Barnes' Notes on the Bible
Albert Barnes · 1834
Albert Barnes' Notes on Revelation Of St. John The Divine (New Testament, English original, public domain). Sourced from the Christian Classics Ethereal Library (CCEL). Public domain. Retrieval mirror: biblehub.com/commentaries/barnes.
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この詩篇はダビデに帰されている。原語の標題 לדוד ledâvid ――「ダビデによる」あるいは「ダビデの」――には、それが作られた機会を示すものも、他の詩篇と区別してこの詩篇の性格を示すものもない。詩篇の標題には、Psalm 3:1-8; Psalm 7; Psalm 18; Psalm 30:1-12; Psalm 34 にあるように、詩篇が作られた状況への特別な言及があることもあれば、また、はるかに頻繁には、Psalm 4:1-8; Psalm 5:1-12; Psalm 6:1-10; Psalm 9; Psalm 16:1-11; Psalm 22 にあるように、それ自体の性質において、あるいは音楽への適合性において、詩篇の性格を区別する何かが標題に付け加えられている。しかしこの場合、これらの点のいずれについての情報を提供するものは標題には何もない。
詩篇自体の中にも、それが書かれた機会をいかなる正確さをもって決定することを可能にするものはない。ある人々はこれをサウルによるダビデへの迫害の時に、他の人々はアヒトフェルあるいはシメイからの反対、あるいはメフィボシェテの忘恩 2 Samuel 16:3 に、また他の人々はアブシャロムの反乱に結び付け、さらに他の人々は、メシアに起こるであろうことを預言的に描写するものとしてメシアに結び付けてきた。この詩篇は前者の想定のいずれの上でも理性的に解釈し得るが、それがメシアへの何らかの直接的な言及を持っていたという証拠はない。新約聖書の中で、その一部がキリストに適用されていると主張され得る唯一の場所は John 15:25 であり、そこでは「しかし、これは、『彼らは理由なくして私を憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するために起こったのである」と言われている。この詩篇がメシアを指すと考える人々は、これは Psalm 35:19 からの引用であると言う。しかしこれについては、次のように述べることができる。
(a) その節における詩篇の言葉は、ヨハネで用いられている言葉と異なっていること。前者の言葉は「理由なくして私を憎む者たちが、その目で目くじらを立てることがないように」であり、また
(b) ヨハネの言葉は Psalm 69:4 「理由なくして私を憎む者たち」などのほうがはるかに文字通りの引用であり、その詩篇は疑いなくメシアへの言及を持っていること。
デウェッテ(DeWette)は、この詩篇は本来ダビデに帰されるべきではないと考え、それはダビデに「ふさわしくない」と述べる。彼は、それがダビデの死後、劣った詩人によって作られたと考える。しかし彼は、彼自身の感情から引き出されるもの――「私の感情によれば」(nach meinem Gefuhle)――以外には、この意見の理由を何も提供していない。とはいえ、この詩篇が作られた時と機会は重要なことではない。それが上述の機会のいずれにも当てはまるのと同様に、個人の歴史に生じる無数の機会にも当てはまるからであり、それゆえそれは、教会において常に有用であり得るほどに一般的な性格を持つ。
この詩篇に明らかなこと――中心的な考え、そしてそれをこれほど有用にしているもの――は、それが、公には彼の友人であった者たちから、すなわち彼がその苦難の中で親切を示した者たち、彼にとって友人であり兄弟であったが今や彼に敵対して向き直った者たちから作者が受けた扱いに関して作られたということである。繁栄の時には、彼らは公には彼の友人であり、彼の惜しみない寛大なもてなしにあずかっていた。彼らが苦しめられたとき、彼は彼らに同情と親切を示した。しかし逆転が彼の上に臨んだとき、彼らは彼を見捨て、彼の中傷者、迫害者、告発者たちに加わった。それゆえこの詩篇は、その性質の試練に特別な適用可能性を持つ。それは、このような忘恩から湧き出る彼自身の悲しみに関する作者の感情と見解、そして彼のために神が介入してくださるようにとの神への切なる祈り――傷つき虐げられた彼の心の悲しみを、変わることのない友、力強くあわれみ深い神の御腕の上に委ねること――を表している。この詩篇で言及されているような機会はこの世界でしばしば起こるので、霊感の書の中に、敬虔がこのような形の試練にどう向き合うべきかの「模範」が提供されることが重要であった。
この詩篇は次の部分から成る。
I. 祈り Psalm 35:1-10。これは、
(a) 神の介入を求める切なる訴え Psalm 35:1-3。
(b) 敵たちに対する神の復讐の荘厳な祈願、すなわち彼らがその犯罪に対する正当な報いを神の手から受けるようにとの祈り Psalm 35:4-8。
(c) 神のうちに勝利を得る、すなわち神の介入について神に賛美を帰するという、彼の確固とした目的の表明 Psalm 35:9-10。
である。
II. 敵たちの性格と行いの描写 Psalm 35:11-16。彼らは、
(a) 彼に対する偽りの証人、すなわち中傷者であり Psalm 35:11、
(b) 善に代えて悪を彼に報いた、すなわち卑しい忘恩を犯していた Psalm 35:12。
(c) 彼らの苦難の中で、彼は彼らにとって兄弟のようであった Psalm 35:13-14。しかし
(d) 彼らは彼の逆境の中でこれらすべてを忘れ、卑しく捨てられた者たち、すなわち酒宴を張る者たちや酔いどれたちと結び、彼の名に侮りを注ぎ、彼の人格を非難することに加わった Psalm 35:15-16。
III. これらの状況を見て、介入して彼を救い出し、中傷され傷つけられた者たちの守護者であり友であられることを神が示してくださるようにとの、神への切なる訴え Psalm 35:17-28。この訴えは、次のような論拠に基づく。
(a) 神が今、見ていながら、義なる大義、すなわち虐げられ不正を加えられた者の大義に何の関心も持たれていないように見えること Psalm 35:17。
(b) 神の介入が、詩篇作者に神に賛美を帰させることになること Psalm 35:18。
(c) 彼をこれほど傷つけ不正を加えた者たちが、神の恵みを享受しているように見え、安らいでいること Psalm 35:19-20。
(d) 神がこれらすべてをご覧になり、今なお見ておられ、彼のために介入されることが神にふさわしいことであること Psalm 35:21-23。
(e) 神が悪者に義人への勝利を許したままにすること、あるいは義人を飲み込んだかのように彼らが勝ち誇るのを許すことが、神にふさわしくないことであること Psalm 35:24-26。また
(f) 神の統治の下で、真に義なる者たちが、神を喜び、神にふさわしい賛美を帰することができるような、神の恵みと守りのしるしを受けることが望ましいことであること Psalm 35:27-28。