Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ さて、彼らがエルサレムの近く、ベテパゲとベタニヤ、オリーブ山のあたりに来られたとき、イエスはふたりの弟子を遣わし、
² 彼らに言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入るとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばがつないでいるのを見つける。それをほどいて、引いて来なさい。
³ もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐに、ここに返しに来ます』と言いなさい。」
⁴ 弟子たちは出かけて行き、表の通り道にある二筋の道の交わる所に、ろばがつないであるのを見つけて、それをほどいた。
**⁵ すると、そこに立っていたある人々が彼らに言った。「そのろばをほどいて、何をするのか。」
⁶ 彼らはイエスの言われたとおりに答えた。すると人々は彼らを行かせた。
⁷ 彼らはろばをイエスのところに引いてきて、その上に自分たちの上着をかけた。するとイエスはそれにお乗りになった。
⁸ 多くの者が自分の上着を道に敷いた。また、ほかの人々は木の枝を切ってきて、道に敷き詰めた。
⁹ 前に行く者も、後ろから来る者も、こう叫んで言った。「ホサナ。主の御名によって来られる方に祝福があるように。
¹⁰ 祝福あれ、主の御名によって来られる我らの父ダビデの国よ。いと高き所にホサナ。」
¹¹ こうして、イエスはエルサレムに入り、宮にはいられた。そして、すべてのものを見回されたが、もう夕方になっていたので、十二弟子とともにベタニヤに出て行かれた。
ここに、キリストが十字架につけられる四五日前に、エルサレムに公に入城された出来事の物語がある。主がこのように目立って町に入られたのは、1. エルサレムにいる敵たちの力と悪意とを恐れておられないことを示すためである。主は顔を見せられないほどの者として隠密裏に(incognito)町に忍び込まれたのではない。いや、彼らが密偵を遣わして主を捜す必要はなかった。主は衆人環視の中で入られたのである。これは、敵の力と激怒を思って怯えていた小心な弟子たちへの励ましとなった。彼らの主がいかに勇しくすべてをものともせず立ち向かわれるかを見るがよい。2. 主が近づく苦しみについての思いに沈み、あるいは動揺されていないことを示すためである。主は公に、しかも喜びをもって、歓呼の声とともに入られた。主は今や戦場に出て武具を帯び(girding on the harness)、完全な勝利を確信されていたとはいえ、すでに勝利を収めたかのようにこのように凱旋されたのである。
I. この凱旋の外面は極めて質素であった。主はろばの子に乗られた。それがろばである以上、見すぼらしく、何の見栄えもしなかった。また、ただの子であり、まだだれも乗ったことのないものであったから、荒く手入れが行き届いておらず、そればかりか乱暴で御しにくく、この荘厳な儀式を乱し辱めるおそれがあったと推測される。この子ろばも借り物であった。キリストは借りた舟で水上を渡り、借りた部屋で過ぎ越しの食事をし、借りた墓に葬られ、ここでは借りたろばに乗られた。キリスト者は互いに頼りにすることを、また必要な際には借り受けることを恥じてはならない。われわれの主がそうされなかったのだから。主には豪華な馬衣がなかった。彼らは自分たちの衣服を子ろばに投げかけ、そのようにして主はそれに乗られた(Mr 11:7)。付き添った人々も身分の低い人々であった。彼らがなしえる最善の装いは、仮庵の祭で行うのと同じように自分たちの衣服を道に敷くこと(Mr 11:11)だけであった。これらはすべて主の低き状態(humiliation)の印であった。主は注目されようとされるときでさえ、その卑しさによって注目されようとされたのである。そしてこれらは、高い事を心にかけず、低い身分の者に心を寄せよ(condescend to them of low estate)という、われわれへの教訓である。キリストがこれほどまでに威厳を好まれなかったのに、キリスト者がもったいぶる(take state)ことが、いかにふさわしくないことか!
II. この凱旋の内面は極めて偉大であった。それが聖書の成就としてで(マタイによる福音書のようにここでは取り上げられないが)、この卑しさのただ中にキリストの栄光のいくつかの光線が輝き出ていたというだけのことではない。1. キリストは、弟子たちを子ろばのために遣わされたとき(Mr 11:1-3)、遠く離れた事柄についての知識と、人の意志に対する権能とを示された。これによって、主はすべてのことをすることができ、どんな思いも主から隠すことはできないことが分かる。2. 主は、まだだれも乗ったことのない子に乗ることによって、被造物に対する主の支配を示された。被造物の下位部分の人に対する服従は、キリストに適用されて語られている(詩 8:5-6、Heb 2:8と比較)。というのは、われわれがこの下の世界における主権という、神が人に与えられた賜物(創 1:28)によって、なんらかの残された益を受けているとすれば、それはキリストのゆえであり、キリストの仲介のゆえにほかならないからである。そしておそらく、キリストは子ろばに乗られることで、野ろばの子として生まれる人の霊に対するご自身の力の影(shadow)をお与えになったのであろう(Job 11:12)。3. 子ろばは二筋の道の交わる所から連れてこられた(Mr 11:4)。それは、二つの道を前にして誤った道を取る危険にある者たちを、正しい道へと導くために、キリストが来られたことを示すかのようであった。4. キリストは民の喜ぶホサナを受け入れられた。すなわち、彼らが主に与えた歓迎と、主の国の繁栄への祝福の願いの両方である(Mr 11:9)。後に十字架につけよ、十字架につけよと叫んだ者たちが、策略と工作によってそうさせられたのとは異なり、これらの人々の心にホサナと叫ぶことを置かれたのは神であった。キリストご自身は、群衆の信仰と賛美によって誉れを受けられたとみなされる。そして人々に主にこの誉れをさせるのは神であり、それは人々自身の意図を超えたことなのである。
(1.) 彼らは主の御人格を歓迎した(Mr 11:9)。来られる方は幸いなるかな(Blessed is he that cometh)。そのho erchomenos(来るべき方)、これほど頻繁に約束され、これほど長く待ち望まれた方である。主は神の大使として世に主の御名において来られる。幸いなるかな(Blessed be he)。主にわれわれの喝采と最善の愛情をささげよう。主は幸いなる(blessed)救い主であり、われわれに祝福をもたらされる。そして主を遣わされた方も幸いなるかな。主が主の御名において祝福されんことを。すべての国と時代が主を幸いなる方と呼び、主について高く誉れある仕方で考え、語るように。
(2.) 彼らは主の御旨のために幸福を祈った(Mr 11:10)。彼らは、主がそのような見すぼらしい姿を示されたとはいえ、まもなく世に立てられる王国をお持ちであると信じた。それは父祖ダビデ(その国の父)の王国、彼とその子孫に永遠に約束された王国である。主の御名において来る王国、神聖な権威によって支えられる王国である。この王国は幸いなるかな。それが成り立ち、勢力を増し、その力のうちに来て、すべての反対する支配、主権、権威が打ち倒されんことを。それが勝ち、また勝つために(conquering, and to conquer)進みゆかんことを。*この王国にホサナ。*それに繁栄あれ。すべての幸福がそれに伴わんことを。ホサナの本来の意味は、默 7:10 に見出すものである。御座に着いておられる我らの神と、小羊とに救いあれ。自然啓示および特別啓示としての宗教に成功あれ。いと高き所にホサナ。すべての上にいと高き天におられる、とこしえにほむべき我らの神に賛美あれ。あるいは、いと高き天におられる主の御使いたちによって主がほむられんことを。われわれのホサナが彼らのそれにこだまするように。
キリストはこのように付き添われ、このように賛美されて、町に入り、まっすぐに宮に行かれた。ここには主を迎えるためのぶどう酒の宴も、わずかな慰めも用意されていなかった。しかし主は直ちにご自身の働きに取りかかられた。それが主の食物であり飲み物であったからである。主が宮に行かれたのは、聖書が成就するためであった。「あなたがたの求める主は、突如その宮に来る。何の予告もせずに。主は訪れの日をもってあなたがたを驚かされる。主は精錬する者の火のようであり、布さらの灰のようであられるからである」(Mal 3:1-3)。主は宮に来て、その現在の状態を調査された(Mr 11:11)。主はすべてのものを見回されたが、そのときは何も言われなかった。主はそこに多くの紊乱を見出されたが、沈黙されたのである(詩 50:21)。それらを抑えようと意図されていたとしても、性急に事を運び、軽率に行ったように見えることのないよう、すべてを急にはされなかった。主は今夜は事態をそのままにしておき、翌朝必要な改革に取りかかるつもりで、昼間の時間を活用しようとされたのである。神は、直ちにそれについて清算し、またそれを追い出されることはなくとも、世にあるすべての悪をご覧になっていると、われわれは確信してよい。キリストは宮で見たことについての観察を記されたのち、夕方になってベタニヤの友人の家に退かれた。そこなら町の喧騒から離れられ、一党を率いて謀ろうとしているという疑いを避けることができたからである。
¹² あすの日、彼らがベタニヤから出て来たとき、イエスは空腹であられた。
¹³ そして遠くから葉の茂ったいちじくの木をごらんになり、何か見つけるかもしれないと思って、それに近づかれた。ところが来てみると、葉のほかには何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
¹⁴ そこでイエスはその木に答えて言われた、「今後とこしえに、だれもあなたの実を食べないように」。弟子たちはこれを聞いた。
¹⁵ それからエルサレムにはいられた。そしてイエスは宮にはいり、宮で売り買いする者たちを追い出し、両替人の台や、はとを売る者の腰掛けを倒しはじめられた。
¹⁶ また器を携えて宮を通り抜けるのを許されなかった。
¹⁷ そして教えて言われた、「『私の家は、すべての国民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
¹⁸これを聞いて、律法学者たちと祭司長たちは、どうすればイエスを殺せるかと案じていた。群衆がみなその教えに驚いていたので、彼らはイエスを恐れていたのである。
¹⁹ 夕方になって、彼は町を出られた。
²⁰ 朝はやく通りすがりに、彼らはいちじくの木が根から枯れているのを見た。
²¹ ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわたいちじくの木が枯れています」。
²² イエスは答えて彼らに言われた、「神を信じなさい。
²³ はっきり言っておく。だれでもこの山に向かって、動いて海に投げ込まれよと言い、心の中で疑わず、自分の言うとおりになると思うなら、その通りになる。
²⁴ だからあなたがたに言う。祈り求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになる。
²⁵ また立って祈るとき、だれかに対して恨みがあるなら、赦してやりなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちを赦してくださる。
²⁶ もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちを赦してくださらない」。
ここに、
I. 実を結ばないいちじくの木に対するキリストののろいがある。彼はベタニヤに便利な休息の場所を持っていた。だから休息の時にはそこへ行った。しかし彼のわざはエルサレムにあった。だから働く時間の朝、そこへ戻った。そして自分のわざにそれほど熱心であったので、朝食をとらずにベタニヤを出た。彼が遠くへ行かないうちに、その不足を感じ、「空腹であられた」(Mk 11:12)。彼は私たちの性質の罪のない弱さのすべてに服していたから。食物の不足を感じ、彼は遠くに見えた「いちじくの木」に行った。緑の葉でよく「飾られている」ので、何らかの実で「豊か」であることを期待した。しかし「葉のほかには何も見つからなかった」。実を見つけることを期待した。「いちじくを集める時」は近かったが「まだではなかった」から。それは実があったが集められてなくなったと仮定できないことを示す。季節がまだ来ていなかったから。あるいは、実がなかった。実際「いちじくの季節ではなかった」。良いいちじくの年ではなかった。しかしこれはどのいちじくの木よりも悪かった。これほど葉が茂っているのに、一つのもいちじくも見つからなかったから。しかしキリストはそれを、木ではなく、その時代の「人」への実例にすることを望まれた。そして最初の祝福「実を結んでふえよ」の逆であるのろいをもって、それをのろわれた。その木に言われた、「今後とこしえに、だれもあなたの実を食べないように」(Mk 11:14)。「甘さと良い実」は、ヨタムのたとえではいちじくの木の誉れであり(Jdg 9:11)、その奉仕において人に及ぶ「木々を治める」昇進よりも好ましい。それを奪われることは残酷な「のろい」であった。これはユダヤ教会に下された宣告の型と図として意図された。彼はそこに来て「実を探したが、見つけなかった」(Lu 13:6,7)。そしてたとえの宣告のようにすぐに切り倒されるのではなかったが、歴史の宣告のように、「盲目」と「かたくなさ」が彼らに臨み(Ro 11:8,25)、それゆえ彼らは今後「何の役にも立たない」ものとなった。弟子たちはキリストがこの木に下した宣告を聞き、それに注意を払った。キリストの口からのわざわいは、祝福と同様に観察し、心に留めておくべきである。
II. 宮を頻繁に利用する市場の人々と、それを通り道にする者たちを、彼が宮から清められたこと。いちじくの木で逃したとき、キリストが他で食物を見つけたとは見いだされない。しかし神の家への熱心が彼を食い尽くし、自分を忘れさせた。彼は空腹のままエルサレムに来て、まっすぐ宮に行き、前日に目をつけた乱用を改革し始められた。あがない主がシオンに来たとき、その務めは「ヤコブから不敬虔を立ち去らせること」(Ro 11:26)であり、彼が偽って訴えられたように宮を「破壊する」ためではなく、それを清め、精錬し、その教会を最初の正しさに戻すために来たことを示すため。
1. 彼は「売る者と買う者を追い出し」「両替人の台を倒し」(そして金を地に投げた。それは金によりふさわしい場所である)、「はとを売る者の腰掛けを倒した」。これは権威ある者として、自分の家の「子」として行われた。シオンの娘の汚れは、力によって、勢力によってではなく、「さばきの霊と焼き尽くす霊」によって清められる。そして彼は反対なしに行われた。彼がしたことは、それを黙認し、それで金を得ていた者たちの良心においてさえ、正しく良いこととして示されたから。注 熱心な改革者にとってのある励ましは、腐敗の追放と乱用の修正が、懸念されたよりも容易なわざであることがしばしばあるということである。慎重な試みは時として期待以上に成功し、恐れられていたような「道の中に」ライオンは「見いだされない」。
2. 彼は「だれも器を」、いかなる種類の物品や商品も「宮を」、あるいはその庭のどれかを「通り抜けて運ぶ」のを「許されなかった」。それが近道であり、回る労力を省くからであった(Mk 11:16)。ユダヤ人は、家の山、あるいは異邦人の庭を道、通用口にしたり、何かの包みを持ってそこに入ることは、宮に払うべき敬意の実例の一つであることを認めていた。
3. これに対する良い理由を与えられた。それは「私の家は、すべての国民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるからである(Mk 11:17)。そう書いてある(Isa 56:7)。すべての民の間でその特徴のもとに知られる。「すべての国民の祈りの家となる」。最初の制定のときそうであった。ソロモンがそれを献げたとき、異邦人の子らに目を向けていた(1Ki 8:41)。そしてさらにそうなることが預言されていた。キリストは宮を、福音教会の型として、(1)「祈りの家」とすることを望まれた。彼が犠牲のための牛やはとを追い出した後、「祈りの家」としてのその任命を復活させた。すべての犠牲と供え物が廃止された後も、祈りと賛美の霊的ないけにえが続くことを教えるため。(2)ユダヤ人の民だけでなく、「すべての国民に」そうあることを。主の御名を呼ぶ者はだれでも、肉に従ってヤコブの種族でなくても、救われるから。だからそれを「強盗の巣」にすることは許せなかった。招くべき国民にそれを反発させるから。キリストがその奉仕の初めに売る者と買う者を追い出したとき、彼は宮を「商売の家」にしたと彼らを訴えただけであった(Joh 2:16)。しかしこれは「強盗の巣」にしたと訴えた。それ以来彼らが宮で二度彼を石で打とうとしたから(Joh 8:59、10:31)。あるいはそこでの商人が客を騙すことで悪名高くなったから。田舎の人々の無知と必要につけ込むことは、まったくの盗みにほかならない。祈りの時にむなしい世的な思いを宿す者は、「祈りの家」を「商売の家」に変える。しかしやもめの家を食い尽くすために見せで長い祈りをする者は、それを「強盗の巣」に変える。
4. 律法学者と祭司長たちはこれに非常に苛立った(Mk 11:18)。彼らは彼を憎み、彼によって改革されることを憎んだ。しかしそれでも彼を「恐れた」。次に「彼らの」座を覆し、「彼ら」を追い出すのではないかと。自分たちがその力を冒涜し、乱用していることを自覚していたから。彼が大きな関心を持っていること、「群衆がみなその教えに驚いている」こと、彼の語ることがすべて彼らにとって神託と律法であることを見いだした。そしてこのように支持されて、彼に「できない」ことがあろうか、どんな効果をもたらせないことがあろうか。だから彼らは彼と平和を作る方法ではなく、「どうやって彼を殺せるか」を探した。絶望的な試みであり、彼ら自身、神に逆らう戦いであることを恐れずにはいられないと思うもの。しかし彼らは自分の力と偉大さを支えるためには、何をするかを気にしない。
III. のろわれたいちじくの木が枯れたことに関する弟子たちとの対話。「夕方」、いつものように彼は「町を出て」(Mk 11:19)ベタニヤへ行かれた。しかし暗かったため、いちじくの木が見えなかった可能性がある。しかし翌朝、通りすがりに彼らは「いちじくの木が根から枯れているのを見た」(Mk 11:20)。キリストののろいには、表現された以上のものが多くの場合「含まれている」。その効果によってわかる。のろいはもはや実を結ばないというだけであったが、効果はさらに進む。「根から枯れた」。もし実を結ばないなら、人を欺く葉も結ばせてはならない。さて次のことに注意せよ。
1. 弟子たちがどう影響を受けたか。ペテロはキリストのことばを思い出し、驚いて言った。「先生、ごらんなさい。あなたがのろわたいちじくの木が枯れています」(Mk 11:21)。注 キリストののろいは驚くべき効果を持ち、青いいちじくの木のように茂っていた者をすぐに枯れさせる。「彼がのろう者は確かにのろわれる」。これはユダヤ教会の特徴と状態を表現していた。今後、それは根から枯れた木であり、食物にはもはや適さず、燃料のためだけのものとなった。レビの祭司職の最初の制定は「乾いた杖」の奇跡によって批准され、確認された。その杖は「一晩で」芽を出し、花を咲かせ、アーモンドを実らせた(Nu 17:8)。その祭司職の実りと繁栄の吉兆であった。そして今、反対の奇跡によって、その祭司職の終了が、一晩で枯れた茂った木によって示された。それを乱用した祭司たちの正当な罰であった。そしてこれは弟子たちには非常に奇妙で、信じがたいと思われた。長く神のもの、世界で唯一の神を告白する民であったユダヤ人がこのように見捨てられるとは。彼らはその「いちじくの木」が「これほど早く枯れる」とは想像できなかった。しかしこれはキリストを拒み、キリストから拒絶される結果である。
2. キリストがそれから与えられた良い教訓。「あの」枯れた木からさえ「実り」があった。
(1)キリストはこれから「信仰をもって祈る」ことを教えられる(Mk 11:22)。「神を信じなさい」。弟子たちはキリストの命令のことばの力を称賛した。「いや」とキリストは言われた、「生きた活発な信仰は、あなたがたの祈りにそれと同じ大きな力を入れる」(Mk 11:23,24)。「だれでもこの山に、このオリーブ山に、『動いて海に投げ込まれよ』と言うなら。もしそれに信仰を築く神のことば、一般あるいは特定の、を持つなら。そしてもしそれが『心の中で疑わず』、神が言われたことに基づいて持つ権利に従って『自分の言うこと』が『起こる』と信じるなら、『その言う通りになる』」。キリストにある神の力と力強さによって、最大の困難が乗り越えられ、事がなされる。だから(Mk 11:24)、「祈るとき、どんなことでも求めよ、それを『受けると』信じよ。いや、『受けた』と信じよ。それを与える力を持つ方は言われる、『あなたがたは持つ』。あなたがたに言う、あなたがたは持つ」(Mk 11:24)。「はっきり言う、あなたがたは持つ」(Mk 11:23)。これは次のように適用される。[1]使徒と福音の最初の説教者たちが授けられた「奇跡の信仰」に。「自然のもの」において不思議を行った。病人をいやし、死人を起こし、悪霊を追い出した。これらは事実上山を移すことであった。使徒たちはそれをする信仰について語る。しかし聖なる愛がないところに見いだされるかもしれない信仰(1Co 13:2)。[2]すべての真のクリスチャンが授けられる「信仰の奇跡」に適用できる。「霊の事」において不思議を行う。「義とする」(Ro 5:1)。それで罪の山を移し、それらを「海の深み」に投げ込む。二度とさばきにおいて私たちに対して立ち上がらない(Mic 7:19)。それは心を「清める」(Ac 15:9)。それで腐敗の山を移し、神の恵みの前に「平らな地」とする(Zec 4:7)。信仰によって世は打ち勝たれ、サタンの火矢は消され、魂はキリストと共に十字架につけられ、それでも生きる。信仰によって私たちは常に主を自分の前に置き、見えない方を見、彼を私たちの心に臨在させる。そしてこれは山を移すのに有効である。主の前に、ヤコブの神の前に、山々は移されるだけでなく「取り除かれた」(詩114:4-7)。
(2)これには、私たちを害した者を自由に赦し、すべての人と愛の中にいるという、力強い祈りの必要な資格が付け加えられる(Mk 11:25,26)。「立って祈るとき、赦せ」。注 立つことは祈りに不適切な姿勢ではない。ユダヤ人の間で一般に用いられた。だから彼らは祈りを彼らの「立ち」と呼んだ。世界が祈りによって「保たれている」と言うとき、彼らはこう表現した。Stationibus stat mundus—世界は立ちによって保たれる。しかし初代のクリスチャンは一般によりへりくだった、敬虔なひざまずく身振りを用いた。特に断食の日には。主の日にはそうでなかったが。私たちが祈るとき、他者のために、特に敵と私たちを傷つけた者のために祈ることを覚えなければならない。さて、私たちが彼らに悪意を抱き、彼らに悪を願うなら、神が彼らに善を行うことを真実に祈ることはできない。もし私たちが祈る前に他者を傷つけたなら、行って「彼らと和解しなければならない」(Mt 5:23,24)。しかし彼らが私たちを傷つけたなら、より近い道を行き、すぐに心から彼らを「赦さ」なければならない。[1]これは自分自身の罪の「赦し」を得るための「良い一歩」だから。「赦せ。そうすればあなたがたの『父が赦してくださる』」。すなわち「彼が赦しを受ける資格を持つように。彼がそのあわれみによってそのような益を持つ者を、その模範に従うべき者から遠い者にするなら、彼の誉れを傷つけずに赦せるように」。[2]この欠如が自分の罪の赦しを得るための確かな妨げだから。「もしあなたがたが傷つけた者を『赦さないなら』。彼らの人格を憎み、恨みを抱き、復讐を思い、あらゆる機会に彼らの悪口を言うなら、『あなたがたの天の父もあなたがたのあやまちを赦さない』」。これは祈りにおいて覚えられるべきである。恵みの御座への一つの大きな使い事が、私たちの罪の赦しを祈ることだから。そしてそれへの配慮が日々の配慮であるべきである。祈りが日々のわざの一部だから。私たちの救い主はこれをしばしば強調される。それが弟子たちに互いに愛し合うよう促す彼の大きな計画であったから。
²⁷ 彼らはまたエルサレムに来た。そしてイエスが宮で歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちが彼のところに来て、
²⁸ 言った、「何の権威によって、あなたはこれらのことをするのか。だれがあなたに、これらのことをする権威を与えたのか」。
²⁹ イエスは彼らに答えて言われた、「わたしもあなたがたに一つ尋ねよう。わたしに答えなさい。そうすれば、何の権威によってこれらのことをするか、あなたがたに話そう。
³⁰ ヨハネのバプテスマは天からのものか、人からのものか。わたしに答えなさい」。
³¹ そこで彼らは互いに論じて言った、「もし天からだと言えば、なぜ彼を信じなかったのかと言うだろう。
³² しかし人からだと言えば」。—彼らは民衆を恐れていた。すべての人がヨハネを確かに預言者であると思っていたからである。
³³ そこで彼らはイエスに答えて、「私たちは知りません」と言った。するとイエスは彼らに言われた、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするか、あなたがたに話さない」。
ここに、大サンヘドリンによるキリストのその権威についての審問がある。彼らは預言者をその使命について責任を問う権力を主張した。彼が「宮で歩いておられる」とき、気晴らしではなく、民を「教える」ために、まず一つの群れ、次に別の群れに来た。逍遥学派の哲学者たちは、教えるとき「歩く」習慣からそう呼ばれた。宮の中庭の回廊や広間はこの目的にふさわしかった。偉い人たちは彼が従われ、注意深く聞かれるのを見て腹を立て、それで「彼のところに来て」ある荘厳さを持ち、まるで法廷で彼を尋問するかのように、「何の権威によって、あなたはこれらのことをするのか」と問うた(Mk 11:28)。次のことに注意せよ。
I. 彼らがこれによって彼を座礁させ、困惑させようとした方法。もし彼らが民の前で、彼が「合法的な使命」を持たず、正当に「按手されて」いないことを明らかにできれば、彼がどれほど資格があり、どれほど有益によく説教しても、彼らは民に「彼の話を聞くべきではない」と告げるであろう。彼らはこれを頑固な不信仰の最後の避難所とした。彼らがその教えを受け入れないと決心したので、彼らはその委任に何らかの欠陥を見つけようと決心し、彼らの法廷で提出され承認されなければ無効と結論する。このように、ローマ・カトリック教徒は私たちとの論争を私たちの牧者の使命に大きく帰し、それを覆す口実があれば、私たちが聖書をどれほど味方につけていても、彼らは目的を達したと思う。しかし、これは確かに、行政官または牧者として行動するすべての者が良い答えを備え、しばしば自分自身に問うべき質問である。「私は何の権威でこれらのことをするのか」。なぜなら「人はどうして遣わされずに説教できるか」。あるいは、権限を与えられずに、どうして快く、あるいは確信を持って、あるいは成功の望みを持って行動できるか(Jer 23:32)。
II. 彼がいかに効果的に彼らを座礁させ、困惑させたか。この質問で。「あなたがたはバプテスマのヨハネについてどう思うか。天からか、人からか。ヨハネは何の権威で説教し、バプテスマを授け、弟子を集めたのか。答えなさい」(Mk 11:30)。公平に率直に、カテゴリー的な答えを、どちらか一方に与えよ。彼らの質問をこれに帰することによって、救い主はご自身の教えとバプテスマがヨハネのものにどれほど近かったかを示唆する。同じ起源を持ち、同じ設計と傾向を持った—福音の御国を導入する。キリストは彼らが独自の委員会をヨハネを調査するために遣わした(Joh 1:19)。だからキリストは「さて、彼に関するあなたがたの調査の結果は何であったか」と彼らに問うことができた。
彼らはこの質問について何を「思う」かを知っていた。バプテスマのヨハネが神から遣わされた者であると思わざるを得なかった。しかし困難は、今それに何を「言う」かであった。自分自身に「思う通りに語る」ことを義務としない(これは確実な規則である)者は、このように自分自身を困惑させることを避けられない。
1. もし彼らがヨハネのバプテスマを、事実そうであったように「天から」と認めるなら、彼らは「自分たちを恥じさせる」。キリストがすぐに彼らに向けるからだ。「なぜ、あなたがたは彼を信じず、そのバプテスマを受けなかったのか」。彼らはキリストにこう言われることに耐えられなかった。しかし自分自身の良心にそう言われることには耐えられた。彼らには良心を stifling し、沈黙させる技術があったからであり、良心の言うことが彼らを少し刺し、刺激するかもしれなくても、彼らを「恥じさせる」ことはなかったから。そして「民の前で私に敬意を払ってください」(1Sa 15:30)と有罪とされたときのサウルの配慮より先を見なかった彼らは、それで十分うまくやる。
2. もし彼らが「人からだ。彼は神から遣わされたのではない。彼の教えとバプテスマは彼自身の発明であった」と言えば、「自分たちを晒す」。民が彼らに害を与えようとするか、少なくとも彼らに騒ぐ用意がある。すべての人がヨハネを確かに預言者であると思っていたから。それゆえ彼が反映されることに耐えられなかった。注 世界的な奴隷的な恐れがある。それは悪い_subjects_だけでなく、悪い支配者も同様に陥りやすいもので、神はそれを世界にある程度の秩序を保ち、「暴力」を抑制する手段として用いられる。それが「常に悪の rod として成長する」ことはない。さて、キリストが彼らをもたらしたこのジレンマによって。(1)彼らは打ちのめされ、挫折させられ、不名誉な撤退を強いられた。無知を装う—「私たちは知りません」(そしてそれはプライドの彼らにとって十分な屈辱であった)。しかし実際には最大の悪意とわがままを示した。キリストがその知恵によってなしたことを、私たちは良く行うことによって努めなければならない。「愚かな人々の無知を沈黙させる」(1Pe 2:15)。(2)キリストは誉れと共に立ち去り、彼らの尊大な要求に答えることを拒否したことを正当化した。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするか、あなたがたに話さない」。彼らは語られる値しなかった。彼らが真理ではなく、勝利のために争っていたことは明らかであったから。また、彼は彼らに「語る」必要もなかった。彼のなしたわざが、彼がなしたことをする神からの権威を持っていたことをはっきりと告げたから。神が彼と共におられたのでなければ、だれも彼のした奇跡を行うことはできなかったから。彼らに三四日待たせよ。彼の復活がだれが彼に権威を与えたかを彼らに告げる。それによって彼が「力による神の子として宣言される」から。一方、彼らが彼を拒絶することによって、神の敵であることが宣言される。
わたしたちはここで受難週に、すなわちキリストが死なれた週と、その週の大いなる出来事に来た。一、キリストのエルサレムへの勝利の入城(マルコ11:1-11)。二、実を結ばないいちじくの木を呪われたこと(マルコ11:12-14)。三、神殿を取引所に変えた者たちを追い出されたこと(マルコ11:15-19)。四、呪われためたてたいちじくの木が枯れたことについて、弟子たちと信仰の力と祈りの効力について語られたこと(マルコ11:20-26)。五、ご自身の権威について問うた者たちへの答え(マルコ11:27-33)。