Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ そして安息日が終わったので、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤともうひとりのマリヤが墓を見に来た。 ² すると見よ、大いなる地震があった。主の御使いが天から下って来て、近寄り、石を入口から転がして、その上にすわったからである。 ³ その顔はいなずまのようで、その衣は雪のように白かった。 ⁴ そして彼を恐れて、見張りたちの者は震え上がり、死人のようになった。 ⁵ 御使いは答えて女たちに言った。恐れるな。わたしはあなたがたが十字架につけられたイエスを捜していることを知っているから。 ⁶ ここにはおられない。すなわち、言われたとおりに、よみがえられたからである。来て、主が横になっていた場所を見なさい。 ⁷ そして急いで行って、弟子たちに告げなさい。彼は死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで彼にお会いするであろう。見よ、これをあなたがたに告げ知らせた。 ⁸ そして彼女たちは恐れながらも大いなる喜びを持って、急いで墓を去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 ⁹ そして彼女たちが弟子たちに知らせに行くと、見よ、イエスが彼女たちに出会って言われた。おはよう。そして彼女たちは近寄り、彼の足を抱いて、彼を拝した。 ¹⁰ その時、イエスは彼女たちに言われた。恐れるな。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように告げなさい。そこでわたしに会うであろう。
キリストの復活の証明として、わたしたちはここに、彼の復活に関する 御使いの 証言と キリストご自身の 証言を持つ。さて、事がそのように取り計らわれ、十分な数の証人が立ち会い、御使いによって石が転がしのけられ、死人のからだが生き返るのを人々がラザロが墓から出て来るのを見たように見るならば、より良かったであろうとわたしたちは考えるかもしれない。しかし無限の知恵に指示してはならない。その知恵は彼の復活の証人たちが彼の よみがえられたのを 見るが、彼の よみがえるのを 見ないように取り計らわれた。彼の受肉は奥義であった。この 第二の受肉 (もしそのように呼べるならば)、キリストの高められた状態のための彼のからだの 新たな造り もそうであった。それゆえそれは ひそかに なされた。見ないで信じる者は幸いである。キリストはご自身の復活の証拠を、聖書と、彼が 語られた 御言葉 によって 裏付けられた ものとしてお与えになった(ルカ24:6,7-44、マルコ16:7)。ここではわたしたちは 信仰によって歩み、見るところによってではない からである。ここに、
一、良い女たち の 墓への 到着。
観察せよ。1. いつ 彼女たちが来たか。安息日の終わりに、週の初めの日に向かって夜が明け始めた時(マタ28:1)。これはキリストの復活の時を確定する。
(1) 彼は死後 三日目 によみがえられた。それが彼がしばしば定めた時であり、彼はその範囲内にとどまられた。彼は週の六日目の夕方に葬られ、次の週の初めの日の朝によみがえられた。それゆえ彼は墓に約三十六時間ないし三十八時間横たわった。彼が現実に真に死んだことを示すためにそれほど長く横たわった。そして 腐敗を見ない ためにそれ以上は横たわらなかった。彼は三日目によみがえられた。預言者ヨナの型に答えるため(マタ12:40)、また 「主は三日目にわたしたちを生き返らせる。わたしたちは主の御前で生きる」 という予言を成就するため(ホセア6:2)。
(2) 彼は ユダヤの安息日ののち によみがえられた。それは過ぎ越しの安息日であった。その日の一日中、彼は墓に横たわった。それはユダヤの祭りと儀式的律法の他の部分の廃止を意味し、その民がそのような儀式に対して死んだ者となり、彼が 墓に横たわった 時そうしたように、もはやそれらに注意を払わないことを意味する。キリストは 六日目にそのわざを終えられた。「完了した」 と言われた。七日目に休まれた。そして次の週の初めの日に、いわば新たな世界を始め、新たなわざに取り掛かられた。それゆえ 新しい月 や ユダヤの安息日 について、今やだれもわたしたちをさばいてはならない。これらは確かに来たるべき良いことの影であったが、実体 は キリストにある。さらに観察できるのは、聖徒たちが墓に横たわる時は彼らにとっての安息日である(ユダヤの安息日がそうであったように、それは主としてからだの休みから成った)。そこで彼らは その労苦から休む から(ヨブ3:17)。そしてそれはキリストのおかげである。
(3) 彼は 週の初めの日 によみがえられた。最初の週の初めの日に、神は やみから光を輝かせよと命じられた。それゆえこの日に、世の光となるべき方が、墓のやみから輝き出られた。第七日の安息日はキリストと共に葬られ、主の日 と呼ばれる初日の安息日として再びよみがえった(黙示1:10)。そして新約聖書のすべてにおいて、この日以外には週の日については言及されず、この日がキリストの誉れのためにクリスチャンが荘厳な集会において宗教的に守る日として、しばしば言及される(ヨハネ20:19,26、使徒20:7、コリント第一16:2)。もし北の地からのイスラエルの救出がエジプトからのそれの記憶に取って代わったなら(エレミヤ23:7,8)、キリストによるわたしたちの贖いは、神の以前のわざの栄光をいっそう覆い隠す。安息日は創造のわざの 完成 を記念して制定された(創世2:1)。人はその反逆によってその 完全な わざに破れを作った。それはキリストが死人の中からよみがえり、天と地が再び完成され、その乱れた 万象が新たに形作られる まで、完全に修復されなかった。そしてこれがなされた日は正当に 祝福され聖別られ、それから七日目とされた。その日に死人の中からよみがえられた方は、最初すべてのものが造られ、今や新たに造られたのと同じ方、またその方のためにである。
(4) 彼はその日に向かって 夜が明け始めた時 によみがえられた。三日目 が来た、彼の復活のために定められた時が来たと言えるようになるとすぐに、彼は よみがえられた。その民からのwithdrawingsの後、彼はすべて適切な 速さ で戻り、義のうちにわざを短く 切られる。彼は弟子たちに、少しの間は彼を 見ないが、再び 少しの間 すれば彼を 見るであろう と言われた。それに応じて、彼はそれをできるだけ少しの間となさった(イザヤ54:7,8)。キリストは 日が明け始めた時 によみがえられた。その時 高い所からの夜明けが 再びわたしたちを訪れたからである(ルカ1:78)。彼の苦難は夜に始まった。彼が十字架にかかっておられた時、太陽は暗くされた。彼は夕暮れ時に墓に納められた。しかし太陽が昇ろうとする時に彼は墓からよみがえられた。彼は 明るい明けの明星 であり(黙示22:16)、まことの光 だからである。クリスチャンの安息日の宗教的な奉仕に朝早くから取り組む者、その日を前に取る者は、その中でキリストのこの例と、ダビデの 「わたしは早くあなたを求めます」 という例に従う。
2. 墓に来たのは誰であったか。マグダラのマリヤともうひとりのマリヤ であった。葬儀に付き添い、墓に向かってすわった 同じ人たちであった。以前 十字架に向かってすわった ように。彼女たちは依然としてキリストへの愛を表すことに努めた。彼女たちは依然として彼を尋ね求めていた。そのように 知り続けるなら、わたしたちは知るであろう。聖母マリヤが彼女たちと共にいたことについては言及されない。おそらく 愛された弟子 が彼女を自分の家に迎えたので、彼女が 墓に行ってそこで泣くのを 妨げたのであろう。彼女たちのキリストへの付き添いは 墓まで だけでなく 墓の中で も、暗やみの中に寝床を設けた 時に彼の者たちに対する彼のような配慮を表す。墓の中のキリストが 聖徒たち に愛されたように、墓の中の聖徒たちはキリストに愛される。死と墓は彼らの間の愛の絆を緩めることができないからである。
3. 彼女たちが 何をしに来たか。他の福音書記者は彼女たちがからだに油を塗りに来たと言う。マタイは彼女たちが 墓を見に 来たと言う。それを去った時のままとしたかどうか。おそらく祭司長たちがそれに衛兵を置いたと聞いたが、確信がなかったので。彼女たちは愛する主人の大切な遺骸への再訪問において彼女たちの好意を示すために、またおそらく彼の復活のいくらかの思いなしに、行った。彼女たちは彼がそれについて語ったすべてをすっかり忘れていたとは考えられなかったからである。観察せよ。墓への訪問はクリスチャンにとって大いに役立ち、それを彼らに親しいものとし、その恐怖を取り除くのに役立つ。特にわたしの主イエスの墓への訪問はそうである。そこでわたしたちは罪が目に見えないところに葬られ、聖化の型、贖いの愛の大いなる証明がその やみの地 においてさえ輝いているのを見ることができる。
二、主の御使いの彼女たちへの現れ(マタ28:2-4)。わたしたちはここに、知るべきことがふさわしい限りでのキリストの復活の様式についての説明を持つ。
1. 大いなる地震 があった。彼が死んだ時、彼を 受けた 地は恐れのために震えた。今や彼がよみがえった時、彼を 返した 地は彼の高挙に喜んで躍った。この地震はいわば死の絆を 解き、墓の足かせを 振り落とし、諸国の望み を導入した(ハガイ2:6,7)。それはキリストの勝利の 合図 であった。これによってそれの通知が与えられ、天が喜んだ 時、地も 喜ぶことができた。それは一般的復活において地に与えられる 揺り の 見本 であった。山や島が移され、地がもはや その殺された者を覆わない ように。骨が集まり、骨がその骨に つくべき時、谷に 騒ぎと揺れ があった(エゼキエル37:7)。今や立てられるべきキリストの御国は、地を震わせ、恐ろしく揺り動かした。聖化され、それによって霊的ないのちに復活する者は、それがなされている間、自分自身の胸の中に地震を見いだす。パウロのように 震え 驚いた。
2. 主の御使いが天から下った。御使いたちはしばしばわたしの主イエスに仕えた。誕生の時、試みの時、苦悶の時に。しかし十字架の上でわたしたちは彼に仕える御使いを見いださない。父が 彼を捨てられた 時、御使いたちは彼から退いた。しかし今や彼が世の基の前に持っていた栄光を再び取り戻す時、見よ、神の御使いたちは彼を拝する。
3. 彼は来て、石を入口から転がしのけ、その上にすわった。わたしの主イエスはご自身の力で 石を転がしのける ことがおできになった。しかし天使にそれをさせることを選ばれた。彼がわたしたちの罪—それが彼に帰された—のために満足を与えることを引き受け、その帰属に従って逮捕の下にあり、牢を破らず、天から公正な 合法的な解放 を得たことを意味するために。彼は牢を破らなかった。しかし 石を転がしのけ、そうして牢の扉を開くために特に遣わされた役者がいた。もしそれが完全に満足させるものでなければ、それはなされなかったであろう。しかしわたしたちの罪過のために渡され、その救出を完成するために、彼は わたしたちの義認のために よみがえられた。彼はわたしたちの負債を払うために死に、わたしたちの免罪証書を取り出すために再びよみがえられた。わたしたちの罪の 石 はわたしの主イエスの墓の戸に 転がされた(そして大いなる石の転がしが 罪の負担 を意味することを見いだす、サムエル第一14:33)。しかし神的義が満足させられたことを示すために、天使が石を転がしのけるよう命じられた。天使が 彼を死人の中からよみがえらせた のではない。ラザロの墓から 石を取りのけた 者たちが彼をよみがえらせたのではないように。しかしこうして彼は彼の解放に対する天の同意と、それにおける天の喜びを示した。キリストの敵は石に封印し、バビロンのように その捕虜の家を開かない と決意した。「獲物は強い者から取られるか」。これは 彼らの時 であったから。しかし死とやみのすべての力は光といのちの神の支配下にある。天からの御使いは 封印を破る 力を持つ。たとえそれが イスラエルの大いなる封印 であっても。そして 石を転がしのける ことができる。たとえそれがどんなに大きくても。このように 強い者の捕虜は連れ去られる。御使いの 石の上への 着座 は非常に注目すべきであり、キリストの復活のすべての障害に対する安全な勝利を物語る。そこに彼はすわった。キリストの墓に再び石を転がそうとする地獄のすべての力に挑むかのようであった。キリストはその敵の反対の上にその安息の座とさばきの座を立てる。「主は大水の上に座しておられる」。御使いは墓の衛兵としてすわった。敵の 黒い 衛兵を追い払った後。彼はすわった。女たちを待ち、彼に復活の知らせを伝える準備をして。
4. その顔はいなずまのようで、その衣は雪のように白かった(マタ28:3)。これはわたしたちが 華やか で 輝かしい と呼ぶものによって、色の 違いを 知らない 目に見えない世界の栄光 の目に見える表現であった。衛兵に対する彼の目は いなずまの閃光 のようであった。「彼はいなずまを放ち、彼らを散らされた」(詩篇144:6)。その衣の 白さ は純潔だけでなく、喜びと勝利の象徴であった。キリストが死んだ時、天の宮廷は 喪に服す ことに入った。太陽の 暗く なることによって示された。しかし彼がよみがえった時、彼らは再び 賛美の衣 を着た。この御使いの栄光はキリストの栄光—彼が今よみがえられた栄光—を表した。それは彼の変貌の時に彼について語られたのと同じ描写であるから(マタ17:2)。しかし彼が復活ののち弟子たちと交わった時、彼はそれに幕を引いた。それは復活における聖徒の栄光を物語る。彼らは 天において神の御使いのようになる 時。
5. 彼を恐れて、見張りたちの者は震え上がり、死人のようになった(マタ28:4)。彼らは 兵士たち であった。自分たちは恐れに対して堅くしていると思っていた。しかし御使いの姿を見るだけで彼らは恐怖に打たれた。このように 神の 子が さばきのために立ち上がられる時、強情な者はかすめられる(詩篇76:5,9)。観察せよ。キリストの復活はその友の喜びであるように、その敵の恐怖と混乱である。彼らは震え上がった。eseisthesan という言葉は地震のために用いられたのと同じであり(マタ28:2 seismos)、地 が震えた時、その中に 分け前を持つ これらの 地の子ら も 震えた。しかし上にあるものの中に幸福を持つ者たちは、地が移されても、恐れることはない。見張りたちは 死人のようになった。彼らが見張りをしていた方が生き返り、彼らが見張りをしていた者たちが彼と共に生き返った時に。彼らがここでの自分の務めにおいて 破られた のを見ることは彼らに恐怖を与えた。彼らは 死人をその墓に留めておく ために配置された—今まで割り当てられた中で最も容易な務めであったに違いない。しかしそれは彼らにはあまりに困難であることがわかった。彼らは、すぐに 震え 死人のようになる であろう弱々しい臆病な弟子たちの一団に襲撃されると期待するように告げられていた。しかし自分たちが 力ある御使い に攻撃されたと知り、驚いた。その顔を見ることをあえてしなかった。このように神は ご自身の敵を恐れさせることによって 打ち破られる(詩篇9:20)。
三、この御使いが女たちに伝えたメッセージ(マタ28:5-7)。
1. 彼は 彼女たちの恐れに逆らって彼女たちを励ました(マタ28:5)。墓や墓場に、特に沈黙と孤独の中で近づくことは、その中に 恐ろしい ものがある。墓に御使いを見いだすこれらの女たちには、なおさらであった。しかし彼はすぐに 「恐れるな」 という言葉で彼女たちを安心させる。見張りたちは震え上がり、死人のようになった。しかし 「恐れるな」。シオンの罪人たちは恐れるがよい。理由があるから。しかし 「恐れるな、アブラハム」、アブラハムの忠実な子孫のだれをも。善を行う サラの娘たちは どんな驚きをもって 恐れる必要があろうか(ペテロ第一3:6)。「恐れるな。わたしが告げる知らせを驚きとしてはならない。あなたがたの主人がよみがえると以前告げられていたから。恐怖としてはならない。彼の復活はあなたがたの慰めとなるから。わたしがあなたがたにするどんな害をも、告げるどんな悪い知らせをも恐れるな。」「恐れるな。わたしはあなたがたがイエスを捜していることを知っているから。」 わたしはあなたがたがその大義の友であることを知っている。わたしはあなたがたを怖がらせるために来たのではなく、励ますために来た。観察せよ。イエスを捜す 者は 恐れる 理由がない。もし彼らが熱心に彼を捜すなら、彼らは彼を 見いだし、彼を 寛大な報酬者 として見いだすから。主イエスを求めるわたしたちのすべての信仰の探求は天において観察され、留意される。「わたしはあなたがたがイエスを捜していることを知っている」。そして確かにこれらのように、良い言葉、慰めの言葉 で答えられる。「あなたがたは十字架につけられたイエスを捜している。」 彼は彼が十字架につけられたことを強調することで、彼らの彼への愛をいっそうほめる。「あなたがたは、彼が十字架につけられたにもかかわらず、彼を捜している。にもかかわらず、あなたがたは彼への親切を保っている。」 観察せよ。真の信者は、彼が十字架につけられた にもかかわらず だけでなく、彼が そうであったからこそ キリストを愛し、捜し求める。
2. 彼は 彼女たちにキリストの復活を確証した。そしてそれには彼女たちの恐れを静めるのに十分なものがあった(マタ28:6)。「ここにはおられない。すなわち、よみがえられたから。」 彼を捜す者に 「ここにはおられない」 と告げられるのは、「よみがえられた」 と付け加えられなければ、喜ばしい知らせではなかっただろう。観察せよ。キリストを捜し、期待した場所で見いだせない者にとって、「彼はよみがえられた」 ことは慰めとなる。もしわたしたちが感覚的な慰めの中に彼を見いださなくても、それでも彼はよみがえられた。「見よ、キリストはここに、あるいは、見よ、そこに」 と言う者たちに耳を傾けてはならない。彼は ここに おらず、そこに おらず、よみがえられた から。キリストを求めるすべての探求において、わたしたちは彼が よみがえられた ことを覚えなければならない。そしてわたしたちは よみがえられた者として 彼を捜さなければならない。(1) 彼についての 肉的な 思考を持ってではなく。キリストを肉に従って知っていた 者がいた。しかし今やこれからはそのようには知らない(コリント第二5:16)。それは真実である。彼はからだを持っていた。しかしそれは今や 栄光のからだ である。キリストの絵や像を作る者は、彼はここにいない、よみがえられた ことを忘れる。彼との交わりは霊的でなければならない。その御言葉における信仰によって(ローマ10:6-9)。(2) わたしたちは彼を大いなる 畏れ と 謙遜 で、その栄光に対する恐るべき配慮をもって捜さなければならない。彼はよみがえられた から。神は彼を 高く挙げ、すべての名の上にある名を与えられた。それゆえすべてのひざとすべてのたましいは 彼の前にかがまなければならない。(3) わたしたちは 天の思い を持って彼を捜さなければならない。この世を自分の家とし、「ここにいるのは良い」 と言う用意ができている時、わたしの主イエスが ここにいない、よみがえられた ことを思い出そう。それゆえわたしたちの 心 を ここに 置かず、それも 立ち上がらせ、上にあるものを捜そう(コロサイ3:1-3、ピリピ3:20)。
御使いはこれらの女たちを、キリストの復活に関する信仰の確認のために二つのことに導く。
[1.] 彼らが 思い出す ことができる 今や成就した 彼の 御言葉 へ。「言われたとおりに、よみがえられた。」 これを彼は信仰の適切な対象として保証する。「彼は よみがえるであろう と言い、あなたがたは彼が 真理 ご自身であることを知っている。それゆえ彼が よみがえる と期待する理由がある。なぜ彼が告げられたことを 信じる ことに後ろ向きなのであろうか。」 キリストの御言葉がわたしたちの期待を高めたこと—今の時の苦しみ であれ、啓示されるべき栄光 であれ—を、決して奇妙と思ってはならない。もしわたしたちがキリストが わたしたちに 語られたことを覚えるなら、彼が わたしたちに なさることに驚くことが少なくなる。この御使いは 「ここにはおられない、よみがえられた」 と言った時、彼がすでに受け取ったもの以外の福音を宣べ伝えていないことを示す。彼はキリストの御言葉に自らを委ね、それが彼を十分に支えるものとして。「言われたとおりに、よみがえられた。」
[2.] 彼らが 調べることができる 今や空の 彼の 墓 へ。「来て、主が横になっていた場所を見なさい。」 聞いたこと を 見ること と比較せよ。そして両方を合わせれば、あなたがたは 信じる であろう。あなたがたは 彼がここにいない ことを見る。そして彼が言ったことを思い出せば、彼はよみがえられた と満足するであろう。来て、場所を見よ。そうすれば彼がそこにいないこと、そこから盗まれたのではないことを見、それゆえ彼はよみがえられたと結論しなければならない。観察せよ。来て、信仰の目で 主が横になっていた場所を見る ことは、わたしたちに影響を与え、わたしたちに良い影響を及ぼすのに役立つ。わたしたちのためにこれほど低くへりくだられた彼の愛のしるしをそこに見よ。彼がその 寝床を どれほど 安らか で、明るく したかを。自らそこに横たわることによって。わたしたちが横たわるべきと期待する墓を見る時、その恐怖を取り除くために、主が横たわっていた墓を見よう。わたしの主 が横たわった場所。シリア語訳はそうである。御使いたちは彼を 彼らの 主として認める。わたしたち と同様に。天と地の全家 が彼から名づけられるから。
3. 彼は 彼らに、弟子たちにその知らせを運ぶよう 指示する(マタ28:7)。「急いで行って、弟子たちに告げなさい。」 彼女たちは墓の光景と御使いとの語らいを楽しんでいたようである。ここにいるのは良い。しかし彼女たちには他の務めが任命されている。これは良い知らせの日である。彼女たちがその慰めの 最初の味 を持つが、その 独占 をしてはならない。沈黙してはならない。あのらい人たちのように(列王第二7:9)。彼女たちは 弟子たちに告げに 行かなければならない。観察せよ。自分自身の神との秘密の交わりの喜びよりも、他者への公の有用性を優先しなければならない。受けるよりも与えるほうが幸いである から。観察せよ。
(1) キリストの 弟子たち がまず その知らせを告げられなければならない。祭司長たち や パリサイ人たち に行って告げ、彼らを 混乱 させるのではない。弟子たちに告げ、彼らを 慰める のである。神はその敵の 恥 よりも、その友の喜びを先取りする。両方の完成は後に留保されているが。「弟子たちに告げよ。」 おそらく彼らはあなたがたの報告を信じるであろう。いずれにせよ彼らに告げよ。[1] 彼らが現在の悲しみと分散の下で自らを励ますことができるために。彼らにとっては悲愴な時であった。悲しみと恐れの間に。今彼らに 「その主人はよみがえられた!」 と聞くことがどれほどの強心剤となったであろうか。[2] 彼らが自らさらにそれを尋ね求めるために。この警鐘は彼らに、彼らを捉えていたあの奇妙な無感覚から目覚めさせ、彼らの期待を高めるために送られた。これは彼らを彼を捜し求めることに導き、彼らへの彼の現れに備えるためであった。一般的な示唆はより深い探求を引き出す。彼らは今や彼について聞く。しかし間もなく彼を見る。キリストは 段階的に ご自身を現される。
(2) 女たち がそれを彼らに告げるよう遣わされ、いわば 使徒たちの使徒 とされる。これは彼女たちに与えられた誉れであり、十字架と墓での彼女たちの絶え間ない愛情深い付き添いに対する報酬であり、彼を見捨てた弟子たちへの訓戒であった。それでも神は弱いものを選んで強いものを困惑させる。宝を 土の器 にだけでなく、ここでは より弱い器 に置かれる。女が 悪い御使いのそそのかしによって 欺かれ、最初に罪過に入った ように(テモテ第一2:14)、これらの女たちは良い御使いの教えによって正しく教えられ、キリストの復活による罪過からの贖いの信仰において最初であった。その性の非難が、それに反対するものをはかりに置くことによって 取り除かれる ために。それは彼女たちの永遠の誉れである。
(3) 彼女たちはこの用事に 急いで行くよう 命じられた。なぜ。どんな急ぎがあったのか。その知らせは冷めず、いつでも彼らに喜ばれるのではなかったか。そうである。しかし彼らは今悲しみに圧倒されており、キリストはこの強心剤を彼らに急がせたかった。ダニエルが罪のために神の前にへりくだっていた時、御使いガブリエルは慰めのメッセージと共に 速やかに 飛ぶよう命じられた(ダニエル9:21)。わたしたちは常に備え、前進していなければならない。[1] 神の命令に従うために(詩篇119:60)。[2] 兄弟たちに善を行い、その悩みから感じる者として慰めを運ぶために。「行って、また来い。明日わたしは与えよう」 と言わず、今すぐに。
(4) 彼女たちは弟子たちに ガリラヤで彼に会うよう 指示するよう導かれた。ガリラヤでの 現れの前に、キリストの他の現れがあった。突然で驚くべきもの。しかし彼は一つを荘厳で公のものとし、事前にその通知を与えた。さてこの一般的な集合はガリラヤに、エルサレムから八十または百マイル離れて任命された。[1] ガリラヤに残り、エルサレムに上ら なかった (おそらく できなかった)弟子たちへの 親切 として。それゆえその国に赴き、そこにいる友にご自身を現される。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたの住む所も。」 キリストはその弟子たちがどこに住むかを知っておられ、そこを訪ねられる。観察せよ。キリストの高挙は、その弟子たちのうちのより小さく貧しい者を忘れさせない。彼らのうち、手段の豊富から遠く離れた者にさえ、恵みによって ご自身を現される。[2] 今エルサレムにいる弟子たちの弱さを考慮して。彼らは まだユダヤ人を恐れ、公に現れる勇気がなかった。それゆえこの集いはガリラヤに延期された。キリストはわたしたちの恐れを知り、わたしたちの状態を考慮し、妨げの危険が最も少ない場所に任命を設けられた。
最後に、御使いはその言葉について彼らに語ったことの真理を荘厳に断言する。「見よ、これをあなたがたに告げた。」 あなたがたはそれを確信し、依拠することができる。「わたし」 は告げた。嘘をつくことをあえてしない者が。御使いたちによって語られた言葉は確かであった(ヘブル2:2)。神は以前、律法の授与のように、御使いたちの奉仕によってその民にご自身の思いを知らせることが常であった。しかし福音の時代にその交わりの方法を廃止しようと意図されたので(来たるべき世界を御使いたちに従わせなかった、彼らに福音の宣べ伝え手として任命されなかったから)、この御使いは 今 弟子たちにキリストの復活を証明するために遣わされ、そうしてそれを彼らの手に残し、世界に公表されるようにした(コリント第二4:7)。「見よ、これをあなたがたに告げた」 と言う時、彼はいわば、もしその彼らがこの証しを受け入れないなら、彼らの不信仰の責めを自分から免れ、彼らに投げ返す。「わたしはわたしの使いを果たした。忠実にメッセージを伝えた。さああなたがたが責任を負え。あなたがたの危険において信じよ。聞くにせよ、聞かないにせよ、わたしは告げた。」 観察せよ。その信託を忠実に果たす神からの使者は、成否にかかわらず、その慰めを取ることができる(使徒20:26,27)。
四、弟子たちに通知を持たらすための女たちの 墓からの出発(マタ28:8)。観察せよ。
1. 彼女たちがどのような精神の状態と性質にあったか。彼女たちは 恐れと大いなる喜びを持って 出発した。奇妙な混合、同じたましいの中に同時に恐れと喜び。キリストがよみがえったと聞くことは喜びのことであった。しかし彼の墓に導かれ、御使いを見、それについて彼と語ることは恐れを引き起こさずにはいなかった。それは良い知らせであった。しかし あまりにも良く 真実であるかと 恐れた。しかし観察せよ。彼女たちの 喜び について、それは 大いなる 喜びであったと言われる。彼女たちの恐れについてはそうは言われない。観察せよ。(1) 聖なる恐れにはそれに伴う喜びがある。畏れをもって 主に仕える者は、喜びをもって 仕える。(2) 霊的な喜びはおののきと混じる(詩篇2:11)。完全な愛と喜びだけがすべての恐れを追い出す。
2. 彼女たちがどれほど急いだか。彼女たちは走った。恐れと喜びが共に彼女たちの歩みを速め、その動きに翼を加えた。御使いは 急いで行け と命じ、彼女たちは 走った。神の使いに遣わされる者は、ぐずぐずしたり、時間を無駄にしてはならない。心が 福音の良い知らせによって 広くされる 所で、足は神の戒めの道を走る。
3. 彼女たちがどんな使いに行ったか。彼女たちは 弟子たちに知らせるために 走った。それが彼らに喜ばしい知らせであることを疑わず、彼女たちは走って、彼女たち自身が神から慰められたのと同じ慰めで彼らを慰めた。観察せよ。キリストの弟子たちは、天との甘い交わりの経験を互いに伝え合うことに進んでなければならない。神が 彼らのたましいのために なさったこと、語られたことを他者に告げるべきである。キリスト・イエスにおける喜びは、右の手の油のように、それ自体を明らかにし、その伝達の線内のすべての場所をその香りで満たす。サムソンが蜜を見つけた時、彼はそれを両親に持って来た。
五、御使いの証言を確認するための、女たちへのキリストの現れ(マタ28:9,10)。これらの熱心な良い女たちは、彼の最初の知らせを聞いただけでなく、彼の復活ののち、最初に彼を見た。御使いは彼を見ようとする者にガリラヤに行くよう指示した。しかしその時が来る前に、ここでも、生きて彼らを見る方を 彼女たちは求めた。観察せよ。イエス・キリストはその言葉よりしばしば良い。しかし決して悪くはない。しばしばその民の信仰の期待を先取りする。しかしそれを挫折させることはない。
ここに、1. 女たちへのキリストの驚くべき現れ。「弟子たちに告げに行くと、見よ、イエスが彼女たちに出会って言われた。」 観察せよ。神の恵み深い訪問は通常、務めの道においてわたしたちに会う。他者の益のために持つものを用いる者には、さらに与えられる。キリストとのこの面会は予期しないものであった。「彼女たちが気づかないうちに」(雅歌6:12)。観察せよ。キリストはその民が想像する以上に近くにおられる。彼らはキリストを 深い所から 引き出すために 下る 必要はなかった。彼は そこにいなかった。よみがえられた。また 天に上る 必要もなかった。彼は まだ昇天していなかった。しかしキリストは 彼女たちの近くに いた。今も 御言葉においてわたしたちの近くに おられる。
2. 彼が彼女たちに声をかけた挨拶。「おはよう」—chairete。わたしたちは 英語の挨拶の形式 を用いる。出会う者に すべての健康 を願う。「おはよう」 はそのように意味し、ここで用いられたギリシャ語の挨拶の形式を表す。ヘブル語の 「平安があなたがたにあるように」 に答える。そしてそれは次のことを物語る。(1) 高挙の状態に入って以来の、わたしたちに対する、わたしたちの幸福に対するキリストの好意。彼が高められても、彼は以前と同様にわたしたちのことを願い、わたしたちの慰めに関心を持たれる。(2) 弟子たちとの交わりにおいて彼が用いた自由と聖なる親しみやすさ。彼らを 友 と呼ばれた。しかしギリシャ語の言葉は 「喜べ」 を意味する。彼女たちは 恐れ と 喜び の両方の影響を受けていた。彼が彼女たちに言ったことは彼女たちの 喜び を励ます(マタ28:9)「喜べ」 ことに向かい、彼女たちの 恐れ を静める(マタ28:10)「恐れるな」 ことに向かう。観察せよ。その民が陽気で喜びに満ちた民であることはキリストの御心であり、彼の復活は彼らに喜びのための豊かな題材を提供する。
3. 彼女たちが彼に払った愛情ある尊敬。「彼女たちは近寄り、彼の足を抱き、彼を拝した。」 このように彼女たちは次のことを表した。(1) 彼に対する 畏れ と 敬意。彼女たちは彼の足もとに身を投じ、崇拝の姿勢をとり、神の子として、今や高挙された方として、謙遜と神への恐れをもって 彼を拝した。(2) 彼に対する 愛 と 愛情。彼女たちは彼を抱き、彼を行かせなかった(雅歌3:4)。主イエスの 足 が彼女たちにとってなんと 美しい ことであったか(イザヤ52:7)。(3) 彼の復活のこのさらなる確証を得た今の 歓喜の恍惚。彼女たちは両腕でそれを歓迎した。このようにわたしたちは福音において提供されるイエス・キリストを抱きしめなければならない。畏れ をもってその足もとに身を投じ、信仰によって 彼をとらえ、愛と喜びをもって彼をわたしたちの心の近くに置く。
4. キリストが彼女たちに言った励ましの言葉(マタ28:10)。彼女たちが彼に何か言ったとは見いだされない。彼女たちの愛情ある抱擁と崇拝は十分に明瞭に語った。そして彼が彼女たちに言ったことは、御使いが言ったこと(マタ28:5,6)以上のものではなかった。彼は その使者たちの言葉を確認する から(イザヤ44:26)。そしてその民を 慰める 彼の方法は、その御霊によって、以前 御使いたち —奉仕者たち—から聞いたのと同じことを彼らの心に再び語ることである。さてここで観察せよ。
(1) 彼がどのように彼女たちの恐れを戒めるか。「恐れるな。」 彼女たちは彼の復活のこれらの繰り返しの通知によって欺かれることを恐れてはならない。また死人の中から来た者の現れによって受ける害を恐れてはならない。その知らせは奇妙であっても、真実 であり 良い ものであったから。観察せよ。キリストは死人の中からよみがえり、その民の恐れを静めるために、それには彼らを静めるのに十分なものがある。
(2) 彼がどのように彼女たちのメッセージを繰り返すか。「行って、わたしの兄弟たちに告げなさい。ガリラヤへの旅の準備をしなければならない。そこで 彼らはわたしに会うであろう。」 もしわたしたちのたましいとキリストの間に何らかの交わりがあるなら、集いを任命する のは彼であり、彼はその任命を守られる。エルサレムはキリストの臨在の誉れを失った。それは 騒乱的な 都であった。それゆえ彼は集いをガリラヤに延期する。「わたしの愛する者よ、さあ、出て行こう」(雅歌7:11)。しかしここで特に注目すべきは、彼が弟子たちを 兄弟たち と呼ぶことである。「行って、わたしの兄弟たち に告げよ。」 彼と親族であった者たちだけでなく、残りのすべてを。彼らは皆彼の兄弟であるから(マタ12:50)。しかし彼は復活の後まで彼らをそのように呼ばなかった。ここおよびヨハネ20:17。復活によってご自身が力ある 神の子 として宣言されることにより、神のすべての子らは 彼の兄弟たち として宣言された。死人の初穂 として、彼は 多くの兄弟の初子 となった。彼の復活の似姿に共に植え付けられたすべての者の。キリストは今や弟子たちと以前その死の前にしたように絶えず親しく交わらなかった。しかしそれらが彼に見知らぬ人になったと思わせないために、彼は彼らにこの愛情あふれる称号を与える。「わたしの兄弟たちに行け」。それによって聖書が成就する。彼の高められた状態への入りについて語り、「わたしはあなたの御名をわたしの兄弟たちに告げる」 と言う。彼らはその苦しみにおいて恥ずかしくも 彼を見捨てた。しかし彼が赦し、忘れることができ、わたしたちにもそうするよう教えることを示すために、彼は彼らと 会う という目的を続けるだけでなく、彼らを 兄弟 と呼ぶ。彼らが皆 彼の兄弟 であること、彼らは互いに 兄弟 であり、兄弟として愛し合わなければならない。彼らをその兄弟として認めることは彼らに大いなる誉れを与えた。しかしそれと共に、その誉れの中での謙遜の例を与えた。
¹¹ 彼らが行っている間、見よ、見張りの一部が都にはいって来て、祭司長たちに起きたすべてのことを告げた。 ¹² そして彼らが長老たちと一緒に集まり、相談を終えた時、兵士たちに多額の金銭を与えて ¹³ 言った。言え、弟子たちが夜来て、わたしたちの寝ている間に彼を盗み出したと。 ¹⁴ もしこれが総督の耳に入れば、わたしたちが彼をなだめ、あなたがたを無事にする。 ¹⁵ そこで彼らは金銭を受け取り、教えられたとおりにした。そしてこの言葉は今日に至るまでユダヤ人の間に一般に伝えられている。
キリストの復活のさらなる証明として、わたしたちはここに、衛兵に就いていた敵対者たちの告白を持つ。そしてこの証言を強める二つの事がある—彼らは 目撃者 であり、他の誰も見なかった復活の栄光を自ら見た。そして彼らは 敵 であり、彼の復活に反対し、それを妨げるためにそこに置かれた。さてここで観察せよ。
一、この証言がどのように祭司長たちに もたらされたか(マタ28:11)。女たちが 弟子たちに その知らせを運んで行った時 —それは 彼らの心を喜びで満たす —兵士たちは同じ知らせを祭司長たちに運んで行った—それは 彼らの顔を恥で満たす。見張りの一部 、おそらくその中で主要に指揮していた者たちが、都にはいって来て、彼らを雇った者たちに失望の報告をもたらした。彼らは祭司長たちに、起きたすべてのことを示した。地震、御使いの降下、石の転がし、イエスのからだが墓から生きて出て来たことを告げた。このように 預言者ヨナのしるし が最も明確で争う余地のない証拠と共に祭司長たちにもたらされた。それゆえ最大の確信の手段が彼らに与えられた。それが彼らにとってどれほどの屈辱であったか、そしてユダヤ人の敵のように 彼らは自分たちの目で大いに落胆した(ネヘミヤ6:16)と想像することができる。今や彼らがキリストを信じ、彼を死に渡したことを悔いることが正当に期待された。しかしそれらは不信仰に固執し、それゆえその下に封印された。
二、それがどのように彼らによって打ち消され、押し潰されたか。彼らは集会を召集し、なすべきことを検討した。自分たちとしては、イエスがよみがえったと信じないと決心していた。しかしその配慮は、他者を信じないように留め、自分たちがその不信仰から完全に恥じ入れられないようにすることであった。彼らは彼を死に渡した。そして彼らがしたことに立つ方法は、彼の復活の証拠に直面すること以外になかった。このように悪を行うために自らを売った者は、一つの罪が別の罪を引き寄せ、彼らが 不義に不義を加える という惨めな必要性に陥ることを見いだす。それはキリストの迫害者ののろいの一部である(詩篇69:27)。
彼らの議論の結果、それらの兵士たちを何としても買収し、語らないように雇うことであった。
1. 彼らは 彼らの手に金銭を置いた。そして金銭を愛することによって人がどのような悪事にも至らないだろうか。彼らは 多額の金銭を 、おそらくユダに与えたよりもはるかに多くを、兵士たちに 与えた。これらの祭司長たちは他の多くの人々と同様に自分たちの金銭を愛し、それを手放すことをいといました。しかしキリストの福音に対する悪意ある計画を進めるために、彼らはそれを非常に気前よく使った。彼らは兵士たちに、おそらく求められただけのものを与えた。そして彼らは自分たちの有利な立場を活用する方法を知っていた。ここに 嘘 であることが知られているものの推進のために 大金 が与えられた。しかし多くの人々は、真理 であることが知られているものの推進のために少しの金銭を惜しみ、義人の復活において返済されるという約束を持っているのに。悪い大義がこれほど気前よく支えられているのを見る時、良い大義を飢えさせてはならない。
2. 彼らは 彼らの口に嘘を置いた(マタ28:13)。「言え、弟子たちが夜来て、わたしたちの寝ている間に彼を盗み出したと。」 悪い言い訳でもないよりはましである。しかしこれは確かに悪いものである。(1) 偽りは 滑稽 であり、それ自体の論破を伴っていた。もし 彼らが眠っていた なら、どうしてその事について何かを知り、誰が来たかを言うことができたか。もし 誰か一人が それに気づくために 起きていたなら、疑いなく彼は皆を それに反対するために 起こしたであろう。それが彼らが唯一任されていたことだったから。貧しく、弱く、臆病で、落胆した男たちの一団が、死人のからだの救出というこれほどささやかな達成のために自分たちをさらすことは全くありそうになかった。彼らが宿った家はなぜ熱心に捜索されず、死人のからだを発見するために他の手段が用いられなかったのか。しかしこれは人が簡単に見抜けるほど薄っぺらな嘘であった。しかしそれがどんなにもっともらしく見えたとしても。(2) これらの祭司や長老がそれらの兵士たちを雇って、彼らの良心に反して意図的な嘘をつかせることは邪悪なことであった(どんなに小さな重要性の事柄であっても)。他者を一人の故意の罪に引き入れる者は、自分たちが何をしているかを知らない。それは良心を堕落させ、多くのものの入り口となるかもしれないから。しかし(3) これをキリストの復活という大いなる教理を覆すためのものと考えると、これは最後の救済策に対する罪であり、事実上、聖霊に対する冒とく であった。聖霊の力 によってなされたことを弟子たちの 詐欺 に帰する。
しかし兵士たちが 衛兵で眠っていた ことに対してローマの法律によって被る刑罰—それは非常に厳しかったが(使徒12:19)—について異議を唱えるといけないので、彼らは総督に介入することを約束した。「わたしたちは彼をなだめ、あなたがたを無事にする。わたしたちは彼における自分たちの影響力を用いて、彼がそれに注意を払わないようにする。」 そして彼らは彼をどれほどたやすく操ることができるかを最近知った。もしこれらの兵士たちが現実に眠り、そのようにして弟子たちが彼を盗み出すことを許したとしたら、世界が信じるように、祭司と長老たちは確かに彼らの裏切りに対して彼らを処罰するよう総督に嘆願する先頭に立ったであろう。それゆえ 彼らの 兵士の安全に対する配慮は、その話に嘘を与える。彼らはピラトの正義の剣から彼らを 無事にする ことを引き受けた。しかし嘘を愛し、嘘を造る者の頭上に掛かる神の正義の剣から彼らを無事にすることはできなかった。故意の罪の犯行において人を無事に救うと引き受ける者は、自分たちが果たせる以上のことを約束する。
さて、このように計画は立てられた。今やどれほどの成功があったか。
[1.] 欺こうと望んだ 者たちは、金銭を受け取り、教えられたとおりにした。彼らは祭司長たちや長老たちと同様にキリストとその宗教を少しも気にかけなかった。そして全く宗教を持たない人々は、キリスト教が貶められるのを見て非常に喜び、必要ならそのために一役買うことができる。もしの用を足すなら。彼らは 金銭を受け取った。それが彼らの目指したものであり、他の何でもなかった。観察せよ。金銭は最も黒い誘惑の餌である。金銭欲のある舌はそれのために真理を売る。
キリストが神の子であることを証明する大いなる論拠は、彼の復活である。そしてこれらの兵士たち以上にその真理の確信に満ちた証拠を持つ者はいなかった。彼らは御使いの天から降りるのを見、石が転がしのけられるのを見、キリストのからだが墓から出て来るのを見た。彼らが感じた恐怖がそれを妨げなかった限り。しかしそれにもかかわらず、彼らはそれ自らによって確信されるどころか、彼について嘘をつき、他者が彼を信じるのを妨げるために雇われた。観察せよ。聖霊の協力する働きなしには、最も感覚的な証拠も人々を確信させない。
[2.] 欺かれることを望んだ 者たちは、その話を信じただけでなく、広めた。この言葉は今日に至るまでユダヤ人の間に一般に伝えられている。偽りは十分に受け入れられ、目的を果たした。不信仰に固執するユダヤ人は、キリストの復活の論拠で押された時、弟子たちが来て、彼を盗み出した と答える準備が常にあった。この趣旨の荘厳な物語が、(ユスティノス・マルティルがユダヤ人トリュフォンとの対話で述べているように)大いなるサンヘドリンがこの事について離散のすべてのユダヤ人に送った—キリスト教に対する激しい抵抗を奨励するものである。すなわち、彼らが彼を十字架につけ、葬った時、弟子たちが夜来て、墓から彼を盗み出した。それによってキリストの復活の真理を覆すだけでなく、その弟子たちを自然における最大の悪人として世界に忌み嫌われるようにすることを意図した。ひとたび嘘が立てられると、それがどれほど広がり、どれほど長く続き、どれほどの害をなすかを知る者はいない。ある者はこの箇所のもう一つの意味を与える。この言葉は一般に伝えられている すなわち、「祭司長たちの策略にもかかわらず、民をこのように欺すために、彼らと兵士たちの間の共謀と、偽りを支えるために与えられた金銭が、ユダヤ人の間に一般に 伝えられ、ささやかれた」。というのも、このようにもかように 真理は現れる から。
¹⁶ その時、十一人の弟子はガリラヤに行き、イエスが彼らに定めた山に行った。 ¹⁷ そして彼らは彼を見て拝した。しかしある者は疑った。 ¹⁸ そしてイエスは近づいて、彼らに語って言われた。天においても地においても、すべての権威がわたしに与えられた。 ¹⁹ それゆえに、あなたがたは行って、すべての国の人々を弟子としなさい。そして父と子と聖霊の御名によって彼らにバプテスマを授けなさい。 ²⁰ わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。アーメン。
この福音書記者は、ルカとヨハネによって記録されたキリストの他のいくつかの現れを省略し、すべての中で最も荘厳であったこれに急ぐ。それは彼の死の前にも、復活ののちにも何度も約束され、任命されたからである。観察せよ。
一、弟子たちが任命に従って彼の現れにどのように出席したか(マタ28:16)。彼らはガリラヤに行った。キリストのひと目見るための長い旅であった。しかしそれは価値があった。彼らはエルサレムで何度も彼を見た。しかしそれにもかかわらず彼らはガリラヤに行き、そこで彼を見た。
1. 彼がそのようにするよう彼らに任命したから。ガリラヤに行き、エルサレムで見るかもしれない方を見ることは、特に彼の昇天の前にエルサレムに戻らなければならない時には、不必要なことと思われた。しかしそれにもかかわらず彼らはキリストの命令に従い、それらに反対しないことを学んだ。観察せよ。キリストとの交わりを保つ者は、彼が任命されたところで彼に出席しなければならない。ある規式で彼に会った者は、別の規式で彼に出席しなければならない。エルサレムで彼を見た者は、ガリラヤに行かなければならない。
2. それが公で一般的な集いとなるべきであったから。彼らは自ら彼を見、個人的に彼と交わった。しかしそれは多くが彼を見るために集められる荘厳な集会での出席を免除するものではなかった。観察せよ。機会がある時に、神との秘密の交わりは公の礼拝への出席に取って代わるものではない。神はシオンの門を愛される からであり、わたしたちもそうでなければならない。その場所は ガリラヤの山 であった。おそらく彼が変貌したのと同じ山で。そこで彼らは会った。ひそかに、そしておそらく彼が入った高められた状態と、上の世界への前進を意味するために。
二、彼らが彼らへのキリストの現れによってどのような影響を受けたか(マタ28:17)。今や 五百人以上の兄弟たちに一度に見られた 時であった(コリント第一15:6)。ある者は彼らが最初、ある距離を置いて、空中の高いところに彼を見たと考える。ephthe epano—五百人の兄弟たちに高いところで見られた(彼らはそう読む)。それはある者に疑いを与え、彼が 近づく まで(マタ28:18)、その時彼らは満足した。告げられるのは、
1. 彼らは 彼を拝した。彼らの多くがそうした。いや、おそらく彼らは皆そうした。彼らはいくらかの外面的な崇拝の表現によって示された神的誉れを彼に与えた。観察せよ。信仰の目で主イエスを見るすべての者は 彼を拝する 義務がある。
2. しかし ある者は疑った。その時にそこにいたある者。観察せよ。拝する 者の中に 疑う 者がいる。誠実な者の信仰もなお非常に弱く、揺れ動くことがある。彼らは 疑った—edistasan—彼らは宙に浮いた、どちらが勝るかと言い難い時の、はかりの皿のように。これらの疑いは後に取り除かれ、彼らの信仰は満ちた確信へと成長した。そして弟子たちが 信じる前に 疑った ことはキリストの誉れに大いに寄与した。それゆえ彼らを信用しやすく、欺されることを望む者だと言うことはできない。彼らはまず 問い、すべてを証明し、真実 であること、彼らがそのように見いだしたことを しっかりと保った から。
三、イエス・キリストが彼らに言ったこと(マタ28:18-20)。イエスは近づいて、彼らに語られた。 疑った者がいたにもかかわらず、彼はそれゆえ彼らを拒まなかった。彼は 傷ついた葦を折らない から。彼は遠くに立たず、近づき、彼らの疑いに打ち勝つような復活の確信に満ちた証拠を彼らに与えた。そして彼らの信仰を彼らの疑いに勝たせた。彼は来て、親しく 彼らに語った。一人の友がもう一人の友に語るように。それによって彼らがこれから与えられる任命において十分に満足するために。わたしたちのために神に近づき、わたしたちのために語る彼が、神からわたしたちに語るためにわたしたちに近づく。キリストは今やその使徒たちに、世界における彼の御国の大いなる特許状を渡し、彼らをその大使として遣わし、ここで彼らにその信任状を与える。
この大いなる特許状を開くにあたり、二つのことを観察することができる。
1. わたしの主イエスがご自身父から受けた任命。使徒たちに権威を与えようとして、もしだれかが どんな権威によってあなたはこれを行うのか、そして誰があなたにその権威を与えたのか と問うなら、ここで彼は告げる。「天においても地においても、すべての権威がわたしに与えられた」。非常に大いなる言葉であり、彼以外の誰も言えないものである。ここに彼は 仲保者 としての普遍的支配を主張する。それはキリスト教信仰の大いなる基礎である。彼は すべての権威を持つ。観察せよ。(1) 彼が どこから この権威を持つか。彼はそれを仮定し、または奪ったのではない。それは 彼に与えられ、彼はそれに合法的な権利を持ち、すべての存在の源であり、それゆえすべての権威の源である方からの授与によってそれに任命された。神は 彼を王として 任命し(詩篇2:6)、就任させ、位につかせた(ルカ1:32)。神として、父と等しい者として、すべての権威は本来本質的に 彼のもの であった。しかし 仲保者 として、神人として、すべての権威は彼に与えられた。一部には彼のわざの 報酬として (彼がへりくだったから、神はこのように彼を 高めた)。一部には彼の計画の 推進として。彼はこの 権威をすべての肉の上に与えられた。彼に与えられたすべての者に永遠のいのちを与えるために(ヨハネ17:2)。わたしたちの救いをより効果的に進め、完成させるために。この権威に彼は今や、復活の上に、より顕著に任命された(使徒13:3)。彼は以前から権威を持っていた。罪を赦す権威 (マタ9:6)。しかしここに すべての権威が彼に与えられた。彼は今や ご自身のために御国を受けようとして (ルカ19:12)、右の座に 着こうとしている(詩篇110:1)。それを購われたので、所有を取る以外には何も残っていない。それは 彼のもの と永遠に。(2) 彼が どこで この権威を持つか。天と地において。宇宙を含む。キリストは唯一の普遍的君主であり、すべての主 である(使徒10:36)。彼は 天においてすべての権威を持つ。彼は御使いに対する支配の権威を持つ。彼らは皆彼の へりくだった しもべである(エペソ1:20,21)。彼は父とのとりなの権威を持つ。その満足と贖いの徳によって。彼は嘆願者としてではなく、要求者としてとりなす。「父よ、わたしは願う」。彼は 地においてもすべての権威を持つ。贖いの犠牲によって神と和解し、人々と和解し、和解の奉仕によって権威ある者として彼らを扱う。彼は実際、すべての事柄とすべての者において、至高の調停者および支配者である。王たちは彼によって治める。すべてのたましいは彼のもの。彼に すべての心とひざはかがみ、すべての舌は彼を主と告白しなければならない。これをわたしの主イエスは彼らに告げる。彼らを任命する権威について彼らを満足させるためだけでなく、彼らの任命の実行において彼らを導き出すため、そして十字架のつまずきを取り除くため。彼らは 十字架につけられたキリスト について恥じる理由がなかった。彼が このように栄光を受けた のを見た時に。
2. 彼が遣わした者たちに与える任命。「それゆえに、あなたがたは行け。」 この任命は、(1) 使徒たち に、主として与えられる。キリストの御国の首席の国務大臣、教会の基礎を据えた建築家。今や 再びの新造のうちにキリストに従った 者たちは、み座に置かれた(ルカ22:30)。「あなたがたは行け。」 それは 「子よ、行って働け」 のような命令の言葉だけでなく、励ましの言葉である。「行け。恐れるな。わたしがあなたがたを遣わしたのではないか。」 行って、このわざを仕事とせよ。彼らは 威厳を保ち、国々に彼らに出席するよう召喚状を発してはならない。彼らは行き、福音を彼らの戸口まで持って行かなければならない。「あなたがたは行け。」 彼らはキリストの 肉の臨在 に恋し、それに すがり、それに すべての喜びと希望を築いていた。しかし今やキリストは彼らの臨在へのそれ以上の出席から彼らを解き放ち、他のわざについて彼らを外国に遣わす。「鷲がその巣をかき乱し、ひなの上を羽ばたいて、飛ぶために彼らを励ますように」(申命32:11)、キリストは弟子たちを励まし、全世界に分散させる。(2) それは彼らの後継者、福音の奉仕者に与えられる。彼らの務めは福音を時代から時代へ、時における世界の終わりまで伝えることである。彼らがそれを国から国へ、場所における世界の終わりまで伝えたように。そしてそれに劣らず必要である。福音の奉仕についての旧約の約束は、継承に対してなされる(イザヤ59:21)。そしてこれはそのように理解されなければならない。そうでなければ、どうしてキリストが 世界の終わりまで いつも彼らと共にいることができようか。キリストは昇天の際に、使徒や預言者だけでなく、牧者と教師 を与えた(エペソ4:11)。さて観察せよ。
[1.] 彼の任命がどれほどまで広がるか。すべての国々に。 行って、すべての国々を 弟子とせよ。 彼らが皆一緒にすべての場所に行くべきではなく、同意の上で、福音の光を最もよく 広める ような仕方で分散する。さてこれは明らかに、キリストの御心が次のことであることを意味する。第一に、ユダヤ人と結ばれた特殊性の契約が今や取り消され、無効とされること。この言葉は、長く異邦人を目に見える教会状態から排除してきた仕切りの壁を打ち壊した。そして使徒たちは最初遣わされた時、異邦人の道に行くことを禁じられたが、今や すべての国々に 遣わされた。第二に、キリストによる救いがすべての者に提供され、不信仰と悔い改めのなさによって自らを排除しない限り、誰も排除されないこと。彼らが宣べ伝えるべき救いは 共通の救い である。「誰でも望む者は来て、大赦の恩恵を受けるがよい。」 キリスト・イエスにおいてはユダヤ人もギリシャ人も違いない。第三に、キリスト教が国の憲法と結びつけられ、世界の国々がキリストの国々となり、その王たちが教会の育ての父となること。
[2.] この任命の主な目的は何か。すべての国々を弟子とすること。Matheteusate—「弟子として受け入れよ。国々をキリスト教国とするために最善を尽くせ。」 —「国々に行き、ニネベに対するヨナのように、また他の旧約の預言者たちのように、彼らに対して神のさばきを宣告するのではなく(彼らはその悪のためにそれを期待する十分な理由があったが)行って 彼らを弟子とせよ」。 仲保者 であるキリストは世界に御国を立てようとしておられる。国々を彼の国民として連れて来よ。学校を立てようとしておられる。国々を彼の学者として連れて来よ。やみの力に対する戦いを進めるための軍を起こそうとしておられる。地の国々を彼の旗の下に募れ。使徒たちがなすべきわざは、すべての場所にキリスト教を立てることであった。それは誉れあるわざであった。世界の力ある英雄たちの業績はそれに比べれば何でもなかった。彼らは自分たちのために国々を征服し、惨めにした。使徒たちはキリストのために彼らを征服し、幸いにした。
[3.] この任命を実行するための彼らの指示。
第一に、彼らは バプテスマの神聖な儀式によって 弟子を受け入れなければならない。「すべての国々に行き、彼らに福音を宣べ伝え、彼らの中で奇跡を行い、彼ら自身、またその子どもたちを共に連れて来るよう説得し、キリストの教会に、そして彼らとその者たちを水によって洗うことによって教会に受け入れよ。」 すなわち水に浸すか、注ぐか、水を振りかけるか。振りかけるのがより適切と思われる。その事が最もしばしばそのように表現されるから。イザヤ44:3 「わたしはわたしの霊をあなたの子孫に注ごう。」。テトス3:5,6 「わたしたちに豊かに注がれた。」。エゼキエル36:25 「わたしはきよい水をあなたがたに振りかける。」。イザヤ52:15 「彼は多くの国に振りかける。」 これは国々に バプテスマを授ける この任命の預言と思われる。
第二に、このバプテスマは 父と子と聖霊の御名によって 施されなければならない。それは次のことである。1. 天からの権威によって であって 人からではない。彼の奉仕者たちが神の頭の中の三つの位格からの権威によって行動するから。それらはわたしたちの 創造 と同様に 贖い にあずかる。彼らはその制定者のように 形や美しさを持たない 目に見えない目には、天の大いなる封印の下に任命を受ける。それはその儀式に誉れを与える。2. 父、子、聖霊の 御名を呼んで。すべてのものは祈りによって聖別られる。特にバプテスマの水は。信仰の祈りは儀式と共に神の臨在を得る。それがその輝きと美しさ、いのちと効力である。しかし、3. それは父、子、聖霊の 御名に (eis to onoma) 入る ことであった。これはキリスト教信仰の最初の原則と新しい契約の 要約 として意図され、それに従って古代の信条が作られた。バプテスマを受けることによって、わたしたちは荘厳に次のことを表明する。(1) 神、父、子、聖霊に関する聖書の啓示への 同意。わたしたちは神がいること、唯一の神 がいること、神の頭の中に 生む 父、生まれる 子、両者の聖なる 霊 がいることを告白する。わたしたちは父、子、霊の 名において バプテスマを受けるのであって、名において ではない。これは これら三つは一つであり、その名は一つである ことを明らかに示す。三位一体の 三つの位格 の明確な言及は、ここの キリスト教のバプテスマ においても、キリスト教の祝福 (コリント第二13:14)においても、三位一体の教理の完全な証明であると同時に、教会のすべての時代を通じてそれを純粋で完全に保つことに大いに役立った。キリスト教の集会 においてこれら二つほど大いで恐ろしいものはないから。(2) 神、父、子、聖霊への契約関係への 同意。バプテスマは サクラメント であり、すなわち 誓い である。super sacramentum dicere は 誓って言う ことである。それは 棄教 の誓いであり、それによってわたしたちは世界と肉を、神のために心の王座を争うライバルとして拒否する。そして 忠誠 の誓いであり、それによってわたしたちは 自分自身を 神に明け渡し、彼のもの となる。わたしたち自身のすべて、わたしたちの全存在、からだ、たましい、霊 を彼の御心によって治められ、彼の恵みにおいて幸いにされるために。「わたしたちは彼の者となる」、わたしたちの法律における 臣従の誓い の形式がそうであるように。それゆえ バプテスマ は 人に 適用される。敷地の引渡し がそうであるように。それは 人 が神に ささげられる から。[1] それは 父 の御名に入る。彼をわたしの主イエス・キリストの 父 と信じる(それが主にここで意図される)。永遠の発生 によって。また わたしの父 として、わたしの創造者、保存者、恩人として。それゆえわたしたちは自分自身を彼に明け渡す。わたしたちの絶対の 所有者 と 所有者 として、わたしたちを動かし、処分するために。わたしたちの至高の 支配者 と 統治者 として、自由な行為者として、その律法によって治めるために。またわたしたちの 最高の善 と 最高の 目的として。[2] それは 子 の御名に入る。主イエス・キリスト、神の子 であり、父の 対応物。バプテスマは特に 主イエスの御名において 施された(使徒8:16,19:5)。バプテスマにおいてわたしたちは 同意 する。ペテロのように 「あなたは生ける神の子キリストです」 (マタ16:16)。また 同意 する。トマスのように 「わたしの主、わたしの神」 (ヨハネ20:28)。わたしたちはキリストをわたしたちの預言者、祭司、王として受け入れ、教えられ、救われ、治められるために自分自身を明け渡す。[3] それは 聖霊 の御名に入る。聖霊の神格と、わたしたちの贖いの推進におけるその働きを信じ、わたしたちはその導きと働きに自分自身を明け渡す。わたしたちの聖別者、教師、導き手、慰め主として。
第三に、そのようにバプテスマを受け、キリストの弟子に加えられた者は教えられなければならない(マタ28:20)。「わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい。」 これは二つのことを意味する。
1. 弟子 の務め、バプテスマを受けたすべてのクリスチャン の務め。彼らはキリストが命じたすべてのことを守らなければならず、そのために彼が遣わす者たちの教えに服さなければならない。目に見える教会への受け入れはさらに何かのためである。キリストがわたしたちを 弟子とされた 時、彼はわたしたちを 終わらせた のではない。彼は 兵士を募り、その奉仕のために訓練する。
すべてバプテスマを受ける者は、それによって義務を負う。(1) キリストの命令をその規則とする。信仰の律法 があり、わたしたちは キリストの律法の下にある と言われる。わたしたちはバプテスマによって 縛られ、従わなければならない。(2) キリストが命じたことを 守る。キリストの命令への正当な 従順 は熱心な観察を必要とする。よく注意しない なら、見失う危険がある。そしてすべての従順において、わたしたちは命令に目を向け、主に対するように行わなければならない。(3) すべてのこと、彼が命じたものを例外なく守る。すべての 道徳的 義務、すべての 制定された 規定。キリストの律法への従順は、それが普遍的でなければ 真実 ではない。「その御心の全体において完全に立たなければならない」。(4) 自分自身をキリストの命令に限定し、それらから 減らさ ないように、また 加え ないように。(5) キリストの律法に従って自分たちの義務を、彼がその学校の教師として任命した者たちから学ぶ。それゆえ わたしたちはその学校に入れられたから。
2. キリストの使徒たちとその奉仕者の務め。それはキリストの命令を 教える こと、弟子たちにそれを説明すること、従順の必要を彼らに強調すること、キリストの一般的な命令を特定の場合に適用するのを助けること。彼らは 自分たちの 発明ではなく、キリストの制定を教えなければならない。彼らはそれらに宗教的に従い、それら の知識においてクリスチャンは 訓練され なければならない。常設の 奉仕がここによって教会に 定められる。キリストのからだの 建徳のために、わたしたちがすべて完全な人に達するまで (エペソ4:11-13)。天の相続人は、年になるまで 後見人や管理者の下に なければならない。
3. ここにこの任命の実行において彼らと共にいるという、彼の霊的臨在の確証がある。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 この極めて大いなる尊い約束は 見よ と導入される。彼らの信仰を強め、その観察を引き出すために。「これに注意せよ。あなたがたが確信し、依拠できるものである。」 観察せよ。
(1) 彼らに約束された恵み。「わたしはあなたがたと共にいる。」 「わたしは なるであろう」 ではなく、「わたしは ある」—ego eimi。神がモーセを遣わされたように、キリストはその使徒たちを 「わたしはある」 という名によって遣わされた。彼は神であり、過去、現在、未来は同じであるから(黙示1:8を見よ)。彼は今や彼らを去ろうとしていた。その肉の臨在は今や彼らから取り去られようとしていた。そしてこれは彼らを悲しませた。しかし彼は 霊的 な臨在を保証する。それは彼の肉の臨在以上に彼らのために有益であった。「わたしはあなたがたと共にいる。」 すなわち 「わたしの霊があなたがたと共にいる。慰め主が あなたがたと共に留まる (ヨハネ16:7)。わたしは あなたがたと共におり、あなたがたに反して ではない。あなたがたの味方をして、あなたがたの側にいて、あなたがたを支える。わたしの君ミカエルがすると言われるように(ダニエル10:21)。わたしは あなたがたと共におり、あなたがたから離れていない。距離にいない。わたしは すぐそこにいる助け である」(詩篇46:1)。キリストは今や世界にその御国を立てるために彼らを遣わそうとしていた。それは大いなる事業であった。そして彼は彼らと共にいることを時宜に約束する。[1] 彼らが出会うであろう困難を 通り抜けさせる ために。「わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたを 支え、あなたがたの大義を弁護するために。すべての奉仕において、すべての苦しみにおいて、慰めと誉れを持ってそれらを通り抜けさせるために。火や水を通る時、わたしはあなたがたと共にいる。 説教壇において、獄中において、見よ、わたしはあなたがたと共にいる。」[2] この大いなる事業を 成功させる ために。「見よ、*わたしはあなたがたと共にいる。国々を弟子とするために、サタンの要塞を 打ち倒す ために、主イエスのためにより強いものを立てるために、あなたがたの奉仕を効果的なものとする。」 国々の宗教における国家的憲法を覆し、これほど長い慣習の流れを変えることはありそうになかった。これほどの時代の気質に直接反対する教理を 確立し、十字架につけられた イエスの弟子となるよう人々を説得することは。しかし 見よ、わたしはあなたがたと共にいる。 それゆえ あなたがたは目的を達するであろう。
(2) その恵みの継続。いつも、世の終わりまで。
[1] 彼らは彼の 絶え間ない 臨在を持つ。いつも—pasas tas hemeras—すべての日、毎日。「わたしは安息日にも平日にも、晴れた日にも悪天候の日にも、冬の日にも夏の日にも、あなたがたと共にいる。」 主イエスがその教会やその奉仕者と共にいない日、日の中の時はない。もしあれば、その日、その時に、彼らは破滅するであろう。復活の後、彼は彼らに 時折 現れた。おそらく週に一度、おそらくそれもなかった。しかし彼らは中断なく続く彼の霊的臨在を持つことを保証する。どこにいてもキリストの言葉はわたしたちの近くにあり、わたしたちの口の中に あり、キリストの霊はわたしたちの近くにあり、わたしたちの心の中に ある。イスラエルの神、救い主 は、時として ご自身を隠される神 である(イザヤ45:15)。しかし決して身を引かれる神ではない。時として やみの中に いる。しかし決して 距離に いない。
[2] 彼らは彼の永遠の臨在を、世の終わりまで 持つ。わたしたちの前に終わることのない世界がある。しかしこれはその終わりに向かっている。しかしそれまではキリスト教は世界のある部分で 保たれ、キリストの臨在はその奉仕者と共に続く。わたしは 世の終わりまで あなたがたと共にいる。あなたがたの 人物 とではなく、彼らはすぐに死んだから。しかし 第一に、あなたがたとあなたがたの著作と。新約聖書の聖書と共に神的力が働き、それらを存在において保つだけでなく、それらによって奇妙な効果を生み出し、それは時の終わりまで続く。第二に、あなたがたとあなたがたの後継者と。あなたがたと教会のいくつかの時代のすべての福音の奉仕者と。この任命が及ぶすべての者と、正当に召され遣わされ、このように バプテスマを授け このように 教える すべての者と。世の終わり が来て、御国が神、すなわち父に渡される時、その時はもはや奉仕者とその奉仕の必要はない。しかしそれまでは彼らは続く。そしてその制度の大いなる目的は答えられる。これはキリストのすべての忠実な奉仕者への励ましの言葉である。使徒たちに語られたことは彼らすべてに語られた。「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」
わたしの主イエスがその教会に与えられる二つの荘厳な別れを見いだす。そしてその両方でのその別れの言葉は非常に励ましとなる。一つはここに、彼が彼らとの個人的な交わりを閉じた時。そしてその時の別れの言葉は 「見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいる。わたしはあなたがたを去る。しかしそれでもわたしはあなたがたと共にいる」。もう一つは、彼が愛された弟子の筆によって聖書の正典を閉じた時。その時の別れの言葉は 「しかと、わたしはすぐに来る。わたしはあなたがたをしばらく去る。しかし間もなくまたあなたがたと共にいるであろう」 (黙示22:20)。これによって彼が怒りではなく、愛において別れたことがわかる。そしてそれがわたしたちが彼との交わりと彼への期待の両方を保つべきである彼の御心である。
もう一つ残っている言葉があり、それは アーメン である。これは無視してはならない。それは 無意味な記号 ではなく、本の終わりの finis のような結びの言葉としてのみ意図されたのではない。それはその意義を持つ。1. それはこの約束 「見よ、わたしはあなたがたと共にいる」 に対するキリストの確認を物語る。それは彼の アーメン であり、すべての約束は彼にあって 「しかり、アーメン」 である。「まことにわたしは、またそうなるであろう、あなたがたと共にいる。忠実な証人であるアーメンなるわたしが、それをあなたがたに保証する。」 あるいは 2. それは教会のそれへの同意を、その願いと祈りと期待において物語る。それは福音書記者の アーメン—「そのようになれ、恵み深い主よ」。わたしたちのキリストの約束に対する アーメン はそれらを祈りに変える。キリストはその奉仕者と共にいると約束されたか。その言葉において、その民の—たとえ二人または三人がその名において集められても—集会において共におり、いつも、世の終わりまで そうであるか。心から アーメン と言おう。それが そのようになる と信じ、それが そのようになるように 祈ろう。「主よ、あなたがわたしのしもべたちに望みを持たせられたこの御言葉を思い出してください。」
前の諸章で、わたしたちはわたしたちの救いの かしら がやみの力と戦い、彼らに攻撃され、精力的に彼らを攻撃しているのを見た。勝利は戦う者たちの間で揺れ動くように見えた。いや、ついにそれは敵の側に傾き、わたしたちの 勇者 は彼らの前に倒れた。見よ、神はご自身の力を捕囚に渡し、ご自身の栄光を敵の手に渡された。墓の中のキリストはダゴンの宮の箱のようである。やみの力は支配者として乗り回すように見えた。しかし主は眠りから覚めた者のようになり、ぶどう酒のゆえに叫ぶ力ある者のようになった(詩篇78:61,65)。わたしたちの平和の君はこの章で再び勢いを盛り返し、墓から出て来て、征服者、いや、征服者以上の者として、捕われをとりこにして 導く。箱が囚人であっても、ダゴンはその前に倒れ、聖なる主なる神の前に立つことができる者はいないことが証明される。
さてキリストの復活はわたしたちの宗教の主要な基礎の一つであるから、わたしたちがそれについて確実な証拠を持つことが必要である。その証拠の四つをこの章に持つ。それは多くのうちのほんの少しにすぎない。ルカとヨハネはマタイとマルコよりもキリストの復活の証拠についてより詳しく記しているからである。ここに、一、キリストの復活に対する御使いの証言(マタ28:1-8)。二、婦人たちへのご自身の現れ(マタ28:9,10)。三、衛兵に就いていた敵対者たちの告白(マタ28:11-15)。四、ガリラヤでの弟子たちへのキリストの現れと、彼らに与えられた任命(マタ28:16-20)。