Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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1 主を賛美せよ。主に感謝せよ。主は恵みふかい。そのあわれみはとこしえに絶えることがない。
2 主の大いなるみわざを語り述べうる者はだれか。その賛美をことごとく宣べ示しうる者はだれか。
3 さばきを守る者、常に正義を行う人はさいわいである。
4 主よ、あなたの民に賜う恵みによって私を思い出し、あなたの救によって私を顧みてください。
5 それは私があなたの選ばれた者の幸いを見、あなたの国民の喜びを喜び、あなたの嗣業と共に誇るためです。
私たちはここで教えられる。
一、神をほむることを(詩106:1,2)。「主を賛美せよ。」すなわち、1. 神の善、それが私たちに現されたこと、その多くの実例のために神に感謝をささげる。「主は恵み深く、そのあわれみはとこしえに絶えない。」それゆえに私たちは神に対する義務を認め、私たちの最も良い愛情と奉仕を返納しよう。2. 神の大いなることの栄光を帰する。神の「大いなるみわざ」、神が大いなることをなされた神の全能の力の証拠。それは反対されるであろうような事であっても。「これらを語り述べうる者はだれか。」それにふさわしい者は誰か。それに能力ある者は誰か。それらは数えきれないほど多く、記述できないほど不思議である。私たちが主の大いなるみわざについて語りうる最も多くを語っても、その半分も語られない。なお語るべきことがある。それは尽きることのない主題である。私たちは「その賛美を宣べ示さ」なければならない。私たちはその一部を宣べ示すことができるが、「すべてを宣べ示しうる者はだれか。」御使いたち自身でさえできない。これは私たちができることをなさない言い訳にはならない。私たちができるすべてをなすことを促すべきである。
二、神の民をほむることを、彼らを幸いな者として呼び、数えることを(詩106:3)。「さばきを守る者はさいわいである。」彼らは神を賛美するために用いられるのにふさわしいからである。神の民はその原則が健全な者たちである。「彼らはさばきを守る」—彼らは知恵と宗教の規則に従い、その実践がそれに調和する。彼らは「正義を行う」、神とすべての人に対して正義であり、ここにおいて彼らは着実で絶え間ない。彼らは「常に」それを行う。あらゆる振る舞いにおいて、すべての機会に、あらゆる実例において、そしてここにおいて終わりまで忍耐する。
三、神の恵みにおいて自分自身をほむることを。私たちの幸福をそこに置き、それゆえに真剣にそれを求めることを。詩篇作者がここでそうであるように(詩106:4,5)。1. 彼はすべての幸福の源としての神の恵み深さに目を留める。「主よ、私を思い出してください。私が必要とするあわれみと恵みを、『あなたの民に賜う恵み』と共に私にお与えください。」世界に神の民として特別な仕方で神の民である者がいるように、神がその民に持たれる特別の恵みがある。すべての恵み深い魂はそのあずかりを望む。そして私たちを幸福にするためにこれ以上望む必要はない。2. 彼は幸福の基礎としての神の救い、大いなる救い、たましいの救いに目を留める。「あなたの救によって私を顧みてください。」「私が必要とし、あなたからしか期待しえない赦しと恵みを私にお与えください(ハモンド博士が言うように)。」その救いが永遠に私の分となり、その保証が私の現在の慰めとなるように。3. 彼はすべての良いものを含むものとしての義人の幸福に目を留める(詩106:5)。「それは私があなたの選ばれた者の幸いを見るためです。」聖徒たちがそうであるように幸福であるため。それ以上の幸福は望みません。神の民はここで神の「選ばれた者」、神の「国民」、神の「嗣業」と呼ばれる。というのは、神が彼らをご自身のために聖別し、ご自身の支配の下に組み入れ、彼らに仕えられ、彼らにおいて栄光を現されるからである。神に選ばれた民は彼らに特有の良いものを持つ。それは彼らの喜びの、彼らの誇りの事項である。彼らの楽しみであり、彼らの賛美である。神の民は喜びの民である理由があり、一日中彼らの神において誇るべきである。その喜び、その栄光を持つ者は、人の子らの楽しみや誇りをねたむ必要がない。神の国民の喜びとその嗣業の栄光は、どんな人をも満たすのに十分である。というのは、その終わりに永遠の喜びと栄光を持つからである。
⁶ 私たちは私たちの父祖たちと共に罪を犯した。私たちは不義を行い、悪いことをした。 ⁷ 私たちの父祖たちはエジプトでのあなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かなあわれみを思い出さず、海で、しかも葦の海で、あなたを怒らせた。 ⁸ それにもかかわらず、主は御名のために彼らを救われた。ご自身の大いなる御力を知らせるために。 ⁹ 主はまた葦の海を責められると、それは干上がった。主は彼らを深みを通して導かれた。荒野を通るように。 ¹⁰ 主は彼らを憎む者の手から救い出し、敵の手から贖い出された。 ¹¹ 水が彼らの敵を覆った。彼らのうちひとりも残った者はなかった。 ¹² そのとき、彼らは主のことばを信じ、主を賛美して歌った。
ここに罪の悔いの告白が始まる。教会が苦境にある今、それは特別な時機にかなったものであった。というのも、私たちは神が私たちにもたらされるすべてにおいて神を義としなければならない。「私たちが悪を行ったから」、「それゆえ」神は正しいことをなさったと認める。そして、そのような中でも神がご自身の民を捨てられなかった以前の罪の記憶は、私たちが罪のゆえに正しく懲らしめられても、完全に見捨てられないという望みの励ましとなる。
一、悩む神の民はここで神の前に自分たちが有罪であることを認める(詩 106:6)。「私たちは私たちの父祖たちと共に罪を犯した」。すなわち父祖たちのように、彼らのそむきの罪の似姿に。「私たちは遺伝的罪悪の蓄積に加え、父祖たちの不義の尺度を満たし、『主の激しい怒りをさらに増し加えるため』」(民 32:14、マタ 23:32)。悔いる者にふさわしく、彼らが自分自身に重荷を負わせるのを見よ。「私たちは不義を行い」、すなわちその性質において罪であるものを。「私たちの悪いことをした」。私たちは高ぶった手で、ほしいままに罪を犯した。あるいはこれは、父祖たちの模倣だけでなく、彼らの罪への参加の告白である。「私たちは父祖たちと共に罪を犯した。私たちは彼らの腰にあり、私たちは『彼らの不義を負う』」(哀 5:7)。
二、彼らは、民として最初に形作られたときの父祖たちの罪を嘆く。子らはしばしばそのために苦しむので、彼らは第三、第四世代に及ぶまで、それを悲しむに関心がある。今でさえ私たちは、イスラエルの反逆の歴史から、人の性質の堕落と頑迷さ、最も可能性のある手段によって改善されることのない適合性のなさを嘆く機会を取るべきである。ここで観察せよ、
Psalms 106章 13-33 Matthew Henry's Complete Commentary
¹³ 彼らはすぐにみわざを忘れ、その教えを待たなかった。
¹⁴ しかし荒野で強く欲望をいだき、荒野で神を試みた。
¹⁵ 主は彼らの求めたものを彼らに与えられたが、彼らのたましいにやせ衰えを送られた。
¹⁶ 彼らは宿営でモーセと、主の聖なる者アロンをねたんだ。
¹⁷ 地は裂けてダタンを飲み込み、アビラムの仲間を覆った。
¹⁸ 火が彼らの仲間で燃え上がり、炎が悪者たちを焼き尽くした。
¹⁹ 彼らはホレブで子牛を造り、鋳た像を拝んだ。
²⁰ このように彼らは彼らの栄光を、草を食う牛の像に変えた。
²¹ 彼らは、エジプトで大いなるわざをなされた彼らの救い主なる神を忘れた。
²² ハムの地で奇しいわざを、紅海で恐るべきわざをなされた方を。
²³ それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。もしモーセその選ばれた者が、滅ぼそうとする破れ口に彼の前に立って、その怒りを返して、彼らを滅ぼされないようにしなかったなら。
²⁴ また彼らは麗しい地を忌み嫌い、その御言葉を信じなかった。
²⁵ むしろ彼らは天幕でつぶやき、主の御声に聞き従わなかった。
²⁶ それゆえ主は、彼らを荒野で倒すために、彼らに向かって手を上げられた。
²⁷ また彼らの子孫を国々のうちで倒し、もろもろの地にまき散らすためであった。
²⁸ 彼らはバアル・ペオルにつき、死んだ者にささげた供え物を食べた。
²⁹ このように彼らはその発明をもって彼を怒らせた。すると疫病が彼らのうちに激しく起こった。
³⁰ そのときピネハスが立ってさばきを行った。すると疫病は止んだ。
³¹ これは代々、とこしえまでも彼に義とみなされた。
³² 彼らはまた争いの水で彼を怒らせ、それでモーセは彼らのゆえにわざわいを受けた。
³³ 彼らが彼の霊を怒らせたので、彼はそのくちびるで軽はずみに語ったからである。
これは、荒野におけるイスラエルの反抗の歴史と、それらの反抗に対する神の怒りの要約である。そしてこの要約は、私たちキリスト者に適用されて使徒によって要約された(1Co 10:5等)。これらのことが私たちの戒めのために書かれたからである。すなわち、彼らのように罪を犯して、彼らのように苦しまないためである。
I. 彼らの罪の原因は、神のわざと御言葉を無視したことであった、Psa 106:13。1. 彼らは神が彼らのためにされたことを心に留めなかった。彼らはすぐにみわざを忘れ、それが彼らに与えた印象を失った。神のあわれみを十分に生かさず、自分たちにされた恵みに応じて報いようと努めない者たちは、実はそれを忘れているのである。この民はすぐにそれを忘れた(神はこれに気づかれた、Exo 32:8、彼らはすぐに向きを変えた)。彼らは急ぎ、そのみわざを忘れた(欄外注ではこのようになっている)。ある人々はこれを彼らの罪の二つの別個の例とみなす。彼らは急いだ。彼らの期待が神の約束に先んじた。彼らはまもなくカナンに着くと思い、そうならないと、そこに行けるかどうか疑い、道中に出会うすべての困難に不平を言った。しかし信じる者は急がない、Isa 28:16。そしてまた、彼らはそのみわざを忘れた。それは神の知恵と力と慈しみに対する否定しがたい証拠であったのに、彼らはその前提が決して証明されなかったかのように自信を持って結論を否定した。これは再び言及される(Psa 106:21,22)。彼らは神なる救い主を忘れた。すなわち、神が彼らの救い主であったことを忘れた。神のわざを忘れる者は神ご自身を忘れるのである。神はそのわざによってご自身を知らせられる。彼らはわずか数日前になされたことを忘れた。私たちは、彼らが当時そのことについて語っていたに違いないと思うかもしれないが、彼らがそれを良く生かさなかったので、忘れたと言われる。それは神がエジプトで、ハムの地で、そして紅海で彼らのためにされたことであった。私たちのように遠く離れている者たちも、忘れることができず、また忘れてはならないことである。それらは大いなるわざと呼ばれる(偉大な神は取るに足らないことはなさらないが、特に偉大なこともなさる)。奇しいわざは摂理の常道を外れたものであるから注目すべき、記憶すべきものであり、恐るべきわざは彼らに畏敬を与え、敵には恐怖を与えたが、しかしすぐに忘れられた。目で見た奇跡でさえ、語られる物語のように彼らと共に過ぎ去った。2. 彼らは神が彼らに語られたことを心に留めず、それに頼ろうとしなかった。彼らはその教えを待たなかった。モーセを通して語られたのに、その御言葉に耳を傾けなかった。彼らは神に伺うことなく決心し、呼び求めることなく要求した。彼らはただちにカナンに行きたがり、神の時を待つ忍耐がなかった。遅れは耐え難く、それゆえ困難は乗り越えがたいものとみなされた。これは(Psa 106:24)彼らはその御言葉を信じなかった、すなわち彼らをカナンの主とされるその約束を信じなかったことによって説明される。そして(Psa 106:25)、彼らは主の御声に聞き従わなかった。彼らが待とうとしなかったその教えを、モーセとアロンだけでなく、カレブとヨシュアを通しても(Num 14:6,7等)与えられたのに、聞き従わなかった。神の教えを待たない者たちは、正当にも自分の心の欲望にゆだねられ、自分のはかりごとに歩むことになる。
II. 彼らの多くの罪がここに言及されており、それらの罪のゆえに彼らが陥った神の不快感のしるしも共に言及される。
1. 彼らは肉を欲したが、神がそれを与えられると信じようとしなかった(Psa 106:14)。彼らは欲望を欲望として(原文の言葉)荒野でいだいた。そこは彼らが十分なパンを持てる場所であったのに、肉を食べなければならなかった。彼らは今や完全に神の養いに頼り、奇跡的に支えられていたので、これは彼らの創造主の知恵と慈しみに対する非難であった。彼らはまた、おそらくカナンの入口の近くにいたのに、そこに着くまでの美味な物を待つ忍耐がなかった。彼らは自分たちの羊の群れや牛の群れを持っていたが、それを殺そうとしなかった。神がパンを与えられたように肉を与えなければ、彼らは決して神を信じず、良き言葉をしなかった。彼らは単に肉を望んだだけでなく、強く欲望をいだいた。律法にかなうものに対する欲望であっても、それが度を越し、激しいときには罪となる。それゆえこれは悪いものを欲することと呼ばれる(1Co 10:6)。うずらは神の賜物として良いものであり、Psa 105:40でそのように語られたのに。しかし、これだけではなかった。彼らは荒野で神を試みた。そこは神の慈しみと力をこれほど多く経験した場所であったのに、神がこの点で彼らを満足させることができるか、またそうするかを疑った。Psa 78:19,20を見よ。では神はこれに対してどのように不快感を示されたか。私たちは(Psa 106:15)でその方法を聞く。主は彼らの求めたものを与えられたが、怒りとのろいと共に与えられた。彼らのたましいにやせ衰えを送られたからである。彼は彼らに心の不安と良心の恐怖、そして過食によるからだの病から生じる自己非難で満たされた。それは時に酔っ払いが大酒盛りの後に経験するようなものであった。あるいはこれは(Num 11:33)で読むように、肉がなお彼らの歯の間にある間に主が彼らを打たれた大きな疫病を意味する。それはいのちの衰えであった。注意せよ。(1.) 激情で求めるものはしばしば怒りで与えられる。(2.) 毎日美味な物を食べ、からだが健康で太っている多くの人々が、同時にそのたましいにはやせ衰えがあり、神への愛もなく、感謝もなく、いのちのパンに対する渇きもなく、それゆえたましいは弱るしかない。自分のからだをもてなし、たましいを飢えさせる者たちは、惨めにも自分を忘れている。その時こそ神はこのいのちの良いものを愛をもって与え、それらと共に、それらを用いて神に栄光を帰する恵みを与えられる。その時こそたましいは豊かなことで楽しむからである、Isa 55:2。
2. 彼らは神が教会と国の両方において彼らの上に立てられた支配に反抗した(Psa 106:16)。彼らは宿営でモーセをねたんだ。イスラエルの軍勢の総司令官として、またすべての法廷の最高裁判官としての彼の権威をねたんだ。彼らは主の聖なる者、大祭司の職務に聖別されたアロンの権力をねたんだ。コラは大祭司の職を求め、ヤコブの長子ルベン族の君たちであるダタンとアビラムは、かくも称賛される長子権によって最高の行政官となろうとした。注意せよ。神が誉れを与えられた者たちをねたみ、決して意図されなかった尊厳を簒奪する者たちは、自分自身のために滅びを準備している。そして主の聖徒たちのうちの誰かを侮る者たちには、正当にも侮りが注がれる。神はこれに対してどのように不快感を示されたか。私たちはその方法を聞き、それが私たちを震えさせるのに十分である(Psa 106:17,18)。私たちはNum 16:32,35の物語を知っている。(1.) 世俗の権威に逆らった者たちは地によって罰せられた。地は裂けて彼らを飲み込んだ。神の支配に服さなかったので、神の地の上を歩く資格がなかったからである。(2.) 神に関する事において教会の権威を簒奪しようとした者たちは天の復讐を受けた。主から火が出て彼らを焼き尽くしたからであり、いけにえをささげようとした者たちは自ら神的な正義のいけにえとされた。炎は悪者たちを焼き尽くした。彼らは聖さにおいて主の聖なる者アロンに競ったのに(Num 16:3,5)、神は彼らを悪者と宣告し、そのように彼らを断ち切られた。定まった時に、神は罪の人、その悪者を、その聖さへの誇り高い主張にもかかわらず、滅ぼされる。
3. 彼らは金の子牛を造り、それを拝んだ。しかも律法が与えられたホレブで。そこで神は明確に言われた。あなたはいかなる刻んだ像も造ってはならず、それにひれ伏してはならない。彼らは両方を行った。彼らは子牛を造り、それを拝んだ、Psa 106:19。
(1.) ここにおいて彼らは、神が道徳の世界を治めるために造られた二つの大いなる光に逆らい、それに侮辱を与えた。[1.] 人間の理性の光。彼らは彼らの栄光、すなわち彼らの神、少なくともその現れを、常に雲の中に(暗い雲であれ明るい雲であれ)何ら目に見える像なしにあったものを、草を食う牛の像、エジプトの偶像アピスの像に変えたからである。これより馬鹿げて恥ずべきことはあり得ない、Psa 106:20。偶像礼拝者たちは完全に心が迷い、神を獣の像によって表し、そうしたときにそれを礼拝することによって、神にも自分たちにも可能な限り最大の不名誉をもたらす。ここで彼らの栄光を変えたと言われていることは、パウロによって(Rom 1:23)朽ちることのない神の栄光を変えることとして説明される。[2.] 神の啓示の光。これは彼らに語られた神の御言葉だけでなく、彼らのために行われたわざ、奇しいわざを通しても与えられた。それは主なる神だけが唯一の真の生ける神であり、ただお一人だけが礼拝されるべきであることを力強く宣言していた、Psa 106:21,22。
(2.) これに対して神は、彼らが(彼らの力の及ぶ限りにおいて)神が神であることを断ち切ったかのように、彼らを民であることを断ち切るという勅令を宣言することによって、不快感を示された。主は彼らを滅ぼすことを語られた(Psa 106:23)。もしモーセ、その選ばれた者が、滅ぼそうとする破れ口に立って(Psa 106:23)、時宜を得て介入し、神が彼らを滅ぼそうとしていた破壊、すなわち滅亡について弁護者として神と取り扱い、驚くべきことにその怒りを返さなかったなら、確かに神はそうされたであろう。ここに神のあわれみと、反抗する民からでさえ、その怒りがいかに容易く返されるかを見よ。祈りの力と、神の選ばれた者たちが天に持つ影響力を見よ。キリストの型、神の選ばれた者、その選ばれた者、そのたましいの喜ぶ者を見よ。彼は反抗する世に対する神の怒りを返すために、破れ口に立って常に生きており、この目的のためにとりなしておられる。
4. 彼らは神の約束に反して、カナンの地に関する悪い探し手たちの報告を信じた(Psa 106:24)。彼らは麗しい地を忌み嫌った。カナンは麗しい地であった、Deu 8:7。彼らは、神ご自身の導きの下でも冒険する価値がないと思ったとき、それを過小評価した。それゆえ彼らはかしらを立てて再びエジプトに帰ろうとした。彼らはそれに関する神の御言葉を信じず、天幕でつぶやき、彼らをそこに連れて行ってカナン人のえじきにしようとする神の計画を卑劣に非難した、Num 14:2,3。そして神の力と約束を思い起こさせられたとき、彼らはその主の御声に聞き従うどころか、彼らに語った者たちを石で打とうとした、Num 14:10。天のカナンは麗しい地である。そこにはいる約束が私たちに残されている。しかし、それを忌み嫌い、その提案を無視し拒み、この世の富と快楽をそれより優先し、それを得るためのこの世の労苦と危険を惜しむ者が多くいる。これもまた神を大いに不快にし、主は脅しの様式で彼らに向かって手を上げられ、荒野で彼らを滅ぼすために誓われた。いや、主は怒りのうちに彼らがその安息にはいらないと誓われた、Psa 95:11, Num 14:28。いや、さらに主は彼らの子どもたちも倒して散らす(Psa 106:26,27)と脅し、国民全体が散らされ、相続地を奪われると言われた。しかしモーセは彼らの子孫のためのあわれみのためにとりなして、彼らがカナンにはいれるようにした。注意せよ。神の恵み、特に麗しい地を忌み嫌う者たちは、その恵みを失い、麗しい地からとこしえに締め出される。
5. 彼らはペオルの事において大きな罪を犯した。これは彼らがカナンの入口に達したとき、新しい世代の罪であった(Psa 106:28)。彼らはバアル・ペオルにつき、偶像礼拝と姦淫の両方、肉体的姦淫と霊的な淫行の両方に絡んだ、Num 25:1-3。生ける神の祭壇にしばしばあずかった者たちが、今やモアブの偶像(死んだ像、あるいは聖徒とされた、神格化された死者)にささげられた死んだ者にささげた供え物を食べた。あるいは死んだ友のために地獄の神々に供え物をささげた。このように彼らはその発明をもって神を怒らせた(Psa 106:29)。神と神の制度、神の命令、神の警告を軽蔑して。ペオルの不義はあまりにも大きく、はるか後に、彼らはそれから清められなかったと記されている、Jos 22:17。神はこれに対して次のように不快感を示された。(1.) 彼らのうちに疫病を送り、短い時間のうちに24,000人の厚かましい罪人たちを一掃した。(2.) ピネハスを奮い立たせ、罪の抑制とその伝染の阻止のために裁判官としての権力を用いさせた。彼は万軍の主への熱心さをもって立ち上がり、シムリとコズビ、第一級の罪人たち、上品な罪人たちにさばきを行った。彼は彼らに法律を執行し、これは神に非常に喜ばれる奉仕であったため、疫病は止んだ、Psa 106:30。これと、その時の他の同様の公の正義の行使(Num 25:4,5)によって、罪責は国民的なものではなくなり、一般的な論争は下された。正当な役人たちがその義務を果たしたとき、神はそれを彼らにゆだね、もはや疫病によってご自身の手でそのわざを行われなかった。注意せよ。国民的な正義は国民的なさばきを防ぐ。しかしピネハスがこの事において自らを特に示したので、彼のなしたことは代々、とこしえまでも彼に義とみなされ(Psa 106:31)、その報いとして祭司職が彼の家系に引き継がれた。彼はいけにえをささげることによって贖いをするであろう。罪人たちをささげることによって(ある者たちがPsa 106:30をこう読む)あのように勇敢に贖いをした者である。注意せよ。罪に対する熱心さは聖徒たちの誉れである。
6. 彼らは荒野の流浪の最後までつぶやき続けた。第四十年に彼らが争いの水で神を怒らせたからである(Psa 106:32)。これはNum 20:3-5の物語を指す。これをさらに悪化させたのは、モーセが彼らのゆえにわざわいを受けたことである。地上のすべての人の中で最も柔和であったのに、彼らのその時の不平はとても気難しく、反抗的であったため、彼を激怒させ、非常に年老いて油断していた彼がそのくちびるで軽はずみに語った(Psa 106:33)。その場面にふさわしくないことを語った。彼は激して言った。さあ聞け、そむく者たちよ。私たちがこの岩からあなたがたのために水を出そうか。これはモーセの弱さであり、私たちが教訓を得るために書かれたものである。私たちが挑発のただ中にいるとき、口に口輪をはめ(Psa 39:1-3)、自分の霊を警戒して、怒りをあまり受け入れないように学ばなければならない。霊が挑発されると、知恵と恵みが豊かな者たちでさえ軽はずみに語らないことが非常に難しいからである。しかしこれは民の罪として彼らに帰される。彼らが彼の霊を怒らせた。すなわち、神ご自身を怒らせたのと同じものでモーセの霊を刺激した。注意せよ。私たちは自分自身の激情だけでなく、それによって他の人々、特に大いに挑発されなければ柔和で穏やかであったはずの人々の激情を刺激したことについても答えなければならない。神はモーセとアロンをこの機会の不行跡のゆえにカナンから締め出すことによって、彼らのこの罪に対する不快感を示された。これによって、(1.) 神は最も愛するしもべたちのそのような節度のない激情でさえも不快に思われることを示された。もし神が一つの軽はずみな言葉のゆえにモーセをこれほど厳しく扱われるなら、これほど多くの高慢な悪い言葉を語った者たちの罪はいかほどであろうか。もし青い木においてこれがなされるなら、枯れた木において何がなされるであろうか。(2.) 神は彼らが最も必要とする時にモーセの導きと支配という祝福を彼らから奪われた。それゆえ彼の死は彼自身よりも彼らにとってより大きな罰であった。私たちが祝福となる関係にある人々に気難しく反抗的であり、その霊を悲しませるとき、神が彼らを私たちから取り去られるのは正当である。
Psalms 106章 34-48 Matthew Henry's Complete Commentary
³⁴ 彼らは主が彼らに命じられた国々を滅ぼし尽くさず、
³⁵ むしろ諸国の民と交じり合い、そのわざを学んだ。
³⁶ 彼らはその偶像に仕えた。それは彼らにとってわなとなった。
³⁷ まことに、彼らはその息子、娘を悪霊にいけにえとしてささげ、
³⁸ 罪のない血、すなわちその息子、娘の血を流した。彼らをカナンの偶像にささげたので、その地は血で汚された。
³⁹ このように、彼らは自分のわざによって汚れ、自分の発明によって淫行を行った。
⁴⁰ それゆえ、主の怒りがその民に向かって燃え上がり、主はご自分のゆずり地を忌み嫌われた。
⁴¹ 主は彼らを諸国の民の手に渡された。彼らを憎む者たちが彼らを支配した。
⁴² 彼らの敵も彼らを圧迫し、彼らはその手の下に服従させられた。
⁴³ 主は何度も彼らを救い出された。しかし、彼らはその企てによって神を怒らせ、その不義のゆえに低くされた。
⁴⁴ それでも、主は彼らの叫びを聞かれた時、その苦しみに目を留められた。
⁴⁵ 主は彼らのためにご自分の契約を思い出し、その豊かなあわれみにしたがって、思い直された。
⁴⁶ 主は彼らを捕らえ移したすべての者たちに、彼らをあわれませられた。
⁴⁷ 私たちの神、主よ。私たちを救い、諸国の民の中から私たちを集めて、あなたの聖なる御名に感謝させ、あなたの賛美のうちに勝利喜ばせてください。
⁴⁸ とこしえからとこしえまで、イスラエルの神、主をほめたたえよう。すべての民が「アーメン」と言え。主をほめたたえよ。
ここに、I. 物語はカナンでのイスラエルの行動——それは荒野での行動と同様であった——と、彼らに対する神の取り扱いについての記述をもって結ばれる。その全過程を通じて、一貫して正義とあわれみの両方が現れた。
1. 彼らは非常に神を怒らせた。カナンに定住させた奇跡とあわれみは、彼らをエジプトから連れ出した奇跡とあわれみと同じほど、彼らに深く永続的な印象を残さなかった。彼らはカナンに定住するやいなや、自分たちを堕落させ、神を見捨てた。観察せよ。
(1.) 彼らの背教の段階。[1.] 彼らは神が滅ぼすよう定めた国々を惜しんだ(Psa 106:34)。彼らは神が約束された良い地を得た時、滅ぼし尽くせと命じられた邪悪な住民に対して何の熱心も持たず、あわれみを装った。しかし神はあわれみ深いので、誰も神よりもあわれみ深い必要はない。[2.] 彼らを惜しんだ時、それにもかかわらず、彼らはそれらの者と危険な親密さを結ばないと自分に約束した。しかし罪の道は下り坂である。怠慢は犯行への道を開く。彼らが諸国の民を滅ぼし尽くさなかった時、次に聞くのは、彼らが諸国の民と交じり合い、彼らと同盟を結び、親密さを縮め、そのわざを学んだということである(Psa 106:35)。腐ったものは健全なものを直したり健全にしたりするよりも速く腐らせる。[3.] 彼らが諸国の民と交じり合い、無邪気な娯楽のように見えるそのいくつかのわざを学んだ時も、彼らは決してその礼拝には加わらないと思っていた。しかし次第に彼らはそれも学んだ(Psa 106:36)。彼らはその偶像に仕えた——諸国の民が仕えたのと同じ仕方で、同じ儀式で。そしてそれは彼らにとってわなとなった。その罪はさらに多くの罪を引き寄せ、神のさばきを彼らにもたらした。彼ら自身もそれをはっきりと感じながら、どう自分を回復すればよいか分からなかった。[4.] 彼らはその中で最も害の少ないと思ったいくつかの偶像礼拝の儀式に加わった時、生きた子どもを死んだ神々にささげるという野蛮で非人間的な偶像礼拝のかどで、ついに罪を犯すことになるとは夢にも思わなかった。しかし彼らはついにそうなった(Psa 106:37,38)。これによってサタンはその礼拝者たちの上で勝利を誇り、血と虐殺で自分を喜ばせた。彼らはその息子、娘を悪霊にいけにえとしてささげた——自分自身の一部をささげ、殺人、最も不自然な殺人をその偶像礼拝に加えた。これを考えると身の毛がよだつ。彼らは罪のない血、最も罪のない血、すなわち幼子の血を流した。いや、それはその息子、娘の血であった。不従順の子らの中に働く霊の力を見よ。そしてその悪意を見よ。争いの始まりのように、偶像礼拝と迷信の始まりは水が漏れ出るようなものであり、それに身を投じる者たちがどこで止まることができると確信できる悪行はない。神が正しく彼らを邪よこしまな心に引き渡されるからである(Ro 1:28)。
(2.) 彼らの罪は、部分的には彼ら自身の罰であった。それによって、[1.] 彼らはその国に害を加えた。その地は血で汚された(Psa 106:38)。その快い地、その聖なる地は彼ら自身にとって不快なものとなり、その地の栄光として意図された神の恵みと臨在の良いしるしを受けるにふさわしくなくなった。[2.] 彼らはその良心に害を加えた(Psa 106:39)。彼らは自分の発明によって淫行を行い、そのように自分の心を堕落させ、*自分のわざによって汚れた。*これは聖なる神の目に、そしておそらく自分自身の良心の目にも忌み嫌われるものとした。
2. 神は彼らにさばきを下された。ほかに何が期待できようか。主の御名はねたみであり、主はねたむ神だからである。(1.) 神はそのことのゆえに彼らと争われた(Psa 106:40)。神は彼らに怒られた。焼き尽くす火である神の怒りがその民に燃え上がった。神は彼らから、主を知らなかった諸国の民からよりも、いっそう侮辱的で恩知らずな振る舞いを受け取られたからである。いや、神は彼らに飽き飽きされた。主はご自分のゆずり地を忌み嫌われた。かつて主が喜ばれたものを。しかし変化は主にではなく、彼らにあった。罪の最悪の点は、それが私たちを神に忌み嫌われるものにすることである。そして職業上神に近い者ほど、もし神に反逆するなら、いっそう忌み嫌われる。私たちのドアのところの肥料の山のように。(2.) その時、彼らの敵が彼らに襲いかかり、彼らの防衛が去ったので、容易く彼らを捕らえた(Psa 106:41,42)。主は彼らを諸国の民の手に渡された。ここで罰が罪にどのように符合するかを観察せよ。彼らは諸国の民と交じり合い、そのわざを学んだ。彼らは進んで彼らから罪の感染を受け入れた。それゆえ神が彼らを懲らしめる器として諸国の民を用いられるのは正当であった。罪人はしばしば、自分を堕落させた者たちによって滅ぼされるのを見る。誘惑者であるサタンは、苦しめる者となるであろう。諸国の民は彼らを憎んだ。背教者は神の側の愛をすべて失い、サタンの側の愛は得ない。そして彼らを憎む者たちが彼らを支配し、彼らがその手の下に服従させられた時、彼らを圧迫し厳しく支配したのは驚くべきことではない。このように神は彼らに神の奉仕と諸国の王たちの奉仕の違いを知らせた(2Ch 12:8)。(3.) 神が彼らにいくらかの救いを与えられたにもかかわらず、彼らは罪を続け、その苦難も続いた(Psa 106:43)。これは士師の時代のことである。神はしばしば救い主を起こし、彼らのために救いを行われたが、彼らは偶像礼拝に逆戻りし、その偶像礼拝的な発明であるその企てによって神を怒らせ、別の圧迫者に引き渡させた。ついに彼らはその不義のゆえに非常に低くされた。罪によって自分を貶め、悔い改めによって自分をへりくだらせようとしない者は、神のさばきによって正当に貶められ、へりくだらされ、低くされる。(4.) ついに彼らは神に叫び、神は恵みをもって彼らに立ち返られた(Psa 106:44-46)。彼らはその罪のゆえに懲らされたが、滅ぼされず、打ち倒されたが、見捨てられなかった。神は彼らのために現れた。[1.] あわれみの神として、彼らの苦情に目を留められた。その苦しみに目を留められ、苦難が彼らに臨った時、見られた(ある解釈による)。そして彼らの訴えを顧みられた。その叫びを深いあわれみをもって聞かれたからである(Ex 3:7)。そして彼らの挑発を見過ごされた。主が彼らを滅ぼすと言われ、そう言う理由があったにもかかわらず、その豊かなあわれみにしたがって思い直され、その判決を覆された。主は心を変えて人のようなものではないが、私たちをあわれみ、そのみわざを変えられる恵み深い神である。[2.] 真理の神として、彼らのためにご自分の契約を思い出され、語られたすべてのことを成就された。それゆえ彼らがどんなに悪くても、主は彼らとの関係を断たれなかった。ご自身の約束を破らないためである。[3.] 権力の神として、すべての心をその御手に持ち、意のままに向けられる方として。*主は彼らを捕らえ移した者たちにさえ、彼らをあわれませられた。*彼らを憎み、厳しく支配していた者たちにさえ。主は彼らの敵の残りの怒りを制して、彼らを完全に滅ぼし尽くさないようにされただけでなく、その石のような心にあわれみを注ぎ入れ、彼らを和らげられた。これはどんな人間の技術をもってしても、最大の雄弁の力をもってしてもなし得ないことであった。観察せよ。神は獅子を子羊に変えることができる。人の道が主を喜ばせる時、*その敵にさえ彼をあわれませ、彼と平和を結ばせる。*神があわれめば、人もあわれむであろう。Tranquillus Deus tranquillat omnia—私たちと平和である神は、すべてを平和になられる。
II. 詩篇は祈りと賛美をもって結ばれる。1. 神の民の救いの完成のための祈り。主がその民の捕囚を回復された時でさえ、主よ、私たちの捕囚を再び回復してください(Psa 126:1,4)と祈る必要があった。ここでも同様である(Psa 106:47)。*私たちの神、主よ。私たちを救い、諸国の民の中から私たちを集めてください。士師の時代に(Naomiのように、Ru 1:1)、外国に強制移住させられた多くの者がダビドの治世の初めに戻ってこなかったであろうことが想定される。サウルの時代は落胆させるものであったから、こう祈るのが時宜を得ていた。主よ、離散したイスラエル人を諸国の民の中から集めて、あなたの聖なる御名に感謝させてください。*感謝する理由と心を持たせるためだけでなく、今は追放されて主の宮の庭で行う機会を得させ、あなたの賛美のうちに勝利させてください。あざ笑って異国の地で主の歌を歌えと挑んだ者たちの上に。2. その始まりと進行に対する賛美(Psa 106:48)。*とこしえからとこしえまで、イスラエルの神、主をほめたたえよう。主はとこしえからほむべき神であり、とこしえにそうである。それゆえすべての礼拝者が主をほめたたえよう。祭司がこれを言い、そしてすべての民が「アーメン、ハレルヤ」と言え。これらすべての祈り、賛美、告白に対する彼らの喜ばしい同意のしるしとして。この規則、あるいは指針にしたがって、この詩篇(あるいは少なくともその結びの節)が歌われた時、すべての民が「アーメン」と言い、「ハレルヤ」と言って主をほめたたえたことが分かる。この二つの包括的な言葉によって、宗教的集会において、彼らの牧者たちがその口を通して神のみこころにしたがって神に捧げる祈りと賛美に加わることを証しするのは非常に適切である。祈りには「アーメン」を、賛美には「ハレルヤ」*を言いながら。
私たちは告白によって神に栄光を帰さなければならない。神の慈しみだけでなく、私たち自身の悪さをも告白することによって。両者は互いの引き立てとなる。私たちの悪さは神の慈しみをいっそう輝かしいものとし、神の慈しみは私たちの悪さをいっそう忌まわしく恥ずべきものとする。前の詩篇はイスラエルに対する神の慈しみの歴史であった。これは彼らの反逆と挑発の歴史である。しかしそれはハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる。なぜなら、罪への悲しみといえども、神を賛美する調子を外れさせてはならないからである。ある人々は、これがバビロン捕囚とそれに伴うユダヤ民族の離散の時に記されたと考える。終わりのあの祈り(詩106:47)のゆえに。しかし私はむしろ、これが前の詩篇と同時にダビデによって記されたと考える。なぜなら、私たちは第一節と最後の二節を、ダビデが箱を彼の用意した場所に運び上った時にアサフに渡した詩篇の中に見いだすからである(詩106:1,47,48、代上16:34-36)。「もろもろの国の中から私たちを集めてください」と。というのも、サウルの時代にダビデがさまよわなければならなかった時、敬虔なイスラエル人の大いなる離散があったと想定できるからである。この詩篇において私たちは次のものを持つ。一、物語への序文。神に栄誉を帰し(詩106:1,2)、聖徒に慰めを与え(詩106:3)、神の恵みへの忠実な者の願いを語る(詩106:4,5)。二、イスラエルの罪の物語そのもの。神が彼らのためにされた大いなるわざによって重くされるが、その記述は混ざっている。葦の海での挑発(詩106:6-12)、貪り(詩106:13-15)、反乱(詩106:16-18)、金の子牛の礼拝(詩106:19-23)、つぶやき(詩106:24-27)、バアル・ペオルへの結びつき(詩106:28-31)、モーセとの争い(詩106:32,33)、カナンの国々との同化(詩106:34-39)。これには、神が彼らの罪のゆえに彼らを責められたが、それでも破滅から彼らを救われたことの記述が付け加えられている(詩106:40-46)。三、祈りと賛美をもって詩篇を結ぶ(詩106:47,48)。この詩篇を歌うことは私たちの益になり得る。私たちの罪、私たちの国の罪、父祖たちの罪をこれによって思い起こされ、神の前にへりくだりながらも、あわれみを絶望しないように。反逆的なイスラエルでさえ神にしばしばあわれみを見いだしたのである。