Barnes' Notes on the Bible
Albert Barnes · 1834
Albert Barnes' Notes on Revelation Of St. John The Divine (New Testament, English original, public domain). Sourced from the Christian Classics Ethereal Library (CCEL). Public domain. Retrieval mirror: biblehub.com/commentaries/barnes.
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この詩篇はダビデによって作られたと称するものであり、「聖歌隊の指揮者に」宛てられ、あるいは捧げられた詩篇のもう一つである。すなわち、彼がそれを適切な音楽に合わせるよう求められているものであり、それゆえ、特にヘブライ人の公の礼拝において用いられることを意図されたものの一つであると思われる。この表現の意味については、Psalm 4:1-8 の表題の注解を参照せよ。
この詩篇がどのような機会に作られたのかを確実に確定する方法はない。疑いなくそれは、ダビデの生涯に起こった試練のいくつかを念頭に置いたものである。というのも、この詩篇の感情が適切に当てはまり得るそのような試練が彼の生涯には多くあったからである。しかし、この詩篇自体に含まれる何ものからも、それらの苦しみのどれがここで念頭に置かれているのか、あるいはどれがこの詩篇を示唆したのかを今確定することは不可能であるので、憶測は無益であろう。また、たとえ彼が自分の生涯のどの特定の時期に言及しているのかを確定できたとしても、それはこの詩篇を解釈するうえで何の実質的な助けにもならないであろう。とはいえ、彼自身の生涯における何らかの苦難あるいは災いへの言及があったと推定される。そして、たとえこの詩篇が全体としてメシアを指し、その苦しみを描くことを意図されていたと想定される場合でも、そこで用いられている言葉はこの詩篇の作者の生涯における何かによって示唆されたものであり、彼が自分自身の試練と結びつけてメシアの将来の苦しみを熟慮するよう導かれたことはありそうなことである。
この詩篇の内容は次の通りである。
(1) 恐ろしい穴の中にいることで表わされた、ある災いあるいは深い悲しみの時への言及。彼は祈りに答えてそこから救い出されたのであり、その救出はあまりに著しいものであるので、そのために多くの者が神を賛美するよう導かれることになるであろう。Psalm 40:1-3。
(2) 主を自分の信頼とし、地の高ぶる者たちや、不誠実な者あるいは欺く者たちではなく、主に信頼を置く者の幸いについての陈述。Psalm 40:4。
(3) 主の多くのみわざに対する感謝に満ちた思い出。それは明らかに、あらゆる可能な仕方で主に仕える義務の基礎を据えるものとして、また直後に言及される従順の目的の「理由」としてのものである。Psalm 40:5。
(4) 彼が何をしたか、あるいは何をしようとしていたかの陈述。それは彼の義務の意識を、あるいは神が彼に求めておられる奉仕を表わすものである。Psalm 40:6-10。この詩篇における語り手は、神は彼にいけにえと供え物を――すなわちヘブライ人の儀式において定められた血を流すいけにえを――求めておらないと言う Psalm 40:6。神は彼が従順になるよう気持ちを向けさせ、求められているような従順を捧げる者として彼を備えられた(「あなたは私の耳を開かれた」)Psalm 40:6。彼は、彼に関する何らかの預言あるいは以前の記録に従って、従うために来た Psalm 40:7。彼は神のみこころを行うことに最高の喜びを見出した Psalm 40:8。そして、この取り決めとこの目的を追って、彼は神のみこころを知らせた――大いなる会衆の中で義を宣べ伝え、神の救いを忠実に告げ知らせたのである。Psalm 40:9-10。
(5) これらの事実に基づく祈りと嘆願。すなわち、彼の試練に、彼の危険に、彼を滅ぼそうとする敵たちの試みに、神の民の福祉と安全への彼の願いに基づくもの。Psalm 40:11-17。特に、
(a) なおも彼を取り囲んでいる苦しみから自分自身が救い出されるための祈り。Psalm 40:11-13。
(b) 彼に敵対する者たちが低められ、へりくだらされるための祈り。Psalm 40:14-15。
(c) 主を求める者たちが喜び楽しむための祈り。Psalm 40:16。そして
(d) 貧しく乏しい者である自分自身のための、神が自分の助け、自分の救い主であるという根拠に基づく祈り。Psalm 40:17。
ここで非常に重要で困難な問いが生じる。それは、この詩篇が元来だれを指していたのかという問いである。
この問いについて、次のような意見が存在してきた。
(1) それが元来、排他的にダビデを指しているという意見。
(2) それが元来、排他的にメシアを指していたという意見。
(3) それが二重の適用を受け得るという意見。すなわち、この詩篇の一部はダビデに、他の部分はダビデ自身の境遇によって示唆されたものとしてメシアに関係するという意見。そして
(4) Hebrews 10:5-9 においてメシアに適用されているこの詩篇の部分は、転用によって、あるいはヘブル人への手紙の作者の意味を表わすものとして適用されているのであって、その手紙の書き手の側では、この詩篇が元来何らかのメシア的関係を持つと断言しているわけではないという意見。
これらの意見を詳細に検討するには長くなりすぎるであろう。そして、この詩篇へのこの短い緒言において必要なことはすべて、私に正しいと思われる意見の理由をいくつか述べることであるかもしれない。すなわち、この詩篇が元来、排他的にメシアを指していたということ、言い換えれば、それが Psalm 2:1-12、Psalm 22、Isaiah 53:1-12 のような、旧約聖書の中で、霊感の御霊によって、その特徴のいくつかについて、また彼が受けることになる苦しみについてメシアを描くことを意図された著作の一つであるということである。
(1) そのような詩篇、そのような旧約聖書の部分は存在する。これは、聖書の霊感を信じるすべての者が認めるところである。メシアはユダヤ人の民の望みであった。メシアは彼らの最も荘厳な預言の主題であった。その国民は、彼らの偉大な救い主として彼を仰ぎ見ることに慣れていた。国民的災いのあらゆる時代に、彼らは彼が彼らの救出のために現れる時を待ち望んだ。彼は、いわば、彼らの国民文学の英雄であり、すべての聖なる書き手たちが待ち望んだ未来における明るい対象であり、その来臨と、その来臨から期待される祝福とが彼らの歌に力を与え、苦しみと悲しみの最も暗い日に彼らを励ました、栄光の救い主また救出者であった。イザヤの緒言の第7節を比較せよ。
(2) ヘブル人への手紙の作者は、この詩篇の一部を明確にメシアに適用している。Hebrews 10:5-9。彼が、この詩篇が元来メシアを指しているという信念をもってこれを引用し、転用の仕方でその言葉を用いたのではないということには、合理的な疑いの余地がない。というのも、彼は一つの論点を立証しよう、すなわち自分の述べていることが真実であることを証明しようと努めていたからである。彼は、この詩篇の箇所に「当時検討中であった論点についての証拠」として言及することによってこれを行っている。しかし、もし彼が、元来異なる目的を持っていた言葉を単に転用の仕方で引用しただけであるなら、この場合、証拠も論証も何もなかっただろう。彼の引用のまさに核心は、彼が、メシアを元来指している箇所を、その働きを特徴づけるものとして正当に引用し得るものとして提出しているという事実に基づいている。この詩篇がメシアに関係していることの(この事実から導かれる)証明は、二つの事柄から成る。
(a) それが霊感を受けた使徒によってそのように適用されていること。これについては、彼の霊感を認めるすべての者にとって、この問いを決定づけるものであると思われること。
(b) 彼がそのように適用したということが、その状況において、これが古くから認められていた解釈であったことを示していること。
彼はユダヤ人であった者たちに、すなわち、ヘブル人のいけにえに関する観点について自分の主張するところの真実性を納得させたいと望んでいた者たちに書いていた。この目的のために、旧約聖書に訴えることが必要であった。しかし、その論点への関連性が直ちに認められないような箇所を、彼が証拠として提出したであろうとは考えられない。それゆえ、その箇所は、使徒がそれを用いたのと同じ目的のためにヘブライ人自身によって普通に適用されていたか、あるいは、その適用がなされたとき、それほど明白で自明であり、彼らがそれに異議を唱えないであろうものであったと推定してよい。
(3) この詩篇全体が、解釈において何の無理も不自然もなくメシアに適用され得る。これはこの詩篇の解説において詳細に示されるであろうが、その間に、そのような適用における主要な困難に、またこの詩篇がメシアを指すという考えに対してそこから導かれる主要な反対に言及しておくことも不当ではあるまい。それらの主要なものは、次の諸点に関係している。
(a) Psalm 40:2 において、この詩篇の語り手は「彼はまた、私を恐ろしい穴から、泥の沼から引き上げ、私の足を岩の上に置き、私の歩みを確かにされた」と言っており、この根拠に基づいて、彼は神に感謝をささげている。しかし、これがメシアを指し、主イエスの場合に実際に成就したと想定することに、本当の困難はない。彼の敵たちはしばしば彼のいのちに対して陰謀を企てた。彼らは彼のためにわなを仕掛けた。彼らは彼を滅ぼそうと努めた。彼の危険は「恐ろしい穴」として、また「泥の沼」として十分に表わされ得る。そしてそれらの危険からの彼の救出は、そのような穴から、深い泥から引き上げられた者の情况と十分に比較され得る。たとえこれが詩篇作者自身の個人的経験を指すことを意図していたと想定した場合でも、なおその言葉は比喩的なものであり、そのような穴に投げ込まれること、あるいは泥の沼に沈むことによってよく表わされ得る何らかの危険、危急、苦難を指すことを意図していたに違いない。詩篇作者が、これが自分自身の生涯において現実に、文字通りに起こったと語ろうとしていたとは考えられない。それゆえ、この言葉は、何の不妥当もなく、メシアの試練と危険に、また彼を救い出される神のあわれみに満ちた介入に適用され得る。
(b) これをメシアに帰する際の第二の反対あるいは困難は、Psalm 40:12 において語られていることから導かれる。「私の不義が私を捕らえたので、私は顔を上げることができない。それらは私の頭の毛よりも多く、それゆえ私の心は衰える」。しかし、これをメシアに適用することの適切さに関して、二つの注釈がなされ得る。第一に、メシアが人々とこれほどまでに一つとされ、罪人たちの身代わりとしてこれほど真実のものとなり、贖いの深い悲しみの中で自分自身の魂において彼らの罪の結果をこれほど強烈に経験し、罪の悪に対する神の感覚を表わす苦しみをこれほど負ったのであって、これらの罪が彼自身のものであるかのようにこの言葉が彼に適用され得るということは、真実であり得る。彼は、それらが彼のものであるかのように――彼が罪人であったかのように――扱われた。彼はそれらをそれほどまでに自分のものとしたので、それらが自分のものであるかのように扱われること、またそれらが自分のものであるかのように自分が苦しんでいると感じることが適切であった。
それらが文字通り彼に転嫁され得なかったことは真実である。その語の正当な意味において彼が罪人でなかったことは真実である。その言葉の正当な意味において彼が「有罪」ではなく、神が常に彼が人格的に無罪であることをご覧になっていたことは真実である。しかしなお、贖いのみわざにおいて、彼があたかも罪人であったかのように扱われたこと、またこの意味において、彼がそのために苦しんだ罪を自分のものとして語り得たことは真実である。彼はそれらを自発的に引き受け、それらが自分のものであったかのようにそれらのために苦しんでいた。このように、私たちは Isaiah 53:4-6 に、彼に適用された同様の言葉を持っている。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」「彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの不義のために砕かれた。私たちに平安を与える懲らしめが彼の上にあった」「主は私たちすべての者の不義を彼に負わせられた」。もしこのような言葉が彼とその苦しみに正当に適用され得るのであれば、彼が自分自身を、罪ある人々とこれほどまでに一つである者とみなし、彼らの罪に帰せられるものをこれほど真実に負っている者とみなして、それらの罪を「あたかも」自分のものであるかのように語ることには、何の不妥当も不整合もあり得ない。ちょうど、友が負った負債であって、自分がそれを払う自発的な義務を自ら負ったものを、あたかも自分のものであるかのように語り、「もはや彼のものではなく、私のものである」と言い得るのと同様である。
贖い主と罪との関係に関する聖書の言葉は、しばしば、この言葉を示唆し、正当化するほど明白で著しい。2 Corinthians 5:21、Galatians 3:13 を参照せよ。第二に、結局のところ、この詩篇において「不義」と訳されている語が、ここでは単に「災い、苦しみ、悲しみ」を意味している可能性がある。(Hebrews 10:5 の注解を参照せよ。また、ヘブル人への手紙に関するステュアート Stuart 教授の補論 xx.、p. 594 を比較せよ。)ここで用いられているのと同じ語は、2 Samuel 16:12 においては、「主が私の苦しみをご覧になってくれるかもしれない」を意味している。「不義」と「災い」――「罪」と「刑罰」――は聖書において密接に結びついており、一方がしばしば他方の代わりに置かれるほどである。そして、聖なる書き手が自分の「罪」について語るとき、彼はしばしば、自分の罪の結果として自分の上に来た苦しみあるいは災いを意味している。同様に、メシアはここで、次のように理解され得る。すなわち、世の罪を自分の上に負ったことの結果として彼の上に来た災いあるいは禍のゆえに、「私の不義」――彼が引き受けた不義、あるいはイザヤの言葉において彼が「負った」不義――が「私を捕らえたので、私は顔を上げることができない」と言うことが適切であり、また、それらの数の多さを考慮して、「それらは私の頭の毛よりも多い。それゆえ、私の心は衰える」と言い得たのである。
(c) この詩篇のメシアへの適用に対する第三の反対は、Psalm 40:14-15 に見られるような敵たちに対するのろいの言葉を彼が発したであろうとは考えられないということである。「彼らを恥じさせ、混乱に陥らせてください。彼らを退けさせてください。彼らを荒れ果てさせてください」。これに対しては、このようなのろいの言葉は、ダビデの口においてと同様にメシアの口においても正当であり、そのいずれにおいても不当ではないと答えることができる。ダビデもメシアも、敬虔と神との敵に対して断罪の言葉を発した。どちらの場合にも悪意に満ちた感情があったという証拠はなく、罪を断罪することは最高の善意と矛盾しない。神はご自分の言葉において絶えずそれをなされ、摂理のみわざにおいてもしばしばそれをなされる。悪しき者は、あらゆる方面から自分の罪の断罪に会うことなしにこの世を歩むことはできない。また、大いなるさばきの日にすべての有罪の者たちに判決を下される方が、彼らの上に必ず来ることになるものをあらかじめ彼らに知らせることが不敬虔であったなどということはない。それゆえ、これらの反対は、この詩篇が全体としてメシアに適用可能であるとみなすことが不当であるという性質のものではない。
(4) この詩篇はダビデに適切に適用することはできず、また、メシア以外にそれが適用され得るだれかを私たちは知らない。神がいけにえと供え物を求めておられないという事実を念頭に置いて、ダビデが神の「みこころを行うために来た」ということは真実ではない Psalm 40:6-7。彼が神のみこころを行うことを喜び、そのように「巻物の書の中に」書かれているという事実を念頭に置いてこの世に来た、と彼について書かれていたということも真実ではない Psalm 40:7-8。彼の特徴的な働きが「大いなる会衆の中で義を宣べ伝える」ことであったということも真実ではない Psalm 40:9。しかし、これらすべてはメシアについては真実であった。これらの表現は彼にのみ適用され得るものであり、これらすべての事情を合わせ考えるなら、この詩篇全体が元来贖い主を指し、彼のみに適用されるものとして解釈されるべきであるという結論が正当なものと思われる。
この詩篇の終わりの部分 Psa 40:13-17 と Psalm 70:1-5 との間には著しい類似がある。実際、あの詩篇全体はこの詩篇の終わりの部分と同一である。なぜ私たちの前にあるこの詩篇のその部分がこのように繰り返されているのか、またなぜそれがこれから分離され、それ自体で一つの詩篇とされたのかは、まったく知られていない。それは書き写す際の誤りであったと考えることはできない。というのも、その誤りはあまりに重大であり、ほぼ確実に発見されていたはずだからである。おそらく最もよく説明できるのは、Psalm 70:1-5 の作者が、そこに記されている心の状態と境遇にあったと想定すること、また、自分の感情を表わす新しい詩篇を書く代わりに、すでに作られていたこの Psalm 40 の部分が、彼が表現したいと望んだことをこれほど正確に描写し、それ自体で一つの祈りとしてこれほど適していると彼がみなしたので、それゆえに彼はそれを書き写した、と想定することによってであろう。このように書き写され、その感情が繰り返されたという事実は、それが霊感によるものであるという想定を何ら減じるものではない。