scripture.how 聖書注解書

学習資料

聖書注解書

複数のパブリックドメイン注解書と scripture.how の韓国語訳を、書巻と章ごとに閲覧できます。注解書を切り替えながら、訳文だけでなく原文と訳文を並べて読むこともできます。

現在の注解書

Barnes' Notes on the Bible

Albert Barnes · 1834

全項目

22,781

翻訳 22,781 件

ライセンス

パブリックドメイン

原文出典

出典とライセンス

注解書ごとに原資料、著者、翻訳進捗、ライセンス情報を分けて表示します。scripture.how の韓国語訳・編集物は原文資料とは別に管理されます。

全体ライセンスを見る

Barnes' Notes on the Bible

Albert Barnes · 1834

パブリックドメイン

Albert Barnes' Notes on Revelation Of St. John The Divine (New Testament, English original, public domain). Sourced from the Christian Classics Ethereal Library (CCEL). Public domain. Retrieval mirror: biblehub.com/commentaries/barnes.

翻訳進捗
22,781 / 22,781
原文言語
en
表示方式
翻訳言語
翻訳状態

Psalms 40章 서론 Barnes' Notes on the Bible

Psalm 40 Introduction

翻訳あり 本文を開く

この詩篇はダビデによって作られたと称するものであり、「聖歌隊の指揮者に」宛てられ、あるいは捧げられた詩篇のもう一つである。すなわち、彼がそれを適切な音楽に合わせるよう求められているものであり、それゆえ、特にヘブライ人の公の礼拝において用いられることを意図されたものの一つであると思われる。この表現の意味については、Psalm 4:1-8 の表題の注解を参照せよ。

この詩篇がどのような機会に作られたのかを確実に確定する方法はない。疑いなくそれは、ダビデの生涯に起こった試練のいくつかを念頭に置いたものである。というのも、この詩篇の感情が適切に当てはまり得るそのような試練が彼の生涯には多くあったからである。しかし、この詩篇自体に含まれる何ものからも、それらの苦しみのどれがここで念頭に置かれているのか、あるいはどれがこの詩篇を示唆したのかを今確定することは不可能であるので、憶測は無益であろう。また、たとえ彼が自分の生涯のどの特定の時期に言及しているのかを確定できたとしても、それはこの詩篇を解釈するうえで何の実質的な助けにもならないであろう。とはいえ、彼自身の生涯における何らかの苦難あるいは災いへの言及があったと推定される。そして、たとえこの詩篇が全体としてメシアを指し、その苦しみを描くことを意図されていたと想定される場合でも、そこで用いられている言葉はこの詩篇の作者の生涯における何かによって示唆されたものであり、彼が自分自身の試練と結びつけてメシアの将来の苦しみを熟慮するよう導かれたことはありそうなことである。

この詩篇の内容は次の通りである。

(1) 恐ろしい穴の中にいることで表わされた、ある災いあるいは深い悲しみの時への言及。彼は祈りに答えてそこから救い出されたのであり、その救出はあまりに著しいものであるので、そのために多くの者が神を賛美するよう導かれることになるであろう。Psalm 40:1-3。

(2) 主を自分の信頼とし、地の高ぶる者たちや、不誠実な者あるいは欺く者たちではなく、主に信頼を置く者の幸いについての陈述。Psalm 40:4。

(3) 主の多くのみわざに対する感謝に満ちた思い出。それは明らかに、あらゆる可能な仕方で主に仕える義務の基礎を据えるものとして、また直後に言及される従順の目的の「理由」としてのものである。Psalm 40:5。

(4) 彼が何をしたか、あるいは何をしようとしていたかの陈述。それは彼の義務の意識を、あるいは神が彼に求めておられる奉仕を表わすものである。Psalm 40:6-10。この詩篇における語り手は、神は彼にいけにえと供え物を――すなわちヘブライ人の儀式において定められた血を流すいけにえを――求めておらないと言う Psalm 40:6。神は彼が従順になるよう気持ちを向けさせ、求められているような従順を捧げる者として彼を備えられた(「あなたは私の耳を開かれた」)Psalm 40:6。彼は、彼に関する何らかの預言あるいは以前の記録に従って、従うために来た Psalm 40:7。彼は神のみこころを行うことに最高の喜びを見出した Psalm 40:8。そして、この取り決めとこの目的を追って、彼は神のみこころを知らせた――大いなる会衆の中で義を宣べ伝え、神の救いを忠実に告げ知らせたのである。Psalm 40:9-10。

(5) これらの事実に基づく祈りと嘆願。すなわち、彼の試練に、彼の危険に、彼を滅ぼそうとする敵たちの試みに、神の民の福祉と安全への彼の願いに基づくもの。Psalm 40:11-17。特に、

(a) なおも彼を取り囲んでいる苦しみから自分自身が救い出されるための祈り。Psalm 40:11-13。

(b) 彼に敵対する者たちが低められ、へりくだらされるための祈り。Psalm 40:14-15。

(c) 主を求める者たちが喜び楽しむための祈り。Psalm 40:16。そして

(d) 貧しく乏しい者である自分自身のための、神が自分の助け、自分の救い主であるという根拠に基づく祈り。Psalm 40:17。

ここで非常に重要で困難な問いが生じる。それは、この詩篇が元来だれを指していたのかという問いである。

この問いについて、次のような意見が存在してきた。

(1) それが元来、排他的にダビデを指しているという意見。

(2) それが元来、排他的にメシアを指していたという意見。

(3) それが二重の適用を受け得るという意見。すなわち、この詩篇の一部はダビデに、他の部分はダビデ自身の境遇によって示唆されたものとしてメシアに関係するという意見。そして

(4) Hebrews 10:5-9 においてメシアに適用されているこの詩篇の部分は、転用によって、あるいはヘブル人への手紙の作者の意味を表わすものとして適用されているのであって、その手紙の書き手の側では、この詩篇が元来何らかのメシア的関係を持つと断言しているわけではないという意見。

これらの意見を詳細に検討するには長くなりすぎるであろう。そして、この詩篇へのこの短い緒言において必要なことはすべて、私に正しいと思われる意見の理由をいくつか述べることであるかもしれない。すなわち、この詩篇が元来、排他的にメシアを指していたということ、言い換えれば、それが Psalm 2:1-12、Psalm 22、Isaiah 53:1-12 のような、旧約聖書の中で、霊感の御霊によって、その特徴のいくつかについて、また彼が受けることになる苦しみについてメシアを描くことを意図された著作の一つであるということである。

(1) そのような詩篇、そのような旧約聖書の部分は存在する。これは、聖書の霊感を信じるすべての者が認めるところである。メシアはユダヤ人の民の望みであった。メシアは彼らの最も荘厳な預言の主題であった。その国民は、彼らの偉大な救い主として彼を仰ぎ見ることに慣れていた。国民的災いのあらゆる時代に、彼らは彼が彼らの救出のために現れる時を待ち望んだ。彼は、いわば、彼らの国民文学の英雄であり、すべての聖なる書き手たちが待ち望んだ未来における明るい対象であり、その来臨と、その来臨から期待される祝福とが彼らの歌に力を与え、苦しみと悲しみの最も暗い日に彼らを励ました、栄光の救い主また救出者であった。イザヤの緒言の第7節を比較せよ。

(2) ヘブル人への手紙の作者は、この詩篇の一部を明確にメシアに適用している。Hebrews 10:5-9。彼が、この詩篇が元来メシアを指しているという信念をもってこれを引用し、転用の仕方でその言葉を用いたのではないということには、合理的な疑いの余地がない。というのも、彼は一つの論点を立証しよう、すなわち自分の述べていることが真実であることを証明しようと努めていたからである。彼は、この詩篇の箇所に「当時検討中であった論点についての証拠」として言及することによってこれを行っている。しかし、もし彼が、元来異なる目的を持っていた言葉を単に転用の仕方で引用しただけであるなら、この場合、証拠も論証も何もなかっただろう。彼の引用のまさに核心は、彼が、メシアを元来指している箇所を、その働きを特徴づけるものとして正当に引用し得るものとして提出しているという事実に基づいている。この詩篇がメシアに関係していることの(この事実から導かれる)証明は、二つの事柄から成る。

(a) それが霊感を受けた使徒によってそのように適用されていること。これについては、彼の霊感を認めるすべての者にとって、この問いを決定づけるものであると思われること。

(b) 彼がそのように適用したということが、その状況において、これが古くから認められていた解釈であったことを示していること。

彼はユダヤ人であった者たちに、すなわち、ヘブル人のいけにえに関する観点について自分の主張するところの真実性を納得させたいと望んでいた者たちに書いていた。この目的のために、旧約聖書に訴えることが必要であった。しかし、その論点への関連性が直ちに認められないような箇所を、彼が証拠として提出したであろうとは考えられない。それゆえ、その箇所は、使徒がそれを用いたのと同じ目的のためにヘブライ人自身によって普通に適用されていたか、あるいは、その適用がなされたとき、それほど明白で自明であり、彼らがそれに異議を唱えないであろうものであったと推定してよい。

(3) この詩篇全体が、解釈において何の無理も不自然もなくメシアに適用され得る。これはこの詩篇の解説において詳細に示されるであろうが、その間に、そのような適用における主要な困難に、またこの詩篇がメシアを指すという考えに対してそこから導かれる主要な反対に言及しておくことも不当ではあるまい。それらの主要なものは、次の諸点に関係している。

(a) Psalm 40:2 において、この詩篇の語り手は「彼はまた、私を恐ろしい穴から、泥の沼から引き上げ、私の足を岩の上に置き、私の歩みを確かにされた」と言っており、この根拠に基づいて、彼は神に感謝をささげている。しかし、これがメシアを指し、主イエスの場合に実際に成就したと想定することに、本当の困難はない。彼の敵たちはしばしば彼のいのちに対して陰謀を企てた。彼らは彼のためにわなを仕掛けた。彼らは彼を滅ぼそうと努めた。彼の危険は「恐ろしい穴」として、また「泥の沼」として十分に表わされ得る。そしてそれらの危険からの彼の救出は、そのような穴から、深い泥から引き上げられた者の情况と十分に比較され得る。たとえこれが詩篇作者自身の個人的経験を指すことを意図していたと想定した場合でも、なおその言葉は比喩的なものであり、そのような穴に投げ込まれること、あるいは泥の沼に沈むことによってよく表わされ得る何らかの危険、危急、苦難を指すことを意図していたに違いない。詩篇作者が、これが自分自身の生涯において現実に、文字通りに起こったと語ろうとしていたとは考えられない。それゆえ、この言葉は、何の不妥当もなく、メシアの試練と危険に、また彼を救い出される神のあわれみに満ちた介入に適用され得る。

(b) これをメシアに帰する際の第二の反対あるいは困難は、Psalm 40:12 において語られていることから導かれる。「私の不義が私を捕らえたので、私は顔を上げることができない。それらは私の頭の毛よりも多く、それゆえ私の心は衰える」。しかし、これをメシアに適用することの適切さに関して、二つの注釈がなされ得る。第一に、メシアが人々とこれほどまでに一つとされ、罪人たちの身代わりとしてこれほど真実のものとなり、贖いの深い悲しみの中で自分自身の魂において彼らの罪の結果をこれほど強烈に経験し、罪の悪に対する神の感覚を表わす苦しみをこれほど負ったのであって、これらの罪が彼自身のものであるかのようにこの言葉が彼に適用され得るということは、真実であり得る。彼は、それらが彼のものであるかのように――彼が罪人であったかのように――扱われた。彼はそれらをそれほどまでに自分のものとしたので、それらが自分のものであるかのように扱われること、またそれらが自分のものであるかのように自分が苦しんでいると感じることが適切であった。

それらが文字通り彼に転嫁され得なかったことは真実である。その語の正当な意味において彼が罪人でなかったことは真実である。その言葉の正当な意味において彼が「有罪」ではなく、神が常に彼が人格的に無罪であることをご覧になっていたことは真実である。しかしなお、贖いのみわざにおいて、彼があたかも罪人であったかのように扱われたこと、またこの意味において、彼がそのために苦しんだ罪を自分のものとして語り得たことは真実である。彼はそれらを自発的に引き受け、それらが自分のものであったかのようにそれらのために苦しんでいた。このように、私たちは Isaiah 53:4-6 に、彼に適用された同様の言葉を持っている。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」「彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの不義のために砕かれた。私たちに平安を与える懲らしめが彼の上にあった」「主は私たちすべての者の不義を彼に負わせられた」。もしこのような言葉が彼とその苦しみに正当に適用され得るのであれば、彼が自分自身を、罪ある人々とこれほどまでに一つである者とみなし、彼らの罪に帰せられるものをこれほど真実に負っている者とみなして、それらの罪を「あたかも」自分のものであるかのように語ることには、何の不妥当も不整合もあり得ない。ちょうど、友が負った負債であって、自分がそれを払う自発的な義務を自ら負ったものを、あたかも自分のものであるかのように語り、「もはや彼のものではなく、私のものである」と言い得るのと同様である。

贖い主と罪との関係に関する聖書の言葉は、しばしば、この言葉を示唆し、正当化するほど明白で著しい。2 Corinthians 5:21、Galatians 3:13 を参照せよ。第二に、結局のところ、この詩篇において「不義」と訳されている語が、ここでは単に「災い、苦しみ、悲しみ」を意味している可能性がある。(Hebrews 10:5 の注解を参照せよ。また、ヘブル人への手紙に関するステュアート Stuart 教授の補論 xx.、p. 594 を比較せよ。)ここで用いられているのと同じ語は、2 Samuel 16:12 においては、「主が私の苦しみをご覧になってくれるかもしれない」を意味している。「不義」と「災い」――「罪」と「刑罰」――は聖書において密接に結びついており、一方がしばしば他方の代わりに置かれるほどである。そして、聖なる書き手が自分の「罪」について語るとき、彼はしばしば、自分の罪の結果として自分の上に来た苦しみあるいは災いを意味している。同様に、メシアはここで、次のように理解され得る。すなわち、世の罪を自分の上に負ったことの結果として彼の上に来た災いあるいは禍のゆえに、「私の不義」――彼が引き受けた不義、あるいはイザヤの言葉において彼が「負った」不義――が「私を捕らえたので、私は顔を上げることができない」と言うことが適切であり、また、それらの数の多さを考慮して、「それらは私の頭の毛よりも多い。それゆえ、私の心は衰える」と言い得たのである。

(c) この詩篇のメシアへの適用に対する第三の反対は、Psalm 40:14-15 に見られるような敵たちに対するのろいの言葉を彼が発したであろうとは考えられないということである。「彼らを恥じさせ、混乱に陥らせてください。彼らを退けさせてください。彼らを荒れ果てさせてください」。これに対しては、このようなのろいの言葉は、ダビデの口においてと同様にメシアの口においても正当であり、そのいずれにおいても不当ではないと答えることができる。ダビデもメシアも、敬虔と神との敵に対して断罪の言葉を発した。どちらの場合にも悪意に満ちた感情があったという証拠はなく、罪を断罪することは最高の善意と矛盾しない。神はご自分の言葉において絶えずそれをなされ、摂理のみわざにおいてもしばしばそれをなされる。悪しき者は、あらゆる方面から自分の罪の断罪に会うことなしにこの世を歩むことはできない。また、大いなるさばきの日にすべての有罪の者たちに判決を下される方が、彼らの上に必ず来ることになるものをあらかじめ彼らに知らせることが不敬虔であったなどということはない。それゆえ、これらの反対は、この詩篇が全体としてメシアに適用可能であるとみなすことが不当であるという性質のものではない。

(4) この詩篇はダビデに適切に適用することはできず、また、メシア以外にそれが適用され得るだれかを私たちは知らない。神がいけにえと供え物を求めておられないという事実を念頭に置いて、ダビデが神の「みこころを行うために来た」ということは真実ではない Psalm 40:6-7。彼が神のみこころを行うことを喜び、そのように「巻物の書の中に」書かれているという事実を念頭に置いてこの世に来た、と彼について書かれていたということも真実ではない Psalm 40:7-8。彼の特徴的な働きが「大いなる会衆の中で義を宣べ伝える」ことであったということも真実ではない Psalm 40:9。しかし、これらすべてはメシアについては真実であった。これらの表現は彼にのみ適用され得るものであり、これらすべての事情を合わせ考えるなら、この詩篇全体が元来贖い主を指し、彼のみに適用されるものとして解釈されるべきであるという結論が正当なものと思われる。

この詩篇の終わりの部分 Psa 40:13-17 と Psalm 70:1-5 との間には著しい類似がある。実際、あの詩篇全体はこの詩篇の終わりの部分と同一である。なぜ私たちの前にあるこの詩篇のその部分がこのように繰り返されているのか、またなぜそれがこれから分離され、それ自体で一つの詩篇とされたのかは、まったく知られていない。それは書き写す際の誤りであったと考えることはできない。というのも、その誤りはあまりに重大であり、ほぼ確実に発見されていたはずだからである。おそらく最もよく説明できるのは、Psalm 70:1-5 の作者が、そこに記されている心の状態と境遇にあったと想定すること、また、自分の感情を表わす新しい詩篇を書く代わりに、すでに作られていたこの Psalm 40 の部分が、彼が表現したいと望んだことをこれほど正確に描写し、それ自体で一つの祈りとしてこれほど適していると彼がみなしたので、それゆえに彼はそれを書き写した、と想定することによってであろう。このように書き写され、その感情が繰り返されたという事実は、それが霊感によるものであるという想定を何ら減じるものではない。

Psalms 40章 1 Barnes' Notes on the Bible

Psalm 40:1

翻訳あり 本文を開く

わたしは主を切に待ち望んだ――欄外では、ヘブル語のまま「待ち望むことをわたしは待ち望んだ」となっている。すなわち、「わたしは待ち続けた」ということである。これは単独の、一瞬の期待あるいは希望の行為ではなく、継続的なもの、すなわち忍び通されたものである。その考えは、彼の祈りはすぐには聞かれず、繰り返し祈った後に、あるいは彼の祈りが聞かれないかのように思われたときに、ようやく聞かれたということである。ここで言及されているのは、切実で忍耐強い祈りであり、祈りへの答えがないように思われ、答えられる見込みもないように思われたときの、続けられた嘆願と希望である。

主はわたしに耳を傾けられた――すなわち、最終的に神はわたしの祈りを聞いて答えてくださった、あるいは「忍耐強い」祈りの結果として、恵み深くわたしに向き直ってくださった、ということである。ここで「耳を傾けた」と訳された語は、本来「身をかがめた」という意味である。すなわち、聞くために、あるいは耳をわたしの口の近くに寄せて聞くために、「身を前方に曲げられた」ということである。最初、神は聞こうとしない者のようであり、頭を後ろにそらせたり顔を背けたりする者のようであった。しかし最終的には、わたしの祈りを受け取るために身をかがめてくださったのである。

わたしの叫びを聞かれた――助けを求めてわたしが捧げた叫び、すなわち嘆願のことである。それは、悲しみと危険の深みの中でわたしが彼に向けた叫びである(Psalm 40:2)。贖い主に適用するなら、これは、彼がその悲しみの中で、贖いのみわざに結びついた深い悲しみの中で、神に呼び求めることを忍び通し、神が彼の祈りを聞き、彼を栄光と喜びへと引き上げてくださったという事実を指すことになろう。Matthew 26:36-46 を参照せよ。Hebrews 5:7 の注解と比較せよ。言及されていると想定される時は、彼の苦しみが終わった後、そのみわざが成し遂げられた後、死者の中からよみがえった「後」である。それは、贖いを成し遂げるために通った驚くべき悲しみを振り返り、また神がその悲しみの中で彼を守り、それほどの惨めさの深みからそれほどの栄光の高みへと彼を引き上げてくださったことを思い起こす中で、彼が語ったと想定し得る、感謝に満ちた回想の言葉である。

Psalms 40章 2 Barnes' Notes on the Bible

Psalm 40:2

翻訳あり 本文を開く

彼は私を滅びの穴から引き上げられた――欄外では「騒ぎの穴」。ここで用いられている語は、穴、貯水槽、牢獄、地下牢、墓を意味する。この語の最後の意味は Psalm 28:1、Psalm 30:4、Psalm 88:4、Isaiah 38:18、Isaiah 14:19 に見出される。それはどんな災いについても――穴の中にいるような悩みについても、あるいは墓についても言及しうる。「恐ろしい」と訳されている語――שׁאון shâ'ôn――は、本来、水の、群衆の、戦争の「騒ぎ、騒乱、混乱」を意味する。次にそれは、墓に適用できる「荒廃」あるいは「滅亡」の意味で用いられるようである。デ・ヴェッテは、ここでのこの語を、轟き、あるいは騒がしい穴、洞窟、淵――すなわち通ることのできないもの――についてのものと理解する。おそらくこれがその考えであろう――深く暗い洞窟、水が轟き、恐怖に満ちているように思われるところ。ローゼンミュラーもそのように理解する。セプトゥアギンタはこれを ἐκ λάκκου ταλαιπωρίας ek lakkou talaipōrias、すなわち「悲惨の淵」と訳している。それは、救い出される望みのない、あるいは確実な滅亡があるように思われる、深く恐ろしい洞窟である。

泥の沼から――穴の底から。そこには固い地面がなく、立つべき岩がなかった。Jeremiah 38:6、Psalm 69:2、Psalm 69:14 を参照せよ。

そして私の足を岩の上に置かれた――固く立つことのできる場所に。

そして私の歩みを確かにされた――あるいは、私の一歩一歩を固く定められた。すなわち、神は私が固い地の上を歩むようにし、再び穴に下ることや泥の中に沈むことの危険のないところを、私を安全に導かれた、ということである。これを贖い主についてのものとして理解するなら、それは、彼の悲しみが終わり、その贖いのわざが成し遂げられたとき、彼がもはや決してそのような危険にさらされることなく、あるいはそのような悲嘆の深みに沈むことなく、彼の行く手は常に安全と栄光のものであることが確実となった、その時についてのものである。

Psalms 40章 3 Barnes' Notes on the Bible

Psalm 40:3

翻訳あり 本文を開く

彼は新しい歌を私の口に置かれました――Psalm 33:3 の注を参照。ここでの観念は、神が賛美のための新しい、あるいは新たな「機会」を与えてくださった、ということである。その救出はあまりにも顕著であり、以前のあわれみへのこれほどの追加であったので、新しい感謝の表現が適切であった。それは神の側のこれほど驚くべき介入のわざであったので、以前の機会に用いられ、当時受けたあわれみを表現するのに適していた言葉は、今回の救出に対して感じられた感謝の思いを伝えるには十分ではなかったであろう。これをメシアに適用し、(Psalm 40:2 の注で考えられたように)彼の悲しみの深みの後、栄光へと高められることを指すなら、それは、神への感謝を表現するためにこれまで用いられてきたいかなる言葉もこの機会に十分ではなく、これほど偉大な出来事を祝うためには新しい賛美の歌の言葉が求められる、ということを意味するであろう。

私たちの神への賛美を――「私たちの神に」。メシアがそうされるように、ご自身の民とご自身を同一視し、その新しい賛美の歌が「彼ご自身」にとってだけでなく彼らにとってもふさわしいという観念を表している。彼らは彼のわざによって益を受けるからであり、神が彼らの神であられるのは、彼の神であられるのと同様であるからである。John 20:17 を比較。

多くの者がこれを見て――人類の多数の者たちが、このような歌のためにあった機会を知らされるようになる、ということである。

そして恐れ――なされたことの結果として、神を畏敬し、礼拝し、栄光を帰することを学ぶ、ということである。

主に信頼しこよう――神に信頼し、神に信頼を置き、神の真の礼拝者と友となる、ということである。

(a) このように悩みあるいは苦しみの中にあり、勝利することを可能にされた者のために行われた、このあわれみ深い介入の結果として。

(b) 彼によって成し遂げられたわざの結果として。

贖い主の悲しみと、神のあわれみ深い助けの結果は、多数の者たちが神に信頼を置くことを学び、神の真の友となることであろう。実際、だれひとり、メシアのわざの結果として神に立ち返り、神の真の礼拝者と友となる者たちの「数」を計算することはできないのである。

Psalms 40章 4 Barnes' Notes on the Bible

Psalm 40:4

翻訳あり 本文を開く

主を拠り所とするその人は幸いである――詩篇34:8の注解を参照せよ。詩篇27:1と比較せよ。ここで文字どおりには、「ヤハウェを自分の信頼とする者の祝福」。すなわち、彼を自分の確かさとする者、幸福と救いに関する自分の確かさは彼のうちにあると感じる者、ということである。

高ぶる者を顧みない――高慢な者たち、すなわち自分自身を信頼している者たちを顧みない、ということである。文字どおりには「高ぶる者たちに目を向けない」。すなわち、助けと救いとのために彼らに依存しない、ということである。

偽りにそれる者たちにもそうである――まっすぐな道から離れて、偽りで欺きに属することへ傾く者たちのことである。これは、真実で正直なものから、惑わすような偽りへとたやすくそれてしまう者たちを指している。彼らの誠実さは信頼することができない。彼らが正しいことを行う性向にあるという保証もない。ここでの考えは、神を信頼する人は、人を信頼する者と比べて幸いである、ということである。人とは、自分自身に確信を持つ存在、誤りに陥りやすい存在、たやすく迷わされる存在、欺く存在であり、それゆえ頼ることのできない者である。神は力強いが、高ぶることがない。神が真理から引き離されることは決してなく、神が欺くことも決してない。

Psalms 40章 5 Barnes' Notes on the Bible

Psalm 40:5

翻訳あり 本文を開く

「私の神、主よ。あなたのわざは多くあります」――文字通りには「多くの(こと)を、私の神、主よ、あなたは行われた。あなたの奇しいみわざと、私たちに対するあなたの思いを、あなたに語り尽くすことは(できません)」。前の節で言及された、語り手に示された特定の親切の思い出は、神がその民のために行われた多くの奇跡――神の前に数え上げようとしても望みのない神の親切のわざ――の思い出を想起させる。創造、摂理、贖いのみわざにおいて人に示された神の慈愛のわざのすべてを、教会の歴史において、また過ぎ去った時代における教会の個々の成員のために神が行われたすべてのことを、迫害の日に神の民を救うために神が行われたすべてのことを、さらに私たち自身の個人の生涯において成し遂げられたすべてのことを、だれが列挙し、記録することが「できようか」。明らかに、これらのことは、人によるあらゆる列挙の力を超えている。それらは今や全体として驚嘆することしかできない。それらを詳細に見、語り尽くすためには、永遠だけが十分であろう。「奇しいみわざ」という句は、ここでは、注目すべき介入、驚きを引き起こすのにふさわしい事柄、人が予期しえたものを超える事柄、神によってのみなされえた事柄を意味する。

「また、私たちに対するあなたの思いは」――私たちに向かっての、あるいは私たちに関する。ここでの「思い」という語は、私たちの福利のために構想された神の計画、目的、配置を指す。神が私たちの必要を、何が私たちに良いかを、何が私たちの益となるかを思い巡らされた結果である事柄のことである。詩篇40:17を参照せよ。

「あなたの前に並べ上げることもできません」――欄外では「あなたの前に整列させられる者はない」となっている。文字通りには「あなたの前にそれらを整列させることはない」。すなわち、それらのすべてが適切な場所に置かれ、知覚され、数えられるように、それらを整列させ、秩序づけることはできない、ということである。ヘブル語――ערך ‛ârak――は、本来、一列に並べること、秩序づけること、配置することを意味する。たとえば、軍隊を戦闘隊形に置くこと、戦いのために整列させること(士師記20:20、士師記20:22)、論証のためにことばを秩序づけること、議論を提示するために思いを整理すること(ヨブ記32:14)、裁判官の前に訴えを整えて置くこと、彼の前にそれを提出すること(ヨブ記13:18)などである。この語はまた、何かと共に、何かのそばに置くこと、すなわち比較を行うことをも意味する。ゲゼニウス(辞書)は、ここでの考えはこれであり、正しい解釈は「何ものもあなたと比べられない」であると考える。しかし、もう一つの解釈のほうが、神の奇しいみわざに、また、数え上げる力を超え、心の前に秩序と配置へと持ち込むにはあまりにも数多い、恵みと善き思いへの言及としての文脈に最もよく調和するように思われる。

「もし私が宣言し、語ろうとも」――私がそれらについて語ろうと試みるなら、またそれらを語り尽くそうとするなら、である。

「それは数えるよりも多いのです」――人が数え上げるよりも多い。それらは、それらを表現する人の言語の力を超えている。これは文字どおり真である。この世界を人の住まいとして整え、人へのあわれみにおいて神が行い、また意図されたことを、人のいかなる言語も描写することはできないのである。

Psalms 40章 6 Barnes' Notes on the Bible

Psalm 40:6

翻訳あり 本文を開く

いけにえと供え物 — ここで用いられている最初の語 זבח zebach は、本来、血を流す供え物を意味し、もう一つの語 מנחה minchāh は、感謝の供え物のような、血のない供え物を意味する。Isaiah 1:11 の注釈を見よ。この節で用いられている四つの語 — いけにえ、供え物、全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ — は、ヘブル人の間で知られていたあらゆる種類の犠牲と供え物を包含しており、ここでの観念は、彼らが慣習的にささげていたそのような供え物は、ここで語られている方からは要求されなかった、ということである。より高い奉仕が必要とされたのである。

あなたはそれを喜ばれなかった — ここで「喜ぶ」と訳されている語は、何かを行うことに関して心が傾き、好意的であること、すなわち意志し、望み、喜ぶことを意味する。ここでの意味は、神はこれを意志せず、望まれなかった、ということである。従順と比較して、あるいは従順の代わりとして、神はこれを喜ばれなかったのである。神は、あらゆる外面的な儀式と形式よりも、律法によって定められた宗教のすべての儀式と形式よりも、従順を良しとされた。それらは従順なしには何の価値もなく、従順の代わりとなりえなかった。この心情は旧約聖書にしばしば現れ、当時定められていたすべての儀式のねらいが人々を従順へと導くことにあり、従順なしにはそれらが何の価値も持たなかったことを示している。Isaiah 1:10-20 の注釈を見よ。1 Samuel 15:22、Psalm 51:16-17、Hosea 6:6 と比較せよ。Hebrews 10:5 の注釈も見よ。

私の耳をあなたは開いてくださった — 欄外では「掘られた」となっている。ヘブル語 כרה kârâh は「掘る」を意味し、井戸を掘ること(Genesis 26:25)、墓を掘ること(Genesis 50:5)のように用いられる。ここで用いられているとおりに取るなら、正しくは「私の耳をあなたは掘り開いてくださった」となる。すなわち、聞く座との交通が成るように耳を開いてくださった、言い換えれば、あなたはこの真理を私に聞かせ、それを私に啓示してくださった、ということである。Isaiah 50:5「主なる神は私の耳を開かれた。それで私はそむかなかった」と比較せよ。ここでの意味は、耳が開かれて、聞くことに敏感になった、ということになろう。神の御心に従おうとしない傾向は、耳が「ふさがれている」という事実によってしばしば表される。Zechariah 7:11、Psalm 58:4-5、Proverbs 21:13。多くの人がそう考えてきたが、ここには、僕が主人のもとにとどまることを望んでいるしるしとして、きりで僕の耳に穴を開ける習慣(Exodus 21:6、Deuteronomy 15:17)への言及は明らかにない。その場合には耳の外側の輪、すなわち縁がきりで「穴を開けられた」のであり、ここでの観念は、内部をくり抜き、掘り出す、すなわち聞こえるように「通路」を作ることであって、単に外耳に穴を開けることではない。本質的な観念は、この真理 — 神は犠牲よりも従順を良しとされる — が彼に伝えられたこと、そして彼が、以前は耳が聞こえず、耳が開かれたかのように、この真理に注意を向けるようになった、ということである。この箇所の主要な困難は、ヘブル人への手紙(Hebrews 10:5)における適用に関わる。その困難は、セプトゥアギンタがここの句を「あなたは私のためにからだを備えてくださった」という言葉で訳しており、ヘブル人への手紙の著者が、メシアの御業に関してその翻訳に論拠を置いているという事実から生じる。この点については、Hebrews 10:5 の注釈を見よ。この困難を完全に満足のいく仕方で説明することは、今ではおそらく不可能であろう。

全焼のいけにえ — Isaiah 1:11 の注釈を見よ。この供え物の独特な点は、火によって焼き尽くされることであった。

罪のためのいけにえ — 罪のためのいけにえは、一般の罪、あるいは何らかの特定の罪の行為を贖うことを見込んで、特に罪のためにささげられる供え物ないし犠牲であった。モーセの律法には、これらの供え物の二種類が定められている。אשׁם 'âshâm という語で示される「罪過のためのいけにえ」、すなわち罪科や過失のための供え物と、ここで用いられている語で示される罪のためのいけにえである。これらは火によって焼き尽くされる供え物であった(Leviticus 5:1-19、Leviticus 6:1-7、Leviticus 14:10)。しかし本質的な「観念」は、それらが「罪」のため、あるいは何らかの罪科の行為のためのものであったことにある。広い意味では、これは血を流すすべての供え物や犠牲についても真実であったが、これらの場合には、礼拝者の注意が特に罪あるいは違反の事実に向けられたのである。

あなたは求められなかった — すなわち、従順と比較して、それらを求められなかった、ということである。言い換えれば、あなたは後者を良しとされた、ということである。これらの供え物は事態に応じるものではなかった。これらの犠牲に含まれていた以上のことがなされる必要があった。それらは罪を贖うことができず、罪科を取り除くことができず、良心に平安を与えることができなかった。なすべき御業を成し遂げるためには、より高い御業、最も高貴な種類の「従順」の行為に含まれる御業が要求されたのである。Psalm 51:16 と比較せよ。

Psalms 40章 7 Barnes' Notes on the Bible

Psalm 40:7

翻訳あり 本文を開く

そのとき、私は言いました — Hebrews 10:7 において、使徒はこれをメシアに適用している。その節の注解を見よ。これがこの箇所についての最も単純で満足すべき解釈である。この節の「そのとき」は「このことが事実であるので」、あるいは「事態がこのようであるので」を意味する。時間を指すのではなく、事の状態を指す。「なすべき必要なわざが、血を流すささげ物——動物の犠牲——によっては成し遂げられないことが確かである以上、このような状況の下で私は言った」。すなわち、私は来ることを決意し、意図した、ということである。

見よ。私は参ります — これをダビデに適用することがいかに可能であるかを見ることは困難であるが、これをメシアに適用することがいかに可能であるかを見ることは容易である。律法の下のすべての血を流すささげ物——人が捧げうるすべての犠牲——が罪を取り除くのに効力がなかったとき、メシアにおいては、その場合に応えるより高いわざ——死に至るまで及ぶ高貴な従順のわざ(Philippians 2:8)——を行うためにこの世界に来られたということは真実である。これこそまさに、使徒が Hebrews 10:7 においてこの箇所を用いる仕方であり、これは明らかに最も明白な意味である。それはいかなる意味においてもダビデに適用可能ではなく、メシアに完全に適用可能である。

書の巻物の中に — 直訳は「書の巻物の中に」。Luke 4:17 の注解を見よ。この句は最も自然には「律法の巻物」を指すが、記録あるいは預言がなされているいかなる書物や巻物をも含みうる。広い意味では、これが語られたと想定される時点までに神の命令によって書かれたすべてのものを包含する。すなわち、メシアによって語られたとすれば、旧約聖書のすべての書を含むのである。Hebrews 10:7 の注解を見よ。

私について書かれています — 記録されている、すなわち、私についての記録が存在する、ということである。とりわけこの点において、すなわち、神のみこころを行うことが彼の大いなる喜びとなるであろうという点においてである。この表現の正しい解釈は、言及されている「書」または「巻物」の中に、この点に関して彼を描写するよう意図された、あるいは彼への本来の言及を持つ何らかの記録が見出されなければならない、ということである。その意味は、従順という点についての一般的な記録が彼にも他の者にも等しく適用されうるということではなく、その記録が彼に適用され、彼の性質を描写するよう意図されたということである。これは、ダビデ自身にいかなる意味で適切に適用することもできない詩篇の箇所の一つである。彼についてはそのような先行する記録はなく、これが彼の性質となるであろうと述べた「書」や「巻物」のいかなる記述もない。ダビデの時代より前に書かれた聖書のいかなる書にも、律法の下の犠牲とささげ物によっては成し遂げられないことを成し遂げるために、彼が神のみこころを行うために来るであろうという約束も示唆もないのである。

それゆえ、この言葉の言及はメシアに向かれなければならない——律法の下に捧げられた犠牲と奉納物によっては成し遂げられなかったことを、彼が従順によって成し遂げるために来るであろうと表現し、あるいは断言している何らかの場所へ。このように理解され、メシアご自身の言葉とみなされるなら、その言及は、ダビデの時代に書かれた書だけでなく、旧約聖書のすべての書に向けられうる(それらはすべて彼が来られる前に完成していたからである)。しかし依然として、そのような宣言を、まさにこれらの言葉そのもので、それらの書のどこかに今見出すことはできないということは真実である。それゆえその意味は、これがメシアに関して至る所に含意されていた言葉であり、彼について与えられた描写の要旨であり、そこに預言された彼のわざを特徴づけるものである、ということである。すなわち、律法の下のすべての犠牲とささげ物が失敗し、罪を取り除くのに効力がないことがすべて示されたとき、そむきを取り除くのに効力あるより高いわざを行うために一人の方が来られるであろう、そしてそのわざは最高の意味で「従順」、あるいは「神のみこころを行うこと」と描写されうる、ということである。これは真実であった。旧約の言葉と制度は、彼を罪を取り除くことができる唯一の方として見つめていた。モーセの制度の全体精神は、世界の罪の贖いをなすことによって神のみこころを行うために救い主が来られることを前提としていた。それゆえその意味はこうである。「他のいかなるささげ物も罪を贖うことができないので、私は贖いをなすことによってあなたのみこころを行うために来ました。私がこのわざを行うであろうことは、私の来臨を預言した聖書の言葉であり、古い時代の摂理全体の精神と目的なのです」。