Matthew Henry's Complete Commentary
Matthew Henry · 1714
Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.
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ダビデの詩篇。
¹ 悪を行う者をねたむな。不義を行う者を羨むな。 ² 彼らはやがて草のように刈り込まれ、青い草本のようにしおれるからである。 ³ 主に信頼し、善を行え。そうすればあなたは地に住み、誠実に養われる。 ⁴ 主によって喜べ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 ⁵ あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主はそれを成し遂げられる。 ⁶ 主はあなたの義を光のように、あなたの公正を真昼のように輝かされる。
ここに与えられた教えは非常に平易である。その説明のために多くを語る必要はない。しかし、それらを実践に移すために多くのことがなされなければならず、そこでそれらは最も良く見えるであろう。
一、ここで私たちは、悪を行う者の繁栄と成功に対する不満に対して戒められている(詩37:1-2)。「ねたむな。羨むな。」ダビデはまず自分自身にこれを語り、自分の心に説教したと想定できる(寝床の上でそれと交わるとき)。そこで働いている腐敗した情熱を抑えるために。そしてそれを書き残し、同様の誘惑にあるかもしれない他の人々への教えとした。自分自身にまず語られたものが、他の人々に最も良く、最も成功の見込みをもって語られるのである。さて、1. 外を見ると、私たちは世界が悪を行う者と不義を行う者で満ちているのを見る。彼らは繁栄し、成功する。望むものを持ち、望むことを行う。自らは安楽と豪華さの中に生き、周りの者に害を行う力を手にしている者たち。ダビデの時代にもそうであった。それゆえ、もし今もそうであっても、それを新しいことや奇妙なことであるかのように驚いてはならない。2. 内を見ると、私たちはこれにいらだち、これらの地の恥辱と重荷、傷や公衆の迷惑に嫉妬する誘惑を見出す。私たちは神にいらだちがちである。まるで神が世界に、教会に不親切であるかのように。そのような者たちが生き、繁栄し、勝ち誇ることを許されることで。私たちは彼らの邪悪な企みの成功に苛立ちを覚えがちである。彼らが富を得る際に、おそらく不法な手段によって取る自由を、また彼らの欲望の放縦をねたみがちである。そして自分も良心の拘束を振り払い、同じようにできたらと願う。私たちは彼らを唯一の幸せな人々と思い、彼らを模倣し、彼らと結びついて、その利益にあずかり、そのごちそうを食べたいと傾く。そしてこれが私たちが戒められていることである。「ねたむな。羨むな。」いらだちとねたみは、それ自体が罰である罪である。それらは霊の不安であり、骨の腐敗である。それゆえ、自分自身への親切として、私たちはこれらに対して戒められているのである。しかし、それはすべてではない。3. 信仰の目をもって前を見ると、私たちは悪しき人々の繁栄をねたむ理由を見出さない。彼らの滅びは戸口にあり、彼らは急速にそれに向かって熟しているからである(詩37:2)。彼らは繁栄するが、草のように、青い草本のように。だれもねたまず、いらだたない。神に従う者の繁栄は実を結ぶ木のようである(詩1:3)が、悪者のそれは草や草本のようである。非常に短命である。(1) 彼らはやがて自らしおれる。外の繁栄は色褪せるものであり、それが結びついているいのち自体もそうである。(2) 彼らは遅かれ早かれ神の裁きによって切り倒される。彼らの勝ち誇るは短いが、彼らの嘆きと泣くことは永遠である。
二、ここで私たちは、神への信頼と満足の生活を送るよう勧められている。それは悪を行う者の繁栄にいらだつから私たちを守る。もし自分の魂のために良く行うなら、自分の魂のためにこれほど悪く行う者たちをねたむ理由をほとんど見出さないであろう。ここに三つの優れた規則があり、私たちはそれに従うべきである。そしてそれらを実行するために、三つの尊い約束があり、私たちはそれに頼ることができる。
私たちは義務の道において神を自分の望みとしなければならない。そうすればこの世で慰めとなる生計を持つであろう(詩37:3)。(1) 要求されるのは、「主に信頼し、善を行う」こと。神に信頼し、神に従うこと。宗教のいのちは、神、その恵み、その摂理、その約束、その恵みへの信仰による依拠と、神と自分の世代に御心にしたがって仕える勤勉な配慮に多くある。神に信頼してから自分の望むように生きようとしてはならない。いや、それは神に信頼するのではなく、神を試みることである。もし神に対する務めを良心にかけないなら。また、善を行ってから自分自身に、自分の義と力に信頼しようとしてはならない。いや、主に信頼し、善を行わなければならない。そして、(2) 約束されるのは、この世で良く養われること。「そうすればあなたは地に住み、誠実に養われる。」彼は「そうすれば昇進を得て、宮殿に住み、ごちそうになる」とは言わない。これは必要ではない。人のいのちはこれらのものの豊富さにはない。しかし、「あなたは住む場所を持ち、その地に、カナンに、幻の谷に住み、ふさわしい食物を持つ。」これは私たちが受けるにふさわしい以上のものである。善良な人が定めるのと同じくらい多くであり(創世記28:20)、天に向かう者にとっては十分である。「あなたは定住を得る。静かな定住と、維持。慰めとなる維持。『誠実にあなたは養われる。』」ある人々は「あなたは信仰によって養われる」と読む。義人が信仰によって生きると言われるように。そして約束に基づいて生きること、養われることは良い。「『誠実にあなたは養われる。』飢饉のときのエリヤのように、あなたに必要なものをもって。」神ご自身が、神に信頼するすべての人々の牧者、養い手である(詩23:1)。
私たちは神を自分の心の喜びとしなければならない。そうすれば自分の心の願いを持つであろう(詩37:4)。私たちは神に依存するだけでなく、神にあって慰めなければならない。神がおられること、神が啓示された通りの方であること、神が契約において私たちの神であることに満足しなければならない。神の美しさ、寛大さ、優しさにあって喜ばなければならない。私たちの魂は神に帰り、その安息、その永遠の分け前として神にあって憩わなければならない。神の恵みに満足して、私たちはそれに満足し、それを自分の並外れた喜びとしなければならない(詩43:4)。私たちは(詩37:3で)善を行うよう命じられ、続いて神にあって喜ぶよう命じられる。これは務めと同様に特権である。もし私たちが神への従順を良心にするなら、そのとき神にあって満足の慰めを取ることができる。そしてこの神にあって喜ぶという楽しい務めにも、非常に満ち足りた、尊い約束が付随する。それは最も困難な奉仕にも報いるに十分である。「主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」神は体の食欲と想像の気まぐれをすべて満たすことは約束しない。しかし、心のすべての願い、新しく聖別られた魂のすべての切望をかなえることを約束する。善良な人の心の願いとは何か。それは神を知り、愛し、神のために生きること。神を喜ばせ、神にあって喜ぶことである。
私たちは神を自分の導き手とし、すべてのことにおいて神の導きと処分に服しなければならない。そうすれば、私たちのすべての事柄、最も複雑で当惑するように見えるものさえも、良く、満足のいくように結ばれるであろう(詩37:5-6)。(1) 義務は非常に容易であり、もし正しく行えば、私たちを安らかにする。「あなたの道を主に委ねよ。あなたの道を主の上に転がせ」(欄外注はそう読む)(箴言16:3、詩55:22)。「あなたの重荷を主に投げかけよ。配慮の重荷を」(ペテロ第一5:7)。私たちはそれを自分自身から転がし落とさなければならない。未来の出来事についての思いで自分自身を悩まし、当惑させないように(マタイ6:25)。手段の考案にも終わりの期待にも煩わされず、それを神に委ね、神の賢明で善良な摂理によって、すべての関心事を神の望むように処理し、処分するに任せ。「あなたの道を主に退かせよ」(七十七訳はそう読む)。すなわち、「祈りによって、あなたの事とそれに関するすべての配慮を主の前に広げよ」(エフタが「ミヅパで主の前にすべての言葉を述べた」ように、士師11:11)。そして良い結末をもたらすために主に信頼せよ。神のなすことはすべて良しという完全な満足をもって。」私たちは自分の義務をなさなければならない(それが私たちの配慮であるべきである)。そして出来事を神に委ねよ。「静かに座して、事がどうなるかを見よ」(ルツ3:18)。私たちは摂理に従い、それを強いてはならない。無限の知恵に同意し、処方してはならない。(2) 約束は非常に甘い。[1] 一般的に、「主はそれを成し遂げられる。」あなたが主に委ねたものが何であれ。あなたの考案にではなく、あなたの満足に。「主はあなたの苦境から脱出する手段を見出し、あなたの恐れを防ぎ、あなたの目的をあなたの満足に合うように成就されるであろう。」[2] 特に、「主はあなたの評判を顧み、あなたを苦難から連れ出す。慰めだけでなく、信用と誉れをもって。『主はあなたの義を光のように、あなたの公正を真昼のように輝かされる』」(詩37:6)。すなわち、「主はあなたが正直な人であることを現される。それは十分な誉れである。」第一に、善良な人々の義と公正は、一時的に曇られ、覆われるかもしれないことが暗示される。摂理の顕著な懲らしめ(ヨブの大きな苦難は彼の義を暗くした)によって、あるいは人の悪意ある非難和中傷によって。彼らはふさわしくない悪名を与え、知らないことを彼らの負い目とする。第二に、神は時が来れば彼らの負っている非難を巻き取り、その無実を明らかにし、彼らの義を彼らの誉れのために持ち出すことが約束される。おそらくこの世で、遅くとも大いなる日に(マタイ13:43)。なお、もし私たちが良い良心を保つことに注意するなら、良い名を神に委ねることができる。
7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。悪の道に栄える者、悪いはかりごとを成し遂げる者のゆえに、心を悩ますな。
8 怒りをやめ、憤りを捨てよ。悩ますな、悪を行おうとして。
9 悪を行う者は断たれる。しかし主を待ち望む者は地を受け継ぐ。
10 なお少しの時を経て、悪者はいない。あなたはその所を注意深く見るが、彼はいない。
11 しかし柔和な者は地を受け継ぎ、豊かな平和を自ら喜びとする。
12 悪者は正しい者に計略をめぐらし、彼に向かって歯ぎしりする。
13 主は彼を笑われる。彼の日が来るのを見られるからである。
14 悪者は剣を抜き、弓を張り、貧しい者と乏しい者を倒し、直ぐに歩む者を殺そうとする。
15 しかしその剣は彼ら自身の心に入り、彼らの弓は折られる。
16 正しい人の持ち物の少しは、多くの悪者の富にまさる。
17 悪者の腕は折られる。しかし主は正しい者を支えられる。
18 主は直ぐな者の日々を知られる。彼らの嗣業はとこしえに続く。
19 彼らは災いの時にも恥じない。ききんの日にも飽き足りる。
20 しかし悪者は滅びる。主の敵はもって羊のあぶらのようになる。彼らは消えうせ、煙となって消えうせる。
これらの節には次のものがある。
一、前の規則が強調されている。なぜなら私たちは不要で実を結ばない不満と不信によって自分自身をかき乱しやすいので、それらを抑制し、それらに立ち向かう武装をするために、規則の上に規則、線の上に線が必要だからである。1. 神を信じることによって自分自身を鎮めよう。「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(詩 37:7)。すなわち、神がなされるすべてのことに良く和解し、それに従い、せよ。それが最善のことであるからであり、神が定められたことだからである。そして、私たちがどのように、どの道によってかを知らなくとも、神がなおすべてを私たちのために善となされることを確信せよ。「主に対して沈黙せよ」(ことばはそうである)、しかしかんしゃくを持った沈黙ではなく、従順な沈黙において。私たちに負わされたものを耐え忍び、私たちのためにさらに定められたものを耐え忍んで待つことは、私たちの義務であると同時に利益である。それは私たちを常に安らかにするからである。そしてそれには大いに理由がある。それは必然を徳とすることだからである。2. 私たちがこの世に見るもので自分自身をかき乱さないようにしよう。「悪の道に栄える者のゆえに、心を悩ますな」。悪い人であるにもかかわらず、世で栄え、富み、偉くなる者。いや、その力と富をもって悪事をなし、徳と善を行う者に対して悪い計略を成就させる者に対しても、彼が自分の目的を達し、彼らを打ち負かしたように見える場合でも。もしあなたの心がそれに立ち上がり始めるなら、あなたの愚かさを押さえつけ、「怒りをやめよ」(詩 37:8)。不満とねたみの最初の動きを食い止め、それによって神とその摂理についてのかたくなな思いをいだかないように。神がなされるすべてのことに怒るな。その憤りを捨てよ。それはありうる憤りのうちで最悪の種類のものである。「悪を行おうとして悩ますな」。彼らの繁栄をねたむな。あなたが彼らに同調し、彼らが自分自身を富まし前進させるために取るのと同じ悪い道、あるいは彼らと彼らの力を避けるための何らかの絶望的な道に誘われないように。次のことに注意せよ。不満に満ちたかんしゃく持ちの霊は多くの誘惑にさらされており、それにふける者は悪を行う危険にある。
二、前の理由、すなわち悪者の繁栄にもかかわらず彼らに迫る破滅、そして義者の悩みにもかかわらず彼らの真の幸福から取られた理由が、ここでは大いに広げられ、同じことが喜ばしい多様な表現で繰り返されている。私たちは(詩 37:7で)、義人に対する彼らの計略の成功において、悪者の世的繁栄のいずれをもねたまないよう警告された。そしてここに与えられる理由は、これら二つの誘惑に別々に関係する。
良い人々が悪者の世的繁栄をねたむ理由はなく、それに悲しみ、あるいは不平になる理由もない。(1) 悪者の繁栄は間もなく終わるからである(詩 37:9)。「悪を行う者は断たれる」。彼らの繁栄の真っただ中で、ある突然の神の義の打撃によって。彼らが罪によって得たものは彼らから流れ去るだけでなく(ヨブ 20:28)、彼らはそれと共に運び去られる。これらの人々の終わりを見よ(詩 73:17)。その不当に得た富が彼らにいくらかかるか。そうすればあなたは彼らをねたうこと、あるいは良くも悪くも彼らの運命を共有しようとするから遠く離れるであろう。彼らの破滅は確かであり、非常に近い(詩 37:10)。「なお少しの時を経て、悪者はいない」、今あるような者ではなく。「彼らは瞬く間に荒廃にもたらされる」(詩 73:19)。少しばかり忍耐せよ。「さばき主が戸口に立っておられるから」(ヤコ 5:8-9)。激情を和らげよ。「主が近づいておられるから」(ピリ 4:5)。そして彼らの破滅が来るとき、それは完全な破滅となる。彼と彼の一族は根絶やしにされる。来るその日は*「彼に根も枝も残さない」(マラ 4:1)。「あなたはその所を注意深く見るが」、その別の日に彼がかくも偉大な姿を見せた所を、「彼はいない」。それを見出すことはできない。彼は価値あるもの、名誉あるものを何も残さない。同じ趣旨で(詩 37:20)、「悪者は滅びる」。彼らの死は彼らの滅びである。それが彼らのすべての喜びの終わりであり、終わりのない悲惨への通路であるからである。「主にあって死ぬ死人はさいわいである*」。しかし罪のうちに死ぬ死人は、とこしえに滅びうせる。悪者は主の敵である。キリストの支配を欲しない者は自らをそのようにする。そしてそのような者として神は彼らと計算を合わせられる。「彼らは羊のあぶらのように消え、煙となって消えうせる」。彼らの感官的な快楽を満たす彼らの繁栄は、羊のあぶらのように、堅固で実質的ではなく、緩く水っぽい。そして彼らの破滅が来るとき、彼らは神の義への犠牲として倒れ、犠牲のあぶらが祭壇の上でそうであったように、煙となって上っていくように消えうせる。神が悪者に対する復讐の日は*「雄羊の腎のあぶらの犠牲」(イザ 34:6)として表される。神が犠牲によって栄光を受けられたように、敵の滅びによって栄光を受けられるからである。滅ぼされる罪人は犠牲である(マルコ 9:49)。これは、私たちが彼らの繁栄をねたむべきでない良い理由である。彼らが満腹するまで養われている間、彼らはただ犠牲の日のために肥やされているにすぎない。「広い所の子羊のように」(ホセ 4:16)。そして彼らが栄えれば栄えるほど、神は彼らの滅びにおいていっそうの栄光を受けられる。(2) 義者の状態は、この生涯においても、いかなる点においても悪者の状態より良く、望ましいからである(詩 37:16)。一般に、「正しい人の持ち物の少し」、この世の誉れ、富、楽しみの少しは、「多くの悪者の富にまさる」。次のことを観察せよ。[1] 世の富は神の摂理によってこのように配分される。良い人々がそれを少ししか持たないこと、悪い人々がそれを豊富に持つことがしばしば彼らの割り当てである。それは神が、この世のものは最良のものではないことを私たちに示すためである。もしそうであれば、神に最も親しく最も愛される者たちが最も多くを持つであろう。[2] 敬虔な人の少しは、いくら多くても、悪者の持ち物よりも実のところ優れている。それはより良い手から来るからである。単なる一般摂理の手ではなく、特別な愛の手から。より良い資格によって享受される(神は約束によって彼らにそれを与えられる、ガラ 3:18)。それは彼らの、万物の相続人であるキリストとの関係に基づく彼らのもの。そしてより良い用途に向けられる。神の祝福によって彼らのために聖化される。「清い者には、すべてのものが清い」(テト 1:15)。神に仕え、神がほめたたえられる少しのものは、バアルのため、あるいは卑しい情欲のために用意された多くのものにまさる。ここで義者に与えられる約束は、彼らに、悪を行う者の繁栄をねたむ必要のないような幸福を保証する。彼らに慰めのために知らせよう。第一に、「彼らは地を受け継ぐ」。無限の知恵が彼らにとって良いと見なされるだけの地を。彼らは「今のいのち」の約束を持つ(Iテモ 4:8)。もしすべての地が彼らを幸いにするのに必要であれば、彼らはそれを持つであろう。すべては彼らのもの、「世*」と*「今あるもの*」も、「来たるべきもの」と共に(Iコリ 3:21-22)。彼らは相続によってそれを持つ。安全で名誉ある資格によって、単なる許可や黙認によるのではない。悪を行う者が断たれるとき、義者は時に彼らが集めたものを受け継ぐ。「罪人の富は正しい者のために蓄えられる」(ヨブ 27:17、箴 13:22)。この約束はここで次のように与えられる。1. 信仰の生活を送る者たちに(詩 37:9)。「主を待ち望む者」、依存する者、期待する者、願い求める者として、「地を受け継ぐ」。彼らへの現在の恵みのしるしとして、そして次の世で彼らのために意図されたより良いものの確証として。神は良い主人であり、働くしもべだけでなく、待つしもべにも豊かに、良く備えられる。2. 静かで平和な生活を送る者たちに(詩 37:11)。「柔和な者は地を受け継ぐ」。彼らは持ち物の所有において傷つけられ、乱される危険が最も少なく、自分自身のうちに最も満足を持ち、したがって被造物の慰めの最も甘い味わいを持つ。私たちの救い主はこれを福音の約束とし、柔和な者たちに宣べられた祝福の確認とされた(マタイ 5:5)。第二に、彼らは*「豊かな平和のうちに自ら喜びとする」(詩 37:11)。おそらく彼らは喜ぶべき豊かな富を持たない。しかしそれよりも良いもの、豊かな平和を持つ。内なる平和、心の静けさ、神との平和、そして神のうちにある平和。「あなたの律法を愛する者には動揺がない」その大きな平和(詩 119:165)。キリストの御国にある豊かな平和(詩 72:7)。世が与えることのできない平和(ヨハ 14:27)。そして悪者の持ち得ない平和(イザ 57:21)。これを彼らは喜びとし、そのうちに絶え間ない宴を持つ。豊かな富を持つ者たちはそれで煩わされ、困惑し、そのうちにほとんど喜びを持たないのに。第三に、神は「彼らの日々を知られる」(詩 37:18)。彼らのなすすべてのこと、彼らに起こるすべてのことを特に気にかけておられる。彼らの奉仕の日々を数え、一日の働きも報いられずに済むことはなく、彼らの苦難の日々を数え、それらのためにも報いを受けるように。彼らの明るい日々を知り、その繁栄を喜ばれる。彼らの曇り暗い日々、苦難の日々を知り、その日はそのように、その力もまたそのようになる。第四に、「彼らの嗣業はとこしえに続く」。地にある嗣業ではなく、天に彼らのために蓄えられた、朽ちず、奪われえないもの。次の世での永遠の嗣業を確信する者は、この世での彼らの一時的な所有と楽しみをねたむ理由がない。第五に、最悪の時代にも彼らには事が良く運ぶ(詩 37:19)。「彼らは恥じない」。神に対する彼らの希望と信頼、そして彼らがなした宗教の告白において。その慰めが彼らの助けとなり、悪い時代に真の支えとなるから。他の者がしおれるとき、彼らは喜びと信頼をもって頭を上げる。ききんの日にも、他の者が周りで飢え死にするとき、「彼らは飽き足りる」。エリヤがそうであったように。あるいは神は何らかの形で彼らにふさわしい食物を備えられるか、それなしでも満足し、心から満たされる心を与えられる。それで、もしそれぞれが困窮し飢えることになっても、彼らは(悪者がするように)「悩み、彼らの王と彼らの神をのろう」(イザ 7:21)のではなく、「いちじくの木が花を咲かせない」*(ハバ 3:17-18)ときにも、彼らの救いの神として神を喜ぶ。
良い人々が、正しい者に対する悪者の計略の偶発的な成功にいら立つ理由はない。彼らが悪い企ての一部を成就させ、それが私たちに、彼らが目的を達し、すべてを成就させるのではないかと恐れさせるとしても、怒りをやめ、大義を捨てようと考えるほど心を悩ませないように。なぜなら、
(1) 彼らの企ては彼ら自身の恥となるからである(詩 37:12-13)。「悪者は正しい者に計略をめぐらす」のは真実である。悪い者のすえた悪意の根深い敵意が正しい者のすえた敵意に対してある。彼らの目的は、もしできれば彼らの義を破壊すること、それが失敗すれば彼らを破壊することである。この目的のために彼らはのろわしい策略と企て(彼らは正しい者に対して計略をめぐらし、実行する)と、のろわしい熱心と激怒をもって行動する。「彼らに向かって歯ぎしりする」。彼らがもし力を握ることができれば彼らを食い尽くしたいと切に願い、また力のうちにないことへの激怒と憤りで満ちている。しかしこれらすべてによって彼らは自分自身を滑稽な者とするだけである。「主は彼を笑われる」(詩 2:4-5)。彼らは誇り高く横柄であるが、神は彼らに軽蔑を注がれる。神は彼らに不快感を持たれるだけでなく、彼らと彼らのすべての試みをむなしく効果のないものとして、彼らの悪意を無力で鎖につながれたものとして、さげすまれる。「彼の日が来るのを見られるからである」。すなわち [1] 神の清算の日。その義の啓示の日。今は曇り、蝕されているように見える。人は今や自分の日を持っている。「これはあなたの時である」(ルカ 22:53)。しかし神は間もなく神の日を持たれる。報復の日、すべてを正し、今栄光あるものとして通るものを滑稽なものとする日。「人のさばきによってさばかれるのは、小さなことである」(Iコリ 4:3)。神の日は決定的なさばきを下す。[2] 彼らの破滅の日。悪者の日、その倒れるために定められた日、その日は来る。それは遅延を意味する。まだ来てはいないが、確実に来る。その日の信じるべき展望は、シオンの娘であるおとめに、敵の激怒をさげすみ、「彼らをあざけり笑う」(イザ 37:22)ことを可能にする。
(2) 彼らの試みは彼らの破滅となる(詩 37:14-15)。ここを見よ。[1] 彼らが良い人々に対する企てにおいていかに残酷であるか。彼らは死の道具を備える。剣と弓。それ以下では間に合わない。彼らは尊いいのちを狩る。彼らが企てるのは*「打ち倒し、殺す」こと。彼らが渇望するのは聖徒の血である。彼らはその企てを非常に遠くまで進め、実行に移される間近にある。「彼らは剣を抜き、弓を張った*」。そしてこれらの軍事的準備はすべて、無力な者、貧しい者と乏しい者に対して(これは彼らが非常に臆病であることを証明する)、そして罪のない者、直ぐに歩む者に対して(彼らは決して挑発を与えず、彼らや他のだれにも危害を加えなかった。これは彼らが非常に邪悪であることを証明する)なされる。直ぐさそのものが彼らの悪意に対する柵とはならない。しかし [2] 彼らの悪意がどれほど正当に彼ら自身に反跳するか。「その剣は彼ら自身の心に入る」。これは義者が彼らの悪意から守られることと、それによって彼ら自身の不義の度が満たされることを意味する。時に、彼らが無害な隣人に対して計画したそのことが彼ら自身の破滅となることが証明される。いずれにせよ、彼らの挑発が彼らに向けて引き出した神の剣が、彼らに致命傷を与える。
(3) 突然断たれない者たちも、これ以上の危害をなすことができないように無力化され、教会の利益は効果的に確保される。「彼らの弓は折られる」(詩 37:15)。彼らの残酷さの道具は彼らを裏切り、血なまぐさい目的に仕えるために彼らが道具とした者たちを失う。いや、「彼らの腕は折られる」。彼らは自分たちの企てを続けることができない(詩 37:17)。「しかし主は正しい者を支えられる」。彼らはその悩みの重さの下に沈むことも、敵の暴力に押しつぶされることもない。神は彼らの誠実さにおいても、彼らの繁栄においても彼らを支えられる。とこしえの岩にこのように支えられる者は、悪者の折れた葦の支えをねたむ理由がない。
²¹ 悪者は借りて返さない。しかし義人はあわれみを示し、与える。
²² それは主に祝福された者は地を嗣業として受け、主にのろわれた者は断たれるからである。
²³ 正しい人の歩みは主が定める。主はその道を喜ばれる。
²⁴ 彼が倒れても、完全に打ち捨てられることはない。主がその手で彼を支えられるからである。
²⁵ 私は若かったが、今は年老いた。しかし義人が見捨てられるのを、またその子孫がパンを乞うのを、私は見たことがない。
²⁶ 彼は常にあわれみ深く、貸して与える。その子孫は祝福される。
²⁷ 悪から離れ、善を行え。そうすればとこしえに住むであろう。
²⁸ 主は公正を愛し、その聖徒を捨てないからである。彼らはとこしえに守られる。しかし悪者の子孫は断たれる。
²⁹ 義人は地を嗣業として受け、その中に永遠に住む。
³⁰ 義人の口は知恵を語り、その舌は公正を述べる。
³¹ その神の律法はその心にある。その歩みは一つもすべらない。
³² 悪者は義人をうかがい、彼を殺そうと企てる。
³³ 主は彼をその手にゆだねず、彼がさばかれるとき彼を罪に定めない。
これらの節はこの詩篇のPsa 37:1-20とほぼ同じ趣旨である。これは長く留まって考えるに値する主題だからである。ここで観察せよ。
I. 私たちの幸福への道として私たちに求められるものは何か。これはここに示された品性とここに与えられた指示の両方から学べる。もし私たちが神に祝福されたいなら、1. 私たちはすべての人にその人のものを返すことに良心を働かせなければならない。悪者は借りて返さないからである、Psa 37:21。私たちの神、主が私たちに最初に求められることは、公正を行い、すべての人にその当然のものを返すことである。借りたものを返さないことは、恥ずべき卑しいことであるだけでなく、罪深く悪いことである。ある人々はこれを、悪者の悪さの例というよりも、神の公正なさばきによって彼らが陥った悲惨と貧困の例とみなす。すなわち彼らは必要を満たすために借りざるを得なくなり、その後それを返す能力が全くなくなり、債権者の慈悲に委ねられる立場になる、と。ある人々がどう考えているように見ようとも、能力がありながら正当な借金の支払いを拒むことが大きな罪であるのと同様、それを払えないことも大きな悲惨である。2. 私たちはすべての慈善と善行の行為に備えていなければならない。義人に対する神の善意の一例として、神はその手の力の中に親切を示し、善を行うことができるようにされる(ある人々はこう理解する。神の祝福がその少しのものをそれほど大きく増やし、他者の救済のために余るほど豊かにされる、と)。義人の善良さの一例として、その財産にふさわしい心を持っていることがある。彼はあわれみを示し、与える、Psa 37:21。彼は常にあわれみ深く、あるいは毎日、あるいは一日中あわれみ深く、*貸して与える。*時として貸すことの中に与えることと同様の真の慈善がある。そして与えることと貸すことは、それらが心のあわれみ深い性質から出るとき、神に受け入れられる。その性質が真実であるなら、それは持続的であり、私たちが善を行って疲れるのを防ぐであろう。真にあわれみ深い人は常にあわれみ深いであろう。3. 私たちは自分の罪を離れ、真摯な敬虔の実践に励まなければならない(Psa 37:27)。*悪から離れ、善を行え。悪を行うのをやめ、それを憎め。善を行うことを学び、それに堅く結びつけ。これが真の宗教である。4. 私たちは良い言葉に豊かでなければならず、私たちの舌で神に栄光を帰し、他者を建てなければならない。義人の品性の一部として(Psa 37:30)、その口は知恵を語る。*彼は知恵らしく語るだけでなく、ソロモン自身のように知恵を語り、周囲の人々を教える。その舌が語るのは、むなしく不適切なことではなく、公正である。すなわち神のことばと摂理、また歩みを正しく整えるための知恵の規則である。良い心の豊かさから、口は良いこと、徳を立てるのに役立つことを語るであろう。5. 私たちは自分の意志を神の意志とみことばに完全に服従させるように導かれなければならない(Psa 37:31)。*神の律法、その神の律法がその心にある。*私たちがその律法を心に受け入れ、その支配に自分自身を委ねないなら、神が私たちの神であると主張するのはむなしい。心に律法がなく、私たちが語るように考えないなら、知恵を語り、公正を論じること(Psa 37:30)は冗談であり嘲笑にすぎない。神の律法は心の中で命じ、治める原則でなければならない。そこで光となり、泉とならなければならない。そうすれば歩みは規則正しく一様であろう。*その歩みは一つもすべらない。*それは罪への後退と、それに伴う不安を効果的に防ぐであろう。
II. これらの条件の上で、私たちの幸福と慰めの例として私たちに保証されるものは何か。
1. 私たちが神の祝福を受けることであり、その祝福が私たちのすべての現世的な慰めと楽しみの源、甘さ、安全となることであろう(Psa 37:22)。すべての義人がそうであるように、父の祝福によって神に祝福された者は、その祝福の効力によって地を嗣業として受ける。あるいはその地を(同じ語がPsa 37:29ではそう訳されている)嗣業として受ける。すなわちすべての地の栄光であるカナンの地。私たちの被造物からの慰めは、それらが神の祝福から流れ出るのを見るとき、真に私たちの慰めとなる。私たちはこの世で私たちに良いものは何も欠かないことを確信する。神が私たちの神として私たちにその祝福を与えられるなら、地はその産物を出すであろう、Psa 67:6。そして神が祝福する者はこのように*真に祝福された者である(彼らはその地を嗣業として受けるから)*のと同様に、主がのろわれる者は真にのろわれる。**彼らは断たれ根こぎにされ、神ののろいによる彼らの根絶は、神の祝福による義人の確立を際立たせ、その対照となるであろう。
2. 神が私たちの行動と事柄を最もご自身の栄光となるように導き、処理されることであろう(Psa 37:23)。*正しい人の歩みは主が定める。*その恵みと聖霊によって、神は正しい人々の思い、愛情、計画を導かれる。神はすべての心をその御手の中にお持ちだが、彼らの心は彼ら自身の同意によってそうされる。その摂理によって、神は彼らに関わる出来事を支配し、彼らがすべきことと期待できることの両面で、彼らの道を彼らの前に平らにされる。観察せよ。神は正しい人の歩みを定められる。書かれたみことばによってその道全般を定められるだけでなく、良心のささやきによってその具体的な歩みを定められ、これが道である、これに歩めと言われる。神は常に遠くからその道を示されるのではなく、子どもが導かれるように、一歩一歩彼を導き、そうして彼を絶えず神の導きに依存させる。そしてこれは、(1) 主がその道を喜ばれるからである。神は彼が歩む義の道を非常に喜ばれる。主は義人の道を知られる(Psa 1:6)。好意をもってそれを知り、それゆえそれを導かれる。(2) 彼がその道を喜ぶためである。神がご自身の御心に従って彼の道を定められるから、神はそれを喜ばれる。神が私たちの上にあるご自身の像を愛されるように、私たちが神の導きの下で行うことを非常に喜ばれるからである。
3. 神が私たちを、罪や苦難への倒れによって滅ぼされないように守られることであろう(Psa 37:24)。彼が倒れても、完全に打ち捨てられることはない。(1) 正しい人も過ちに捕らわれうるが、神の恵みが彼を悔い改めに回復させ、完全に打ち捨てられないようにする。彼が一時神の救いの喜びを失いうるとしても、それらは彼に回復される。神がその手で彼を支え、その自由な御霊で彼を支えられるからである。葉が枯れても根は生かされ、冬の後に春が来るであろう。(2) 正しい人も苦境に陥り、事柄が絡み合い、霊が沈みうるが、完全に打ち捨てられない。神はその肉と心が衰えるとき、その心の力となり、その慰めによって彼を支え、神が造られた霊が御前で衰えないようにされる。
4. 私たちがこの命の必要な支えを欠かないことであろう(Psa 37:25)。「私は若かったが今は年老いた。そして人々の外的状態に見たすべての変化と、彼らについて行ったすべての観察の中で、義人が神と人に見捨てられたのを決して見たことがない。私が時に悪人が天と地の両方から見捨てられるのを見たのとは異なる。また義人の子孫がパンを乞うほどの極限に陥ったのを見た記憶もない。」ダビデ自身も祭司アビメレクにパンを乞うたことがあったが、それはサウルが彼を狩ったときであった。そして私たちの救い主は、義のゆえに迫害される場合をすべての現世的な約束から除外すべきだと教えられた(Mk 10:30)。その場合は非常に特別な誉れと慰めが伴い、使徒が数えるように(Php 1:29)損失や苦痛というよりもむしろ賜物となるからである。しかし良い人々やその家族が、多くの悪人が自分の悪によって陥るような極度の貧困に陥る例は非常に稀である。彼は義人が見捨てられるのやその子孫がパンを乞うのを見たことがない。見捨てられる(ある人々はこう解釈する)。彼らが窮乏しても、神は彼らに友人を起こして与え、一般的な物乞いの恥に自分をみだりにさらすことのないようにされる。あるいは、彼らが食べ物を得るために戸口から戸口へと歩くとしても、悪人がパンを求めてさまよい、『どこにあるのか』と言うように、絶望の中にいることではないであろう、Job 15:23。また放蕩息子が腹を満たしたかったが、だれも彼に与えなかったように拒まれることではないであろう、Lu 15:16。またダビデの敵が食べ物を求めてさまよったときのように、満足しないと不満を言うことではないであろう、Psa 59:15。ある人々はこの約束を特に貧しい者に慈悲深く寛大な人々に関連させ、ダビデが慈善のゆえに貧しくなった人を見たことがないという意味だとみなす。過度に惜しむことが貧困に至る、Pr 11:24。
5. 神が私たちを捨てず、私たちの困難と窮乏の中で恵み深く守られることであろう(Psa 37:28)。主は公正を愛される。主はご自身公正を行うことを喜ばれ、公正を行う者たちを喜ばれる。それゆえ、他の者たちが彼らに見知らぬ人のように接し、彼らを避けるようになるときも、神は苦難の中にあるその聖徒たちを捨てない。むしろ彼らがとこしえに守られるように配慮される。すなわちすべての時代の聖徒がその守りの下に受け入れられ、その継承が世の終わりまで保たれ、個々の聖徒たちがこの現在のすべての誘惑から、またすべての試練を通して、とこしえの幸福に至るまで守られる、ということである。主は*彼らをその天の御国に至るまで守られる。*それがとこしえの守りである、2Ti 4:18, Psa 12:7。
6. 私たちがこの世で慰めある定住を得て、この世を去るときより良い世でそれを得ることであろう。私たちがとこしえに住むことであり(Psa 37:27)、悪者の子孫のように断たれないこと、Psa 37:28。神を自分の安息所とし、神のうちに家にある者たちは揺り動かされ、さまよわないであろう。しかしこの地には永遠の住まいも、存続する町もない。天にのみ、基礎を持つその町にのみ、義人はとこしえに住むであろう。それが彼らの永遠の住処となる。
7. 私たちが私たちの滅びを求める敵対者たちの獲物とならないことであろう、Psa 37:32,33。すべての機会を捉えて私たちに害を加えようとする敵対者がいる。義人をうかがい(ほえたける獅子が獲物をうかがうように)、彼を殺そうと企てる悪者がいる。そのようにする悪人たちがいる。彼らは非常に狡猾である。彼らは義人をうかがい、効果的に彼らに害を加える機会を得て、そうすることで自分たちを正当化する口実を得ようとする。また彼らは非常に悪意に満ちている。彼が彼を殺そうと企てるからである。しかしこれは悪者、すなわち悪魔、その古い蛇にも非常によく当てはまる。彼は義人をわなに陥れるための計略を持ち、私たちが無知であってはならない策略を持っている。彼は彼らを殺そうと企てる大きなる赤い竜であり、休むことなく激怒して歩き回り、食らうべき者を探すほえたける獅子である。しかしここに約束されているのは、彼が——サタンもその道具も——勝てないということである。(1) 彼は戦場の敵として勝てない。*主は彼をその手にゆだねられないであろう。*神はサタンが望むままにすることを許されず、ご自身の民からその力と恵みを取り去られない。むしろ彼らが彼に抵抗し、打ち勝つ力を与え、彼らの信仰は失敗しないであろう、Lu 22:31,32。正しい人はサタンの使いの手に落ち、ひどく打ちのめされることはありうるが、神は彼をその手にゆだねられない、1Co 10:13。(2) 彼は法廷の敵として勝てない。神は彼がさばかれるとき彼を罪に定められない。**昼夜われわれの神の前で彼らを訴える兄弟たちの訴え者がそうするよう強く求めても。その偽りの告発は、ヨシュアに対して提起されたもののように退けられるであろう(Zec 3:1,2)。主があなたを責められるように、サタンよ!義と認めるのは神である。それならだれが神の選ばれた者たちを訴えることができようか。
³⁴ 主を待ち望み、その道を守れ。そうすれば主はあなたを高く上げて地を受け継がせられる。悪者が断たれるとき、あなたはそれを見る。
³⁵ 私は悪者が勢力を得て、青々とした月桂樹のように広がっているのを見た。
³⁶ しかし彼は過ぎ去り、見よ、彼はいなくなった。私は彼を捜したが、見つけることができなかった。
³⁷ 完全な人に心を留め、直ぐな人を見よ。その人の終わりは平安だからである。
³⁸ しかし罪を犯す者たちは共に滅ぼされる。悪者の終わりは断たれる。
³⁹ しかし義人の救いは主から来る。主は苦難の時に彼らの力である。
⁴⁰ 主は彼らを助け、彼らを救い出される。主は彼らを悪者から救い出し、彼らを救われる。彼らが主に拠り頼むからである。
詩篇作者がこの説教(この詩の性質はまさにそうである)を結ぶ結論は、全体の趣旨と同じであり、同じ事柄を繰り返し心に刻む。
I. ここで私たちに促されている本分は、依然として同じである(Psa 37:34)。主を待ち望み、その道を守れ。 本分は私たちのものであるから、私たちはそれに心を留め、良心に従って行わなければならない。神の道を守り、決してそこから外れたらずるずると引き留まることなく、密着して前進し続けなければならない。しかし出来事は神のものであるから、私たちはその処理を主にお任せしなければならない。私たちは主を待ち望み、その摂理の動きに注意を払い、慎重に観察し、良心に従って自分自身をそれに適合させなければならない。私たちが神の道を守ることを良心において行うなら、喜んで主を待ち望み、自分の道を主にお任せすることができる。そうすれば、働くしもべにも、待つしもべにも、主が良い主人であることを知るであろう。
II. この本分を強いる理由もほぼ同じである。悪者の確実な滅びと義人の確実な救いから取られている。この良い人は、悪者の繁栄を羨む試みに遭ったので、その試みに打ち勝つために神の聖所に入り、私たちをもそこへ導く(Psa 73:17)。そこで彼は彼らの終わりを悟り、そこから私たちにもそれを悟らせ、それを義人の終わりと比較することによって、試みを退け、それを沈黙させる。観察せよ。
1. 悪者がしばらく栄えるかもしれないが、彼らの最後の悲惨である。悪者の終わりは断たれる(Psa 37:38)。間違いなくそのように悪く終わるものは、決して良いものではあり得ない。悪者はその終わりにおいて、すべての良いものとそのすべての望みから断たれる。彼らのすべての喜びには最終的な終止符が打たれ、彼らは命の泉から永遠に切り離されて、すべての悪に至るであろう。(1.) ダビデ自身がこの世で悪い人々の著しい破滅のいくつかの事例を観察した。すなわち、罪人の華やかさと繁栄は、彼らが倒れる日が来たとき、神のさばきから彼らを守ることはできないということである(Psa 37:36,35)。私はひとりの悪者が(その言葉は単数である)、サウルかアヒトフェルであろうか(ダビデがこの詩を書いたときは老人であったから)、大きな勢力の中で恐るべき者(ある者はそう訳す)、生ける者の地の強い者たちの恐怖となり、高慢な手で一切を制し、しっかりと定着し美しく繁栄しているかのように見え、青々とした月桂樹のように広がるのを見た。その木は葉ばかり茂り実を結ばない。また土着の生まれながらのイスラエル人のように(ハモンド博士はそう見なす)、根を下ろしそうであった。しかし彼はどうなったか。ずっと前にエリファズは、愚かな者が根を下ろすのを見たとき、その住まいをのろわなければならないことを学んでいた(Job 5:3)。ダビデもそうする理由を見た。この月桂樹はいちじくの木のようにすぐに枯れてしまったからである。キリストがのろわれた。彼は夢のように、影のように過ぎ去った。彼と、彼がこれほど誇ったすべての華やかさと権勢がそうであった。彼は瞬く間に消え去った。彼はいなかった。私が驚きをもって*彼を捜したが、見つけることができなかった。*彼は自分の役割を果たして舞台を去り、彼を欠くことはなかった。(2.) 罪人たち、すべての罪人たちの全面的かつ最終的な破滅は、まもなく、彼らが今時折世間の見世物になっているのと同じほどに、聖徒たちの見世物になるであろう(Psa 37:34)。悪者が断たれるとき(そして彼らは必ず断たれる)、*あなたはそれを見る。*これは神の義を畏れつつ敬虔に賛美しながら見るのである。罪を犯す者たちは共に滅ぼされる(Psa 37:38)。この世で神は、多くの中からここからひとりの罪人、そこからもうひとりの罪人を選び出し、in terrorem—警告として見せしめにされる。しかし裁きの日には、すべての罪を犯す者に対する普遍的な滅びがあり、ひとりも逃れることはできない。共に罪を犯した者たちは共に罪に定められるであろう。それらを束にして縛り、焼き払え。
2. 義人の最後の祝福である。神の貧しく蔑まれている民の終わりがどうなるかを見よう。(1.) 昇進。ある時代にはその不義が著しく、人々の敬虔がこの世での彼らの昇進を妨げ、財産を築く道から完全に外れさせたことがあった。しかし神の道を守る者は、時が来れば主が彼らを高く上げ、地を受け継がせる(Psa 37:34)と確信してよい。主は彼らを天の住まいのひとつの場所へ、新エルサレムにおける尊厳と誉れと真の富へと引き上げられ、カナンが型であったその良い地、約束の地を受け継がせるであろう。主は彼らをすべての軽蔑と危険の上に高く上げられる。(2.) 平安(Psa 37:37)。すべての人は完全な人に心を留め、直ぐな人を見よ。彼に注目して感嘆し、見習い、彼に目を留めて彼に何が起こるか観察せよ。そうすればその人の終わりは平安であることが分かるであろう。時として彼の晩年は、最初よりもかえって慰めとなることが証明される。嵐は過ぎ去り、彼が苦しんでいた時の後に再び慰められる。しかし仮に彼のすべての日々が暗く曇り続けても、おそらく彼の死ぬ日が彼にとって慰めとなり、彼の太陽は明るさの中に沈むであろう。あるいは、それが雲の下に沈んだとしても、彼の将来の状態は平安、永遠の平安となるであろう。生きている間、直ぐに歩む者は、死ぬとき平安に入るであろう(Isa 57:2)。平安な死は、多くの良い人の悩ましい生涯を終わらせてきた。このように永遠に良く終わるものはすべて良きものである。バラムでさえ、自分の死と最後の終わりが義人のようになることを願った(Nu 23:10)。(3.) 救い(Psa 37:39,40)。義人の救いは(これは預言者たちが熱心に問い尋ねた大いなる救いに適用できる、1Pe 1:10)*主から来る。*それは主の御業となるであろう。自分の歩みを正しくする者たちが見る神の救い(Psa 50:23)、すなわち永遠の救いも同様に主から来る。そして彼らのためにキリストと天を意図される方は、彼らにすべてが満ち足りる神となるであろう。*主は苦難の時に彼らの力であり、*その苦難の下で彼らを支え、苦難を通り抜けさせる。主は彼らを助け、救い出される。彼らが義務を果たし、重荷を負い、霊的な戦いを維持するのを助け、彼らの苦難を良く耐え、そこから益を得るのを助け、時には彼らを苦難から救い出される。主は彼らを圧倒し飲み込もうとする悪者から救い出され、悪者が悩ませるのをやめるそこで彼らを安全にされる。主は彼らを救われる。単に安全に守るだけでなく、幸いにされる。これは彼らが主に拠り頼むからであり、彼らが主から功績を得たからではなく、自分自身を主にお任せし、主に信頼して依存することによって主を誉れたからである。
この詩篇は一篇の説教であり、すぐれて有益な説教である。大部分の詩篇が私たちの礼拝のためのものとして書かれているのとは異なり、この詩は私たちの日々の歩みのために書かれており、祈りや賛美の言葉は一つもなく、すべてが教えである。「マスキールすなわち教えの詩」であり、摂理の書のなかでも最も解し難い章の一つ、すなわち悪者の栄達と義者の辱めについての解釈であり、そこに生ずる難問の解答であり、かような暗い扱いの下でもそれにふさわしく振る舞うようにとの勧めである。預言者の務め(ダビデもその一人であった)は律法を解き明かすことであった。さて、モーセの律法は従順な者には現世の祝福を約束し、不従順な者には現世の災いを宣告したが、これは主として民の全体、すなわち一国民としての民に関わるものであった。というのは、これを個々の具体的な人に当てはめるようになると、罪人が繁栄し聖徒が逆境にある実例が数多く現れたからである。それらの実例を神の語られた言葉と調和させること、これがこの詩における預言者のねらいである。その内容は次のとおりである。一、彼は悪者のその悪しき道における繁栄を嫉むことを禁じる(詩37:1,7,8)。二、彼はそれを嫉んではならない十分な理由を与える。1. その繁栄にもかかわらず悪者の忌まわしい性質(詩37:12,14,21,32)と、義者の誉れある性質(詩37:21,26,30,31)のゆえに。2. 悪者が近づいている滅びと破滅(詩37:2,9,10,20,35,36,38)、および義者が悪者たちの悪意ある企てのすべてから確かに与る救いと守り(詩37:13,15,17,28,33,39,40)のゆえに。3. 神がすべての善良な人のために備えておられる特別のあわれみと、彼らに示される恵み(詩37:11,16,18,19,22-25,28,29,37)のゆえに。三、彼は悪者の繁栄を羡むこの罪に対するすぐれた処方箋と、それらを用いるための大きな励ましを示す(詩37:3-6,27,34)。この詩を歌うにあたって、私たちは互いに教え、戒めあって、神の摂理を正しく理解し、それに自らを適応させ、常に慎んで自分の務めを果たした上で、その結果を忍耐して神にゆだね、たとえ現状がどんなに暗く見えようとも、「神を恐れる者、御前に恐れる者には、事が良くなるであろう」と信じなければならない。