Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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Numbers 11章 1-15 Matthew Henry's Complete Commentary
¹ 民がつぶやいたとき、主の怒りが燃え上がった。主はこれを聞かれ、その怒りが燃え上がった。主の火が彼らの中に燃え、宿営の端にいた者たちを焼き尽くした。
² 民はモーセに叫んだ。モーセが主に祈ったとき、火は静まった。
³ 彼はその場所をタブラと名づけた。主の火が彼らの中に燃えたからである。
ここに次のものがある。一、民の罪。彼らは「つぶやいた」(民11:1)。「彼らは、いわば、つぶやく者たちであった」。欄外註にはそうある。彼らのうちにはまだ公然とした暴動として爆発しない、密かなる不満と不和があった。しかしこの小さな火がどれほど大きな事を燃え上がらせたことであろうか! 彼らは神からすぐれた律法と定めを受けていた。しかしそれにもかかわらず、主の山を去って間もなく、彼らは神ご自身と争い始めた。これにおいて次を見よ。1. 罪の罪深さ。それは戒めから機会を取って、いっそう挑発的なものとなる。2. 肉を通しての律法の弱さ(ロマ8:3)。律法は罪を現したが、それを滅ぼすことはできず、それを抑制したが、征服することはできなかった。彼らは「つぶやいた」。解釈者たちは彼らが何についてつぶやいたかを問う。真に、彼らが感謝のための多くの材料を与えられていたとき、彼らがどこに不満の材料を見いだしたかを不思議に思うのはもっともである。おそらくつぶやいた者たちのすべてがその原因において一致していたわけではないだろう。ある者はおそらく彼らが長く休んでいたシナイ山から移動させられたことにつぶやき、他の者はもっと早く移動しなかったことにつぶやいた。ある者は天候に、他の者は道につぶやいた。ある者はおそらく三日の旅が長すぎる行軍だと思い、他の者はそれがカナンに彼らを導かなかったので十分に長くないと思った。彼らの宿営がどのように導かれ、守られ、恵まれていたか、どれほど良い食物と良い仲間を持っていたか、そして行軍において彼らの足が腫れず、着物がすり減らないようにどれほどの配慮がなされていたか(申8:4)を考慮するとき、われわれは「民を安んじるために、これ以上何がなされたろうか」と問うことができる。しかしそれでも彼らはつぶやいた。注。不機嫌で不満な霊の持ち主は、外面的な状態がいかに好都合であっても、いつも何かと争うものを見いだすであろう。
二、この罪によって神に与えられた侮辱に対する神の正当な憤り。「主はこれを聞かれた」。モーセがそうしたとは現れていないのに。注。神は人の心の密かなる苛立ちとつぶやきを知っておられる。たとえそれらが人から熱心に隠されていても。神が気づかれたことには大いに不満を持たれ、その「怒りが燃え上がった」。注。神は慈愛にも理由があるときわれわれが神に向かってつぶやくことを許される(詩142:2)が、理由がないときに神についてつぶやくなら、神は正当に挑発され、それをひどく嫌っておられる。われわしの目下の者におけるそのようなふるまいがわれわしを怒らせるように。
三、この罪のゆえに神が彼らを懲らしめられたさばき。「主の火が彼らの中に燃えた」。ナダブとアビフを焼き尽くしたような雲からの火の閃光。彼らの神に対する怒りの火が彼らの心に燃えていた(詩39:3)ので、神の怒りの火がそのからだに付き掛かるのは正当であった。彼らが初めてエジプトから出たときのつぶやきについて、われわしは幾度か読む(出15:1-17:16)。しかしそのつぶやきのゆえに彼らに下された疫病については、今あるようには読まない。今彼らは神の配慮について大きな経験を持っていたので、今神を不信じることはいっそう弁解の余地がなかったからである。今「ヤコブに向かって火が燃え上がった」(詩78:21)。しかし神が彼らと争うことをいかに好まれなかったかを示すために、それは「宿営の端にいた」者たちだけに付き掛かった。このように神のさばきは彼らに漸次臨み、彼らが警告を取るようにされた。
四、試みられた執り成し手であったモーセへの彼らの叫び(民11:2)。「彼が彼らを殺されたとき、彼らは彼を求めた」。そして自分たちの味方になってくれるようモーセに頼んだ。注。1. われわしが理由なくつぶやくとき、神がわれわしに理由を与えてつぶやかせることが正当である。2. 繁栄のうちに神の友を軽んじる者たちは、苦境のうちには喜んで彼らを自分たちの友としようとする。「父アブラハムよ、ラザロを遣わしてください」。
五、彼らのためのモーセの執り成しの力。「モーセが主に祈ったとき」(彼は常に神の怒りを覆すために間に立つ準備ができていた)、神は彼とそのささげ物を顧みられ、「火は静まった」。これによって神が罰することを喜ばれないことが現れる。論争を始められたとき、それを落とすように説き勧められるのが早いからである。モーセは「信仰によって火の猛威を消した」勇士の一人であった。
六、これに基づく場所への新しい名。つぶやく民の恥と義なる神の誉れを永らわせるため。その場所は「タブラ」、すなわち「燃える」と呼ばれた(民11:3)。他の者が聞き、恐れ、彼らがしたように罪を犯さないように、彼らがしたように苦しまないように警告を取るために(コリ第一10:10)。
⁴ 彼らの中にいた雑多な群衆が強い欲望に駆られた。イスラエルの子らも再び泣いて言った。だれがわれわれに肉を与えて食べさせてくれるのか。
⁵ われわしはエジプトでただで食べていた魚を思い出す。きゅうり、すいか、ねぎ、玉ねぎ、にんにく。
⁶ しかし今やわれわしの魂は干からびた。このマナのほかには、われわしの目の前には何もない。
⁷ マナはこしょうそうの種のようであり、その色は乳香樹脂の色のようであった。
⁸ 民はあちこち行ってそれを集め、ひきうすで砕くか、臼で打ち砕き、鍋で煮て、それでパン菓子を作った。その味は新鮮な油の味のようであった。
⁹ 夜、宿営に露が下りると、その上にマナが下った。
¹⁰ モーセは民が家族ごとに、各人が自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りが大いに燃え上がった。モーセもまた不快であった。
¹¹ モーセは主に言った。なぜあなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの前に恵みを見いださなかったので、あなたはこのすべての民の重荷をわたしの上に置かれるのですか。
¹² わたしがこのすべての民をはらんだのでしょうか。わたしが彼らを生んだのでしょうか。それであなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように、彼らを胸に抱いて、彼らの先祖に誓った地まで行けと言われるのですか。
¹³ わたしがどこから肉を得て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らがわたしに向かって泣き、肉を与えて食べさせてくれと言うからです。
¹⁴ わたし一人でこのすべての民を負うことはできません。わたしには重すぎるからです。
¹⁵ もしあなたがわたしにこのようにされるなら、どうか今わたしを殺してください。もしわたしがあなたの前に恵みを見いだしたのなら。わたしの惨めを見させないでください。
これらの節は、イスラエルにおいて物事がひどく狂い、乱れていること、民も指導者も安んじていないことを示す。
一、ここに、彼ら自身への、また彼らのための神の栄光ある現れにもかかわらず、神ご自身に向かって苛立ち、語る民がある(詩78:19のように解される)。観察せよ。
犯人たちがだれであったか。(1)「雑多な群衆」が始めた。彼らは「強い欲望に駆られた」(民11:4)。エジプトから彼らと共に出た、約束の地だけを期待し、それに至る道における試練の状態を期待しなかった群衆。彼らはユダヤ人のすそを捉え、ただ家でどう生きるかを知らなかったので、外国で運を求めようとする傾向があった、付随者たちであった。これらは群れに感染する疥癬の羊であり、全体を膨らませるパン種であった。注。少数の党派的、不満な、意地の悪い人々は、彼らを認めないために大いなる配慮がなされないなら、最良の社会においても大いなる害をなすことができる。このような者たちは「ゆがんだ世代」であり、そこから「自分を救う」ことがわれわしの知恵である(使徒2:40)。(2)「イスラエルの子ら」さえも感染を受けた(民11:4)。聖なる種はこれらの忌むべき者たちの民に自分たちを加えた。ここで語られた雑多な群衆はイスラエルの子らと共に数えられず、神が顧みられない民として脇に置かれていた。しかしイスラエルの子らは自分たちの特徴と区別を忘れ、彼らと群れ、その道を学んだ。まるで宿営のかすおよび追放者がその枢密顧問官であるかのように。神に近く、大いに特権を受けた民であるイスラエルの子らが、神に対する反逆に引き込まれた! おお、神は世界でいかに誉れを受けられないことか。神がご自身の誉れを示すためにご自身のために造られた民でさえ、神にとって大いなる不名誉であったほどに。それゆえ、外面的な告白と特権が、罪へのサタンの誘惑に対しても、罪に対する神のさばきに対しても、彼らの保障になると考えてはならない。コリ第一10:1,2,12を見よ。
罪は何であったか。彼らは欲望を抱き、つぶやいた。彼らはこの罪のゆえに最近責められ、その多くの者がソドムとゴモラのように打ち倒されたのであったが、火の匂いが未だその鼻にあったのに、彼らはそれに戻った。箴27:22を見よ。(1) 彼らはエジプトで持っていた豊かさとごちそうを誇張した(民11:5)。まるで神が彼らをそこから取ることによって彼らに大きな不当をしたかのように。エジプトにいた間、彼らはその荷のゆえに嘆き、そのいのちは過酷な苦役によって苦くされた。しかし今、それが現在の不満の色づけとして役立つとき、彼らはまるでそこで皆のように王子として生きていたかのようにエジプトについて語る。しかしどのような顔をして彼らはエジプトでただで魚を食べた、まるでそれが彼らに何も費用がかからなかったかのように語ることができるのか。彼らはその過酷な奉仕によってそれに深く支払ったのであった。彼らは「きゅうり、すいか、ねぎ、玉ねぎ、にんにく」を思い出す(好むべき貴重な品であることよ!)。しかしれんがの窯と監督たち、抑圧者の声とむちの痛みは思い出さない。いや、これらはこれらの感謝を知らぬ民によって忘れられている。(2) 彼らは神が彼らのために備えられた良い備えに飽きていた(民11:6)。それは天からのパン、み使いたちの食物であった。彼らの不満がいかに不合理であったかを示すために、ここでそれが描写される(民11:7-9)。それは食物として良く、目に快く、おのおの一粒が東洋の真珠のようであった。健康的で栄養のある食物であった。「干からびたパン」と呼べるものではなかった。新鮮な油の味がしたからである。それは快いものであった(ユダヤ人が言うように、知恵16:20)、各人の味覚に合い、その人が望むように味がした。そして常に同じであったが、調理のさまざまな方法によって感謝すべき変化を与えた。それは費用も配慮も要さなかった。彼らが眠っている間に夜に下ったからである。そしてそれを集める労力は話すに足りないほどであった。彼らは無料の食事の上に生きていた。しかもエジプトの安さとそこで食べた魚について語ることができた。いな、これらすべてよりもはるかに貴重であったのは、マナは神の直接の力と恵みから来たのであり、普通の摂理からではなく、特別な恵みから来たことである。それは神のあわれみのように毎朝新しく、常に新鮮で、船の上で生きる者たちの食物のようではなかった。彼らがマナの上に生きている間、彼らは罪が人にもたらしたのろい、すなわち「顔の汗のゆえにパンを食べる」というのろいから免除されているように見えた。しかしそれでも彼らは、まるで豚の肉としても良くないかのようにマナを軽蔑して語る。「われわしの魂は干からびた」。彼らはまるで神がもっと良い食物を許さないことによって彼らにひどく扱ったかのように語る。最初彼らはそれを賞賛した(出16:15)。「これは何か。」「何と好奇心強い貴重な品であろうか!」しかしそれにもかかわらず今彼らはそれを軽べつした。注。癇癪持ちの不満な心は、それが自分たちには良すぎるという過失のほかに過失のないものに欠点を見つける。神の恵みを低く評価し、われわしの普通のあわれみに「しかし」をつけることは、神に大いに挑発することである。マナ以外に何もない! 非常に幸せであるはずの者たちが、しばしば自分たちの不満によって自分たちを非常に惨めにする。(3) 彼らは肉を食べさせられなければ満足できなかった。彼らはエジプトから非常に豊富に羊の群れと牛を連れて来た。しかしそれは彼らが貪欲であり、その群れを減らすのを嫌がって殺す気になれなかったからであるか(彼らはパンと同じくらい安く肉を持たなければ喜ばなかったのであるが)、あるいは彼らが好みがうるさく、牛肉や羊肉では満足しなかったからである。彼らはエジプトで食べた魚のようにもっと上品で繊細なものを求めた。食物では役立たず、ごちそうでなければならなかった。彼らは平和の献げ物のうちに神と共に盛宴をした。そこには彼らも分け前があった。しかしどうやら神は彼らにとって十分に良い食卓を保っていないようであり、彼らは神の祭壇に来るものよりもっと上品な料理を求めた。注。感覚のすべての喜びと満足を快楽の高みにまで巻き上げることを気にかけることは、肉的な心の支配の証拠である。「ごちそうを慕わないようにせよ」(箴23:1-3)。神がふさわしい食物を与えられるなら、脂っこいものを食べず、甘いものを飲まなくても感謝すべきである。(4) 彼らは神の力と善良さを、彼らの供給のために不十分であるとして不信じた。「だれがわれわれに肉を与えて食べさせてくれるのか」。神にはできないと思い込んで。このようにこの問いは詩78:19,20で注解される。「彼は肉をも備えられるだろうか」。彼が適切と思われたときには一度パンと共に肉を彼らに与えておられた(出16:13)のに。そして彼らがつぶやく代わりに祈っていたなら、あわれみをもって再びそれをなされることを期待できたのに。注。われわしの欲望が信仰を越えて広がることは神に対する罪である。(5) 彼らはその欲望において熱心で、粘着強くあった。彼らは「欲望を欲望した」(ことば通り)。それは、欲求不満のゆえに再び泣くまで、大いに貪欲に欲望した。イスラエルの子らはこのように子どもらしく、気難しかった。彼らが持たないものを持ちたい、持ちたいときに持ちたいと願って、彼らは泣いた。彼らはこの欲望を神にささげなかった。むしろ神よりも他のだれかに負いたいと願った。われわしは信仰をもって祈りに変えることのできないどんな欲望にも自分をゆだねてはならない。「欲のために肉を求めるとき」にはそうできないように(詩78:18)。この罪のゆえに「主の怒りが彼らに向かって大いに燃え上がった」。それはわれわしの訓戒のために書かれた。「彼らが欲望したように悪いものを慕ってはならない」(コリ第一10:6)。(6) 肉は良い食物であり、合法的に食べることができる。しかしそれでも彼らは悪いものを慕ったと言われる。それ自体合法的なものが、神がわれわしに割り当てられないものでありながら、われわしが熱心にそれを望むとき、われわしにとって悪となる。
二、モーセ自身、これほど柔和で良い人であったのに、この機会には安んじていなかった。「モーセもまた不快であった」。ここに、
挑発が非常に大いあったことは認めなければならない。彼らのこれらのつぶやきは神に大いなる不名誉をもたらし、モーセは自分に向けられた非難を心に留めた。彼らは彼が彼らのために全力を尽くしていることを知っており、彼が神的な任命なしには何もせず、またできないことを知っていた。それにもかかわらず、理不尽で感謝を知らぬ民によって絶えず苛立ち、騒がれることは、モーセ自身の気質をも破るであろう。神はこれを考慮され、それゆえ彼がその不安のゆえに彼を責められたとは見いだされない。
しかしこの挑発において、モーセは彼にふさわしい以外の仕方で語り、神とイスラエルに対するその義務において及ばなかった。(1) 彼は神が彼に与えられた誉れ、すなわちその特別な民の救いと導きにおいて神の力と恵みの輝かない器としてくださった誉れを低く評価した。それは重荷の均衡となるのに十分であったはずであるのに。(2) 彼は感覚的な悩みについてあまりに多く訴え、少しの騒ぎと疲労を心に近く置きすぎた。もしこれは徒歩の人と走るような統治の労に耐えられないのであれば、馬と戦う戦争の恐怖にどう耐えるのか。彼は容易に彼らの騒ぎを軽んじ、何事もないようにするのに十分な考察を自分に備えることができた。(3) 彼は自分の業績を誇張した。「民のすべての重荷が彼にかかっていた」と。しかし神ご自身が事実上彼からすべての重荷を取り除かれた。モーセは彼らの宿営や食物を備えることに心を配る必要はなかった。神がすべてをなされた。もし難しい事態が生じても、彼は神託に伺いを立てることができ、そのうちに神的知恵が彼を導き、神的権威が彼を支え、彼を担い、全能の力そのものが報酬と刑罰を配分したので、何ら困惑する必要はなかった。(4) 神的な委任と命令により、民のために全力を尽くす義務があることに、彼が本来あるべきほどに感じていない。彼らが自分のからだの子でないからといって、父親として彼らの世話をすることに関心がないと示唆したとき。しかし神ご自身が、彼を好きなように用いることができる方として、彼らの父となるよう任命されたのであった。(5) 彼は「どこから肉を得て彼らに与えることができようか」(民11:13)と問うたとき、あまりにも多くを自分に取った。まるで彼が家主であり、神ではないかのように。「モーセは彼らにパンを与えなかった」(ヨハ6:32)。彼らに肉を与えることも期待されなかった。ただ神の手の器としてである。もしそれが「神はどこから彼らに与えられるのか」という意味であったなら、彼はイスラエルの聖なる方の力をあまりにも限定した。(6) 彼は「このすべての民を負うことができない」(民11:14)と絶望したとき、神的恵みを不信じて語った。わざがはるかに小さくても、自分自身の力ではやり遂げられなかったであろう。しかしそれがはるかに大きくても、神が彼を強めてくださるなら、彼はそれをなすことができた。(7) 何よりも悪かったのは、ただこの時に彼のいのちが少し不安にされたというだけで、情熱的に死を願い、ただちに殺されることを求めたことである(民11:15)。これがモーセか。これが地の上のすべての人のうちで最も柔和な者か。最良の者にも弱さがあり、彼らが最もすぐれている恵みの行使においてさえ失敗することがある。しかし神は慈愛にもこの時のモーセの激情を大目に見られた。それゆえわれわしもそのことについて厳しく論評してはならない。ただ「主よ、わたしを試みに導かれないでください」と祈るべきである。
Numbers 11章 16-23 Matthew Henry's Complete Commentary
¹⁶ 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうち七十人を、民の長老であり、つかさであるとあなたが知っている者たちを、私のところに集め、会見の天幕に連れて来なさい。彼らがそこであなたと共に立つためである。 ¹⁷ 私は下って来て、そこであなたと語ろう。私はあなたの上にある霊を取り、それを彼らの上に置く。彼らはあなたと共に民の重荷を負い、あなたがひとりで負うことのないようにする。 ¹⁸ あなたは民に言いなさい。『明日に向かって身を聖別せよ。あなたがたは肉を食べるであろう。あなたがたが主の耳に向かって泣いて、「誰が私たちに肉を食べさせてくれるか。エジプトでは私たちにとって良かったのに」と言ったからである。それゆえ主はあなたがたに肉を与え、あなたがたは食べるであろう。 ¹⁹ あなたがたは一日、あるいは二日、あるいは五日、十日、二十日食べるのではない。 ²⁰ まる一ヶ月、それが鼻から出るまで、それがあなたがたに忌み嫌われるまで。あなたがたが自分たちのうちにおられる主を軽んじ、その御前で泣き、「なぜ私たちはエジプトから出て来たのか」と言ったからである』。 ²¹ モーセは言った。「私がその中に いるこの民は足歩きの戦士六十万人です。しかもあなたは『私は彼らに肉を与え、彼らがまる一ヶ月食べるようにする』と仰せられました。 ²² 彼らのために群れも牛の群れも屠って、彼らを満足させるべきでしょうか。海の魚をみな彼らのために集めて、彼らを満足させるべきでしょうか」。 ²³ 主はモーセに言われた。「主の手は短くなったか。今、私のことばがあなたに成就するかどうかを見るであろう」。
ここに前の二つの不平に対する神の恵みある答えがある。そのうち神の善意は人の悪意から機会を取って、いっそう輝かしく現れる。
一、モーセが訴えた不満の是正のための備えがなされた。もし彼が政府の重荷が自分の上に重すぎるのを感じるなら、彼はその抗議において少し激しすぎたが、しかし彼は政府そのものから退けられることによってではなく、彼を助ける補佐者が任命されることによって解放されるであろう。もしそれが言い過ぎを厳しく追及する神であったなら退けられても当然であったのに。それは使徒が言うように(一コリ12:28)「助け、治める」者、すなわち治めることにおいて助けとなる者であり、彼の誉れを少しも損なうことなく、彼にとってわざをより容易にし、「彼と共に民の重荷を負う」ためであった。そしてこの備えが適切であり、真に役立つために、
モーセは人を選ぶよう導かれた(民11:16)。民は選挙を任せるにはあまりにも熱しやすく、向こう見ずで、騒がしかった。モーセは選択において自分を喜ばせなければならなかった。後に不満を言わないように。彼が選ぶべき数は七十人で、エジプトに下ったたましいの数に応じて。彼は長老、すなわち知恵あり経験ある者として知っている者を選ばなければならなかった。「千人、百人のつかさ」として(出18:25)最もよくふるまった者たちは、今この良い地位を自分たちのものとした。「名ばかりでなく、真に長老である者、その職務を遂行するつかさを選べ」。同じ数の長老たち(出24:1)がモーセと共にシナイ山に登ったことが読まれるが、彼らはその機会のためだけに区別され、これらは永続のためであった。そしてこの構成に従って、サンヘドリン、すなわち後にエルサレムにあり彼らの中で最高の裁判所であったユダヤ人の大評議会は七十人から成った。私たちの救い主は使徒たちの助けとなるべき七十人の弟子の選びにおいて、これに目を留められたようである(ルカ10:1-24)。
神は彼らを資格づけることを約束された。もしその務めにふさわしくないことが分かれば、ふさわしくされる。そうでなければ彼らはモーセにとって助けというより妨げになったであろう(民11:17)。モーセは神に対してあまりにも大胆に語ったが、しかし神はそれゆえ彼との交わりを断たれない。神は私たちに対して多くを忍ばれ、私たちも互いに忍ばなければならない。「私(神が言われる)は下って来て、あなたと語ろう」。あなたがもっと穏やかで落ち着いたときに。「そして私はあなたの上にある」知恵と信心と勇気の「同じ霊を取り、それを彼らの上に置く」。それによってモーセの霊が減るのではなく、彼らが彼と等しくされたのでもない。モーセは依然として比類なき者であった(申34:10)。しかし彼らはその場所にふさわしい政府の霊を着せられ、その神からの召しを証明する預言の霊を着せられた。政府が神政体であったから。注意すべき点。 (1) 神が何らかの奉仕に用いる者を、神はそのために資格づけられる。そしてある程度資格づけられていない者は、正当に召されたとは考えてはならない。 (2) すべての良い資格は神から来る。「すべての完全な賜物は光の父から」である。
二、不満な民の気まぐれをも満たされる。すべての口が閉ざされるために。彼らは「身を聖別る」よう命じられた(民11:18)。すなわち、神の力の証しを受ける姿勢をとるために。その証しは恵みとさばきの両方のしるしとなる。「あなたの神に会う備えをせよ、イスラエルよ」(アモ4:12)。
神は(私が言おうか)――むしろ脅かされる。彼らが肉で満腹になることを。一ヶ月間、彼らは養われるだけでなく、毎日のマナに加えて肉で盛宴をもてなし、もしその食欲を今現れている以上に良く治めなければ、それで胸が悪くなるであろう(民11:19,20)。「鼻から出るまで、あなたがたに忌み嫌われるまで食べるであろう」。ここで見よ。 (1) 感覚のすべての喜びの空しさ。それらは飽きさせるが、満足させない。霊の喜びはその逆である。世が過ぎ去るように、その欲も過ぎ去る(一ヨハ2:17)。貪り求められたものも、少しのうちに嫌悪されるようになる。 (2) 食欲や酩酊がいかに獣的な罪(獣以上に悪い)であるか。それらは自然に無理をさせ、からだの健康であるべきものを病気にする。それらは自身の刑罰となる罪である。しかしまだそれに伴う最悪のものではない。 (3) 神が、人々がみだりに欲したものを彼らに忌み嫌われるようにされることがいかに正しいことか。神は彼らがマナを軽んじたのと同じほど肉を軽んぜさせることもできた。
モーセはこのことばを成就することのありそうにないことを異議とする(民11:21,22)。それは弟子たちがした異議に似ている(マコ8:4)。「どこからこの人々を満足させることができるか」。一部の者はここでモーセを弁護し、彼のことばを供給がどのように期待されるべきかについての控えめな問いとしてのみ解する。しかしそれは神に対する不信と疑いの匂いがあまりにも強く、正当化されない。彼は民の数を異議とする。まるで彼らすべてのためにパンを備えられた方が、同じ無限の力によって肉をも備えられないかのように。彼はそれが獣か魚の肉でなければならないと考える。それらは最も体積のある動物だから。小鳥、小さな鳥の肉がその目的に役立つことを少しも考えずに。神は人が見るようには見ず、その思いは私たちの上にある。彼は民の欲の貪欲さを「彼らを満足させる」ということばにおいて異議とする。注意すべき点。まことの偉大な信者でさえ、第二原因の落胆の下で神に信頼すること、望みに反して望みの中に信じることを時に困難と感じる。これが一般的な叫びとなったとき、モーセ自身も「神は荒野に食卓を備えることができるか」と言わずにはおれなかったほどであった。疑いなくこれは彼の弱さであった。
神はその異議に短いが十分な答えを与えられる。「主の手は短くなったか」(民11:23)という問いにおいて。もしモーセが「いと高き方の右の手の年」を覚えていたなら、これらすべての困難を提起しなかったであろう。それゆえ神は彼にそれらを思い出させ、この異議が神の力に対する反映であることを示唆される。その力について彼自身がこれほど度々、証人だけでなく器であったのに。神の力がその民のために、エジプトの災いを下し、海を分け、岩を裂き、天からパンを降らせた不思議を行ったことを彼は忘れたか。その力は衰えたか。神は以前よりも弱くなられたか。あるいはされたことに疲れられたか。私たちの不信仰な心が反対のことを示唆するにしても、次は確かである。 (1) 神の手は短くない。その力はご自身の御旨以外の何ものによってもその働きの発揮において制限されることはない。神には何も不可能ではない。水を量り、天をはかる(イザ40:12)その手は短くない。風をつかむ(箴30:4)。 (2) それは短くなっていない。神はかつてと同じように強く、「弱ることなく、疲れることもない」。そしてこれが、手段が私たちに失敗したときにすべての不信を静めるのに十分である。「主に何か難しすぎることがあるか」。神はここでモーセをこの第一原理に導き、彼の課程を元に戻して、神の古い名、「主全能神」を学ばせ、証拠をその結果に委ねられる。「私のことばがあなたに成就するかどうかを見るであろう」。これは神のことばをその御名のすべての上に高く立てる。神のわざはそれに決して及ばないから。神が語られるなら、それは成るのである。
Numbers 11章 24-30 Matthew Henry's Complete Commentary
²⁴ モーセは出て行って、主の言葉を民に告げ、民の長老である七十人を集めて、会幕の周囲に立たせた。 ²⁵ 主は雲のうちに下って、彼に語り、その上にある霊を取って、七十人の長老たちに与えられた。こうして霊が彼らの上に休まった時、彼らは預言したが、やめなかった。 ²⁶ その時ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、ほかのひとりの名はメダデといった。霊も彼らの上に休まった。彼らは登録された者であったが、会幕に出て行かなかったのである。しかし彼らは宿営の中で預言した。 ²⁷ ときにひとりの若者が走って行って、モーセに告げ、「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています」と言った。 ²⁸ ヌンの子ヨシュア、モーセの若者のひとりで、その仕え人である者が答えて言った、「わが主モーセよ、彼らを禁じてください」。 ²⁹ モーセは彼に言った、「あなたはわたしのためにねたむのか。主の民がみな預言者になればよいのに。主がその霊を彼らの上に置かれるように願う」。 ³⁰ そしてモーセはイスラエルの長老たちと共に、宿営に帰った。
ここに、モーセがイスラエルの支配において助けを得るという、神の言葉の成就がある。
一、ここに七十人の諮問官たち全般の場合がある。モーセは民の騒ぎによって少し動揺したが、神との交わりによって完全に落ち着きを取り戻し、まもなく再び平常に戻った。そして事が協議された通りに、(一)彼は自身の分を果たした。彼は七十人の長老たちを主の前に、会幕の周りに示した(民 11:24)。それは彼らがそこで、神がご自身を現される場所で、神の恵みを受ける準備をして立つためであり、また民も彼らの厳粛な召命の証人となるためであった。覚えよ、神からの恵みを期待する者は、謙遜に自らとその奉仕を神に献げなければならない。(二)神は御自身の分を果たすことに欠けることはされなかった。「神はその霊を七十人の長老たちに与えられた」(民 11:25)。これによって、その能力と教育が隣人たちと同程度にしか過ぎなかった者たちが、突然に、非凡なことを語り行うことができた。そして彼らが神の霊感によって動かされていることを証明した。彼らは預言し、その日中はやめなかった(ある者はその一日だけであったと考える)。彼らは神の事がらについて民に語り、おそらく最近受けた律法を、驚くべき明瞭さ、豊かさ、即座さ、適切な表現をもって解説した。それゆえ聞く者は皆、見て「神がまことに彼らと共におられる」と言うことができた(コリ一 14:24,25を見よ)。このように、はるか後に、サウルは一日一晩彼に臨んだ預言の賜物によって、支配のために選び出された(サム一 10:6,11)。モーセがイスラエルをエジプトから導き出す時、アロンはその預言者として任命された(出 7:1)。しかし今、神がアロンを他の務めに召されたので、その代わりにモーセには七十人の預言者が付き従う。覚えよ、神のイスラエルを治めるのに最もふさわしい者は、神の事がらをよく知り、造り上げるために教えるのに適した者たちである。
二、ここに、その中の二人、おそらく兄弟であった「エルダデ」と「メダデ」の特定の場合がある。
一、彼らはモーセによって支配の助手として指名されていたが、他の者たちのように「会幕に出て行かなかった」(民 11:26)。カルヴァンは、召喚状は彼らに送られたが、彼らを見つけなかったと推測する。彼らがどこかよそにいたのである。それゆえ登録されてはいたが、呼ばれなかったのである。多くの者は、彼らが過度の謙遜とへりくだりのゆえに会幕に来るのを辞退したと考える。自身の弱さと不価値を悟り、支配に加わることを免除してほしいと願ったのである。彼らの原則は称賛すべきであったが、命令に従わなかったその実践は過ちであった。
二、神の霊は、道具の間に隠れていた宿営の中で彼らを見いだし、そこで彼らは預言した。すなわち、ある私的な天幕で、祈り、説教し、神を賛美する賜物を用いたのである。覚えよ、神の霊は会幕に結びつけられてはいない。「風が心のままに吹くように」(ヨハ 3:8)。「その霊からどこへ行くことができるか」。これらの二人が不在であったことには、特別な摂理があった。こうして、長老たちを動かしたのがまことに神の霊であり、モーセが彼らにその霊を与えたのではなく、神ご自身であったことが現れたのである。彼らは謙遜に昇進を辞退したが、神はそれを彼らに押し付けられた。いや、彼らは他の者が持たない「名前を持つ」誉れを得た。へりくだる者は高くされるであろう。そして支配に最もふさわしいのは、それを最も野心としない者たちであるから。
三、これについての知らせがモーセに伝えられた(民 11:27)。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。ある天幕に集会があり、エルダデとメダデがそこで語っています。モーセの監督と統轄の下を離れ、他の長老たちの交わりの外で」。この知らせを持ってきた者がだれであれ、不規則なこととみなしたようである。
四、ヨシュアは彼らを沈黙させるよう動いた。「わが主モーセよ、彼らを禁じてください」(民 11:28)。おそらくヨシュア自身が七十人のひとりであり、それが彼らの秩序の栄光に対して一層熱心であったのであろう。彼らは必然的な衝動の下にはないと想定した。「預言者の霊は預言者に従うからである」。それゆえ彼らに全く預言しないか、あるいは会幕に来て他の者たちと共に預言するかのいずれかを望んだのである。彼は彼らがしたことを罰することを願わず、将来に向けて制限されることを望んだだけである。この動議は良い原則からなされた。エルダデやメダデへの個人的嫌悪からではなく、彼が教会の一致とみなしたものへの誠実な熱心、神とモーセの栄光への関心からであった。
五、モーセはその動議を退け、これを提案した者を戒めた(民 11:29)。「あなたはわたしのためにねたむのか。あなたは自分がどんな霊であるかを知らない」。ヨシュアはモーセの特別な友人であり、信頼する者であったにもかかわらず。また彼がこれを、長老たちの召任によって損なわれるのを見るのを非常にいとったモーセへの敬意から語ったにもかかわらず。モーセは彼を戒め、彼にあってそのような霊を示すすべての者を戒めた。(一)わたしたちは他者の賜物、恵み、有用性を密かに悲しんではならない。ヨハネの弟子たちの過ちは、それが彼らの師の誉れを隠したためにキリストの誉れをねたんだことであった(ヨハ 3:26-36 等)。(二)わたしたちは他者の弱さや欠点に対して熱くなってはならない。エルダデとメダデが不規則なことをしたとしても、ヨシュアは彼らに対して速すぎ、熱くなりすぎた。わたしたちの熱心は常に知恵の柔和さをもって和らげられなければならない。神の義は人の怒りを必要としない(ヤコ 1:20)。(三)わたしたちは最も良く最も有用な人々でさえ、党派の頭として立ててはならない。パウロは自分の名を党派の後ろ盾として用いられることを望まなかった(コリ一 1:12,13)。(四)わたしたちは自分と異なる者を、彼らが「わたしたちと共に」キリストに従わないからといって、キリストに従わないものとして速やかに断罪し沈黙させてはならない(マル 9:38)。キリストが認めた者を拒絶し、すべての点でわたしたちと同じ考えでないという理由だけで、善を行うのを妨げてよいであろうか。モーセは別の霊を持っていた。この二人を沈黙させ、彼らの中の霊を消すどころか、むしろ「主の民がみな預言者になれば」と願った。すなわち「主がその霊を彼らの上に置かれるように」と。それは資格のない者を預言者として立てることを望んだのでも、預言の霊がこのように普遍的になることを期待したのでもない。しかしこうして彼は「主の民すべて」に対する愛と尊敬、他者の賜物に対する喜び、エルダデとメダデが自身の目の届かないところで預言したことへの不快感のなさを表現したのである。このような優れた霊を持っていたことが、祝福されたパウロであった。キリストが宣べ伝えられることを喜んだ。それが「わたしの鎖に患難を増やす」ことを意図する者たちによってであっても(ピリ 1:16)。わたしたちは、自身の誉れや自身の道の誉れが減じるとしても、神が仕えられ、栄光を受け、善がなされることを喜ぶべきである。
六、今や新たに任職された長老たちは、直ちにその執事に取りかかった(民 11:30)。彼らの召命が預言によって十分に証明された時、彼らはモーセと共に宿営に行き、業務に専念した。賜物を受けたので、「良い執事としてそれを用いた」。そして今やモーセは、そのわざと誉れを分かち合う者がこれほど多くいることを喜んだ。(一)権力を得たいと願う者によって、支配は重荷であるというモーセの証言を信じさせよう。それはその義務を良心に刻む者には配慮と煩労の重荷であり、そうしない者には、才能を地に埋めた不忠な仆の宣告に服する時、会計の日にさらに重い重荷となることが明らかになるであろう。(二)権力にある者によってモーセの模範を模倣させよう。他者の助言と援助を軽んぜず、それを願い、感謝せよ。知恵と権力を独占することを貪ってはならない。多数の議士の中には安全がある。
³¹ 時に主から風が起り、海の向こうからうずらを吹ききてらせて、陣のほとりに散らせられた。それが陣のまわりの地上に、一日の道のりの中に積み重なって、高さ約二キュビトになった。 ³² 民は立ちあがって、その日と、その夜と、翌日の終日、うずらを集め、最も少なく集めた者でも十ホメルを集めた。彼らはそれを自分のために、陣のまわりにひろげた。 ³³ 肉がなお彼らの歯の間にあって、まだ噛み切らないうちに、主は民に向かって怒りを発し、非常に大きな災罰で民を撃たれた。 ³⁴ それでその所の名をキブロテ・ハッタワと呼んだ。欲をなした民をそこに葬ったからである。 ³⁵ 民はキブロテ・ハッタワを出発してハゼロテに着き、ハゼロテにとどまった。
神は、御霊によってモーセに政治の補佐者を与えることで彼への約束を果たされた。これにより神は御霊によって人の霊に対して持つ力を証明されたのであるが、続いてここで、肉を与えることによって民への約束を果たされ、それにより下等な被造物に対する神の力と、自然の国におけるその支配を証明された。観察せよ。一、民が豊かな肉でもって満足させられたこと。「風」は(詩 78:26によれば南東の風であった)「うずらを」運んできた(民 11:31)。それがどのような動物であったかは不確かである。詩人はこれを「羽のついた鳥」あるいは「翼の鳥」と呼んでいる。学のあるパトリック監督は、近代の一部の著者たちに同意する傾向があり、彼らはこれが「いなご」であったと考えている。それはあの地方でよく知られた美味な食物であり、風と共に運ばれ、山をなして積み重なり、用のために日光で乾燥させられたということから、いなごであったと考える者が多いのである。それが何であれ、目的にはかなっていた。それはイスラエルの一月の祭に役立った。かくも甘やかす父であった神が、強情な家族に対してこのようになさったのである。豊かなエジプトには禍であったいなご――実を食い荒らしていたいなご――は、不毛の荒野にとっては祝福となった。それ自体が食されることで。二、彼らが神から送られたこの肉にどれほど貪欲であったか。彼らは「飽きるまで」というモーセが神から告げた言葉を顧みず、満たされない食欲をもって「獲物に飛びついた」(民 11:32)。彼らは二日一夜それに取り組み、各々の家長が少なくとも十ホメル(すなわち十頭分のろばの荷)を持ち帰るまで、肉を集めた。ダビデはベツレヘムの井戸の水を慕ったが、危険を冒して得たものであったから、それを得た時には飲まなかった。ましてやこれらのイスラエル人は、つぶやきによって得たこの肉を拒絶する十分な理由があった。そしてモーセの言葉から、それが怒りのうちに与えられたものであることを容易に悟ることができた。しかし肉的な心の力の下にある者は、尊い魂の確実な損害と破滅になるとしても、自分の情欲を満たしてもらうであろう。三、会計がなされる時、彼らがその祭のためにどれほど高い代価を払ったか。「主は非常に大きな災罰で民を撃たれた」(民 11:33)。ある身体的な病気であり、おそらくは彼らの食べ過ぎの結果であり、多くの者の死となった。しかもそれらは、おそらく反逆の首謀者たちであった。覚えよ、神はしばしばご自身の民の願いを愛のうちにかなえてくださる。神は「彼らにその求めを与えられたが、その魂にやつれを送られた」(詩 16:15 彙)。彼らに語られたすべての事によって、「彼らはその欲から遠ざけられなかった」。それゆえ「肉が彼らの口にある間に、神の怒りが彼らの上に下った」(詩 78:30,31)。わたしたちが度を越して慕うものは、もしそれを得たなら(恐れるべき理由があるが)、何らかの形でわたしたちの悲しみと十字架となるであろう。神は彼らをまず飽かせ、それから災罰をもって撃たれた。(一)神ご自身の力の名誉を守るため。「もしこれに供給する力があったなら、彼らを断ち切らなかったであろう」と言われないように。(二)罪人の繁栄の意味をわたしたちに示すため。それは彼らの破滅への備えであり、ほふられる牛のように養われるのである。最後に、この出来事の記憶が、その場所に与えられた名によって保たれている(民 11:34)。モーセはそれを「キブロテ・ハッタワ」――「欲をなした者たちの墓」あるいは「欲の墓」――と名づけた。イスラエルの欲をなした者たちのこれらの墓が、イスラエルの欲そのものの墓となっていたら、どれほど良かったことであろうか。この警告はそのように意図されていたが、十分な効果を挙げなかった。なぜなら次のように続くからである。「すべてこれにもかかわらず、彼らはなおも罪を犯した」(詩 78:32)。
ここまでイスラエルでは事はかなり順調に進んでいた。金の子牛の事件以来、神の恵みのみわざに対する妨げはほとんどなかった。民は宿営の編成と清めにおいて教えやすいように見え、君たちは祭壇の奉献において信心深く寛大であり、まもなくカナンにはいるという良い望みがあった。しかしこの章から憂鬱な光景が始まる。すべての措置が破れ、神は彼らの敵となり、彼らと戦われる。そしてこれらすべての害をもたらすのは罪である。一、彼らのつぶやきが彼らの間に火を点けた。しかしそれはモーセの祈りによって間もなく消された(民11:1-3)。二、さばきの火が消されたかと思うと、罪の火が再び燃え上がり、神はそれから機会を取って、ご自身のあわれみと義の両方を大いなるものとされる。1. 民が肉の不足のためにいら立つ(民11:4-9)。2. モーセが助けの不足のためにいら立つ(民11:10-15)。さて、(1) 神は両者を満足させることを約束される。モーセのために助けを任命し(民11:16,17)、民に肉を与える(民11:18-23)。そして、(2) 神は間もなくこれらの約束の両方を果たされる。というのは、[1] 神の御霊が七十人の長老を政府のために適格とし(民11:24-30)、[2] 神の力がうずらをもたらして民を宴会させる(民11:31,32)。しかし [3] 神の義が彼らのつぶやきのために彼らを災いで打たれる(民11:33-35等)。