Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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¹ 主はシナイの荒野で、彼らがエジプトの地を出て後の第二年の第一の月に、モーセに語って言われた。
² イスラエルの子らに過越をその定められた時に守らせよ。
³ この月の十四日、夕暮れに、その定められた時にそれを守らなければならない。そのすべての定めとすべての儀式に従ってそれを守らなければならない。
⁴ モーセはイスラエルの子らに過越を守るよう告げた。
⁵ 彼らはシナイの荒野で第一の月の十四日、夕暮れに過越を守った。主がモーセに命じられたすべてに従って、イスラエルの子らは行った。
⁶ さてある人々が人の死体によって汚されており、その日に過越を守ることができなかった。彼らはその日にモーセとアロンの前に来た。
⁷ その人々は彼に言った。われわれは人の死体によって汚されています。なぜわれわれは、イスラエルの子らのうちでその定められた時に主への献げ物をささげることを控えられるのでしょうか。
⁸ モーセは彼らに答えた。待ちなさい。主があなたがたについて何を命じられるかをわたしは聞こう。
⁹ 主はモーセに語って言われた。
¹⁰ イスラエルの子らに語って言え。あなたがた、またはあなたがたの子孫のうちのだれでも、死体のゆえに汚れているか、または遠く旅にある者があっても、その人は主に過越を守らなければならない。
¹¹ 第二の月の十四日、夕暮れに彼らはそれを守る。種入れぬパンと苦菜と共にそれを食べる。
¹² 朝まで何も残してはならない。その骨を一つも折ってはならない。過越のすべての定めに従ってそれを守らなければならない。
¹³ しかし清い者で、旅になく、過越を守ることを控える者は、そのたましいは民のうちから断ち切られる。その定められた時に主の献げ物を携えて来なかったからである。その人はその罪を負う。
¹⁴ もし他国人があなたがたのうちに滞在し、主に過越を守ろうとするなら、過越の定めとその規定に従って行う。あなたがたと同じように、他国人にも、地に生まれた者にも、一つの定めがある。
ここに次のものがある。
一、彼らがエジプトから出て一年後、第二年の第一の月の十四日に過越を祝うための命令。彼らが数えられる数日の前であった。それは第二の月の初めに行われたからである。観察せよ。
神はこの過越を守るために特別な命令を与えられた。そうでなければ(と思われる)、彼らはそれを守らなかったであろう。この定めの最初の制定において、それは彼らが「約束の地にはいったとき」に守るよう定められていたからである(出12:25)。そしてカナンに来るまで過越はなかった(ヨシ5:10)。これは儀式的な制度が最終的に廃止されることの早期のしるしであった。すなわち、最初に定められた後まもなく、そのうちのいくつかが何年もの間眠ったままにされた。主の晩餐の定め(過越に代わるものとしてきたもの)は、キリストの教会の最初の日々にこのように中断されたり、脇に置かれたりしなかった。たとえそれらがイスラエルが荒野で知ったよりも困難と苦難の多い日々であったとしても。いや、迫害の時には、主の晩餐はその後よりも頻繁に行われた。荒野のイスラエル人はエジプトからの救いを忘れることができなかった。彼らの現在の状態はその絶えざる記念であった。すべての危険は彼らがカナンに来たときにあった。それゆえそこで彼らは「自分たちが切り出された岩」を思い出す必要があった。しかし、最初の過越は慌ただしく祝われ、しるしというよりも実質そのものであったので、年の巡りに、彼らがより落ち着き、神的律法をよりよく知っていたときに、再びそれを観察することが神の御心であった。それは彼らの子どもたちが荘厳さをよりはっきりと理解し、後によりよく覚えるためであった。カルヴァンは彼らが今それを守る義務があったと考え、彼らが最近受けた制度を思い出す必要があったことを彼らの不注意の例としている。
モーセは与えられた命令を忠実に民に伝えた(民9:4)。このようにパウロは福音の過越について「主から受けたもの」を教会に伝えた(コリ第一11:23)。注。長官は警告者でなければならず、教会の働き人は「思い起こしによって」人の心を良いものへと促さなければならない。
民は与えられた命令に従った(民9:5)。彼らは最近献堂の祭りを守った(民7:1-89)が、それをもってこの祭りを守ることを免れようとはしなかった。注。特別のわざは定めの奉仕に取って代わったり、押し出したりしてはならない。彼らは荒野でさえ過越を守った。たとえわれわしの状態が孤独で定住していなくても、機会がある限り聖なる定めによって神に仕えることを続けなければならない。それらのうちに最も良い交わりと最も良い憩いを見いだすことができるからである。このように神のイスラエルは荒野において養われる。
二、過越を食べるべきときに儀式的に汚れていた者たちについての指示。過越の律法は各イスラエル人にそれを食べることを要求した。その後のいくつかの律法は、儀式的な汚れを受けた者が聖なるものを食べることを禁じた。罪によって心と良心の汚された者は神との交わりに全くふさわしくなく、真の悔い改めと信仰によってきよめられるまでは、福音の過越に真の慰めをもってあずかることはできない。そして彼らは悲しい二刀の状態にある。もし聖なる定めに来ないなら、それを軽べつした罪に問われ、もし汚れのうちに来るなら、それを冒瀆した罪に問われる。それゆえ彼らは洗い、そして「神の祭壇を囲まなければ」ならない。さて、
ここにこの過越が守られるべきときにイスラエルで起こった事例がある。「ある人々が人の死体によって汚された」(民9:6)。そして彼らはその汚れを七日間負った(民19:11)。その間、聖なるものを食べてはならなかった(レビ7:20)。これは彼らの罪ではなく、不幸であった。死者を視界から取り除くために死体に触れなければならない者がいたからである。それゆえ彼らはより良い態度でその訴えをモーセに持ち込むことができた。
関係する者によってモーセに向けられた願い(民9:7)。注。罪と義務に関する難しい事例において、神が彼らの上に立てられた教会の働き人に相談し、「その口から律法を尋ねる」ことは民の知恵である(マラ2:7)。これらの手段は、われわしが平らな道に導かれるように神に祈る追求において用いなければならない。これらの人々が主へのささげ物から控えられたことをどんな思いと関心をもって訴えたかを観察せよ。彼らは律法を不正として訴えたのではなく、この時にその制約の下に置かれた自分たちの不運を嘆き、何らかの救済の手段が見いだされることを願った。注。神の定めに飢え渇き、それらの楽しみを妨げるものについて訴える民を見ることは祝福されたことである。安息日やサクラメントの荘厳さにおいて献げ物を携えて来ることを何らかの機会によって妨げられるとき、それがダビデにとって祭壇から追放されたときのようであったように(詩42:1,2)、われわしにとっても悩みであるべきである。
この事例を解決するにおけるモーセの慎重さ。ここには律法対律法があるように見えた。後の律法が前のものを説明するという規則であるが、彼はこのように過越の特権を奪われたイスラエル人をあわれみ、神託に伺いを立て、この事例における神の御心が何であるかを知るために時を取った。「主があなたがたについて何を命じられるかをわたしは聞こう」(民9:8)。教会の働き人は良心の事例を解決するにおいてここから手本を取らなければならない。(1) 彼らは軽率に決定してはならず、考慮するために時を取り、すべての事情が正当に量られ、事例が真の光において見られ、霊的なことがらが霊的なことと比較されるように。(2) 彼らは神の御口から助言を求め、自分自身の好みや感情のかたよりに従って決定してはならず、知る限り最善において神の御心に従って公平に。モーセが持っていたような神託は持たないが、「律法とあかし」に立ち返り、その規則に従って語らなければならない。そして難しい事例において、謙遜で信じる祈りによって特定の事柄を神の前に広げるために時を取るなら、「すべての真理へと導く」ことが約束された御霊が他者を「良い正しい道に」導く力を与えてくださる望みを持つ理由がある。
この事例および過越の律法を説明する他の同様の事例において神が与えられた指示。不快な出来事が良い律法を生み出した。(1) 過越が食べられるべき時に儀式的に汚れていた者は、清くなったその月のその日にそれを食べることが許された。遠く旅にある者も同様であった(民9:10,11)。ここで見よ。[1] われわしが荘厳な定めにおいて神に仕えるべきとき、われわしが清く、また落ち着いていることが非常に必要であること。[2] ある義務を一時的に遅らせることを正当化するかもしれないものが、その義務の全的な無視と省略においてわれわしを正当化することはできないこと。兄弟と争っている者は「兄弟と和解する」ために間に行っている間、「その献げ物を祭壇の前に残す」ことができる。しかし彼がそれに向けて自分の分を果たしたなら、それが達成されたかどうかにかかわらず、「また来て献げ物をささげなければならない」(マタ5:23,24)。この第二の過越は第一のものと同じ月の同じ日に守られるべきであった。定めがその月のその日の彼らの救いの記念であったから。あるとき全会衾がこの第二の月の十四日に過越を守ったのを、ヒゼキヤの時代に見いだす(歴代第二30:15)。それはおそらく、清くない何人かがそれを食べることを許されたことの説明に役立つ。もし一般の過越が第一の月に守られたのであれば、汚れた者は第二の月まで延期されたであろう。しかしそれが第二の月に守られたので、彼らは第三の月にそれを食べる権威を持たず、それゆえ全く食べないよりは、「聖所の清めに従って」清められていないにもかかわらず(民9:19,20)、許された。(2) 第二の月に過越が守られるときはいつでも、そのすべての定めと儀式が厳格に守られなければならなかった(民9:12)。時が免じられたからといって、その荘厳さのいかなる部分も減じられると思ってはならなかった。われわしがしたいようにできないとき、神への奉仕においてできる限りのことをしなければならない。(3) 必要の事例におけるこの許しは、必要の下になかったときに定められた時に過越を守らないことを怠る者をいっさい是認したり、許容したりする手段とはならなかった(民9:13)。人が定められた時に過越を食べることに何の不能もないとき、もしこの律法によって与えられた自由を思い上がって、その時にそれをなおざりにするなら、彼は神に侮辱を与え、神的な親切を汚く濫用し、確かに「その罪を負い」、「民から断ち切られる」。注。心に反して神の定めから不在を強いられる者は、その苦境のうちに神的恵みの恵みを慰めをもって期待できるが、自らの選択によって不在になる者は、その罪のために神の怒りのしるしを正当に期待できる。「欺かれてはいけない。神は侮られるような方ではない」。(4) ここに他国人のために有利な条項が加えられている(民9:14)。彼らと共に過越を食べるために加わりたい他国人は、彼らの宗教への改宗者として割礼を受けるべきであったが(出12:48,49)、イスラエル生まれでなかった者たちが過越を食べることをこのように親切に受け入れたことは、キリストによって貧しい異邦人のために設けられた恵みの示唆であった。そのように当時一つの律法があったように、メシヤの日には他国人と地に生まれた者とのために一つの福音があるであろう。「すべての国において神を恐れ、義を行う者は、神に受け入れられるからである」。そしてこれはペテロがそれを悟る前の真理であった(使徒10:34,35)。
Numbers 9章 15-23 Matthew Henry's Complete Commentary
¹⁵ 天幕が立てられた日に、雲が天幕、すなわちあかしの天幕を覆った。夕べには天盆の上に火のような姿があった。朝まで。 ¹⁶ 常にそのようであった。昼は雲がそれを覆い、夜は火のような姿があった。 ¹⁷ 雲が天幕から上げられると、その後イスラエルの人々は旅立った。雲が留まった所で、イスラエルの人々は天幕を張った。 ¹⁸ 主の命令によってイスラエルの人々は旅立ち、主の命令によって天幕を張った。雲が天盆の上にとどまる間、彼らは天盆で休んだ。 ¹⁹ 雲が天盆の上に長くとどまり、多くの日が過ぎるとき、イスラエルの人々は主の務めを守り、旅立たなかった。 ²⁰ 雲が天盆の上にあるのが数日であるときもそうであった。主の命令に従って彼らは天盆にとどまり、主の命令に従って旅立った。 ²¹ 雲が夕から朝までとどまり、朝に雲が上げられるとき、彼らは旅立った。昼であれ夜であれ、雲が上げられるとき、彼らは旅立った。 ²² 二日であれ、一ヶ月であれ、あるいは一年であれ、雲が天盆の上にとどまり、そこに留まるとき、イスラエルの人々は天盆にとどまり、旅立たなかった。しかし雲が上げられると、彼らは旅立った。 ²³ 主の命令によって彼らは天盆に留まり、主の命令によって旅立った。彼らはモーセの手を通して、主の命令によって主の務めを守った。
ここに雲の歴史がある。自然史ではない。「雲のつり合いを知る者があろうか」。神がイスラエルと共におられることの目に見えるしるしと象徴として定められた雲の、神聖な歴史である。
一、天盆が完成したとき、以前は陣営の上に高く掛かっていたこの雲が天盆の上に下り、それを覆った。神がその民と共にある臨在を、その定めにおいて、またそれによって示されることを示すため。そこで神はご自身を知らせ、もし「主の麗しき」を見ようとするなら、私たちはそれらに目を向けなければならない(詩27:4、エゼ37:26,27)。このように神はご自身の定めを栄光化し、民の愛と従順の受け入れを示された。
二、昼は雲として現れたものが、夜はずっと火として現れた。もしそれが雲だけであったなら、夜には見えなかったであろう。そしてもしそれが火だけであったなら、昼にはほとんど識別できなかったであろう。しかし神は彼らと共にあるご自身の臨在の絶え間なさと、彼らへの配慮の、目に見える証拠をお与えになった。すなわち「夜も昼も彼らを守られる」こと(イザ27:3、詩121:6)。そしてこのように私たちは「常に神を自分の前に置き」、夜も昼も近くにおられるのを見るよう教えられる。旧約の教会が治められていた神の啓示の性質の何かも、神の臨在のこれらの目に見えるしるしによって示されたかもしれない。雲はその時代の暗さを、火はその恐怖を示す。イエス・キリストの顔において神がその栄光を啓示された、いっそう明確で慰めに満ちた啓示と比較して。
三、この雲と火の柱は、荒野におけるイスラエルのすべての動き、行軍、宿営を導き、決定した。 1. 雲が天盆の上に留まる間、彼らは同じ場所に留まり、決して動かなかった。彼らがカナンに向かう旅を前進させたいと非常に切望していたであろうに、そこに着き、すぐに着きたいと望んでいたであろうに。しかし雲が留まる間、それが一ヶ月であれ一年であれ、それだけの間留まった(民9:22)。注意すべき点。信じる者は急がない。神の時を待っている間、失われる時間はない。私たちの分がそれを必要とするとき、満足して静かに座ることは、召されたときに神のために働くことと同様に、神の御旨への服従として受け入れられる。 2. 雲が上げられると、彼らはどれほど快適に陣を張っていても移動した(民9:17)。それが昼であれ夜であれ動いても、彼らはその動きに従うのを遅らせなかった(民9:21)。おそらく昼夜を問わずその視野内に立つ見張りが任命され、陣営にそれが動き始めるのを適時に知らせた。これを「主の務めを守る」と呼んだ。民はこのように常に不確実さの中に置かれ、停止や移動の固定された時を持たず、非常に短い予告で行軍する備えを常に持つよう義務づけられた。そして同じ理由で、私たちはこの天盆の地上の家を脱ぐ時について不確実さの中に置かれている。それで「主の命令によって移動する」備えを常に持ち得るため。 3. 雲が動く限り、また動く遠くまで、彼らは行軍し、まさにそれが留まる所に天盆をその周囲に張り、神の天盆をその下に張った(民9:17)。注意すべき点。神が去られた後に留まることは不快であるが、神が私たちの前を行かれるのを見、神が休むよう定められた所に休むことは、非常に安全で楽しい。これはこれらの節で何度も繰り返される。それが絶え間ない奇跡であり、度々繰り返され、彼らのすべての旅において決して失敗しなかったからであり、非常に意義深く、教訓に富む事柄として私たちが特に注意を払うべきであるから。それは後にダビデによって(詩105:39)、捕囚後の神の民によって(ネヘ9:19)言及される。そしてこの雲の導きは、祝福された霊の導きを意味するものとして語られる。「主の霊が彼を休ませられた。あなたはこのようにあなたの民を導かれた」(イザ63:14)。これは私たちに教える。 (1) 神がその民に取られる特別な配慮。この雲の導き以上に、神のイスラエルへの柔和さを表現し、意義深いものはなかったであろう。それは「正しい道」に彼らを導き(詩107:7)、彼らの歩みに合わせて進んだ。神はそれによって、いわばその羽で彼らを覆われた。私たちは今やこのような神の臨在と導きの目に見えるしるしを期待すべきではないが、神の霊的イスラエルのすべてに対する約束は確かである。すなわち神は「その助言によって彼らを導き」(詩73:24)、「死に至るまで」(詩48:14)。神の子たちはすべて「神の霊に導かれる」(ロマ8:14)。神は「その道をすべて神に認める者の道を導かれる」(箴3:6)。彼らのすべての事柄に関与する特別な摂理があり、最善のために彼らを導き、支配する。「正しい人の歩みは主によって定められる」(詩37:23)。 (2) すべての道において神に対して私たちが払うべき特別な配慮。私たちの感情と行動において、神のことばと霊の導きに従わなければならない。私たちの霊のすべての動きは神の御旨によって導かれなければならない。主の命令によって私たちの心は常に動き、休まるべきである。すべての事柄において私たちは摂理に従い、その処分のすべてに自分を和解させ、自分の心を自分の状況に合わせなければならない。それが何であれ。雲を導き手としたイスラエルの民は、いつ、どこへ行軍すべきかを考える軍事会議を開く煩わしさから解放されていた。それは彼らの間に争いや論争を引き起こしたかもしれない。また国の状況を知らせるために前に探者を送る必要も、道を切り開くために先駆者を必要とせず、彼らの陣営を示すために将校も必要なかった。雲の柱がこれらをすべて彼らのためにした。そして信仰によって自分のわざを主に委ねる者は、慎重に手段を用いる義務があるにしても、同様に結果の期待において安んじることができる。「父よ、御心がなりますように。私と私のものを望むように処理してください。ここにいます。『常に私の神を待ち望む』こと、『主の命令によって』旅し、休むことを切に願う者として。何を、どこを、あなたの望むように。ただ私をあなたのものとし、常に私の義務の道に留めてください」と。
この章は次に関するものである。一、過越という大いなる定めについて。1. 年が巡ってきたとき、その遵守のための命令が与えられた(民9:1-5)。2. 過越が守られるべき時に儀式的に汚れているか、その他の理由でできない者に関する但し書きが加えられた(民9:6-14)。二、荒野を通じてイスラエルを導いた雲の柱の大いなる恵みについて(民9:15等)。