Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
- 翻訳進捗
- 4,537 / 4,537
- 原文言語
- en
学習資料
複数のパブリックドメイン注解書と scripture.how の韓国語訳を、書巻と章ごとに閲覧できます。注解書を切り替えながら、訳文だけでなく原文と訳文を並べて読むこともできます。
現在の注解書
すべての注解書
23件の注解書
全項目
307,288
翻訳 81,431 件
ライセンス
出典ごとに表示
注解書ごとに原資料、著者、翻訳進捗、ライセンス情報を分けて表示します。scripture.how の韓国語訳・編集物は原文資料とは別に管理されます。
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
Robert Jamieson, A. R. Fausset, David Brown · 1871
Commentary Critical and Explanatory on the Whole Bible (1871). CCEL expanded electronic edition states it is in the public domain.
Albert Barnes · 1834
Albert Barnes' Notes on Revelation Of St. John The Divine (New Testament, English original, public domain). Sourced from the Christian Classics Ethereal Library (CCEL). Public domain. Retrieval mirror: biblehub.com/commentaries/barnes.
Adam Clarke · 1831
Public domain English commentary by Adam Clarke, normalized from Wikisource book pages for scripture.how. Public domain. Retrieval mirror: biblehub.com/commentaries/clarke.
John Gill · 1763
John Gill(1697-1771), Exposition of the Old and New Testament(1746-1763). Public domain. Retrieval mirror: biblehub.com/commentaries/gill.
John Calvin · 1850
종교개혁 신학 원천 (영역본 PD, 대부분 — 전권 아님)
Matthew Poole · 1685
간결 절별 전권 개혁주의 주석
ed. H.D.M. Spence & Joseph S. Exell · 1890
전권 강해·설교·예화 풍부 (항목 대량)
Carl F. Keil, Franz Delitzsch · 1866
구약 학술 표준 — 히브리어·문헌비평·고대근동 배경
ed. Charles J. Ellicott · 1878
학술+가독 균형 전권 주석
Cambridge (다저자) · 1900
준전권 준학술 (권별 저자·연도 확인)
Marvin R. Vincent · 1887
신약 헬라어 단어 연구
A.T. Robertson · 1933
헬라어 시제·문법 해설 결정판 (KR PD / US 1931+ 권별)
ed. W. Robertson Nicoll (다저자) · 1910
헬라어 신약 학술 (권별 저자 PD 확인 필요)
Heinrich A.W. Meyer · 1880
신약 학술 정밀주해 (독일 — K&D 대응)
John Wesley · 1755
간결 실용 전권(NT 1755 / OT 1765) 웨슬리안
Joseph Benson · 1815
웨슬리안 전권 주석
Charles H. Spurgeon · 1885
시편 주석 고전 (설교 자료 풍부)
Alexander Maclaren · 1910
설교형 강해 명저 (전권, 절별 가공 필요)
B.W. Johnson · 1891
평이 절별 신약 해설 (일반신자·모바일)
Thomas Coke · 1803
감리교 전권 주석
John Trapp · 1660
청교도 전권 주석 — Henry/Gill 보완
Charles Hodge · 1860
프린스턴 조직신학 관점 신약 정밀 주석 (롬·고전후·엡)
第1節 「詩篇の作者」。この詩篇は、標題においても、また詩篇の中で占めている位置においても、ダビデに帰されている。この帰属を疑わしいものとする要素は詩篇の中に何もなく、実際、その構造は通常ダビデに帰される詩篇とあまりにも一致しているので、その作者が誰であるかについて疑いの余地を残さない。
第2節 「作られた機会」。これについては、標題にも詩篇自体にも示唆がない。ダビデの生涯の出来事のいずれかへの特別な言及はないが、考えやイメージの一部は、明らかにサウルの迫害やアブシャロムの反乱において起こったことの回想から思い起こされたものである。実際、ダビデの生涯のさまざまな機会が、この詩篇の成立をもたらしたものとして挙げられてきた。ヴェネマ(Venema)は、これがダビデがジフの荒野にいた時、すなわち荒野の住民に裏切られ、サウルに追われて、友人たちが逃亡によって安全な場所を求めるよう彼に勧め始めた時に作られたと考える 1 Samuel 23:14-23。ヴェネマによれば、これが、私たちの事柄が絶望的に見えるときにも絶望してはならず、なお神に信頼を置くべきであるという心情――これがこの詩篇の主要な心情である――を彼が表現する機会となった。他の者たちは、この詩篇が彼がアドゥラムの洞窟にいて、サウルの迫害により命の危険に瀕していた時に作られたと考える 1 Samuel 22。よりもっともらしい意見はアミラルドゥス(Amyraldus)のものであり、彼は、これがダビデがサウルの宮廷にいて、危険な場所である宮廷を離れて安全な場所へ逃れるよう勧められたであろう時に作られたと考える。しかし、この詩篇がこれらの機会のいずれにおいて作られたのか、もしいずれかにおいて作られたのだとしても、確実に決定することはできない。詩篇自体に明らかなのはただ、作者が危険の中にあり、友人の何人かが逃亡によって安全を求めるよう彼に勧めた時であったということである Psalm 11:1。その代わりにダビデは、その場にとどまり、神が介入して自分を救い出してくださるとの確信をもって、神に信頼を置くことを決めたのである。
第3節 「詩篇の内容」。この詩篇は、次の二つの部分に分けられると正当にみなすことができる。
I. 作者が置かれていた危険の状況の中で、臆病で恐れる友人たちの何人かが、彼に逃げて、飛んで安全を求めるよう勧めたこと Psalm 11:1-3。彼らは、鳥のように山へ逃げよと彼に勧める。すなわち、できるうちに安全な場所へ逃げるということである。彼は敵に囲まれていたと思われるからである。彼らがこの勧めを強めるために用いた論拠は Psalm 11:2-3 で言及されていると思われ、次のようなものである。
(a) 悪者たちが彼を滅ぼす準備をしていたこと。彼らの弓と矢は構えられていたからである Psalm 11:2。また
(b) 事態が、まさに土台そのものが破壊されたかのようであり、拠り頼むものが何もなく、現在の状況にある彼のすべての望みは一掃されてしまうだろうこと Psalm 11:3。
これらの状況の中で、彼らの見方では、安全に対する彼の望みはすべて逃亡にあった。
II. これに応答して、この問題について詩篇の作者が抱いていた見解 Psalm 11:4-7。彼は神に対して揺るがない確信を持っており、絶望しなかった。彼は神が自分を守ってくださると信じ、これを許された神の目的が義人を試すことであり、定めの時に神が進み出て、神を敬わない者たちの上にわな、火、硫黄を降らせられると信じていた。このように示された心の状態は、試すような状況における堅固さ、物事が最も不利に見えるときの神に対する揺るがない確信、そして神を信頼する者たちを神が定めの時に救い出してくださるという確かな信仰である。それは臆病な者たちの勧めに対して堅固さを示すことであり、恐れる者たちと信じない者たちが絶望するときの、神への揺るがぬ信頼のことばである。
標題の意味については、Psalm 5:1-12 の注解を参照せよ。
David's friends advise him to flee to the wilderness from Saul's fury, Psalm 11:1-3. He answers that, having put his trust in God, knowing that he forsakes not those who confide in him, and that he will punish the ungodly, he is perfectly satisfied that he shall be in safety, Psalm 11:4-7.
The inscription is, To the chief Musician, A psalm of David. By the chief musician we may understand the master-singer; the leader of the band; the person who directed the choir: but we know that the word has been translated, To the Conqueror; and some deep and mystical senses have been attributed to it, with which I believe the text has nothing to do.
INTRODUCTION TO Psalm 11
To the chief Musician, A Psalm of David.
This psalm has no name; it is neither called a psalm, nor hymn, nor song, nor prayer, only said to be David's; and is inscribed and directed as others to the chief musician, or master of the song, to be used in public service; and seems to be written much upon the same subject with the two preceding psalms. According to Theodoret it was written when David was persecuted by Saul, and was advised by some to flee for his safety.
XI.
The tradition assigning this psalm to David is accepted by some of the greatest of modern scholars, but it is difficult to assign it to any known period of his history. Both in his troubles under Saul and in the rebellion of Absalom, he adopted the flight which this poet scorns as unworthy of one whose conscience is clear, and whose faith in Jehovah is sure; and yet the tone of the psalm is too personal to allow it to be taken as merely representative of a type of character, though it certainly stands as a rebuke for ever to those pusillanimous friends who are always ready to counsel flight or compromise, even when the very principles of right and wrong are at stake.
The poetical form is irregular.
The Psalmist’s situation is desperate. His life is in peril. Fainthearted friends counsel flight. Wickedness is in the ascendant and irresistible. Indignantly he repudiates their suggestion. Jehovah is his protector. It would be the act of unbelief as well as cowardice to seek any other refuge. Triumphantly he proclaims his faith that Jehovah is the righteous Governor of the world, Who will destroy the wicked and welcome the righteous into His Presence.
The points of connexion between this Psalm and Psalms 5, 7, 10, 17, should be studied. If they are David’s, so may this be. It is strikingly appropriate to the circumstances of his life at the court of Saul, and to this period it should be referred, rather than to the time when Absalom’s conspiracy was hatching. David was in a position of responsibility (1 Samuel 18:13; 1 Samuel 18:16; 1 Samuel 18:30) which he could not abandon without clear indication that it was his duty to do so; the jealousy of the mad king grew daily, until at last he plainly expressed his wish to be rid of David (1 Samuel 19:1). Doubtless many of his rivals at the court were ready enough to take his life; but so popular a leader could not be openly murdered. They must wait for an opportunity of despatching him secretly. Meanwhile his friends advised him to secure his safety by flight, and argued that it was hopeless to continue an unequal struggle, when right was subverted by the action of the central authority of the state. But the time for flight had not come, and conscious of his rectitude, David resolves to face the danger in confident assurance that Jehovah will protect him.
The Psalm consists of two equal stanzas of three verses each, with a concluding verse.
i. The suggestions of faint-hearted friends (Psalm 11:1-3).
ii. The true ground of confidence (Psalm 11:4-6).
iii. The outlook of faith (Psalm 11:7).
Ps 11:1-7.
銘句については、緒言を参照せよ。
彼の歴史のある出来事、
1Sa 23:13
のように、すべてに言及しつつ、詩篇者は神への信頼を公言する。彼は激しく迫る迫害者から逃げるよう警告された時、通常の安全の基盤を破壊する彼らの破壊が、彼のすべての努力を無駄にした。彼の信頼の根拠は、神の至高の主権、ご自身の民への見守る配慮、悪者への憎しみとその裁き、義と義人への愛である。
1. わたしのたましい―わたし
(Ps 3:2)。
逃げよ―文字通り「逃げよ(複数)」。すなわち、彼とその同伴者。
鳥のように山へ―そのような者として、逃げることにしか安全がない(比較せよ、
1Sa 26:20; La 3:52)。
私は主に信頼を置く――これは概して、作者の心の状態を表しており、その感情の状態は詩篇全体を貫いている。これは、彼が逃れるようにと他の人々が彼に与えていた忠告に対する答えとして意図されたものであり、彼がそのときも、また常に、神に信頼を置くと決心していたことを暗示している。彼らは彼に逃げるように勧めた。当時の状況において、彼はそれが神への信頼の欠如を暗示することになると感じた。それゆえ彼は、今の自分の立場を維持し、しかるべきときにおける神の介入に頼ることを決心したのである。
なぜあなたがたは私のたましいに言うのか――すなわち、「私」に言う、ということである。たましいは本人の身代わりとして用いられている。「なぜ」あなたがたは私にこのように言うのか。あたかも私が危険から逃げ出し、神には全く信頼を置かないかのように、どうしてそのような忠告を私に与えられるのか。彼は、そのような逃亡の行為が、彼の敵たちによって、また宗教の敵たちによって、彼が神に対する信仰も信頼も持っていない証拠として解釈されただろうと考えていたように思われる。このような状況は世の中にしばしば起こる。そして、それがある人の行動についての「公正な」「自然な」解釈となるような場合には、義務の道は明らかである。私たちは今いる場所にとどまるべきであり、大胆に危険に立ち向かい、この問題全体を神にゆだねるべきなのである。
鳥のように山へ逃げよ――これは、彼が当時いた場所にはもはや安全がなかったと考えられていたことを暗示している。ここで複数形――「逃げよ(あなたがた)」――が用いられていることは、ヘブルの著作では珍しくない変化であるが、そのような状況にある人々全体を指すことを意図したものであるように思われる。心は彼自身の特定の事例から、同じ状況にある他の人々の事例へと向けられる。そしてこの表現は、これがそのような人々に与えられるいつもの忠告であったこと、また、彼らが今この特定の事例において逃亡を勧めたのと同じ原則に基づいて、すべての同様の事例においても逃亡を勧めるであろうことを暗示することを意図しているのかもしれない。すなわち、彼らは、人々が迫害によって命の危険にさらされているとき、安全な場所へ逃げるように忠告するであろう、ということである。これは世間で一般的な忠告であり、人間的な慎重さから出る通常の教えである。パレスチナの山々は安全な場所とみなされ、危険にさらされている人々の普通の避難所であった。それらの洞穴や要害や高台において、危険にある人々は安全を見出した。そこでは身を隠すことができ、また平野や谷においてよりも容易に自分を守ることができたからである。それゆえ、山々は迫害された人々のためだけでなく、追いはぎや山賊たちの退避場所ともなった。ここでの鳥への言及は、鳥が山に避難所を求めたということ、また彼がその点で鳥に似た者となるべきであるということを暗示するのではない。むしろ、比較の要点は、この避難所がどれほど速やかに求められなければならないかという点にある。「鳥が危険から飛び去るのと同じほど速やかに山へ逃げよ」。Matthew 24:16、Judges 6:2、Hebrews 11:38 を比較せよ。
この詩篇には、危難の時に神を不信じ、自らの安全のために間接的な手段に頼ろうとする強い試みに対する、ダビデの闘いと勝利が記されている。サウルのねたみが彼に及ぶようになったこと、そして槍が一度ならず彼に投げつけられたことを彼が感じ始めた時に記されたと推測される。その時彼は国外へ逃れるよう勧められた。「いや」と彼は言う、「私は神に信頼する。だから自分の持ち場を守ろう」。観察せよ。一、彼がどのように試みを描き出し、おそらくはそれと対話しているか(詩11:1-3)。二、彼がどのようにそれに答え、神の主権と摂理(詩11:4)、神が義人に寄せる好意、そして悪人のために備えられている怒り(詩11:5-7)についての考察によって、それを黙らせているか。教会の敵どもの侮辱が大胆で脅威となるような、公の恐れの時には、この詩篇を黙想することは有益である。