Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ さてレビの子コハテの子イツハルのコラと、エリアブの子ダタンとアビラム、およびルベンの子ペレテの子オンが、人々を率いた。
² 彼らはモーセに向かって立ち上がった。イスラエルの子らのうちのある者、会衆の指名された二百五十人の君たち、会衆のうちの名ある者たちと共に。
³ 彼らは集まってモーセとアロンに逆らって言った。あなたがたは高ぶりすぎる。全会衆はみな聖なる者、おのおのそうである。主は彼らのうちにおられる。それなのになぜあなたがたは主の会衆の上に高く立つのか。
⁴ モーセはこれを聞いて地にひれ伏した。
⁵ そしてコラとその全会衆に語って言った。あす、主はだれがご自身のもので、だれが聖なる者であるかを示される。ご自身に近づかせるのはご自身が選ばれる者である。
⁶ これをせよ。コラとその全会衆は香炉を取り、
⁷ その中に火を入れ、主の前に香を盛れ。あす。主が選ばれるその人が聖なる者であろう。レビの子らよ、あなたがたは高ぶりすぎる。
⁸ モーセはコラに言った。レビの子らよ、どうかお聞きなさい。
⁹ イスラエルの神があなたがたをイスラエルの会衆から分け、ご自身に近づけて主の天幕の奉仕をさせ、会衆の前に立って彼らに仕えることは、あなたがたにとって小さなことと思われるのか。
¹⁰ 主はあなたと、あなたと共にいるあなたの同族レビの子らすべてを近づけられた。それなのにあなたがたは祭司職をも求めるのか。
¹¹ それゆえ、あなたとあなたの全会衆は主に向かって集まっているのである。アロンとは何者なのか。あなたがたは彼に対してつぶやくのか。
ここに次のものがある。一、反逆者たちの記述。だれであり、どのような者であったか。以前のように雑多な群衆や民の滓ではなく(それゆえ彼らは決して名ざしされない)、際立った資質の者たちであった。コラは元首であった。彼が党派を形成し、率いた。それゆえそれは「コラの反逆」と呼ばれる(ユダ11)。彼はモーセのいとこであった。兄弟の子どもどうしであった。しかし関係の近さは彼がモーセに無礼で粗暴であることを妨げなかった。人の敵が「その家の者たち」であっても不思議ではない。彼と共にダタンとアビラム、ヤコブの長子ルベンの部族の主な人々が加わった。おそらくコラはアロンの祭司職への昇進とコハテ人の頭としてのエリザファンの任命(民3:30)の両方に不満であった。そしておそらくルベン人はユダの部族が宿営で第一の誉れの位置を持ったことに怒った。「オン」は(民16:1で)党派の頭の一人として言及されるが、物語全体でそれ以降は決して言及されない。ある者が考えるように彼が悔い改めて彼らを去ったからか、あるいはダタンとアビラムほど目立たなかったからであろう。コハテ人はルベン人がそうした天幕と同じ側に宿営した。それはおそらくコラに彼らを引き入れる機会を与えた。そこからユダヤ人は言う。「悪人に災いあれ、その隣人に災いあれ」。隣人は悪人によって感染する危険にある。そしてこれら自身が「名ある人々」であったので、彼らは「会衆の指名された二百五十人の君たち」を共謀に誘い込んだ(民16:2)。おそらく彼らは初子、あるいは少なくとも家族のかしらで、アロンの昇進以前にはみずから聖なるものに仕えていた者たち。注。大いなる者たちの誇り、野心、嫉妬は常に教会と国の両方において多くの害の原因であった。神が恵みによって大いなる者たちをへりくだらせ、われわしの時代に平和をお与えになりますように。これらが描写されるとおりの名ある人々、誉れある人々は、古い世界の大いなる罪人であった(創6:4)。彼らが持っていた名声と誉れは彼らを満足させなかった。彼らは高かったが、さらに高くなろうとし、このようにして名ある人々は不名譽となった。
二、反逆者たちの抗議(民16:3)。彼らが争うのは、祭司職のアロンとその家族への決定について。彼らはそれがモーセが与えるには大きすぎる誉れであり、アロンが受けるには大きすぎる誉れであると考え、それゆえ両者が僭越であると責める。「あなたがたは高ぶりすぎる」。あるいは「これほど長く支配して満足すべきだ。今やあなたがたの地位を、それと同じほど良い権利を持ち、同じように治める能力のある者たちに譲ることを考えよ」。
彼らは会衆の聖さとそのうちにある神の臨在を誇らしげに誇る。「彼らは『みな聖なる者』、おのおのそうであり、アロンと同じように犠牲をささげるために用いられるのにふさわしく、以前の家長たちと同じであり、『主は彼らのうちにおられる』、導き、彼らを認めるために」。彼らは民の純潔や神の恵みについて誇るべき少しの理由もなかった。民はこれほど頻繁に、そして最近罪によって汚されており、今や神の不満のしるしの下にあったから。それは彼らが神と民との間に仲保する祭司を持つことを感謝すべきであったことを意味した。しかしその代わりに彼らは彼らをねたむ。
彼らはモーセとアロンがその誉れを自分たちに取ったと不正に責める。しかしそれは議論の余地なく、彼らはそれに神から召されたことが明らかであった(ヘブル5:4)。それゆえ彼らは祭司を全く持たないか、あるいは政府を持たないか、民政においても聖なることにおいても支配する者を持たないか、会衆の上に持たないか、会衆の上に立つ者を持たないか、あるいは神が任命された政府の構成に同意しないかのいずれかであった。ここで見よ。(1) 平等主義者と、支配を軽べつし、神が彼らの上に立てた権威に抵抗する者の霊がどのようなものか。彼らは誇り高く、ねたみ深く、野心的で、騒々しく、邪悪で、理不尽な者たちである。(2) 最良の最も有用な者たちでさえ、彼らに仕えた者たちから期待される扱いがどのようなものか。最も良い権利を持つ者が僭越者として表され、最もよく治める者が暴君として表されるなら、モーセとアロンがそのように虐待されたことを思い出すがよい。
三、彼らの抗議が彼に対して公にされたときのモーセのふるまい。彼はそれをどう受け取ったか。
彼は「地にひれ伏した」(民16:4)。以前のように(民14:5)。このようにして彼らにいかに進んで譲ろうとしたか、もし神への義務と彼に委ねられた信頼への忠実さと一致するなら、いかに喜んでその支配を辞任したかを示した。このようにして彼はまた、この悲しい機会に何を語り、何をなすべきかの導きを祈りによって神に求めた。彼はこのようにへりくだって自分の霊を静め(熱し始めずにはいられなかったであろうに)、神から教えを受けるまでは彼らに語ろうとしなかった。「そのような場合、賢い者の心は答えを探る」。そして神の御口から助言を求める。
彼は事例を神にゆだね、神に決定させることに同意する。自分の権利の正しさを確信しつつ、もし神がふさわしいと見なされるなら、この不満な民に別の指名で喜んで譲ることに満足する者として。正直な原因は迅速な裁判を恐れない。あすそれを持って来させよ(民16:5-7)。コラとその党派に香炉を持たせ、主の前に香を盛らせよ。もし主が彼らの受け入れを示されるなら、結構である。モーセは今、神がそのように望まれるなら、主の民が皆祭司となることを、以前に彼らが皆預言者となることを望んだのと同じように喜んでいる。しかし神に申し立てがなされたなら(疑いなくそうされるであろうが)アロンについて決定されるなら、彼らは実験を行うことが非常に危険であることを見いだすであろう。それゆえ彼はそれをあすまで延期し、彼らが一晩それについて考えたとき、思いとどまり、その主張を下ろすかどうかを試みる。
彼は彼らと公正に論じる。もし可能なら、上訴が神の法廷に行く前に、公正な論理によって暴動を静めるために。そこではそれが訴え人の混乱に終わることを彼は知っていたから。
(1) 彼は彼らを「レビの子ら」と呼ぶ(民16:7)。そして再び(民16:8)。彼らは彼自身の部族、いや神の部族であった。それゆえ彼らがこのように神と彼に対して暴動を起こすことはいっそう悪かった。レビの子らが金の子牛の件で神の側で勇敢に現れ、不滅の誉れを得てから久しくない。そして当時唯一の無垢な者であった彼らが今や主導的な犯罪者となり、彼らが勝ち取った誉れをすべて失うであろうか。神の打ち場にそのようなもみがらがありえたか。レビ人でありながら反逆者か。
(2) 彼は彼らの責めを彼ら自身に跳ね返す。彼らはモーセとアロンが高ぶりすぎると不正に責めた。彼らは神が彼らに負わせた以上のことは何もしなかったのに。「いや」、モーセは言う。「あなたがたこそ高ぶりすぎる、レビの子らよ」。注。神の任命を制御し、矛盾するために高ぶる者たちは、高ぶりすぎる。われわしが従うことで十分であり、処方することは多すぎる。
(3) 彼は彼らがレビ人として持っていた特権を示す。それは彼らにとって十分であり、彼らは祭司職の誉れを志す必要がなかった(民16:9,10)。彼は彼らがレビ人として昇進された誉れがいかに大いなるものであったかを思い出させる。[1] 彼らは「イスラエルの会衆から分けられ」、彼らと区別され、彼らより尊くされた。アロンの家族が彼らの上に上げられたことに不満を言う代わりに、彼らの部族が他の部族の上に上げられたことを感謝すべきであった。たとえすべての点で彼らと同じ立場にあったとしても。注。われわしより上の者をねたむことを防ぐために、われわしより下の者がどれほど多くいるかを正当に考慮することは助けとなる。ある者が誉れ、権力、財産、関心において、賜物、恵み、有用性においてわれわしの前に昇進することに苛立つ代わりに、最も小さい者にすぎないわれわしが非常に最後に置かれないなら、神を賛美する理由がある。おそらくよりよく値する多くの者がそれほどよく昇進しない。[2] 彼らは非常に大いなる価値ある誉れに分けられた。第一に、「神に近づく」こと。普通のイスラエル人よりも近く。彼らも神に近い民であったが。神に近ければ近いほど、その誉れは大きい。第二に、「天幕の奉仕を行う」こと。聖所の器を担い、天幕の奉仕のいかなる部分においても用いられることは十分な誉れである。神の奉仕は完全な自由だけでなく、高い昇進である。第三に、「会衆の前に立って彼らに仕える」こと。注。公衆に仕える者は本当に大いなる者であり、神の教会の働き人が教会の働き人であることは誉れである。さらに、彼らに与えられた尊厳に加えて、[3] それはイスラエルの神ご自身が彼らを分けたのである。彼らをその場所に置いたのは神のわざであり、それゆえ彼らは不満であるべきではなかった。そして神がアロンをその場所に置いたのも神であり、それゆえ彼らは彼をねたむべきではなかった。
(4) 彼は彼らがそれらの特権を低く評価する罪にあることを宣告する。「あなたがたには小さなことと思われるのか」。彼が言ったかのようである。「アロンがその誉れに昇ったまさにその時、あなたがたはそれに依存する別の誉れのために定められ、彼から借りた光線で輝いていたのに、あなたがたのうちのすべての人がアロンの祭司職を恨むのはふさわしくない」。注。[1] イスラエルの神に近づく特権はそれ自体小さなことではなく、それゆえわれわしにも小さく見えてはならない。神に近づく機会をなおざりにする者、そのことで不注意で形式的な者、それが苦役であり喜びでない者に、われわしはこの問いを適切に向けることができる。「神があなたがたを神に近い民としたことが、あなたがたには小さなことと思われるのか」。[2] 禁じられた誉れを志し、僭越する者たちは、許された誉れに大いなる軽べつを置く。われわしはおのおの神がわれわしにふさわしいと見なされる、そしてわれわしがふさわしいと見なされる以上の良い分け前の評判を持っている。そしてわれわしはそれに満足すべきであり、これらのように「自分たちには高すぎる事に携わってはならない」。「あなたがたは祭司職をも求めるのか」。彼らは求めているとは認めなかったであろうが、モーセは彼らがこれを目指していたのを見た。律法は祭壇に仕える者たちのために十分よく備えていたので、彼らはその職を求めたのである。
(5) 彼らの暴動を神に対する反逆と解する(民16:11)。彼らはイスラエルの神の聖さと自由を主張するふりをしたが、実際にはイスラエルの神に向かって武器を取った。「あなたがたは主に向かって集まっている」。注。神の定めと摂理に逆らって戦う者たちは、彼らが何とふりをしようと、また気づいていようとなかろうと、実際にはその造り主と戦うのである。彼によって任ぜられた者たちに抵抗する者は、その君に抵抗する。「ああ」、モーセは言う。「アロンとは何者なのか。あなたがたは彼に対してつぶやくのか」。つぶやく者、不満を言う者が、彼らが争う器は神が用いる器にすぎず、彼らは神が彼らを造られたところのものであり、それ以上でもそれ以下でもなく、良くも悪くもないことを考慮するなら、彼らの非難や侮辱においてこれほど大胆で自由ではないであろう。祭司職が決定されたとおり祝福であることを見いだす者は、すべての賛美を神に帰さなければならない。しかしもしだれかがそれを重荷と見いだすなら、彼はアロンと争ってはならない。アロンは彼が造られたところのものにすぎず、命じられたとおりにするだけであるから。このようにして彼は神をその原因に巻き込み、それゆえ彼の申し立てにおいてうまくいくことを確信できた。
¹² モーセはエリアブの子ダタンとアビラムを呼びに遣わした。彼らは言った。われわしは上って来ない。
¹³ あなたがたがわれわしを乳と蜜の流れる地から導き上って、荒野でわれわしを殺すのは小さなことか。あなたがたがわれわしの上に君として完全に立つためか。
¹⁴ まことに、あなたはわれわしを乳と蜜の流れる地に導き上らず、畑やぶどう園の嗣業をわれわしに与えなかった。あなたはこれらの人の目を抜こうとするのか。われわしは上って来ない。
¹⁵ モーセは非常に怒り、主に言った。彼らの献げ物を顧みないでください。わたしは彼らからろば一匹も取らず、彼らのひとりをもそこなわなかった。
¹⁶ モーセはコラに言った。あなたとあなたの全会衆はあす主の前に立ちなさい。あなたと彼らとアロンも。
¹⁷ おのおのその香炉を取り、その中に香を盛り、おのおのその香炉を主の前に携えて来なさい。二百五十の香炉。あなたも、アロンも、おのおのその香炉を。
¹⁸ 彼らはおのおのその香炉を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、モーセとアロンと共に会見の天幕の入口に立った。
¹⁹ コラは彼らに対して全会衆を会見の天幕の入口に集めた。主の栄光が全会衆に現れた。
²⁰ 主はモーセとアロンに語って言われた。
²¹ あなたがたはこの会衆の中から離れよ。わたしが瞬く間に彼らを滅ぼすため。
²² 彼らは地にひれ伏し、「ああ神よ、すべて肉なる者の霊の神よ、ひとりの人が罪を犯したのに、あなたは全会衆に怒られるのか」と言った。
ここに次のものがある。一、ダタンとアビラムの横柄さと、その反逆的な抗議。モーセはコラの言うことを聞き、それに答えた。今や彼はダタンとアビラムにその不満を持ち込ませるよう召する(民16:12)。しかしそれらは彼の召しに従わなかった。彼らが決心していたことを顔向けして言えなかったからであるとすれば、それは彼らにいくらかの謙遜が残っている例証である。あるいはむしろ、彼らが彼の権威をそれほど認めたくなかったからであり、それでは極度の厚かましさの例証である。彼らはパロ自身の言葉を語った。パロはモーセを蔑視した。しかしその代償をいかに高く払ったかを彼らは忘れた。彼らの頭がひどく熱しられ、その心が頑なにされていなかったなら、彼らがこの使いの者たちを顧みないなら、モーセはまもなく神の御名において死の使いの者たちを彼らのために遣わすことができることを考慮できたであろう。しかしこのようにこの世の神は「信じない者たちの心を盲目にされる」。しかしその同じ使いの者たちによって彼らはモーセに対する訴追の条文を送る。そしてその責めは非常に高い。
彼らはエジプトから彼らを導き出したことで彼らに大いなる害を与えたと責める。皮肉にもそれを「乳と蜜の流れる地」と呼んで(民16:13)。エジプトでは玉ねぎ、にんにく、魚は確かに豊かにあったが、乳と蜜を称えたことはなかった。ただ彼らはこのようにカナンの約束を冷やかそうとしたのである。実際に最大の恵みであったものを傷害として表すとは、なんという感謝を知らぬ者たちよ。
彼らは彼らのいのちをねらう企みがあると責める。彼が「荒野で彼らを殺す」つもりであると。彼らがそのように良く養われていたのに。そしてもしそれらが荒野で死ぬように宣告されたなら、彼らは自分自身を感謝しなければならない。モーセは彼らを癒そうとしたが、彼らは癒されようとしなかった。
彼らは彼らの自由をねらう企みがあると責める。彼が「自分自身を彼らの上に君として」彼らを奴隷にするつもりであると。「彼らの上に君!」彼は彼らにやさしい父ではなかったか。いや、主のために彼らに献身したしもべではなかったか。彼らの財産は守られ、彼らの秩序は保たれ、正義は公平に執行されていなかったか。彼らは安息と誉れの中に生きていなかったか。それにもかかわらず彼らはまるでモーセのくびきがパロのよりも重いかのように訴える。そしてモーセは自分自身を君としたのか。到底そうではない。最初彼がいかに喜んでその職を辞退したことか。それ以来何度もいかに喜んで辞任したことか。それにもかかわらず彼はこのように暴君と僭越者の最も黒い性格の下に置かれる。
彼らは彼が彼らをだますと責める。良い地への期待を抱かせ、それから打ち砕いたと(民16:14)。「あなたはわれわしを乳と蜜の流れる地に導き上らなかった」と約束したのに。そしてだれのせいであったか。彼は彼らをその境界に導き、神の下で、彼らに所有させようとしていたまさにそのときであった。しかし彼らはそれを自分たちから押しやり、自分たちでドアを閉ざした。それゆえ彼らが今カナンにいないことは全く彼ら自身の過失であった。それにもかかわらずモーセが非難を負わなければならない。このように「人の愚かさがその道を曲げるとき、その心は主に向かって苛立つ」(箴19:3)。
彼らは全般的に不正な扱いをしたと責める。彼が「これらの人の目を抜き」、それから盲目のまま好きなように導こうとしたと。彼が彼らのためにしたすべてのわざの目的は、彼らの目を開くことであった。それにもかかわらず彼らは彼が彼らの目を抜いて、自分たちがだまされているのを見ないようにするつもりであったとほのめかす。注。最も賢い最も良い者でもすべての人を喜ばせることはできず、すべてから良い言葉を得ることはできない。しばしば最高の拍手を受けるに値する者が最も重い非難の下に置かれる。モーセは父から多くの良いわざを彼らに示した。そのうちのどれのゆえに彼らは彼をなじるのか。
二、彼らの横柄さに対するモーセの正当な憤り(民16:15)。モーセは最も柔和な者であったが、神が彼においてなじられるのを見いだし、「非常に怒った」。彼はその救いのために多くをなした民が自分たちを滅ぼしていくのを見ることに耐えられなかった。この動揺において、
彼は自分自身の誠実さについて神に申し立てる。彼らが彼を野心的、貪欲、圧制的と卑劣に反映させたのに。自分自身を彼らの上に君として。神は彼の証人であった。(1) 彼が彼らから何も得なかったこと。「わたしは彼らからろば一匹も取らなかった」。ゆとりやゆすりによってだけでなく、彼が彼らのためにしたすべての良いわざに対する報いや謝礼としても。彼は将軍の給与も、裁判官の俸給も取らなかった。ましてや君の貢ぎ物を。彼がエテロの羊の群れを飼っていたとき、イェシュルンで王となったときよりも財産において多かった。(2) 彼らが彼によって何も失わなかったこと。「わたしは彼らのひとりをもそこなわなかった」。いや、最も小さい者も、最も悪い者も、彼に最も癇癪を起こし、挑発した者たちさえも。彼は誤りを支えるために権力を濫用したことはなかった。注。自分自身を汚さなかった者は他者によって中傷されることを恐れる必要はない。人がわれわしを宣告するとき、われわし自身の心がわれわしを宣告しないなら、われわしは安んじることができる。
彼は神に彼の原因を弁護し、彼を潔白にすることを願う。コラとその仲間がささげようとしていた香に対する神の不満を示すことによって。「主よ」、彼は言う。「彼らの献げ物を顧みないでください」。ここにおいて彼は最近自分自身の手で書いたカインの歴史に言及しているようである。カインとその献げ物に神は顧みられなかったと言われる(創4:5)。「コラの反逆に従った者たちはカインの道を歩んだ」(これらは共に置かれる。ユダ11)。それゆえ彼は彼らがカインのようにしかめつらをされ、同じ混乱に置かれることを祈る。
三、モーセとその告発者たちとの間の論争の決着。1. モーセは彼らに翌朝、朝の香をささげる時にアロンと共に現れ、事柄を神のさばきにゆだねるよう挑む(民16:16,17)。穏やかで愛情深い論理によって彼らを納得させることができなかったので、彼は神の裁定に立つことを喜んで束縛に入る。神が論争を決定するために現れることを疑わない。このゆだねは以前に合意された(民16:6,7)。ここでただ一つの条項を加える。それは原告に対する彼の大きな謙遜を物語る。彼らがその昇進に異議を唱えたアロンは、今や神的な制度によって天幕の内で香をたく誉れに昇っていたが、この裁判においては試験者の位置に身を置き、天幕の入口でコラと同じ立場に立つべきであった。いや、モーセ自身も彼らと共に立つであろう。それゆえ訴え人は望むすべての公正な扱いを持つであろう。このように「すべての口が閉ざされる」。2. コラは挑戦を受け入れ、モーセとアロンと共に「天幕の入口」に現れ、その主張を実証する(民16:18,19)。彼が非常に大きな厚かましさを持っていなかったなら、ここまで事を運ぶことはできなかったであろう。彼は最近、聖別された祭司ナダブとアビフが聖別されていない火で香をたくことを敢えてしたために打ち殺されたのを見なかったか。そして彼とその共謀者は聖別されていない手で香をたくにおいて、もっと良い扱いを受けることを期待できたか。それでもモーセとアロンに対峙するために、彼の誇りの高さにおいて彼はこのように天に挑戦し、神的な権威なしに神的な受け入れを要求するふりをする。このように罪の欺きによって心は頑なにされる。彼らは「おのおのその香炉を取った」。おそらくこれらはこれらの家族のかしらたちが家族の祭壇で用いていた香炉のいくつかであった。この礼拝の奉仕の部分が祭司職と天幕の祭壇に限定される前には(彼らはそれを再び用い、評判にのぼらせようとしたのであろう)。あるいは普通の火鉢であったかもしれない。彼らの日常の用のための。さてこの荘厳な裁判に出席し、その結果の証人となるために、モーセが「反逆者たちに対して会衆を集めた」と思われたであろうが、コラが彼らをモーセに対して集めたようである(民16:19)。これは会衆の大部分がコラに味方し、彼の指図に従い、彼の成功を望んだこと、そしてコラがアロンに対してその論点を勝ち取る望みが非常に高かったことを示唆する。もしその結果を疑っていたなら、このように公に裁判を求めることを貪らなかったであろう。しかし彼が今会衆を集めていたのは自分自身の混乱の証人とするためであるとは、ほとんど考えていなかった。注。誇り高く野心的な人々は、自分自身の昇進を計画している間に、しばしば自分自身の恥ずべき転倒を急いでいることが証明される。
四、さばきの座が設けられ、裁き主が法廷に就き、全会衆に判決を下すと脅す。1. 「主の栄光が現れた」(民16:19)。最初にアロンをその職に就けるために現れた同じ栄光(レビ9:23)が、今や彼をそのうちに確認し、彼に反対し、彼と競争して自分たちを立てる者たちを混乱させるために現れた。シェキナ、または神的威厳、永遠のことばの栄光、普通は垂れ幕の内、ケルビムの間に住んでいたものが、今や全会衆の恐怖のために天幕の入口の上に公に見られた。彼らはいかなる形も見なかったが、おそらく光と火の現れは神が彼らに怒っていることをはっきりと示した。彼が現れたときと同じように(民14:10)。罪の自覚のある者にとって、神的栄光の現れほど恐ろしいものはない。そのような栄光ある方は恐るべき敵でなければならないから。2. 神は「瞬く間に彼らをすべて滅ぼす」と脅し、そのためにモーセとアロンに彼らの中から離れるよう命じた(民16:21)。神はこのように彼らの罪が何に値するか、それが神にいかに挑発的であったかを示された。罪人たちとの交わりを持ち、少しでも彼らと分担することがいかに危険であるかを見よ。会衆の多くはおそらくただ付き添いで、群衆に従い、あるいは好奇心で結果を見るために来たにすぎない。反逆者たちに対する証言をなし、公に神とモーセのために宣言すべきであったのに。それにもかかわらず彼らは瞬く間にすべて滅ぼされそうになった。もし悪魔がはいった獣の群れに従うなら、それは自分の危険においてである。
五、会衆のためのモーセとアロンのへりくだった執り成し(民16:22)。1. 彼らの姿勢は懇願するものであった。彼らは「地にひれ伏し」、真剣な嘆願者として神の前にひれ伏し、寛大なあわれみを勝ち取るために。民が不実にも彼らを見捨て、彼らに対して武器を取った者たちに加わったのに、彼らはイスラエルの牧者として彼らに委ねられた信頼に忠実であることを示した。群れが危険にあるのを見るとき境目に立つべき牧者として。注。他者がわれわしに対するその義務において失敗しても、これはわれわしを彼らに対する義務から解放せず、われわしがその福祉を求める下にある義務を取り去らない。2. 彼らの祈りは訴え求める祈りであり、勝利を得るものであることが証明された。今やモーセが「その怒りを覆さなかったなら」、神は彼らを「滅ぼされたであろう」(詩106:23)。しかしこのような場合にモーセが神よりも思慮深く、あるいはあわれみ深かったと想像するのは遠慮すべきである。むしろ神は罪人たちの罪に対する正当な不満を判決によって示し、同時に聖徒たちの祈りに対する恵み深い謙譲を、モーセの執り成しによる判決の取り消しによって示すことをふさわしいと見なされた。祈りにおいて観察せよ。(1) 彼らが神に与える称号。「すべて肉なる者の霊の神よ」。人とは何かを見よ。彼は肉にある霊、体を持った魂、天と地の奇妙に組み合わされた被造物である。神とは何かを見よ。神はすべての人類の霊の神である。「主は霊を造られる」(ゼカ12:1)。主は「それの父である」(ヘブル12:9)。主はそれを形造る能力を持ち(詩33:15)、それを処理する権威を持つ。主は「すべてのたましいはわたしのもの」と言われたから(結18:4)。彼らはこれによって、「すべて肉なる者の霊の神」として神は主権においてこの会衆を瞬く間に滅ぼすことができるにもかかわらず、あわれみにおいて彼らを惜しんでくださる望みがあることをほのめかす。彼らが神ご自身のわざであり、神が彼らに所有を持っているからだけでなく、「霊の神」であって彼らの枠組みを知り、導く者と導かれる者との間、悪意をもって罪を犯した者とそのわざによって引き込まれた者との間を区別し、そのさばきにおいてそれに応じて違いを設けるから。(2) 彼らが固執する論拠。それはアブラハムがソドムのために執り成しにおいて強調したのとほぼ同じ(創18:23)。「あなたは正しい者を悪い者と共に滅ぼされるのですか」。ここでの訴えも同様である。「ひとりの人が罪を犯したのに、あなたは全会衆に怒られるのか」。この事において加わったのは彼らすべての罪であったが、大いなる違反はその反逆を最初に企てた者のもの。注。神が主権と厳格な正義において何をなさろうとも、神はひとりの罪のために会衆を滅ぼさないという望みを持つ理由がある。しかし「義と平和」が贖い主の企てにおいて「互いに口づけした」ので、「あわれみはさばきに対して喜ぶ」であろう。モーセは全会衆が漸次荒野で滅びることを知っていた。それにもかかわらず彼らが一度に滅ぼされないようにという祈りにおいてこのように熱心であり、執行猶予を得ることを恵みと数えるであろう。「主よ、今年はそのままにしておいてください」。
²³ 主はモーセに語って言われた。
²⁴ 会衆に語って言え。コラ、ダタン、アビラムの天幕の周りから立ち上がれ。
²⁵ モーセは立ち上がり、ダタンとアビラムのところへ行った。イスラエルの長老たちが彼に従った。
²⁶ 彼は会衆に語って言った。どうかこれらの悪人たちの天幕から離れなさい。彼らのものには何も触れてはならない。そのすべての罪のうちに滅ぼされないため。
²⁷ 彼らはコラ、ダタン、アビラムの天幕の周りから、あらゆる側から立ち上がった。ダタンとアビラムは出て来て、その天幕の入口に立った。彼らの妻、子ら、幼い子どもたちと共に。
²⁸ モーセは言った。これによって主がこれらすべてのわざを行うためにわたしを遣わされたことをあなたがたは知るであろう。わたしは自分の心から行ったのではない。
²⁹ もしこれらの人がすべての人の死と同じ死に方で死ぬか、すべて人が受ける視察を受けるなら、そのときは主はわたしを遣わされなかったのである。
³⁰ しかし主が新しいことを行い、地がその口を開いて、彼らとすべて彼らに属するものを飲み込み、彼らが生きたまま穴に下るなら、そのときはこれらの人が主を挑発したことをあなたがたは知るであろう。
³¹ 彼がこれらの言葉をすべて語り終えたとき、彼らの下の地が裂けた。
³² 地はその口を開いて、彼らとその家、およびコラに属するすべての人とすべての持ち物を飲み込んだ。
³³ 彼らとすべて彼らに属する者は生きたまま穴に下り、地は彼らの上に閉じた。彼らは会衆のうちから滅びた。
³⁴ 彼らの周りにいたイスラエルはみな、彼らの叫び声で逃げた。彼らは「地がわれわしをも飲み込まないように」と言ったからである。
ここにダタンとアビラムとの論争の決着がある。彼らはモーセに反逆した。次の段落ではコラとその仲間との論争の決着がある。彼らはアロンと競争しようとした。ダタンとアビラムがその家族の天幕の中に広々とした天幕を立て、そこで宮廷を保ち、評議に集まり、モーセに対する挑戦の旗を掲げたようである。それはここで「コラ、ダタン、アビラムの天幕」と呼ばれる(民16:24,27)。そこに集合場所として、ダタンとアビラムは留まった。コラとその仲間が主の天幕に上り、彼らの裁判の結果を待つ間。しかしここで、その裁判が終わる前に彼らがどうやってそのわざを成し遂げられたかが告げられる。神はそのさばきにおいて好きな方法を取られるから。
一、反逆者たちの天幕から直ちに退くよう会衆に公の警告が与えられる。1. 神はモーセにこの趣旨で語るよう命じる(民16:24)。これはモーセの祈りへの答えであった。彼は「全会衆を滅ぼさない」よう願った。「よかろう」、神は言われる。「わたしはそうしない。彼らが自分自身の安全のために賢く立ち回り、危険から逃げるなら。もし彼らが反逆者たちを捨てるなら、結構である。彼らは彼らと共に滅びない。そうでなければ、後に続くことを受けよ」。注。われわしはわれわしの救いのために友人たちの祈りによって益を得ることを期待できない。われわし自身が救いの手段を用いることに勤勉で忠実でない限り。神は自ら手段によって救うことをしない者を奇跡によって救うことを約束されなかったから。彼らのために祈ったモーセは彼らにこれを宣べ、警告しなければならない。「来たるべき怒りから逃げよ」と。2. モーセはそれにしたがって反逆者たちの本部に向かう。アロンを天幕の入口に残して(民16:25)。ダタンとアビラムは頑なに彼のもとに来ることを拒んだ(民16:12)。それにもかかわらず彼はへりくだって彼らのもとに下る。まだ彼らを納得させ、回復できるかどうかを試みるために。教会の働き人はこのように柔和をもって自分に逆らう者を教えなければならない。最も頑なな者のために身をかがめることを自分たちの下にあると考えない。彼らの益のために。キリストご自身反逆で口答えする民に御手を伸ばされる。イスラエルの七十人の長老がモーセに従い、その衛兵として付き添う。暴徒の横暴から彼を守り、彼らの臨在によって彼に誉れを置き、もし可能なら反逆者たちに畏敬を打つために。傷つけられた無実と誉れを支持し、励ますことにわれわしができるすべてを貢献することはわれわしの義務である。3. すべての者が自分自身の安全を重んじるなら、直ちに「これらの悪人たちの天幕から離れる」べきことが宣告される(民16:26)。そしてこのように彼らがその原因と関心を捨て、その罪と計りとを憎み、彼らの上に来る罰を恐れることを示すべき。注。罪人たちと共に滅びない者は「彼らのうちから出て、分かたれる」べきである。もしわれわしが「ゆがんだ世代」から自分自身を救わないなら、「罪人たちと共にわたしたちのたましいを集めないでください」と祈るのはむなしい。神の民はバビロンから呼び出される。彼らがその罪と災いの両方を分かち合わないように(黙18:4)。
二、会衆は警告を取る。しかし反逆者たち自身は頑固であり続ける(民16:27)。1. 神はあわれみをもって民を反逆者たちから離れるように傾けられた。「彼らはコラ、ダタン、アビラムの天幕から立ち上がった」。彼らの近くに宿営することになった者たち(彼らは疑いなく自分たちと共に家族とすべての持ち物を移した)と、彼らの宿営のあらゆる場所から結果を見るために来た者たちの両方。モーセの祈りへの答えとして、神はこのように会衆の心を刺激し、自分自身の保存のために立ち回らせた。注。神が救われる者には、神は悔い改めをお与えになる。「彼らが悪魔のわなから自分自身を取り戻すように」。悪を行う者たちから離れる恵みは、救いに伴うものの一つである。2. 神は正義をもって反逆者たちをその頑固さと心のかたさに任せられた。彼らはすべての隣人から見捨てられ、神の正義の矢的として立てられたのを見たのに、神とモーセの前にひれ伏し、へりくだり、その罪を認め、赦しを請う代わりに、群衆の中に避難所を求めて逃げ、散らす代わりに、彼らは厚かましく「天幕の入口に立った」。まるで神ご自身に立ち向かい、神に最悪のことを挑戦するかのように。このように彼らの心は彼ら自身の滅びのためにかたくなにされ、彼らの状態が最も恐ろしいときに恐れを知らなかった。しかしその両親の思い上がりによって、罪や恐れが分からない幼い子どもたちがこの厚かましい姿勢に置かれたことはなんという残念なことであったか。早くから神の前にひれ伏すことを教えられた者は幸いである。これらの不幸な幼い者たちのように神に対して立ち向かうのではない。
三、さばきが主の御名によってモーセによって彼らに対して荘厳に宣告され、論争の決定は全能の神の力によるその執行に置かれる。モーセは神的本能と導きによって、すべてのイスラエルの目が彼に注がれ、出来事を待つとき、反逆者たちの厚かましさに対する正当で聖なる義憤に動かされ、大胆に全体の事柄を驚くべき決着に委ねる(民16:28-30)。1. もし反逆者たちが普通の死に方で死ぬなら、彼は詐欺師と呼ばれ、数えられることに甘んじる。彼らが自然な死に方で死ぬだけでなく、以前に他の犯罪者に対して執行されたどんな種類のさばきによって死ぬ場合でも。「彼らが疫病によって、あるいは天からの火によって、あるいは剣によって死ぬなら、そのときは『神はモーセを見捨てられた』と言え」。しかし、2. 「もし地が開いて彼らを飲み込むなら」(前例のない刑罰)、「そのとき、イスラエルの全家に確かに知らせよ。わたしは神のしもべであり、彼によって遣わされ、彼のために用いられている。そしてわたしに逆らう者は彼に逆らうのであると」。さばき自体が反逆者に対する神の不満の十分な証拠であり、すべての者に「彼らが主を挑発したことを理解させる」であろう。しかしそれがこのようにあらかじめモーセによって荘厳に予告され、申し立てられたとき、外側からの最小の前兆もないとき、その納得させる証拠ははるかに強く、彼がしもべであるだけでなく天のお気に入りであり、神的な相談に親密に通じ、その弁護において神的な力の並外れた現れを得ることができる者であることが議論の余地のないものとなった。
四、執行がただちになされる。神とそのしもべモーセが互いに非常によく理解し合っていたことが現れた。モーセが言葉を語り終えるとすぐに、神はわざをなされた。地が「裂け」(民16:31)、「その口を開いて彼らをすべて飲み込み」、彼らと彼らの者を(民16:32)。そして彼らの上に「閉じた」(民16:33)。このさばきは、1. 並外れてあった。神はそのうちに「新しいことを創造された」。以前になさったことのないことを。神はその矢筒に多くの矢を持つ。あわれみと同様に怒りにおいても多様なわざがある。ダタンとアビラムは主の火が時に出たシェキナから遠く離れていたので安全だと思った。「ユピテルから遠い者は雷鳴から遠い」と彼らは言う。しかし神は罰する一つの方法に縛られないことを彼らに知らせた。地は神が喜ばれるとき、火と同じように効果的に神の正義に仕える。2. 罪人たち自身にとって非常に恐ろしかった。生きたまま自分自身の墓に下ること。瞬時に死に、葬られること。「その力の全盛期に、全く安らかで静かであった」ときに「穴の鉄格子に下る」こと。3. そのかわいそうな子どもたちにとって厳しかった。さばきのより大きな恐怖と、神的怒りのより完全な表示のために、彼らは両親の一部として滅びた。そのうちに、彼らがそれに値するほどどれほど悪かったか、あるいは神が他の面で彼らにどれほど良くなられて補償されたかを特に告げることはできないが、このことにおいてわれわしは確信する。無限の正義は彼らに間違ったことをしなかった。「神が不義を行われることは断じてない」。4. 全く奇跡的であった。地の裂けは海の裂けと同じように驚くべき、自然の力を超えるものであった。地の再びの閉じることは水の閉じることよりもさらにそうであった。神はすべての被造物を御命令の下に持ち、御喜びになるとき、そのいずれかを神の正義の器とされる。もし神がわれわしの敵であれば、それらのいずれもわれわしの友ではないであろう。神は今イスラエルに、モーセが最近その祈りにおいて彼らに教えたことを確認された。「だが、主の怒りの力を知る者はだれか」(詩90:11)。神は御喜びになるとき、「不義を行う者たちのために奇妙な罰を持つ」(ヨブ31:3)。それゆえ結論しよう。「この聖なる主神の前に立つことができる者はだれか」。5. 非常に意義深かった。彼らは「天に向かって口を開き」、その「のどは開いた墓」であった。それゆえ地がその口を彼らの上に開いて彼らを飲み込むことは正当である。彼らは会衆の中に裂け目を作った。それゆえ地が彼らの下で裂けることは正当である。改革されることを憎む思い上がりの罪人は地への重荷である。全被造物は彼らの下でうめく。これは地がこれらの反逆者たちの下で沈んだことによって示された。彼らを担うことに疲れ、彼らの下にあることに疲れたかのように。そして地がなお同様に不義の重みで負わされていることを考慮すると、これがかつて地がその負荷の下で沈んだ唯一の時であったことは驚くべきことである。6. 悔い改めずに死ぬ罪人たちの永遠の滅びの型であった。おそらくこれになぞらえて、彼らは「穴に沈み」(詩9:15)、「急に地獄に下る」と言われる(詩55:15)。しかしダビデは「深い泥の中に沈む」ときでさえ、信仰をもって祈る。「穴がわたしの上にその口を閉ざさないように」。それは滅ぼされた者たちに対するように。彼らと命との間には溝が固定されている(詩69:2-15)。彼の場合は悪かったが、これのように絶望的ではなかった。
五、すべてのイスラエルがさばきに驚かされる。「彼らは彼らの叫び声で逃げた」(民16:34)。彼らは遅すぎたときに助けを叫んで求めた。彼らの悲しい叫び声は隣人たちを彼らの救いに連れて来る代わりに、彼らをさらに遠ざけた。自分自身の罪と互いの罪を知っていたので、彼らは互いに急かした。「地がわれわしをも飲み込まないように」と言いながら。注。他者の破滅はわれわしの警告となるべきである。もし信仰によって、底知れぬ穴に下った者たちの叫び声を聞くことができるなら、われわしは自分のいのちのために逃げるために、今以上の勤めをするであろう。われわしも同じさばきに入らないように。
³⁵ 主から火が出て、香をたいた二百五十人を焼き尽くした。
³⁶ 主はモーセに語って言われた。
³⁷ 祭司アロンの子エレアザルに告げよ。燃えているものから香炉を取り上げ、あそこの火をまき散らせ。それらは聖別されたから。
³⁸ たましいに罪を犯すこれらの罪人たちの香炉を、祭壇のおおいとして広げた板にしなさい。彼らが主の前にそれをささげたので、聖別されたから。それはイスラエルの子らへのしるしとなる。
³⁹ エレアザル祭司は、焼かれた者たちがたいた青銅の香炉を取った。それは祭壇のおおいとして広げた板にされた。
⁴⁰ イスラエルの子らへの記念のためである。アロンの子孫でない他の者が、主の前に香をたくために近づかないように。彼がコラとその全会衆のようにならないために。主がモーセの手によって彼に言われたように。
われわしは今、香炉を手に持ち、香をたこうとして、祭司職を主張する者たちを残してきた天幕の入口に振り返らなければならない。そしてここに次のものを見いだす。
一、彼らに対する復讐(民16:35)。地が宿営で開いてダタンとアビラムを飲み込んだとき、おそらく「主から火が出て、香をたいた二百五十人を焼き尽くした」。彼らと共に立ったアロンは生かされた。この刑罰は確かに前のものほど新しいことではなかった。ナダブとアビフはこのように死んだから。しかしそれは劣らず奇妙で恐ろしく、そのうちに次のことが現れた。1. 「われわしの神は消し尽くす火である」。雷は神の声の恐怖の感覚的な表示か。いなずまもまた神の御手の力。われわしはこのうちに敵対者を飲み尽くす神の燃える怒りを見、そこから「生ける神の手の中に落ちることは恐ろしいことである」(ヘブル10:27-31)ことを推論しなければならない。2. われわしに属さないものに手を出すなら、それはわれわしの危険においてある。神は神ご自身の制度の誉れをねたみ、それが侵されることを許されない。コラ自身が香をたこうとした二百五十人と共に焼き尽くされたことは最も可能性が高い。祭司職が彼のねらったものであったから。それゆえ彼は天幕の入口の持ち場を去らなかったであろうと考える十分な理由がある。しかし見よ。祭司になれるという望みで自分を満足させた者たちが神の正義の犠牲とされる。もし彼らがレビ人としてのその職—聖なる誉れあるものであり、彼らが受けるに値する以上のもの—に満足していたなら、喜びと評判と共に生き、死ぬことができたであろうに。しかし罪を犯した御使いのように、「その初めの状態を離れ」、彼らのために任命されなかった誉れを志し、彼らは「ハデスに突き落とされた」。その香炉は彼らの手から打ち倒され、その息は体から打ち出された。「永遠の火の復讐」を型示す燃焼によって。
二、この復讐の記憶を永らわせるための配慮。彼らの死体の取り上げについては言及されない。聖書は彼らを地の面の上の糞として残す。しかしその香炉についての命令が与えられる。1. それらが聖別されたので、確保される。エレアザルがこれを命じられる(民16:37)。祭司職のそれらの侵犯者たちは神的忍耐と服従によって、祭壇から取った火でその香に火をつけるまで進んだ。実験として彼らに用いることが許された。しかしその火に火をつけるとすぐに、神はもう一つの火をつけ、彼らの主張に致命的な最終的な終止符を打った。今エレアザルはその火を、それと共に火をつけられた香と共に、宿営の外のある汚れた場所にまき散らすよう命じられる。彼らの献げ物に対する神の忌み嫌いを示すために。「悪者の犠牲は主への忌み嫌われるものである」。しかし彼は混じり合った燃え—神の火と彼らの火—から香炉を集めなければならない。「それらは聖別されたから」。一度聖なる用に—しかも神ご自身の命令によって(たとえ試みのためだけにであっても)—置かれたなら、普通の奉仕に戻ってはならない。ある者はそう理解する。むしろ「それらは聖別された」、それらは奉納物である。それゆえすべての聖別されたものと同様に、何らかの仕方で神の栄光に役立つようにされなければならない。2. 聖所の奉仕において用いられる。香炉としてではない。それはむしろ不名誉が意図された僭越者たちに誉れを置くことであろうから。また青銅の香炉の必要はなく、金の祭壇は金の香炉で仕えられていたから。しかしそれらは青銅の祭壇のおおいとしての「広げた板」に打たれなければならなかった(民16:38-40)。これらの主張者たちは祭司職を再び共有することによって祭壇を滅ぼそうとした。しかしアロンの職が彼らの無力な悪意によって揺さぶられるどころか、それによってむしろ確認されたことを示すために、彼のものと競争しようとした彼らの香炉は、彼が仕えた祭壇の飾りと保存の両方のために用いられた。しかしこれですべてではなかった。この祭壇のおおいは、その世代を通じて、この大いなる出来事の「イスラエルの子らへの記念」とならなければならなかった。そのうちに驚くべきものが多くあったにもかかわらず、モーセがその歴史に記録するにもかかわらず、時の経過と共に忘れられる危険があった。深いと思われる印象は常に永続するとは限らない。それゆえこのさばきの記録を任命することは必要であった。この祭壇に仕え、下位の奉仕を任命されたレビ人々が、自分たちの境界内に留まり、それを越えることを恐れることを学ぶために。彼らがコラとその全会衆—レビ人でありながら祭司となろうとした—のようにならないように。これらの香炉は他の者が聞き、恐れ、もはや思い上がって行わないように、「恐怖のために」保存された。このように神は、その奇跡的なわざを—あわれみとさばきの両方において—永遠の記憶に留められるように備えられた。それらの目的が答えられ、それらが「世の終わりに至る者たち」の教えと訓戒に役立つために。
⁴¹ しかし翌日、イスラエルの子らの全会衆がモーセとアロンに向かってつぶやいて言った。あなたがたは主の民を殺した。
⁴² 会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、彼らが会見の天幕の方を向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。
⁴³ モーセとアロンは会見の天幕の前に来た。
⁴⁴ 主はモーセに語って言われた。
⁴⁵ この会衆の中から立ち上がれ。わたしが瞬く間に彼らを滅ぼすために。彼らは地にひれ伏した。
⁴⁶ モーセはアロンに言った。香炉を取り、祭壇から火を取ってその中に入れ、香をその上に盛り、急いで会衆のところへ行って、彼らのために贖いをしなさい。主から怒りが出た。疫病が始まった。
⁴⁷ アロンはモーセが命じたように取り、会衆の中に走って行った。見よ、疫病が民のうちに始まっていた。彼は香をその上に盛り、民のために贖いをした。
⁴⁸ 彼は死んだ者と生きている者の間に立った。疫病は止んだ。
⁴⁹ さて、疫病で死んだ者は一万四千七百人であった。コラの件で死んだ者たちを除いて。
⁵⁰ アロンは会見の天幕の入口にあるモーセのところに戻った。疫病は止んだ。
ここに次のものがある。一、まさに翌日にモーセとアロンに対して起こされた新しい反逆。天よ、これに驚き、地よ、奇跡を見よ。これほど罪人の不治の腐敗の例がかつてあっただろうか。「翌日」(民16:41)民の本体が暴動を起こした。1. 彼らが反逆者たちの罰の光景によって最近非常に恐れられたのに。あの沈む罪人たち、たましいに罪を犯す罪人たちの叫び声がまだ彼らの耳に響き、火の匂いがまだ残り、裂けた地がまだ完全に閉じられていなかったのに、同じ罪が再演され、これらすべての警告が軽べつされた。2. 彼らが同じ罰を共に被ることから最近救われたのに。「燃える火から引き抜かれた燃え残り」であったのに。それにもかかわらず彼らはその保全を負うモーセとアロンに襲いかかる。彼らの責めは非常に高い。「あなたがたは主の民を殺した」。これ以上不正に、悪意をもって語れたことがあっただろうか。彼らは反逆者たちを聖者になし、主に向かって武器を取って死んだ者たちを「主の民」と呼ぶ。彼らは神的正義自体を侮辱する。モーセとアロンが彼らの死に一切関与していなかったことは明らかであった(彼らは彼らを救おうとしてすべてを尽くした)。それゆえ彼らを殺人のゆえに責めることは、事実上神ご自身をそれで責めることであった。この民の持続する頑固さは、シナイ山で与えられた神の律法の恐怖にもかかわらず、また不従順な者たちの上にここで執行された神のさばきの恐怖にもかかわらず、人の心といのちの効果的な変化に神の恵みがいかに必要であるかを示す。それがなければ最も有望な手段は決して目的に達しない。愛は恐れができなかったことをするであろう。
二、反逆者たちに対する神の迅速な現れ。彼らが「モーセとアロンに対して集まった」—おそらく彼らを退位させ、あるいは殺す意図をもって—彼らは「会見の天幕の方を向いた」。まるで彼らの不安な良心がそこから何らかのしかめつらを期待しているかのように。そして「見よ、主の栄光が現れた」(民16:42)。神のしもべたちの保護と、神と彼らの告発者および敵対者たちの混乱のために。モーセとアロンはそれにしたがって天幕の前に来た。一部には自分自身の安全のために(そこで彼らは舌の争いから避難所を取った。詩27:5,31:20)。一部には助言を求めて、この機会における神の御心が何であるかを知るために(民16:43)。正義はそれにしたがって、彼らが「瞬く間に滅ぼされる」に値することを宣言する(民16:45)。改革されることを憎み、その反逆が日々の慣行である者が、なぜもう一日生きるべきか。正しい復讐がその場所を取り、そのわざをすれば、悩みはまもなく終わるであろう。ただしモーセとアロンはまず確保されなければならない。
三、モーセとアロンが彼らのためにした執り成し。彼らがエリヤがイスラエルに対して執り成しをする(ロマ11:2)のと同じくらいの理由を持っていたと思われるのに。それでも彼らは彼らに与えられた侮辱を赦し、忘れ、彼らの敵が持つ最良の友となる。1. 彼らは共に「地にひれ伏し」、あわれみのために神にへりくだって執り成しをした。挑発がいかに大きいかを知っていた。彼らは以前に同様の機会にこれを何度か行っていた。そして民がそれで彼らを卑劣に報いたにもかかわらず、神が彼らを恵み深く受け入れられたので、彼らはなお同じ方法に頼る。これが常に祈ることである。2. モーセは「疫病が反逆者の会衆のうちに始まった」こと(すなわちモーセに対して集まった彼らの集団のうちに)を察知し、祭司のわざの行為によってアロンを彼らのために贖いをするために遣わした(民16:46)。そしてアロンは進んで行き、生きている者と死んだ者の間で香をたいた。感染した空気を清めるためではなく、怒られた神をなだめるためであった。そしてそのようにしてさばきの進行を止めた。これによって次のことが現れた。(1) アロンは非常に良い人であり、その民の子らに対する真の愛を持つ人であった。彼らが彼を憎み、ねたんだにもかかわらず。神が今その争いを復讐し、その祭司職の原因を弁護しているのに、彼は神の怒りを覆すために介入する。いや、彼の年と威厳を忘れ、彼らを助けるために会衆の中に走った。彼は「彼らにしばらく苦痛を味わせよ。そうすればわたしが来たとき、いっそう歓迎されるであろう」とは言わなかった。しかしすべてのイスラエル人のいのちを大切にする者として、死がはいってくる境目に可能な限りの速さで走った。主の民を殺したと責められたモーセとアロンは、今彼らを正当に責めることができたであろう。彼らが嫉妬深くその殺人者と呼んだ者たちに救い手となることを期待できたであろうか。しかしこれらの良い人々はその模範によって、われわしに怒る者たちに対して不機嫌にならないこと、また挑発的な言葉によって人がわれわしに与える機会を、彼らの力の中にある真の親切を拒否するために利用しないことを教える。われわしは悪に善を報いなければならない。(2) アロンは非常に勇敢な人であった。彼に対して集まった激怒した暴徒の中に踏み込む勇敢さ。疫病によって彼らがいっそう激怒するかもしれないのに。死の矢が最も厚く飛ぶ感染の中に踏み込む勇敢さ。右にも左にも何百、何千という者が倒れているのに。彼らのいのちを救うために、彼は自分のいのちをその手に置いた。その務めを全うできるなら、それを自分に親しいものと思わなかった。(3) アロンは神の人であり、「神に関する事のために人のために立てられた者」であった。彼の祭司職への召しはこれによって豊かに確認され、すべての論争の上に置かれた。神は侵入者が断ち切られたときに彼のいのちを救っただけでなく、今や彼をイスラエルを救うための器とされた。ここでのアロンの香炉を「たましいに罪を犯す罪人たちの香炉」と比較せよ。それらは神の怒りを挑発し、これはそれをなだめた。それらは人のいのちを滅ぼし、これは彼らを救った。それゆえアロンの祭司職への召しを疑う余地は残されていない。注。公の誉れの最も良い権利を確立する者は、公善のために最も多く自分を捧げ、忠実で有用であるために主のあわれみを得る者である。だれでも大いなりたいと思うなら、すべての人のしもべとならせよ。(4) アロンはキリストの型であった。キリストは罪のために贖いをなし、神の怒りをわれわしから覆すために世に来られ、その執り成いととりなしによって「生きている者と死んだ者の間に立って」、ご自身の選ばれたイスラエルを確保し、罪とのろいに感染した世界のただ中から彼らを救うために。
四、全体の結果と帰結。1. 神の正義は一部の者の死において栄光を受けた。主の剣は非常に短い時間に大いなる処刑をした。アロンができる限り急いだにもかかわらず、彼が奉仕の持ち場に着く前に、現場で一万四千七百人が死んで横たわっていた(民16:49)。コラの件で死んだ者は比較的少なかった。首謀者たちだけが見せしめにされた。しかし神の忍耐と寛容によって民が悔い改めに導かれなかったので、正義は今やイスラエル人の血にそれほど惜しまない。彼らは数百人の死を「主の民の間になされた無慈悲な虐殺」として訴えた。しかし神はここで多くの数千人の虐殺によってその訴えを黙らせる。注。小さいさばきに争う者は、自分たちのために更大的なものを備える。神がさばかれるとき、神は克服するから。2. 神のあわれみは残りの者の保存において栄光を受けた。神はその力によって何ができるか、正義において何ができるかを彼らに示された。しかし次にその愛とあわれみにおいて何をするかを示された。これすべてにもかかわらず、仲保者において、また仲保者によって、彼らをご自身の民として保存するであろうと。アロンの香の雲が彼の手から来て、疫病を止めた。注。神のいつくしみの栄光のために、怒りの中でさえも神があわれみを思い出されることが多い。そしてさばきが始められたときでさえ、祈りはそれに止めを置く。神は赦すことにこれほど備えておられ、罪人の死にこれほど喜びを持たれないから。
この章に含まれる歴史の時期は全く不確かである。おそらくこれらの暴動は、彼らがカデシュ・バルネアから再び引き返した後に起こったものであろう。彼らが(こう言ってもよいなら)荒野のさまよいのために定住し、それを自分たちの定住地と見なし始めたときに。新しい律法が与えられた直後に新しい反逆の物語が続く。まるで罪が戒めから機会を取って、いっそう激しく罪深くなるかのように。ここに次のものがある。一、コラ、ダタン、アビラムによる、モーセとアロンに対する大胆で危険な反逆の蜂起(民16:1-15)。1. コラとその共謀者たちはアロンに反抗して祭司職を争う(民16:3)。モーセは彼らと論じ、論争の決定のために神に訴える(民16:4-11)。2. ダタンとアビラムはモーセと争い、その呼び出しに従うことを拒み、モーセを大いに悲ませる(民16:12-15)。二、祭司職を主張する者たちが、命令にしたがって神の前に荘厳に現れ、主の栄光が公に現れた。もしそれがモーセとアロンの執り成しがなければ、全会衆を消し尽くしたであろう(民16:16-22)。三、論争の決定と、反逆者たちを断ち切ることによる反逆の鎮圧。1. 天幕にいた者たちは生き埋めにされた(民16:23-34)。2. 幕屋の入口にいた者たちは火によって消し尽くされた(民16:35)。彼らの香炉は記念のために保存された(民16:37-40)。四、民の新たな暴動(民16:41-43)。1. 神は疫病によって暴動を止められた(民16:45)。2. アロンは香をたけることによって疫病を止めた(民16:46-50)。この物語を記録する仕方と方法は、発酵が非常に大きかったことを明らかに示している。