。「イスラエルの民の栄光」であったのに、「イスラエルはキリストを知らなかった」。多くの奇跡を行って自分たちを区別したのに、「エルサレムの娘たちはキリストをほかの愛する者と区別しなかった」(雅歌5:9)。聖なる都で知られない聖なる方!最も明るい光が輝き、最も大きな信仰の告白がなされる場所に、わたしたちが思う以上の無知がある。[2.] しかしき彼らはキリストについて探究した。このように叫ばれ、これほど注目されて来るのは誰か。「この栄光の王はだれか」。わたしたちの心への入り口を求めるのは(詩篇24:8、イザヤ63:1)。

(2.) 群衆が彼らに答えたこと。「これはイエス」(マタ21:11)。群衆は偉い人たちよりもキリストをよく知っていた。「民の声」は時に「神の声」である。さて、彼らがキリストについて語る説明において、[1.] 彼らは「預言者」、その大いなる預言者と呼ぶ点で正しかった。これまでは教え、奇跡を働く預言者として知られていた。今や彼らは王としてキリストに仕える。キリストの祭司の務めは、三つのうちで最後に現れた。[2.] しかしき*「ナザレの」*と言った点では間違えた。そしてそれはキリストに対する彼らの偏見を確信させるのに役立った。なお、キリストに栄誉を帰し、キリストに証ししたいと願う一部の者は、キリストについての誤りに苦しみ、自分たちを知らせようと努力すれば正されるであろう。

Matthew 21章 12-17 Matthew Henry's Complete Commentary

The Profaners of the Temple Punished

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神殿を汚す者たちの刑罰

¹² イエスは神の宮にはいり、宮で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台を倒し、はとを売る者たちの腰掛けを覆された。
¹³ そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。しかし、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」と。
¹⁴ すると盲人や足なえが宮で彼のところに来た。そして彼は彼らをいやされた。
¹⁵ 祭司長たちと律法学者たちは、彼のなさったすばらしいことや、宮で子どもたちが『ダビデの子にホサナ』と叫んでいるのを見て、ひどく不快に思った。
¹⁶ そして彼に言った。「これらの者が言っているのが聞こえますか」。イエスは彼らに言われた。「そうです。あなたがたは『幼子と乳飲み子の口から、あなたは賛美を全うされた』という箇所を一度も読んだことがないのか」と。
¹⁷ そして彼らを残して、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。

キリストがエルサレムにはいられたとき、彼は王として入られたにもかかわらず、宮廷や宮殿に上ったのではなく、『宮』に行かれた。というのも、彼の王国は霊的であり、『この世のものではない』からである。彼は聖なる事において治め、神の宮において権威を行使される。さて、彼はそこで何をされたか。

一、彼はそこから買い手と売り手を追い出された。正しいことが確立される前に、乱用はまず清められ、神が植えられなかった植物は引き抜かれなければならない。大いなる贖い主は大いなる改革者として現れ、不敬を取り除かれる(ロマ11:26)。ここで我々は告げられる。

  1. 彼が何をされたか(マタ21:12)。『彼は売り買いする者たちをみな追い出された』。彼は以前一度これを行われた(ヨハ2:14,15)。しかし再び行う必要があった。御覚え置かれたい。宮から追い出された買い手と売り手は、継続的な配慮と監視がなければ、そして打撃が追われ、頻繁に繰り返されなければ、戻ってそこに巣くうであろう。

(1)乱用は、宮で売り買いし、金を両替することであった。御覚え置かれたい。合法的なことも、時と場所を間違えれば、罪深いものとなり得る。別の場所では十分に上品であり、別の日には合法的だけでなく誉れあるものが、『聖所を汚し』、『安息日を汚す』。この売り買いと金の両替は、世俗的な雇いであったが、『霊的な目的のために』という口実を持っていた。彼らはいけにえのために獣を売った。それは獣よりも簡単に金を持って来られる者の便利のためであった。そして半シケル—年ごとの人頭税、または贖いの金—を必要とする者のために金を両替した。あるいは帰りの手形のために。それゆえこれは神の家の外的業務と見なされ得た。しかしキリストはこれを認めない。御覚え置かれたい。大いなる堕落と乱用は、『利益が信心』である者たち—すなわち、世的な利益を信心の終わりとし、偽りの信心を世的な利益への道とする者たち—の実践によって教会にはいって来る(テモ一6:5)。『そのような者たちから離れよ』。

(2)この乱用の清め。キリストは『売る者たちを追い出された』。彼は以前『細い縄のむちで』これを行われた(ヨハ2:15)。今や彼は目つきで、しかめ面で、命令の言葉で行われた。ある者たちはこれをキリストの奇跡の中で最も小さくない一つと見なす。彼が自らこのように宮を清め、この商売で生計を立て、祭司たちと長老たちに支えられていた者たちからそこで反対されなかったことである。これは人の霊に対する彼の力の、そして彼ら自身の良心による彼らの捉え方の一つの実例である。これはキリストが肉の日にした王の権威と強制力の唯一の行為であった。彼はそれを始め(ヨハ2:12-25)、ここでそれを終えた。伝承は、彼の顔が輝き、彼の祝福された目から光の放射が出て、これらの市場の人々を驚かせ、彼の命令に従うことを彼らに強いたと言う。もしそうなら、聖書は成就した(箴20:8)。『さばきの御座に着座する王は、その目ですべての悪を散らす』。『彼は両替人の台を覆された』。彼は金を自分のものとしなかったが、それをまき散らし、地面に投げた。それに最もふさわしい場所である。ユダヤ人はエステルの時代に『獲物に手を置かなかった』(エス9:10)。

  1. 彼が何を言われたか、自分を正当化し、彼らを有罪とするために(マタ21:13)。『書いてある』。御覚え置かれたい。教会の改革において、目は聖書に向けられなければならず、それが規則、山における型として堅く守られなければならない。そして『書いてある』をもって自分を正当化できる以上に進んではならない。堕落した規定がその最初の制定に還元されるとき、改革は『その時』正しい。

(1)彼は聖書の預言から、宮が何であるべきか、何であるように意図されたかを示す。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』。これはイザ56:7から引用される。御覚え置かれたい。すべての儀式的な制度は道徳的義務に仕えることを意図された。いけにえの家は祈りの家であった。それがすべてのこれらの奉仕の実体と魂であったからである。宮は祈りの家として特別に聖別された。というのも、それはその礼拝の場所だけでなく、その媒介であったからである。それゆえその家で、またはその家に向かってなされる祈願は受容の特別な約束を持っていた(代下6:21)。それはキリストの型としてであった。それゆえダニエルは祈りの中でそちらを見た。そしてこの意味において、今はいかなる家も場所も祈りの家であることはできず、できない。というのもキリストが我々の宮だからである。しかしある意味で、宗教的集会の指定された場所はそのように呼ばれ得る。『祈りがなされるのを常とする場所』として(使16:13)。

(2)彼は聖書の責めから、彼らがどのように宮を乱用し、その意図を曲げたかを示す。『あなたがたはそれを強盗の巣にしている』。これはエレ7:11から引用される。『この家はあなたがたの目に強盗の巣となったのか』。偽りの信心が不義の覆いと隠れ場所とされるとき、『祈りの家』が『強盗の巣』になったと言われ得る。その中で彼らは潜み、身を隠す。市場はあまりにもしばしば強盗の巣である。売り買いの中にこれほど多くの堕落した欺瞞的な実践があるからである。しかし宮の中の市場は確かにそうである。というのも、彼らは神からその誉れを奪うからである。それは最悪の強盗である(マラ3:8)。祭司たちは祭壇によって生き、豊かに生きていた。しかしそれに満足せず、民から金を絞り出す他の方法と手段を見出した。それゆえキリストはここで彼らを『強盗』と呼ぶ。というのも、彼らは自分たちに属さないものを要求したからである。

二、そこで、宮において、『彼は盲人や足なえをいやされた』(マタ21:14)。買い手と売り手を宮から追い出したとき、彼は盲人と足なえをその中に招き入れられた。というのも、『彼は飢えた者を良いもので満たし、富む者を空手で帰される』からである。宮におけるキリストは、そこで語られる御言葉によって、そしてそこでなされる祈りへの答えとして、霊的に盲人や足なえである者たちをいやされる。キリストがいるとき、宮に来ることは良い。彼はそれを汚す者たちを追い出すことにおいてその宮の誉れのためにねたむ方としてご自身を示されるように、へりくだって彼を求める者たちに恵み深い方としてご自身を示される。『盲人や足なえ』はダビデの宮殿から閉め出されていた(サム下5:8)。しかし神の家にはいることを許された。というのも、その宮の状態と誉れは、王子たちの宮殿の壮麗さがあると想定される事柄にはないからである。それらにおいて盲人や足なえは距離を保たなければならないが、神の宮からは悪者や不信者だけが。宮はそれが市場とされたとき汚され乱用されたが、病院とされたとき飾られ誉れを受けた。神の家において善を行うことは、そこで金を得ることよりも誉れがあり、それにふさわしい。キリストのいやしは、『この人はだれか』という問いに対する真の答えであった。そのわざは『ホサナ』よりも彼についてあかしした。そして宮における彼のいやしは、『後の家の栄光は前の家の栄光よりも大いなるものとなる』という約束の成就であった。

そこでも彼は、彼につき従う群衆の歓呼に対して祭司長たちと律法学者たちが取ったつまずきを黙らせた(マタ21:15,16)。彼に誉れを与えることに最も進んであるべき者たちが、彼の最悪の敵であった。

  1. 彼らは彼のなさったすばらしいことについて内心苛立った。彼らはそれらが真の奇跡であることを否定できなかった。それゆえそれらに憤りをもって心を刺された(使4:16、5:33)。キリストのなさったわざはすべての人の良心に自らを推薦した。もし彼らが少しでも感覚を持つなら、奇跡であることを認めざるを得なかった。そして少しでも善良さがあるなら、そのあわれみを愛せずにはいられなかった。しかし彼らが彼に反対することを決めたので、これらのために彼をねたみ、恨みを抱いた。

  2. 彼らは公然と子どもたちのホサナに苦情を言った。彼らはこれによって彼に属さない誉れが与えられ、誇示のように見えると考えた。誇り高い者たちは自分たち以外のだれかに誉れが帰されることに耐えられず、価値ある者の正当な称賛以上に何にも不快にならない。このようにサウルは女たちの歌のゆえにダビデをねたんだ。そして『ねたみの前にだれが立ち得ようか』。キリストが最も誉れを受ける時、彼の敵は最も不快になる。

先ほどキリストが盲人や足なえを買い手や売り手よりも優先させたのを見た。今ここで彼が(マタ21:16)祭司たちや律法学者たちに反対して子どもたちの味方をするのを見る。

観察せよ。(1)子どもたちは宮にいた。おそらくそこで遊んでいた。指導者たちがそれを『市場』とするので、子どもたちがそれを遊び場とするのは驚くべきことではない。しかし我々は彼らの多くがそこで礼拝していたことを喜んで望む。御覚え置かれたい。子どもたちを早くから祈りの家に連れて来ることは良い。『天の御国はこのような者たちのものだからである』。子どもたちに信心の形を保つことを教えよ。それは彼らをその力へと導くのに役立つ。キリストはその群れの子羊に優しさを持つ。

(2)彼らはそこで『ダビデの子にホサナ』と叫んでいた。これは成長した者たちから学んだことであった。小さい子どもたちは他の者が言うのを聞き、他の者がするのを見て、言い、する。このように容易く模倣する。それゆえ良い模範を示し、悪い模範を示さないように大いに気をつけなければならない。『子どもに対して最大の敬意が払われるべきである(Maxima debetur puero reverentia)—若い者との交わりは最も慎重な配慮をもって行われるべきである』。子どもたちは彼らと共にいる者たちから、ののしりの言葉や誓いを、あるいは祈りや賛美を学ぶであろう。ユダヤ人は早くから子どもたちに仮庵の祭りで枝を持たせ、『ホサナ』と叫ぶことを教えた。しかし神はここでそれをキリストに適用することを彼らに教えた。御覚え置かれたい。『ダビデの子にホサナ』は小さい子どもたちの口にふさわしい。彼らは若くしてカナンの言葉を学ぶべきである。

(3)我々の主イエスはこれを許しただけでなく、それを非常に喜び、その中に成就した聖書を引用した(詩8:2)。あるいは少なくともそれに適用され得る。『幼子と乳飲み子の口から、あなたは賛美を全うされた』。これは、ある者たちによれば、子どもたちが民の歓呼に加わり、ペリシテ人の虐殺から帰ってきたダビドに帰された女たちの歌に加わったことを指す。それゆえここでダビデの子がサタンの—あのゴリアテの—戦いに入るときに彼に帰されたホサナに非常に適切に適用される。御覚え置かれたい。

[1] キリストは小さい子どもたちの奉仕を恥とするどころか、それらに特に気づき(子どもたちは気づかれることを愛する)、それらを喜ぶ。もし神が乳飲み子によって望みを持たせられる—最善において—なら、成熟といくらかの能力に成長した子どもたちによってはなおさらである。

[2] そのような者たちの口から賛美が全うされる。小さい子どもたちがその賛美に加わることは、神の誉れと栄光に特有の傾向がある。もしかれらがその中に分け前を持たないなら、賛美は欠けた不完全なものと見なされるであろう。これは子どもたちが早くから良くなることへの、そして両親が彼らをそのように教えることへの励ましである。一方の労働も他方の労働も無駄にはならない。詩篇では『あなたは力を備えられた』となっている。御覚え置かれたい。神は『幼子と乳飲み子の口から力を備えることによって』、賛美を全うされる。大いなることが弱くありそうもない器によってもたらされるとき、神はそれによって大いに誉れを受ける。というのも、彼の『力は弱さの中で全うされる』からであり、乳飲み子の弱さは神の力の引き立てとなる。詩篇で続く『それはあなたが敵と復讐する者を静めるためである』は、祭司たちや律法学者たちに非常に適用できた。しかしキリストはそれを彼らに適用せず、彼らに適用するのに任せた。

『最後に』、キリストはこのように彼らを黙らせた後、彼らを見捨てた(マタ21:17)。『彼は彼らを残された』。思慮深く。もしそうしなければ、彼らがその時が来る前に彼を捕えることがないように。正義において。彼らが彼の臨在の恵みを失ったからである。キリストの誉れに不満を述べることによって、我々は彼を我々から追い払う。『彼は彼らを矯正できない者として残し』、『都を出てベタニヤに行かれた』。そこはより静かな隠れた場所であった。それほど『邪魔されずに眠る』ためではなく、『邪魔されずに祈る』ためであった。『ベタニヤはエルサレムからわずか二マイル』であった。そこへ彼は歩いて行かれた。乗るときは『聖書を成就するため』だけであったことを示すために。彼は民のホサナによって高く引き上げられなかった。しかし、それらを忘れたかのように、すぐにその取るに足らない労多い旅のしかたに戻られた。

Matthew 21章 18-22 Matthew Henry's Complete Commentary

The Barren Fig-Tree Cursed

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実を結ばないいちじくの木の呪い

¹⁸ さて朝、都に帰る途中、キリストは空腹を感じられた。 ¹⁹ 道端にいちじくの木があるのを見て、それに近づかれたが、葉のほかには何も見つからなかった。そしてそれに言われた。「今から後いつまでも、お前には実を結ばせないように。」するとすぐに、いちじくの木は枯れた。 ²⁰ 弟子たちはこれを見て驚き、言った。「いちじくの木がこんなに早く枯れたとは!」 ²¹ イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに言います。もし信仰を持って疑わないなら、あなたがたはいちじくの木にされたことをするだけでなく、この山に『移って海に入れ』と言っても、そのとおりになるのです。」 ²² また、祈りのうちに何を求めても信じるなら、すべて受けるでしょう。」

見よ。

一、キリストは*「朝、エルサレムに帰られた」(マタ21:18)。ある者たちは、キリストが偉い人々を恐れて、友人のだれもキリストをもてなすあえてできなかったため、前夜に都を出たと考える。しかしそこでなすべきわざがあったので、帰られた。なお、わたしたちは敵の悪意や友人の不親切によって、義務から追い出されてはならない。この都で「縛鎖と苦難が彼を待っている」ことを知っていても、「これらのもののどれもわたしを動かさない」。パウロは「縛られた霊でエルサレムに行った」*(使徒20:22)時にキリストに従った。

二、「行く途中、空腹を感じられた」。キリストは人であり、自然の弱さに服した。活動的な人であり、わざに専念するあまり食事を疎かにし、断食して出て来た。「神の家の熱心がキリストを食い尽くし」、その*「食物と飲み物は父の御心を行うことであった」*。貧しい人であり、現在の供給を持たなかった。自分を喜ばせない人であり、温かいものを食べるべき時に、青く未熟ないちじくで朝食を取ることを喜んでするはずであった。

キリストはゆえに空腹を感じられた。この奇跡を行う機会を持つためであった。実を結ばないいちじくの木を呪い、枯らすことによって。そこにおいてキリストの正義と力の実例を与えるため。両方とも教訓的。

1. キリストの*「正義」を見よ(マタ21:19)。キリストはそれに近づき、葉があったので実を期待された。しかし見いだせず、永遠の不結果に判決を下された。この奇跡は他の奇跡と同様に意義を持っていた。キリストの奇跡はこれまで人のために働かれ、その恵みと祝福の力を証明した(豚の群れに悪霊を送ったのは許可に過ぎない)。キリストのなさったことはすべて友人の益と慰めのためであり、敵の恐怖や罰のためではなかった。しかしついに、「すべての裁きがキリストに委ねられている」こと、また「救うだけでなく滅ぼす力がある」ことを示すために、キリストはその怒りと呪いの力の標本を与えようとされた。しかしだれの男、女、子でもなく、「キリストの怒りの大いなる日は未だ来ていない」から、無感覚な木の上に。それが例のために示される。「来なさい、いちじくの木からたとえを学べ」(マタ24:32)。その目的はルカ13:6の「いちじくの木のたとえ」*と同じ。

(1.) この実を結ばないいちじくの木の呪いは、一般に偽善者の状態を表す。そして次のことを教える。[1.] 葉を持つ者からいちじくの実が正当に期待され得る。キリストは宗教を告白する者からその力を探す。その外観を持つ者からその恩恵を。果実豊かな丘に植えられたぶどう園からぶどうを。キリストはそれを渇望される。そのたましいは*「初熟の実」を切望する*。[2.] 栄える教授者に対するキリストの正当な期待はしばしば挫折し、失望する。キリストは多くの者のところに来て実を求め、葉しか見いださず、それを見抜かれる。多くの者が生きているという評判でありながら、実は生きていない。信心の形を好みながらその力を否定する。[3.] 不結果の罪は不結果の呪いと災いで正当に罰せられる。「今から後いつまでも、お前には実を結ばせないように。」最初の主要な祝福であり、最初であったものが「実を結べ」であるように、最も悲しい呪いのひとつが「もはや実を結ぶな」である。このように偽善者の罪は彼らの罰となる。彼らは善をしたくなかった。それゆえにできない。実を結ばない者は、実を結ばないままでいさせられ、その誉れと慰めを失う。[4.] 偽りで偽善的な告白は通常この世でしぼみ、それはキリストの呪いの結果である。実のなかったいちじくの木は、すぐに葉を失った。偽善者は一時はもっともらしく見えるかもしれない。しかし原理がなく、*「自分のうちに根を持たない」*ので、その告白はすぐに無に帰する。賜物はしぼみ、共通の恵みは衰え、告白の信頼は下落し沈み、偽装者の偽りと愚かさがすべての人に明らかにされる。

(2.) これは特にユダヤ人の国家と民の状態を表す。彼らは教会としてキリストの道に植えられたいちじくの木であった。さて見よ。[1.] 彼らがわたしたちの主イエスに与えた失望。キリストは彼らの中に来て、ある実、キリストを喜ばせるものを見いだすことを期待された。キリストはそれを渇望された。キリストが*「賜物を望んだ」のではない。必要ではなかった。「良い勘定に満ちる実」を。しかしキリストの期待は挫折した。葉しか見いださなかった。彼らは「アブラハムを父と呼びながら、アブラハムのわざを行わなかった」。約束のメシアの待望者を自称したが、彼が来た時に彼を受け入れもてなさなかった。[2.] キリストが彼らに下した判決。「今から後いつまでも」教会または民として「彼らに、または彼らから実がなることはない」。彼らがキリストを拒んだ後、(信じる特定の者を除いて)彼らから何の良いものも来なかった。彼らはますます悪くなった。盲目と硬化が彼らに及び、成長した。ついに彼らは教会を追われ、民を失い、滅び、その場所と民族は根こそぎにされた。彼らの美しさは損なわれた。彼らの特権と飾り、宮、祭司職、犠牲、祭り、そして彼らの教会と国家のすべての栄光は、秋の葉のように落ちた。彼らが「その血をわたしたちとわたしたちの子孫の上に」*と言った後、彼らのいちじくの木はなんと早くしぼんだことか。そして主はその中で正しかった。

2. キリストの*「力」*を見よ。前者は形象に包まれているが、これはより完全に語られる。キリストはそれによって弟子たちの力の使用を導こうとされた。

(1.) 弟子たちはキリストの呪いの効果に驚嘦した(マタ21:20)。「驚いた」。キリストの力以外にはこれができるものはなかった。「命じられると、そのようになった」。彼らは事の突然さに驚いた。*「いちじくの木がこんなに早く枯れたとは!」*いちじくの木の枯れる目に見える原因はなかった。しかしそれは隠れた突風、根の虫であった。いちじくの木の葉だけでなく、木の体も枯れた。瞬時に枯れ、乾いた棒のようになった。福音の呪いは、このゆえに最も恐ろしい。感覚なく静かに働く。吹かれない火による。しかし効果的に。

(2.) キリストは信仰によって彼らに同じことをする力を与えられた(マタ21:21,22)。言われたように(ヨハネ14:12)、「これよりも大きなわざを行うであろう」。

見よ。[1.] この奇跡を行う信仰の描写。「もし信仰を持って疑わないなら」。なお、神の力と約束を疑うことが信仰の効力と成功を損なう大いなること。「もし信仰を持って、論争しないなら」(ある者はそう読む)。「自分たちと論争せず、神の約束と論争せず。「約束に動揺しないなら」」(ローマ4:20)。わたしたちがそうする限り、信仰が欠けているからである。約束が確かであるように、わたしたちの信仰も確信に満ちるべきである。

[2.] その力と効果が象徴的に表現されている。「この山に言っても」、オリーブ山を意味する、「移れと言えば、そのとおりになる」。この山についてこのように言ったのには、特別の理由があったかもしれない。*「エルサレムの前にあるオリーブ山が真っ二つに裂け、移る」*という預言があったから(ゼカリヤ14:4)。その言葉の意図が何であれ、信仰の期待は同じでなければならない。感覚には不可能に見えても。しかしこれは諺的な表現。神には何も不可能ではないこと、それゆえ神が約束されたことは必ず成し遂げられることを、わたしたちに信じさせる。わたしたちには不可能に見えても。ユダヤ人の間では、学んだラビたちを称えて、彼らは「山を動かす者」、すなわち最大の困難を解決できると言うのが普通であった。今、神の言葉に働きかける信仰によってこれがなされる。それは大いなる奇跡を引き起こす。

[3.] この信仰を働かせ、それによってなすべきことをなす道と手段。「祈りのうちに何を求めても信じるなら、すべて受けるでしょう」。信仰はたましい、祈りは体。両者が共にどんな奉仕にも完全な人を作る。信仰が正しければ、祈りを励ます。祈りが信仰から湧き出なければ正しくない。これが受けるための条件。「祈りにおいて求め、信じなければならない」。祈りの願いは拒まれない。信仰の期待は挫折しない。わたしたちの主イエスの口から多くの約束がある。すべて信仰を励ますため。キリスト者の主要な恵み、そして祈り、主要な義務。求めて受け、信じて受けるに過ぎない。何をさらに望もう。見よ。約束がいかに包括的か。「祈りにおいて求めるすべてのこと」。これは譲渡証書の「すべておよび各々」のよう。一般的に*「すべてのこと」。特に「何を」がそれを個別にもたらす。一般論は個別を含むが、わたしたちの不信仰の愚かさは、一般論に同意すると思っていても、個別になると逃げる。それゆえ「強い慰めを持つために」、こう豊かに表現される。「すべてのこと、何をでも」*。

Matthew 21章 23-27 Matthew Henry's Complete Commentary

Christ Questioned as to His Authority

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権威について問われるキリスト

²³ 宮に入られると、キリストが教えておられる時に、祭司長たちと民の長老たちがやって来て言った。「何の権威によって、あなたはこれらのことをするのか。そして、だれがあなたにこの権威を与えたのか。」 ²⁴ イエスは彼らに答えて言われた。「わたしもあなたがたにひとことを尋ねよう。もしあなたがたがわたしに言うなら、わたしも何の権威によってこれらのことをするのかをあなたがたに言おう。」 ²⁵ ヨハネのバプテスマはどこから来たのか。天からか、人からか。」彼らは互いに論じて言った。「もし『天から』と言えば、彼は『ではなぜ彼を信じなかったのか』と言うだろう。 ²⁶ しかし『人から』と言えば、群衆を恐れる。みながヨハネを預言者とみなしているからである。」 ²⁷ 彼らはイエスに答えて言った。「分かりません。」イエスは彼らに言われた。「わたしも何の権威によってこれらのことをするのかをあなたがたに告げない。」

わたしたちの主イエスは(後にパウロもそうであったが)「大いの論争の中で」福音を宣べ伝えられた。その最初の現れは「十二歳の時、宮の博士たちとの論争」であった。そして死ぬ直前に、論争に従事しておられる。この意味においてキリストはエレミヤのようであった。「争いの人。争わず、争われる」。キリストと大いに争った者たちは、*「祭司長たちと長老たち」*であった。ふたつの異なる法廷の裁判官たち。祭司長たちは教会の法廷で、主のすべての事において(彼らがそう呼ばれるように)主宰した。民の長老たちは世俗の事に関する民事法廷の裁判官であった。歴代第二19:5,8,11に両方の概念を見よ。これらは結合してキリストを攻撃した。彼らがキリストをこのいずれかに対して嫌疑をかけ、または嫌疑をかけさせることができると考えたから。その世代がどれほど悲惨に退廃していたかを見よ。教会と国家の指導者たちが、メシアの御国の大いなる促進者であるべきであったのに、その大いなる反対者であった。ここに彼らがキリストの説教を妨げている様子がある(マタ21:23)。彼らは自らキリストの教えを受けず、他の者にも受けさせなかった。見よ。

一、エルサレムに着くとすぐに、キリストは宮に行かれた。前日にそこで無礼に扱われたにもかかわらず、敵の中に、危険の口の中にいたのに。しかしそこに行かれた。そこがエルサレムのどこよりもたましいに善を行う機会が公平にあったから。空腹で都に来て、実を結ばないいちじくの木で朝食を外されたにもかかわらず、明白には、まっすぐ宮に行かれた。「神の口の言葉」、その説教を*「必要な食物よりも」*尊ぶ者のようで。

二、宮で教えておられた。キリストはそれを*「祈りの家」と呼ばれた(マタ21:13)。しかしここでそこで説教しておられる。なお、キリスト者の荘厳な集会において、祈りと説教は共に進まなければならず、いずれも他を犯したり押し出したりしてはならない。神との交わりを作るには、祈りにおいて神に語るだけでなく、神の言葉によって神がわたしたちに語られることを聞かなければならない。仕える者は「言葉と祈りの両方に自分を与え」なければならない(使徒6:4)。キリストが「宮で教えられた」今、その聖書は成就した(イザヤ2:3)。「主の家に上ろう。彼はその道を教えてくださる」。古の祭司たちはしばしばそこで「主の良き知識」*を教えた。しかしこのような教師を持ったことはなかった。

三、キリストが民を教えておられた時、祭司たちと長老たちがキリストに襲いかかり、その免許証の提示を求めた。サタンの手がこれにあり、キリストのわざを妨げようとした。なお、避けられない論争に従事する必要性によって、平易で実践的な説教から外される、または 気を取られる されることは、忠実な仕える者にとって悩みでないはずがない。しかしこの悪から善がもたらされた。これによってキリストの従者たちのより大きな満足のために、キリストに対して進められた反論を払拭する機会が与えられた。そして敵対者たちがその力によってキリストを黙らせようとした間に、キリストはその知恵によって彼らを黙らせた。

さて、彼らとのこの論争において見よ。

1. キリストが彼らの無礼な要求によってどのように襲われたか。「何の権威によって、あなたはこれらのことをするのか。そして、だれがあなたにこの権威を与えたのか」。彼らがキリストの奇跡と、それを行われた力を十分に考慮していたなら、この問いをする必要はなかった。しかし彼らは頑固な不信仰の避難所のために何か言わなければならなかった。「あなたは勝利のうちにエルサレムに入り、民のホサナを受け、宮において支配し、そこにいる許可を持つ者たちを追い出し、宮の支配者たちから彼らに賃料を払った。あなたはここで新しい教えを説いている。これらすべてをする任命をどこから得たのか。カエサルからか、大祭司からか、神からか。あなたの免許証、信任状を出せ。あなたは自分に過ぎることを取っていないか」。なお、権威を持って行動しようとするすべて者は、自分自身にこの問いをすることは良いこと。*「だれがその権威を与えたのか」*と。人がそれについて自分の良心において明確でなければ、慰めや成功の望みを持って行動できないから。免許証の前に走る者は、祝福なしに走る(エレミヤ23:21,22)。

キリストはしばしばそれを言い、矛盾なく証明し、イスラエルの師であるニコデモも認めた。キリストは*「神から遣わされた教師」であった(ヨハネ3:2)。しかしこの時期に、その点がこれほど十分に明らかにされ確定していたのに、彼らはこの問いを持ってキリストに来る。(1.) 彼ら自身の力の誇示において。祭司長たちや長老たちとしての。それが彼らにこのようにキリストを呼び出して精算する権限を与えたと彼らは考えた。彼らがどれほど高慢に尋ねるか。「だれがあなたにこの権威を与えたのか」。彼らからでないので、彼には権威があり得ないことを示唆して(列王第一22:24、エレミヤ20:1)。なお、権威の最大の乱用者がその最も厳格な主張者であり、権威の行使のように見えるものに誇りと喜びを持つのは普通。(2.) キリストを陥れ、絡ませるためであった。もしキリストがこの問いに答えることを拒むなら、彼らは「何も言わない」*という判決を下す。黙秘として彼を罪定め、彼の沈黙が僭称者の自白であることを民にほのめかす。もし神からの権威を訴えるなら、彼らは以前のように天からのしるしを求め、またはその防衛を罪とし、それについて冒涜で訴える。

2. キリストがこの要求を、彼らが自分たちで答えるのを助けるもうひとつの問いで答えられたか(マタ21:24,25)。「わたしもあなたがたにひとことを尋ねよう」。彼らが不利に取らないように、直接の答えを避けられた。しかし問いで答えられた。「狼の群れの中の羊」のようである者は、「蛇のように賢く」なる必要がある。「知恵ある者の心は答えを研究する」。わたしたちは*「内にいる望みの理由」を与えなければならない。「柔和さとともに、恐れとともに」*(ペテロ第一3:15)。真理が損なわれ、わたしたち自身が危険にさらされないように、慎重に。

さてこの問いはヨハネのバプテスマに関する。ここでバプテスマと同様に説教という、その全務めのために置かれる。「これは天からか、人からか」。ふたつのうちのひとつでなければならない。彼がしたことは彼自身の頭からか、神に遣わされてしたのか。ガマリエルの論証はこの蝶番の上に回った(使徒5:38,39)。「この議会は人からか、神からか」。明らかに悪いものは神からであり得ないが、もっともらしく良いものは人からであり得る。いや、サタンからであり得る。「サタンは光の御使いに変身する時」。この問いは彼らのものを避けるための策略では全くなかった。むしろ、

(1.) 彼らがこの問いに答えるなら、それは彼らのものに答える。彼らが良心に反して、ヨハネのバプテスマは人からだと言うなら、しかし*「ヨハネは奇跡を行わなかった」(ヨハネ10:41)、キリストは多くを行った、と容易に答えられる。しかし彼らが認めざるを得ないように、ヨハネのバプテスマが天からであったと言うなら(ヨハネ1:21の「あなたはエリヤか、その預言者か」*という問いに仮定されたように)、その時彼らの要求は答えられた。彼がキリストに証ししたから。なお、真理は適切な順序で取られる時、最も明るい光に現れる。前の問いの解決は主な問いの鍵となる。

(2.) 彼らが答えることを拒むなら、それは、最も強い有罪宣告に対して頑固に偏見を持つ人にキリストがその権威の証拠を提示しない良い理由となる。豚に真珠を投げるに過ぎない。このようにキリストは*「知恵ある者をその自身の巧みさで捕える」*(コリント第一3:19)。そして最も平易な真理を信じようとしなかった者たちは、最も卑劣な悪意について有罪とされる。まずヨハネに対して、次にキリストに対して、そして両方において神に対して。

3. 彼らがこれによってどのように困惑し、行き詰まったか。彼らは真理を知っていたが、それを認めようとせず、わたしたちの主イエスのために彼らが仕掛けた罠に捕えられた。見よ。

(1.) 彼らが*「互いに論じた」のは、事の功績についてではなく、ヨハネのバプテスマの神聖な起源の証拠が何であるかについてではなく。いや、彼らの配慮は、キリストに対して自分たちの側をいかに良くするかであった。ふたつの事を彼らは考え、相談した。彼らの信用と彼らの安全。「自分たちの事を求める」*者が主に目指す同じこと。

[1.] 彼らは自分たちの信用を考慮した。もしこヨハネのバプテスマが神のものであると認めるなら、それを危うくする。するとキリストはすべての民の前で尋ねる。「ではなぜ彼を信じなかったのか」。そしてある教えが神からであることを認めながら、それを受け入れ、もてなさないことは、人が告発され得る最大の不条理と不義である。真実で良いものを知っていながら、それを無視し反対することを罪の恐れから防がれない多くの者が、恥の恐れから無視し反対するものを真実で良いと認めることを防がれる。このように彼らは*「ヨハネのバプテスマに服さないことで、自分たちに向けられた神の議会を拒み」*、言い訳なく残される。

[2.] 彼らは自分たちの安全を考慮した。もしヨハネのバプテスマが人からだと言うなら、民の憤りに自分たちをさらす。「群衆を恐れる。みながヨハネを預言者とみなしているから」。それでは、*第一に、民は祭司長たちや長老たちよりもヨハネについて真の見解を持っていた。または少なくともその見解を宣言するにおいて自由で忠実であった。彼らが誇りにおいて「律法を知らず、のろわれている」*と言ったこの民は(ヨハネ7:49)、福音を知り、祝福されていたようである。第二に、祭司長たちと長老たちは平民を畏怖していた。それは事が彼らの中で無秩序であることの証拠。相互の嫉妬が非常に高まっていたこと。政府が民の憎しみと軽蔑に嫌疑をかけられるようになり、聖書が成就した。「わたしはあなたがたを軽蔑すべき、卑しい者とした」(マラキ2:8,9)。もし彼らがその誠実を保ち、その義務をしていたなら、その権威を保ち、民を恐れる必要はなかった。時に民が彼らを恐れたことを見いだす。そしてそれが彼らがキリストを告白しない理由として役立った(ヨハネ9:22、12:42)。なお、民を恐れずにはいられなかったのは、いかに民に恐れさせるかを研究した者たち。*第三に、普通、平民の気質でさえも、神聖で神的とみなすものの誉れのために熱心であること。もし彼らが「ヨハネを預言者とみなす」なら、「そのバプテスマは人からであった」*と言われることを忍ばない。ここから最も激しい論争は聖なる事についてであった。*第四に、祭司長たちと長老たちは、自分たちの心の有罪宣告に反して、真理の公の否定から、神の恐れによってではなく、純粋に民の恐れによって防がれた。「人の恐れが」良い人を「罠に」陥れることができる(箴言29:25)ように、時にそれは悪い人が「時ならぬ前に死なないように、あまりに邪悪にならない」*ように保つことができる(伝道7:17)。多くの悪い人は、あえてできれば、現よりもはるかに悪いであろう。

(2.) 彼らがわたしたちの救い主にどのように答えたか。そして問いを落とした。彼らは公正に告白した。「分かりません」。すなわち*「分かりたくない」。ouk oi damen、「決して知らなかった」。民の指導者を自称し、その職務によってそのような事を知ることを求められながら、彼らにとってのより一層の恥。知識を告白しようとしなかった時、無知を告白することを強いられた。そして道端に、彼らが「分かりません」と言った時、嘘をついた。ヨハネのバプテスマが神のものであることを知っていたから。なお、嘘の「恥」よりも「罪」*を恐れる者が多くいる。それゆえ自分の思いと意図、愛情と意図、物事の記憶や忘れについて、自分が偽りであると知ることを語ることを躊躇しない。それらの事においてはだれも反証できないと知っているから。

このようにキリストは彼らが仕掛けた罠を避け、彼らを満足させることを拒否することにおいてご自身を正当化された。「わたしも何の権威によってこれらのことをするのかをあなたがたに告げない」。もし彼らがこれほど邪悪で卑劣で、ヨハネのバプテスマが天からであることを信じず、また告白しないなら(それは悔い改めという大いなる義務を課し、神の御国が近づいたという大いなる約束を封印したのに)、彼らはキリストの権威について語り合うにふさわしくなかった。そのような性質の人は真理に納得させることができず、いやそれによって挑発される以外には。それゆえ*「このように無知な者は、無知なままでいよ」。なお、知っている真理を不義のうちに監禁する者(それを告白しないか、それに従って実践しないかによって)は、彼らが求めるさらに多くの真理を正当に拒否される(ローマ1:18,19)。それを埋めた者から才能を取り上げよ。「見ようとしない者は、見てはならない」*。

Matthew 21章 28-32 Matthew Henry's Complete Commentary

The Parable of the Two Sons

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ふたりの息子のたとえ

²⁸ しかし、あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの息子があった。彼はひとりのところに来て言った。「子よ、きょう、わたしのぶどう園に行って働きなさい。」 ²⁹ 彼は答えて言った。「いやです。」しかしあとで悔いて、行った。 ³⁰ 彼はふたりめのところに来て、同じように言った。彼は答えて言った。「行きます、父よ。」しかしそうはしなかった。 ³¹ ふたりのうち、どちらが父の御心を行ったのか。」彼らは言った。「ひとりめです。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。」 ³² というのは、ヨハネが義の道においてあなたがたのところに来たのに、あなたがたは彼を信じなかった。しかし取税人たちや遊女たちは彼を信じた。それなのにあなたがたは、それを見たのちも悔い改めず、彼を信じようとしなかった。」

キリストは弟子たちをたとえによって教えられた。それは教えをより容易にした。同様に、時に敵対者たちをたとえによって納得させられた。たとえは責めをより近くにもたらし、人が気づかないうちに自分自身を責めるようにする。このようにナタンはダビデをたとえによって納得させ(サムエル第二22:1)、テコアの女も同じように彼を驚かせた(サムエル第二14:2)。責めるたとえは犯者自身への訴えであり、彼らの口から彼らを裁く。これがキリストがここで意図される。最初の言葉(マタ21:28)に現れている。「しかし、あなたがたはどう思うか」

これらの節に、ぶどう園で働くために遣わされた*「ふたりの息子」*のたとえがある。その目的は、ヨハネのバプテスマが神のものであることを知らなかった者たちが、それを知り、認めた取税人たちや遊女たちによってさえ恥じ入らせられることを示すこと。ここに、

一、たとえそのもの。それは二種類の人を表す。約束以上に良くなる者、これらの息子のひとりめによって表される。約束以下に終わる者、ふたつめによって表される。

1. ふたりとも同じひとりの父を持っていた。それは神が全人類の共通の父であることを意味する。すべての者が同様に神から受ける恵み、またすべての者が同様に負う義務がある。「わたしたちは皆、ひとりの父を持つではないか」。そう。しかし人の性格の間には大きな違いがある。

2. ふたりとも同じ命令を与えられた。「子よ、きょう、わたしのぶどう園に行って働きなさい」。親は子どもを怠惰に育ててはならない。若者にとってこれほど喜ばしく、かつこれほど有害なものはない(哀歌3:27)。神は子どもたちに、すべて相続人であっても働くよう定められる。この命令はわたしたち各自に与えられている。なお、(1.) わたしたちが従事するよう召されている宗教のわざは、ぶどう園のわざである。名誉ある、有益な、楽しいわざ。アダムの罪によってわたしたちは共有地で働き、野の草本を食べるために追い出された。しかしわたしたちの主イエスの恵みによって、わたしたちは再びぶどう園で働くよう召される。(2.) ぶどう園で働くという福音の招きは、現在の従順を求める。「子よ、きょう、働きなさい」。今日と呼ばれる今日のうちに。*「だれも働くことのできない夜が来る」から。わたしたちは怠けるために世に遣わされたのではなく、遊ぶために日光を与えられたのでもない。それゆえ、もし神とわたしたちのたましいのために何かをしようと思うなら、なぜ今でないのか。なぜ今日でないのか。(3.) 「きょう、ぶどう園に行って働きなさい」という勧めは、「子どもに対するように」わたしたちに語る(ヘブル12:5)。「子よ、行って働きなさい」。それは父の命令であり、権威と愛情の両方を伴う。子どもをあわれみ、その体を考慮し、過度に負わせない父(詩篇103:13,14)。「仕えるわが子を大切にする」*父(マラキ3:17)。もし父のぶどう園で働くなら、自分自身のために働く。

3. 彼らの行いは非常に異なっていた。

(1.) ひとりの息子は語ったより良くし、約束したより良く証明した。その答えは悪かったが、その行いは良かった。

[1.] ここに父に与えた不届きな答えがある。彼はきっぱりと*「いやです」と言った。人の腐敗した本性が、父の命令に、「いやです」と言うまでに、どれほど無恥に及ぶかを見よ。そのような父の、そのような命令に。彼らは無恥の子ども、強情な心。曲がらない者は確かに赤面できない。もしわずかでも謙そんが残っていれば、「わたしはいやだ」*とは言えないはず(エレミヤ2:25)。言い訳は悪いが、きっぱりとした拒否はさらに悪い。しかしそのような断固とした拒否に、福音の招きはしばしば会う。*第一に、*ある者は安らぎを愛し、働かない。彼らはこの世にレビヤタンのように、水の中で遊ぶために住みたい(詩篇104:26)。働くことを愛さない。第二に、彼らの心は自分の畑にありすぎて、神のぶどう園で働くのを好まない。彼らは宗教のわざよりも世のわざを愛する。このようにある者は感覚の喜びによって、他の者は世の仕事によって、世に遣わされた大いなるわざをすることが妨げられ、「一日中何もしないで立つ」。

[2.] ここに再考の上での思いと道の幸いな変化がある。「あとで悔いて、行った」。なお、初めは邪悪で強情で、非常に約束に乏しく、後に悔い改めて改め、何かに至る者が多くいる。神が選ばれたある者は、長い間大いなる乱暴の走りに走ることを許される。「あなたがたの中のこういう者たちがいた」(コリント第一6:11)。これらは*「寛容の模範」として示される(テモテ第一1:16)。「あとで悔いた」。悔い改めは metanoia、「後知恵」であり、metameleia、「後配慮」である。遅くとも決してよりは良い。見よ。悔いた時、彼は行った。それが「悔い改めにふさわしい実」であった。以前の抵抗の悔い改めの唯一の証拠は、すぐに従い、働きにかかること。その時、過ぎたことは赦され、すべては良くなる。何と優しい父である神を見よ。神は、正しくできるように、わたしたちの拒絶の無礼を恨まれない。父に向かって、「いやだ」と顔で言った者は、戸外に追い出され、相続権を剥奪されるに値した。しかしわたしたちの神は「恵み深くあられるために待ち」*、わたしたちの以前の愚かさにもかかわらず、悔い改めて改めるなら、恵み深く受け入れる。神がほむべきかな、わたしたちはそのような悔い改めの余地を残す契約の下にある。

(2.) ふたつめの息子は語ったより悪くし、約束したより悪く証明した。その答えは良かったが、行いは悪かった。父は彼に*「同じように言った」*(マタ21:30)。福音の招きは非常に異なるが、効果においてすべてに同じであり、平らな調子で進む。わたしたちは皆同じ命令、契約、励ましを持つ。ある者にはいのちにはえるいのちの香り、他の者には死にはえる死の香りであっても。見よ。

[1.] このもうひとりの息子がどのように公正に約束したか。「彼は言った、『行きます、父よ』」。彼は父に尊敬の称号を与える。「父よ」。なお、子どもは親に敬意を持って語るべきである。それは第五戒が求める尊敬のひとつの枝。彼は従順の用意を告白する。「行きます」。「あとで行く」ではなく、「用意しました、父よ。頼んでください。すぐに行きます」。この答えを、神の言葉のすべての招きと命令に心から与えるべき。エレミヤ3:22、詩篇27:8を見よ。

[2.] 彼が実行においてどのように失敗したか。「行かなかった」。なお、宗教において良い言葉を与え、もっともらしい約束をする者が多くいる。一時の良い動機からも。しかし彼らはそこに留まり、それ以上進まず、無に帰する。言うことと為すことは別である。語って為さない者が多くいる。特にパリサイ人たちに告発される(マタ23:3)。多くの者が口で大いなる愛を示すが、心は別の方向へ行く。彼らは宗教的になりたい良い思いを持った。しかし為されるには難しすぎる何かに、手放すには親愛すぎる何かに出会い、その目的は無目的に終わる。芽と花は実ではない。

二、たとえに基づく一般的な訴え。「ふたりのうち、どちらが父の御心を行ったのか」(マタ21:31)。ふたりとも欠点があった。ひとりは無礼、もうひとりは偽りであった。親は子どもの異なる気質において、このような多様な試みを時として持ち、それらを管理する最善の道を知るために多くの知恵と恵みを必要とする。しかし問いは、ふたりのうちどちらが良く、欠点が少なかったか。それはすぐに解決された。ひとりめ。その行いが言葉より良く、終わりが始まりより良かったから。これは彼らが人類の共通の感覚から学んだ。言葉以上の者をする者と取引する方が、言葉に不誠実な者と取引するよりもはるかに好ましい。そしてその意図において、神がその裁きの規則について与える説明から学んだ(エゼキエル18:21-24)。*「罪人がその悪から離れるなら」赦され、「義人がその義から離れるなら」拒絶される。聖書全体の調子は、「父の御心を行う」*者として受け入れられるのは、それに欠けていた点において悲しみ、より良くする者であると理解させる。

三、手元の事柄への特別な適用(マタ21:31,32)。たとえの第一の目的は、メシアとその御国について語ったことのない取税人たちや遊女たちが、メシアへの期待に満ち、その方策に進んで入るように見えた祭司や長老たちが、その先駆者バプテスマのヨハネの教えを退け、その務めの設計に反して走った時に、ヨハネの教えを受け入れ、その訓練に服したことを示すこと。しかしそれはさらに及ぶ。異邦人は*「時に不従順で」あり、長くそうであった。不従順の子ども、年上の息子のように(テトス3:3,4)。しかし福音が宣べ伝えられると、彼らは信仰に従順になった。一方ユダヤ人は「行きます、父よ」*と言い、もっともらしく約束した(出エジプト24:7、ヨシュア24:24)。しかし行かなかった。彼らは口で神をへつらったに過ぎない(詩篇78:36)。

キリストのこのたとえの適用において見よ。

1. キリストがヨハネのバプテスマが*「天からであって、人からでない」ことをどのように証明されるか。「もし『分からない』と言うなら」とキリストは言う、「言えるかもしれない」*。

(1.) その務めの範囲によって。「ヨハネは義の道においてあなたがたのところに来た」。ヨハネが天からその任務を持ったかを知りたいなら、試みの規則を思い出せ。「その実によって彼らを知ろう」。その教えの実、その行いの実。その道を観察するだけで、その起こりも傾向もたどることができる。さて、ヨハネが*「義の道において」来たことは明らかであった。その務めにおいて、彼は人々に悔い改め、義のわざを働くよう教えた。その生活において、彼は厳格さ、真剣さ、世の軽蔑の大いなる模範であり、自分を否定し、他のすべての人に善を行った。キリストはゆえにヨハネのバプテスマに服した。それが「すべての義を全うすること」*がふさわしかったから。さて、もしヨハネがこのように義の道に来たなら、彼らはそのバプテスマが天からであることを知らない、または疑うことができたか。

(2.) その務めの成功によって。「取税人たちや遊女たちは彼を信じた」。彼は最悪の種類の人々の間で豊かな善を行った。パウロはその務めの印によって使徒職を証明する(コリント第一9:2)。もし神がバプテスマのヨハネを遣わさなかったなら、そのような素晴らしい成功をもってその労苦に冠を与えず、たましいの回心のために彼をそのように役立つ者とはされなかったであろう。もし取税人たちや遊女たちが彼の報告を信じるなら、確かに主の腕は彼と共にある。民の益は仕える者の最良の証明書である。

2. キリストが、ヨハネのバプテスマの軽視について彼らをいかに責められるか。しかしそれは民を恐れて、彼らは認めることを望まなかった。それについて彼らを恥じ入らせるため、キリストは取税人たちや遊女たちの信仰、悔い改め、従順を彼らの前に置かれる。それは彼らの不信仰と不悔改を加重した。マタ11:21で、より可能性の低い者が悔い改めたであろうと示されたように、ここではより可能性の低い者が悔い改めた。

(1.) 取税人たちや遊女たちは、たとえのひとりめの息子のようであった。宗教からほとんど期待されなかった者。彼らはほとんど良いことを約束せず、彼らを知る者も彼らからほとんど良いことを期待しなかった。その性質は一般に粗野で、その交わりは放蕩で堕落していた。しかしその多くは、エリアの霊と力によって来たヨハネの務めによって働きかけられた。ルカ7:29を見よ。これらは異邦人の世界を適切に表す。ウィトビー博士が観察するように、ユダヤ人は一般に取税人たちを異邦人と同列にした。いや、異邦人はユダヤ人によって遊女、遊女から生まれた者として表された(ヨハネ8:41)。

(2.) 律法学者たちやパリサイ人たち、祭司長たちや長老たち、そして実に一般にユダヤ民族は、良い言葉を与えたもうひとりの息子のようであった。彼らは宗教のもっともらしい告白をした。しかしメシアの御国がヨハネのバプテスマによって彼らの間にもたらされた時、彼らはそれを軽んじ、背を向け、いやそれに*「かかとを上げた」。偽善者は、おおっぴらな罪人よりも説得し改心させることが難しい。信心の形が、それに依り頼まれるなら、サタンの要塞のひとつとなり、彼はそれによって信心の力に対抗する。彼らの不信仰の加重であった。[1.] ヨハネがそのような優れた人物であり、「義の道において」*来て、彼らのところに来たこと。手段が良ければ良いほど、活かされない場合、勘定は大きくなる。[2.] 取税人たちや遊女たちが自分たちより先に天の御国に入るのを見た時に、彼らはその後に悔い改めて信じなかった。聖なる競争心に駆り立てられなかった(ローマ11:14)。取税人たちや遊女たちが恵みと栄光を持って去る。わたしたちは分け前を求めないのか。わたしたちの下位の者がわたしたちよりも聖く、幸せであってよいのか。彼らはエサウが持っていた知恵と恵みを持たなかった。エサウは弟の模範によって、以前とは異なる方策を取るように動かされた(創世28:6)。指導者を気取るこれらの誇り高き祭司たちは、たとえ天の御国に入ることであっても、従うことを軽蔑した。特に取税人たちに従うことを。その顔の高ぶりによって、彼らは神を、キリストを求めなかった(詩篇10:4)。

Matthew 21章 33-46 Matthew Henry's Complete Commentary

The Parable of the Wicked Husbandmen

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悪い農夫のたとえ

³³ もうひとつのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいて、ぶどう園を植え、垣根を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、遠くの国に出かけた。 ³⁴ 実の季節が近づいた時、彼はその農夫たちのところにしもべたちを遣わして、その実を受け取ろうとした。 ³⁵ すると農夫たちはそのしもべたちを捕え、ひとりを打ち、ひとりを殺し、ひとりを石で打った。 ³⁶ 再び最初よりも多くのしもべたちを遣わしたが、彼らも同じようにした。 ³⁷ しかし最後に、彼らのところに息子を遣わして言った。「彼らはわたしの息子を敬うであろう。」 ³⁸ しかし農夫たちはその息子を見て、互いに言った。「これは相続人だ。さあ、これを殺して、その嗣業を奪い取ろう。」 ³⁹ そして彼を捕えて、ぶどう園の外に追い出し、殺した。 ⁴⁰ それでぶどう園の主人が来た時、その農夫たちに何をするだろうか。」 ⁴¹ 彼らは言った。「その悪人どもをみじめに滅ぼし、ぶどう園を、季節に応じてその実を納めるほかの農夫たちに貸すであろう。」 ⁴² イエスは彼らに言われた。「あなたがたは聖書で読んだことがないのか。『家を建てる者たちが退けた石が、隅の首石になった。これは主のわざであり、わたしたちの目には不思議である』と。」 ⁴³ それゆえ、わたしはあなたがたに言う。神の国はあなたがたから取り去られ、その実を結ぶ国民に与えられるであろう。」 ⁴⁴ この石の上に落ちる者は打ち砕かれる。しかしこの石がその上に落ちる者は、粉々にされるであろう。」 ⁴⁵ 祭司長たちとパリサイ人たちがこのたとえを聞いた時、キリストが自分たちのことを語っておられると悟った。 ⁴⁶ しかし彼らがキリストを捕えようとした時、群衆を恐れた。彼らがキリストを預言者とみなしていたからである。

このたとえは、ユダヤ民族の罪と滅びを平明に示す。彼らとその指導者たちがここでは農夫である。そして彼らへの有罪宣告のために語られることは、目に見える教会の特権を楽しむすべて者への警告のために語られる。高ぶらず、恐れるために。

一、ここに、農夫へのぶどう園の貸し出しによって表されたユダヤ教会の特権がある。彼らは偉大な家の主人である神から、これによって、これを通じて、これの下に所有する借地人であった。見よ。

1. 神がどのように世にご自身のための教会を確立されたか。地上の神の御国はここでぶどう園に比べられる。有利な管理と改善に必要なすべてのものを備えた。(1.) 神はこのぶどう園を植えられた。教会は*「主の植え」である(イザヤ61:3)。教会の形成は、それ自体のわざであり、ぶどう園の植え付けのような、多大の費用と配慮を必要とする。それは「神の右手の植えられたぶどう園」(詩篇80:15)、「最上のぶどうの木」で植えられ(イザヤ5:2)、「すぐれたぶどうの木」(エレミヤ2:21)。地はおのずととげと茨を産するが、ぶどうは植えられなければならない。教会の存在は神の区別的な恵みによる。ある者にご自身を現し、他の者には現されない。(2.) 神はその周りに垣根を巡らされた。なお、世にある神の教会は特別な保護の下に取られる。それは「周りの垣根」、ヨブの周りにあったような(ヨブ1:10)、火の壁(ゼカリヤ2:5)。神が教会を持つところはどこでも、それは神の特別な配慮であり、常にそうである。割礼の契約と儀式的律法はユダヤ教会の周りの垣根、または隔ての壁であった。それはキリストによって取り下げられる。しかしキリストは福音の秩序と規律をご自身の教会の垣根として定められる。神はご自身のぶどう園が共有地に置かれ、外の者が思いのまま入り込むことを許されない。また広く置かれ、内の者が思いのまま打ちのめすことを許されない。この聖なる山に境界が設けられる。(3.) 神は「酒ぶねを掘り、やぐらを建てた」*。燔祭の祭壇が酒ぶねであり、すべての供え物がそこに持って来られた。神は教会に定めを設けられ、その適切な監督と、その実りの促進のために。何がなされて、あらゆる点で便利にできたか。

2. 神がこれらの目に見える教会の特権をユダヤの民族と民、特にその祭司長たちや長老たちにどのように託されたか。神は彼らに農夫として貸し出された。地主が借地人を必要とするように彼らを必要とされたからではなく、彼らを試み、彼らによって栄えられるためであった。ユダにおいて神が知られ、その名が大いなるものとされた時、彼らが神*「の民、名、誉れ」として取られた時(エレミヤ13:11)、「神がヤコブに御言葉を啓示された」時(詩篇147:19)、「いのちと平安の契約」がレビと結ばれた時(マラキ2:4,5)、その時このぶどう園は貸し出された。賃貸借の要約を見よ(雅歌8:11,12)。ぶどう園の主は「千銀のもの」を持つ(イザヤ7:13を比較)。主な利益は彼のもの。しかし守る者たちは二百を持つ。十分で慰めとなる励まし。そして「遠い国に出かけた」*。神がシナイ山で目に見える現れにおいてユダヤ教会を定められた時、神はある意味で退かれた。彼らはもはやそのような公の啓示を持たず、書かれた言葉に委ねられた。または、彼らは神が遠い国に出かけたと想像した。イスラエルが子牛を造った時、モーセが去ったと想像したように。彼らは悪の日を遠ざけた。

二、これらの農夫からの賃料に対する神の期待(マタ21:34)。それは合理的な期待であった。「ぶどう園を植えて、その実を食べない者があろうか」。なお、教会の特権を楽しむ者から、仕える者も民も、神はそれに応じた実を探される。1. 神の期待は急ぎでなかった。神は前貸しの賃料を要求されなかった。そのために多くの費用をかけたのに。*「実の季節が近づく」まで待たれた。ヨハネが「天の御国が近づいた」と宣べた今。神は恵み深くあられるために待ち、時間を与えられる。2. 期待は高くなかった。神は彼らに、遅れれば賃貸を没収するという危険のもとで来ることを要求されなかった。むしろ「しもべたちを彼らに」遣わされた。その義務と賃料の日を思い出させ、実の収穫とその返却を助けるために。これらのしもべたちは旧約の預言者たちであった。ユダヤの民に遣わされ、時に直接、彼らを責め、教えるために。3. 期待は厳しくなかった。ただ「実を受け取る」*ことであった。神は彼らが作り得る以上を要求されず、神ご自身が植えられたものの実を、ある実を、与えられた律法と定めの遵守を。何がより合理的であり得たか。イスラエルは空のぶどうの木であった。いや、それは異なるぶどうの木の退化した植物となり、野ぶどうを実らせた。

三、遣わされた使者を虐待した農夫の卑劣さ。

1. 神がしもべたちを遣わされた時、彼らは彼らを虐待した。彼らが主人ご自身を代表し、その名において語ったのに。なお、言葉の招きと責めは、人を従事させなければ、怒らせるに過ぎない。ここに神の忠実な使者たちのさばきが、程度の差はあれ、ずっと何であったかを見よ。(1.) 苦しむこと。「彼らは預言者たちを迫害した」。残酷な憎しみで憎まれた。彼らは彼らを軽蔑し、責めるだけでなく、最悪の犯罪者として扱った。打ち、殺し、石で打った。彼らはエレミヤを打ち、イザヤを殺し、エホイダの子ゼカリヤを宮で石で打った。*「キリスト・イエスにあって敬虔に生きる者」自身が「迫害を受ける」なら、他者にそれを促す者はなおさらである。これはユダヤ人との神の古い争いであった。預言者たちを虐待した(歴代第二36:16)。(2.) それは主人自身の借地人から苦しむことであった。彼らをこのように扱ったのは農夫たちであった。「モーセの座に座っていた」祭司長たちや長老たち。宗教と神との関係を告白した者たち。これらが主の預言者たちの最も苦い敵であった。彼らを追い出し、殺し、「主が栄えられるように」*と言った(イザヤ66:5)。エレミヤ20:1,2、26:11を見よ。

さて見よ。[1.] 神がどのように彼らへの善意において忍耐したか。神は最初よりも多くの他のしもべたちを遣わされた。最初の者が上手くいかず、虐待されたのに。神はバプテスマのヨハネを遣わされたが、彼らは彼を斬首した。それでも神は弟子たちを遣わされた。道を備えるために。おお、軽蔑され、迫害される務めを教会に維持する神の忍耐と寛容の富よ。[2.] 彼らが悪においてどのように固執したか。「彼らも同じようにした」。ひとつの罪は同種の別の罪に道を作る。聖徒の血に酔った者は、渇きに酩酊を加え、なお「与えよ、与えよ」と叫ぶ。

2. ついに神は彼らに息子を遣わされた。しもべたちの派遣において神の善意を、彼らの虐待においてその悪意を見た。しかしこの最後の実例において、両者は自分自身をしのぐ。

(1.) 「息子を遣わす」においてこれほど恵みが恵み深く現れたことはなかった。これは「最後に」なされた。なお、すべての預言者はキリストの先駆者であった。キリストは最後に遣わされた。もし他の何ものも彼らに働きかけないなら、確かにこれは働くであろう。それゆえこれは ratio ultima、最後の手段のために取っておかれた。「確かに彼らはわたしの息子を敬うであろう。ゆえにわたしは彼を遣わそう」。なお、神の子がご自身のところに来た時、敬われることが合理的に期待され得た。キリストへの敬意は、神の栄光への実りと従順の強力で有効な原理となるはずであった。もし彼らがただ息子を敬うなら、目的は達せられる。「確かに彼らはわたしの息子を敬うであろう」。というのは、息子はしもべたち以上の権威を持って来る。裁きは彼に委ねられ、*「すべての人が彼を尊ぶため」*である。モーセの律法を軽んじるよりも、彼を拒ねることにより大きな危険がある。

(2.) 彼を虐待することにおいて、これほど罪が罪深く現れたことはなかった。これが二、三日のうちになされようとしていた。見よ。

[1.] それがどのように企まれたか(マタ21:38)。「彼らは息子を見た時」。彼が来た時。民がメシアとして認め、従った者が。賃料を払うか、またはそのために差し押さえる者が。これは彼らの永代借地権に触れた。彼らはそれのためにひとつの大胆な押しをし、このイエスを除くことによって自分たちの富と偉大さを保つと決心した。彼はそれの唯一の妨げ、彼らの競争相手であった。「これは相続人だ。さあ、これを殺そう」。ピラトとヘロデ、この世の君たちは*「知らなかった」。「もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけなかったであろう」(コリント第一2:8)。しかし「祭司長たちや長老たち」は、「これが相続人である」ことを知っていた。少なくとも彼らの一部は。それゆえ「さあ、これを殺そう」。多くの者が彼らの持っているもののために殺される。彼らが彼をねたみ、憎み、恐めた主なことは、民における彼の影響力と、彼らのホサナであった。もし彼が除かれれば、彼らはそれを自分たちに安全に独占できると望んだ。彼らは、民をローマ人から救うために彼は死ななければならないと偽った(ヨハネ11:50)。しかし実際には、彼らの偽善と暴政を、メシアの期待される御国が確かに伴う改革から救うために、彼は死ななければならなかった。彼は宮から買い手と売り手を追い出した。それゆえ「さあ、これを殺そう」。そしてあたかも所有物は当然占有者に行くかのように、「その嗣業を奪い取ろう」。彼らは、このイエスを取り除くことができれば、教会において妨げられずにすべてを運び、好きな伝統を押し付け、民に好きな服従を強いることができると考えた。このように彼らは「主とその油注がれた者に対して計る」。しかし「天に座しておられる方」は、彼らが「自分の弓で射抜かれる」*のを見て笑われる。彼らが彼を殺し、そのようにしてその嗣業を奪おうとした時に、彼は十字架を通って冠に向かい、彼らは鉄の杖で打ち砕かれ、その嗣業は奪われた(詩篇2:2,3,6,9)。

[2.] この企みがどのように実行されたか(マタ21:39)。彼らが自分たちの華やかさと力を確保するという企みに従って彼を殺すことにこれほど固執し、彼がサタンを征服し、選ばれた者を救うという企みに従って死ぬことにこれほど固執した時、彼の時が来た時に彼らがすぐに*「彼を捕え、殺した」のは不思議でない。ローマの権力が彼を罪定めたが、それでも祭司長たちと長老たちに帰せられる。彼らは訴追者だけでなく、主要な実行者であり、「より大いなる罪」を持っていた。「あなたがたが取った」(使徒2:23)。いや、彼らは彼が生きるに値しないと見なし、彼らが生きていてほしくないように、「彼らは彼をぶどう園の外に追い出した」。聖なる教会から、彼らが鍵を持っていると思っていたところから。また聖なる都から。彼は「門の外で十字架につけられた」から(ヘブル13:12)。あたかも「彼」*が恥と非難であったかのように。彼こそがその民イスラエルの最大の栄光であったのに。このようにしもべたちを迫害した者たちは、子をも迫害した。人が神のしもべたちを扱うように、彼らはキリストご自身を扱うであろう。もしキリストが彼らと共にいたなら。

四、ここに彼ら自身の口から読まれた判決がある(マタ21:40,41)。キリストは彼らに問う。「ぶどう園の主人が来た時、その農夫たちに何をするだろうか」。彼ら自身に問う。彼らがより強く有罪とされるために。「このような事を行う者たちに対する神の裁きを知りながら」、彼らがより言い訳ができないため。なお、神のなさることは非の打ち所がなく、罪人自身にその公正について訴えるだけでよい。神は*「語られる時に義とされる」。彼らは容易に答えることができた。「その悪人どもをみじめに滅ぼすであろう」*。なお、他者の罪の悲惨な結果を容易に予測できる者が多くいるが、自分自身の終わりを見ない。

1. わたしたちの救い主はその問いにおいて、「ぶどう園の主が来て」、彼らと精算すると仮定される。神はぶどう園の主。財産は神のもの。神は彼らにそれを知らされる。今*「神の嗣業の上に主として」振る舞う者たちに。あたかもそれがすべて自分たちのもののように。ぶどう園の主は来る。迫害者たちは心の中で言う。彼は「来るのを遅らせる」、彼は「見ない」、彼は「要求しない」。しかし彼らは、彼が彼らを長く耐えても、常に耐えるわけではないことを見いだす。虐待された聖徒たちと仕える者たちの慰めは、「主は近い」、「裁き主が戸の前に立っておられる」。来られる時、肉的な教授者たちに何をされるか。残酷な迫害者たちに何をされるか。彼らは精算に呼ばれなければならない。彼らには今の日がある。しかし彼は「自分の日が来るのを見ておられる」*。

2. 彼らはその答えにおいて、恐ろしい精算になると仮定する。罪が非常に黒く現れるので、確かなことは、

(1.) 神は*「その悪人どもをみじめに滅ぼす」*。滅びが彼らの判決。Kakous kakos apolesei、Malos male perdet。人は悪を行って良く扱われることを決して期待してはならない。これはローマ人によってもたらされたあのみじめな破壊においてユダヤ人に成就した。これの約四十後に完成した。並外れた滅亡で、最も悲惨な加重事情を伴う。彼らの邪悪の歩みを踏むすべての者に成就する。地獄は永遠の滅び。教会の特権の最も大きな分け前を楽しみ、それを活かさなかった者たちにとって、すべての中で最もみじめな滅びとなる。地獄の最も熱い場所は偽善者と迫害者の分け前。

(2.) 神は*「ぶどう園をほかの農夫たちに貸す」。なお、神はその特権を濫用する多く者の不価値と反対にもかかわらず、世に教会を持たれる。人の不信仰と強情は神の言葉を無効にしない。ある者がしなければ、別の者がする。ユダヤ人の残りは異邦人の祝宴であった。迫害者はしもべたちを滅ぼすことはできるが、教会を滅ぼすことはできない。ユダヤ人は「彼らこそ民である」、知恵と聖性は「彼らと共に死ななければならない」*と想像した。もし彼らが切り取られれば、神は世の教会のために何をされるのか。しかし神が名を支えさせるために誰かを用いられる時、それは神が彼らを必要とするからではない。神は彼らに全く借りていない。わたしたちが荒廃と驚きにされたとしても、神はわたしたちの廃墟の上に栄える教会を建てることができる。神はその大いなる名のために何をなすか、決して途方に暮れない。わたしたちやわたしたちの場所や民族がどうなろうとも。

五、キリストご自身による、さらに詳しい説明と適用。彼らが正しく裁いたことを事実上告げて。

1. キリストはこれにおいて成就した聖書に言及して説明される(マタ21:42)。「聖書で読んだことがないのか」。そう、疑いなく、彼らはそれをしばしば読み、歌ったが、考えなかった。わたしたちは熟考を欠くために読むものの益を失う。キリストが引用する聖書は詩篇118:22,23。子どもたちがホサナを取ったのと同じ文脈。同じ言葉がキリストの友と従者に賛美と慰めの材料を与え、敵には有罪宣告と恐怖を語る。そのような両刃の剣が神の言葉。その聖書、*「家を建てる者たちが退けた石が、隅の首石になった」*は、前のたとえ、特にキリストに関する部分を説明する。

(1.) 家を建てる者たちの石の拒絶は、遣わされた息子の農夫たちの虐待と同じ。祭司長たちと長老たちは家を建てる者たちであり、神の建物であるユダヤ教会の監督を持っていた。そして彼らはその建物にキリストの場を与えず、その教えや律法をその構成に受け入れなかった。彼らはキリストを軽蔑された壊れた器、踏み石として役立つ石として投げ捨てた。踏みつけられるために。

(2.) この石の隅の首石への昇格は、「ぶどう園をほかの農夫たちに貸す」と同じ。ユダヤ人に拒絶された方は異邦人に受け入れられた。そして割礼や無割礼の区別のない教会において、「キリストがすべてであり、すべてのうちにあります」。福音教会に対するキリストの権威と影響、頭として治め、隅石として結び合わせることは、その高挙の大いなるしるし。このように、祭司たちと長老たちの悪意にもかかわらず、キリストは*「大いなる者と分け前を分け」、「御国を受けた」*。彼らがキリストに彼らの上に王として治めることを望まなかったのに。

(3.) 神の手がこれすべてにあった。「これは主のわざである」。ユダヤの家建てる者たちによる拒絶でさえ、神の定めた議会と予知による。神はそれを許し、摂理された。ましてその首の隅への昇格は。神の右と聖なる御腕がそれをもたらした。神ご自身が彼を*「大いに高く」し、「すべての名の上の名を与えた」。「わたしたちの目には不思議である」。彼を拒んだユダヤ人の邪悪は不思議。人が自分の利益にこれほど偏見を持つとは!イザヤ29:9,10,14を見よ。異邦人の世界によって彼になされた誉れは、その民による虐待にもかかわらず、不思議。人が軽蔑し憎んだ方が、王たちによって拝されるとは!イザヤ49:7。しかし「それは主のわざである」*。

2. キリストはそれを彼らに適用される。適用は説教のいのち。

(1.) キリストは彼らが下した判決を適用し(マタ21:41)、それを彼ら自身に向ける。農夫たちのみじめな滅びに関する前の部分ではなく(それは語るに耐えなかった)、*「ぶどう園を他の者に貸す」*の後の部分。なぜなら、それはユダヤ人には黒く見えたが、異邦人には良いことを語ったから。知れ。

[1.] ユダヤ人は教会を追われる。「神の国はあなたがたから取り去られる」。農夫たちの追い出しは、ぶどう園を解体し、共有地に置くのと同じ判決を語る(イザヤ5:5)。ユダヤ人には長く*「子とされたことと栄光」(ローマ9:4)が属していた。彼らに「神の言葉」*(ローマ3:2)と啓示された宗教の神聖な信託と、世における神の名を支えることが委ねられていた(詩篇76:1,2)。しかしもはやそうではない。彼らはその特権の使用において不結果であっただけでなく、その口実の下にキリストの福音に反対し、それゆえそれを没収した。そして没収が取られるまで長くなかった。なお、神は特権からだけでなく、それによって罪を犯す者から教会の特権を取り除くのは、神にとって義しいこと(黙示2:4,5)。神の国はユダヤ人から取り去られた。彼らに临した時間的裁きによってだけでなく、彼らがその下にあった霊的裁き、心の盲目、心のかたくなさ、福音への憤りによって(ローマ11:8-10、テサロニケ第一2:15)。

[2.] 異邦人が入れられる。神は世に教会を持つかどうかをわたしたちに許可を求める必要はない。そのぶどうの木がひとつの場所で引き抜かれても、神はそれを植える別の場所を見いだされる。神はそれを ethnei、異邦人の世界に与えられる。*「その実を結ぶ」者。民でなかった者、あわれみを得なかった者が、天のお気に入りとなった。これが祝福されたパウロがこれほど心を動かされた奥義(ローマ11:30,33)。そしてユダヤ人がこれほど侮辱された奥義(使徒22:21,22)。イスラエルがカナンに最初に植えられた時、「異邦人の倒れはイスラエルの富」であった(詩篇135:10,11)。同様に彼らの根絶において、イスラエルの倒れは異邦人の富であった(ローマ11:12)。それは「その実を結ぶ国民」に行く。なお、キリストは福音の手段の使用において福音の実を結ぶ者を前もって知っておられる。わたしたちの実りはすべてキリストご自身の手的わざであり、「神にそのすべてのわざは知られている」*から。彼らはユダヤ人がしたよりも良い実を結ぶであろう。神は旧約の教会よりも新約の教会からより多くの栄光を得られた。神が変えられる時、それは神の損失にはならない。

(2.) キリストは引用した聖書を適用する(マタ21:42)。彼らの恐怖のために(マタ21:44)。家を建てる者たちが拒絶したこの*「石」は、「イスラエルの多くの者の倒れのために」*置かれる。ここに、キリストがその倒れのために置かれることを証明する二種類の人の判決がある。

[1.] ある者は無知によって、へりくだりの状態のキリストにつまずく。この石が家建てる者たちが投げた地に横たわる時、彼らはその盲目と不注意によってその上に落ち、その上を越えて落ち、「打ち砕かれる」。彼らがキリストに取るつまずきは、キリストを傷つけない。つまずく者がつまずく石を傷つけないように。しかし自分自身を傷つける。彼らは倒れ、打ち砕かれ、捕えられる(イザヤ8:14、ペテロ第一2:7,8)。罪人の不信仰は彼らの滅びとなる。

[2.] 他の者は悪意によってキリストに反対し、高挙の状態のキリストに挑戦状を送る。この石が首の隅に昇格する時。そしてその上に*「それは落ちる」。彼らが自分の頭にそれを引くから。ユダヤ人が「その血をわたしたちとわたしたちの子孫の上に」という挑戦によってしたように。そして「粉々にされる」。前者はすべての不信仰者の罪と滅びを語るようである。これは迫害者たちの、「突き刺す鋭く」反対して固執する者の、より大いなる罪とより重い滅び。キリストの御国は、それを覆そう、またはその場所から押し出そうと企てるすべての者にとって、重荷となる石。ゼカリヤ12:3を見よ。手によらずに山から切り出されたこの石は、すべての反対する力を打ち砕く(ダニエル2:34,35)。ある者はこれをユダヤ人の石打ちの死の方法への暗示とみなす。犯罪者はまず高い足場から大いなる石の上に激しく投げ落とされ、大いに傷つけられる。しかしその後彼らは別の大いなる石を彼らの上に投げ、それが彼らを粉々に砕く。いずれにせよ、キリストはキリストに敵対して戦うすべての者を完全に滅ぼす。もしこつの石に落ちることによって滅ぼされないほど強情であっても、それは彼らの上に落ち、彼らを滅ぼす。キリストは「王たちを突き刺し」、「場所を死体で満たす」*(詩篇110:5,6)。神に対して心をかたくなにして栄えた者はなかった。

*最後に、*このキリストの語りが、そのたとえを聞いた祭司長たちや長老たちの間で受けたもてなし。

1. 「キリストが自分たちのことを語っておられると悟った」(マタ21:25)。そして彼らが語ったこと(マタ21:41)において、彼らは自分自身の判決を読んだに過ぎない。なお、罪ある良心は告発者を必要としない。時に仕える者に*「あなたがその人だ」*と言う労を省かせる。Mutato nomine, de te fabula narratur。名前を変えれば、物語はあなたについて語られる。神の言葉はこれほど速く力強く、思いと心の動機を識別するので、(良心が完全に焼き切れていなければ)悪人がそれが自分たちについて語っていることを知るのは容易である。

2. 「彼らはキリストを捕えようとした」。なお、言葉の責めを聞く者が、それが自分たちについて語っていることを知る時、それが彼らに大いに善をなさなければ、確かに大いに害をなす。もし有罪宣告と悔い改めをもって心に刺されなければ、彼らがそうであったように(使徒2:37)、怒りと憤りをもって心を切られるであろう。彼らがそうであったように(使徒5:33)。

3. 彼らはあえてしなかった。「群衆を恐れた」。彼らがキリストをメシアとしてではなく、預言者とみなしていた。これがパリサイ人たちを畏怖させるのに役立った。民への恐れが彼らをヨハネについて悪く語るのを思いとどまらせ(マタ21:26)、ここではキリストに悪を行うのを思いとどまらせた。なお、神は残りの怒りを制する多くの方法を持たれる。また、神に栄光を帰するものをもたらす方法を。詩篇76:10。