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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Philemon 1章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

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本書簡においてわたしたちは、I. 序言、Phm 1:1-7。II. 本文と本体、Phm 1:8-21。それから結語、Phm 1:22-25 を有する。

Philemon 1章 1-7 Matthew Henry's Complete Commentary

Apostolic Salutations; Gratitude on Philemon's Behalf (62 AD)

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使徒の挨拶;ピレモンのための感謝(62 AD)

¹ キリスト・イエスの囚人パウロ、および兄弟テモテから、愛する同労者であるわたしたちのピレモンへ。
² また、わたしたちの姉妹アッピア、ならびに共に戦う战友アルキポ、さらにあなたの家にある教会へ。
³ わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
⁴ わたしは祈りのたびに、あなたのことを思い起こして、わたしの神に感謝している。
⁵ それは、主イエスに対し、またすべての聖徒たちに対して、あなたのうちにある愛と信仰について聞いているからである。
⁶ あなたの信仰の交わりが、キリスト・イエスのうちにあってわたしたちのうちにあるすべての良いことの十分な知識において、効力あるものとされるためである。
⁷ 兄弟よ、わたしたちはあなたの愛から大いなる喜びと慰めを得ている。聖徒たちの心があなたによって慰められているからである。

I. 序言の Phm 1:1,2 において、わたしたちはこの手紙の差出人と宛先人が記されており、それぞれに何らかの注記や称号が付されて、手紙の目的にかかわる論拠となっている。

1. 差出人。主たる者はパウロであり、自らを キリストの囚人 と呼ぶ。すなわちキリストのゆえの囚人である。単に囚人であることは慰めにも栄誉にもならないが、パウロがそうであったように 信仰と福音の宣教のゆえに 囚人となることは真の栄誉であり、かような者による願いに対してはピレモンも心動かされるに違いない。キリストとその福音のために苦難を受けている者の嘆願は、信者でありキリストの奉仕者である者により、必ずや深く顧みられるであろう。ことにテモテの協同も加えられているときはなおさらである。テモテは教会において著名な人物であり、パウロによって 信仰におけるわたしの子 と呼ばれたこともあるが、今はおそらく年を重ねて成長したため、彼は 兄弟 と呼んでいる。これほどの二人の嘆願者に何が拒否されようか。パウロは一人の貧しい回心者に仕えるにあたって決して疎かではなく、そのために得られる限りの助けをすべて集めている。

2. 宛先人は ピレモンとアッピア、ならびに彼らと共にアルキポ、そしてピレモンの家にある教会である。オネシモの主人であったピレモンが主たる宛先人であり、手紙は彼にあてられている。彼は家族の頭であり、受け入れるか拒絶するかの権威と権力を持ち、オネシモはその財産であった。それゆえ事柄は主として彼にかかっていた。愛する同労者であるわたしたちのピレモンへ。彼は良い人であり、おそらく奉仕者でもあって、その両方の理由からパウロに深く愛されていた。善人を愛することは良い奉仕者の性質の一つであり(Tit 1:8)、とりわけ福音のわざにおいて共に労し、その務めに忠実な者たちを愛さなければならない。クリスチャンとしての一般の召しはクリスチャンである者どうしを結び合わせるが、奉仕者としての特別な召しにおける連携が加わるなら、それはさらに親愛の情を深める。最高度の務めにあるパウロは、伝道者テモテを兄弟と呼ぶだけでなく、普通の牧者であるピレモンを愛する同労者と呼んでいる。これは教会において最も高い地位にある者でさえ、同じ特別な天的召しにおいて労する他の者たちに対して、謙遜と思いやり、またすべての愛情ある配慮を示す模範である。ピレモンにはアッピアが連ねられているが、おそらく彼の配偶者であろう。彼女は家庭の事柄にかかわりを持つので、使徒は彼女にも同様に呼びかけている。彼女はオネシモによって罪を犯され傷つけられた当事者であり、それゆえ和解と赦しを求める手紙において言及されるのが適切であった。正義と慎重さはパウロにこの明示的な言及を導かせたのである。彼女は手紙の良い目的を推進する上で役立つかもしれなかったからである。彼女はアルキポよりも前に置かれているが、それは彼女がより深くかかわり、より多くの利害を持つからである。家庭の事柄において、夫と妻との間には一つの結合があり、彼らの利害は一つであり、愛情と行動も互いに対応すべきである。これらが手紙の主たる宛先人である。次位の者は アルキポ、およびピレモンの家にある教会 である。アルキポはコロサイの教会の奉仕者であり、ピレモンの友人であり、おそらく彼と共に牧者であった。パウロは、ピレモンが相談するであろう者、また平和をつくり赦しを得るという良いわざを推進しうる者とみなし、それゆえ手紙の宛先に 共に戦う战友 という修飾語を付して彼を加えるのがよいと判断したのであろう。彼は先にピレモンを 同労者 と呼んでいた。奉仕者は自らを労する者であり戦士であると見なさなければならない。それゆえ彼らは苦労し、艱難を忍び、警戒して持ち場を守り、持ち場を固守しなければならない。互いを同労者、また共に戦う战友とみなし、その聖なる務めと召しにおいて立って、互いの手と心を強め合わなければならない。彼らは霊的な武器とそれを用いる技術を備えているかに留意すべきである。労する者として彼らはみ言葉と sacraments(聖礼典)と戒規を執行し、そのことについて勘解すべき者として 霊魂に目を配らなければならない。そして戦士として主の戦いを戦い、この世の事柄に自らを絡み合わせることなく、自らを戦士として選ばれた方に喜ばれることに心を向けなければならない(2Ti 2:4)。これらに加えて またあなたの家にある教会へ とある。すなわち彼の家族全体であり、そのうちに神への礼拝が保たれていたので、彼はあたかも自分の家に教会を持つかのようであった。観察せよ。(1) 一般に最も敬虔で秩序ある家族であっても、その中に不敬虔で悪い者がいることがある。これはオネシモの罪を重くする事情であった。なぜなら、彼はより良いことを学ぶべきであり学べた場所にいたからである。おそらく彼の不行跡は隠されており、彼の逃亡によって初めて明らかになったのであろう。心は、行為が明らかにするまでは、神にしか知られていない。(2) この一人の悪いしもべがあったにもかかわらず、ピレモンの家は、その中に保たれていた宗教的礼拝と秩序のゆえに教会と呼ばれ、数えられた。すべての家族がこのようであるべきである。すなわち、宗教の養育所、神が呼ばれ、み言葉が読まれ、安息日が守られ、家族の成員が神と自分の義務についての知識において教えられる共同体であり、これを怠るなら無知とあらゆる腐敗が続く。悪い家族は地獄の養育所であり、良い家族は天国の養育所である。(3) 主人や家族の他の者たちは、各自個別に善い者であることで十分と考えてはならない。彼らは社会的にも善い者でなければならない。ここにあるようにピレモンの家は教会であった。そしてパウロは、このオネシモに関する件に皆が何らかのかかわりを持ちうることを考慮して、彼らすべてに呼びかけている。それはピレモンと同様に彼らの愛情もオネシモに向かい、それぞれのしかたと場において、願われ求められている和解を推進し妨げないためである。家族の者が互いに好意を抱くことは、各人の幸福の推進とすべての者の共通の利益のために望ましい。このような理由から、パウロはここで手紙をこのように広く宛てたのであり、それは皆がこの貧しい回心者を進んで受け入れ、彼に愛情を示すようにとの配慮であった。この宛先の次に、

II. 使徒が名を挙げた者たちへの挨拶がある(Phm 1:3)。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。これはすべての手紙における記章であり、使徒はこう書いている。彼はすべての友人の心からなる祝福者であり、彼らのために最善のものを願う。金、銀、その他の地上の良いものを第一に、あるいは主として願うのではなく、神よりキリストにあっての恵みと平安 を願う。彼はみずからこれらを与えることはできないが、これらを賜り得る方に向かって彼らのために祈る。恵み、すなわち神の自由な恵みと好意、これはすべての祝福の源であり泉である。平安、すなわちすべての良いもの、その恵みの結実としての効果。あなたがたに、すなわちあなたがたに注がれ、あなたがたのうちにその慰めなる感覚と自覚と共に保たれるように。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから。聖霊も、名を挙げられていないが、理解される。被造物に対するわざは三位一体の全体の働きだからである。キリストにあってわたしたちの父である父から、行動の順序においても存在の順序においても最初の方から。そしてキリストから、神としてのその恵みと好意、ならびに神人としての仲保者として御自身を通してもたらされるその結実。愛する者のうちにあってわたしたちは受け入れられ、御方を通して平安とすべての良いものを持つ。この方と共に父と霊とは、すべてのもののために仰ぎ見られ、たたえられ、賛美されるべきであり、イエスおよびキリストとしてのみならず、主としても認められるべきである。2Co 13:14 において使徒の祝祷は十分である。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてと共にありますように、アーメン。観察せよ。霊的な祝福は、わたしたち自身と他者のために第一に、かつ特に求めるべきものである。神の恵みと神との平安は、それ自体最善で最も望ましい良いものであり、また他のすべてのことの原因であり、すべてのあわれみに甘みを加え、地のすべての物が欠けていても幸せにしうるものである。いえに雌牛がいなくとも、オリーブの労働がむなしくても、そのような者は 主にあって喜び、救いの神によって楽しむ ことができる(Hab 3:17,18)。多くの者が言う、だれかがわたしたちに良いものを示してくれようか。しかし、神が み顔の光を向けられる なら、これはすべての世的増加よりも多くの喜びと楽しみを心にもたらす(詩篇 4:6,7)。そして Nu 6:26、主がみ顔の光をあなたに向け、あなたに平安を賜りますように。これにすべての良いことが要約されており、この一つの泉、すなわち 父、子、霊 なる神からすべてが来る。使徒のピレモン、その友人や家族へのこの挨拶の後、いっそう自らの嘆願への道を開くために、

III. 彼は神への感謝と祈り、ならびにピレモンのうちにある多くの良いことについて知り聞きした大いなる喜びを通して、彼に対する特別な愛情を表現している(Phm 1:4-7)。ピレモンのための使徒の感謝と祈りは、その対象、事情、内容、ならびにピレモンの善性に関する知識の多くが彼にもたらされた仕方によって示されている。

1. ここにピレモンのためのパウロの賛美と祈りの対象がある。わたしは祈りのたびにあなたのことを思い起こして、わたしの神に感謝している(Phm 1:4)。観察せよ。(1) 神は、すべての人のうちにある、あるいは彼らによってなされるすべての良いものの作者である。わたしに結ばれて、あなたは実を結ぶ(Ho 14:8)。それゆえすべての賛美は神に帰せられる。1Ch 29:13,14、しかし〔または 'ゆえに'〕わたしとわたしの民は、このように進んでささげることができるほどの者は何者か。すべてのものはあなたから来る。ささげるものも、ささげる意志と心も。それゆえと彼は言う、わたしたちの神に感謝し、あなたの栄光の御名をたたえます。(2) 良い人の特権は、彼らの賛美と祈りが神に向かって自らの神として来ることである。わたしたちの神、あなたに感謝します とダビデは言い、わたしの神に感謝します とパウロは言う。(3) わたしたちの祈りと賛美は、わたしたち自身のためのみならず、他者のためにも神にささげられるべきである。私的な祈りは、専ら私的な精神をもって自らの事柄のみに心を向けてなされるべきではない。他者もわたしたちによって覚えられなければならない。彼らのうちにある、あるいは彼らによってなされる、彼らに与えられるすべての良いことについて、わたしの知る限りにおいて喜びと感謝をもって心を向け、彼らの必要とするものを求めるべきである。ここに聖徒の交わりの少なくない部分がある。パウロは私的な感謝と祈りにおいて、しばしば友人たちを特別に覚えていた。わたしは祈りのたびにあなたのことを思い起こして、わたしの神に感謝している。時には名によって、あるいは少なくとも彼らを特別に心に思い浮かべて。名は挙げられなくとも、神は誰を指すかを知っておられる。これは愛を実践し、他者のために良いものを得る手段である。わたしのために神に祈って、わたしと共に奮闘してほしい と使徒は言った。そして彼が自らのために求めたものを、彼は確かに他者のために実践した。すべての者がそうすべきである。互いのために祈りなさい とヤコブは言う(Jam 5:16)。

2. 事情がある。常にあなたのことを思い起こして。常に、すなわち習慣的に、一、二度ではなく、頻繁に。クリスチャンの友人たちの必要に応じて、彼らを多く、しばしば覚え、彼らをわたしたちの思いと心においてわたしたちの神の前に担わなければならない。

3. ここに、ピレモンに関する彼の賛美と祈りの両方の内容がある。

(1.) 賛美の内容。[1.] 彼は、ピレモンが主イエスに向けて持っていると聞いた愛のゆえに神に感謝する。この方は、その神性の完全さが要求するがごとく、神として超越的に愛されるべきである。また、わたしたちに関係する方として、主、わたしたちの主、わたしたちの造り主、贖い主、救い主として、わたしたちを愛して御自身をわたしたちのために与えられた方として愛されるべきである。パウロはこれについて聞いたこと、すなわちピレモンのうちにあるその著るしい標識と表明について神に感謝する。[2.] またキリストに対する彼の信仰のためにも。キリストへの愛とキリストに対する信仰は、主要なクリスチャンの恵みであり、神がこれらをもって祝福されたところでは、神に対する大いなる賛美の根拠がある。Ro 1:8 のごとく、わたしの神に感謝します。それは あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている からである。またコロサイ人に関して(Col 1:3,4)、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰について聞いたので、神に感謝している。これは救う恵みであり、クリスチャンのいのちとすべての良いわざのまさに原理である。[3.] 彼はまた、すべての聖徒たちに対するピレモンの愛のゆえに神をほめたたえる。この二つは共に並行しなければならない。生ませた方を愛する者は、その方によって生まれた者たちをも愛し、愛するであろう。使徒はそれらを Col 1:3,4 において結び合わせる。キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰、およびすべての聖徒たちに対するあなたがたの愛について聞いたので、神に感謝している。これらの者はキリストの似姿を帯びており、それはすべてのクリスチャンによって愛されるであろう。本質的でない事柄における異なる見解ややり方が、真理に関する愛情の違いをもたらすことはないが、愛の度合いの違いは、その似姿がどれだけ認められるかに応じて生じるであろう。単なる外面的な差異はここでは何でもない。パウロは一人の貧しい回心した奴隷を わたしの心 と呼ぶ。神がそうされるように、わたしたちはすべての聖徒を愛さなければならない。パウロは教会のうちにある良いことのみならず、彼が手紙を書いた特定の人物にある良いことのためにも、これが単に伝聞によって知られたことであっても、神に感謝した。主イエスに対し、またすべての聖徒たちに対して、あなたのうちにある愛と信仰について聞いているから。これが、彼が友人たちについて尋ね求めた事柄であり、彼らの恵みの真実、成長、実り、彼らのキリストに対する信仰、また主とすべての聖徒への愛であった。聖徒への愛は、もし真摯であるなら、すべての聖徒に向けられた普遍的な愛となるであろう。しかし信仰と愛は、心のうちでは隠された事柄であっても、その効果によって知られる。それゆえ、

(2.) 使徒は賛美に祈りを結び合わせ、ピレモンの信仰と愛の実がますます顕著になり、それらの交わりが、彼およびその家のうちにキリスト・イエスに向けてあるすべての良いことの十分な知識へと他者を促すようになることを求めている。彼らの 光が人々の前にそのように輝き、彼らが良いわざを見て 模倣に駆られ、天におられる父に栄光を帰す ようになるために。良いわざは、見られるために虚栀からなされるべきではないが、神の栄光と人々の益のために見られうるものとしてなされるべきである。

4. 彼は祈りと賛美の両方に一つの理由を加える(Phm 1:7)。兄弟よ、わたしたちはあなたの愛から大いなる喜びと慰めを得ている。聖徒たちの心があなたによって慰められているからである。あなたがなし、また今もなしている良いわざは、わたしや他の者にとって豊かな喜びと慰めの材料であり、それゆえあなたが神の栄光と宗教の誉れのために、ますますそのような良い実において成長し続け、豊かになることを願う。この奉仕の務めは聖徒たちの欠乏を補うだけでなく、多くの感謝によって神に満ち溢れる(2Co 9:12)。

Philemon 1章 8-25 Matthew Henry's Complete Commentary

The Apostle's Plea for Onesimus; Salutations (62 AD)

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オネシモのための使徒の嘆願;挨拶(62 AD)

⁸ それゆえ、わたしはキリストにあって、あなたのなすべきことを命じるだけの大いなる確信を持つことができたが、
⁹ 愛のゆえに、むしろ嘆願する。年老いたパウロ、そして今はキリスト・イエスの囚人であるかようなわたしとして。
¹⁰ わたしのなわばりにあって生んだわたしの子オネシモのために、あなたにお願いする。
¹¹ 彼は以前はあなたにとって益にならなかったが、今はあなたにもわたしにも益となる。
¹² わたしは彼をあなたに送り返す。ゆえに、あなたは彼を受け入れてほしい。すなわち、わたしの心そのものである。
¹³ わたしは彼をわたしのそばに留め、福音のなわばりにおいて、あなたに代わってわたしに仕えさせることを望んだ。
¹⁴ しかし、あなたの意向によらずには何もしたくなかった。それはあなたの益が、いわば強いられてではなく、自発的なものとなるためである。
¹⁵ おそらく彼がしばらく離れたのは、あなたが彼を永遠に受け入れるためであったかもしれない。
¹⁶ もはやしもべとしてではなく、しもべ以上の者、愛する兄弟として。特にわたしにとってそうであるが、肉においても主においても、あなたにはなおさらのはずではないか。
¹⁷ それゆえ、もし私を仲間とみなすなら、私として彼を受け入れてほしい。
¹⁸ もし彼があなたに損害を与え、あるいは何か負っているなら、それをわたしの勘定に回してほしい。
¹⁹ わたしパウロは自筆でこれを書く。わたしが払おう。ただし、わたしはあなたに言わない。あなたがわたしにあなた自身をも負っていることを。
²⁰ 兄弟よ、主にあってわたしに喜びを得させてほしい。主にあってわたしの心を慰めてほしい。
²¹ あなたの従順に対する確信を抱いてあなたに書いている。あなたがわたしの言う以上のこともするであろうことを知っている。
²² 同時に、わたしの宿も用意してほしい。あなたがたの祈りによって、わたしがあなたがたに与えられることを期待している。
²³ キリスト・イエスにあって共に囚人であるエパフラスがあなたによろしくと言っている。
²⁴ マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカ、わたしの同労者たちも。
²⁵ わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。アーメン。

ここに、

I. 手紙の主要な用件がある。それはオネシモのためにピレモンに嘆願し、彼を受け入れ、彼と和解するよう求めることであった。パウロはこの目的のために多くの論拠を提示する(Phm 1:8-21)。

1番目の論拠 は先に述べたことから取られ、推論の言葉 それゆえ のうちに含まれている。あなたのうちに、またあなたについてこれほど多くの良いことが伝えられ、見いだされていること、とりわけすべての聖徒への愛のゆえに、今や新たな一層のかかわりにおいてそれを見せてほしい。回心した者、それゆえ真に聖徒であり、あなたの恵みと愛にふさわしい者であるオネシモを赦し受け入れることにおいて、オネシモの心を、またわたしの心をも慰めてほしい。観察せよ。善を行う性向は、過去のその実例と表明と共に、さらなる行動を促すためにとらえる良い手がかりとなる。善を行うことに疲れてはならない、能力に応じ、新たな対象と機会が生じるに従い、同じように続けよ。

2番目の論拠 は、今この嘆願を彼に求めている者の権威から取られる。わたしはキリストにあって、あなたのなすべきことを命じるだけの大いなる確信を持つことができたのであるが(Phm 1:8)。使徒たちはキリストの下で、教会の一般の奉仕者のみならずその成員に対しても、建徳のために大いなる権力を持っていた。彼らはふさわしいことを要求でき、その点において従われるべきであり、ピレモンはこれを考慮すべきであった。これは使徒の権力が要求し得る範囲内の事柄であったが、彼はこの場面において権力を行使しようとはしなかった。観察せよ。奉仕者は、教会においてどれほどの権力を持っていようとも、その行使において慎重さを用いなければならない。時宜を得ず、また必要以上にこれを用いてはならない。すべてにおいて敬虔な知恵と思慮を用いなければならない。それゆえ、これは

3番目の論拠 となり得る。要求する権威をなお持っていたにもかかわらず退け、彼はそれを彼に嘆願することを選ぶ(Phm 1:9)。しかし愛のゆえに、わたしはむしろ嘆願する。観察せよ。権力を持つ者が謙遜を示し、厳密な権利においては命じうる場合にも時に嘆願することは、決して名誉を傷つけるものではない。パウロは使徒でありながらここでそうする。彼は命じうる場所で嘆願し、権威よりも愛から論じる。これは疑いなく人を引きつける力を持つ。とりわけ、これは

4番目の論拠 となり得る。嘆願する者の何らかの事情がその請願にさらなる力を与えるとき、ここにあるように。年老いたパウロ、そして今はキリスト・イエスの囚人であるかようなわたしとして。年齢は敬意を要求する。また、合法でふさわしい事柄におけるかような者の願いは、尊重をもって受けられるべきである。年老いた使徒の、そして今キリストとその福音のために苦難を受けている者の願いは、深く顧みられるべきである。もしあなたが、わたしの鎖を慰め、わたしの重荷を軽くするために、貧しい年老いた囚人のために何かをしようとするなら、わたしが望むこれを与えてほしい。これによって、あなたは年老いて苦難を受けるキリストのしもべの人格においてキリストに栄誉を帰すことになり、キリストは疑いなくこれを御自身に対してなされたとして受けるであろう。彼はまた、

5番目の論拠 を、今やオネシモと彼自身との間にある霊的な関係から引き出す。わたしのなわばりにあって生んだわたしの子オネシモのために、あなたにお願いする(Phm 1:10)。権利および市民的な関係においては彼はあなたのしもべであるが、霊的な意味において今や彼はわたしの子である。キリストのゆえにわたしが囚人であるこの場所においてさえ、神がわたしを彼の回心の器としてくださった。このように神は時として苦難を受けるしもべたちに栄誉と慰めを与えられる。彼らの苦難を通して彼ら自身のうちに良いわざをなすだけでなく、その恵みを試練し改善することによって、さらに他者の回心、ここではオネシモの回心のかたちで、あるいは彼らの確認と強化のかたちで、Php 1:14 のごとく多くの霊的ないいもののための手段とされる。多くの兄弟たちが、わたしのなわばりによって確信を強め、恐れることなく神の言葉を語るいっそうの大胆さを得た。神のしもべたちが縛られても、み言葉と霊は縛られない。その時にも霊の子が彼らに生まれ得る。使徒はここに力点を置く。わたしのなわばりにあって生んだわたしの子。彼はパウロに愛しく、この配慮の下にピレモンにもそうなることが望まれた。獄中のあわれみは甘く、大いに重んじられる。パウロは、今やオネシモと彼との間に成ったこの親愛の関係、すなわち彼のなわばりにあって生まれた子から、ピレモンへの論拠を引き出す。そして

6番目の論拠 はピレモン自身の利害から取られる。以前はあなたにとって益にならなかったが、今はあなたにもわたしにも益となる(Phm 1:11)。観察せよ。(1.) 聖別されていない者は役に立たない者である。彼らは自分の存在と関係の大いなる目的を果たさない。恵みは何事かに役立つようにする。以前は益にならなかったが、今は益となる。そうなる性向を持ち、そうなるように整えられ、もしあなたが彼を受け入れるなら、主人であるあなたにとってもそうなるであろう。彼の回心以来ここでわたしに仕えることによって彼がそうであったように。「益ある」という意味の名オネシモへの言及があるように思われる。今や彼は自らの名にふさわしくなるであろう。また、使徒がこの件においてどう語っているかにも注目すべきである。オネシモの以前の状態や行いが正当化するであろうようにではなく。彼は主人に損害を与え、そこから逃げ出し、自分自身の者であるかのようにふるまった。しかし神が悔いる者たちの罪を覆し、赦し、責め立てないように、人もそうすべきである。パウロはここでなんと優しく語っていることか。オネシモの罪が小さかったわけではない。また彼が誰か、とりわけ自らを、そう受け取ることを望んだわけでもない。しかしそのためにへりくだり、そのことで確かに恥を引き受けたので、使徒は今、彼の上に罪を負わせ続け、彼の精神を沈ませることをせず、ピレモンに嘆願して、しもべの不行跡に対して厳しい反省をさせるのではなく、赦すよう求めるにあたって、このように優しく語るのである。(2.) 回心はなんと幸いな変化をもたらすことか。悪を善に、益にならないものを有用なものに。敬虔なしもべは家族のうちの宝である。かような者は自分の時間と委託について良心を持ち、仕える者たちの利益を推進し、すべてを最善のために管理するであろう。それゆえここに提示される論拠はこれである。今や彼を受け入れることはあなたの利益となる。このように変えられた彼を、以前はそうでなかったけれども、従順で忠実なしもべとなると期待しうる。そこで、

7番目の論拠 として、彼はピレモンに、オネシモに対して抱いていた強い愛情から訴える。彼は先に霊的な関係、わたしのなわばりにあって生んだわたしの子 について述べた。そして今や彼が自分にとっていかに愛しいかを示す。ゆえに、あなたは彼を受け入れてほしい。すなわち、わたしの心そのものである(Phm 1:12)。わたしは彼をわたし自身のように愛し、あなたが彼を受け入れるために、このために彼をあなたに送り返した。それゆえわたしのためにこれをしなさい。わたしにこれほど愛しい者として彼を受け入れよ。観察せよ。良い人たちでさえ、時には自らの激情を鎮め、恨みを手放し、自分を傷つけ、怒らせた者を赦すために、大いなる熱心と嘆願を必要とすることがある。パウロがこれほど悲痛で熱心であり、求めるものを得るためにこれほど多くの嘆願と論拚を集めているとき、それはこの方向を向いていると考える者もいる。ピレモンはフリギア人で、おそらく生来、荒く、難しい気性であり、それゆえ赦しと和解に向けて彼を動かし得るすべての弹簧に触れるための少なくない労を必要としたのであろう。むしろ、怒るのに遅く、赦すに速く、あわれみに豊かな 神に似ようと努めるべきである。そして再び、

8番目の論拠 は、オネシモを送り返すことにおいて使徒が自らを否定したことから取られる。ピレモンの許可を頼みにして彼を長く引き留めてもよかったのに、そうしなかった(Phm 1:13,14)。パウロは今や獄中にあり、自らのために立ち、補佐する友人やしもべを必要とした。彼はオネシモがそのためにふさわしく、進んでいることを見出し、それゆえピレモン自身に代わってパウロに仕えさせるために彼を引き留めたかった。もしパウロがそのような目的のためにピレモン自身に来るよう求めていたなら、彼は拒まないだろうと期待できたであろう。ましてやそのしもべが代わりにこれをすることを嫌がるだろうと考えたはずもない。それにもかかわらず、彼の事情がそれを必要としていたのに、この自由を取らなかった。わたしは彼をあなたに送り返した。それは、あなたからわたしへの何らかの好意が 強いられてではなく、自発的 になるためである。観察せよ。良いわざは最も自由な精神をもってなされるとき、神にも人にも最も受け入れられる。そしてパウロは、その使徒的権力にもかかわらず、市民的権利に対してどれほどの敬意を払うかを示した。キリスト教は決してこれを廃止しも弱めもしない。むしろ確認し強める。オネシモはピレモンのしもべであり、それゆえ彼の同意なしには彼から引き留めることはできなかった。彼が回心しない状態でその権利を犯し、主人の損害において自ら離脱した。しかし今や自らの罪を見て悔いたので、その義務に戻ることを望み、切に求めた。パウロはこれを妨げるのではなく、むしろ推進した。彼は確かにピレモンの意向を頼みにできたかもしれない。しかし必要にもかかわらず、その道を取るよりも自らを否定した。そして彼はさらに、

9番目の論拠 を提示する。今やオネシモのうちにそのような変化がなされたので、ピレモンは彼が再び逃げ出し、あるいは害を与えることを恐れる必要がないという論拠である。おそらく彼がしばらく離れたのは、あなたが彼を永遠に受け入れるためであったかもしれない(Phm 1:15)。ソロモンが あなたが彼らを解放しても、再びこれをしなければならない と言う者たちがいる(Pr 19:19)。しかしオネシモのうちになされた変化は、彼が再びかように彼のために取り成す者を必要とすることが決してないようなものであった。愛はそのように望み判断するであろう。いや、そのようになるであろう。しかし使徒は慎重に語り、かような恵み深い結末を期待して、かような実験を再び行おうとする者がいないようにする。観察せよ。(1.) 悪に転用されうる事柄において、奉仕者は慎重に語らなければならない。罪人に対する神の恵み深い摂理が、罪への励み、あるいは罪に対する正当な忌避の軽減として乱用されないように。おそらく彼がしばらくの間あなたから離れたのは 等。(2.) 悔いる者たちの罪がなおいかに優しく語られるか。彼はそれを しばらくの離脱 と呼び、それが値する名称を与えない。神の支配と配剤として見るなら、それは 離脱 であった。しかし、それ自体、行為の性向と仕方の点では、犯罪的な逃走 であった。神に対するいかなる罪や犯行の性質を語るとき、その悪は軽減されるべきではない。しかし悔いる罪人の人格においては、神がそれを覆されるように、わたしもそうしなければならない。彼がしばらく離れたのは、あなたが彼を永遠に受け入れるためであった。すなわち回心にあたって彼が戻り、生きている限り忠実で有用なしもべとなるためであった。愚かな者を乳鉢で搗いても、その愚かさは彼から去れない。しかし真の悔いる者たちはそうではない。彼らは愚かさに戻らない。(3.) 神の知恵、善、そして力を観察せよ。かくも悪く始まり、かくも長く続いた事柄を、かくも幸いに終わらせることに。かくも低い身分と状態にあり、人々からかくもわずかに顧みられる一人の貧しい隷属者を顧みて、かくも悪い道に遠く入り込んだ者、かくも良い主人に損害を与え、かくも敬虔な家族から、恵みの手段から、その家にある教会から逃げた者において、かくも良くかつ大きな変化をなすことに。救いの道から逃げた者がその道に導き入れられ、コロサイにおいてその手段の下でかたくなであった者が、ローマにおいてその手段が効力あるものとされること。ここに神の恵みのなんという豊かさであろうか。かくも低く、かくも卑しく、かくも忌まわしい者も、全く絶望されるべきではない。神は彼らが神から逃げているときに出会うことができる。ある時、ある場所において効力のなかった手段を、他の時と場所において効力あるものとなしうる。このオネシモの事例のようであった。神に立ち返ったので、彼は今や主人に立ち返る。主人はかつてないほど多くの奉仕を得、彼をしっかりと保つであろう。良心における義務の自覚とその忠実さにおいて、彼の生涯の終わりまで。それゆえ彼を受け入れることは今や彼の利益となる。このように神はしばしば、ご自身の民の損失から利益をもたらされる。そして、利害に加えて、

10番目の論拠 は、今やオネシモがどのような資格の下に戻り、ピレモンによって受け入れられなければならないかという資格から取られる(Phm 1:16)。もはやしもべとしてではなく(すなわち、単に、あるいはその程度ではなく)、しもべ以上の者として(霊的な意味において)、愛する兄弟として。キリストにあって兄弟として認められ、彼のうちになされたこの聖なる変化のゆえに兄弟として愛されるべき者。それゆえ以前よりも良い原則に立ち、より良い仕方であなたに役立つ者であり、あなたの家族において最も良いものを愛し推進し、その中の祝福となり、あなたの家にある教会を保つのに役立つ者。観察せよ。(1.) すべての真の信者の間には、市民的、外面的な差異においてどれほど区別されていても、霊的な兄弟関係がある。彼らはすべて同じ天の父の子であり、同じ霊的特権と益に対する権利を持ち、同じ召しの位と程度と場において召された者たちとして、兄弟として互いに愛し合い、すべての良い務めをなし合わなければならない。キリスト教はそれぞれの市民的義務を廃止しも混同もしない。むしろそれらへの義務を強め、その正当な履行へと導く。(2.) 敬虔なしもべは単なる普通のしもべ以上の者である。彼らの心には恵みがあり、神の御目に恵みを見出し、それゆえ敬虔な主人の御目にも恵みを見るであろう。詩篇 101:6、わたしの目は地の忠実な者に向けられる。彼らがわたしと共に住むために。完全な道を歩む者、彼がわたしに仕える。今やこのようになったオネシモを受け入れ、同じ共通の信仰にあずかる者、それゆえ特にその回心の器であったわたしに愛する兄弟として、認めよ。良い奉仕者は、受ける外面的ないいものに応じてというよりも、なす霊的ないいものに応じて愛する。パウロはオネシモを わたしの心 と呼び、他の回心者たちを わたしの喜びと冠 と呼んだ。特にわたしに愛する兄弟。しかし肉においても主においても、あなたにはなおさらのはずではないか。それゆえ二重のきずな(市民的および宗教的)によってあなたのしもべ、あなたの財産、あなたの家と家族の一員、そして今や霊的な意味においてキリストにあってあなたの兄弟。このことが関係を強める。彼は神のしもべであり、あなたのしもべでもある。ここに彼がわたしに対して負っているきずなよりも多くのきずながある。それゆえなんと進んで彼は、あなたの家族の一員、真の信仰の一員、あなたの家の一員、そしてあなたの家にある教会の一員として、受け入れられ愛されるべきであろうか。この論拠はもう一つの論拠、

11番目の論拠、聖徒の交わりから、によって強められる。それゆえ、もしあなたがわたしを仲間とみなすなら、私として彼を受け入れてほしい(Phm 1:17)。聖徒たちの間には交わりがある。彼らは互いのうちに利害を持ち、それに応じて愛し、行動しなければならない。さあ、わたしにこれほど近く愛しい者、すなわちわたし自身を、愛し受け入れることによって、わたしへの愛とわたしがあなたのうちに持つ利害を示しなさい。わたし自身に対するように、進んですぐれた、おそらく等しくはないであろうが、真実な愛情をもって彼を認め、待遇しなさい。しかし、なぜ一人のしもべ、奴隷、しかもかくも不行跡のあった者のために、これほどの配慮と熱心を。答え。今や悔いているオネシモのために、疑いなく彼を励ますため、また彼がかくも損害を与えた主人のところに戻るにあたって彼が持ちうる恐れに対して彼を支えるため、失望と落胆に沈むことから彼を守り、その義務に向かって彼を励ますためであった。賢く良い奉仕者は若い回心者に対して大いなる優しい配慮を持ち、その義務に向かって、またその義務のうちにおいて、できる限り励まし勇気づける。反論。しかしオネシモは主人を怒らせたのみならず損害を与えた。これへの答えが、

12番目の論拠 となる。ピレモンに対する補償の約束。もし彼があなたに損害を与え、あるいは何か負っているなら 等(Phm 1:18,19)。ここに三つのことがある。

(1.) ピレモンに対するオネシモの負債の告白。もし彼があなたに損害を与え、あるいは何か負っているなら。これは疑いの もし ではなく、推論と譲歩の もし である。彼があなたに損害を与えたのであれば、それによって彼はあなたに負債を負った。Col 3:1、2Pe 2:4 等における もし のように。観察せよ。真の悔いる者は、自らの過ちを率直に認める。オネシモが目ざめ、悔い改めに導かれた際、パウロに対してそうしたように疑いない。とりわけ他者に対する損害の場合にはそうすべきである。オネシモはパウロを通して損害を認める。そして、

(2.) パウロはここで補償を引き受ける。それをわたしの勘定に回してほしい。わたしパウロは自筆でこれを書く。わたしが払おう。観察せよ。[1.] 聖徒の交わりは所有の区別を廃止しない。今や回心し、愛する兄弟となったオネシモは、それでもなおピレモンのしもべであり、彼が行った損害のゆえに彼に負っており、自由かつ自発的な免除、あるいは自ら、あるいは誰かが彼のために行う修復によってのみ放免される。その部分を、むしろ失敗しても、使徒が彼のために引き受ける。[2.] 保証人はすべての場合において不法なわけではなく、ある場合には良いあわれみ深い引き受けである。ただし人物と事情を知れ。見知らぬ者の保証人となるな(Pr 11:15)。能力を超えるな。正義と慎重さにかなう限り、友人を助けることはできる。そしてキリストがより良い契約の保証人となってくださったこと(Heb 7:22)、罪を知らない方についてわたしたちのために罪とされ、わたしたちが神の義とされるためにと乐于くださったことの、なんと幸いなことか。そして [3.] 言葉や約束によるのみならず、文書による形式的な保証もまた要求され、与えられうる。人は死に、言葉は忘れられたり誤解されたりする。文書は権利と平安をより良く保ち、良い人々によっても他の人々によっても、すべての時代において用いられてきた(Jer 32:9、Lu 16:5-7)。寄与によって生きていたパウロが、悪いしもべによって主人に与えられた損害をすべて弁済することを引き受けるのは大いなることであった。しかし彼はこれによってオネシモに対する真実の、そして大いなる愛情と、彼の回心の誠実さに対する十分な信頼とを表現する。そしてこの気前の良い申し出にもかかわらず、ピレモンがこれに固執せず、すべてを自由に免除するであろうという希望を持ち得た。以下のことを考慮して、

(3.) 彼とピレモンとの間の事柄の理由。ただし、わたしはあなたに言わない。あなたがわたしにあなた自身をも負っていることを。わたしに思い起こさせることなく、あなたは他の点において、この額を超えてわたしに負っていることを覚えるであろう。自らの賛美における謙遜は真の賛美である。使徒はピレモンに与えた恩恵をさらりと言及する。あなたが恵みと神への受け入れおいて何ものであるか、あるいは何かを正しく慰めの仕方で楽しんでいるとして、それは神の下で、わたしの奉仕による。わたしはその霊的ないいものをすべて神の御手にある器であった。そしてこのことに関してあなたのわたしに対する義務が何であるかを、あなたに考慮に委ねる。貧しい悔いる者の金銭的負債を、わたしのために、またわたしの願いによって赦すこと。しかしそれを今やわたしが保証人として引き受けるのであるから、彼に、あるいは今や彼の保証人であるわたしに免除することは、あなたが認めるように、かくも大いなることではない。ここにはより per contra(相殺して)がある。あなたはわたしにあなた自身をも負っている。観察せよ。奉仕者と、回心や霊的建徳のためにその努力が祝福された者たちとの間の結びつきはなんと大いなるものであるか。もし可能であったなら(パウロはガラテヤ人に言った)、あなたがたは自分の目をえぐり出してわたしに与えたであろうに(Ga 4:15)。他方で彼は彼らを わたしが再び産みの苦しみをしている子ら と呼ぶ。キリストが彼らのうちに形造られるまで、すなわちキリストの似姿がより十分に。1Th 2:8 のように、わたしたちは神の福音のみならず、自分のいのちをもあなたがたに分け与えたいと願った。あなたがたがわたしたちに愛しかったからである。このような比喩によって、キリストのわたしたちのための引き受けが説明されよう。わたしたちは神から背き、罪によって神に損害を与えた。しかしキリストは 義人が不義人のために 満足をなすことを引き受け、わたしたちを神に導くため になされた。もし罪人があなたに負っているなら、わたしの勘定に回してほしい。わたしは負債を払おう。その不義をわたしに負わせてほしい。わたしが刑罰を負おう。さらに、

13番目の論拠 は、時宜を得た、受け入れやすいピレモンの信仰と従順の実りによって、オネシモのためのみならずピレモン自身のためにも、使徒が受けるであろう喜びと慰めから取られる。兄弟よ、主にあってわたしに喜びを得させてほしい。主にあってわたしの心を慰めてほしい(Phm 1:20)。ピレモンは信仰におけるパウロの子であったが、彼を兄弟として嘆願する。オネシモは貧しい奴隷であったが、まるで自らのために何か大いなることを求めるかのように彼のために請う。なんと悲痛であることか。兄弟よ、あるいはわたしの兄弟よ(これは願望や渇望の副詞である)、主にあってわたしに喜びを得させてほしい。あなたはわたしが今、主のために、そのご名誉と大義のために囚人であることを知っている。そしてキリストにある友人たちが与え得るすべての慰めと支えを必要としている。さてこれはわたしの喜びとなり、わたしは主にあってあなたから喜びを得る。あなた自身のクリスチャンの信仰と愛のかくも明らかな標識と実りを見ることにおいて、またオネシモのために、彼がこれによって慰められ励まされるので。観察せよ。(1.) クリスチャンは互いの心を喜ばせる事をなすべきである。人々と奉仕者は互いに、そして奉仕者はその兄弟たちの。世からは患難を期待する。それではどこに慰めと喜びを求めうるか、互いのうちにおいてでなければ。(2.) 人々のうちにある信仰と従順の実りは奉仕者の最大の喜びである。とりわけキリストとその肢体への愛が、損害を赦し、あわれみを示し、天の父があわれんであられるようにあわれむことにあらわれることが多ければ多いほど。主にあってわたしの心を慰めてほしい。わたしを動かしているのは何らかの肉的で利己的な配慮ではなく、キリストに喜ばれることであり、キリストがそのうちに栄光をお受けになることである。観察せよ。[1.] 主の栄誉と奉仕は、すべての事においてクリスチャンの第一の目的である。そして [2.] 良い奉仕者にとって、人々が良いことに進んで熱心であること、とりわけ機会が生じるたびに慈善と恩恵のわざにおいて、損害を赦し、自らの権利の一部を免除する等のことに進んで熱心であることを見ることは、食物であり飲み物である。そして最後に、彼の最後の、すなわち

14番目の論拠 は、ピレモンについて表明する良い希望と評価のうちにある。あなたの従順に対する確信を抱いてあなたに書いている。あなたがわたしの言う以上のこともするであろうことを知っている(Phm 1:21)。わたしたちについての良い思いと期待は、期待されていることをなすように、わたしたちをより強く動かし、励ます。使徒はピレモンが良い人であることを知り、それゆえ彼が良いことをする用意があること、しかも乏しくけちけちした仕方ではなく、自由で気前の良い手もってであることを確信した。観察せよ。良い人々は良いわざのために進む。狭く、けちけちせず、それらにおいて豊かである。赛 32:8、寛大な者は寛大なことを図る。マケドニヤ人たちはまず自らを主にささげ、次に神の御心によって使徒たちにささげて、機会がおとずれるごとに、持っているものでできる限りの良いことを行った。

ここまでが手紙の本文と本体である。次に、

II. 結語。そこで、

1. 彼は彼らの祈りによる解放の良い希望を示し、まもなく彼らに会えるであろうことを伝え、ピレモンにその準備を求めている。同時に、わたしの宿も用意してほしい。あなたがたの祈りによって、わたしがあなたがたに与えられることを期待しているから(Phm 1:22)。同時に、あるいは さらに。彼は別の事柄に移る。しかしおそらく、彼が自らまもなく続き、手紙の効果を知るであろうという示唆によって、かれが扱っていた事柄が推進されるのではないかという目配せなしではない。ピレモンはそれゆえ、これが満足すべきものとなるように、いっそう刺激されるであろう。ここに、

(1.) 求められた事柄。わたしの宿も用意してほしい。これには旅人のために必要なすべてが含まれる。彼はピレモンにこれをするよう求める。自らの客となるつもりで、それが最もその目的にかなうからである。観察せよ。もてなしは大いなるクリスチャンの義務であり、とりわけ奉仕者において、また使徒のような奉仕者に対して、キリストとその福音のためにかくの如き危険と苦難の中から来る者に対して。かような者に最大限の愛情ある配慮を示さない者があろうか。彼がガイオに与える栄誉ある称号がある(Ro 16:23)。わたしの宿、および全教会の宿。オネシポロもまた、この事のゆえに使徒によって愛情をもって思い起こされている(2Ti 1:16,18)。主がオネシポロの家にあわれみを与えたまわんことを。彼はしばしばわたしを慰め、わたしの鎖を恥じなかったからである。また彼がエペソでどれほど多くの事においてわたしに仕えたかを、あなたは知っている。

(2.) ここに使徒の請願の根拠がある。あなたがたの祈りによって、わたしがあなたがたに与えられることを期待しているから。彼は神が自分をどう扱われるかを知らなかった。しかし祈りの益を彼はしばしば経験し、解放と彼らのところに来る自由のために再び得ることを期待した。観察せよ。[1.] いのちと自由と奉仕の機会は神に依存しており、すべては神の御喜びによる。[2.] これらや他のあわれみが奪われているとき、わたしたちの信頼と希望は神にあり、事が保留されている間、落胆も屈服もしてはならない。しかしなお [3.] 信頼は手段の使用と共に、とりわけ祈りと共にあらねばならない。他の手段が手元にないとしても。これは天を開き、獄の扉を開いた。[義人の熱心な祈願は大いに力がある]。[4.] 奉仕者のための人々の祈り、とりわけ彼らが苦難と危険のうちにあるとき、は人々の大いなる義務であり、奉仕者はこれを必要とし求める。パウロは使徒でありながら、大いなる熱心をもってそうした(Ro 15:30、2Co 1:11、Eph 6:18,19、1Th 5:25)。最も小さい者がこの仕方で最も大いなる者を助けることができる。しかし [5.] 祈りは得るが、得たものを得るに値するわけではない。それらは神の賜物であり、キリストの購いである。あなたがたの祈りを通して、わたしはあなたがたに自由に与えられる(charisthesomai hymin)ことを期待する。神が与えるものを、神はさらに求められる。あわれみがいっそう重んじられ、それがどこから来るかが知られ、神が賛美を受けるためである。奉仕者のいのちと労苦は人々の益のためである。その務めは彼らのために立てられた。彼は人のために賜物を与えられた。使徒たちを 等(Eph 4:8,11,12)。彼らの賜物、労苦、いのちはすべて彼らの益のためである。1Co 3:21,22、すべてはあなたがたのもの。アポロも、ケパも 等。[6.] 忠実な奉仕者のために祈るにおいて、人々は事実上自らのために祈る。わたしがあなたがたに与えられることを期待する。あなたがたの奉仕、慰め、キリストにあっての建徳のために。2Co 4:15を見よ。[7.] 使徒の謙遜を観察せよ。彼の自由、もしそれを持つなら、彼は自らのというよりも彼らの祈りによるものと認めるであろう。彼は彼らのみを挙げるが、それは多くの者の祈りについての彼の高い評価と、祈る人々に対して神が示される配慮のゆえにのみである。使徒の結語の第一の事柄はかくの如し。

2. 彼は共に囚人であった一人と、共に労する四人以上の者からの挨拶を送る(Phm 1:23,24)。挨拶は健康と平安を願うことである。キリスト教は礼儀の敵ではなく、これを命じる(1Pe 3:8)。これは愛と敬意の単なる表明であり、それらを保ち養う手段である。キリスト・イエスにあって共に囚人であるエパフラスがあなたによろしくと言っている。彼はコロサイの出身であり、それゆえピレモンの同国人であり同市民であった。その務めから見て、彼は伝道者であったと思われ、コロサイ人の間で労した(もし彼らの最初の回心者でなかったとしても)、彼らに対して特別な愛情を持っていた。わたしたちの愛する同労者(パウロは言う)、およびあなたがたのためにキリストの忠実な奉仕者(Col 1:7)。また(Col 4:12,13)、常に祈りによってあなたがたのために労するキリストのしもべ。わたしは彼について、あなたがたのために大いなる熱心を持っていることをあかしする 等。それゆえこれは非常に著名な人物であった。彼はローマにいて、おそらくパウロに同行し、福音の宣教と普及の同じわざに労する中、同じ獄に囚われ、同じ大義のために囚われた。両者とも キリスト・イエスの囚人 と呼ばれる。これは投獄の根拠、すなわち何らかの罪や悪事ではなく、キリストへの信仰とその方への奉仕のゆえであることを示す。キリストの御名のために恥を受けることは栄誉である。キリスト・イエスにあって共に囚人である ことは、彼の栄光、また使徒の慰めとして挙げられている。彼が囚人であり、それゆえそのわざから妨げられていること(これは悲しみの事柄であった)のためではなく、神がかくも彼に苦難を受けさせ、これを召されたのを見て、その摂理が彼らが共に苦難を受け、それゆえ互いの祈りと、ある事々においては助け合いの益と慰めを持つように取り計らされたこと。これはあわれみであった。このように神は時として聖徒の交わり、すなわち彼らがその鎖において互いに持つ甘い交わりによって、しもべたちの苦難を軽くされる。神のために共に苦難を受ける時ほど、神の楽しみを感じたことはなかった。パウロとシラスが、足を台木に固定されたとき、舌が解放され、心が神への賛美のために調えられたかのように。マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカ、わたしの同労者たち。これらの言及は、後の事柄への彼らのかかわりにおいて彼らを関与させるかのようである。その嘆願を拒否することによって、少なくともこれらの大部分がそうであったかのように、これほど多くの価値ある名を疎かにすることがどのように見えることになろうか。マルコ、バルナバのいとこ、マリアの子。マリアはエルサレムの聖徒たちにあのように親切であった(Col 4:10;Ac 12:12)。その家は祈りと神の礼拝の集まりの場所であった。パウロと彼が別れたとき、彼のうちに何らかの失敗があったように思われるが、バルナバと共に彼はそのわざを続け、ここでパウロと彼は、 perceivably、和解し、違いは忘れられた(2Ti 4:11)。彼はマルコを連れてくるように頼む。彼はわたしの奉仕に有益であるから、すなわち伝道者の奉仕に。アリスタルコ はマルコと共に挙げられ(Col 4:10)、そこでパウロによって共に囚人と呼ばれる。そこでバルナバの姉妹の子マルコについて語る際、彼についてあなたがたは命令を受けた。もしあなたがたのところに来たら、受け入れよ と付け加える。これは彼自身が彼を受け入れ、和解したことの証拠である。次は デマス。今のところ、彼には落ち度がなかったように見える。しかし彼は 今の世を愛した ことのゆえに、パウロを見捨てたとして非難される(2Ti 4:10)。しかし彼の見捨てがどの程度であったか、すなわちそのわざと告白からの全面的なものであったか、部分的なものに過ぎなかったか、また彼が悔いて義務に戻ったかどうかについては、聖書は沈黙し、わたしたちもそうあれ。ここには恥辱の標はなく、彼は Col 4:14 におけるように、忠実であった他の者たちと共に連ねられている。最後は ルカ、愛される医者 であり伝道者であり、ローマに来てパウロの同伴者であった(Col 4:14;2Ti 4:11)。彼はパウロの最大の危険における同労者であり、共に労する者であった。奉仕は肉的ないやすみや楽しみの事柄ではなく、労苦の事柄である。もしこれに怠惰な者がいるなら、彼は自らの召しに応えていない。キリストは弟子たちに 収穫の主に、労する者たちを、怠け者ではなく、収穫に遣わされるように祈れ と命じられる(Mt 9:38)。そして人々は 自分たちの間で労する者たち、主にあって自分たちの上に立つ者たちを認め、そのわざのゆえに愛をもっていっそう高く思いなさい と勧められる(1Th 5:12,13)。わたしの同労者たち と使徒は言う。奉仕者は真理の共なる助け手でなければならない。同じ主に仕え、同じ聖なるわざと務めにおいて、同じ栄光ある報いを待ち望む。それゆえ彼らは、その大いなる共通の主人の利害を推進するにおいて、互いの助け手でなければならない。かくして挨拶について、そして次に、

3. ここに使徒の結びの祈りと祝祷がある(Phm 1:25)。観察せよ。(1.) 願われ祈られる事柄。恵み、神の自由な恵みと愛、ならびにすべての良いことのうちでのその結実と効果。霊とからだのため、時と永遠のため。観察せよ。恵みはわたしたち自身と他者のための最善の願いである。使徒はこれをもって始め、これをもって終える。(2.) その源。わたしたちの主イエス・キリスト、神の子、三位一体の第二位格。自然の権利による主。御方によって、また御方のために、すべてのものが造られた(Col 1:16;Joh 1:1-3)。すべてのものの相続人であり、神人、仲保者として、わたしたちを購い、父からわたしたちに与えられた方。イエス、救い主(Mt 1:21)。わたしたちは失われ、滅びていた。この方がわたしたちを回復し、その廃墟を修復する。功績によって救う。わたしたちのために赦しといのちを購うことによって。また力によって救う。罪、サタン、地獄から救い出し、神の似姿にわたしたちを新しくし、神の楽しみへとわたしたちを導くことによって。かくしてこの方はイエスであり、キリスト、すなわちメシア、油注がれた者であり、その教会の王、祭司、預言者として任職し、その任にふさわしく整えられる。律法の下では油注ぎによってこれらのすべての職務があった。そして救い主は聖霊によって霊的に油注がれた(Ac 10:38)。これらの職務がすべて一人のうちに、しかもかくの如き卓越さをもってあったのは、この方のうちにおいてのみであった。神はこの方を、その同僚たちよりも油の喜びをもって油注がれた(詩篇 45:7)。この主イエス・キリストは、本来の権利、福音の申し出と賜物、その購い、およびわたしたちのこの方の受け入れ、降伏、この方との神秘的合一致性において、わたしたちのもの。わたしたちの主イエス・キリスト。観察せよ。わたしたちに対するすべての恵みはキリストから出る。この方が購い、この方が授ける。わたしたちはすべてその満ち満ちたところから受けた。恵みに代えて恵みを(Joh 1:16)。すべてのすべてに充ち満ちる方(Eph 1:23)。(3.) 宛先。あなたがたの霊、meta tou pneumatos hymon。ピレモンのみならず、宛名に挙げられたすべての者の。あなたがたの霊と共に、すなわちあなたがたと共に。霊は恵みの直接の座であり、そこから全人に影響を及ぼし、恵み深く聖なる行動のうちに流れ出る。挨拶された家のすべての者がここに結びの祝祷に加えられている。それはいっそうすべての者に、手紙の目的を推進するよう思い起こさせ、励ますためである。

アーメン が加えられるのは、祈りと願いの強く愛情ある総括、かくあれかし、としてのみならず、それが聞かれるであろうという信仰の表明、かくなんだろう としてである。そして わたしたちの主イエス・キリストの恵みがわたしたちの霊と共にある ことを得て、わたしたちを幸いにするために、さらに何が必要であろうか。これは通常の祝祷であるが、ここではこの機会に対して何らかの特別な関連も持つと受け取られうる。彼らの霊、とりわけピレモンの霊と共にキリストの恵みは、彼らを甘くし和らげ、損害に対するあまりに深く鋭い恨みを取り去り、神がキリストのゆえにわたしたちを赦してくださったように、他者を赦すように向けさせるであろう。