Jamieson-Fausset-Brown Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible
Robert Jamieson, A. R. Fausset, David Brown · 1871
Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible (1871). CCEL expanded electronic edition states it is in the public domain.
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Mt 4:1-11.
キリストの 試み。 ( = Mr 1:12, 13; Lu 4:1-13)。
1. そのとき—時系列の不明確なしるし。しかしマルコの言葉
(Mr 1:12)
は、推定されるべきであった意味—すなわちバプテスマの「直後」であったこと—を確定し、ルカの記述
(Lu 4:1)
もこれに一致する。
イエスは御霊に導かれて〜にのぼられた—すなわち低いヨルダン渓谷から、より高い場所へ。
御霊に—バプテスマの直前に主の上に下り、主の上にとどまると語られたあの祝福された御霊。ルカはこれら二つの場面を、一方が他方の続編にすぎないかのように結びつけ、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダンから帰り、導かれた」と言う。マルコの表現には驚くべき鋭さがある—「すぐ御霊はイエスを追い出された」
(Mr 1:12)、
「追い立て」あるいは「急いで出させ」あるいは「駆り立てた」。(同じ言葉を
Mr 1:43; 5:40; Mt 9:25; 13:52; Joh 10:4
に見よ)。
このように強く表現された思想は、主が出て行かれた強力な駆り立てる衝動である。一方マタイのより穏やかな表現「のぼられた」は、この行動がご自身の側でいかに純粋に自発的であったかを示す。
荒野に—おそらくユダヤの荒野。伝承が定めた特定の場所は、それゆえクアランタナあるいはクアランタリアの名を得た—四十日に由来する—「平原の上一千二百ないし千五百フィートの、ほとんど垂直の岩壁」[ROBINSON, Palestine]。試みをモアブの山々の間に置こうとする者たちの想定は、私たちが考えるに、非常にありそうもない。
試みられるために—ギリシャ語の言葉(peirazein)は単に試すあるいは証明することを意味し、神が人々に対する扱いにおいて帰せられるとき、これ以上の意味を持たない。すなわち
Ge 22:1、
「これらの事の後、神はアブラハムを試みられた」、すなわち彼の信仰を厳しく試された。( De 8:2
参照)。
しかし聖書ではこの言葉はもっぱら悪い意味で用いられ、罪へと誘惑し、唆し、刺激することを意味する。それゆえ悪者に与えられたここでの名—「試みる者」
(Mt 4:3)。
したがってここでの「試みられる」は両方の意味で理解されるべきである。御霊は単に主の信仰を試すために彼を荒野に導かれた。しかしこの試みの主体が悪者であり、その全体の目的が主が神に対する忠誠から誘惑することであったので、それは言葉の悪い意味での試みであった。これから一部の者が導き出す不価値な推論は、使徒によって力強く退けられている
(Jas 1:13-17)。
悪魔に—この言葉は中傷者、すなわち他者に非難を投げかける者を意味する。それゆえ彼に与えられたもう一つの名
(Re 12:10)、
「わたしたちの兄弟たちを訴える者、昼も夜もわたしたちの神の前で彼らを訴える者」。マルコ
(Mr 1:13)
は「四十日のあいだサタンに試みられておられた」と言う。サタンは敵対者、すなわち他者に待ち伏せし、あるいは反対の立場をとる者を意味する言葉である。これらおよび他の、同じ堕落した霊の名は、その性質あるいは働きの異なる特徴を指す。これの崇高な目的は何であったか。第一に、私たちが判断するには、主が引き受けられた働きにおいて主の前に横たわるものを味わわせることであった。次に、主が受けたばかりの栄光ある装備を試すことであった。さらに、今や勝ち取る勝利によって、ついに主が十字架において彼らを公に示し、彼らの上に凱旋するまで、もろもろの支配と権威を奪い取り進むよう励みを与えることであった。試みる者もまた、最初から、ここで取り扱わなければならない人における新しい種類の素材に気づくであろうことを味わわせるために。最後に、「試みられる者たちを助けることができる」
(Heb 2:18)
ように、経験的能力を獲得するためであった。
試みは明らかに二つの段階を含んでいた。一つは四十日の断食を通じて続くもの。他はその期間の終わりにおけるものである。