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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Revelation 2章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

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使徒ヨハネは前章で自分の見た事柄を書き記したのち、今や神の命令に従い(Rev 1:19)、今ある事柄、すなわちアジアの七つの教会の現状を書き記し始める。彼はそれらの教会を特に詳しく知っており、深い配慮を抱いていた。彼は各教会の現状と状況に応じてそれぞれに手紙を書くよう指示を受け、各手紙をその教会の天使、すなわちその教会の牧者、より正確にはその教会の奉仕者に宛てるよう命じられた。彼らが天使と呼ばれるのは、人々に対する神の使者であるからである。本章において私たちは、I. エペソに送られたメッセージ、Rev 2:1-7。II. スミルナに送られたメッセージ、Rev 2:8-11。III. ペルガモに送られたメッセージ、Rev 2:12-17。IV. ティアティラに送られたメッセージ、Rev 2:18-29 等を見ることになる。

Revelation 2章 1-7 Matthew Henry's Complete Commentary

The Church in Ephesus (95 AD)

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エペソの教会(主後95年)

¹ エペソの教会の御使いに書き送れ。右の御手に七つの星を持ち、七つの金の燭台の間を歩く方がこう言われる。
² わたしはあなたの行いと労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪い者たちを忍ぶことができず、使徒と自称してはいない者たちためし、彼らの偽りを見抜いたことを知っている。
³ あなたは耐え忍び、わたしの名のために労苦し、弱り果てなかったことを知っている。
⁴ しかし、あなたに対して責めるべきことがある。あなたは初めの愛を捨てた。
⁵ だから、どこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしなお悔い改めなければ、わたしはあなたのところに速やかに行き、あなたの燭台をその場所から取り除くであろう。
⁶ しかし、あなたにはこのことがある。すなわち、ニコライト派の行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎む。
⁷ 耳のある者は、御霊が諸教会に語ることを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスの真ん中にあるいのちの木から実を食べることを許そう。

ここにおいて私たちは次を見る。

I. 序言。ここで見るべきは、1. これらの手紙のうちの第一が誰に送られたかである。エペソの教会に送られた。エペソの教会は使徒パウロによって植えられた有名な教会であり(Ac 19:1-41)、そののちヨハネによって水を注がれ、治められ、ヨハネがかなりの期間在那里としていた。テモテがこの時、この教会の御使い、すなわち唯一の牧者であり監督であったと考えることは難しい。彼は極めてすぐれた霊を持つ人であり、生来、人々の魂の良い状態を気にかける人であったから、この教会の奉仕者たちに与えられた責めを受けるほど怠惰になったとは考えにくい。見るべきは、2. このエペソに送られた手紙が誰から来たかである。ここには前章でヨハネに現れたキリストに与えられた称号の一つが出てくる。すなわち七つの星を右の御手に持ち、七つの金の燭台の間を歩く方である、Rev 1:13,16。この称号は二つの部分からなる。—(1.) 星を右の御手に持つ方。キリストの奉仕者たちは彼の特別な配慮と保護の下にある。星の数を知り、その名前を呼び、すばるの甘い影響を結び、オリオンの帯を解くことは神の栄光である。そして世に対する星よりも教会に対して更大的祝福である福音の奉仕者たちがキリストの御手のうちにあることは、主イエス・キリストの栄光である。彼は彼らのすべての動きを導き、それぞれの軌道に配置し、光と影響力を満たし、彼らを支える。そうでなければ彼らはすぐに落ちる星となるであろう。彼らは彼の御手にある器具であり、彼らのなすすべての良いことは、彼らと共におられる彼の御手によってなされる。(2.) 彼は金の燭台の間を歩く。これは、前の言葉が彼の奉仕者たちとの関係を示すように、彼がその諸教会と結んでいる関係を暗示する。キリストは極めて親密な仕方でご自身の諸教会のうちに臨在し、彼らと交わられる。彼は彼らの状態を知り、観察し、人が自分の庭を歩いて喜ぶように、彼らを喜ばれる。キリストは天にいますが、地上のご自身の諸教会の間を歩き、彼らのうちに何が悪いか、何が必要かを観察される。これは諸教会の世話をする人々にとって大きな励みである。主イエスが彼らをご自身のひなしの上に刻まれたからである。

II. 手紙の内容。後に続くほとんどの手紙と同様、ここには次がある。

1. キリストがこの教会、すなわち奉仕者たちと成員たちに与えられた称賛。彼は常に彼らの行いを知っておられることを宣言することによってこの称賛を始められる。それゆえ、彼の称賛も責めもともに厳粛に受け止められなければならない。彼はいずれにおいても当てずっぽうに語るのではなく、何を語っておられるかを知っておられるからである。さて、エペソの教会は次の点で称賛される。(1.) 務めにおける勤勉さのゆえに。わたしはあなたの行いと労苦を知っている、Rev 2:2。これはより直接的にこの教会の奉仕者たちを指すかもしれない。彼らは労苦し、勤勉であった。尊い職務は務めを要求する。キリストの御手にある星は常に動き、周囲のすべての人に光を分け与えなければならない。わたしの名のためにあなたは労苦し、弱り果てなかった、Rev 2:3。キリストはしもべたちが彼のためになす毎日の働き、毎時の働きを計算しておられる。そして彼らの労苦は主にあって無駄にならない。(2.) 苦しみのうちの忍耐のゆえに。あなたの労苦とあなたの忍耐、Rev 2:2。私たちが勤勉であるだけでは十分ではない。私たちは忍耐し、キリストの良い兵士として苦難を忍ばなければならない。奉仕者たちは大きな忍耐を持ち、それを行使しなければならず、いかなるクリスチャンもそれなしにはありえない。人々の傷つけや摂理の責めを耐える「耐える忍耐」がなければならず、神の御旨を行ったのち、約束を受けるために待つ「待つ忍耐」もなければならない。あなたは耐え忍んだ、Rev 2:3。私たちは、進んで良く全うするために忍耐を必要とするような困難に、自分の道と務めのうちで出会うであろう。(3.) 悪に対する熱心のゆえに。あなたは悪い者たちを忍ぶことができない、Rev 2:2。罪を黙認しないこと、まして許容しないことは、クリスチャンの忍耐とよく調和する。私たちは人々にはすべての柔和を示さなければならないが、彼らの罪に対しては正当な熱心を示さなければならない。彼らの熱心がいっそう称賛に値したのは、それが知識に基づくものであり、悪い人々の主張と振る舞いと教えをあらかじめ試したのちに出た分別ある熱心であったからである。使徒と自称してはいない者たちをためし、彼らが偽りを語る者であることを見抜いた。真の熱心は分別をもって進む。試される前には誰も排斥されてはならない。この教会には、普通の奉仕者ではなく使徒であると自称する者たちが立ち上がったが、彼らの主張は調べられた結果、空しく偽りであることが明らかになった。真理を公正に探求する者は、それを知るようになりうる。

2. この教会に与えられた責め。しかし、あなたに対して責めるべきことがある、Rev 2:4。多くの良いものを持つ人々にも、大きく間違っているところがあるかもしれない。私たちの主イエスは、公正な主人かつ裁き主として、両方に気を留けられる。彼はまず良いところに目を留め、それを語ることを最も喜ばれるが、悪いところにも目を留め、それを忠実に責められる。キリストがこの教会に問うた罪は、聖なる愛と熱心が衰え、傾いたことであった。あなたは初めの愛を捨てた。これはその愛の対象を捨てて離れたという意味ではなく、初めに現れた熱い程度を失ったという意味である。見よ。(1.) 人々がキリストと聖性と天に対して初めに抱く感情は、通常生き生きとして暖かい。神はイスラエルの婚約の時の愛、すなわち彼がどこへ行くにも従おうとした愛を思い出された。(2.) これらの生き生きとした感情は、それを絶えず実行のうちに保つために大きな注意と勤勉が払われなければ、弱まり冷えるであろう。(3.) キリストはご自身の民が彼に対して緩み、冷たくなるのを見るとき、悲しみ、不快とされる。そして何らかの仕方で、彼らがそのようにすることが彼の喜びでないことを悟らせられる。

3. キリストが彼らに与えられた勧めと助言。だから、どこから落ちたかを思い起こし、悔い改めよ等。(1.) 初めの愛を失った者はどこから落ちたかを思い起こさなければならない。彼らは現在の状態を以前の状態と比較し、あの時が今よりもどれほど良かったかを考えなければならない。初めの愛を捨てたことによって、どれほど多くの平安と力と純潔と喜びを失ったか、夜にどれほど安らかに横たわり眠ることができたか、朝にどれほど喜ばしく目覚めることができたか、苦難をどれほどよく耐えることができたか、摂理の恵みをどれほどふさわしく享受できたか、死についての思いがどれほど容易であったか、天に対する願いと望みがどれほど強かったかを考えなければならない。(2.) 彼らは悔い改めなければならない。彼らは自分の罪深い衰退について心の中で悲しみ、恥じなければならない。それについて自分を責め、自分を恥じ、神の御前でへりくだって告白し、それについて自分を裁き、罪に定めなければならない。(3.) 彼らは戻って初めの行いをしなければならない。彼らはいわば再び始めなければならず、最初の誤った一歩を踏み出した場所まで一歩ずつ戻らなければならない。彼らは初めの熱心と柔らかさと真剣さを再び生かし、回復するように努めなければならず、神の道に初めて足を踏み入れたときと同じように切に祈り、勤勉に目を覚じていなければならない。

4. この良い勧めは次のように強められ、促される。(1.) それがなおざりにされる場合の厳しい脅しによって。わたしはあなたのところに速やかに行き、あなたの燭台をその場所から取り除くであろう。キリストの恵みと御霊の臨在を軽んじれば、彼の不快の臨在を予期しなければならない。彼は悔い改めない諸教会と罪人たちに、審判の仕方で、しかも突然、驚くべき仕方で来られる。彼は彼らを教会でないものとし、彼らからご自身の福音と奉仕者たちと定めを取り去られる。福音が移されるなら、諸教会や諸教会の御使いたちが何をできようか。(2.) 彼らのうちにまだ残っている良い点を励ましとして言及することによって。しかし、あなたにはこのことがある。すなわち、あなたはニコライト派の行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎む、Rev 2:6。「たといあなたは良いものへの愛においては衰えたが、悪いもの、とりわけ著しく忌まわしいものへの憎しみは保っている」。ニコライト派はクリスチャンの名の下に自分自身を隠した放縦な一派であった。彼らは憎むべき教えを抱き、憎むべき行いを犯した。それらはキリストとすべての真のクリスチャンに憎まれるものであった。エペソの教会がそれらの悪い教えと行いに対して正当な熱心と嫌悪を抱いていたことは、この教会の称賛として言及される。真理と誤り、善と悪の間の無関心な精神は愛や柔和と呼ばれるかもしれないが、キリストに喜ばれるものではない。私たちの救い主はこの親切な称賛を厳しい脅しに付け加えて、勧めをより効果的にされた。

III. この手紙の結び。後に続く手紙と同様、ここには次がある。

1. 注意して聞くよう招くこと。耳のある者は、御霊が諸教会に語ることを聞くがよい。見よ。(1.) 聖書に書かれているものは神の御霊が語られたものである。(2.) 一つの教会に語られたことは、すべての場所と時代のすべての教会に関わる。(3.) 私たちは神の言葉に耳を傾けることほど、自分の聴覚の能力をよく用いることはできない。そしてそれをこの目的に用いないなら、その能力を失うに値する。今、神の招きを聞こうとしない者は、ついには全く何も聞く能力を持たなかったならよかったのにと願うようになるであろう。

2. 勝利を得る者に対する大きなあわれみの約束。クリスチャンのいのちは、罪とサタンと世と肉に対する戦いである。私たちがこの戦いに加わるだけでは十分ではない。私たちはそれを終わりまで追い求めなければならず、霊的な敵に決して屈服せず、勝利を得るまで良き戦いを戦わなければならない。すべて忍耐するクリスチャンがそうするように。そしてその戦いと勝利は栄光ある凱旋と報いを持つであろう。ここで勝利者に約束されているのは、彼らが神のパラダイスの真ん中にあるいのちの木から実を食べるようになることである。彼らは、アダムが自分の試練の過程をうまく通過していたなら得たであろう聖性の完全と、そのうちでの確証を得るであろう。アダムはそのときパラダイスの真ん中にあったいのちの木から実を食べたであろうし、それは彼の聖く幸いな状態を確証する聖礼典となったであろう。このように、クリスチャンの試練と戦いにおいて忍耐するすべての者は、いのちの木であるキリストから、神のパラダイスのうちで聖性と幸福の完全と確証を得るであろう。それは地のパラダイスではなく、天のパラダイスである、Rev 22:1,2。

Revelation 2章 8-11 Matthew Henry's Complete Commentary

The Church in Smyrna (95 AD)

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スミルナの教会(主後95年)

⁸ スミルナの教会の御使いに書き送れ。最初であり最後であり、死んで、また生きた方が言われる。
⁹ わたしはあなたの行いと苦難と貧しさを知っている。しかしあなたは富んでいる。また、自称ユダヤ人でありながらそうでなく、サタンの会堂である者たちの神けがしも知っている。
¹⁰ あなたが将来受ける苦しみを少しも恐れてはならない。見よ。悪魔はあなたがたのうちの数人を牢に投げ入れて試みられるようにする。あなたがたは十日の間苦難を受ける。死に至るまで忠実であれ。そうすればわたしはいのちの冠をあなたに与えよう。
¹¹ 耳のある者は、御霊が教会たちに語ることを聞くがよい。勝利する者は第二の死の害を受けない。

さて私たちはアジアの教会のうちのもう一つの教会に送られた第二の手紙に進む。ここでも前と同様に観察せよ。

I. 二つの部分からなる前書き、または銘辞。1. 宛名は、この手紙がより明確かつ直接だれに送られたかを知らせる。スミルナの教会の御使いに。スミルナは今日でも私たちの商人によく知られた場所であり、交易と富の大きな都であった。おそらく七つの都のうち今も同じ名で知られる唯一の都であろう。しかし今は回教に覆われ、もはやキリストの教会としては区別されない。2. 署名は、私たちの主イエスの栄光ある称号のうちのもう一つを含む。すなわち最初であり最後であり、死んで、また生きた方という称号で、Rev 1:17,18 から取られた。(1.) イエス・キリストは最初であり最後である。この世で私たちに許されているのは、ごくわずかな時間の断片にすぎない。しかし私たちの贖い主は最初であり最後である。神は最初である。すべてのものが神によって造られ、神はすべてのものに先立って神とともにあり、神ご自身が神であったからである。神は最後である。すべてのものが神のために造られ、神がすべてのもののさばき手となるからである。これは確かに永遠から永遠にいます神の称号であり、神と人との間の変わらない仲保者、きのうも、きょうも、いつまでも同じイエスの称号である。神は最初であった。族長時代に神によって教会の基礎が置かれたからである。神は最後である。時の終わりに神によって角石が bring forth されて置かれるからである。(2.) 神は死んで、また生きた。神は死んだ。私たちの罪のために死なれた。神は生きている。私たちの義とされるために再び生きられ、私たちのために常に生きてとりなしをされるからである。神は死んだ。死ぬことによって私たちのために救いを買われた。神は生きている。神のいのちによってこの救いを私たちに適用される。そして私たちが敵であったとき、神の死によって和解させられたとしたら、和解させられた私たちは、なおさら神のいのちによって救われる。神の死を私たちは聖餐のたびごとに記念し、神の復活といのちは安息日のたびごとに記念する。

II. スミルナに送られたこの手紙の主題。ここでキリストはご自身の全知、すなわち人々のすべての行い、特に神の教会のすべての行いを完全に知っておられることを共通して宣言された後、次のことを認められる。

1. 彼らが霊的な状態において成し遂げた進歩。これは短い括弧の中に入ってくるが、非常に強調的である。しかしあなたは富んでいる(Rev 2:10)。世的なものでは貧しいが、霊的なものでは富んでいる。心の貧しい者でありながら恵みに富む。彼らの霊的な富は外側の貧しさによってさらに際立つ。世的なものでは富んでいるが、霊的なものでは貧しい者が多くいる。ラオデキヤの教会がそうであった。外側では貧しいが内側では富んでいる者もいる。信仰と良いわざに富み、特権に富み、担保と贈与証書に富み、望みに富み、将来受け継ぐものに富む。霊的な富は通常大きな勤勉の報酬である。勤勉な手は富む。霊的な豊かさのあるところでは、外側の貧しさはより良く耐えられる。神の民がキリストと良い良心のゆえに世的なものにおいて貧しくされる時、神ははるかに満たされ、永らえる霊的な富をもってそれをすべて償われる。

2. 彼らの苦難。わたしはあなたの苦難とあなたの貧しさを知っている。これは彼らが受けた迫害、財産を奪われることまでも指す。キリストに忠実であろうとする者は多くの苦難を通過することを期待しなければならない。しかしイエス・キリストは彼らのすべての苦しみを特別に認められる。彼らのすべての苦しみのうちに、神はともに苦しみ、彼らを苦しめる者たちには苦難をもって報い、苦しめられる者たちには神ご自身とともに安息を与えられる。

3. 神は彼らの敵の悪さと偽りを知っておられる。自称ユダヤ人でありながらそうでない者たちの神けがしを知っている。すなわち、神が彼らを退けられた後にもユダヤ人が誇ったように、自分たちが神の唯一で特別な契約の民であると主張する者たちを指す。あるいは今や古びただけでなく廃止されたユダヤ人の儀式と祭式を立てようとする者たちを指す。これらは自分たちだけが世にある神の教会であると言うかもしれないが、実際にはサタンの会堂である。観察せよ。(1.) キリストが世に教会、すなわち神の霊的イスラエルを持っておられるように、悪魔も自分の会堂を持つ。福音の真理に反対して立てられ、滅びに至る誤りを助長し広める集会、福音の礼拝の純粋さと霊性に反対して立てられ、人々のむなしい考案と、神の思いのうちに決して入ったことのない儀式と祭式を助長し広める集会は、すべてサタンの会堂である。サタンがそれらの上に立ち、そのうちに働き、その利益がそれらによって仕えられ、サタンはそこから恐ろしい礼拝と誉れを受ける。(2.) サタンの会堂が自分たちを神の教会あるいはイスラエルであると称することは、神けがしにほかならない。神の御名がサタンの利益を促進し後援するために用いられる時、神は大いに侮辱される。神はこの神けがしに大いに憤り、それにとどまる者たちに正当な復讐をされる。

4. 神はご自身の民の将来の試練を前もって知り、彼らに前もって警告し、その試練に立ち向かう武装を前もって備えさせる。(1.) 神は将来の試練を前もって警告される。悪魔はあなたがたのうちの数人を牢に投げ入れ、あなたがたは苦難を受ける、Rev 2:10。神の民はこの世で一連の連続する苦難を期待しなければならず、彼らの苦難は通常さらに高くなる。彼らは以前、苦難によって貧しくされたが、今は牢に入れられる。観察せよ。神の民を迫害するように自分の道具、すなわち悪人を扇動するのは悪魔である。暴君と迫害者は悪魔の道具である。彼らは自分たちの罪深い悪意を満たしながらも、自分たちが悪魔的な悪意によって動かされていることを知らない。(2.) キリストは近づくこれらの苦難に向かって彼らを前もって武装させる。[1.] 神の勧めによって。これらのことを少しも恐れてはならない。これは命令のことばであるだけでなく、効力のことばでもある。奴隷的な恐れを禁じるだけでなく、それを制圧し、たましいに力と勇気を備えさせる。[2.] 彼らの苦難がどのように軽減され、限定されるかを示すことによって。第一に、それは普遍的ではない。牢に投げ入れられるのは彼らすべてではなく一部であり、それを最もよく耐え、ほかの聖徒たちの訪問と慰めを期待できる者たちであろう。第二に、それは永続的ではなく、定められた期間、しかも短い期間のためである。十日である。それは永遠の苦難ではなく、選ばれた者たちのためにその期間は短くされる。第三に、それは彼らを滅ぼすためではなく、試みるためである。彼らの信仰と忍耐と勇気が証明され、向上し、誉れと栄光に至ることが示されるためである。[3.] 彼らの忠実さに栄光ある報いを提示し、約束することによって。死に至るまで忠実であれ。そうすればわたしはいのちの冠をあなたに与えよう。観察せよ。第一に、報いの確実性。わたしはあなたに与えよう。それを行う力のある方が言われ、そうすると引き受けられた。彼らは神の御手から直接報いを受け、彼らのどんな敵もそれを神の御手から奪い取ったり、彼らの頭から引きおろしたりできない。第二に、その報いのふさわしさ。1. 冠は彼らの貧しさと忠実さと戦いに報いる。2. いのちの冠は死に至るまで忠実な者たち、死ぬ時まで忠実な者たち、キリストへの忠誠によっていのちそのものを渡す者たちに報いる。神の仕えのうちにすり減らしたいのち、あるいは神の大義のために捧げられたいのちは、もう一つの、はるかにまさる、永遠のいのちをもって報いられる。

III. このことばの結論。それは前と同様に、1. 普遍的な注意への招きで終わる。すべての人、全世界が、キリストとその教会たちの間で交わされることを聞くべきである。キリストがどのように彼らをほめ、どのように慰め、どのように彼らの失敗を責め、どのように彼らの忠実さに報いるかを。神の民に対する神の扱いを観察することは、世界のすべての住民に関わる。全世界はこれによって教訓と知恵を学ぶことができる。2. 勝利するキリスト者への恵み深い約束で終わる。勝利する者は第二の死の害を受けない、Rev 2:11。観察せよ。(1.) 第一の死だけでなく、第二の死もある。体が死んだ後に来る死である。(2.) この第二の死は第一の死より言葉にできないほど悪い。死ぬ際の苦悩と苦痛においても(それは支えの混じらないたましいの苦悩である)、持続においてもそうである。それは永遠の死、死の死を死ぬこと、死んでまた常に死に続けることである。これは確かに有害であり、その下に落ちるすべての者にとって致命的に有害である。(3.) この有害な、破壊的な死から、キリストはご自身のすべての忠実なしもべたちを救われる。第二の死は第一の復活にあずかる者たちを支配する力を持たない。第一の死も彼らを害せず、第二の死も彼らを支配する力を持たない。

Revelation 2章 12-17 Matthew Henry's Complete Commentary

The Church in Pergamos (95 AD)

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ペルガモの教会(主後95年)

¹² ペルガモの教会の御使いに書き送れ。両刃の鋭い剣を持つ方がこう言われる。
¹³ わたしはあなたの行いを知っている。あなたが住んでいる所、すなわちサタンの王座のある所も知っている。しかしあなたはわたしの名を堅く保ち、わたしの忠実な殉教者アンテパスがあなたがたの間で殺されたあの日々、すなわちサタンが住む所においても、わたしの信仰を否まなかった。
¹⁴ しかし、あなたに対して非難すべきことがいくつかある。あなたのところに、バラムの教えを守る者たちがいるからである。バラムはバラクに教えて、イスラエルの子らの前に绊脚石を置き、偶像にささげたものを食べさせ、不品行を行わせた。
¹⁵ 同様に、あなたのところにもニコライト派の教えを守る者たちがいる。わたしはこれを憎む。
¹⁶ だから、悔い改めよ。そうしなければ、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣で彼らと戦うであろう。
¹⁷ 耳のある者は、御霊が諸教会に語ることを聞くがよい。勝利を得る者には、わたしは隠されたマナを食べさせよう。また白い石を与えよう。その石には、受ける者以外だれも知らない新しい名が書き記されている。

ここでも私たちは次を考察すべきである。

I. この言葉の表題。1. 誰に送られたか。ペルガモの教会の御使いに。 これが古いトロイの廃墟の上に建てられた都市、新しいトロイ(かつて私たちのロンドンがそう呼ばれたように)であったか、同じ名のほかの都市であったかは確かでもなく重要でもない。それはキリストが福音の宣教と、その御霊の恵みによってみ言葉を有効なものとされることによって、福音の教会を召し、制定された場所であった。2. この言葉をペルガモに送ったのは誰か。ここでご自身を両刃の鋭い剣を持つ者(Rev 1:16)として描写されるのと同じイエスである。その口から両刃の鋭い剣が出た。 ある人々は、各手紙の前に置かれたキリストのいくつかの称号のうちに、それぞれの教会の状態にふさわしいものがあることを観察した。たとえばエペソに送られた手紙において、まどろみ衰えている教会を覚めさせ、回復させるのに、星をその手に持ち、金の燭台の間を歩く者として語るキリストの声を聞くほどふさわしいものが他に何があろうか。ペルガモの教会は腐敗した心を持つ人々に悩まされていた。彼らは教会の信仰も品行も腐敗させるためにできる限りのことをした。そしてキリストはご自分の言葉の剣によって彼らと戦うことを決意されたので、両刃の鋭い剣を持つ者という称号を取られた。(1.) 神の言葉は剣である。それは攻撃と防御の両方の武器であり、神の御手の中では罪も罪人も殺すことができる。(2.) それは鋭い剣である。どんなに堅い心でもそれが切り裂くことができる。それは魂と霊の間を分けることができる。すなわち魂と、習慣によってもう一つの魂となった、あるいは魂に本質的なもののように思われる罪深い習慣の間を。(3.) それは両刃の剣である。それはあらゆる方向に向き、切る。その時代の違反者に対する律法の刃があり、その時代を軽視する者に対する福音の刃がある。傷をつける刃があり、いやすためにうんだ傷口を開く刃がある。この剣の刃を逃れる道はない。右にそれればその側にも刃があり、左にそれればその側の剣の刃の上に落ちる。それはあらゆる方向に向く。

II. 表題から私たちは手紙の内容に進む。その方法は残りの手紙で観察されるのとほぼ同じである。ここで、

  1. キリストはこの教会が出会った試練と困難に注意を払われる。わたしはあなたの行いを知っている。あなたが住んでいる所も等、Rev 2:13。神のしもべたちの行いは、彼らがその行いをした状況が正当に考慮されるときに最もよく知られる。さて、この教会の良い行いに非常に多くの光を添えたのは、この教会が植えられた場所の状況であった。それはサタンの王座のある場所であった。私たちの偉大な主は、私たちが住む場所で義務のために持つすべての利点と機会に注意を払われるように、私たちが住む場所から出会うすべての誘惑と落胆にも注意を払われ、恵み深くそれらを斟酌される。この民はサタンの王座のある所、すなわち彼が宮廷を置いている所に住んでいた。彼の巡回区域は全世界に及ぶが、彼の王座は悪と誤りと残酷で悪名高いいくつかの場所にある。ある人々はこの都市のローマ総督がキリスト者たちに最も暴力的な敵であったと考える。そして迫害の座はサタンの座である。

  2. 彼は彼らの堅固さを称賛される。あなたはわたしの名を堅く保ち、わたしの信仰を否まらなかった。 これら二つの表現は意味においてほぼ同じである。しかし前者は結果を、後者は原因あるいは手段を意味するかもしれない。(1.) 「あなたはわたしの名を堅く保った。 あなたはわたしとの関係を恥じず、わたしの名があなたの上に置かれ、妻が夫の名を帯びるようにあなたがわたしの名で呼ばれることを、あなたの誉れとみなす。あなたはこれを自分の誉れと特権として堅く保っている。」(2.) 「あなたをこのように忠実にしたのは信仰の恵みである。あなたが否まなかったものは福音の偉大な教理であり、あなたはキリスト者の信仰から離れなかった。そしてそれによってあなたは忠実に保たれた。」私たちの信仰は私たちの忠実さに大きな影響を及ぼすであろう。キリストの信仰を否む人々は自分の誠実さと、神と良心に対する忠実さを非常に誇るかもしれない。しかし、まことの信仰を手放した者たちが忠実さを保った例は稀である。通常、人々が信仰を破船させるその岩で、彼らは良き良心をも破船させる。そしてここで私たちの祝福された主は、この教会が住んでいた場所の状況だけでなく、時代の状況からもその忠実さをさらに大きく引き立たせられる。彼らはアンテパス、その忠実な殉教者が彼らの間で殺されたあの日々にも堅固であった。この人が誰であったか、その名前に何か神秘的な意味があるかについては、私たちは確かな記録を持たない。彼はキリストの忠実な弟子であり、そのゆえに殉教の死を遂げ、サタンの住む所で自分の信仰と忠誠を血によって封印した。そこにいた残りの信者たちはこれを知り、見たが、落胆したり堅固さから引き離されたりしなかった。これは彼らの誉れへの加算として言及されている。

  3. 彼は彼らの罪深い欠点を責められる(Rev 2:14)。しかし、あなたに対して非難すべきことがいくつかある。あなたのところにバラムの教えを守る者たちがいる等、そしてニコライト派の教えを守る者たちがいるが、わたしはこれを憎む。 偶像にささげたものを食べることが合法であり、単純な不品行は罪ではないと教える者たちがいた。彼らは不純な礼拝によって人々を不純な行いに引き込み、バラムがイスラエルの人々にしたようにした。観察せよ。(1.) 霊の汚れと肉の汚れはしばしば共にある。腐敗した教理と腐敗した礼拝はしばしば腐敗した行ないへと導く。(2.) いかなる異端の指導者たちの名をその従者たちに固定することも非常に正当である。それは私たちが誰を意味するかを告げる最も短い方法である。(3.) 腐敗した原理と行ないを持つ人々との交わりを続けることは、神を不快にさせ、全体の共同体の上に罪責と傷を引き込む。彼らはほかの人々の罪にあずかる者となる。教会としては、異端や不道徳のゆえに人の体を肉体的刑罰で罰する権威はないが、その交わりから彼らを除外する権威はある。もしそうしないなら、教会の頭であり立法者であるキリストはそれを不快に思われるであろう。

  4. 彼は彼らに悔い改めを促される。悔い改めよ。そうしなければ、わたしはすぐにあなたのところに行く等、Rev 2:16。ここで観察せよ。(1.) 悔い改めは罪人たちだけでなく聖徒たちの務めでもある。それは福音的な務めである。(2.) 個人だけでなく教会と共同体の務めでもある。共に罪を犯した者は共に悔い改めるべきである。(3.) キリスト者の共同体は、黙認によってであれ、ほかの人々の罪に加わった限りにおいて、その罪を悔い改める義務がある。(4.) 神が教会の腐敗した成員を罰するために来られるとき、そのような者らがその交わりの中に留まることを許した教会そのものを責められ、嵐のいくらかの滴が全体の共同体の上に落ちる。(5.) キリストの口の剣ほど深く切り、致命的な傷を与える剣はない。ただみ言葉の脅かしが罪人の良心に深く適用されさえすれば、彼はやがて自分自身にとって恐怖となる。これらの脅かしが執行されれば、その罪人は完全に断ち切られる。神の言葉は遅かれ早かれ罪人たちを捕らえる。彼らの罪の自覚のためであれ、混乱と滅びのためであれ。

III. この手紙の結論がある。そこには通常の普遍的注意の要求の後、勝利する者たちに大きな恵みの約束がある。彼らは隠されたマナを食べ、新しい名と白い石を持つであろう。それは受ける者以外だれも知らない、Rev 2:17。1. 隠されたマナ。これはキリストとの交わりの中で彼の御霊が与える影響と慰めであり、その支持のために時折天から魂の中に下り、聖徒たちと御使いたちが天でどのように生きているかを少し味合わせるものである。これは残りの世には隠されている。他人はこの喜びに干渉しない。 そしてそれは至聖所にある契約の箱であるキリストのうちに蓄えられている。2. 新しい名が刻まれた白い石。この白い石は罪の罪責からの赦免を意味する。これは裁判で無罪とされた者に白い石を与え、有罪とされた者に黒い石を与えた古代の慣習を暗示する。新しい名は子とされることの名である。子とされた者はその受け入れられた家族の名を取った。人の子とされたことの証拠は彼自身以外は読めない。彼は常にそれを読めるわけではないが、忍耐すれば子であることの証拠と受け継ぐものの両方を持つであろう。

Revelation 2章 18-29 Matthew Henry's Complete Commentary

The Church in Thyatira (95 AD)

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テアテラの教会(主後95年)

¹⁸ テアテラの教会の御使いに書き送れ。その目は燃える炎のようであり、その足は純金のような神の子がこう言われる。
¹⁹ わたしはあなたの行いを知っている。あなたの愛と奉仕と信仰と忍耐を、そしてあなたの後の行いが初めの行いよりも多いことを。
²⁰ しかし、あなたに対して非難すべきことがいくつかある。あなたが、自称預言者である女イゼベルを許し、わたしのしもべたちを教えて惑わし、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせているからである。
²¹ わたしは彼女に悔い改める機会を与えたが、彼女はその不品行を悔い改めようとしない。
²² 見よ。わたしは彼女を床に投げ入れる。また彼女と姦淫を行う者たちを大きな患難の中に投げ入れる。ただし、彼らがその行いを悔い改めない限り。
²³ わたしは彼女の子たちを死で殺す。そしてすべての教会は、わたしが心と思いを探る者であることを知るであろう。わたしはあなたがたひとりびとりに、その行いに従って報いる。
²⁴ しかしテアテラにいるほかの人々、すなわちこの教えを持たず、彼らが言うようなサタンの深いことを知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたの上に、これ以上の重荷を負わせない。
²⁵ ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが来るまで堅く保て。
²⁶ 勝利を得て、わたしのわざを終わりまで守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
²⁷ 彼は鉄の杖で彼らを治める。陶器が打ち砕かれるように。わたしが父から受けたのと同じように。
²⁸ わたしは彼に明けの星を与えよう。
²⁹ 耳のある者は、御霊が諸教会に語ることを聞くがよい。

各手紙の形式はほぼ同じである。そしてこれにおいても、ほかのものと同様に、表題、内容、結論を考察しなければならない。

I. 表題。1. 誰に向けられているか。テアテラの教会の御使いに。 それは代総督アジアの都市であり、北はミシア、南はリュディアに接し、商業の町であった。そこから紫布を売る女ルデヤが出た。彼女はマケドニヤのピリピに、おそらく商売のための用事でいて、そこでパウロが語るのを聞き、 神が彼女の心を開いて、語られたことに心を留めさせ、信じてバプテスマを受け、 そこでパウロとシラを迎え入れた。彼女の手段によって福音が彼女の故郷の都市テアテラにもたらされたかどうかは確かでない。しかしそこに福音があり、福音の教会を形成するのに成功したことを、この手紙が保証する。2. 誰から送られたか。神の子から。ここで炎のような目と、純金のような足を持つ者として描写される。ここでのその一般的な称号は神の子、すなわち神の永遠の、唯一の begotten の子である。これは彼が父と同じ性質を持つが、異なり従属的な仕方で存在することを意味する。ここで持つ彼の描写は二つの特徴による。(1) その目が炎のようであること。彼の貫き通す、洞察する、完全な知識を意味する。すべての人とすべての事に対する完全な洞察。人の子らの心を探り、思いを試す者(Rev 2:23)であり、すべての教会にそうであることを知らしめる。(2) その足が純金のようであること。その摂理の働きが堅実で、恐るべき、すべて純粋で聖であること。彼が完全な知恵をもってさばかれるように、完全な力と堅実さをもって行動される。

II. この手紙の内容あるいは主題。それはほかのものと同じく次を含む。

  1. キリストがこの教会、奉仕、民について与える誉れある特徴と称賛。それは彼らに見知らぬ者ではなく、彼らと、彼らが行動する原理をよく知る者によって与えられる。さてこの教会においてキリストは誉れある言及をされる。(1) 彼らの愛について。より一般的には、すべての人に善を行う性向、あるいはより特別には、信仰の家族に対して。愛のない所に宗教はない。(2) 彼らの奉仕、彼らの務め。これは主に教会の役員たちに関する。言葉と教理において労した者たち。(3) 彼らの信仰。これは他のすべての恵み、その愛と奉仕の両方を動かした恵みであった。(4) 彼らの忍耐。 ほかの人々に最も愛深く、自分の持ち場で最も勤勉で、最も忠実な者たちでさえ、自分たちの忍耐を試みるものに出会うことを予期しなければならない。(5) 彼らの成長する実り。彼らの後の行いは初めのものより良かった。これは優れた特徴である。ほかの者たちが初めの愛を離れ、 初めの熱心を失ったとき、これらの者たちはますます賢く、良くなっていた。すべてのキリスト者の野望と切なる願いは、自分の後の行いが最善の行いであり、日ごとにますます良くなり、ついには最も良くなるべきである。

  2. 悪いことに対する忠実な責め。これは教会そのものに直接向けられるというより、彼らの中にいた悪い惑わし者たちに向けられる。教会の過ちは、彼らをあまりにも大目に見たことであった。

(1) これらの悪い惑わし者たちはイゼベルにたとえられ、その名で呼ばれた。イゼベルは主の預言者たちの迫害者であり、偶像礼拝者たちと偽預言者たちの大いなる保護者であった。これらの惑わし者たちの罪は、神のしもべたちを不品行に引き込み、偶像にいけにえをささげるように企てたことであった。彼らは自分たちを預言者と呼び、そうして教会の奉仕者たちよりも優れた権威と尊敬を主張しようとした。これらの惑わし者たちの罪を悪化させる二つの事柄があった。彼らはその霊と企てにおいて一つであったため、ひとりの人として語られる。[1.] 彼らは神の名を用いて、その教理と礼拝の真理に反対した。これは彼らの罪を非常に悪化させた。[2.] 彼らは神の忍耐を乱用して、自分たちの悪の中でかたくなになった。神は彼らに悔い改めの機会を与えたが、彼らは悔い改めなかった。観察せよ。第一に、 悔い改めは罪人の滅びを防ぐために必要である。第二に、 悔い改めは時間を必要とする。継続する時間と、都合の良い時間。それは大いなるわざであり、時間のかかるわざである。第三に、 神が悔い改めの機会を与えるところでは、神は悔い改めにふさわしい実を期待される。第四に、 悔い改めの機会が失われたところでは、罪人は二重の滅びをもって滅びる。

(2) ではなぜこのイゼベルの悪がテアテラの教会に帰せられるのか。その教会が彼女にその市の人々を惑わすことを許したからである。しかし教会はどうしてそれを防げたか。彼らは教会として、彼女を追放したり投獄したりする市民の権力を持たなかった。しかし彼女を責め、破門する奉仕の権力を持っていた。そして彼らが持っていた力を用いなかったことが、彼女の罪にあずかる者としたのであろう。

  1. この惑わし者、このイゼベルへの刑罰、Rev 2:22,23。ここにはバビロンの没落の予言が含まれている。(1) わたしは彼女を床に投げ入れる。 苦しみの床に、快楽の床ではなく、炎の床に。そして彼女と罪を犯した者たちは彼女と共に苦しむであろう。しかしこれは彼らの悔い改めによってまだ防ぐことができる。(2) わたしは彼女の子たちを死で殺す。 すなわち第二の死。それは効果的にそのわざをなし、将来のいのちの望みを残さない。第二の死によって殺される者たちの復活はない。ただ恥と永遠のそしおりに至るためだけである。

  2. これらの悪い惑わし者たちの破滅におけるキリストの目的。それはほかの者たち、特にご自分の教会たちの教えであった。すべての教会は、わたしが心と思いを探る者であることを知るであろう。わたしはあなたがたひとりびとりに、その行いに従って報いる。 神は執行されるさばきによって知られる。そして惑わし者たちに対するこの報復によって、神は明らかにされる。(1) 人の心、その原理、企て、構え、性分、その形式主義、無関心、偶像礼拝者たちと同化しようとする secret の傾向に対する infallible な知識。(2) ひとりひとりにその行いに従って与える公平な義。キリスト者という名は保護とはならず、その教会は罪と罪人の避け所ではないことを。

  3. 純粋で汚れのない者たちに与えられる励まし。しかしあなたがたに言う、テアテラにいるほかの者たちに等、Rev 2:24。観察せよ。(1) これらの惑わし者たちが自分たちの教えと呼んだもの。深いこと。 深い奥義。人々を当惑させ、彼らが自分自身の奉仕者たちが到達した以上に、宗教により深い洞察を持っていると納得させようと努めた。(2) キリストがそれらを呼んだもの。サタンの深いこと。 サタンの惑わしと企て、悪魔的な奥義。敬虔の奥義と同じように不義の奥義があるからである。神の奥義を軽んじることは危険なことである。そしてサタンの奥義を受けることも同じように危険である。(3) キリストが忠実なしもべたちに対してどれほど配慮深いか。「わたしはあなたがたの上に、これ以上の重荷を負わせない。ただあなたがたがすでに持っているものを、わたしが来るまで堅く保て、Rev 2:24,25。わたしはあなたがたの信仰に新しい奥義を、良心に新しい律法を負わせない。わたしはただ、あなたがたが受けたものへの注意を求める。わたしが来るまでそれを堅く保て。 それ以上は求めない。」キリストは来て、その民のすべての誘惑に終わりを置かれる。そして彼らが彼が来るまで信仰と良き良心を堅く保つなら、すべての困難と危険は過ぎ去る。

III. いま私たちはこの言葉の結論に来る、Rev 2:26-29。ここで、1. 忍耐して勝利する信者への豊かな報いの約束がある。それは二つの部分から成る。(1) 残りの世界の上の非常に大きな力と支配。諸国の民の上の権威。 これは帝国がキリスト教に転じ、世界がキリスト教皇帝の統治の下に置かれるコンスタンティヌスの時代を指すか、あるいは他世、信者たちがキリストと共にそのさばきの王座に着き、彼と共にキリストと教会の敵たちを試み、非難し、刑罰に引き渡す他世を指すかであろう。直き者は朝において支配権を持つであろう。 (2) そのような力と支配にふさわしい知識と知恵。わたしは彼に明けの星を与えよう。 キリストは明けの星である。彼は恵みと栄光の光という昼を魂にもたらす。そして彼はその民に、復活の朝に彼らが持つ尊厳と支配の状態に必要な光と知恵の完全さを与えるであろう。2. この手紙は通常の注意の要求をもって終わる。耳のある者は、御霊が諸教会に語ることを聞くがよい。 前の手紙では、この注意の要求は結びの約束の前に来る。しかしこれとそれに続くすべてにおいては、後に来る。そして私たちが、キリストが教会たちに渡される戒めと同様に約束にも注意を払うべきであることを告げる。