Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ さて、イエスは御霊に導かれて荒野に遣わされ、悪魔から誘惑されるためであった。 ² 四十日四十夜、断食して後、空腹を覚えられた。 ³ すると、誘惑する者が来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」 ⁴ イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべてのことばによる』と書いてある。」 ⁵ すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、 ⁶ 言った。「あなたが神の子なら、下に飛び降りなさい。『神は御使いたちにあなたのために命令を与えられる。彼らはその手にあなたを乗せ運び、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする』と書いてあるから。」 ⁷ イエスは言われた。「『主、あなたの神を試みてはならない』とも書いてある。」 ⁸ 再び、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世界中のすべての国とその栄華を見せて、 ⁹ 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これらのものをすべてあなたにあげよう。」 ¹⁰ するとイエスは言われた。「下がれ、サタン。『主、あなたの神を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」 ¹¹ すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て、イエスに仕えた。
ここには、ミカエルと悪龍、女の子孫と蛇の子孫、いや蛇そのものとの間で、一対一で戦われた有名な決闘の物語が記されている。この決闘において、女の子孫は誘惑されることによって苦しみ、こうしてそのかかとを打ち砕かれる。しかし蛇はその誘惑において完全に打ち負かされ、こうしてその頭を砕かれる。そして私たちの主イエスは征服者として現れ、こうしてすべての忠実な従者に、最終的な慰めだけでなく勝利をも保証される。キリストの誘惑について、次の点に注目されたい。
一、これが起こった時。「そのとき」である。ここには強調が置かれている。天が開かれ、御霊が下って、イエスが神の子であり、世界の救い主であると宣言された直後のこと、次に聞くニュースは、イエスが誘惑されたということである。なぜならそのとき、イエスは誘惑と最もよく取り組むことができるからである。注。1. 大いなる特権と、神の恵みの特別なしるしは、誘惑されることから私たちを守るものではない。いや、2. 私たちに大いなる栄誉が与えられた後には、へりくだるべき何かが起こることを予期しなければならない。パウロが第三の天に引き上げられた後、サタンのかみそり(メッセンジャー)が送られて彼を打ったように。3. 神は通常、ご自身の民を誘惑に召す前に、誘惑のために備えられる。神は日に応じて力を与え、激しい試練の前に、並外れた慰めを与えられる。4. 私たちが子とされたという確信は、誘惑に対する最良の準備である。良い霊が私たちの養子としての身分を証しするなら、それは、私たちを堕落させたり不安にさせたりすることを企てる悪霊のすべての示唆に対する答えを私たちに備えさせる。
「そのとき」、すなわちイエスが荘厳な儀式から新たに来たとき、バプテスマを受けたとき、誘惑された。注。神との交わりにあずかった後は、サタンの襲撃を予期しなければならない。豊かにされた魂はその守りを倍にしなければならない。「あなたが食べて満ち足りたとき、気をつけよ」。「そのとき」、すなわちイエスが公にイスラエルに現れ始めたとき、イエスはこれまで私的な生活であったときにはなかったように誘惑された。注。悪魔は、単に良い人ではなく、善を行うために献身した有用な人々、特に彼らの出発のときに、特別な悪意を抱く。シラの子の忠告(『シラ書』二・1)にあるとおりである。「わが子よ、主に仕えようとするなら、誘惑のために身を備えよ」。若い伝道者たちは何を予期すべきかを知り、それに応じて武装せよ。
二、これが起こった場所。荒野である。おそらくシナイの大荒野であろう。そこでモーセとエリヤは四十日間断食した。ユダヤの荒野のいかなる部分も、ここで言われているほど野獣に委ねられてはいなかったからである(マルコ1:13)。キリストはバプテスマを受けたとき、栄光を発表するためにエルサレムに行くのではなく、荒野に退かれた。神との交わりの後は、世俗の営みの混雑と慌しさの中で受けたものを失わないように、しばらく静寂であることは良いことである。キリストが荒野に退いたのは、1. ご自身にとって有利となるためであった。隠退は瞑想と神との交わりの機会を与える。最も活動的な生活に召された者たちでさえ、観想の時を持ち、まず神と独りで過ごす時間を見出さなければならない。公に他人に神の事柄について語るのにふさわしくないのは、まず独りでそれらの事柄と親しんでいない者たちである。キリストが神から来た教師として現れようとするとき、「彼は旅から新しく帰ってきた、彼は外国に行って世界を見てきた」とは言われず、「彼は荒野から新しく出てきた、彼は独りで神とご自身の心と交わっていた」と言われるであろう。2. 誘惑者に有利となるためであった。誘惑者は、仲間がいるよりも容易に近づけたであろうからである。注。孤独は良い心にとって友であるが、サタンはそれを私たちに対して利用する方法を知っている。「独りの者は災いだ」。聖性と敬虔の口実の下に洞窟や砂漠に退く者たちは、彼らが霊的な敵の届かないところにいるわけではなく、そこで聖徒たちとの交わりの益を欠いていることを発見する。キリストが退いたのは、(1) ご自身の勝利をより輝かしいものとするためであった。敵に日当たりと風を与え、それでも打ち負かした。この世の君はキリストのうちには何もないのであるから、キリストは悪魔に有利にしてもよかった。しかしキリストのうちにはないが、私たちのうちにはある。だから私たちは誘惑に導かれないよう祈り、危険から遠ざかっていなければならない。(2) ご自身の力で最善を尽くす機会を持つためであった。こうしてご自身がご自身の力において高められるためである。そのように書いてある。「わたしは単独で踏み場を踏み、もろもろの民のうちわたしと共にいる者はなかった」。キリストは補助者なしで戦場に入られた。
三、これに対する準備。二つあった。
キリストは悪魔から誘惑されるために導かれ、悪魔だけからであった。他の人々は自分自身の欲望に引きずられ、誘惑される(ヤコブ1:14)ときに誘惑される。悪魔はその取っ手をつかみ、その雌牛で耕す。しかし私たちの主イエスには腐敗した性質がなかった。だからキリストは恐れや震えなしに、戦士として戦場に安全に導かれ、悪魔だけによって誘惑されるためであった。
さて、キリストの誘惑は、(1) ご自身のへり下りと謙譲の実例である。誘惑は燃える矢、肉の棘、打撃、ふるい、格闘、戦いであり、いずれも苦難と苦しみを意味する。それゆえキリストはそれらに服従した。すべての点で兄弟たちと同じようになるため、ご自身を低くしたかったからである。こうしてキリストは打つ者たちに背を与えた。(2) サタンの混乱の機会である。戦いなしの勝利はない。キリストは誘惑者に打ち勝つために、誘惑された。サタンは最初のアダムを誘惑して彼に勝利した。しかしサタンは常に勝利するわけではない。第二のアダムがサタンに打ち勝ち、捕虜を捕虜として導く。(3) すべての聖徒への慰めの材料である。キリストの誘惑において、私たちの敵は巧妙で、悪意に満ち、誘惑において非常に大胆であることが現れる。しかし同時に、敵は無敵ではないことも現れる。敵は武装した強い人であっても、私たちの救いの司令官は敵よりも強い。キリストが誘惑されて苦しんだことは、私たちにとってある慰めである。というのは、誘惑は、それに従わなければ罪ではなく、単に苦しみであり、和らげられるものであることがこうして現れるからである。そして私たちには、誘惑されるとはどういうことかを経験によって知る大祭司がおり、それゆえ誘惑の時に私たちの弱さの感覚によってより優しく触れられる(ヘブル2:18、4:15)。しかしキリストが誘惑されて勝利し、私たちのために勝利したことは、さらに大いなる慰めである。私たちが格闘する敵は打ち負かされ、挫折し、武装を解かれた敵であるだけでなく、私たちはキリストの勝利にあずかり、キリストを通して勝利者以上の者なのである。
四、誘惑そのもの。サタンがすべての誘惑において目指したのは、キリストを神に対する罪に至らせ、こうしてキリストが他の人々の罪のための犠牲となる資格を永遠に失わせることであった。さて、その色彩が何であれ、サタンが目指したのは、キリストを次のことに至らせることであった。1. 父の善に対して絶望させること。2. 父の力に対して思い上がらせること。3. サタンに与えることによって、父の栄光を奪うこと。最初の二つにおいて、サタンがキリストに誘惑したことは無邪気に見え、そこに誘惑者の巧妙さが現れた。最後において、サタンがキリストに与えたものは望ましいものに見えた。最初の二つは巧妙な誘惑であり、それを見分けるには大いなる知恵が必要であった。最後は強力な誘惑であり、それに抵抗するには大いなる決意が必要であった。しかしキリストはすべてにおいて打ち負かした。
(1) 誘惑がどのように仕掛けられたかを見よ(マタイ4:3)。誘惑する者が来た。注。悪魔は誘惑する者であり、それゆえサタン—敵対者である。私たちを罪に誘惑する者たち、サタンの代理人であり、サタンのわざを行い、サタンの計画を進める者たちこそ、私たちの最悪の敵であるから。悪魔は強調して誘惑する者と呼ばれる。私たちの最初の両親に対してそうであったし、今もそうであり、他のすべての誘惑者は悪魔によって働かされるからである。誘惑する者は可視の姿でキリストに来た。後の園での苦悶のように恐ろしく、恐ろしい姿ではなかった。いや、悪魔がかつて光の御使いに変身したことがあるとしたら、今そうしたのであり、良い精霊、守護天使を装った。
誘惑する者の巧妙さに注目せよ。最初の誘惑を先行することと結びつけて、それをより強力なものとした。[1.] キリストは空腹になり始めた。それゆえ、必要な支えのために石をパンに変えることは非常に適切な提案に思えた。注。私たちの外側の状態を利用して、そこに誘惑の砲台を据えることは、サタンの策略の一つである。悪魔は悪意に劣らず油断なく見張る敵である。そして私たちに対して有利に立つほど賢いのであれば、私たちは一つも隙を与えないように努めなければならない。キリストが空腹になり始めたとき、しかも何も得るものがない荒野において、悪魔はキリストを襲った。注。欠乏と貧困は、不満と不信仰への、また必要には法がないという口実の下での救いのために不法な手段を用いることへの、大きな誘惑である。そして飢えは石の壁をも突き破るということで弁解される。しかしそれは弁解にならない。神の律法は石の壁よりも私たちにとって強力であるべきだから。アグルは貧困に対して祈った。貧困が苦しみと恥だからではなく、誘惑だからである。「私が貧しくなり、盗みを働かないように」。それゆえ窮乏に陥った者たちは守りを倍にする必要がある。罪によって生き、繁栄するよりは、餓死する方がましである。[2.] キリストは最近神の子であると宣言された。そしてここで悪魔はそれを疑うようにキリストを誘惑する。「あなたが神の子なら」。悪魔が神の子が世に来ることを知らなかったのであれば、こうは言わなかったであろう。そして悪魔がこれがその方だと疑わなかったのであれば、キリストにこうは言わなかったであろう。また、キリストが今ご自身の栄光にベールをかけず、悪魔が今厚かましい顔をしなかったのであれば、そう言うことはできなかったであろう。
第一に、「あなたは今、自分が神の子であるかどうか疑う機会を持った。なぜなら、すべてのものの相続人である神の子がこのような窮乏に陥ることがあり得るだろうか。もしがあなたの父であれば、あなたが餓死するのを見ないはずである。森のすべての獣は主のものだからである(詩篇50:10,12)。『これはわたしの愛する子』という天からの声があったのは確かだが、それは幻想に違いなく、あなたはそれによって欺かれた。なぜなら、神はあなたの父でないか、あるいは非常に不親切な父であるかのどちらかだから」。注。1. サタンが良い人々を誘惑するときに目指す大いなる事は、父としての神との関係を覆し、こうして神への依存、神への義務、神との交わりを断ち切ることである。良い霊は兄弟たちの慰め主として、彼らが神の子どもであることを証しする。悪霊は兄弟たちの告発者として、その証しを揺るがすために全力を尽くす。2. 外側の苦しみ、欠乏と重荷は、サタンが神の民に子としての身分を疑わせるために用いる大きな論拠である。まるで苦しみは、実際には神の父親の愛から出るのに、それと両立し得ないかのように。聖なるヨブのように言える者たちは、この誘惑に答える方法を知っている。「たとい主が私を殺しても、たとい私を餓死させても、なお私は主を信頼する」。そして主が敵として私に向かって来られるように見えるときでさえ、主を友として愛する。3. 悪魔は神のことばに対する私たちの信仰を揺るがし、その真実性を疑わせることを目指す。こうして悪魔は私たちの最初の両親に始めた。「神がこう言ったのか」。確かにそうではない。ここでも同様である。神はあなたがご自身の愛する子であると言ったのか。確かにそうは言わなかった。あるいは言ったとしても、それは真実ではない。私たちは神が語られたいかなることばの真実性を疑うとき、悪魔に場所を与える。というのは、偽りの父である悪魔の務めは、神の真実のことばに反対することだから。4. 悪魔は、神が不親切であるか、不誠実であるか、神にすべてを委ねた者を見捨てたか忘れたかのように、人々に神についての厳しい考えを抱かせることによって、その計画を大いに進める。悪魔は私たちの最初の両親に、神が知識の木を禁じたのはその益を惜しんだからだという観念を抱かせようとした。そしてここで、救い主に、父はあなたを見捨て、自分で切り抜けさせたとほのめかす。しかしこの示唆がいかに不合理であり、いかに容易に答えられるかを見よ。もしキリストが空腹であったから単なる人に見えたとすれば、四十日間断食し、空腹ではなかったとき、神の子、いやそれ以上の方であると認められなかったのはなぜか。
第二に、「あなたは今、自分が神の子であることを示す機会を持った。もしあなたが神の子なら、これによって証明せよ。これらの石に命じよ」(おそらく今目の前に石の山があった)。「パンになれ」(マタイ4:3)。バプテスマのヨハネは先日、神は石からアブラハムの子孫を起こすことができると言った。それゆえ神の力は、疑いなく、石から、その子どもたちのためのパンを造ることができる。もしあなたにその力があるなら、必要のときに自分のために今それを行使せよ」。ヨハネは父に祈って石をパンに変えてくれるようとは言わなかった。そうではなく命じてそれを為せと言った。あなたの父はあなたを見捨てた。自分で立ち、父に頼るな。悪魔はへりくだるものを好まない。思い上がるものをすべて好む。もし悪魔が人々を神への依存から引き離し、彼らに自己充足の観念を抱かせることができれば、目的を達する。
(2) この誘惑がどのように抵抗され、打ち勝たれたかを見よ。
[1.] キリストはそれに従うことを拒んだ。キリストはこれらの石がパンになるよう命じことはしなかった。できなかったからではない。まもなく石をパンに変える力があったから。しかしキリストはしなかった。なぜか。一見すると、そのことは十分に正当化できるように思われる。真実を言えば、誘惑がもっともらしく、そこにより良さの外観があればあるほど、それは危険である。この事柄は議論に耐え得るが、キリストはすぐに草の中の蛇に気づき、第一に、天から聞いた声の真実性を疑うように見えること、すでに決着したものを新たな試みにかけるよう見えることを、第二に、ご自身に対する父の配慮を疑うように見えること、あるいは父を一つの特定の方法に限定するように見えることを、第三に、自分で立ち、自分の切り盛りをするように見えること、あるいは第四に、悪魔の提案によって行動することで悪魔を喜ばせるように見えることを、なさろうとしなかった。ある人々は言うだろう。悪魔に正当な評価を与えるとしても、これは良い忠言であったと。しかし神を待ち望む者たちにとって、神に相談することは悪魔の当然の権利を超える。それはイスラエルに神がおられるのに、エクロンの神に伺いを立てるようなものである。
[2.] キリストはそれに返答する準備があった(マタイ4:4)。イエスは答えて言われた、「書いてある」。注目すべきは、キリストがサタンのすべての誘惑に*「書いてある」と答えて打ち負かしたことである。キリストご自身は永遠のことばであり、モーセの書物に頼ることなく神の思いを示すことができた。しかしキリストは聖書に栄誉を与え、私たちに模範を示すために、律法に書かれていることに訴えた。そしてサタンが書かれていることをよく知っていることを前提として、サタンにこう言われた。悪魔の子どもたちであっても、神の書に何が書かれているかを非常によく知っている可能性がある。悪魔たちでさえ信じて震える。私たちが罪に誘惑されるとき、いつでも取るべき方法はこれである。誘惑に抵抗し、「書いてある」と退けること。神のことばは御霊の剣*、キリストの武具のすべての中で唯一の攻撃的武器である(エペソ6:17)。そして私たちはダビデがゴリヤテの剣について言ったように、それについて*「これに勝るものはない」*と言うことができる。
この答えは、他のすべてと同様に、申命記から取られている。申命記は第二の律法を意味し、儀式的なことはほとんどない。レビ人の犠牲と清めは、神の制定であってもサタンを追い払うことはできなかった。ましてや人間の発明である聖水や十字架のしるしはなおさらである。しかし道徳的な戒めと福音的な約束は、信仰と混ぜられて、サタンを打ち負かすために神を通じて力強い。これは申命記8:3から引用された。そこで神がイスラエルにマナで養われた理由が与えられている。人はパンだけで生きるのではないことを教えるためであった。キリストはこれをご自身の場合に適用した。イスラエルは神の子であり、エジプトから呼び出された(ホセア11:1)。キリストも同様であった(マタイ2:15)。イスラエルは当時荒野にいた。キリストも今そうであった。おそらく同じ荒野で。さて、第一に、悪魔はキリストが窮乏にいるからといって子としての身分を疑わせようとした。「いや」、とキリストは言う。「イスラエルは神の子であり、非常に優しく扱い、その行いを忍ばれた子であった(使徒13:18)。それでも神は彼らを窮乏に導いた。そしてそこで続く(申命記8:5)。『人がその子を懲らすように、主、あなたの神はあなたを懲らされる』。キリストは子として、こうして従順を学ばれる。第二に、悪魔はキリストに父の愛と配慮を疑わせようとした。「いや」、とキリストは言う。「それはイスラエルがしたようになる。彼らは欠乏のとき、主は私たちのうちにおられるのか、荒野で食卓を整えることができるか、パンを与えることができるのかと言った」。第三に、悪魔はキリストに、空腹になり始めたらすぐに供給を探すように仕向けようとした。しかし神は、賢く聖なる目的のために、イスラエルを養う前に飢えさせた。彼らをへりくだらせ、試すためである。神はご自身の子どもたちが欠乏のとき、神に待ち望むだけでなく、神のために待つことを願われる。第四に、悪魔はキリストにパンで自分を養うように仕向けようとした。「いや」、とキリストは言う。「その必要がどこにあるか。人はパンなしに生きることができることは、ずっと前に決まり、議論の余地なく証明されたことである。荒野のイスラエルが四十年間マナで生きたように」。確かに、神はご自身の摂理において通常、地から出るパン(ヨブ28:5)によって人を養われる。しかし神は、お望みならば、人を生かすために他の手段を用いることができる。神の口から出るすべてのことば、そのために神が命じ、定められたすべてのものは、人にとってパンと同様に良い生活であり、パンと同様に人を養う。私たちがパンを持っても、神が祝福を拒まれれば養われないように(ハバクク1:6,9、ミカ6:14。パンは命の支えであっても、神の祝福こそがパンの支えなのだから)。それと同じように、私たちはパンを欠いても、他の何らかの方法で養われることがある。神はモーセとエリヤをパンなしで支え、キリストご自身をこの四十日間支えた。神はイスラエルを天からのパン、御使いたちの食物で支えた。エリヤを奇跡的にカラスが運んだパンで支え、また別の時にはやもめの粉が奇跡的に増えて支えた。それゆえキリストは石をパンに変える必要はなく、空腹になる前の四十日間そうであったように、今空腹であっても、他の何らかの方法で生かしてくださるよう神に信頼すればよい。注。私たちが大いなる豊かさの中にあっても神なしで生きようと思ってはならないように、私たちが最大の窮乏にあっても神に頼って生きることを学ばなければならない。そしていちじくの木が花を咲かせず、畑が食物を出さないとき、すべての通常の救いと支えの手段が断たれたときでさえ、主にあって喜ばなければならない。そのとき私たちは、たとえ主の命令に反していても、自分の望むものを命じようと思ってはならない。むしろ主がお与えになると思われるものを謙虚に祈り、たとえ少ない分け前であっても、与えられたパンに感謝しなければならない。ここでキリストから学ぼう。自分の切り盛りではなく、神の備えに頼ることを。そして私たちの欠乏がいかに切迫していても、供給のために不法な道を選ってはならない(詩篇37:3)。エホバ・エレ。あるいはこの方法かあの方法で、主は備えられる。神の善良さの実に貧しく生きる方が、自分自身の罪の産物に豊かに生きるより良い。
さて、この第二の試みにおいて、次のことが観察される。
(1) 誘惑が何であったか、そしてそれがどのように仕掛けられたか。一般に、キリストが食物の点で父の配慮に这么も自信を持っているのを見て、悪魔は安全の点でその配慮について思い上がるようにキリストを引き込もうとする。注。私たちは右にも左にも道を間違える危険にある。それゆえ、一つの極端を避けたとき、サタンの策略によって別の極端に走らないように注意しなければならない。浪費を克服することによって、貪欲に陥らないように。絶望と思い上がりの極端ほど危険なものはない。特に魂の事柄において。キリストが彼らの罪から救うことができ、かつ救いたいと確信した人々は、キリストが彼らの罪のうちに救うと思い上がるように誘惑される。このように人々が宗教に熱心になり始めると、サタンは彼らを偏狭さと不節制な熱気に駆り立てる。
さて、この誘惑において次のことが観察される。
[1.] 悪魔がどのように道を備えたか。悪魔はキリストを力に逆らって無理に連れて行ったのではなく、キリストを行くように促し、共に行った。エルサレムへ。キリストが地を歩いて神殿の階段を上ってその頂に行ったのか、それとも空中を行ったのかは不確かである。しかし頂、あるいは尖塔に立たされた。神殿の屋根の上(ある人々)、城壁の上(ある人々)、神殿の翼(ことばはそうである)。さて注目せよ。第一に、キリストがこのように急き立てられることを許された点で、いかに従順であったか。それはサタンに最善を尽くさせ、それでも打ち勝つためであった。ここでのキリストの忍耐は、後の苦しみと死においてと同様に、サタンやその道具の力よりも驚くべきである。というのは、サタンもその道具も、上から与えられた力によらなければ、キリストに対して何の力も持てなかったから。キリストがサタンのこの力をキリストご自身に解き放ちながら、私たちに対しては同様に解き放たず、それを抑えられることは、なんと慰めであるか。キリストは私たちの造りを知っておられるから! 第二に、誘惑の場所の選択において、悪魔がいかに巧妙であったか。キリストにご自身の力の誇示と、神の摂理に対する虚栄の思い上がりを勧めようと企てて、悪魔はキリストをエルサレムの公の場所、人口の多い都市、全地の喜びである神殿に据えた。それは世界の不思議の一つであり、誰かによって絶えず賞賛の目で見つめられていた。そこでキリストは目立ち、すべての人に気づかれ、神の子であることを証明できたであろう。前の誘惑で促されたように荒野の不明瞭さにおいてではなく、群衆の前で、最も顕著な行動の舞台において。
注目せよ。1. エルサレムはここで聖なる都と呼ばれる。名前と職業においてそうであったから。そこには聖なる種があり、それがその実質であった。注。地上に悪魔とその誘惑から私たちを除外し守るほど聖なる都市はない。最初のアダムは聖なる園で誘惑され、第二の方は聖なる都で誘惑された。それゆえ、いかなる場所でも警戒を緩めてはならない。いや、聖なる都は、悪魔が誇りと思い上がりへ人々を誘惑するのに大いに有利で成功する場所である。しかし神をほめたたえよう、上のエルサレム、その聖なる都には、汚れたものは入らない。そこで私たちは永遠に誘惑から離れる。2. 悪魔はキリストを神殿の頂に据えた。それは(ヨセフスが描写するところによれば、『ユダヤ古代誌』15.412)、下を見ると人が目を回すほど非常に高かった。注。神殿の頂は誘惑の場所である。すなわち、(1) 高い場所はそうである。そこは滑りやすい場所である。世における昇進は、サタンが燃える矢を撃つのに好都合な的を人に作る。神は引き下げて引き上げ、悪魔は引き上げて引き下げる。それゆえ倒れることを警戒する者は、登ることを警戒しなければならない。(2) 教会における高い場所は、特別な意味で危険である。賜物に優れ、顕著な地位にあり、大いなる評判を得た者たちは、へりくだりを保つ必要がある。サタンは必ず彼らを狙い、誇って悪魔の罪に定められるようにするから。高く立つ者たちは堅く立つことを心がけなければならない。
[2.] 悪魔がどのようにそれを持ちかけたか。「あなたが神の子なら、今世界に自分を示し、そうであることを証明せよ。下に飛び降りよ」。すると、第一に、「特別な天の保護の下にあるとして賞賛されるであろう。そのような崖からの落下で傷を受けないのを見れば、人々は(野蛮な人々がパウロについてしたように)あなたを神だと言うであろう」。伝承によれば、シモン・マグスはまさにこのことによって自分が神であることを証明しようとしたが、その主張は否定された。彼は落ちて惨めに打ちのめされたから。「いや」、第二に、「特別な天からの任命を持つ者として受けられるであろう。全エルサレムが見、認めるであろう。あなたが単なる人以上の者であるだけでなく、神殿に突然来るべき契約の御使い、その使者(マラキ3:1)であることを。そしてそこから聖なる都の通りに下って来る。こうしてユダヤ人を納得させるわざは短縮され、すぐに成し遂げられるであろう」。
注目せよ。悪魔は言った。「下に飛び降りよ」。悪魔はキリストを突き落とすことはできなかった。尖塔の頂からは少しのもので十分だったであろうのに。注。サタンの力は制限された力である。ここまで来て、それ以上は進めない。しかしもし悪魔がキリストを突き落としていたら、その目的は達しなかったであろう。それはキリストの苦しみだけであり、罪ではなかったから。注。私たちに加えられる真の害はすべて私たち自身の仕業である。悪魔は説得できるだけで、強制できない。悪魔は*「下に飛び降りよ」と言うだけで、突き落とせない。各人は自分自身の欲望に引きずられるとき誘惑される。強制されるのではなく、誘惑される。それゆえ私たちが自分自身を傷つけない*ならば、神をほめたたえよう、他の誰も私たちを傷つけられない(箴言9:12)。
[3.] 悪魔がいかにこの提案を聖書で裏付けたか。「『神は御使いたちにあなたのために命令を与えられる』と書いてあるから」。しかしサウルも預言者たちのうちにいるのか。サタンはこれほど容易く聖書を引用できるほど聖書に精通しているのか。そのようである。注。人の頭が聖書の観念でいっぱいで、口が聖書の表現でいっぱいであっても、心が神とすべての善良さに対する支配的な敵意でいっぱいであることが可能である。悪魔たちの聖書についての知識は、彼らの有害さと苦痛の両方を増す。悪魔がキリストにあなたがだれであるかを知っていると言ったときほど、自分自身に苦痛を与えて語ったことはなかった。悪魔はキリストに飛び降りるよう説得しようとした。キリストが自らの殺人者となり、キリストとその事業—悪魔は嫉妬の目で見ていた—が終わることを望んだ。キリストにそれをするよう励ますため、悪魔は危険はない、良い御使いたちがキリストを守ると言った。そのように約束されていたから(詩篇91:11)。「主は御使いたちにあなたのことを命じられる」。この引用において、
第一に、正しいところがあった。聖徒たちの保護のための御使いたちの奉仕についての約束があることは真実である。悪魔は経験によってそれを知っている。というのは、悪魔は彼らに対する自分の試みが実を結ばないことを見出し、ヨブの周りの垣根について敏感に語ったように(ヨブ1:10)、それにいら立ち、激怒するから。悪魔はそれをキリストに適用した点でも正しかった。というのは、聖徒の保護のすべての約束は、第一に、顕著にキリストに属し、キリストにあって、キリストを通して彼らに属するから。彼らの骨は一つも砕かれないという約束(詩篇34:20)は、キリストにおいて成就した(ヨハネ19:36)。御使いたちはキリストのゆえに聖徒たちを守る(黙示録7:5,11)。
第二に、間違っているところが大いにあった。おそらく悪魔はこの約束に特別な悪意を抱き、それを曲解した。それがしばしば悪魔の邪魔になり、悪魔が聖徒たちに対する有害な計画を挫折させたから。ここを見よ。1. 悪魔がどのように誤って引用したか。それは悪かった。約束はこうである。彼らはあなたを守る。しかしすべてのあなたの道において。それ以外は違いない。もし私たちが自分の道から、義務の道から外れるなら、約束を失い、神の保護から外れる。さてこのことばは誘惑者に不利であった。それゆえ悪魔は慎重にそれを省いた。もしキリストが飛び降りていたら、自分の道から外れていたであろう。キリストには自らを危険にさらす召しはなかったから。あらゆる機会に聖書自体を調べ、人のことばをそのまま信じないことは、私たちにとって良いことである。そうすれば神のことばを傷つけ、切り刻む者たちに欺かれない。私たちは高貴なベレヤ人のように、毎日聖書を調べなければならない。2. 悪魔がどのように誤って適用したか。それはさらに悪かった。聖書が罪を擁護するために押し出されるとき、聖書は乱用される。人々がこうしてそれを自分自身の誘惑のために曲げるとき、自分自身の滅びのために行う(ペテロ第二3:16)。この約束は堅く、有効である。しかし悪魔はそれを、神の配慮について思い上がるための励ましとして用いたとき、悪く用いた。注。神の恵みが放縦に変わることは新しいことではない。人々が罪ある者への神の善意の啓示から罪への励ましを取ることも。しかし恵みが増し加わるために、私たちは罪の中に留まるべきだろうか。御使いたちが私たちを支えるために、私たち自身が飛び降りるべきだろうか。断じてそんなことはない。
(2) キリストがこの誘惑にどのように打ち勝たれたか。キリストは前のものと同様に、「書いてある」と抵抗し、打ち勝たれた。悪魔が聖書を乱用したことは、キリストがそれを用いることを妨げなかった。キリストはすぐに、申命記6:16を促す。「主、あなたの神を試みてはならない」。これの意味は、それゆえあなたは私を試みてはならない、ということではない。それゆえ私は父を試みてはならない、ということである。引用元の箇所では、複数形であなたがたは試みてはならないである。ここでは単数形であなたはである。注。私たちは神のことばから益を得ることができそうなときは、一般的な約束を私たちに個別に語りかけるものとして聞き、受けることである。サタンは*「書いてある」と言い、キリストも「書いてある」*と言う。ある聖書が別の聖書に矛盾するからではない。神は一つ、そのことばは一つ、その思いは一つである。しかしあれは約束、これは戒めである。それゆえあれはこれによって説明され、適用されなければならない。聖書は聖書の最良の解釈者である。預言する者、すなわち聖書を解説する者は、信仰の割合にしたがって(ローマ12:6)、実践的な敬虔と一致して行わなければならない。
もしキリストが飛び降りたなら、神を試みることであった。[1.] 十分に確認されたもののさらに確認を求めることとして。キリストは、神がすでにご自身の父であり、キリストの世話をし、御使いたちにキリストについての命令をお与えになったことに十分に満足していた。それゆえそれを新たな実験にかけることは、パリサイ人たちがキリストを試みたように試みることであった。彼らは地での多くのしるしを持っていたのに、天からのしるしを要求した。これはイスラエルの聖なる方を制限することである。[2.] 召しのないことを行う際の特別な保護を求めることとして。もし私たちが、神が私たちを見捨てないと約束されたからといって、義務の道から外れてついて来ることを期待し、神が私たちの欠乏を満たすと約束されたからといって、私たちを気まぐれにし、私たちの空想を喜ばせることを期待し、神が私たちを守ると約束されたからといって、意図的に危険に飛び込み、指定された手段を用いずに望む結果を期待するなら、これは思い上がりであり、神を試みることである。しかも彼が主、私たちの神であるということは、罪を加重する。私たちが神を持つという特権の乱用である。神はそれによって私たちが神に信頼することを励まされた。しかし私たちがそれゆえ神を試みるなら、非常に恩知らずである。私たちの神としての神に対する義務に反する。これは尊ぶべき方に侮辱を与えることである。注。私たちは神が私たちに約束された以上のものを決して期待してはならない。
(1) 悪魔が救い主にどのようにこの襲撃を仕掛けたか(マタイ4:8,9)。最悪の誘惑は最後に取って置かれた。注。時に聖徒の最後の戦いはアナクの子孫とのものであり、別れの打撃が最も痛い。それゆえ、どのような誘惑に襲われても、私たちはさらに悪いもののために備えなければならない。右の手にも左の手にも義の武具を着けて、すべての攻撃に備えなければならない。
この誘惑において、次のことが観察される。
[1.] 悪魔が何を見せたか。世界中のすべての国である。これを行うために、悪魔はキリストを非常に高い山に連れて行った。バラクがバラムとしたように勝つことを期待して、場所を変えた。神殿の頂では十分でない。空中の権威の君はキリストをさらにその領域へ連れて行かなければならない。ある人々は、この高い山はヨルダンの向こう側であったと考える。そこで私たちは誘惑の直後にキリストを見出すからである(ヨハネ1:28,29)。おそらくそれはピスガの山で、そこからモーセは神との交わりにおいてカナンのすべての国を見せられた。ここに祝福されたイエスは展望の有利のために連れて行かれた。まるで悪魔が、世界を造り、治めておられる方よりも世界について多くを示すことができたかのように。そこからユダヤの周辺に位置するいくつかの国を見出だせたかもしれないが、その栄華は見られなかったであろう。しかしそこには疑いなくサタンのトリックと幻影があった。悪魔が示したのは、おそらく風景、雲の中の空虚な表現であり、その大いなる欺瞞者が容易く組み立てることができるようなものであった。君主たちの栄光と華やかな姿を、適切で生き生きとした色彩で描き出したのである。彼らの衣装と冠、彼らの従者、装備、近衛兵。玉座、宮廷、壮麗な宮殿の豪華さ、都市の豪華な建築物、別荘の周りの庭園や畑、そして富、快楽、華やかさのさまざまな実例。こうして想像力を最も打ち、賞賛と愛情を喚起しやすいように。このようなショーであった。キリストを高い山に連れて行ったことは、そのものを面白がり、幻影を色づけるためであった。しかしこれにおいても、祝福されたイエスは欺かれることを許さず、欺瞞を見抜いた。ただサタンが自分の道を行くことを許した。それはサタンに対する勝利がより輝かしいものとなるためであった。ここから、サタンの誘惑について観察せよ。第一に、それらはしばしば目を通して入ってくる。目は見るべきものについて盲目にされ、背けるべき空しいものによって眩惑される。最初の罪は目に始まった(創世記3:6)。それゆえ私たちは目と契約を結び、神が空しいものを見ないように私たちの目を背けてくださるよう祈る必要がある。第二に、誘惑は通常、世と世にあるものから立ち上がる。肉の欲、目の欲、暮ら向きの誇りは、悪魔がその論拠の大部分を取る主題である。第三に、悪魔が貧しい魂に行う大いなる欺瞞がある。悪魔は欺き、こうして滅ぼす。悪魔は影と偽りの色彩で人々に印象を与える。世とその栄華を見せ、人々の目から、この栄華のすべての誇りを汚す罪と悲しみと死、大いなる所有に伴う心配と災い、冠そのものが裏打ちされている棘を隠す。第四に、世の栄華は思慮のない者と油断のない者にとって最も魅力的な誘惑であり、それによって人々が最も欺かれる。ラバンの息子たちはヤコブのこの栄華すべてをねたむ。暮ら向きの誇りは最も危険なわなである。
(2) 悪魔がキリストに何と言ったか(マタイ4:9)。「もしひれ伏して私を拝むなら、これらのものをすべてあなたにあげよう」。見よ。
第一に、約束がいかに空虚であったか。「これらのものをすべてあなたにあげよう」。悪魔は、前の誘惑で一部目的を達し、キリストが要求したような神の子の証拠を与えなかったことから、キリストが神の子ではないことを証明したかのように前提とする。こうしてここでキリストを単なる人と見なす。「さあ」、と悪魔は言う。「あなたがその子だと思っている神はあなたを見捨て、餓死させているようだ。それは神があなたの父でないしるしである。しかしもし私に従うなら、もっと良くしてあげよう。私を父と認め、私の祝福を求めよ。そうすればこれらのものをすべてあなたにあげよう」。注。サタンは、人々が神に見捨てられたと思い込ませることができるとき、彼らを容易く獲物とする。この約束の欺瞞は、「これらのものをすべてあなたにあげよう」にある。そしてすべてとは何であったか。地図、絵、単なる幻影であり、現実の、確かなものは何もなく、これを与えようというのである。なんと立派な賞品! しかしこれがサタンの提供である。注。群衆は、そうでないものに目を固定することによって、あるものの視界を失う。悪魔の餌はすべて偽物である。悪魔が欺く、あるいはむしろ彼ら自身が自分自身を欺く、影とショーである。地のもろもろの国は、ずっと前にメシアに約束されていた。もしその方が神の子なら、それらはその方に属する。サタンは今、良い御使い、おそらく国々の上に立てられた者の一人を装い、約束にしたがって引渡しを受ける委託を受けたふりをする。注。神が約束されたものを悪魔の手から受け取ることにも注意しなければならない。罪ある方法でそれを急いで実現することによってそうする場合である。
第二に、条件がいかに卑しいものであったか。「もしひれ伏して私を拝むなら」。異邦人が彼らの神々に行ったすべての礼拝は、悪魔に向けられた(申命記32:17)。それゆえ悪魔はこの世の神と呼ばれる(コリント第二4:4、コリント第一10:20)。そして悪魔はキリストを自分の利害に引き込み、教師として立ち上がった今、異邦人の偶像礼拝を説き、ユダヤ人の間に再びそれを導入するように説得したければ、地のもろもろの国はすぐにその方に群がるであろう。これより恐ろしく、より黒い誘惑があっただろうか。注。最も良い聖徒たちでさえ、最も悪い罪に誘惑されることがある。特に憂鬱の力の下にあるとき。たとえば無神論、冒涜、殺人、自殺、その他もろもろに。これは彼らの苦しみであるが、それに同意せず、是認しない限り、彼らの罪ではない。キリストはサタンを拝むように誘惑された。
(2) キリストがどのようにその一撃をかわし、襲撃を打ち負かし、征服者として現れたかを見よ。キリストはその提案を退けた。
[1.] 嫌悪と憎悪をもって。「下がれ、サタン」。前の二つの誘惑はいくらかの色彩を持ち、考慮を許した。しかこれはこれほど露骨で、協議に耐えなかった。一見して忌まわしく、それゆえ直ちに退けられた。もし私たちが世で持つ最も良い友人がこのようなことを示唆するなら、「行って、他の神々に仕えよ」、忍耐を持って聞かれてはならない(申命記13:6,8)。ある誘惑はその邪悪さを額に書いている。あらかじめ開かれている。議論されるべきではなく、退けられるべきである。「下がれ、サタン。それを取り去れ、私はその考えに耐えられない」。サタンがキリストに飛び降りるよう—自らに害を加えるよう—誘惑している間、キリストは従わなかったが、それを聞いた。しかし今、誘惑が神の顔に飛びかかると、キリストは耐えられない。「下がれ、サタン」。注。神の栄誉に言及し、神の冠に打撃を与えるような何かの提案に立ち上がる正当な憤りである。いや、主が憎まれる忌まわしいものは何であれ、私たちは同様にそれを忌まわしく思わなければならない。私たちがそれと何のかかわりを持つようなことが、私たちから遠ざけられますように。注。誘惑に抵抗する際に断固としてあることは良いことである。サタンの魅力に耳を塞ぐこと。
[2.] 聖書から取った論拠をもって。注。罪に対する私たちの決意を強めるためには、それらの決意にどれほど多くの理由があるかを見ることは良いことである。論拠は非常に適切で、まさに的を射ている。申命記6:13、10:20から取られた。「主、あなたの神を拝み、主にだけ仕えよ」。キリストは、悪魔が装ったように光の御使いであるかどうかを議論しない。しかし仮にそうであっても、拝まれてはならない。それは神だけに due な栄誉だから。注。誘惑に対する答えをできるだけ完全に、また簡潔に作ることは良いことである。異論の余地を残さないように。救い主はこの場合の根本的な律法に訴えられる。それは不可欠で、普遍的に拘束力がある。注。宗教的礼拝は神だけに due であり、いかなる被造物にも与えられてはならない。それは冠から外すことのできない花、神が他人には与えないご自身の栄光の枝である。もし神の子が神でなく、父と等しく、父と一つでなかったなら、神はすべての人に父を尊ぶように子を尊ませることによって、この栄光を神の子に与えなかったであろう。キリストは宗教的礼拝に関するこの律法を引用し、ご自身に適用して引用される。第一に、キリストがへりくだりの状態にあったとき、ご自身がこの律法の下に置かれたことを示すため。神として礼拝を受けても、人としては公にも私にも神を礼拝した。キリストは私たちに、ご自身がまず喜んで従われた以上のものを私たちに義務づけない。こうしてすべての義を満たすことがキリストにふさわしかった。第二に、宗教的礼拝の律法が永遠の義務であることを示すため。キリストは礼拝の多くの制度を廃止し、変更したが、自然の根本的な律法—神だけが礼拝されるべきであるという—は、確認し、堅め、私たちに強いるために来られた。
五、ここにこの戦いの終わりと結果がある(マタイ4:11)。神の子どもたちは多くの、大いなる誘惑によって試みられるかもしれないが、神は彼らが、彼らが持っているか、神が彼らに入れる力以上に誘惑されることを許されない(コリント第一10:13)。さまざまの誘惑によってしばらくの間、悲しみの中にいるだけである。
さて、その結果は栄光に満ち、キリストの誉れとなる。というのも、
悪魔は打ち負かされ、戦場を去った。「すると悪魔はイエスを離れて行った」。「下がれ、サタン」という命令のことばに伴った力によってそうさせられた。悪魔は恥ずべき、不名誉な退却をし、不名誉とともに去った。そして悪魔の試みが大胆であればあったほど、その敗北はさらに屈辱的であった。Magnis tamen excidit ausis—しかしかくも大胆な試みにおいて彼は敗れた。 そのとき、悪魔は最善を尽くし、世界中のすべての国とその栄華でキリストを誘惑し、それがキリストに影響を与えず、人の子たちの何千をも倒した誘惑でキリストに勝てないことが分かったとき、悪魔はキリストを去る。そのとき、悪魔はキリストを人以上の者としてあきらめる。これがキリストを動かさないなら、キリストを動かすことを絶望し、キリストが神の子であり、これ以上誘惑するのは無駄だと結論し始める。注。もし私たちが悪魔に抵抗するなら、悪魔は私たちから逃げる。私たちが立場を保つなら、悪魔は屈服する。ナオミがルツが堅く決心しているのを見て、ルツに語るのをやめたように。悪魔が救い主を去ったとき、悪魔は完全に負けたことを認めた。悪魔の頭は、キリストのかかとを打つために試みたことで打ち砕かれた。悪魔がキリストを去ったのは、キリストのうちに何も、つかむべきものがなかったからである。無駄だと見て、あきらめた。注。悪魔はすべての聖徒の敵であっても、打ち負かされた敵である。私たちの救いの司令官は悪魔を打ち破り、武装を解いた。私たちは勝利を追うことだけをしなければならない。
聖なる御使いたちが来て、勝利された贖い主に仕えた。「見よ、御使いたちが近づいて来て、イエスに仕えた」。彼らは誘惑において悪魔がしたように、可視の姿で来た。悪魔が救い主に襲撃を仕掛けている間、御使いたちは遠くに立ち、彼らの直接的な奉仕と仕えは中止された。それはキリストがご自身の力でサタンに勝ったこと、そしてキリストの勝利がより輝かしいことが現れるためであった。また後に、ミカエルが彼の御使いたちを用いて悪龍とその御使いたちと戦うとき、それは必要だからではなく、彼らを用いるほど彼らに栄誉を与えることを喜ばれるからではないことが現れるためであった。一人の御使いがキリストに食物を持って来るのに十分であったはずだが、ここには多くの者がキリストに仕えている。それは彼らがキリストに敬意を払い、キリストの命令を受ける準備ができていることを証明するため。これを見よ! 注目に値する。(1) キリストとその教会、そして各々の信者に戦いを挑む悪質で悪意に満ちた霊の世界があるように、彼らのために従事し、用いられる聖なる、祝福された霊の世界がある。悪魔たちとの戦いに関して、私たちは御使いたちとの交わりから豊かな慰めを取ることができる。(2) キリストの勝利は御使いたちの勝利である。御使いたちはキリストの成功を祝うために来た。キリストと共に喜び、その御名に due な栄光を帰すため。というのは、大いなる悪龍が投げ出されたとき(黙示録12:9,10)、天で大声で歌われたから。「今や救いと力が現れた」。(3) 御使いたちは主イエスに、食物だけでなく、この大いなる疲労の後にキリストが必要としたすべてのものを仕えた。キリストのへり下りと謙譲の実例が、栄光のしるしでどのように釣り合ったかを見よ。弱さで十字架につけられても、神の力によって生きたように、弱さにおいて誘惑され、空腹で、疲れても、神の力によって御使いたちの奉仕を命じた。こうして人の子は御使いたちの食物を食べ、エリヤのように荒野で御使いによって養われた(列王第一19:4,7)。注。神はご自身の民を欠乏と窮乏に陥らせることがあっても、彼らの供給のために有効な配慮をされる。彼らが滅びるのを見るよりは、御使いたちを遣わして彼らを養われる。主に信頼せよ、そうすれば確かに養われる(詩篇37:3)。
キリストは誘惑の後にこのように助けられた。[1.] キリストの事業を続けるための励ましとして。地獄の力がキリストに立ちはだかるのを見たとき、天の力がキリストの味方であることを見るため。[2.] キリストに信頼するための私たちの励ましとして。キリストは誘惑されて苦しむことがどういうことか、それがいかに困難であったかを経験によって知られたように、誘惑されて助けられることがどういうことか、それがいかに慰めであったかを知られた。それゆえ私たちは、キリストが誘惑された民に同情するだけでなく、時宜を得た救済をもたらしてくださると期待してよい。アブラハムが戦いから帰ってきたときに出会った偉大なメルキゼデクのように、またここで御使いたちがキリストに仕えたように。
¹² イエスはヨハネが投獄されたことを聞かれると、ガリラヤへ退かれた。
¹³ そしてナザレを離れ、来てカペナウムに住まわれた。ゼブルンとナフタリの境に沿い、海辺にある所である。
¹⁴ これは預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。すなわち、
¹⁵ 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの向こう、異邦人のガリラヤ。
¹⁶ 暗やみの中にすわっていた民は大いなる光を見た。死の地とその影にすわっていた者たちに光がのぼった」と。
¹⁷ その時からイエスは宣べ伝え始め、こう言われた。「悔い改めよ。天の御国は近づいたからである」と。
ここにガリラヤの会堂でのキリストの説教についての記録がある。彼は説教者として世に来られたからである。彼が成し遂げた大いなる救いを、彼ご自身がまず宣べ伝え始められた(へぶ2:3)。それがいかに彼の心にあり、我々の心にもあるべきかを示すために。
他の福音書のいくつかの箇所、特にヨハネの福音書のものが、キリストの生涯の物語の順序において、彼の試みとガリラヤでの説教の間にはいると想定される。彼の試みの後の最初の現れは、バプテスマのヨハネが彼を指して、『見よ、神の小羊』と言ったときであった(ヨハ1:29)。その後、彼は過ぎ越しのためにエルサレムに上り(ヨハ2:12-25)、ニコデモと語り(ヨハ3:1-21)、サマリヤの女と語り(ヨハ4:1-42)、それからガリラヤに戻り、そこで説教した。しかしマタイはガリラヤに住んでいたので、キリストの公の伝道の物語をその地での説教から始める。ここにその記録がある。観察せよ。
一、時。『イエスはヨハネが投獄されたことを聞かれると』、その時『ガリラヤへ退かれた』(マタ4:12)。御覚え置かれたい。聖徒たちの苦しみの叫びは主イエスの耳に上る。もしそヨハネが投獄されるなら、イエスはそれを聞き、それを知り、それに応じてその道を定められる。彼は『民に留まる縛と苦しみを覚えられる』。観察せよ。
キリストはヨハネの投獄を聞く『まで』、その国に行かなかった。というのも、主ご自身が現れる前に、彼に『主の道を備える』時間が与えられなければならなかったからである。摂理は賢明にも、キリストが『輝き出る』前に、ヨハネが『食(蝕)される』ように取り計らった。そうでなければ、人々の心は二人の間で分散したであろう。一人は『私はヨハネのもの』と言い、もう一人は『私はイエスのもの』と言ったであろう。ヨハネはキリストの先駆けでなければならなかったが、彼のライバルではなかった。太陽が昇るとき、月と星は失われる。ヨハネは悔い改めのバプテスマによってそのわざを終え、その時取り除かれた。あかし人たちはそのあかしを終えた時に—それ以前ではなく—殺された(黙11:7)。
彼はヨハネの投獄を聞くとすぐ、その国へ行った。ユダヤのパリサイ人たちがヨハネに対するヘロデと同じように彼の敵であることを知って、自分自身の安全のためにだけでなく、バプテスマのヨハネの欠を補い、彼が置いた良い基礎の上に建てるためであった。御覚え置かれたい。神はご自身にあかし人なしには、その教会に導き手なしには残られない。一つの有用な器を移されるとき、別の者を立ち上げることができる。というのも、彼は御霊の残りを持っておられ、もしわざがあれば、それをされるからである。『わたしのしもべモーセは死んだ』。ヨハネは投獄された。それゆえ今、ヨシュアよ、立ち上がれ。イエスよ、立ち上がれ。
二、彼が説教した場所。ガリラヤにおいて。それは国の最も遠い部分であり、エルサレムから最も遠く、そこでは粗野で無礼なものとして軽蔑を持って見られた。その国の住民は強健な男たち、兵士にふさわしいと見なされたが、洗練された人々、あるいは学者にふさわしい者ではなかった。そこへキリストは行き、そこに彼の福音の旗を立てた。そしてこの事においても他の事において同様に、彼はご自身を低くされた。観察せよ。
しかし彼は『来てカペナウムに住まわれた』。それはガリラヤの都市であったが、ナザレから何マイルも離れた、大きな都市であり、多くの人が集まる所であった。ここで『海辺』にあると言われる。大海ではなく、テベリヤの海、内陸の水であり、『ゲネサレテ湖』とも呼ばれる。ヨルダンが海に注ぐすぐそばにカペナウムは立っていた。ナフタリの部族の中にあったが、ゼブルンに接していた。ここへキリストは来られ、ここに住まわれた。ある者たちは、彼の父ヨセフがここに住まいを持っていたと考える。他の者たちは、彼が家または少なくとも宿を借りたと考える。そしてある者たちは、彼がシモン・ペテロの家に住んだことは以上にありそうであると考える。いずれにせよ、彼は常にここに定住したわけではない。というのも、彼は『巡り歩いて善を行われた』からである。しかしこれはしばらくの間彼の本部であった。彼が持ったわずかな休息はここにあった。ここに彼は、自分自身の場所ではなかったが、頭を置く場所を持った。そしてカペナウムでは、彼は歓迎され、ナザレで受けたよりも良い待遇を受けたようである。御覚え置かれたい。もし一部の者たちがキリストを拒んでも、他の者たちは彼を受け入れ、彼を歓迎するであろう。カペナウムはナザレの残り物を喜ぶ。もしキリストの同国人が集められなくても、彼は栄光を受けるであろう。『そしてあなた、カペナウムよ、今やその日を持つ。あなたは今や天まで高く上げられた。自分のために賢くあり、あなたの訪れの時を知れ』。
場所について語られる(マタ4:15)。『ゼブルンの地』は『海辺』にあると正しく言われる。というのも、ゼブルンは『船の避難所』であり、その『出て行くことを喜んだ』からである(創49:13、申33:18)。ナフタリについては、彼は『良い言葉を与える』であり(創49:21)、『恵みで満たされる』と告げられていた(申33:23)。というのも、彼から福音が始まったからである。誠に良い言葉であり、たましいに神の満ち足りる恵みをもたらすもの。ヨルダンの向こうの国も同様に言及される。そこで我々は時にキリストが説教しておられるのを見出す。そして異邦人のガリラヤ、上ガリラヤについて。そこに異邦人は交易のために集まり、ユダヤ人と混じっていた。これは哀れな異邦人のために取っておかれた親切を示す。キリストがカペナウムに来られたとき、福音はその周囲のすべての場所に来た。義の太陽がこれほど広がりのある影響を投げたように。
さて、これらの場所の住民について、観察せよ。
(1)福音が彼らの中に来る前に彼らがいた状態(マタ4:16)。彼らは『暗やみの中に』いた。御覚え置かれたい。キリストを持たない者は暗やみの中にいる。いな、彼らは暗やみそのものである。『大いなる淵の面の上にあった』暗やみのように。いな、彼らは『死の地とその影の中に』いた。これは『墓が暗やみの地である』ように、『大いなる暗やみ』だけでなく、『大いなる危険』を意味する。絶望的に病み、回復の見込みのない人は、『死の影の谷』にいる—完全に死んでいないが。このように哀れな民は、まだ永遠の滅びに定められていないが、その境にあった。そして最も悪いことに、彼らはこの状態に『すわって』いた。続く姿勢としてのすわる。我々がすわる所に、我々は留まるつもりである。彼らは暗やみの中にあり、そうでありそうであった。道を見出す望みを失って。そしてそれは満足した姿勢である。彼らは暗やみの中にあり、彼らは暗やみを愛した。彼らは光よりもそれを選んだ。彼らは進んで無知であった。彼らの状態は悲しい。それは今も多くの大いなる強大な国民の状態である。それらは同情をもって思い、祈らなければならない。しかし『彼ら』の状態はさらに悲しい。福音の光の真ん中で暗やみにすわる者たち。夜であるために暗やみにいる者は、太陽が間もなく昇ることを確信し得る。しかし盲であるために暗やみにいる者は、それほど速くは目を開かれない。我々は光を持つ。しかしもし我々が主にあって光でなければ、それは我々にとって何の役に立つか。
(2)キリストとその福音が彼らの中に来たとき、彼らが享受した特権。それはかつて光が夜の旅人にとってであったのと同じ大いなる回復であった。御覚え置かれたい。福音が来るとき、光が来る。それがいかなる場所に、いかなるたましいに来ても、そこに昼を作る(ヨハ3:19、ルカ1:78,79)。光は発見的であり、方向的である。福音も同様である。
それは『大いなる』光である。福音の啓示の明確さと証拠を示す。ろうそくの光ではなく、太陽がその力をもって出る時の光のように。律法の光—その影は今や取り去られた—と比較して『大いなる』ものである。それは『大いなる』光である。大いなること、広大な結果を持つことを発見するからである。それは長く続き、遠く広がる。そしてそれは『成長する光』である。その言葉の中に示唆される。『のぼった』。それは彼らにとって『日の出』にすぎなかった。今や昼がほのぼのと明るくなり、その後『ますます輝いた』。福音の御国は、からし種や朝の光のように、その始まりは小さく、その成長は漸進的であったが、その完成は大いなるものである。
観察せよ。光は『彼らにのぼった』。彼らはそれを求めに行ったのではなく、この恵みの祝福をもって先回りされた。それは彼らが気づかぬ間に、定められた時に、『朝を命じ』、『夜明けにその場所を知らせ、地の果てを取らせる』方(ヨブ38:12,13)の配慮によって、彼らの上に来た。
三、彼が説教した本文(マタ4:17)。『その時から』、すなわちガリラヤに、ゼブルンとナフタリの地にはいられた時から、その時から、彼は説教を始められた。彼はこれより前、ユダヤで説教しておられ、多くの弟子を作り、バプテスマを授けていた(ヨハ4:1)。しかし彼の説教は今始まったほど公で恒常的なものではなかった。伝道のわざは非常に大いなり恐るべきものであるので、段階と漸進的な前進をもって始められるのにふさわしい。
キリストが今その説教において住んだ主題(そしてそれは実際、彼のすべての説教の総和と本質であった)は、ヨハネが説教したもの(マタ3:2)と全く同じであった。『悔い改めよ。天の御国は近づいたからである』。というのも、福音は様々な時代の下で本質において同じであるからである。命令は同じであり、それらを強制する理由も同じである。『天からの御使い』も別の福音を宣べ伝えることは敢えてしない(ガラ1:8)。そしてこれを宣べ伝えるであろう。それは『永遠の福音』だからである。『神を恐れ、』悔い改めによって『彼に誉れを帰せよ』(黙14:6,7)。キリストが彼に先立ってヨハネが説教したのと同じ趣旨で説教されたとき、彼はヨハネの伝道に大いなる敬意を払われた。これによって彼は、ヨハネがその使者、大使であったことを示された。というのも、彼がみずかり使いを携えたとき、彼らを通して送ったものと同じであったからである。このように神はその使者の言葉を確かめられた(イザ44:26)。子はしもべたちが来たのと同じ使いで来た(マタ21:37)。『実』を、悔い改めにふさわしい実を求めるために。キリストは父のふところに横たわり、学んだ世界を驚かせ惑わせるような、神聖で天にある事柄の崇高な概念を説教できた。しかし彼はこの古い平易な本文を選ばれた。『悔い改めよ。天の御国は近づいたからである』。
[1] これを彼は『最初に』説教した。これをもって始められた。奉仕者たちは新しい意見を打ち出すこと、新しい計画を構想すること、新しい表現を鋳造することを野心とせず、平易で実践的な事柄に、我々に『近い』言葉、『我々の口の中に』、『心の中に』ある言葉に満足しなければならない。説教において事柄や言葉のために天に上ったり、深淵に下ったりする必要はない。ヨハネがキリストの道を備えたように、キリストもご自身の道を備え、悔い改めの教えをもって彼が意図したさらに深い啓示のために道を開かれた。『もしだれでもそのみこころのこの部分を行うなら、その教えのさらに多くを知るであろう』(ヨハ7:17)。
[2] これは『しばしば』説教される。彼が行く所どこでも、これが彼の主題であった。そして彼も彼の従者たちも、それをすり切れたものとは見なさなかった。『かゆい耳を持ち』、真に徳となるものよりも新奇さと多様性を好む者たちがするように。御覚え置かれたい。前に説教され聞かれたものを、再び非常に有益に説教し聞くことができる。しかし、その時はより良く、新しい感情をもって説教され聞かれるべきである。パウロが前に言ったことを、彼は『涙を流して』再び言った(ピリ3:1,18)。
[3] これを彼は福音として説教した。『悔い改めよ、あなたの道を顧み、自分自身に立ち返れ』。御覚え置かれたい。悔い改めの教えは真の福音の教えである。陰気な、不機嫌な人と見なされた厳格なバプテスマのヨハネだけでなく、その唇が蜂の巣のように滴る甘く恵み深いイエスも悔い改めを説教された。というのも、悔い改めのために余地が残されていることは語り尽くせない特権だからである。
[4] 理由は依然として同じである。『天の御国は近づいた』。というのも、キリストの昇天の後の御霊の注ぎの後まで、それは完全に来たとは見なされなかったからである。ヨハネはこれより一年以上前に天の御国が近づいたことを説教した。しかし今やそれははるかに強い。今や『救いは近い』(ロマ13:11)。我々は『その日が近づくのを見るように』、それだけさらに我々の義務へと励まされるべきである(へぶ10:25)。
Matthew 4章 18-22 Matthew Henry's Complete Commentary
¹⁸ イエスがガリラヤ湖の岸辺を歩いておられると、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖に網を打っているのを見られた。彼らは漁師であった。 ¹⁹ イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」 ²⁰ すると彼らはすぐに網を捨てて、従った。 ²¹ そこから進んで行かれると、ゼベダイという人の子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見られ、お召しになった。 ²² 彼らはすぐに舟も父も残して、イエスに従った。
キリストが宣教を始められたとき、ご自身の教えの聞き手となり、やがて宣べ伝える者となるべき弟子たちを集め始められた。今やキリストの奇跡の証人となり、やがて奇跡についての証人となるべき者たちである。さて、これらの節には、キリストがご自身との交わりに召された最初の弟子たちについての記述がある。
これは、1. キリストへの有効な招きの実例であった。すべての宣教において、キリストは全国民に一般の招きを与えた。しかしこれにおいて、父から賜った者たちに特別で個別の招きを与えた。キリストの恵みの力を見、感嘆し、キリストのことばをその力の杖として認め、福音の招きの効力—その区別的な影響—に必要な力強い働きをキリストに待ち望もう。全国民が招かれたが、これらの者たちは招き出され、彼らのうちから贖い出された。キリストは世界に現されたのとは異なる仕方で、彼らに現された。2. 按手と、伝道のわざへの任命の実例であった。キリストが教師としてご自身の大いなる学校を設立されたとき、最初のわざの一つは、教えのわざに用いられる副師、あるいは補助教師を任命することであった。今キリストは人々に賜物を与え始め、宝を土の器に入れ始められた。それは教会に対するキリストの配慮の早い実例であった。
さて、ここで次のことが観察される。
一、どこで召されたか。ガリラヤ湖において。イエスが歩いておられた場所である。カペナウムはその湖の近くに位置していた。このテベリヤの湖について、ユダヤ人は次のように言っている。神が造られた七つの海のうち、神はゲネサレトの湖以外は選ばれなかった、と。これはキリストがしばしばご自身の臨在と奇跡をもってそれを誉れとされた選びに非常に適用できる。ここで、湖の岸辺をキリストは観想のために歩いておられた。野にいたイサクのように。ここにキリストは弟子たちを召すために来られた。ヘロデの宮廷にではなく(というのも、召される者には有力な者や貴人は少ないから)、エルサレムの祭司長たちや長老たちの間にではなく、ガリラヤ湖に。確かにキリストは人の見るように見られるのではない。ペテロとアンデレを有効に召した同じ力が、アンナスやカイアファスの上にも働いたであろうし、神には何も不可能であるから。しかし他の事柄と同様に、交わりと出席においても、キリストはへりくだり、神はこの世の貧しい者を選ばれたことを示された。ガリラヤは国の辺境であり、住民はより教養がなく、洗練されていなかった。彼らの言葉は好奇心の強い者には広く、粗野であった。その話し方は彼らを裏切った。ガリラヤ湖で拾われた者たちは、より洗練されたガリラヤ人の長所や向上さえ持っていなかった。それでもキリストはそこに行き、ご自身の国の首相となるべき使徒たちを召された。神はこの世の愚かなものを選ばれ、賢い者を辱しめるためである。
二、誰であったか。これらの節には、二組の兄弟—ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ—の召しの記述がある。前の二人、そしておそらく後の二人も、以前にキリストと親交があった(ヨハネ1:40,41)。しかし今まで密接で常に従うようには召されていなかった。注。キリストは貧しい魂を段階的にご自身との交わりに導かれる。彼らはヨハネの弟子であった。それゆえキリストに従うためにより良く備えられていた。注。悔い改めの訓練に服従した者たちは、信仰の喜びを歓迎される。彼らについて次のことが観察される。
彼らは兄弟であった。注。肉による親族(使徒が言うように、ローマ9:3)が、イエス・キリストへの霊的な同盟に共にもたらされることは、祝福されたことである。同じ家族の者たちが神の家族の者たちでもあるとき、それは家の誉れと慰めである。
彼らは漁師であった。漁師であったから、(1) 貧しい者であった。もし彼らが財産やかなりの営業資本を持っていたなら、漁を自分の営みにはしなかったであろう。娯楽としてはしたかもしれないが。注。キリストは貧しい者を軽蔑されない。それゆえ私たちもそうしてはならない。貧しい人々は福音化され、誉れの源は時に、最も欠けていた部分にさらに豊かな誉れを与えられる。(2) 学のない者であった。エジプト人のすべての学に通じていたモーセのように、書物や文学に育てられたのではない。注。キリストは時に、自然の賜物が最も少なく示す者たちに恵みの賜物を授けることを選ばれる。しかしこれは、無知で資格のない者たちが伝道のわざに大胆に侵入することを正当化しない。知識と弁舌の並外れた賜物は今や期待できないが、必要な能力は通常の方法で獲得されなければならず、これらの十分な尺度がなければ、誰もその奉仕に迎えられてはならない。(3) 実務の人であった。労働に育てられた者たち。注。正直な召しにおける勤勉はキリストに喜ばれ、聖なる生活の妨げとならない。モーセは羊の番から、ダビデは雌羊に従うことから、顕著な雇いへと召された。怠惰な人々は神の招きよりもサタンの誘惑にさらされやすい。(4) 苦難と危険に慣れた者であった。漁師の営みは、他のどれよりも労働が多く、危険である。漁師はしばしば濡れ、寒さに震えなければならない。彼らは見張り、待ち、苦労し、しばしば水による危険のなかにいる。注。苦難に耐え、危険を冒すことを学んだ者たちは、イエス・キリストの交わりと弟子身份のために最も良く備えられている。キリストの良い兵士は苦難を耐え忍ばなければならない。
三、何をしていたか。ペテロとアンデレは網を使っていた。漁をしていた。ヤコブとヨハネは網を繕っていた。これは彼らの勤勉と良い管理の実例であった。彼らは新しい網を買うために父に金を求めに行かず、古い網を繕うために苦労した。持っているものをできるだけ遠くまで、できるだけ長く使うことは賞賛すべきである。ヤコブとヨハネは父ゼベダイと共におり、父を助け、父の営みを容易くする準備ができていた。注。子どもたちが両親のことを気遣い、孝行であるのを見ることは、幸いで有望な前兆である。注目せよ。1. 彼らは皆雇われ、皆非常に忙しく、怠けていた者はいなかった。注。キリストが来られるとき、何かをしているところを見つかることは良いことである。「私はキリストのうちにいるか」は、私たちが自分に問うべき非常に必要な問いである。そしてそれに次ぐのは、「私は自分の召しのうちにいるか」である。2. 彼らは異なることをしていた。二人は漁をし、二人は網を繕っていた。注。伝道者は常に、教えるか学ぶかにかかわらず、常に用いられるべきである。自分のせいでなければ、常に自分のすることが見つかるはずである。そして網を繕うことは、その季節においては、漁と同様に必要なわざである。
四、招きは何であったか(マタイ4:19)。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」。彼らは以前、普通の弟子としてキリストに従った(ヨハネ1:37)。しかしそれでは彼らはキリストに従いながら、自分の召しにも従うことができた。それゆえ彼らはより密接で絶え間ない従順に召され、自分の召しを捨てなければならなかった。注。キリストに従うよう召された者たちでさえ、従い続け、より近く従うよう召される必要がある。特に伝道のわざのために定められるとき。
キリストが彼らのために意図されたこと。「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」。これは彼らの以前の召しにひっかけている。彼らに与えられる新しい誉れを誇らず、彼らはまだ漁師にすぎない。彼らのために切り開かれた新しいわざを恐れない。彼らは漁に慣れており、漁師は今も漁師である。キリストは霊的で天の事柄を、目の前に現れる普通の事柄から立ち上がるそのようなひっかけと表現で語ることが常であった。ダビデは羊を飼うことから神のイスラエルを養うために召され、王となっても牧者であった。注。(1) 伝道者は人間をとる漁師である。彼らを滅ぼすためではなく、別の要素に連れて来ることによって救うためである。彼らは怒り、富、誉れ、昇進のために漁をして、それらを自分のものとするのではなく、魂のために、魂をキリストのものとするために漁をする。彼らはあなたがたの魂のために見張る(ヘブル13:17)。あなたがたのものではなく、あなたがたを求める(コリント第二12:14,16)。(2) 彼らをそのようにするのはイエス・キリストである。「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」。このわざのために人を資格づけ、彼らをそれに召し、その中で権威を与え、魂をとるための委託を与え、魂を勝ち取る知恵を与えるのはキリストである。このようにイエス・キリストによって造られた伝道者は、そのわざにおいて慰めを持つことが期待できる。
彼らがそのためにしなければならないこと。「わたしについて来なさい」。彼らはキリストへの勤勉な従順のために自分自身を聖別し、キリストの謙虚な模倣を定め、彼らの導き手としてキリストに従わなければならない。注。(1) キリストが何らかの奉仕に用いる者は、まずそのために備えられ、資格づけられなければならない。(2) キリストを宣べ伝える者は、まずキリストを学び、キリストから学ばなければならない。私たちが自分自身でキリストをよく知らないのに、どうして他の人々をキリストの知識に導くことが期待できるか。(3) キリストと親しくなる者は、キリストへの従順において勤勉で絶え間なければならない。使徒たちは、キリストが彼らの間に出て行かれたすべての間、キリストに伴うことによって、そのわざのために準備された(使徒1:21)。キリストに従うことによって得る学習に勝るものはない。ヨシュアはモーセに仕えることによって、後継者となるために備えられた。(4) 人間をとる者は、その点でキリストに従い、キリストがそうされたように、勤勉、誠実、優しさをもって行わなければならない。キリストは伝道者の大いなる模範であり、彼らはキリストと共に働く者であるべきである。
五、この招きの成功は何であったか。ペテロとアンデレはすぐに網を捨て(マタイ4:20)、ヤコブとヨハネはすぐに舟も父も残して(マタイ4:22)。そして彼らは皆従った。注。正しくキリストに従いたい者は、すべてを捨ててキリストに従わなければならない。すべてのクリスチャンは、愛情においてすべてを捨て、すべてに緩くなり、父と母を憎み(ルカ14:26)、キリストよりも少なく愛し、キリストへの関わりよりもむしろ彼らへの関わりを手放す準備がなければならない。しかし伝道のわざに献身する者たちは、特別な意味で、この世の生活のすべての営みから身を解き放つことが求められる。全身を要するそのわざに、全人を捧げるためである。さて、
主イエスの力のこの実例は、キリストの恵みの十分さに依拠する私たちに良い励ましを与える。キリストのことばはいかに強力で有効であるか! キリストが語られると、そのようになる。キリストの*「わたしについて来なさい」ということばに、「ラザロよ、出て来い」*ということばに伴ったのと同じ力が伴う。喜んでさせる力である(詩篇110:3)。
弟子たちの従順さのこの実例は、キリストの命令への従順の良い模範を与える。注。キリストのすべての忠実なしもべたちの良い性質は、招かれたときに来て、導き手が導かれるところ従うことである。彼らは現在の仕事、家族への関わり、召された奉仕の困難、自分の不適性を異議としなかった。しかし召され、従った。アブラハムのように、どこに行くのかを知らずに出て行った。しかし誰に従ったかを非常によく知っていた。ヤコブとヨハネは父を残した。父がどうなったかは言われていない。彼らの母サロメはキリストの絶え間ない従者であった。父ゼベダイは疑いなく信者であったが、キリストに従う招きは若い者たちに及んだ。若さは学ぶ年齢であり、働く年齢である。祭司たちは人生の盛りにおいて仕えた。
Matthew 4章 23-25 Matthew Henry's Complete Commentary
²³ イエスはガリラヤ全地を巡回して、彼らの会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気やあらゆるわずらいをいやされた。 ²⁴ するとイエスの評判はシリヤ全地に広まった。人々はさまざまな病気や苦痛で苦しめられる者、悪霊につかれた者、てんかんの者、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。 ²⁵ するとガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの向こうから来た大群衆がイエスに従った。
ここを見よ。一、キリストがいかに勤勉な伝道者であったか。キリストはガリラヤ全地を巡回して、彼らの会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられた。注目せよ。1. キリストが何を宣べ伝えたか。御国の福音。天の御国、すなわち恵みと栄光の御国は、強調してその御国、今や来ようとしている御国である。地のすべての国を生き残り、かつそれらすべてにまさる御国である。福音はその御国の特許状であり、王の戴冠の誓いを含む。王はその誓いによって恵み深くご自身を縛り、その御国の民を赦し、守り、救う。また彼らの忠誠の誓いをも含み、彼らはそれによって王の定めを守り、王の栄誉を求めるよう自らを縛る。これが御国の福音である。これをキリストご自身が宣べ伝える方であった。それは私たちの信仰がそれによって堅くされるため。2. どこで宣べ伝えたか。会堂で。そこだけでなく、そこで主であった。そこは人々が集まる場所であり、知恵がその声を上げる場所であったから(箴言1:21)。また宗教的礼拝のために人々が集まる場所であり、そこで人々の心が福音を受けるために備えられることが期待されたから。そこでは旧約聖書が読まれ、その解説は容易く御国の福音へと導入した。3. 宣教においてどのような労苦を取ったか。キリストはガリラヤ全地を巡回して、教えられた。すべての者が来るよう召集を発することができた。しかしキリストの謙遜と、恵みのへり下りを示すために、彼らのところに行かれた。キリストは恵みを与えようと待ち望み、探し出して救うために来られるから。ヨセフスによれば、ガリラヤには二百以上の都市や町があり、キリストはそのすべて、あるいはほとんどを訪問した。キリストは善を行いながら巡回された。キリストほどの巡回伝道者、キリストほどのたゆまぬ伝道者はいなかった。キリストは町から町へと行き、貧しい罪人たちに神と和解するよう懇願された。これは伝道者への模範である。善を行うために身を捧げ、時にかなって、時にはずれても、みことばを宣べ伝えるために熱心で、絶え間あること。
二、キリストがいかに力ある医者であったか。キリストは教えるだけでなくいやしながら巡回された。いずれもそのことばによって。それはご自身の御名をすべてのうちで最も高くするため。主はご自身のことばを送り、彼らをいやされた。さて注目せよ。
ここには三つの一般的なことばが用いられてこれを示唆している。キリストはすべての病気(noson—盲目、足萎え、熱病、水腫)、すべての疾患、あるいは衰弱(malakian—下痢や消粍)、そしてすべての苦痛(basanous—痛風、結石、痙攣やその他の激しい苦痛の病気)をいやされた。病気が急性であろうと慢性であろうと。それが体を引き裂く病気であろうと、むしばむ病気であろうと。キリストが一言の発声によっていやせないほど悪いものはなく、難しすぎるものもなかった。
三つの特定の病気が挙げられている。中風—体の最大の弱さ。てんかん—心の最大の病気。そして悪霊の憑依—両方の最大の悲しみと災い。しかしキリストはすべてをいやされた。キリストは魂と体の両方の主権ある医者であり、すべての病気を支配されるから。
さて、キリストが行われたいやしについて、その奇跡、あわれみ、神秘を一度限り観察しよう。
(1) その奇跡。それらは、明らかに神の、超自然的な力の直接的な産物であることを語るような仕方で行われた。そしてそれらはキリストの委任に対する神の封印であった。自然はこれらを行うことができなかった。自然の神であったから。いやしは数多く、医術によっては不治の病気のいやし、見知らぬ人々のいやし、あらゆる年齢と状態の人々のいやしであった。いやしは公に行われ、多くの証人の前で、事実を否認したであろう人々の混じった集会の前で行われた。もしそれに何らかの口実があればのことだが。一度もいやしは失敗せず、後で疑いをかけられることもなかった。いやしは迅速に行われ、(自然の原因によるいやしのように)徐々ではなかった。完全ないやしであり、一言の発声によって行われた。これらはすべて、キリストが神から来た教師であることを証明する。なぜなら、そうでなければ、キリストのされたわざを行うことができた者はなかったから(ヨハネ3:2)。キリストはこれらを信任状として訴えられる(マタイ11:4,5、ヨハネ5:36)。メシアが奇跡を行うことが期待されていた(ヨハネ7:31)。この性質の奇跡が(イザヤ35:5,6)。そして私たちはキリストがメシアであることのこの議論の余地のない証明を持つ。このように行った人はかつていなかった。それゆえキリストのいやしと宣教は一般に共に行われた。前者が後者を確認したから。ここでキリストは行うことと教えることを始められた(使徒1:1)。
(2) そのあわれみ。モーセがその使命を証明するために行った奇跡は、そのほとんどが災いとさばきであった。神からであっても、その摂理の恐ろしさを示唆するため。しかしキリストが行った奇跡は、そのほとんどがいやしであり、すべて(不結果のいちじくの木をのろわれたこと以外)祝福と恵みであった。なぜなら、福音の摂理は愛、恵み、優しさに基づき、またそのうちに建て上げられ、その運営は私たちを怖がらせるのではなく、従順へと誘う傾向があるから。キリストはいやしによって人々の心を勝ち取り、ご自身とご自身の教えを彼らの心に溶け込ませ、愛のきずなで彼らを引き寄せることを意図された(ホセア11:4)。奇跡はキリストの教えが信頼に値するみことばであることを証明し、人々の判断を確信させた。あわれみはそれがすべての受けるに値することを証明し、彼らの感情に働いた。それらは単に大いなるわざではなく、良いわざであった。キリストは父からそれらを示された(ヨハネ10:32)。そしてこの善良さは人々を悔い改めに導くことを意図された(ローマ2:4)。また、親切、慈愛、力と機会の限りを尽くしてすべての人に善を行うことが、キリストが世に確立するために来られたその聖なる宗教の本質的な枝であることを示すため。
(3) その神秘。キリストは体の病気をいやすことによって、この世へのご自身の大いなる務めが霊的な病をいやすことであることを示そうとされた。キリストは義の太陽であり、その翼にいやしを帯びて昇られる。罪人の回心者として、キリストは魂の医者であり、私たちにそう呼ぶことを教えられた(マタイ9:12,13)。罪は魂の病気、疾患、苦痛である。キリストは罪を取り除くために来られ、こうしてこれらをいやされる。そしてキリストが行われたいやしの特定の物語は、ひっかけと説明の仕方で霊的に適用できるだけでなく、私は、霊的な事柄を私たちに啓示し、回心と聖化においてキリストが魂を扱われる道と方法を私たちの前に置くことを大いに意図されていると信じる。そしてそのように意義があり、教訓的なそれらのいやしが記録された。それゆえそれらは、すべての咎を赦し、こうしてすべての病をいやされる、その栄光のあがない主の栄誉と賛美のために、そのように説明され、活用されるべきである。
バプテスマのヨハネはキリストについて、「キリストは増し加わり、私は減じなければならない」(ヨハ3:30)と言ったが、そのとおりになった。ヨハネがキリストにバプテスマを授け、キリストについて証しした後は、その奉仕についてはほとんど聞かれなくなった。彼は来るべきことをなし終え、それからはかつてヨハネについて語られたのと同じほどに、今やイエスについて語られるようになった。のぼる太陽が進むにつれて、明けの明星は消えゆく。この章で私たちはイエス・キリストについて次のことを見る。
一、 キリストが受けられた試み。試みる者がキリストになされた三重の攻撃と、キリストが各攻撃を退けたこと(マタ4:1-11)。 二、 キリストが引き受けられた教えのわざ。キリストが説教された場所(マタ4:12-16)と、キリストが説教された主題(マタ4:17)。 三、 弟子たち、すなわちペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを召されたこと(マタ4:18-22)。 四、 病をいやされたこと(マタ4:23-24)と、教えられるためにも、いやされるためにも、人々がキリストに大いに集まったこと。