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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry's Complete Commentary

Matthew Henry · 1714

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Matthew Henry 사후(1714) 공개 도메인. 디지털판 CC0-1.0.

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Genesis 5章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

無題

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この章は、創造から洪水に至るまでの世界最初の時代に関する現存する唯一の信頼できる歴史であり、(ヘブル語本文の真実性に従えば)1656年を含む。族長たちが、系図がノアに下るその子をもうける前の年齢によって容易に計算できる。これは使徒が「終わりのない系図」(テモテへの手紙第一 1:4)と呼ぶものの一つである。なぜなら、旧約律法の終わりであられたキリストは、旧約の系図の終わりでもあられたからである。系図はキリストに向かって目を向け、キリストにおいて集中した。ここに記録された系図は私たちの救い主の系図(ルカの福音書 3:36-38)に簡潔に組み込まれており、キリストが約束された「女の子孫」であることを示すのに大いに役立つ。ここには次の記述がある。一、アダムについて(創世記 5:1-5)。二、セツ(創世記 5:6-8)。三、エノシュ(創世記 5:9-11)。四、ケナン(創世記 5:12-14)。五、マハラレル(創世記 5:15-17)。六、エレデ(創世記 5:18-20)。七、エノク(創世記 5:21-24)。八、メトシェラ(創世記 5:25-27)。九、レメクとその子ノア(創世記 5:28-32)。すべての聖書は神の霊感によって与えられたものであり、益を与える。ただしすべてが同じように益を与えるわけではない。

Genesis 5章 1-20 Matthew Henry's Complete Commentary

Genealogies (3852 BC)

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系図(紀元前3852年)

¹ これはアダムの系図の書である。神が人を創造された日に、神のかたちに彼を造られた。 ² 神は彼らを男と女に創造し、彼らを祝福し、その名を創造された日にアダムと呼ばれた。 ³ アダムは百三十年生きて、自分のかたちに似た息子を生み、その名をセツと名づけた。 ⁴ アダムがセツを生んで後、生きた年は八百年で、ほかに息子たちと娘たちを生んだ。 ⁵ アダムの生きた年は合わせて九百三十年で、彼は死んだ。

この章の最初の言葉は、章全体の表題あるいは主題である。「アダムの系図の書」である。これはアダムの子孫のリスト、目録である。すべてではなく、「その中の身であり」聖なるすじだけの(イザ 6:13)、「肉によればキリストが出た」者たち(ローマ 9:5)、約束の守り手として第一のアダムの後継者であり、第二のアダムの祖先であった者たちの名、年齢、死である。系図はアダム自身から始まる。ここに、

一、彼の創造(創 5:1,2)。ここに人創造に関する前に詳しく記されたことの簡単な復唱がある。これは私たちがしばしば聞き、注意深く知っておく必要があることである。ここで観察しよう。1. 「神は人を創造された」。人は自分自身の造り主ではない。ゆえに自分自身の主人であってはならない。彼の存在の造り主が彼の運動の指導者であり中心でなければならない。2. 神が人を創造された日があった。彼は永遠からではなく、昨日のものである。彼は初子ではなく、創造の年少者であった。3. 神はご自身のかたちに彼を造られた。義と聖をもって、それゆえに疑いなく幸福である。人の性質はこの下の世界の被造物のいかなるものよりも神聖なる性質に似ていた。4. 神は彼らを男と女に創造された(創 5:2)。彼らの相互の慰めのため、またその種の保存と増加のためである。アダムとエバは共に神の御手によって直接造られた。共に神のかたちに造られた。それゆえ両性の間にはある人々が想像するような大きな隔たりや不平等はない。5. 神は彼らを祝福された。親が子どもを祝福するのは普通である。そのように共通の父なる神はご自身の子どもを祝福された。しかし地の親は祝福を乞うことしかできない。それを命じるのは神の特権である。これは主に増加の祝福を指すが、他の祝福を排除しない。6. 神は「その名をアダムと呼ばれた」。「アダム」は「地、赤い地」を意味する。さて、(1.) 神がこの名を彼に与えられた。アダム自身は残りの被造物に名をつけたが、自身の名は選べなかった。ある栄光ある尊大な称号を仮定するかもしれないから。しかし神は彼に、彼の起源の卑しさを常に思い出させる名を与えられた。「自分の切り出された岩、掘り出された穴を見よ」(イザ 51:1)と彼に命じる名を。ちりにそれほど近い親族の者には、誇る理由はほとんどない。(2.) 神はこの名を男にも女にも与えられた。最初は性質によって一つであり、後に結婚によって一つであった。それゆえ彼らが両方とも同じ名を持つことは、彼らの一致のしるしとしてふさわしかった。女も男と同じく「地の地なる者」である。

二、彼の子セツの誕生(創 5:3)。彼はアダムの生涯の第百三十年に生まれた。アベルの殺害はおそらくその直前であった。これ以前にもアダムにはカインとアベルのほかに多くの息子と娘が生まれていた。しかしそれらは取り上げられない。キリストと教会がその腰にあった者の名だけを名誉ある形で言及しなければならないから。しかしセツについてここで最も注目すべきは、アダムが「自分のかたち、自分の像に似た息子」を生んだことである。アダムは神のかたちに造られた。しかし彼が堕落し、腐ったとき、自分のかたち、罪深く汚れた、弱く、死すべき、悲惨な息子を、自分のように生んだ。体と魂から成る「人」として自分のようなだけでなく、「罪人」として自分のように、罪責を負い、退廃し、腐敗した者。神の心にかなう人ですら、自分は「罪のうちに孕まれ、罪のうちに生まれた」(詩 51:5)と認めている。これがアダム自身のかたちであり、アダムが造られた神のかたちの逆であった。しかし彼はそれを自身失ったので、子孫に伝えることができなかった。注意。恵みは血筋には流れない。しかし腐敗は流れる。罪人は罪人を生み、聖人は聖人を生むのではない。

三、彼の年齢と死。彼は全部で九百三十年生き、それから死んだ。彼に下された宣告、「あなたはちりだから、ちりに帰る」の通りに。彼は禁断の果実を食べた日に死ななかったが、そのまさに日に彼は死すべき者となった。そのとき彼は死に始めた。その後の彼の全生涯は執行猶予、没収された有罪の生涯であった。いや、それは衰えゆく死の生涯であった。彼は刑を宣告された囚人のようだっただけでなく、すでに十字架につけられ、ゆっくりと漸次的に死ぬ者のようであった。

⁶ セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。 ⁷ セツはエノシュを生んで後、八百七年生きて、ほかに息子たちと娘たちを生んだ。 ⁸ セツの年は合わせて九百十二年で、彼は死んだ。 ⁹ エノシュは九十年生きて、カイナンを生んだ。 ¹⁰ エノシュはカイナンを生んで後、八百十五年生きて、ほかに息子たちと娘たちを生んだ。 ¹¹ エノシュの年は合わせて九百五年で、彼は死んだ。 ¹² カイナンは七十年生きて、マハラレルを生んだ。 ¹³ カイナンはマハラレルを生んで後、八百四十年生きて、ほかに息子たちと娘たちを生んだ。 ¹⁴ カイナンの年は合わせて九百十年で、彼は死んだ。 ¹⁵ マハラレルは六十五年生きて、エレドを生んだ。 ¹⁶ マハラレルはエレドを生んで後、八百三十年生きて、ほかに息子たちと娘たちを生んだ。 ¹⁷ マハラレルの年は合わせて八百九十五年で、彼は死んだ。 ¹⁸ エレドは百六十二年生きて、エノクを生んだ。 ¹⁹ エレドはエノクを生んで後、八百年生きて、ほかに息子たちと娘たちを生んだ。 ²⁰ エレドの年は合わせて九百六十二年で、彼は死んだ。

ここに、聖霊が洪水前の五人の族長、セツ、エノシュ、カイナン、マハラレル、エレドについて記録に残すのにふさわしいと考えられたすべてがある。これらのうちのいずれについても特に観察すべきことはない。彼らがその時代において思慮と敬虔の両面で傑出した人々であったと考える理由はあるが。しかし一般的に、

一、彼らの世代がどれほど広範に、明確に記録されているかを観察しよう。この事柄は、もっと少ないことばで伝えることができたと思われる。しかし神の書には一つのむだなことばもないことは確かである。人の書にはどうであれ。このように明確に記されているのは、1. 最も能力の劣る者にも分かりやすくするためである。彼らがそのような息子を生んだとき何歳であったか、その後何年生きたかを知らされると、ごくわずかな算術の技術で、合計どれくらい生きたかを知ることができる。しかし聖霊はそのほどの技術も持たない者のために合計を記される。2. 神がご自身の民の名に喜びを取られることを示すためである。私たちはカインの世代が急いで数えられたのを見た(創 4:18)。しかし聖なるすじについてのこの記録は詳しく扱われ、数字ではなく、ことばによって述べられている。神の恐れを恐れて生きた者がどれくらい生きたか、神の寵愛のうちに死んだ者がいつ死んだかを告げられる。しかし他の者については問題ではない。「正しい者の記憶は祝福され、悪者の名は朽ちる」。

二、彼らの生涯は日によって数えられている(創 5:8)。「セツのすべての日」。他も同様。これは人の生涯が最も長いときでも短いこと、地上における私たちの時の速やかな循環を示唆する。もし彼らが日によって数えたのなら、確かに私たちは時間によって数えなければならない。いや、むしろそれを私たちの絶え間ない祈りとすべきである(詩 90:12)、「私たちの日を数えることを教えてください」。

三、エノクを除く彼ら各人について、「彼は死んだ」と言われている。彼らの生涯の年数が数えられることには、その年数が数えられ、終わったとき彼らの生涯が終わったことが含まれている。それにもかかわらず「彼は死んだ」と繰り返される。死が例外なくすべての人に及んだことを示すため、また他者の死を私たち自身の徳のために特に観察し活かすことが私たちにとって良いことであることを示すためである。ある人は強く健康な人であったが、彼は死んだ。ある人は偉大で富める人であったが、彼は死んだ。ある人は賢く政治的な人であったが、彼は死んだ。ある人は非常に良い人であった、おそらく非常に有用な人であったが、彼は死んだ。

四、特に注目すべきは、彼らが皆非常に長生きしたことである。ほぼ八百年の循環を見るまで、一人も死ななかった。ある者はさらに長く生きた。不滅の魂が土の家に囚われるには、長い時であった。現在の生涯は確かに彼らにとって、今普通であるような重荷ではなかったのだろう。さもなければ彼らはそれに飽きていたであろう。また未来の生涯は今福音の下で明らかにされているほどには明らかにされていなかった。さもなければ彼らはそれに移ることを忍耐強くなかった。敬虔な族長にとって長寿は祝福であり、彼らを祝福とした。1. 世界の最初の時代における彼らの長寿には、いくつか自然的な原因が挙げられよう。洪水の前は後よりも、地がより実り多く、その産物がより力を与え、空気がより健康に良く、天体の影響がより穏やかであった可能性が高い。人はパラダイスから追い出されたが、地そのものは当時パラダイス的であった。今の荒野の状態に比べれば園のようであった。そして彼らの被造物についての、また食物と薬の両方としての有用性についての大きな知識、並びに節度と禁欲がそれに大いに貢献したと考える者もいる。しかし(ルカ 17:27のように)多くの者がそうであったように、節度のない者が、現在節度のない人が一般にそうであるように、短命であったとは見いだせない。2. それは主に神の力と摂理に帰されなければならない。神は彼らの生涯を延ばされた。地をより速やかに満たすため、また書かれたことばがなく、伝承がその伝達の通路であったとき、神と信仰の知識をより効果的に保存するためである。ここでの族長は皆、ノアを除いて、アダムが死ぬ前に生まれた。それゆえ彼らは彼から、創造、パラダイス、堕落、約束、および信仰の礼拝と信仰の生涯に関する神の戒めについての十分で満足のいく記述を受けることができた。もし誤りが生じても、彼らは彼が生きている間、誤りを正すために、神託のように彼に、また彼の死後メトシェラや彼と語った他の者に頼ることができた。その教会の中にご自身のみこころの知識と礼拝の純潔を保つことにおける全能の神の配慮は、それほど大いなるものであった。

Genesis 5章 21-27 Matthew Henry's Complete Commentary

Translation of Enoch (3017 BC)

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ここでの記述は数世代にわたって名前と数の変化以外には際立ったことや変化なく続く。しかしついにそのように通り過ごしてはならない者が、特別な注意が払われなければならない者が来る。すなわちアダムから七代目のエノクである。他の者たちも徳に生きたであろうと推測できるが、彼は彼らすべてにまさり、族長時代の最も明るい星であった。彼について記録されているのはわずかである。しかしこのわずかで彼の名を大いならしめるには十分である。都市がその名にちなんで名付けられたもう一人のエノクの名よりも大いなる。ここに彼について二つのことがある。

一、この世での彼の恵み深い生き方。これが二度語られている。「エノクはメトセラを生んで後、神と共に歩んだ」(創5:22)。また「エノクは神と共に歩んだ」(創5:24)。観察せよ。

  1. 彼の宗教の性質と、その生き方の趣と傾向。彼は「神と共に歩んだ」。これは次を示す。 (1.) 真の宗教。敬虔とは何か。神と共に歩むことではないか。不敬虔で汚れた者は世において神なく、神に逆らって歩む。しかし敬虔な者は神と共に歩む。これは神への和解を前提とする。二人は「一致しなければ共に歩めない」からである(アモス3:3)。また敬虔で義であり、慎み深い生き方のすべての部分と実例を含む。神と共に歩むとは、神を常に自分の前に置き、常に神の目の下にある者として行動することである。規定と摂理の両方において神との交わりのいのちを生きることである。神の御言葉をわれわれの規則とし、神の栄光をわれわれのすべての行いの目的とすることである。すべての事において神を喜ばせることを絶えざる努めとし、何も神を怒らせないようにすることである。神の御旨に従い、神の計画に同意し、神と共に働く者となることである。「愛する子どものように神に見習う者」となることである。 (2.) 際立った宗教。彼はこの世に完全に死んでいた。すべての良い人がそうするように神の後に歩むだけでなく、すでに天にいるかのように神と共に歩んだ。彼は他の人だけでなく、他の聖徒の水準を超えて生きた。悪い時代に良いだけでなく、良い時代に最善であった。 (3.) 他者の間で宗教を促進する活動。祭司の職を執り行うことは「神の前に歩む」と呼ばれる(サムエル前2:30,35、ゼカリヤ3:7を見よ)。エノクは、と思われる、いと高き神の祭司であり、同じく神と共に歩んだと言われるノアのように、義の説教者であり、キリストの再臨について預言した。「見よ、主はその聖なる万軍と共に来られる」(ユダ1:14)。さて聖霊は、エノクが「生きた」と言う代わりに、エノクは「神と共に歩んだ」と言う。良い人のいのちは神と共に歩むことだからである。これは、[1.] エノクのいのちの務めであった。彼の絶えざる関心とわざであった。他の者が自分自身と世のために生きたとき、彼は神のために生きた。[2.] 彼のいのちの喜びと支えであった。神との交わりは彼にとっていのちそのものよりも良かった。「わたしが生きるのはキリストである」(ピリピ1:21)。
  2. 彼の宗教の時期。(創5:21)で「六十五年生きて、メトセラを生んだ」と言われる。しかし(創5:22)で「メトセラを生んで後、神と共に歩んだ」。これは彼がその頃まで敬虔において際立つようにはならなかったことをほのめかす。最初は他の人と同じように歩んだ。大いなる聖徒は徐々にその際立ちに達する。
  3. 彼の宗教の継続。彼はこの世にいる限り「三百年」神と共に歩んだ。偽善者は常に祈ることはない。しかし原理から行動し、宗教を自分の選択とする真の聖徒は終わりまで忍耐し、生きる限り神と共に歩む。とこしえに神と共に生きることを望む者として(詩104:33)。

二、より良い世界への彼の栄光ある移行。彼が他の者のように生きなかったように、彼は他の者のように死ななかった(創5:24)。「彼がいなくなった。神が彼を取られたからである」。すなわち(ヘブル11:5)で説明される通り、「彼は死を見ないように移されたのであり、見つからなかった。神が彼を移されたからである」。観察せよ。

  1. いつ彼がこのように移されたか。 (1.) 彼のいのちのどの時期。彼がわずか三百六十五年(年々の年)生きた後のことであった。当時の人々の年齢からすれば、彼の日々の真ん中であった。洪水前の族長でその年齢の二倍以上生きなかった者はいなかったからである。しかし神はなぜ彼をこれほど早く取られたのか。おそらく、今や腐敗した世は彼にふさわしくなかったからか、あるいは彼が世をはるかに超え、世にうんざりして、早く世から移されることを切望したからか、あるいは彼のわざが終わったからか。彼がこれほど密かにこれに注意を払ったので、より早く終わったのである。注意せよ。神はしばしば最も愛する者を最も早く取られる。彼らが地で失う時間は天で得られ、計り知れない益となる。 (2.) 世界のどの時期。この章で言及されるすべての族長が生きていたときであった。五十七年前に死んだアダムと、六十九年後に生まれるノアを除いて。この二人は他の仕方で信仰に感覚的な確証を持っていたが、他のすべての者にとって、エノクの移変の証人であったか、証人になり得た者にとって、それは未来の状態に関する信仰と望みの感覚的な励ましであった。
  2. 彼の移行がどのように表現されているか。「彼がいなくなった。神が彼を取られたからである」。 (1.) 彼はもはやこの世にいなかった。それは彼の存在の終わりではなく、ここに存在することの終わりであった。彼は「見つからなかった」。使徒が七十人訳から説明する通り。友人たちによって見つからなかった。預言者の弟子たちがエリヤを探したように(列王下2:17)。敵たちによっても見つからなかった。ある人々は、彼らが彼の際立った敬虔のゆえに激怒し、彼を死に処そうと彼を捜し求めていたと考える。彼の預言によって、当時多くの不敬虔な罪人がいて、神の民に「酷い言葉を語り」(ユダ1:15)、おそらく酷い行いもしたことが分かる。しかし神は彼らからエノクを隠された。天の下ではなく、天において。 (2.) 神は彼を体と魂において天の楽園にご自身のもとに取られた。後にエリヤを取られたように、御使の奉仕によって。彼は、キリストの再臨のとき生きているであろう聖徒たちが変えられるように変えられた。良い人が死ぬときはいつでも、神は彼を取られる。彼をここから連れ出し、ご自身に迎えられる。使徒はエノクについて付け加える。「彼が移される前、彼は神を喜ばせたという証しを得ていた」。これが彼が得た良い報告であった。注意せよ。[1.] 神と共に歩むことは神を喜ばせる。[2.] 神を喜ばせるために神と共に歩むことは、信仰による以外にはできない。[3.] 神ご自身が、信仰によって神と共に歩み、神を喜ばせる者に誉れを与えられる。神は今彼らを認め、大いなる日に御使と人の前で彼らのために証言される。移変の前にこの証しを持たない者も、その後に持つであろう。[4.] この世での生き方が真に聖である者は、そこからの移行が真に幸いであることを見いだす。エノクの移変は、未来の状態の現実性と、その状態において体が栄光のうちに存在し得ることの可能性に関する信仰の証拠だけであった。それは神と共に歩むすべての者がとこしえに神と共にいるという望みの励ましでもあった。際立った敬虔は際立った誉れで冠される。

「²⁵ メトセラは百八十七年生きて、ラメクを生んだ。 ²⁶ メトセラはラメクを生んで後、七百八十二年生きて、息子、娘を生んだ。 ²⁷ メトセラの一生は九百六十九年であった。そして彼は死んだ。」

メトセラについて観察せよ。

  1. 彼の名の意義。ある人々は預言的であったと考える。彼の父エノクは預言者であったから。「メトセラ」は「彼は死ぬ」、あるいは「矢がある」、あるいは「送り出し」、すなわち洪水のを意味する。洪水はメトセラが死んだまさにその年に来た。もしその名がそのように意図され、説明されたのなら、それは無頓着な世に対する、さばきが来るずっと前の公正な警告であった。いずれにせよ、これが観察できる。これまで生きた最も長く生きた者が、その名の中に死を携えていた。それが確実に来ることを、ゆっくりと来るとしても、思い出させるために。
  2. 彼の年齢。彼は九百六十九年生きた。人が地上に生きたことの読まれる最も長い年齢である。しかしそれでも彼は死んだ。最も長く生きる者もついには死ななければならない。若さも老いもその戦いを免れない。それはすべての人の終わりである。長い時効によっていのちを請け合うことはできず、それを死の逮捕に対する抗弁とすることもできない。 メトセラは洪水の直前に死んだと一般に考えられている。ユダヤの著述家たちは「七日前」と言い、創7:10を引用する。そして彼は来るべき悪から取り去られたと。これはこの章で言及されるすべての族長が聖なる良い人であったという、一般に受け入れられている推定に基づく。わたしは反対の推測を差し控えたい。しかしこれが彼らのキリストの先祖としてのここでの登録から、キリストの系図に記録されたユダのすべての王がそうであった以上に推論できるとは見えない。その多くは、確かにそうでなかった。もしこれが疑問視されるなら、メトセラ自身も世の残りの者と共に溺死したという可能性が示唆されよう。なぜなら彼がその年に死んだことは確かだからである。

Genesis 5章 28-32 Matthew Henry's Complete Commentary

Account of Noah (2448 BC)

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ノアの記録(紀元前2448年)

²⁸ レメクは百八十二歳生きて、ひとりの子を産んだ。 ²⁹ 彼はその名をノアと名づけて言った。「この者は、主がのろわれた地のゆえに、私たちの手のわざと労苦によって、私たちを慰めるであろう。」 ³⁰ レメクはノアを産んで後、五百九十五年生き、息子、娘を産んだ。 ³¹ レメクの生涯はすべて七百七十七年であった。そして彼は死んだ。 ³² ノアは五百歳になった。ノアはセム、ハム、ヤペテを産んだ。

ここにノアの最初の言及がある。彼については続く章で多くを読むことになる。次のことを観察せよ。

一、 彼の名とその理由。「ノア」は「安息」を意味する。彼の両親は、彼がその世代にとって並外れた祝福となるという望みをもって、彼にこの名を与えた。「この者が、主がのろわれた地のゆえに、私たちの手のわざと労苦において、私たちを慰めるであろう。」ここに、1. レメクの人間の生涯の悲惨な状態についての訴えがある。罪の入り込みと、罪に対するのろいの及ぶことにより、私たちの状態は非常に惨めなものとなった。私たちの全生涯は労働のうちに費やされ、私たちの時は絶え間ない労苦で満たされる。神が地をのろわれたゆえに、最大の注意と苦労をもっても、そこから堅い生計を引き出すのがやっとの者もある。彼はこの世の事に疲れた者のように語り、さもなければはるかに良く用いられたであろう多くの思いと貴重な時が、体を支えるためにどうしても費やされねばならないことを惜しんでいる。2. この子の誕生による何らかの慰めの、彼の慰めに満ちた望み。「この者が私たちを慰めるであろう」。これは、両親が一般に子どもたちについて持つ願いと期待(成長すれば自分たちの慰めとなり、仕事の助けとなるということ。しばしばそうでないことが証明されるが)を示すだけでなく、何かさらに大きなことの予感と展望を示す。非常に可能性として、彼の前に行ったいくつかの預言があった。彼をその世代に極めて役立つ者として。彼らはそれを、約束の種、来るべきメシヤであると理解するほどであった。それゆえこれは、私たちのものとしてのキリストとの契約の交わりと、彼の来臨を信じて待ち望むことが、私たちが受けるに値する神の怒りとのろい、また私たちがしばしばつぶやくこの現代の労苦と悩みの両方に対する、最も良く最も確かな慰めを私たちに提供することを示す。「キリストは私たちのものか。天は私たちのものか。この者が私たちを慰めるであろう。」

二、 彼の子どもたち、セム、ハム、ヤペテ。ノアが五百歳のときに(最長子を)産んだ。ヤペテが最長子であったと思われる(創世記10:21)が、セムが最初に置かれている。契約が彼に及んだゆえである。創世記9:26に、神は「セムの主なる神」と呼ばれていることから明らかである。彼に長子の権利が与えられたのは確からしく、彼から、頭なるキリストも、体なる教会も降りてくることは確実である。それゆえ彼は「セム」—「名」を意味する—と呼ばれる。彼の子孫の中に神の名が常に保たれ、すべての名にまさる名の方が彼の腰から出てくるまで続いたからである。このようにセムを最初に置くことで、キリストが事実上最初に置かれたのである。キリストはすべてのことにおいて首位を持たれねばならない。

Genesis 6章 서론 Matthew Henry's Complete Commentary

無題

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古い世界に関する私たちの記録の中で最も注目すべきことは、普遍的な大洪水によるその滅びであり、その記述はこの章で始まる。ここには次のものがある。一、その悪い世界の溢れる不義(創世記 6:1-5、および創世記 6:11,12)。二、溢れる不義に対する正しい神の正当な憤りと、それを罰する神の聖なる決意(創世記 6:6,7)。三、神のしもべノアに対する神の特別な恵み。1. 彼に与えられた評価において(創世記 6:8-10)。2. 神の目的が彼に伝えられたことにおいて(創世記 6:13,17)。3. 彼自身の安全のために箱舟を造るよう彼に与えられた指示において(創世記 6:14-16)。4. 残りの被造物の保存のために彼が用いられたことにおいて(創世記 6:18-21)。最後に、彼に与えられた指示に対するノアの従順(創世記 6:22)。この古い世界に関することは、新しい世界の終わりに達した私たちへの戒めのために書かれている。

Genesis 6章 1-5 Matthew Henry's Complete Commentary

Depravity of the World (2469 BC)

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世界の堕落(紀元前2469年)

¹ 人が地の上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、 ² 神の子たちが人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者をみな妻とした。

神の義の栄光のため、また悪い世界への警告のために、古い世界の滅亡の歴史の前に、私たちはその退廃、神からの背教と神への反逆の十分な記録を持つ。その滅ぼすことは絶対的主権のわざではなく、神の支配の栄光を維持するための必要な正義のわざであった。さてここに、古い世界の悪を招いた二つの事柄の記録がある。1. 人類の増加。「人は地の面にふえ始めた」。これは祝福の結果であった(創 1:28)。しかし人の腐敗はこの祝福をそれほど乱用し、曲げて、のろいに変えた。このように罪は神のあわれみによって機会をとらえて、いよいよはなはだしく罪となる。箴 29:16、「悪者が増えると、そむきも増す」。罪人が多くなればなるほど罪も増し、違反者の群れは人を大胆にする。伝染病は人口の密集した都市で最も破壊的である。そして罪は広がるツァラアトである。このように新約の教会でも、「弟子の数が増えたとき、苦情が起きた」(使徒 6:1)。また、増えたのにその喜びを増さなかった国民について読む(イザ 9:3)。数多い家族はよく治められなければならない。さもなければ悪い家族になる。2. 混合婚姻(創 6:2)。「神の子たち」、すなわち信仰の表白者、主の御名によって呼ばれ、その御名を呼び求める者たちが、「人の娘たち」、すなわち不敬虔で、神と信仰に縁のない者たちをめとった。セツの子孫は、自身の純潔の保護と背教への憎しみのために、自ら離れていなければならなかったのに、そうしなかった。彼らはカインの追放されたすじと入り混じった。「彼らは自分の好む者をみな妻とした」。しかしこれらの結婚のどこが悪かったのか。(1.) 彼らは目によってのみ選んだ。「彼らが美しいのを見た」。それが彼らの見たすべてであった。(2.) 彼らは自分の腐った感情の選択に従った。彼らは助言や考慮なしに「自分の好む者をすべて」取った。(3.) 彼らにとってそのような悪い結果をもたらしたのは、彼らが「異邦の妻をめとり、不信者と均衡を欠いてくびきを共にした」ことである(Ⅱコリ 6:14)。これはイスラエルに禁じられていた(申 7:3,4)。それはソロモンの背教の不幸な機会であった(Ⅰ列王 11:1-4)。またバビロンからの帰還後のユダヤ人にとって悪い結果であった(エズラ 9:1,2)。注意。信仰の表白者は、自身も子どもたちも結婚させるにあたり、信仰の範囲内に保つことを良心とすべきである。悪い者は良い者を堕落させる方が、良い者が悪い者を改めるより早い。自分たちを神の子どもと告白する者は、神の同意なしに結婚してはならない。神の敵と親戚関係を結ぶなら、同意はないのである。

³ 主は言われた。「わたしの霊は永遠には人のうちに争わないであろう。人は肉であるから。しかし人の日は百二十年となろう。」

これは異邦の妻をめとった者たちに対する神の不快感のしるしとしてここに記されている。神は彼らの信念に反してそのような結婚によって悲しまれた御霊を、彼らから引き離すと脅かされる。肉の欲はしばしば霊的なさばき、すべてのさばきの中で最も重いさばきによって罰せられる。あるいは古い世界の大いなる悪のもう一つの機会として。主の霊はその働きかけへの抵抗によって刺激され、彼らと争うのをやめられた。そしてすべての信仰が彼らの間で間もなく失われた。神はこれを彼らに前もって警告される。それは彼らがこれ以上神の聖なる霊を悩ませず、祈りによって神を彼らと共にとどめるためである。この節で観察しよう。

一、神の、御霊によって永遠には人と争わないという決意。そのとき御霊はノアの宣教によって(Ⅰペテ 3:19,20)、また内なる戒めによって争われた。しかし大多数の者には無駄であった。ゆえに神は言われる、「彼は永遠には争わないであろう」。注意。1. 幸いな御霊は、良心の確信と訓戒によって罪人と争い、彼らを罪から神に立ち返らせようとされる。2. もし御霊が抵抗され、消され、争われれば、長く争っても永遠には争われない(ホセ 4:17)。3. 恵みの御霊が争うのをやめた者は、急いで滅びに熟している。

二、この決意の理由。「人は肉であるから」。すなわち、治せないほど腐敗し、肉的で、感覚的であり、彼と争うのは労力の無駄である。エチオピア人はその肌を変えることができるか。「人も」、すなわちすべての者、ある者と同様に他の者も、皆ともに肉の泥に沈んだ。注意。1. 腐った性質と肉に向かう魂の傾きが、御霊の争いに反対し、それを無効にする。2. 罪人が長くその利害に固執し、御霊に逆らって肉に味方するとき、御霊は正当にその働きを引き、もはや争われない。御霊の争いを失う者は、それを先に失格した者だけである。

三、それにもかかわらず与えられた執行猶予。「しかし人の日は百二十年となろう」。それだけの間、わたしは彼らの受けるに値するさばきを遅らせ、彼らの悔い改めと改革によってそれを防ぐ余地を与えよう。正義は言った、「これを切り倒せ」。しかしあわれみはとりなした、「主よ、ことしもそのままにしておいてください」。そしてあわれみは六十年の執行猶予が得られるほど勝った。注意。神の忍耐と挑発する罪人に対する寛容の時は、時に長いが、常に限られている。執行猶予は赦免ではない。神は長く耐えられても、永遠には耐えられない。

⁴ 神の子たちが人の娘たちのところに入ったのは、その日々にも、またその後にも、地に巨人がいたときのことである。彼らは彼らに子どもを産んだ。これこそ昔の名ある勇者たちである。 ⁵ 主は人の悪が地において大きく、その心に思い描くことすべてが常にただ悪であるのを見られた。

ここに、古い世界の腐敗に関するさらに進んだ記録がある。「神の子たち」が「人の娘たち」と結ばれたとき、神を非常に喜ばせないことではあったが、神は彼らを直ちに断ち切らず、これらの結婚が何をもたらすか、子どもたちがどちらに似るかを見ようとして待たれた。そして(通常そうであるように)彼らは最悪の側に似ることが分かった。ここに、

一、彼らが陥った抑圧と暴力の誘惑。彼らは「巨人」であり、「名ある勇者たち」であった。彼らは周囲のすべての者に対して強すぎ、すべてを我が物にした。1. その巨大な体で、アナクの子らのように(民数 13:33)。2. その大きな名で、アッスリヤの王のように(イザ 37:11)。これらは彼らを「生ける者の地の強き者の恐怖」とした。そしてこのように武装して、彼らは大胆にすべての隣人の権利を侮り、すべての正しいもの、聖なるものを踏みにじった。注意。他人を抑圧できるほどの力を持つ者は、抑圧しないほどの自制力を持つことはまれである。大きな力は多くの者にとって非常に大きなわなである。この退廃したすじは、徳と信仰によって祖先が得た誉れを軽んじ、自分たちの良い名を永遠に台無しにするもので、自らの名を高めた。

二、彼らに対して提起され、証明された訴因(創 6:5)。提出された証拠は争うべくもなかった。神がそれをご覧になった。それが千人の証人に代わった。神は人の子らの間にあるすべての悪をご覧になる。今は神から隠すことはできない。そして悔い改められなければ、間もなく神によって隠されることもない。さて、神は何に注意を払われたのか。1. 神は人の生活の中に流れる罪の流れと、その流れの広さと深さを観察された。神は「人の悪が地において大きいのを見られた」。これと前のこととの連結を観察せよ。抑圧する者たちは「力ある者、名ある者」であった。そして「そのとき、神は人の悪が大きいのを見られた」。注意。最も悪名高い罪人が人々の中で名ある者であるとき、民の悪は誠に大きい。悪い人がその悪にもかかわらず誉れを受けるだけでなく、その悪のゆえに誉れを受け、最も卑しい者が高く挙げられるとき、事態は悪い。大きな者が悪いとき、悪は大きい。彼らの悪は大きかった。すなわち、あらゆる場所で、あらゆる種類の人々によって、豊かな罪が犯された。しかもその性質上最も粗暴で、重く、挑発的な罪であった。それは大胆に、天を恐れず犯され、力を持つ者によってそれを制し、罰する配慮は全くなかった。これを神はご覧になった。注意。罪人のすべての罪はさばき手なる神に知られている。世界に最も通じている者でも、その中に多くの悪を見ながら、実際にあるもののほんの少ししか見ない。しかし神はすべてを見、それがどれほど大きいかを正しくさばき、そのさばきにおいて誤られることはない。2. 神は人の心にある罪の泉をご覧になった。誰もが「人の悪が大きい」のを見ることができた。彼らはソドムのようにその罪を宣言していたからである。しかし神の目はさらに深く進んだ。神は「その心に思う思いの形すべてが、常にただ悪であるのを見られた」。悲しい光景であり、神の聖なる目に非常に不快であった!これが苦い根であり、腐った泉であった。世界にあるすべての暴力と抑圧、すべての放縦と好色は、性質の腐敗から出た。欲がそれらを宿した(ヤコ 1:15)。マタ 15:19を見よ。(1.) 心は悪かった。それは偽りで、極度に悪かった。原理は腐り、習慣と性向は悪かった。(2.) 心の思いもそうであった。思いは時に安定した判断や意見を意味する。これは賄赂られ、偏り、誤導されていた。時にそれは心像の働きを意味する。これらは常にたいてい空しいか、卑しいかであった。クモの網を織るか、コブラの卵をかえすかであった。(3.) 心の思いの形もそうであった。すなわち彼らの企てと計略は悪かった。彼らは何をするかに注意を払わない、ひたすら進む者がするように、単なる不注意から悪を行ったのではない。彼らは熟考し、計画的に悪を行い、危害を加える方法を企てた。それは誠に悪かった。ただ悪であり、絶えず悪であり、思いの形すべてがそうであったから。彼らの中には良いものは全く見いだせず、いつにも増して。罪の流れは満ち、強く、絶え間なかった。そして神はそれをご覧になった。詩 14:1-3を見よ。

Genesis 6章 6-10 Matthew Henry's Complete Commentary

Mankind Threatened with Destruction (2469 BC)

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ここに、 一、人間の悪に対する神の憤りがある。神はそれを無関心な観客として見られたのではなく、それによって傷つけられ、侮辱された者として見られた。神は、優しい父が反抗的で不従順な子の愚かさと頑なさを見るようにそれを見られた。それは父を怒らせるだけでなく、悲しませ、子を持たなかったことを願わせるものであった。ここで用いられた表現はきわめて異例である。「主は、地上に人を造られたことを嘆き」、このような高貴な力と能力を持つ被造物を造り、彼のために、住み良い快適な住処として特に建て、整えたこの地に彼を置かれたことを。「心に思い悩まれた」。これらは人間の仕方に倣った表現であり、神の不変性や至福の栄誉を損なわないように解釈されなければならない。

  1. この言葉は神のうちに何らかの情念や不安を暗示するのではない(永遠の御心を乱すものは何もあり得ない)。それは罪および罪人に対する、神の正しく聖なる不満足を表す。神の聖なるものとして忌み嫌われる罪に対して、また神の正義に責めを負うべき罪人に対して。神はその被造物の罪によって「押し潰され」(アモス2:13)、「疲れ果てさせられ」(イザヤ43:24)、「打ち砕かれ」(エゼ6:9)、「悲しまれ」(詩95:10)。ここでは「心に思い悩まれる」。それは、非常に親切にした者たちから不当な扱いや虐待を受けた人が、自分の親切を悔い、胸に抱いた蛇が今や顔に向かって音を立て、心を刺すに至ったことを願う時のように。神はこのように罪を憎まれるのか。そしてわれわれはそれを憎まないのか。われわれの罪は神の心を悲しませたのか。そしてわれわれはそれゆえに悲しみ、心を刺されないのか。この思いがわれわれをへりくだらせ、恥じさせるように。また、われわれがこのように悲しませた方を見つめ、嘆くように(ゼカリヤ12:10)。
  2. それは神の思いの何らかの変化を暗示するのではない。「主はひとつの思いを持たれ、だれがこれを変え得ようか」(ヨブ23:13)。神には「変化がない」(ヤコブ1:17)。しかしそれは神の道の変化を表現した。神が人を正しく造られたとき、神は「安息し、気を取り直された」(出31:17)。神の道は、ご自身の手のわざに満足しておられることを示すものであった。しかし人が背教した今、神は不満足を示さずにはおられなかった。それゆえ変化は神のうちではなく、人のうちにあった。神は人を造られたことを嘆かれた。しかし人が贖われたことを嘆かれたことは決してない(それははるかに大きな犠牲を払うわざであったのに)。なぜなら、贖いの大いなる目的を確保するために、特別で有効な恵みが与えられているからである。それゆえ「賜物と召しとは、悔い改めがない」(ローマ11:29)。

二、人の悪のゆえにこれを滅ぼすという神の決断(創6:7)。注意せよ。

  1. 神が人を造られたことを嘆かれたとき、人を滅ぼすことを決意された。このように真に罪を悔いる者は、神の恵みの力によって罪を殺し、これを滅ぼし、誤って犯したことを取り消すことを決意する。罪を悲しみ、それが心に痛いというのに、なおそれを放縦するなら、神をあざむくだけである。道の変化によって思いの変化を証明しないなら、思いを変えたと自称しても無駄である。
  2. 神は人を滅ぼすことを決意された。原語の言葉はきわめて意義深い。「わたしは人を地の面から拭い去ろう」(ある人々)。それは、きよめるべき場所から汚れや不浄物が拭い取られ、その適所である塵芥捨て場に投げ捨てられるように(列王下21:13参照)。その住む場所の汚点となる者たちは、神のさばきによって正しく拭い去られる。「わたしは人を地から消し去ろう」(他の人々)。著者を喜ばせない行が本から消されるように、あるいは市民が死亡または公民権はく奪によって自由民の名簿から抹消されるように。
  3. 神は、人の滅びを決意されるときでさえ、人をご自身の被造物として語られた。「わたしが造った人」。イザヤ27:11、「わたしがこれを造ったからといって、これが免責されるのではない」。「これを造られた方は、これを救わない」。われわれの造り主は、われわれの支配者でなければ、われわれの滅ぼす者となる。あるいは、「わたしがこれを造ったゆえに、しかも彼はその造り主に対してこれほど不従順で恩知らずであったから、それゆえにこれを滅ぼす」。生きる目的に応えない者は、そのいのちを失う。
  4. 獣たちでさえこの滅びに巻き込まれる。「獣、這うもの、空の鳥」。これらは人のために造られた。それゆえ人と共に滅ぼされなければならない。「これらを造ったことをわたしは嘆く」と続く。これらの造られた目的も挫折したからである。これらは、人がこれらをもって神に仕え、神を誉めたたえるように造られた。それゆえ、彼がこれらをもって自分の欲望に仕え、これらを虚無に服属させたので、滅ぼされた。
  5. 神は、ご自身の霊が長く人と格闘しても無駄であった後に、人についてこの決断を下された。神の恵みによって改革されることを憎む者以外、神の正義によって滅ぼされる者はない。

「⁸ しかしノアは主の目に恵みを得た。 ⁹ これらはノアの系図。ノアは義人であり、その世代の中で全き人であった。ノアは神と共に歩んだ。 ¹⁰ ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。」

ここでノアは世の残りの者たちと区別され、特別な誉れのしるしを与えられている。

  1. 神が世の残りの者たちに不満足であられたとき、神はノアに恵みを示された。「しかしノアは主の目に恵みを得た」(創6:8)。これは世に対する神の不満足の正義を弁護し、神が普遍的に腐敗していると宣告される前に、その中のすべての者の品性を厳密に調べられたことを示す。ひとりの良い人がおり、神は彼を見つけ出し、彼に微笑まれた。これはまたノアに対する神の恵みを大きくする。全人類が神の怒りの世代となったとき、彼が神のあわれみの器とされたからである。区別された恵みは、特別に強い義務の下に置く。おそらくノアは人の目には恵みを得なかった。人々は彼を憎み、迫害した。彼の生き方と説教の両方によって彼が「世を罪に定めた」からである。「しかし彼は主の目に恵みを得た」。これが十分な誉れと慰めであった。神は世のすべてを合わせたよりもノアを重んじられた。これが彼を、その時代にいたすべての巨人よりも大いなる者、真に誉れある者とした。「主の目に恵みを得ること」をわれわれの野心の頂点としよう。ここに励もう。在であれ不在であれ、神に受け入れられるように(コリント後5:9)。神が恵みを与える者は、大いに恵まれている。
  2. 世の残りの者が腐敗し邪悪であったとき、ノアはその誠実さを保った。「これらはノアの系図」(これが彼について与えられる報告である)。「ノアは義人であった」(創6:9)。ノアのこの品性はここに、(1.) 神の恵みの理由として入る。その特別な敬虔さが、神の慈愛の特別なしるしに彼をふさわしくさせた。主の目に恵みを見いだそうとする者は、ノアがそうであったように、ノアがしたようにしなければならない。神はご自身を愛する者を愛される。あるいは、(2.) 神の恵みの結果として。彼のうちにこの良いわざを生み出したのは、彼に対する神の善意であった。彼は非常に良い人であったが、神の恵みが彼のものとした以上の者ではなかった(コリント前15:10)。さて彼の品性を観察せよ。 [1.] 彼は「義人」であった。すなわち、約束の種への信仰によって神の前に義とされた。彼は「信仰による義の相続者」であった(ヘブル11:7)。彼は聖別され、正しい原則と性向が彼のうちに植え付けられた。また彼はその生き方において正しかった。すべての者にその分を与えることに良心を用いる者、神には神の分を、人には人の分を。注意せよ。徹底して正直な人でなければ、神の恵みを受けることはできない。神に喜ばれる生き方は、「肉の知恵」ではなく、「純粋と神の誠実」によって治められなければならない(コリント後1:12)。神は時にこの世の愚かなものをお選びになるが、決してこの世の悪巧みなものをお選びになることはない。 [2.] 彼は「全き人」であった。罪のない完全さではなく、誠実さの完全さである。恵みの契約の効力により、キリストの義に基づいて、誠実さがわれわれの福音的完全として受け入れられることは、われわれにとって幸いである。 [3.] 彼は「神と共に歩んだ」。彼以前のエノクがそうしたように。彼は単に正直であっただけでなく、敬虔であった。彼は「歩んだ」。すなわち、常に神の目の下にある者として、神と共に行動した。彼は神との交わりのいのちを生きた。神の御旨に従い、神を喜ばせ、神に認められることを、彼の絶えざる努めとした。注意せよ。信仰の目をもって真に神を見上げる者を、神は恵みの目をもって見下ろされる。 [4.] しかし彼の品性を飾るのは、彼がこのようにあり、このようにしたのが「その世代の中で」、すなわち彼の割り当てられた、腐敗し堕落した時代においてであったことである。宗教が流行しているとき宗教的であるのは容易である。しかし、流れに逆らって天へ向かい、他の誰も神のために立ち上がらないときに神のために立ち上がることは、強い信仰と決意のしるしである。ノアはそのようにした。それは彼の不朽の誉れとして記録されている。

Genesis 6章 11-12 Matthew Henry's Complete Commentary

Depravity of the World (2448 BC)

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世の堕落(紀元前2448年)

¹¹ 地は神の前に腐敗し、地は暴虐で満ちていた。 ¹² 神は地を見られた。見よ、それは腐敗していた。すべての肉なる者が地の上でその道を乱していたからである。

あの世代の悪がここに再び語られている。ノアの敬虔を引き立てるため—すべての地が腐敗していたとき、彼は正しく、全きであった—か、あるいは神が今やそのしもべノアに告げようとしておられる、世界を滅ぼすというご決断のさらなる正当化として。1. あらゆる種類の罪が彼らの中に見出された。というのは(創世記6:11)地は次のようであったと言われているからである。(1) 「神の前に腐敗していた」。すなわち神の礼拝の事柄において。彼らは神の前に他の神々を持つか、像によって神を礼拝するか、さもなくば神を軽んじ、蔑み、神に挑み、神に面と向かって反抗する、腐敗し悪い者であった。(2) 「地は暴虐で満ちていた」。人々に対する不正と暴力で。そこには秩序も正しい政府もなく、最も明確で争うべくもない権利を持つものを所有においても、否、最も無垢な命においてさえ、安全ではなかった。殺人、暴行、強奪以外には何もなかった。悪は、人性の恥であると同時に、人間社会の破滅である。良心と神への恐れを取り去れば、人々は互いに獣や悪魔となり、海の魚のように、大きいものが小さいものを飲み込むようになる。罪は地を暴虐で満たし、世界を荒野とし、闘鶏場と化す。2. その証拠は否定し難い。「神は地を見られ」、その中にある腐敗を自ら目撃された。これは前に述べたとおりである(創世記6:5)。義なる裁き主は、そのすべてのさばきにおいて、ご自身の全知の確実性に基づいて進まれる(詩篇33:13)。3. 事を最も重くしたのは、伝染の普遍的な広がりであった。「すべての肉なる者がその道を乱していた。」特定の国や都市がこのように悪であったのではなく、人類の全世界がそうであった。ノアのほかには善を行う者はひとりもなく、否、ひとりもなかった。悪が一般的になったとき、普遍的な破滅は近い。一国の中に祈る民の残りの者がいて、満ちるにしたがってその器を空にしている間は、さばきが長く留められることもある。しかし、すべての手が罪によって垣根を壊すために働き、破れを繕うために立つ者がいないなら、怒りの氾濫以外に何が期待できようか。