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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Romans 4章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

無題

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律法の行いによらず信仰による義認という大いなる福音の教理は、モーセの座に座する者たちから学んだユダヤ人の観念に非常に反するものであったため、彼らには容易に受け入れられなかった。それゆえ使徒はこの点に極めて大々的にこだわり、その確認と説明に大いに励んでいる。彼は前に理性と論証によってこれを証明したが、この章では例証によってこれを証明している。例証はある場合には説明と同様に確認の役にも立つ。彼が取り上げた例はアブラハムのものである。アブラハムに言及するのを選んだのは、ユダヤ人がアブラハムとの関係を大いに誇り、アブラハムの子孫であることを外部の特権の第一に数え、実に彼らの父はアブラハムであると本気で考えていたからである。それゆえこの実例は、他のいかなるものよりもユダヤ人にとって受け入れやすく説得力のあるものであったろう。彼の論証は次のように立つ。「救われるすべての人は、アブラハムと同じ仕方で義とされる。しかしアブラハムは行いによるのでなく信仰によって義とされた。ゆえに救われるすべての人もそのように義とされる」。アブラハムが信仰者の父であることは容易に認められるからである。さてこれは、à pari(同等の場合から)というだけでなく、彼らの言うように、à fortiori(より強い場合から)の論証である。行いをもってこれほど名高く、聖性と従順においてこれほど際立ったアブラハムでさえ、それらの行いによらず信仰のみによって義とされたのであれば、ましてや他のいかなる者、とりわけ彼から出て行いにおいてこれほど及ばない者たちが、自分自身の行いによる義認を主張できようか。そしてこれはex abundanti(より豊かに)と、ある人々が観察するように、信仰から流れ出る良いわざでさえ、私たちの義の根拠として私たちを義としないことを証明する。アブラハムのわざはそのようなものであったが、私たちは彼より優れているだろうか。この章全体がこの実例に関する彼の論述に費やされており、前章の終わりと特別な関係を持つものがある。そこで彼は、義認という事柄においてユダヤ人と異邦人は同じ立場にあると主張した。さてこの章で、彼は大いなる論証の力をもって、I. アブラハムが行いによるのではなく信仰によって義とされたことを証明している(Ro 4:1-8)。II. 彼がいつ、なぜそのように義とされたかを観察している(Ro 4:9-17)。III. 彼のその信仰を描写し称賛している(Ro 4:17-22)。IV. これらすべてを私たちに適用している(Ro 4:22-25)。もし彼が今トラノの学校にいたとしても、これ以上論証的に論争することはできなかったであろう。

Romans 4章 1-8 Matthew Henry's Complete Commentary

The Case of Abraham (58 AD)

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アブラハムの場合(58年)

¹ それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムのばあい、わたしたちは何と言ったらよいか。
² もしアブラハムが行いによって義とされたとしたら、彼は誇る根拠を持つことになる。しかし、神の前ではそうではない。
³ なぜなら、聖書は何と言っているか。「アブラハムは神を信じた。そしてそれは彼の義とみなされた」とある。
⁴ 働く者への報酬は、恵みとしてではなく、当然の負債として計算される。
⁵ しかし、働かないで、不敬虔な者を義とされるかたを信じる者には、その信仰が義とみなされるのである。
⁶ ダビデもまた、行いがなくて神が義を帰される人の幸福を述べている。すなわち、
⁷ 「不法がゆるされ、罪がおおわれた人たちは、さいわいである」と言っている。
⁸ 主がその人の罪を帰さない人は、さいわいである。

ここで使徒は、アブラハムが行いによるのではなく信仰によって義とされたことを証明する。すべての人の中で、享けていた特権と行った行いによって義へのあずかり口を最も激しく争ったのはユダヤ人であった。それゆえ彼らの父アブラハムの場合に訴え、自らヘブル人の中のヘブル人として、その関係に自らの名を付す。「わたしたちの父アブラハム」。さて確かに、肉に従うその子孫としてこれを主張する者たちと同じくらいに、彼の特権は大きいに違いない。では彼は何を見いだしたのか。全世界が求めている。しかし大多数が全くのむなしいもののために疲れ果てている間に、神の前に義とされた者だけが真に見いだしたとみなされうる。こうしてアブラハムは、良い真珠を求める賢い商人のように、この高価な一つの真珠を見いだした。彼は kata sarka(肉に従って)、すなわち割礼とその外的な特権と行いによって何を見いだしたか。これらを使徒は「肉」と呼ぶ(Php 3:3)。ではこれらによって彼は何を得たか。これらによって義とされたか。彼の行いの功績が神の受け入れに彼を推薦したのか。いや、決してそうではない。彼はいくつかの論拠によってこれを証明する。

I. もし彼が行いによって義とされたのであれば、誇る余地が残され、それは永遠に排除されなければならないものである。もしそうなら、「彼は誇る根拠を持つ」(Ro 4:2)が、それは許されない。「しかし」とユダヤ人は言うかもしれない、「彼の名は大きくされ(Ge 12:2)、その時彼は誇れなかったか」。是的。しかし神の前ではそうではない。彼は人に対しては功績があったかもしれないが、神に対しては決して功績を挙げられなかった。パウロ自身でさえ「人の前で誇る根拠」を持っており、私たちは彼が時にへりくだりをもってそれを誇るのを見るが、神の前で誇るものは何もない(1Co 4:4, Php 3:8,9)。アブラハムも同様である。観察せよ。彼は、人が神の前に何事も誇るべきでないことを当然としている。否、アブラハムでさえ、彼ほど偉大で善良な人であっても。それゆえ彼はそこから論拠を引き出す。誇る者が主以外の何にかけて誇るのは不合理である。

II. アブラハムの信仰が彼のために義とみなされたと、はっきりと記されている。「聖書は何と言っているか」(Ro 4:3)。宗教におけるすべての論争において、これが私たちの問いでなければならない。「聖書は何と言っているか」。この偉い人やあの善良な人が何と言うかではなく、聖書が何と言うかである。このアベルに助言を求め、事を終わらせよ(2Sa 2:18)。「律法とあかしとに」(イザヤ 8:20)、そこに最終の訴えがある。さて聖書は、「アブラハムは信じ、これが彼のために義とみなされた」と言う(Ge 15:6)。それゆえ彼は神の前に誇る根拠を持たなかった。これがそう帰されたことが全く自由な恵みによるのであり、それ自体のうちに、神ご自身が恵みをもってそう数えられることのほかには、義の本質的な性質を何ら持たないからである。これは創世記に、約束の種に関する信仰の非常に顕著で注目すべき行為に際して記されており、さらに注目すべきは、それが彼が不信仰との激しい戦いをした直後に続いたことである。彼の信仰は今や勝利の信仰であり、戦いから新たに帰還したばかりであった。義认に要求されるのは完全な信仰ではない(不信仰の残りがある所にも受け入れられる信仰がありうる)。そうではなく、勝ち誇る信仰、不信仰に打ち勝つ信仰である。

III. もし彼が行いによって義とされたのであれば、報酬は 恵みによるのでなく負債として のものであったはずであり、それは想像すべきでない。これが彼の論拠である(Ro 4:4,5)。アブラハムの報酬は神ご自身であった。彼は彼に先にこう告げていた(Ge 15:1)。「わたしはあなたの大きなる報酬である」。もしアブラハムが彼の従順の完全さによってこれに値したのであれば、それは神のうちの恵みの行為ではなく、アブラハムはぶどう園の労働者が自分の稼いだ一デナリを要求したように、確信をもってこれを要求できたであろう。しかしこれはありえない。人が、ましてや有罪なる人が神を自分の債権者とすることは不可能である(Ro 11:35)。いや、神は自由な恵みにすべての栄光を持たせようとされる。恵みのための恵み(Joh 1:16)。それゆえ「働かない者」、すなわちそのような功績を少しも主張できず、そのような報酬に応じる働きのうちに何の価値や値をも示せず、むしろそのような主張を否んで、生きた活動的で従順な信仰によってキリストにある神の自由な恵みに全く身を委ねる者、そのような者には、「信仰が義とみなされ」、すべての赦されて救われる者に要求される資格として神に受け入れられる。「不敬虔な者を義とされるかた」、すなわち以前は不敬虔であった者を。彼の以前の不敬虔は、彼が信じる時の義认を妨げなかった。ton asebe(その不敬虔な者)、すなわちアブラハムであって、彼は回心の前には、カルデヤの偶像礼拝の流れに流されていたようである(Jos 24:2)。それゆえ絶望の余地は残されていない。神は不信仰の有罪なる者をきよめないが、キリストを通して不敬虔な者を義とされる。

IV. 彼はさらにこれを、ダビデが罪の赦し、すなわち義认の主要な枝について語っている詩篇の一節によって例証する。義认の主要な枝が人の幸福と祝福を構成するとして、罪のない者、あるいは死に値する罪のない者を幸いであると宣言するのではなく(その場合、人がこのように罪深く、神がこのように正しい限り、幸いな人はどこにいるのか)、「主がその罪を帰さない人」を幸いであるとする。その人は「無罪」と弁明できないが、恩赦の定めに訴え、その訴えが認められる。これは詩篇 32:1,2 から引用されており、そこで次のことを観察する。1. 赦しの性質。それは負債や罪の免除である。それは罪を、汚れたもの、魂の裸と恥としておおうことである。神は「罪を背後に投げ捨て、み顔をそれから隠す」と言われる。これらや類する表現は、私たちの祝福の根拠が私たちの無罪や罪を犯していないことではないことを暗示する(物はおおわれても、存在し、汚れている。義认は罪がなかったことにしたり、罪でなかったことにしたりはしない)。そうではなく、神がそれを私たちの負いめとして帰さないことである。続くように。「それは神が 罪を帰さない ことである」(Ro 4:8)。これはそれを全く神の恵みの行為とする。私たちが受けたに等しい厳格な正義をもって私たちを扱わず、さばきに入らず、不義をしるさず、これらはすべて純粋に恵みの行為であるから、受け入れと報酬は負債として期待できず、それゆえパウロは(Ro 4:6 で)それは行いのない義の帰与であると推論する。2. その祝福。「幸いな人々」。「道の全き者は幸いである」「悪しき者の計議に歩まない人は幸いである」と言われる時は、幸いな者たちの特徴を示すのが目的である。しかし「その不法がゆるされた者たちは幸いである」と言われる時は、その祝福が何であり、その根拠と基礎が何であるかを示すのが目的である。赦された民だけが幸いな民である。世の考えでは、明確な財産を持ち、人に負債のない者が幸いである。しかし、みことばの宣告は、神への負債が払われた者が幸いである。ああ、それゆえ私たちの罪が赦されたことを自分自身に確かめることが、どれほど私たちの利益であることか。これがすべての他の祝福の基礎であるから。「わたしは彼らのために、かくかくしよう。彼らに対して慈悲深くあるからである」(Heb 8:12)。

Romans 4章 9-17 Matthew Henry's Complete Commentary

The Case of Abraham (58 AD)

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アブラハムの事例 (58 AD)

⁹ それでは、この祝福は割礼を持つ者の上にだけ来るのだろうか。それとも無割礼の者の上にも来るのだろうか。わたしたちは、「信仰がアブラハムの義とみなされた」と言っているからである。
¹⁰ では、どのようにしてそれがみなされたのか。割礼を受けていた時であろうか。それとも無割礼の時であろうか。割礼の時ではなく、無割礼の時であった。
¹¹ そして彼は割礼のしるしを受けた。すなわち、無割礼の時に持っていた信仰の義の封印であった。これは、彼が割礼を受けていないすべての信じる者の父となるためであり、義が彼らにもみなされるためである。
¹² また、彼は割礼を持つ者の父となった。ただし、割礼を持つ者だけの父ではなく、無割礼の時にいたわたしたちの父アブラハムの信仰の歩みを踏む者たちの父ともなったのである。
¹³ というのは、彼が世界の相続人となるという約束は、アブラハムやその子孫に対して律法を通じて与えられたのではなく、信仰の義を通じて与えられたからである。
¹⁴ もし律法に属する者が相続人であるならば、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまう。
¹⁵ なぜなら、律法は怒りを生み出すからである。律法のないところには違犯もない。
¹⁶ そのゆえに、それは恵みによるものとして信仰によるのである。それは約束がすべての子孫に対して確かなものとなるためである。律法に属する者だけにではなく、アブラハムの信仰に属する者にも及ぶためである。彼はわたしたちすべての者の父であり、
¹⁷ 「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書かれているとおりである。

聖パウロはこの箇所において、アブラハムがどのような時に、またなぜ義とみなされたのかを考察している。この点について彼はいくつかの注目すべき事柄を持っているからである。それは彼が割礼を受ける前であり、また律法が与えられる前であった。そしてその両方には理由があった。

I. 割礼を受ける前であった(Ro 4:10)。彼の信仰は無割礼の時に義とみなされた。義とみなされたのはGe 15:6であり、割礼を受けたのはGe 17:1-27までであった。アブラハムは割礼を受ける14年前に、ある人々は25年前に信仰によって義とされたと明言されている。さて、使徒はこのことに気づいている。それは問い(Ro 4:9)—「それでは、この祝福は割礼を持つ者の上にだけ来るのだろうか。それとも無割礼の者の上にも来るのだろうか」—に答えるためである。アブラハムは無割礼のまま赦され、受け入れられた。このことは、貧しい無割礼の異邦人たちの恐れを静めるのと同様に、割礼を誇りとし、まるですべての幸福を独占しているかのように振る舞うユダヤ人の高慢と思い上がりを低くすることができた。ここにアブラハムが無割礼のまま信仰によって義とされた二つの理由がある。

  1. 割礼が信仰の義の封印となるためであった(Ro 4:11)。契約の条項は、封印が付される前にまず確定されなければならない。封印は以前の取り決めを前提とし、それがその儀式によって確認され、承認されるのである。アブラハムの信仰による義認が数年間言葉による付与のままであった後、彼の信仰を確認するために神は封印の儀式を定めることを良しとされ、アブラハムはそれを受けた。それは血を流す儀式であったが、彼はそれに服し、それを特別な恵みとして受け取った。すなわち、割礼のしるしなどである。ここから次のことが観察される。(1)サクラメント一般の性質。それらはしるしであり封印である。表し教えるしるしであり、承認し確認する封印である。それらは絶対的な恵みと好意のしるしであり、条件的な約束の封印である。いや、それらは相互の封印である。神はサクラメントにおいて、わたしたちにとって神となることを封印し、わたしたちはその中で神にとっての民となることを封印する。(2)割礼の特別な性質。それは旧約の入信のサクラメントであった。そしてここでは、[1]しるしと言われている。わたしたちがすべて生まれながら持っている原罪のしるしであり、霊的な割礼によって切り取られるもの。神とアブラハムの契約を記念するしるし。ユダヤ人と異邦人の区別のしるし。目に見える教会への加入のしるし。福音の下で、(キリストの血が流されたので)すべての血を流す儀式が廃止された今、割礼に代わるバプテスマを前表するしるし。それはそれによって表される内なる霊的な恵みの目に見える感覚的なしるしであった。[2]信仰の義の封印。一般に、それは恵みの契約の封印であり、特に信仰による義認の封印であった。恵みの契約は信仰による義と呼ばれ(Ro 10:6)、旧約の約束(De 30:12)を参照している。さて、もし幼児が当時恵みの契約の封印を受ける資格があったならば、それは彼らがその契約の範囲内にあったことを証明する。それならば、彼らがどのようにして今や契約の外に投げ出され、封印を受ける資格を失ったのか。またどのような厳格な判決によって彼らがこのように拒絶され不適格とされたのか。信者の子孫のバプテスマを拒絶するだけでなく、無効とし、辱める人々は、これを明らかにしなければならない。

  2. 彼が信じるすべての者の父となるためであった。アブラハム以前に信仰によって義とされた者がいなかったわけではない。しかしアブラハムについては初めてそれが特に観察され、彼においてそれ以前に存在したどのものよりもはるかに明確で豊かな恵みの契約の執行が始まった。そしてそこで彼は信じるすべての者の父と呼ばれる。彼がそれほど卓越した信じる者であり、それほど顕著に信仰によって義とされたからである。ヤバルが牧者の父、ユバルが音楽家の父であったように(Ge 4:20,21)。信じるすべての者の父。すなわち、信仰の模範であり、親が子どもの例であるように。そして信仰による義認の先例であり、父たちの自由、特権、栄誉、財産が子どもたちに受け継がれるように。アブラハムは信じる者の父であった。彼に特に大憲章が更新されたからである。(1)信じる異邦人の父。割礼を受けていない者であっても。ザアカイ、取税人であっても、信じるならアブラハムの子とみなされる(Lu 19:9)。アブラハム自身が信仰によって義とされたとき無割礼であったので、無割礼が決して妨げとはならない。こうして貧しい異邦人の疑いと恐れは先取りされ、義が彼らにもみなされることに疑う余地が残されなかった(Col 3:11, Ga 5:6)。(2)信じるユダヤ人の父。ただ割礼を持つ者として、また肉に従うアブラハムの子孫としてではなく、信じる者として。彼らが割礼だけの者ではなく(すなわち、ただ割礼を受けているだけでなく)、信仰の歩みを踏む者であるからである。しるしだけでなく、しるしの表すものを持つ。アブラハムの家族であるだけでなく、アブラハムの信仰の模範に従う。教会の父たちであった者の真の子どもであり、正統な後継者は誰かがここに示される。彼らの椅子に座り、その名を帯びる者ではなく、彼らの歩みを踏む者である。これが継承の系統であり、中断にもかかわらず保たれる。それでは、アブラハムを父と呼ぶのに最も声高で熱心であった者は、その子どもの栄誉と特権に対する権利が最も少なかったようである。したがって、キリストを父と呼ぶ最も正当な理由を持つ者は、キリスト教徒という職業上その名を帯びる者ではなく、その歩みを踏む者である。

II. 律法が与えられる前であった(Ro 4:13-16)。前の観察は義認を割礼に限定する者に向けられたものであり、これは律法によってそれを期待する者に向けられたものである。約束は律法よりはるか以前にアブラハムに与えられた。Ga 3:17,18と比較せよ。ここで次のことを観察せよ。

  1. その約束は何であったか。—彼が世界の相続人となること。すなわちカナンの地のことであり、世界で最も選ばれた土地。あるいはイスラエル人以外に彼から出た世界の多くの国民の父であること。あるいは今のいのちの慰めの相続人であること。柔和な者は地を受け継ぐと言われ、世界は彼らのものである。アブラハムは所有としての世界をほとんど持っていなかったが、そのすべての相続人であった。あるいはむしろ、ここで言及された子なるキリストを指している。Ga 3:16と比較せよ。「あなたの子孫であるキリストに」。さてキリストは世界の相続人であり、地の果々は彼の所有であり、アブラハムはキリストにあってそうであった。そしてこの約束(Ge 12:3)を参照している。「地のすべての民族はあなたによって祝福される」。

  2. それはどのように彼に与えられたか。律法によるのではなく、信仰の義による。律法によるのではない。それはまだ与えられていなかったからである。それは彼の義とみなされた信仰に基づいていた。すなわち、神が命じられたとき、自分の国を離れるにあたって神に信頼することに基づいていた(Heb 11:8)。信仰によるのであるから、律法によることはできなかった。彼はその両者の間に反対があることによってこれを証明する(Ro 4:14,15)。もし律法に属する者が相続人であるならば。すなわち、それらの者だけが、そして律法のゆえに相続人であるならば(ユダヤ人はそう自負し、現在も彼らに律法が与えられたから自分たちは世界の正当な相続人であると誇っている)、そのときは信仰はむなしくなる。もし約束へのあずかりを持つために律法の完全な遂行が必要であるならば、約束は決してその効力を発することができず、それに頼ることはわたしたちにとって無意味となる。律法への完全な従順と汚れのない罪のない無垢によっていのちに至る道は完全にふさがれており、律法そのものは他の道を開かないからである。彼はこれをRo 4:15で証明する。「律法は怒りを生み出す」。すなわち、わたしたちの中に神に対する怒りを。それは肉の思いを刺激し、 provokesする。神に対する敵意である肉の思いを。あたかも流れをせき止めることがそれを膨張させるように。また神のわたしたちに対する怒りを。それはこれを生み出す。すなわち、それを明らかにする。あるいはわたしたちの律法違反がこれを生み出す。怒りを生み出す律法によって相続を期待することは決してできないことは確かである。律法がどのように怒りを生み出すかを、彼は節の後半で非常に簡潔に示している。「律法のないところには違犯もない」。これは認められた格言であり、次のことを含意する。律法があるところには違犯があり、その違犯は provokingであり、したがって律法は怒りを生み出す。

  3. 約束がなぜ信仰によって彼に与えられたか。三つの理由のために(Ro 4:16)。(1)恵みによるため。恵みがその栄光を受けるため。律法によるのではなく、恵みによる。負債によるのではなく、功績によるのではなく、恵みによる。この建物のすべての石、特に頂石に「恵み、恵み」と呼ばれるため。信仰は与える恵みに特別な関係を持ち、恵みは受ける信仰に特別な関係を持つ。恵みによる、それゆえに信仰を通じて(Eph 2:8)。神はすべての冠を恵みの、自由な恵みの足元に投げられたいからである。そして天のすべての歌がその調子に合わせて歌われるため。「主よ、わたしたちにではなく、わたしたちにではなく、あなたの御名に栄光を帰してください」。(2)約束が確かなものとなるため。第一の契約は行いの契約であったので、確かなものではなかった。しかし人の失敗によって、それによって意図された益は断ち切られた。それゆえ、新しい契約の伝達をより効果的に確実にするために、もう一つの道が見いだされた。行いによるのではなく(もしそうであれば、肉の絶え間ない脆さと弱さのゆえに、約束は確かなものとならないであろう)、信仰による。信仰はすべてをキリストから受け、救いの大いなる受託者としての彼に絶えず依存して働く。彼のもとでは安全である。それゆえ契約は確かなものである。すべての点でよく整えられているからである(2Sa 23:5)。(3)すべての子孫に対して確かなものとなるため。もしそれが律法によるものであったなら、栄光、契約、律法の授与が彼らのものとされたユダヤ人(Ro 9:4)に限定されていたであろう。しかしそれゆえに信仰によるのであった。それはユダヤ人だけでなく異邦人も、忠実なアブラハムの肉の子孫だけでなく霊の子孫も、そこにあずかれるようになるためであった。神は約束を最も広範なものとして工夫し、すべての真の信じる者を包含するようにされた。割礼と無割礼が何の差し支えももたらさないように。そしてこのことのために(Ro 4:17)、彼はGe 17:5を参照させる。そこで彼の名前がアブラム—高い父からアブラハム—大群衆の高い父に変更された理由が次のように述べられている。「多くの国民の父としたからである」。すなわち、キリストが肉において来られる前にも後にも、すべての信じる者がアブラハムを自分たちの模範とし、彼を父と呼ぶべきである。ユダヤ人はアブラハムがユダヤ教への改宗者すべての父であったと言う。「見よ、彼は神の威厵の翼の下に集められた全世界の父である」—マイモニデス。

Romans 4章 17-22 Matthew Henry's Complete Commentary

The Case of Abraham (58 AD)

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アブラハムの事例 (58 AD)

¹⁷ b—すなわち、彼が信じた方、すなわち死者を生かし、ないものをあるかのように呼ぶ神の御前において。
¹⁸ 彼は望みに反して望みによって信じた。それは彼が多くの国民の父となるためであった。語られたとおりに。「そのようにあなたの子孫はなるであろう」。
¹⁹ 彼は approximately 百歳になったとき、自分のからだがすでに死んでいるのを考えても、またサラの胎の死んでいるのを考えても、信仰において弱くなかった。
²⁰ 不信によって神の約束に動揺しなかった。かえって信仰によって強められ、神に栄光を帰した。
²¹ そして神の約束されたことは、神がまた行うことができると十分に確信していた。
²² それゆえに、それは彼のために義とみなされた。

アブラハムがいつ信仰によって義とされ、なぜかを観察した後、アブラハムの誉れのため、また彼を父と呼ぶわたしたちの模範のために、使徒はここでアブラハムの信仰を描写し称賛する。その中で次のことを観察せよ。

I. 彼が信じた方。死者を生かす神。信仰がしっかりと捕らえるのは神ご自身。他の基礎を据えることはだれもできない。さて、神の中でアブラハムの信仰が目を向けたものを観察せよ—確かに約束された事柄に関する彼の信仰を最も確認しそうなもの。1. 死者を生かす神。彼と妻がすでに死んだも同然であったとき(Heb 11:11,12)、彼が多くの国民の父になることが約束された。それゆえに彼は神を、乾いた骨に息を吹き込むことができる神として仰ぎ見た。死者を生かす方は何でもできる。アブラハムが老いたときに子を与えることができ、罪過と罪の中に死んでいる異邦人を神的で霊ないのちにもたらすことができる(Eph 2:1)。Eph 1:19,20と比較せよ。2. ないものをあるかのように呼ぶ方。すなわち、初めのように(Ge 1:3, 2Co 4:6)、その力のことばによってすべてのものを創造する。罪人の義認と救い、民でなかった異邦人のめとりは、ないものをあるかのように呼ぶ恵みある召しであった。なかったものに存在を与える。これは神の主権とその絶対的な力と支配を表す。他のすべての支柱が沈み揺らぐときの信仰の強力な支え。信仰の聖なる知恵と方策は、神の中でそれが取り組まなければならない困難に適合し、最も効果的に異論に答えるものに特にしっかりと捕らえることである。全知性以外には不可能なものの達成のために、神の全知性の上に建てることこそ真の信仰。このようにアブラハムは彼が信じた方の前で多くの国民の父となった。すなわち、神の目と勘定において。あるいは彼が信じた方のように。神が共通の父であったように、アブラハムもそうであった。神への信仰によってわたしたちは神に受け入れられ、神に同形化される。

II. 彼がどのように信じたか。彼はここでいくつかの表現でアブラハムの信仰の強さを大いに称える。1. 望みに反して、彼は望みによって信じた(Ro 4:18)。彼に対する望み、自然的な望みがあった。そのような場合に通常望みを生み出し支えるすべての感覚と理性と経験の論拠が彼に対してであった。第二の原因は誰も彼に微笑まず、彼の望みを少しも支持しなかった。しかし、それらの反対のすべての inducementに反して、彼は信じた。彼には彼のための望みがあったから。彼は望みにおいて信じた。その望みは彼の信仰と同様に、神の全知性の考察から立ち上った。彼が多くの国民の父となるため。それゆえに神は、その全能の恵みによって、彼が望みに反して信じることを可能とされた。それは彼がすべての世代に向けて大いなる強い信仰の模範として認められるため。忠信な者の父となるべき者が、その信仰において通常以上の何かを持つべきであったのはふさわしい—彼において信仰はその最高の高さに置かれ、こうしてすべての後続の信じる者の努力が方向づけられ、高められ、活気づけられるため。あるいはこれは彼が信じた約束の事柄として言及される。彼はGe 15:5を参照する。そのようにあなたの子孫はなるであろう。天の星のように、数えきれず、輝かしく。これが彼が義とみなされたときに信じたことであった(Ro 4:6)。そしてこの特定の信仰の実例が望みに反してであったことは注目すべき。彼の不信仰の推測と suggestionに反して。彼は直前に自分が子のないままであろうと結論していた。家で生まれた者が彼の相続人であると(Ro 4:2,3)。そしてこの不信仰は彼の信仰の foilであり、それが望みに反して信じることであることを語る。2. 信仰において弱くなかった。彼は自分のからだを考えなかった(Ro 4:19)。観察せよ。彼自身のからだはすでに死んでいた—子をもうけるには完全に unlikelyとなっていた。もっとも、神が彼に与えられた新いいのちと活力はサラが死んだ後も続いた。ケトゥラによる子どもたちがその証拠。神がその民のために特別な祝福、約束の子を意図されるとき、神は通常その祝福そのものに、またそれに至るすべての道に死の判決を置かれる。ヨセフは昇格される前に奴隷とされ、投獄されなければならなかった。しかしアブラハムはこれを考えなかった。ou katenoose—彼はその考えにとどまらなかった。彼は確かに言った。百歳の者に子が生まれようか(Ge 17:17)。しかしそれは彼の驚嘆の、またさらに満足させられたいという願いの言葉であり、疑いと不信任の言葉ではなかった。彼の信仰はその考察を通り過ぎ、約束の誠実さだけを考えた。その黙想に彼は飲み込まれ、これが彼の信仰を保った。信仰において弱くなかった。彼は考えなかった。約束の道にある困難と一見不可能なことにいつまでも目を凝らす者を作るのは、単なる信仰の弱さである。肉的理性の知恵と方策に見えるかもしれないが、約束に対して生じるすべての困難の底を探ることは信仰の弱さである。3. 彼は不信によって神の約束に動揺しなかった(Ro 4:20)。そして彼が動揺しなかったのは、第二の原因の frownsと discourageを考えなかったからである。ou diekrithe—彼は論争しなかった。彼はそのことについて自己相談を持たなかった。それを受け入れるかどうか考える時間を取らなかった。ためらったりつまずいたりしなかった。彼は決然とした断固たる魂の働きをもって、聖なる大胆さをもって、約束の上にすべてを冒険した。彼はそれを議論や論争を許す点として取らなかった。裁定された事例として即座に決定した。それについて少しも宙ぶらりんでなかった。彼は不信によって動揺しなかった。不信はすべての神の約束でのわたしたちの動揺の底にある。約束ではなく、わたしたちが動揺するときに失敗するのは信仰。4. 彼は信仰において強くあり、神に栄光を帰した。enedynamthe—彼は信仰において強められた。彼の信仰は exerciseによって groundを得た。進むことによって成長する。弱い信仰は拒絶されず、傷ついた葦は折られず、燻る亜麻は消されない。しかし強い信仰は称賛され、誉れとされる。彼の信仰の強さは、それが勝ち取った恐れに対する勝利に現れた。そしてこれによって彼は神に栄光を帰した。不信が神を偽り者とすることによって神を dishonourするように(1Jo 5:10)、信仰は神が真実であることにその印を押すことによって神を honorする(Joh 3:33)。アブラハムの信仰は神の知恵、力、聖さ、善良さ、特に誠実さの栄光を神に帰した。神が語られたことばに安らぐことによって。人の間でわたしたちは言う。「他者を信頼する者は、彼に信用を与え、その言葉を取ることによって彼を honorする」。このようにアブラハムは神を信じることによって神に栄光を帰した。わたしたちの主イエスが大いなる信仰ほど多くを称賛されたことは聞かない(Mt 8:10, 15:28)。それゆえに神は信仰に、大いなる信仰に誉れを与えられる。信仰が、大いなる信仰が神に誉れを与えるから。5. 彼は神の約束されたことを神がまた行うことができると十分に確信していた。plerophoretheis—最大の確信と確かさをもって carryされた。満帆で港に入る船から取られた metaphor。アブラハムは疑いと恐れと誘惑の嵐が約束に対して立ち上がるのを見た。多くの者がそこで縮み込み、より良い日を待ち、感覚と理性の微笑む風を待ったであろう。しかしアブラハムは神を pilotとして、約束を海図と羅針盤として取り、困難を切り抜けることを決意した。そして大胆な冒険者のようにすべての帆を立て、すべての困難を突破し、風も雲も顧みず、ただその船底の強さと pilotの知恵と誠実さを信じて、勇敢に港に向かい、語り尽くせない利益を得て帰還した。このような彼の十分な確信であり、それは神の全能に基づいていた。神はできた。わたしたちの動揺は主に神的力への不信任から立ち上る。それゆえにわたしたちを確立するために、神が誠実であるだけでなく、約束されたことを行う力がある、と信じることが必要である。そしてそれゆえに、それは彼のために義とみなされた(Ro 4:22)。このような確信をもって神の約束の上にすべてを冒険したので、神は恵み深く彼を受け入れ、彼の期待に答えただけでなく、上回った。神の裸の約束への確固たる信頼によって神を栄光化するこの仕方は、神の計画に非常に合致し、神の誉れに非常に寄与したので、神は恵み深くそれを義として受け入れ、彼を義とした。事物そのものの中にそのような受け入れに値するものはなかったにもかかわらず。これはなぜ信仰がわたしたちの義認の主要な条件として選ばれたかを示す。すべての中で神に栄光を帰する恵みだから。

Romans 4章 23-25 Matthew Henry's Complete Commentary

The Case of Abraham (58 AD)

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アブラハムの場合 (58 AD)

²³ しかし、それが彼に帰算されたと書かれたのは、ただ彼のためだけではなかった。
²⁴ むしろ、わたしたちのためでもあった。すなわち、わたしたちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる者に、それが帰算されるためである。
²⁵ 主イエスはわたしたちの罪過のために引き渡され、わたしたちの義とされるためによみがえられた方である。

この章の終わりに、彼はすべてをわたしたちに適用する。そしてアブラハムが信仰によって義とされたことを豊かに証明したのち、ここでアブラハムの義認がわたしたちの模範、見本となるべきものであったと結論する。ただ彼のためだけに書かれたのではなかった。 それはアブラハムの歴史的称賛、あるいは彼に固有の何かの記述としてのみ意図されたのではなかった(ある反幼児バプテスマ派が、割礼が信仰の義のしるし(Ro 4:11)をアブラハム自身にだけ、他のだれにも意味しないと理解したがるように)。いや、聖書はここによってアブラハムの特権として彼に属したある特異な義認の道を描写しようとしたのではない。わたしたちが持つ旧約聖徒の記録は、単なる歴史として、ただわたしたちに知らせ、気を紛らわせるためだけに意図されたのではない。わたしたちを導くための先例、わたしたちの学ぶための例(1Co 10:11、Ro 15:4)として。そして特にアブラハムに関するこのことはわたしたちのためにも書かれた。わたしたちの救いのために神が要求し、受け入れられる義が何であるかを保証するため。わたしたちのためにも—人間であり、卑しい者、特権と行いにおいてアブラハムに遠く及ばない者、ユダヤ人と同様に異邦人であるわたしたち。アブラハムの祝福がキリストを通して異邦人に来るゆえに。世の終わりに至ったわたしたちにも、族長たちと同様に。神の恵みは昨日も今日もとこしえまで同じであるから。彼の適用は短い。しかし観察できる。

I. わたしたちの共通の特権。すなわち、それがわたしたちに帰算される。義が。福音の義認の道は帰算された義による。mellei logizesthai—帰算されるであろう。 彼は未来形の動詞を用いる。このあわれみが教会における継続を示すために。今そうであるように、神が世界に教会をお持ちである限り、また義とされるべき人の子らがいる限り、そうであり続けるであろう。尽きることのない泉が開かれているから。

II. わたしたちの共通の務め。この特権の条件。すなわち信じること。この信じることの適切な対象は神の啓示である。アブラハムへの啓示は来たるべきキリストに関するものであった。わたしたちへの啓示はすでに来られたキリストに関するものである。この啓示における違いは事柄を変えない。アブラハムはサラの死んだ胎からイサクを立ち上がらせる神の力を信じた。わたしたちはより高い実例において行使された同じ力を信じるべきである。すなわちキリストを死者の中からよみがえらせることを。イサクの復活は型においてであった(Heb 11:19)。キリストの復活は現実であった。さてわたしたちはキリストをよみがえらせた方を信じるべきである。その力を信じるだけでなく—それができることを—わたしたちの保証人としてキリストをよみがえらせるその恵みに依存する。こう彼は説明する(Ro 4:25)。そこでわたしたちはキリストの死と復活の意味の簡潔な説明を持つ。この二つは救いの戸が開く二つの主要な hingeである。1. キリストはわたしたちの罪過のために引き渡された。 神である父が彼を引き渡し、彼ご自身を罪の供え物として引き渡された。彼は確かに罪のゆえに、犯罪者として死んだ。しかしそれは彼自身の罪ではなく、民の罪であった。彼はわたしたちの罪のために atonementを成就するため、わたしたちの罪悪を expiateするため、神の正義を満足させるために死んだ。2. キリストはわたしたちの義とされるためによみがえられた。 わたしたちの義認を完成させ、全うするため。その死の功績によって彼はわたしたちの負債を支払い、その復活において免罪の証明を取り出した。彼が葬られたとき、彼は保証人として支払うことを引き受けたわたしたちの負債のゆえに執行の下に囚人として横たわった。三日目に御使いが遣わされて石を転がし、こうして囚人を解放した。これは神の正義が満足され、負債が支払われたことの可能な最大の保証であった。そうでなければ決して囚人を解放されなかったであろうから。それゆえに使徒はキリストの復活に特別な emphasisを置く。死んだキリスト、いや、それよりもむしろよみがえられたキリスト(Ro 8:34)。こうして事の全体において、わたしたちが自分自身の行いの功績によって義とされるのではなく、イエス・キリストとその義に対する信頼に満ちた従順な依存によって—わたしたちの無罪と救いに対する権利の、わたしたちの側からの条件として—義とされることは非常に明らかである。これがパウロがこの章と前の章において、わたしたちの慰めのすべての大いなる源と基礎として固定してきた真理であった。